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スグルの歴史発見

社会科教員をやっているスグルの歴史エッセイ。おもに中学生から高校生向きの内容ですが、大人でも楽しめると思います。

「大悪天皇」と言われた天皇がいる?

2007年03月28日 23時18分07秒 | 中学歴史
 はじめに誤解なきように。
「大悪天皇」というのは、日本書紀に載っているある天皇のあだ名で、その記事があることは、研究者の方はもちろん、おそらく皇室の方々も、知っていると思います。この記事の目的は、なぜ、日本書紀の編者が過去の天皇をそんな風に書いたのか、を追求することにあります。

 日本書紀によれば、「大悪天皇」と言われた天皇がいます。それは5世紀末の雄略天皇です。日本書紀のその部分を引用します。

>二年秋七月百濟池津媛違天皇將幸淫於石河楯舊本云石河股合首祖楯天皇大怒詔大伴室屋大連使來目部張夫婦四支於木置假庪上以火燒死(日本書紀巻十六)
 
 これによると、雄略は、思い人の「百濟池津媛」が「石河楯」と恋仲であることを知って激怒し、二人を磔にして焼いたというのです。日本書紀はこの他にも数々の悪行を列挙し、さらに、

>天下毀謗言大惡天皇也(日本書紀巻十六)

人々が雄略を「大悪天皇」とうわさしたと書いています。

さて、高校生の皆さんならご存知のとおり、雄略天皇といえば、大学入試センター試験日本史なら必須の、稲荷山古墳鉄剣(埼玉)と江田船山古墳鉄刀(熊本)で、ワカタケル大王として銘文に残された大王です。関東から九州までを治めた王ですね。さらに、多数の研究者が、宋書の倭王武だとしている天皇です。倭王武といえば、朝鮮半島にまで支配権を拡大した王です。つまり、朝鮮半島南部から関東までの領域を治めた「帝王」だったわけです。

 それを「大悪天皇」とは?

 僕が言っているのは、前述の記事の信憑性ではありません。帝王なら、嫉妬して磔にするくらいはしたかもしれないし、もしかしたら大悪天皇と言った人もいたかもしれない。また、この逸話が捏造かもしれない。
 問題なのは、日本書紀の編者が、なぜこんな記述を採用したか、にあります。

 日本書紀といえば、年代がごまかされている、勝手な置換が行われているなど、歴史書としては問題が多いのですが、気に入らない人物はとことん悪者にしていることでも知られています。

 蘇我馬子 蘇我蝦夷 蘇我入鹿

 これが実名だと信じる人はいません。この三人の名前は、明らかに蔑称です。本名は、もっとちがうもののはずです。日本書紀は、何らかの理由で蘇我氏を憎んでいたために、このように「置換」しているのです。
 したがって、この三人の功績が他人の(たとえば聖徳太子)功績に「置換」され、逆に他人の悪行がこの三人のものに「置換」されている可能性だってあります。

 そう考えると、雄略天皇のこの記事は明らかに、雄略天皇が、日本書紀の編者に憎まれていた、あるいは憎むべき対象だったことになります。

 これは、第一に、血筋の問題が考えられます。万世一系という原則とはうらはらに、血で血を洗う王朝交代劇があったのかもしれません。
 第二に、雄略=倭王武なら、中国の皇帝に朝貢していることが、問題なのかもしれません。でも、それなら、朝貢した記事を削除するだけでいいわけで、何も天皇の祖先を「大悪天皇」なんて・・・・

 いったい雄略=ワカタケル大王は何をしたんでしょうか?

 なぞは深まるばかり。え、ここで終わるなって???とりあえず今回は、問題を提起して、ここで終わります。ではまた。
 

 

 600年の遣隋使は、なぜ手ぶらなのか?

2007年03月28日 00時04分07秒 | 中学歴史
 600年の遣隋使といえば、古代史の研究者を悩ませている存在である。
 遣隋使といえば、607年と608年の小野妹子が有名だが、じつはその7年前に一度、倭国は遣隋使を派遣していた。小野妹子の遣隋使が、中国側の「隋書」、日本側の「日本書紀」にそれぞれ対応する形で記録されているのに対し、600年の遣隋使は、「隋書」には記録があるが「日本書紀」にはない。
 どちらを信じるかといえば、隋だろう。なぜなら、隋は、皇帝の高祖が直接倭国の使者に面会した場面を記録しているからである。もっとも中枢の記録であり、またその後の小野妹子の記事の正確さから、隋書の信憑性は高い。
 それでは、この場面を隋書から引用してみよう。

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。

 さて、中国への使いといえば、手紙(上表文)を持っていくのが普通である。5世紀の倭の五王も、小野妹子も、手紙を持参している。そもそも、口頭では、伝えたいことがきちんと伝達されない。それでは、はるばる使いに行く意味がない。
 しかし、このときの倭国の使者は手紙を持っていない。隋側の記録で、手紙が省略されることがあっても、手紙を持っていないというのは珍しい例だったのか、このときの高祖と倭国使のやりとりを隋書は詳細に記録している。

 まず、倭国の使者は倭王の名を「アメタラシヒコオオキミ」と答えている。ところが、どれが姓で、どれが字で、どれが號か聞かれたのだろう、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たらしひこ)、號は阿輩雞彌(おおきみ)、と勝手な分割をして答えている。これは妙だ。倭国使は、語学が堪能でなかったとしか考えられない。手紙に書いていけば間違わないのに・・・。
 さらに、倭国の風俗を問われ、次のように言っている。「倭王は天を兄とし、日を弟とする。天が未明の時は出て政を行い、日が出るとやめて、弟にゆだねる」。あちゃー、である。高祖は「まったく道理がない。教えて改めさせよ」とあきれてしまった。

