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スグルの歴史発見

社会科教員をやっているスグルの歴史エッセイ。おもに中学生から高校生向きの内容ですが、大人でも楽しめると思います。

後方支援は戦争ではない?

2007年04月05日 23時58分53秒 | 日本史
 日本人は、後方支援は戦争にはあたらないと考えている。国会でも、自民党と民主党は自衛隊の海外派兵について激論は交わすものの、この点だけは一致していたように思われる。後方支援なら、戦争ではない、という前提である。

 さて、ちょっと考えればわかることだが、これは嘘である。

 戦争というのは、戦場で激突する会戦だけを言うのではない。孫子の兵法にも出ていることだが、古くから、相手の補給部隊を攻撃し物資を経つことは、立派な作戦であり、もちろん戦争の一部である。補給部隊を攻撃してはいけないなどというルールはない。後方支援というのは、前線と同じように相手の攻撃対象になる。
 イラクやアフガンでそうならなかったのは、アメリカに対して相手が弱小すぎたからだ。軍事力が互角の戦争なら、後方支援は安全であるはずがない。また、自分が敵側なら、当然、相手の補給路を経つことを狙うだろうから、後方支援の自衛隊は作戦目標になる。繰り返すが、そうならなかったのは、たまたまイラクやアフガンが弱小だったからである。
 
 後方支援は、歴史上、どこから見ても、立派な戦争である。
 
>第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
>2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 さて、日本は岐路に立っている。

 アフガンやイラクでやってきたことが正しいなら、憲法はもう破綻している。
 憲法が正しいなら、アフガンやイラクでやったことは憲法違反だ。

 後方支援が戦争ではないという前提の上に、両者は矛盾しないと説明されているのだが、その前提が間違っている。

 後方支援は戦争である。日本人は太平洋戦争の印象があまりにきつかったせいで、戦争といえば玉砕とか、大空襲とか、原子爆弾とか、とかくでかい連想をしがちである。これはこれで大切なことなのだが、だからといって、それらにくらべたら派手さのない補給や後方支援を、戦争ではないと考えているとしたら、考え違いだ。後方支援は立派な戦争の一局面、一手段である。

 つまり、日本は戦争を、やってしまったのだ・・・。

 思えば日本は1937年に盧溝橋事件で日中戦争の戦端を開いてから4年もの間、これは戦争ではない、支那事変という「事変」だ、と言って、戦争していることを認めなかった。
 今回も、後方支援だから戦争ではないという。
 
 どうも、このあたりの日本の悪癖は、60年前と変わっていない。戦争なら戦争だと、国民にはっきり言えばいいのに、今も昔も、詞じりでごまかすのが、日本流であるようだ。

*国際法では、民間船であっても、敵国の軍事物資を輸送している場合には補給部隊とみなされ、攻撃してもよいことになっている。つまり、民間船であっても、戦争の手助けをする活動をしていれば、戦争に参加しているとみなされ、民間船だから・・・という理屈は通らない。
 自衛隊は歩兵も艦船もみな最新兵器で武装しているのだから、まあ誰が見ても、立派な戦争である。

倭王武解体疑惑!日本書紀の年代はどこまで信用できるのか?

2007年03月27日 18時06分45秒 | 日本史
 日本書紀は、初代神武天皇の即位年を紀元前660年とし、7世紀の持統天皇までの歴史を記しているが、歴史の史料としてはどれだけの信憑性があるのだろうか。
 紀元前660年というのは、明らかに創作であり、紀元前の部分はまず信用できないと考えられる。しかし、記事によっては、たとえば120年ずらすと朝鮮の史書と年代が一致するなど、まったくの嘘ではなく、もともとは知られていた正しい年代を、何らかの数式で操作して遅らせたことが伺える。そのおかげで我々は日本の古代史について正しい年代を知ることが困難なので、日本書紀の編者は、歴史の記録者としてはとんでもないことをしてくれたことになる。

