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スグルの歴史発見

社会科教員をやっているスグルの歴史エッセイ。おもに中学生から高校生向きの内容ですが、大人でも楽しめると思います。

政党政治と小沢一郎

2007年11月05日 22時23分52秒 | 公民
 小沢代表の辞職が話題となっている。

 小沢一郎という人は、信念の人、原理原則の人、と言われるが、僕は、彼の行動が、政党政治という概念に疑問を投げかける、先進的なものだという評価をしている。

 政党政治では、いわゆる党議拘束にしたがうことがもとめられる。議員は、自身の個の意見よりも、党としての集団の意見にしたがうことをもとめられる。これは、日本に適したシステムではあるが、大きな欠点を持っている。それは、われわれ有権者が、政策を個々にではなく、パッケージとして選ばされるという欠点である。A党に投票することは、A党のマニフェスト全部に賛成したことになるのだが、全部に賛成している有権者などいるはずがかい。政党政治は、意見の多様性を四捨五入して消してしまう。
 
 小沢一郎は、これとは異なるスタイルを持つ。政策を定め、指示するならついて来い、というメッセージを、同僚議員にも、有権者にも発する。小沢にとって、目的は政策の実現であり、政党政治はその手段でしかない。

 二大政党制の実現を、というとき、民主党の多くの議員あるいは支持者が、二大政党制の実現を目的と見ているが、小沢にとってそれは手段なのであり、彼の目的はあくまで政策の実現にあるのだ。この最終目的のちがいが、そのためには連立もありという小沢の判断と、連立なんてとんでもないという周囲の判断の差となってあらわれている。このことを、おそらく小沢は知っている。だからやめたくなったのだと僕は思う。

 政党政治にくらべて、小沢のもとめる政策の政治は、非常にレベルの高いものである。有権者には、個々の政策を熟知して選択できる知的レベルと、政治信条の自律が求められる。

 25世紀くらいになればあるいは可能だろろうか。でも、今回の報道や周囲の反応を見ていると、現代の日本社会は小沢の先進性を受容するレベルにない。

 残念なことではある。

給油は戦争だ。・・・後方支援は戦争だ、その2

2007年08月27日 22時55分20秒 | 公民
 参議院議員選挙の結果を受けて、テロ対策特別措置法の延長について、いろいろ取りざたされている。延長か、打ち切りか。

 さて、この議論は、論点が巧妙にずらされていると感じる。(日本の場合、年金でも何でもそうだが・・・)。国民が気づかないのをいいことに、実際の論点とは違うところで議論がすすむのだ。

 はっきり言って、後方支援は戦争の一部である。海上自衛隊の給油活動も、立派な戦争である。(補給が戦争でない、と考えているようなら、太平洋戦争の戦史の概略を学ぶべし、あるいはライトノベルが好きなら銀河英雄伝説でも読むべし)
 
 給油活動をしていいかどうかは、したがって、戦争をしていいか、悪いかという議論でなければならないのだ。

 ところが日本人は、日中戦争や太平洋戦争の苦しみはすっかり忘れて、補給なら戦争ではない!と考えている。そもそも、中学レベルの学習でもわかることだが、援蒋ルートからの補給が戦争ではないなら、日本軍がインドシナに進出する必要などなかったではないか。補給を経つために、インドシナに兵をすすめざるをえなかったことを思い起こせば、現在、自衛隊が行っている補給活動が立派な戦争の一部であることはわかりそうなものだ。

 僕は、自衛隊が補給活動を行うことに、賛成とも、反対とも言わない。ただし、補給は立派な戦争なので、現憲法のもとでは補給は絶対許されない。補給をするなら憲法を改正し「戦争放棄は原則だが、例外として国際部隊への補給だけは行える」とはっきり書くべきだ。 

 そうゆう根本的な議論を置き去りにして、うわべの議論をして済ませるのはやめていただきたい。


衆愚政治

2007年06月29日 19時46分37秒 | 公民
 参議院選挙が近づいている。年金問題や、住民税の増税問題が話題をあつめているが、歴史を教えている人間からすると、どうも、根本的な認識がおかしいようなきがしてならない。
 二大政党制というなら、選択肢は、基本的に次の2つしかないのである。

 A)増税して、その分で、福祉や教育、食の安全、などを充実させる。
   =負担を増やして、給付を増やす。
 B) 減税して、その分、福祉や教育、食の安全などを効率化つまり削減する。
   =負担を減らして、給付を減らす。

 したがって片方の党がAを、片方の党がBを主張し、有権者が選ぶ、これならば、民主主義としてすっきりする。
 ところが、日本の政党は見みな、負担を減らして、給付を増やすことを主張する。長期的にはそんなことがまかりとおおるわけはないのだが、もっとまずいのは、有権者が、負担を減らして給付を増やすように求めているという実態である。
 
 給付を増やしてほしい、年金、教育、食、さまざまな分野に信頼を求めたい、という声には賛成だ。だがそれには、負担が伴うのだ。

 負担を減らしてほしい、増税は困る、減税を続けてほしい、という声には大賛成だ。だがそれには、給付の効率化=削減が必要だ。

 負担を減らして、給付を増やすことは可能だ。ただし、将来の世代に、つけを残せば、である。もっとも、平均年来の高い立法府や行政府が、まだ参政権もない世代につけをまわして給付を確保するのが民主政治だというなら、あまりにも身勝手で自己中心的な話である。そうなっては、衆愚政治のはじまりだ。

 衆愚政治にならないためには、懸命な有権者が必要だ。この点について、われわれ社会科教員の責任は決して軽くない。 

憲法改正に関する国民投票法案に反対?