 この記事が日本書紀にないのは、おそらく、倭国の恥だから削除したのだ、という苦しい説があるが、それくらいしか説明がつかないといえば、まあそのとおりだ。

 さて、どうしてこんなみっともないことになったのだろう。
 僕は、倭国使は日本を発つときは手紙を持っていたはずだと思う。さらに、受け応えのまずさから、高祖に面会している倭国使は、正使でも副使でもなく、その下の者が代理を務めたのではないかとも思う。
 日本書紀に面白い記述がある。小野妹子が、隋の皇帝からあずかった国書を、帰国途中に百済で紛失したというのである。大礼(のち大徳)の小野妹子にして、この危機管理能力の低さである。
 600年の倭国使も、小野妹子のように国書を紛失したか、それとも途中で行方不明にでもなったのか、とにかく笑えるエピソードである。何が起きたのかいろいろ想像はできるが、確かな史実はわからないだろうな。
 とんだおさわがせである。

上杉謙信の参勤交代

2007年03月27日 23時48分07秒 | 中学歴史
 参勤交代といえば、江戸幕府の3代将軍家光がはじめた制度である。大名を隔年で江戸に参集させるもので、大名の負担が[石高(家格)×距離]となることから、石高が高く、江戸から遠い大名(これは多くの場合外様大名であったが)ほど、重い負担を背負うしくみになっていた。
 戦国大名の上杉謙信が、実は、これと似たようなことをやっていた。
 詳しく見ていこう。

 時代劇を見ていると、大名が上座にいて、家臣が左右に並んでいる場面をよく見かけるが、戦国時代には、あれは日常の様子ではなく、むしろ稀な光景である。日常は、家臣は皆領地にいる。それが、戦時の参集の呼びかけがあると、戦支度をして割り当てられた兵を率い、待ち合わせ時間に、待ち合わせ場所に集合するのである。
 越後の場合、南北に長いので、参集するのも容易ではない。謙信の居城春日山は新潟県民のいう上越(南部)にあり、一方で新発田や水原といった家臣の居城は下越(北部)にある。もちろんさらに南も北もある。他県の人には想像もつかないだろうが、新潟県民は、同じ県でも上越と下越ではもう立派な遠距離恋愛と考えている(笑)。
 それなのに、謙信は毎年のように場所を指定して参集せよとお触れを出すからたまらない。今年は武田、来年は北条と、どこへでも行く。

 実はこれ、参勤交代と同じ効果を狙っているのではないだろうか。
 上杉謙信といえば「そのとき歴史が動いた」で武田信玄との川中島の戦いがデモンストレーションだったという新説が紹介されていたが、川中島に限らずどの出兵もデモンストレーションだったのではないだろうか。
 もちろん、毎年出兵するのだから、まず心理学的に、本人が戦好きなのである。しかし、その戦を、越後統率の手段にしてしまったところに、謙信の面白さがある。
 謙信は、「大義のために戦い、領地は奪わぬ」だったとか、だから敵は「謙信はどうせ領地は取らないから、適当に負けたふりをして帰るのをまとう」としたとか、いろいろな逸話があるが、何のことはない、謙信は、領地がほしかったわけでも、勝ちたかったわけでもなくて、ただ県内勢を連れて遠征に出ていればよかったのである。

 謙信は、こう考えたのだ。
 戦いをすることで、家臣が集まることができ、また参勤交代と同じ理由で負担を強いることができ、同時に家臣と共通の目的で行動を共にする時間が長ければそれだけ家臣が共謀した危険な謀反の確率も減る。さらに、謙信は酒好きで、梅干をつまみに、二次会、三次会まで、越後衆と飲み明かしたという逸話もある。まったく、面白い人物である。

 謙信は城攻めが苦手だったという。地元の武将だからひいきするわけではないが、謙信の城攻めは、城を落とすことが目的ではなく、一定時間城を囲んで帰るという軍事行動そのものが、目的だったと考えれば納得がいく。

 予断だが、生徒からきいた話では、謙信は信長の野望という戦国時代を扱ったシュミレーションゲームで、統率能力が、大名中もっとも高いらしい。謙信の場合、統率は手段ではなく、統率自体が目的なのだ。孫子も顔負けの軍神かもしれない。

敵にも塩は売る?経営者としての上杉謙信

2007年03月27日 23時07分45秒 | 中学歴史
 敵に塩を送るという諺がある。由来は、甲斐の戦国大名武田信玄が、今川、北条の太平洋側の大名から塩の供給を止められて困っているときに、越後の上杉謙信が、敵とはいえ塩を止めるのは卑怯だということで、日本海側から塩を送ったというものである。新潟県では今でも、糸魚川から諏訪方面に抜ける街道を塩の道という。
 さて、この話は、江戸時代に、武士の価値観の手本として紹介されたものである。敵に塩を送るのは立派な武士道だというのである。
 しかし、江戸時代の武士階級の期待はともかく、上杉謙信自身が、そんな価値観を持っていたとは思われない。上杉謙信は、今で言えば一流の「経営者」であった。江戸時代ならば、どちらかといえば町人の価値観に近かっただろう。
 実際には、次のような事が起きたのだろう。
 それまでは、信濃南部と甲斐へは今川氏の駿河や北条氏の相模から、北信濃へは上杉氏の越後から、塩が販売されていたと考えられる。ところが、今川と北条の塩止めによって、越後の商人は、それまで販路を持たなかった信濃南部と甲斐へ市場を拡大する、いわば「新規参入」するチャンスを得たのである。経営者上杉謙信は、これを商業を活発化させて国を富ませるチャンスととらえたのだ。特に何もしなかったかもしれないし、承認に塩への税を1~2割下げる程度の奨励策はとったかもしれない。市場が3倍になれば、税を1~2割下げても税収は増える。
 敵にも塩は売る、というわけだ。