 その日本書紀でも、飛鳥時代にあたる部分はおおむね正しい年代が記載されていることが知られている。それは、古事記や、中国、朝鮮の史書との比較でわかるのだが、逆に言えば、それらが一致しなくなる時点から以前の記録が、操作されているということである。この場合、日本ではじめての史書である日本書紀よりも、司馬遷の頃から史書編纂の実績を重ねてきた中国の記録のほうが、はるかに信憑性が高く、ずれていれば日本側を疑うのが自然だ。

 さて、そのように見てみると、年代が正しいのは継体天皇からであることがわかる。
 継体天皇は、研究者の間でも、それまでの王朝が断絶して、新たしい王朝を開いた可能性が高いとされている天皇である。それ以後の年代が正しく、それ以前の年代が操作されているというのは、どうも、話ができすぎていると感じる。
 たとえば、継体の前の武烈の時代には、中国の史書によると梁の皇帝が倭王武に称号を与えた、とされており、さらに三人前の雄略の時代にも、中国の宋の皇帝が倭王武に称号を与えた記事がある。日本では、雄略から武烈まで5人の大王が交代しているのに、中国の史書では倭王武1人のままである。
 さらに、日本書紀は、雄略と武烈を、「大悪」などと書いており、古事記では雄略と武烈の間の3人の大王の没年の記載がないなど、日本書紀の記述は故意に操作されたとしか考えられないものである。
 これは、継体の子孫に当たる天皇家を擁護する側の立場から、それ以前の記録を故意に捻じ曲げたものではないだろうか。
 倭王武の業績は、五人の天皇に分割され、大悪などと故意に貶められたのではないだろうか。また、中国に朝貢した記録も日本書紀には見られず、日本が中国に臣下の礼をとった前王朝の振る舞いを隠すため、故意に記録を消したのではないだろうか。
 
 日本書紀は、編纂からわずか数十年前の蘇我氏についても、本名ではなく、馬子、入鹿など、とうてい実名とは思えない蔑称で記録している。

 歴史を学ぶ我々からすると、実にとんでもない書物であるが、残念ながら、そのとんでもない書物によってしか、それ以前の日本史を再現できない。

倭王武はワカタケルか?

2007年03月27日 00時55分46秒 | 日本史
 5世紀に活躍し中国の歴史書にその名を残す倭の五王は、皆、漢字1字の名を持っている。ところが、これに対応する日本側の大王は、もっと長い名前である。一般に、稲荷山古墳鉄剣や江田船山古墳鉄刀などから、ワカタケルノミコト=雄略天皇であることがわかっているが、彼が中国の歴史書に見える倭王武だという根拠はどこから来るのだろうか。
 つまり、日本の大王が、漢字一字の名前を名乗った記録は日本側の資料には見られないのに、なぜワカタケル=倭王武と断定できるのだろうか。
 まず、断定できる根拠は、第一に、日本書紀では、ワカタケルの本名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)といい、ワカタケルは幼武と書くことから、武はワカタケルの「タケル=武」からきていると考えられること。第二に、日本書紀に、雄略=ワカタケル軍が朝鮮で高句麗と交戦した記録があり、中国側の史料「宋書」にも、倭王武がその上表文に「海を渡って国々を征服した」とあり、記録が一致することである。
 一方、断定を保留する根拠は、第一に、即位年と没年が、日本書紀と中国側の記録で合わないこと、第二に、前述のように漢字一字の名前を名乗った記録が日本側にないことである。
 このことは、倭の五王が幻の九州王朝の王であるという説も出されている。

 さて、結論を先に述べると、僕は倭王武はワカタケル=雄略天皇に間違いないと思っている。断定を保留する根拠のうち、第一の年号の不一致は、①倭国から中国に記録が伝わる際のタイムラグや手違い、②日本書紀の年号は何らかの操作をされて繰り上げられていることがほぼまちがいない、の2点から、解決できる。
 問題は、第二である。なぜ大王のなかで、倭の五王だけが中国風の名前を名乗って中国に朝貢していたのか。これを説明する説はあまり聞いたことがない。この問題は根本的だと思うが、定説というものがないようである。