2007年04月10日 20時31分19秒 | 公民
 憲法改正に関する国民投票法案というのが審議されているが、この法律がどうゆう中身になるかを論じるならまだしも、この法律そのものに反対という意見がある。これはおかしな議論だ。

>第九十六条
>この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
 
 このように、憲法96条では、国会が発議した憲法の改正を承認するかどうか、投票してきめる権利を国民に与えている。
 ところが、これまで、この投票を行うための手続きを定めた法律がなかった。これでは、この96条は空文になってしまう。あるいは、手続きを定めた方がないということは、国民が持っているはずの「憲法改正の発議を承認するか否かについての投票権」を行使できないということだから、これ自体が憲法違反にあたる可能性だってある。
 
 ここで僕は、憲法の中身をどうすべきだと言っているのではない。
 憲法を改正するかしないかを、投票して決めるための手続きのことを言っている。
 そもそも、この投票自体が認められないとしたら、それはもう民主主義ではない。

 憲法改正の話になると出てくるのが9条だ。9条を守れ、という議論で、僕はこれには基本的に賛成だ。

 国民の過半数が9条を守りたいと望んでいれば、憲法改正の投票を行っても、9条は守られるだろう。民主国家なら、投票くらい堂々と行うべきだろう。

 ところで、僕は大学で共和制ローマ史を専攻した。ローマ法のすぐれている点のひとつは、数百年にわたって、必要な法律をつけたし、改正することで、何世紀もの英知を集めて、たえず更新されてきた点にある。

 日本国憲法は、戦後、今から60年も前に、当時の国民が選んだ代表者からなる帝国議会で、制定されたものである。
 その一度きりしか、自分たちの憲法の内容に手を加える権利がないのは、あまりにも馬鹿げてはいないだろうか。僕らが生まれるよりも、もっともっと前の連中が決めた憲法に、僕らは指一本触れることができないなら、それは果たして民主主義なのだろうか。

 むしろ、4年に一度なり、一定の時期に、必要な更新をすると定めたほうがよほど民主的だ。

 また、9条の話に戻る。
 憲法9条が、真に日本国民の誇りとするすぐれた内容であるなら、たとえ10回、20回と憲法改正の投票を経ても、9条が変わることはないだろう。僕自身は、少なくとも9条が今の内容よりも国民の負担を増すような内容に書き換えられるなら、その改正の承認の投票では、反対票を入れるつもりだ。

 ただし、これは、国民の投票で決めなければならない。必要なら、毎年でも、「憲法更新の投票」というのがあってもいい。60年も指一本触れられない憲法より、そのときそのときの世代の投票で、内容を更新できる憲法の方が、よほど民主的だ。

 私見を述べれば、民主的な憲法というのは、民主的な内容の憲法のことを言うのではなくて、民主的な手続きの保証された憲法のことを言うのだ。いくら民主的な憲法ですと言われても、60年間たっても、一文字も更新できないなんて、それが民主的な憲法だとは、とうてい思えない。


 憲法改正に反対するのは結構だ。でも、憲法改正に関する国民投票法案に反対するのは、民主主義としていかがなものかと思う。ちがった言い方をすると、国民には、「憲法を更新する権利」が当然あると思うのだが、みなさんはどう思いますか?


*20世紀の歴史を振り返れば、共産主義国、社会主義国では、一党独裁が生まれやすかった。彼らの「民主主義」「人民ナントカ」というのは、「何が民主主義で何が人民ナントカであるかという中身」はもう決まっていて政府がそれを具体化するだけなのであって、「何が民主主義で何が人民ナントカであるかを決める権利」自体は国民に渡さないのである。日本でも、憲法改正に執拗に反対するのは、左翼に多いように思うが、このことと無関係ではないかもしれない。 


 

 

どこからが格差社会?