 経営者上杉謙信を示すいくつかの例のうち、代表的なもうひとつは、長尾から上杉への家名変更である。これは、当時は弱体化して有名無実となっていた関東管領上杉氏の家名を継いだものであるが、関東管領が名ばかりで実態の伴わないものであることは謙信も知っていた。これをもって、謙信が室町幕府という古い伝統の擁護者だったという評価があるが、それはおかしな議論で、伝統の擁護者ならかえってそんなおそれおおい家名を継がないだろう。そうではなくて、謙信の経営感覚がそうさせたのだ。
 関東管領職は、過去に有名だったが倒産した企業のようなものである。かつてライブドアの堀江貴文氏は、オンザエッジという社名からわずかなお金で倒産していたライブドアを買収して社名をそのライブドアに変えたとき、その理由を「広告をたくさん出していて名前が有名な会社だったから」と述べている。これと同じで、上杉謙信も有名な「のれん」に乗り換えたわけである。
 これによって、かなりの武力行動が正当化されるようになり、越後を統率するために、毎年のように県外遠征に出かける大義名分を得た。
「また、遠征ですか」と言われても、
「あたりまえだ、俺は、関東管領なんだから、それが仕事だ」と言えたのである。
 
 またこれによって堂々と将軍に会いに行く大義名分も得た。一国の守護(もともと守護代だった)と関東管領では、実際の権力はともかく、将軍の前での序列は大いに違う。

 このように見ていくと、上杉謙信の行動は、実に面白い。越後の虎ならぬ、越後の企業家であったのだろうか。

 
 

比叡山焼き討ちはなかった?

2007年03月27日 22時41分39秒 | 中学歴史
 織田信長による比叡山焼き討ちは、実際には行われなかった、あるいは行われてもごく小規模だった、という説がある。
 どうも、滋賀県教育委員会が比叡山を調査した結果、大きな火事があったなら地層に当然残るはずの痕跡が、まったくなかったのという。
 今となっては真偽のほどはわからない。「なかった説」に対して、通説の「あった説」の根拠は、太田牛一の「信長公記」の記述にある。

九月十二日叡山を取詰、根本中堂三王廿一社を初奉り、霊仏霊社、僧坊経巻、一宇も残さず、時に雲霞の如く焼払灰燼の地となるこそ哀なれ。(信長公記)

 これは、史書のような冷静さというよりは、物語のような興奮した書き方だ。「雲霞の如く焼払」なんて書かれたらすごい大火を創造してしまう。もしかしたら、ある程度、創作なのかもしれない。

 第三の考え方として、実は、火攻めをおこなったのがごく一部の部隊で、侵攻の中心は火攻めではなく、通常の攻撃であったと考えることもできる。たまたま一部の戦局から出火したのを、遠くで見ていた人々が大げさにうわさしたのかもしれない。教育委員会も、比叡山中全部の地層を調査したわけではないだろうから、火攻めがまったくなかったとは言い切れないのではないだろうか?

 さて、実は、歴史の学習として大切なのは、火攻めの有無や攻撃の規模の大小ではない。大切なのは、有名な寺院を戦国大名が攻撃したという事実そのものである。
 中世の寺院は、人々から、神聖不可侵なイメージで捉えられており、それが寺院の権力の温床ともなっていた。ところが、信長は、この行動で、その神聖不可侵なイメージを壊してしまったのだ。これは、伝統や権威や既得権を打破せんとする信長の生き方にそったものだ。こうして寺院の神聖不可侵は失われ、江戸時代には全国の寺院が幕府の支配化に入った。
 この、中世と近世の寺院観の転換をもたらしたのが、信長の比叡山侵攻なのである。

 焼き討ちの有無の議論に巻き込まれないために、あえて「侵攻」と言い換えておくことにしよう。



倭王武解体疑惑!日本書紀の年代はどこまで信用できるのか?

2007年03月27日 18時06分45秒 | 日本史
 日本書紀は、初代神武天皇の即位年を紀元前660年とし、7世紀の持統天皇までの歴史を記しているが、歴史の史料としてはどれだけの信憑性があるのだろうか。
 紀元前660年というのは、明らかに創作であり、紀元前の部分はまず信用できないと考えられる。しかし、記事によっては、たとえば120年ずらすと朝鮮の史書と年代が一致するなど、まったくの嘘ではなく、もともとは知られていた正しい年代を、何らかの数式で操作して遅らせたことが伺える。そのおかげで我々は日本の古代史について正しい年代を知ることが困難なので、日本書紀の編者は、歴史の記録者としてはとんでもないことをしてくれたことになる。

 その日本書紀でも、飛鳥時代にあたる部分はおおむね正しい年代が記載されていることが知られている。それは、古事記や、中国、朝鮮の史書との比較でわかるのだが、逆に言えば、それらが一致しなくなる時点から以前の記録が、操作されているということである。この場合、日本ではじめての史書である日本書紀よりも、司馬遷の頃から史書編纂の実績を重ねてきた中国の記録のほうが、はるかに信憑性が高く、ずれていれば日本側を疑うのが自然だ。