 そこで、僕の仮説を述べると、僕は5世紀の倭国は、外来王朝であったという仮説を考えている。具体的には、応神から雄略あるいは武烈までだ。この説は、古墳の建造地がそれまでの大和から河内に移ったのが応神からであること、武烈の次の継体は、北陸方面から来て大王を次いだことから、この両端には王朝交代があった可能性は少なくない。
 では外来王朝とは誰か。僕は、加耶の有力な勢力が、武力進出とまではいかなくても簒奪なり何らかの形で倭王を継承したのではないかと、想定している。加耶で出土する武具などの金属製品と、この時代の日本の金属製品とは、非常に似ているのである。
 そうすると、日本国内にはワカタケル、朝鮮や中国には武と、2ヶ国語の名前を持っていることも納得できるし、そればかりか、広開土王碑にある倭国軍の朝鮮半島への侵攻もうまく説明でできる。つまり、倭国が強大になって朝鮮に侵攻したのではなく、当時の王朝がそもそも加耶をふるさと=拠点としていたと考えれば自然だ。
 この説は、僕の勝手な仮説なのだが、さらに倭王武が宋の後継王朝である斉の皇帝からもらった称号が、この説を補強する。それは、
 
 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事
 
 というのだ。倭だけでなく、任那、加羅が含まれている。これは、この王朝の支配領域が、環対馬海峡圏に及んでいたことを示している。

 というわけで、倭王武=ワカタケルは、たの倭の五王もふくめてだが、加耶方面からきた外来王朝の王だったために、大陸系の名前と、日本土着系の名前の二種類を名乗った、というのが、大胆な僕の仮説だ。

 でも、6世紀の継体のときに、この外来王朝は国内の王朝に取って代わられ、大王が漢字一文字の大陸風の名前を名乗ることもなくなった、というわけだ。

 仮説を、もうちょっと検証してみたいと思います。



敬語を使えない子どもが増える訳

2005年01月12日 00時21分25秒 | 日本史
 敬語をきちんと使えない子どもが増えている、とよく言われる。でも、僕はこれには功罪両面があると思う。
 日本語という言語は、身分制度を言語の中に内包してしまっている、ある意味「たちの悪い」言語だ。
 英語では、立場の上下にかかわらず、ほとんど同じ構文で会話ができる。これは年齢の差、男女の差、地位の差、どれについてもだ。ところが日本語は、言語そのものが上下関係を前提として出来上がっている。目上と目下が話すようにできているのである。対等な会話をしようとすれば、双方が丁寧語で話すか、双方が敬語をはぶいて話すかしかない。しかし、敬語があるために、敬語をはずした日本語はひどくぶっきらぼうに聞こえる。
 かつての日本はそれでよかった。男>女、兄>弟、父>子、地主>小作人、など、上下関係のはっきりした社会だったのである。これは儒教にもとづいた社会だ。
 ところが、戦後の日本はそうではなくなった。現憲法は、尊厳を持った個人の対等関係を基本に社会が成り立つという考えに立っている。もっとも、戦前生まれの世代が社会の中心であるうちはよかった。戦前の価値観はそう簡単には消えないし、その世代に育てられた次の世代にも戦前の価値観がある程度は継承された。ところが、現在の日本の若者は、親も戦後生まれの世代である。おまけに核家族化がすすんだため、戦前の価値観よりも戦後の日本国憲法の価値観に慣れて育った世代といえる。そこにはもう、戦前の古い価値観に従おうという考えはほとんどないだろう。
 ところが、いぜんとして、敬語は日本語に残っている。社会が対等関係に根ざしているはずなのに、言語が対等関係を結ばせない言語なのだ。これは現代日本のジレンマであると思う。
 日本国憲法の価値観にたてば、敬語は不要である。敬語を日本の伝統として残したければ、日本を敬語がふさわしい価値観をもった社会にしていかなければならない。
 僕は敬語を使えない子どもが増えているのは、脱儒教社会が出現しつつあるあらわれだと思う。日本人の伝統意識や言語習慣は過去の儒教社会を継承したいと願っているが、現行憲法の価値観は脱儒教社会を前提としている。このジレンマを、日本は21世紀に解消しなければならない。
 憲法が日本人の価値観にあわせて変わるのか、それとも言語が変わるのか。どちらにせよ、現憲法と敬語はのびのびと共存できる存在ではない。