 さて、そのように見てみると、年代が正しいのは継体天皇からであることがわかる。
 継体天皇は、研究者の間でも、それまでの王朝が断絶して、新たしい王朝を開いた可能性が高いとされている天皇である。それ以後の年代が正しく、それ以前の年代が操作されているというのは、どうも、話ができすぎていると感じる。
 たとえば、継体の前の武烈の時代には、中国の史書によると梁の皇帝が倭王武に称号を与えた、とされており、さらに三人前の雄略の時代にも、中国の宋の皇帝が倭王武に称号を与えた記事がある。日本では、雄略から武烈まで5人の大王が交代しているのに、中国の史書では倭王武1人のままである。
 さらに、日本書紀は、雄略と武烈を、「大悪」などと書いており、古事記では雄略と武烈の間の3人の大王の没年の記載がないなど、日本書紀の記述は故意に操作されたとしか考えられないものである。
 これは、継体の子孫に当たる天皇家を擁護する側の立場から、それ以前の記録を故意に捻じ曲げたものではないだろうか。
 倭王武の業績は、五人の天皇に分割され、大悪などと故意に貶められたのではないだろうか。また、中国に朝貢した記録も日本書紀には見られず、日本が中国に臣下の礼をとった前王朝の振る舞いを隠すため、故意に記録を消したのではないだろうか。
 
 日本書紀は、編纂からわずか数十年前の蘇我氏についても、本名ではなく、馬子、入鹿など、とうてい実名とは思えない蔑称で記録している。

 歴史を学ぶ我々からすると、実にとんでもない書物であるが、残念ながら、そのとんでもない書物によってしか、それ以前の日本史を再現できない。

倭王武はワカタケルか?

2007年03月27日 00時55分46秒 | 日本史
 5世紀に活躍し中国の歴史書にその名を残す倭の五王は、皆、漢字1字の名を持っている。ところが、これに対応する日本側の大王は、もっと長い名前である。一般に、稲荷山古墳鉄剣や江田船山古墳鉄刀などから、ワカタケルノミコト=雄略天皇であることがわかっているが、彼が中国の歴史書に見える倭王武だという根拠はどこから来るのだろうか。
 つまり、日本の大王が、漢字一字の名前を名乗った記録は日本側の資料には見られないのに、なぜワカタケル=倭王武と断定できるのだろうか。
 まず、断定できる根拠は、第一に、日本書紀では、ワカタケルの本名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)といい、ワカタケルは幼武と書くことから、武はワカタケルの「タケル=武」からきていると考えられること。第二に、日本書紀に、雄略=ワカタケル軍が朝鮮で高句麗と交戦した記録があり、中国側の史料「宋書」にも、倭王武がその上表文に「海を渡って国々を征服した」とあり、記録が一致することである。
 一方、断定を保留する根拠は、第一に、即位年と没年が、日本書紀と中国側の記録で合わないこと、第二に、前述のように漢字一字の名前を名乗った記録が日本側にないことである。
 このことは、倭の五王が幻の九州王朝の王であるという説も出されている。

 さて、結論を先に述べると、僕は倭王武はワカタケル=雄略天皇に間違いないと思っている。断定を保留する根拠のうち、第一の年号の不一致は、①倭国から中国に記録が伝わる際のタイムラグや手違い、②日本書紀の年号は何らかの操作をされて繰り上げられていることがほぼまちがいない、の2点から、解決できる。
 問題は、第二である。なぜ大王のなかで、倭の五王だけが中国風の名前を名乗って中国に朝貢していたのか。これを説明する説はあまり聞いたことがない。この問題は根本的だと思うが、定説というものがないようである。

 そこで、僕の仮説を述べると、僕は5世紀の倭国は、外来王朝であったという仮説を考えている。具体的には、応神から雄略あるいは武烈までだ。この説は、古墳の建造地がそれまでの大和から河内に移ったのが応神からであること、武烈の次の継体は、北陸方面から来て大王を次いだことから、この両端には王朝交代があった可能性は少なくない。
 では外来王朝とは誰か。僕は、加耶の有力な勢力が、武力進出とまではいかなくても簒奪なり何らかの形で倭王を継承したのではないかと、想定している。加耶で出土する武具などの金属製品と、この時代の日本の金属製品とは、非常に似ているのである。
 そうすると、日本国内にはワカタケル、朝鮮や中国には武と、2ヶ国語の名前を持っていることも納得できるし、そればかりか、広開土王碑にある倭国軍の朝鮮半島への侵攻もうまく説明でできる。つまり、倭国が強大になって朝鮮に侵攻したのではなく、当時の王朝がそもそも加耶をふるさと=拠点としていたと考えれば自然だ。
 この説は、僕の勝手な仮説なのだが、さらに倭王武が宋の後継王朝である斉の皇帝からもらった称号が、この説を補強する。それは、
 
 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事
 
 というのだ。倭だけでなく、任那、加羅が含まれている。これは、この王朝の支配領域が、環対馬海峡圏に及んでいたことを示している。

 というわけで、倭王武=ワカタケルは、たの倭の五王もふくめてだが、加耶方面からきた外来王朝の王だったために、大陸系の名前と、日本土着系の名前の二種類を名乗った、というのが、大胆な僕の仮説だ。

 でも、6世紀の継体のときに、この外来王朝は国内の王朝に取って代わられ、大王が漢字一文字の大陸風の名前を名乗ることもなくなった、というわけだ。

 仮説を、もうちょっと検証してみたいと思います。



邪馬台国は九州ではない?

2007年03月23日 20時01分06秒 | 中学歴史
 邪馬台国がどこにあったのかは、はっきりしていない。授業でも畿内説と九州説の2つの説を紹介するけれど、安易にどちらが有力だとも言えない。ただ、魏志倭人伝を読むと、九州ではないように思える部分があるので、今回はそれを取り上げたい。
 魏志倭人伝では、九州北部の国々間の移動ついての記述は「何里」と距離であるのに、邪馬台国と途中にある投馬国への記述だけが「10日」「20日」「一ヶ月」と日数で書かれている。もしも邪馬台国が九州に実在していたなら、邪馬台国までの距離もきちんと「里」で書かれているのが自然だ。それが、魏志倭人伝では、九州北部から邪馬台国までの経路の記述が、「日」を使っている点が、不自然なのである。
 詳しく見ていこう。
 
①水行し韓国をへて狗邪韓国に至る。7千余里 。
②始めて一海を渡る千余里。対馬国に至る。方4百里可。千戸余。
③南、一海を渡る千余里。一大国に至る。方3百里可。戸数3千許。
④又一海を渡る千余里。末盧国に至る。4千余戸。
⑤東南、陸行5百里。伊都国に到る。千余戸。
⑥東南、奴国に至る。百里。2万余戸。
⑦東行、不弥国に至る。百里。千余戸
⑧南、投馬国に至る。水行20日。5万余戸。
⑨南、邪馬台国に至る。水行10日、陸行1月。7万余戸。
(魏志倭人伝より)

 というように、⑧と⑨だけ、距離ではなく日数で示されている。これは妙だ。①から⑦までの距離を合計すると、すでに10700余里に達するが、倭人伝の他の箇所には女王国までの総距離が「万二千余(12000)里」とあるので、これらの数字に整合性があるとすれば、女王国まではあと千里程度しか残っていないないことになる。この1里は100m程度であることがほぼわかっているので、残りはわずか100km程度となる。その途中に、戸数5万個の投馬国と、邪馬台国の戸数7万戸の半数程度が住んでいることになる。
 それならば、距離がわかるはずだし、訪問することもできるはずで、水行、陸行くなどとは書かず、これまでどおり距離で表記できるだろう。
 ところが、魏志倭人伝のもとになった記録の作成者は、投馬国と邪馬台国までの距離を知らないのである。計算どおり、④⑤⑥⑦付近から邪馬台国は100km程度だとしたら、自分で行っていなくても、人の往来がさかんだろうから距離は知れるはずだ。それが不明なのは、⑧と⑨は少なくとも④⑤⑥⑦とは容易に行き来できないところにあると考えなければならない。しかし、12000余里という総合距離が正しければ、どうしても④⑤⑥⑦の近辺になければならず、矛盾する。
 投馬国と邪馬台国は実在しない国であるか、あるいは④⑤⑥⑦から容易には到達できない場所、水行と行っているので、少なくとも海を越えていく場所になければならない。
 
 九州にあるとすると、距離は整合性があるが、それならば近いのだから、距離がわかるのが自然だ。日数で表記しているのは、不自然である。邪馬台国と投馬国が九州にあるとすると、この表記の不自然さが説明できない。
 ④⑤⑥⑦は沿岸にあるとすると船での移動が可能であるはずなのに、陸上移動をしていることから、⑧へ行くときには、海にでなければならなかった、つまり九州の外へ出なければいけなかったと考えるほうが自然だ。そうすると、⑧と⑨は、九州を出たところ、本州なり四国なりにあるほうが自然だ。

 でも畿内にあったとするには距離が合わない気がする。

 邪馬台国って、もしかしたら神話か何かに出てくる架空の国なのでしょうか???なぞは深まるばかりだ。
 
 

我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲトル

2007年03月23日 17時44分19秒 | 中学歴史
 ミッドウェーの海戦といえば、太平洋戦争において、日本の劣勢への転換点となった戦いとして、中学の歴史教科書でも、太字で取り上げられている。残念なのは、歴史の教科書や、社会科教師の多くが、日米には国力差があり戦争自体が無謀だった、だからミッドウェーでも負けるべくして負けた、という捉え方をしていることだ。太平洋戦争の敗因そのものは、当然、日米の国力差にあったのだが、ミッドウェーの海戦の勝敗自体は、国力差に起因するものではない。ミッドウェーの海戦を前にして、両国が展開した戦力は、主力空母で比較すると、日本が4隻、アメリカが3隻と、日本の方が勝っていた。暗号が解読されていたので待ち伏せされていたのだが、戦局の展開を見ると、待ち伏せはアメリカにそれほど有利に働いたとは思えない。
 ミッドウェーでの敗因は、実は、艦隊を指揮していた南雲忠一中将の決定的な判断ミスである。南雲中将は、水雷の専門家で、航空戦の専門家ではなかった。それが、航空戦をする機動部隊(空母部隊)を指揮したいたのは、今も昔も変わらぬ日本の悪習、年功序列人事のせいだった。主力4空母のうち、「赤城」「加賀」「蒼龍」の3空母を率いていた南雲中将のもとに、敵艦隊発見の報がもたらされたとき、艦載機は陸上攻撃用の兵装に転換したばかりだった。このとき、離れた位置で「飛龍」を指揮していた山口多聞少将が南雲中将に意見を述べた。「一刻も早く航空機を出して敵艦隊を爆撃するべきだ」。実は、この山口多聞少将はこそ、航空戦の専門家だった。僕は山口少将を、当時の海軍の提督の中では、もっとも優れた人材であったと評価している。しかし、南雲中将は、「陸上攻撃用の兵装では敵艦は沈められない。鑑定攻撃用の水雷に兵装転換せよ」。山口少将は南雲中将の指揮下にあり、山口の意見は通らなかった。こうして兵装転換に貴重な時間が費やされ、兵装転換を終えたときには、アメリカの航空機部隊の先制攻撃を受け、、「赤城」「加賀」「蒼龍」はたちまち炎上した。
 この時点で山口少将の「飛龍」だけが無傷で残された。山口はここで指揮権をぶんどる。
「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲトル」
 この時点で、日本は空母を3隻失い残るは1隻。一方のアメリカは空母3隻が健在。南雲中将の判断ミスで、4対3の優勢が、1対3の劣勢になってしまった。ところが山口はここから、果敢にもカウンターアタックを開始する。「飛龍」の航空機部隊を飛ばし、米空母ヨークタウンを炎上させた。しかし1対3では劣勢は挽回できず、同時にアメリカ側の航空機の攻撃を受け、ついに飛龍も炎上。全員退艦を命じ、自らは空母を失った責任をとるとして、飛龍と運命をともにした。
 
 戦艦を攻撃するなら、相手を沈めなければ相手の戦力を奪えないから、水雷で攻撃するほうがよい。しかし、空母を攻撃するなら、まず甲板を破壊してしまえば、航空機が発信できなくなるので、とにかく相手よりも先に、甲板だけを破壊する必要があったのだ。しかし、水雷の専門家だった南雲中将はそのことに思い至らず、航空戦の専門家だった山口少将の正しい判断を退けてしまった。こんなことのために貴重な兵士の命が多く失われたのは、悔しいとしか言いようがない。
 さらに、山口多聞少将をここで失ったのは、大きな痛手だった。空母はまた作ればよいが、優秀な人材はそうはいかない。南雲中将は生きて帰ったのだから、山口も死ぬ必要はなかった。決断は潔くはあるが、その死が悔やまれる。
 
 我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲトル

 もっとはやく山口に指揮権が渡っていたら・・・。山口の先制攻撃が行われていれば、当然日本も相当の被害を受けただろうが、アメリカも大きな被害を受けたはずだ。なのに「赤城」「加賀」「蒼龍」は何もせずに(兵装転換はしたが)役立たずのまま終わってしまった。馬鹿としか言いようがない。

 個々の戦闘の結果が、歴史を大きく動かすことがある。国力差の比較も大切だが、こういった生きた人間ドラマが歴史を動かすこともまた事実なので、こうした部分を、授業にもっと取り入れれば、歴史はより面白くなり、歴史好きな生徒も増えるだろう。

ゆとり教育が生み出す教育格差社会

2005年07月24日 07時53分26秒 | 教育問題
 ゆとり教育というときれいにきこえるが、その意味するところは教育内容の削減である。
 たとえば歴史の場合、現行の学習指導要領では、年間140時間だった授業時数が年間105時間に減った。これはそれまでの75%の水準にあたる。
 さて、歴史をひもとけば、教育内容の削減は、教育格差社会の到来をもたらすことが必然だ。
 かつて日本では義務教育が4年であった。義務教育が9年である現在と当時とでは、当時のほうが教育格差社会であると言える。それはつまり、現在の9年分の教育を受けるためには、義務教育終了後から5年間、自前で教育費を払って勉強をしなければならないからだ。この5年分を負担できる高所得層と、負担できない低所得層の間に、教育の格差が生じてくる。
 ゆとり教育は、これとまったく同じ結果をもたらす。
 学校で習わない分は、ほかで習わなければならない。100を教えていた公教育が75しかおしえないとなると、あとの25は塾なり、私立学校なり、公教育とは別のところで学ぶしかない。それができる高所得層とそれができない低所得層の間の教育格差が生まれていく。
 21世紀の日本は格差社会に向かっているといわれている。教育格差の拡大は、将来の経済格差を拡大させる大きな要因となる。
 ゆとり教育はいずれ見直されるかもしれない。だとしたらゆとり教育のもとで育った子どもたちはかわいそうだ。
 教育内容が減ることが子どもたちの幸せではない。質の高い教育を受けられることが子どもたちの幸せなのではないだろうか。
 

大日本帝国憲法を見る視点

2005年07月10日 19時57分52秒 | 中学歴史
 たいていの中学校の歴史・公民の教科書では、大日本帝国憲法が、憲法としては不十分な、遅れた憲法として扱われている。
 その根拠となっているのが、戦後の日本国憲法との比較や、同時代の植木枝盛の国憲案や五日市憲法に代表される私擬憲法案との比較だ。確かに、これらのものとくらべると、基本的人権の保障が不十分、君主権が強いなど、現代の価値観とは合わない点が多い。
 しかし、大日本帝国憲法の歴史的な意義は、別のところにあるのではないか。
 1880年代、日本の政治権力は、徳川氏を打倒した薩摩藩と長州藩を中心する一部の藩の出身者たちに握られていた。欧米の国々が近代国家をうちたてる過程で経験した市民革命を、日本は経験しなかった。明治維新は、薩摩と長州を中心とした勢力が旧勢力から権力を奪った出来事であり、国民が何かをしたわけではない。また世界史で言う「市民」が何かをしたわけではない。
 つまり、明治維新とはいっても1880年代までは、日本の国民は何の政治的権力も持たなかった。日本は、明治維新を終えても、民主政治などとは縁のない独裁国家あるいは寡頭政国家だった。
 ところが、1889年に制定された大日本帝国憲法は、制限つきとはいえ選挙権や被選挙権を一般国民に与え、さらに国民の代表である衆議院に貴族院と対等な立法権を与えている。なぜ、当時のリーダーたちがこのようなことをしたのか、説明がつかない。
 中学校の教科書では、「直接国税15円以上をおさめる25歳以上の男子」に選挙権をあたえたことが、制限選挙であり、普通選挙とはほどとおい遅れた制度であったと述べる。
 とんでもない。薩摩と長州は血を流して権力を得た。フランスでもイギリスでもアメリカでも、いわゆる「市民」は行動し、犠牲を払って、自分たちで権力を得た。ところが、大日本帝国憲法は、日本中の一定の人間に、手放しで権力を与えた。薩摩や長州のリーダーたちが、こんなことをする必要はまったくないのだ。国民は、私擬憲法にあるような理想的な権利を望むなら、フランスやイギリスやアメリカの市民のように、それを「自分たちの手で血を流してでも勝ち取ら」なければならなかったはずだ。
 ところが、参政権や一定の基本的人権が、一滴の血も流さず、ただ手放しで与えられたのだ。これはこの時代としてはめずらしい例ではないか。そのようなリーダーたちの行動は、賞賛されるべきものでこそあれ、非難されるべきものでは決してない。
 このように見ると、「なぜ大日本帝国憲法は日本国憲法にくらべてさまざまな面で遅れているのか」という問いは、意味を失ってしまう。
 かわって、「なぜ大日本帝国憲法は、革命もせず血も流していない一般国民に、あれほど簡単に権力を渡したのか」という問いが、より意味を持つのではないだろうか。
 この問いをとく鍵は、外圧と不平等条約改正の必要性に代表される一流国家への願望にあると思うが、この点については別の機会に論じたい。

農地改革が高度経済成長の土台を作った

2005年07月10日 10時03分10秒 | 中学歴史
 農地改革は、高度経済成長の土台となった改革だった。
 ところが、中学生の頭の中では、農地改革と高度経済成長がなかなか結びつかない。なんとか、わかりやすく結びつけてあげられないものだろうか。
 農地改革とは、政府が地主の土地を安く買い上げ、その土地を小作農に安く売り渡すことで、小作農を減らし、自作農を増やした改革だ。これによって、地主から土地を借り、その地代である小作料を払わなければならない小作農の多くが、自分の土地を持つ自作農に変わった。ここまでは歴史の教科書に書かれている。
 でもこの改革がもたらした、別の効果がある。
 それは、高度経済成長にかかせない、流動的な労働力を確保した点だ。
 詳しく見ていこう。
 小作農の土地の所有権は地主にある。だから小作農は自分の土地を売って農業を離れることはできない。小作農は、一生農業をしなければならないわけだ。ところが、自作農の土地の所有権は自作農自身のものなので、自作農は自分の土地を売って農業を離れることができる。
 また、地主は小作人の労働によって土地から収入を得ているので、技術革新や作業の効率化よりも、小作人という労働力の大きさにたよって収益をあげようとする。これでは、労働力は農村に吸収されてしまい、都市に供給されない。しかし、自作農は自分の土地から自分の労働で収入を得ているので労働力を増やしようがなく、収益を上げようとすれば農業の効率を上げようとするから、積極的に農業機械を導入したり、新しい土地を買い取ることで作付面積を増やしたりして、農業の効率化・大規模化を図ろうとする。
 すると、自作農は、農村に残って機械化・効率化をすすめて事業規模を拡大しようとする者と、農業を捨て土地を手放して都市へ出て行くものの二種類に淘汰されていくことになる。
 こうして、農業の機械化と工業化がすすんでいた「もはや戦後ではない」日本に、経済成長に欠かせない労働力が供給された。農村人口は激減し、都市人口が急増、結果的に過疎や過密と呼ばれ問題を引き起こすほど人口が移動した。
 農地改革の重要性は、高度経済成長にかかせない豊富な労働力を、都市に供給する準備をした点にあるといえる。
 これを授業で説明するのが、なかなかむつかしい・・・。

なぜ日本人はヴィトンが好きなのか。

2005年07月10日 10時00分23秒 | 世界史
 ルイ・ヴィトンは、日本でもっとも人気のあるブランドのひとつですね。
 ところでなぜ日本人はあんなにヴィトンが好きなんでしょうか。
 実は、ヴィトン製品のあの独特の模様は、もともと日本のものなんです。
 ルイ・ヴィトンが鞄屋をはじめたのは19世紀ですが、19世紀末のヨーロッパでは、ジャポニズムというものが全盛でした。ジャポニズム=日本的なものを愛好する風潮です。印象派の絵画が、日本の浮世絵の影響を受けている話は有名ですよね。印象派に限らず、当時は日本的なものがヨーロッパでもてはやされました。19世紀の日本といえば、前半は鎖国に閉ざされた神秘的なイメージが、後半は明治維新後の富国強兵政策にともなう高度成長のイメージが、ヨーロッパの人々のこころをとらえたんでしょうね。
 さて、ルイ・ヴィトンのイニシャルであるLとV、それに星と花をモチーフにしたあの幾何学模様がはじめてお目見えしたのは、19世紀末のことだそうですが、この模様は、日本の家紋などからインスピレーションを受けて生まれたと言われています。そういえば、あれ、ヴィトンの鞄の模様は、手裏剣とかに見えるような、見えないような・・・。
 日本人がヴィトンを好きなのは、あの模様が日本をルーツにしたもので、日本の伝統になじみやすいからなのかもしれませんね。
 こんどヴィトン製品を持っている人にあったらよく見てみましょう。

ネロとパトラッシュはなぜ死ななければならなかったのか?

2005年07月09日 17時07分37秒 | 名作シリーズ
「パトラッシュ、ぼくもうつかれたよ」
 日本人なら誰もが涙する「フランダースの犬」のラストシーン。ネロとパトラッシュは、クリスマスの夜に天に召された。
 僕はこの場面を、近代史を考える鍵となる名場面だと思っている。
 この物語の舞台となっている19世紀のヨーロッパでは、自由主義国家の全盛期だった。自由主義国家というのは、市民革命によってうちたてられた、個人の自由な経済活動が保障された国家だ。封建社会ではまったくばらばらだった国内市場を、絶対王政がひとつの巨大な経済圏にまとめあげた。さらに市民革命が、王権による経済統制をとりはらい、個人個人に自由な経済活動を保障した。これによって個人が、統一された市場を部隊に、国家の統制をうけることなく、自由な経済活動を行うことができるようになった。
 こうしてうまれた自由主義国家のもとでは、国家による経済への統制は悪だと考えられた。自由主義のバイブルともいえるアダム・スミスの「諸国民の富」では、自由主義経済を「神の見えざる手」と呼び、需要と供給の関係にまかせておけば、すべては自然とうまくいくとされた。このような国家は政治史上「夜警国家」と呼ばれる。国家は、自由な経済活動を阻害する要素を取り払う警察としての機能以外を担う必要はないというわけだ。
 ところがこうした夜警国家のもとでは、貧富の差の問題がしだいに明らかとなった。多数の貧しい労働者がまちにあふれた。しかし、夜警国家は、飢えた失業者を救おうとはしなかった。働けるものは金を得ることができ、働けないものは飢え死にするしかなかった。社会保障という考えも、福祉国家という考えも、まだなかった。
 おじいさんをなくし、唯一の生活の糧だった牛乳配達の仕事もなくしたネロとパトラッシュには、飢え死にしか道は残されていなかった。
 人類が自由主義国家のあやまりに本格的に気づくのは、19世紀後半から20世紀にかけての社会主義運動の高まりと、ロシア革命によるソ連の成功、そして世界恐慌を待たねばならない。1929年の世界恐慌は、自由主義に最後のとどめを刺した。ルーズベルト大統領は国家による失業者の救済と経済の統制を主張し、夜警国家は福祉国家へと姿を変えていくことになる。
 日本でオリジナルに製作されたフランダースの犬の劇場版では、ネロのおさななじみのアロアが大人になって、孤児院で孤児たちを世話しているところから物語がはじまる。福祉国家の時代に生まれていれば、ネロもパトラッシュも死なずにすんだのだろう。福祉国家の時代に生まれたわたしたちには、どこからも救いの手をさしのべてもらえないネロたちの姿が悲しく映る。

上杉謙信はなぜ天下統一をしなかったのか。

2005年07月09日 16時58分39秒 | 中学歴史
「信長の野望」のようなゲームをやると、すべての戦国大名は天下統一を目指していたように錯覚する。でもそんなことは絶対ない。それどころか、ほとんどの戦国大名が天下統一なんて現実的な目標にしていなかったと言った方が正しい。
 上杉謙信も、天下統一なんてはじめからやる気がない。 
 謙信ははじめから、戦争に勝って領土を広げようなんて思っていなかったのではないだろうか。
 上杉謙信は、他国への戦争を、国内をまとめる手段と考えていたようだ。新潟は米どころだから、農繁期には出兵できない。で、農閑期になると、毎年のように、村上や新発田から柏崎・上越まで、県内の各地のリーダーとその兵をあつめて、長野や富山や関東に出陣する。でも、謙信は戦争に勝つことに興味はないし、領土もほしがらない。(だから一度も負けたことがない)。新潟ではそれを美談にしているけど、何のことはない、謙信の戦争の目的はそんなことになはいのではないか。
 謙信の目的は、越後の支配にあった。したがって、彼のテーマは「いかにして越後各地の反乱を予防するか」だった。そこで彼が考えたのが、農閑期に県内の有力者を全員連れて県外に戦争にでよう、という手だ。農繁期には反乱は起きない。秋の収穫が収入のすべてである。収穫を得ることが何より優先なのだ。逆に農閑期には反乱が起きやすい。県内のどこでも収穫直後は財源が豊かだからだ。謙信は、その財源の豊かな時期に、有力者を全部連れて県外に遠征することで、県内の有力者を統制下において反乱を予防した、のではないだろうか。
 たぶん武田信玄も同じなんじゃないかなあ。だから川中島の戦いは引き分けばっかり。織田信長みたいに本気で天下統一を狙えば、毎回引き分けなんてありえない。信玄も謙信も、県内の有力者を連れて県外に出たいだけだから、本気でやろうなんて思わない。
 さて第4回川中島では、ある晩ちょうど深い霧がでたからそれにまぎれて撤退しようと謙信も信玄も考えた。ところが、同じ頃に動き出したものだから、偶然川中島のど真ん中で両軍の先頭がはちあわせてしまった。こうなると戦火は自動的に拡大する。犠牲をおさえて越後に甲斐に撤退しようとする両司令官の意図とはうらはらに、犠牲者はふえ最悪の数字となってしまった。
 繰り返すけど、謙信の県外への遠征目的は、天下統一なんてたいそうなモンじゃなく、越後を統制することにあったのだろう。反乱を起こすだけの財力を持つ県内の有力者を全員連れて、県外に出ていればそれでよかった。有力者を監視し、その財力を減らそうとした点は、のちの徳川氏の参勤交代とまったく同じと考えてみるのも面白い。