2007年04月06日 23時43分32秒 | 公民
「格差社会」がはやり言葉である。
 ややひねくれた言い方をすれば、歴史上、格差社会でなかった社会はない。中学生の歴史教科書によれば、少なくとも、弥生時代には「貧富の差」が生まれ、以来、社会は何らかの格差社会だった。
 あたりまえのことだが、「格差のある社会」と、「格差のない社会」という、2つの社会があるわけではない。0か100かではないのである。格差というのは、程度の問題であって、つきつめれば、富裕層と最貧層の間に、どの程度、格差があるかということだ。

 さて、では、たとえば20年前なり10年前なり、あるいは高度成長期が格差社会ではなくて、現在が格差社会であるという証拠は?具体的な数値を挙げて答えよ。
 
 と、言われると、きちっと説明できない人がほとんどではないだろうか。国会では、ジニ係数というのが取り上げられたが、ジニ係数は格差の一面をはかれはするが、すべてを映す鏡ではない。

 といっても、僕は、現在の日本は「格差社会」だと感じる。ただ、具体的な数値も言えずに、ただマスコミの言うままに「格差」というのはどうかと思う。数値が言えずに感覚で述べているなら、それはレッテルかもしれない。
 
 同じような例に、ベースアップというのがある。

 高度経済成長期には、ケインズ政策の全盛期だったから、西側諸国は賃金も上げる=インフレも起こす、という政策をとった。現在は、ややマネタリストの政策に転換され、インフレを抑制=賃金も横ばい、が先進国の趨勢である。

 さて、我々の職場には、「昔はどんどん昇給したものだが、今はぜんぜんだな、不景気だからな」なんていう人がいる。こうゆう人に限って、ケインズとマネタリストの何が違うかがわからない。
 これだと、ケインズ政策期にはインフレに文句をいい、マネタリスト政策期には賃金の上昇率の低さに文句を言う人間が生まれる。こうなると、いちゃもんの類である。

 子どもに、経済や政治を教えることは、知的なものの見方をする大人になってもらうために、とっても大切だなあと感じる。雑感である。

   

 
 
  

年金は帰ってこない?福祉国家と国民負担

2005年01月20日 17時08分21秒 | 公民
 19世紀の国家は、軍事と警察、その他わずかの分野をになう「夜警国家」だった。しかし20世紀になると、19世紀後半からの社会主義運動の高まりを背景に、あらゆる分野を国が管理する「福祉国家」が登場する。「ゆりかごから墓場まで」という言葉は、福祉国家のあり方を見事に言い当てている。
 歴史において、安心して暮らせる社会がつくられるために、福祉国家が果たした役割は大きい。
 しかし、教科書はいささか福祉国家を肯定的にとらえすぎている。というのは、社会権の確立、広範な社会保障、義務教育の提供、労働組合の活動、環境問題への取り組みなど、福祉国家の利点ばかりが並べられる反面、そのマイナス面への記述が弱いと感じる。
 そのマイナスとは、簡潔に言えば「高い税」である。
「義務教育は無償である」という条文を真に受けている人はいない。これは理念の話で、実際の収支を考えれば、「義務教育の費用は、国民の税金でまかなう」という表現が正しい。実はこのような例はいくらでもある。
「年金はいずれ自分に返ってくる」と思っている人は多いが、これも理念の話で、実際の収支を考えれば「払った年金は帰ってこない」が正しい。年金とは、現在の「生産年齢人口」が現在の「老年人口」を養うものであって、未来の「老年人口」の分は「未来の生産年齢人口」がやしなうのだ。ところが、国民が「年金は貯蓄と同じだ」と考えているとしたら、それは誤りだ。「年金は未来まできちんと計画どおり機能すれば、確かに貯蓄のようなはたらきをするが、高齢化や少子化の進行によってはそうはならないかもしれない」というのが正しい。でも、年金は返ってくる、と信じている国民は多い。
 福祉国家とは、国民に負担を強いることで、高い社会保障を維持するものだ。しかし、「負担を強いている」部分は、巧妙にごまかされている場合が多い。国民にわかりやすい国家とは正反対だ。なぜなら、福祉国家の収支を国民にわかるようにしてしまったら、福祉国家をばら色のイメージで見る人はいなくなるだろう。福祉国家とは、国民をだますことで成り立っているのではないか、という疑問を抱かせずにはおかない。

 最後に、僕ら教員の組合が行う、賃上げ要求について一言。
 あれは、「自分たちの給料をうわのせするためにさらなる負担を国民(地域住民)に求めている」のであるが、残念ながらそれが見えている人は少ない。あれを労使交渉だと呼んではばからない人には、労使どちらのテーブルについているのも同じ公務員だという事実をわすれがちだ。組合と県の交渉という形をとりながら、実は公務員同士が話しているのであって、そうしてそこに「馴れ合い」「もたれあい」が生まれないことがあるだろうか。こっちも向こうも同じ「国民」から「合法的に」給料をいただいて生きている公務員なんだから。
 福祉国家の是非を決めるのは有権者だが、最低限、その実態がきちんと見えるような目を、有権者ひとりひとりがもたないといけない。
 

「子どもを育てたいけど仕事もしたい」社会から「子どもを育てたいから仕事もしたい」社会へ

2005年01月13日 21時08分45秒 | 公民
 良いことをどんどんすすめると、からなずそれによくないことがついてくる。高度経済成長を続けた日本で公害が深刻化したのがその例だ。
 いくつかあるであろう21世紀の日本の課題のうち、ひとつはまちがいなく少子化でだ。これは、20世紀の女性の社会進出がもたらした、よくないことのひとつだ。
 僕は、20世紀の豊かな社会が出現した原動力は、女性の社会進出にあると思っている。女性の社会進出は、国民生活の発展向上の原動力であった。そのしくみの説明は別の機会にするが、20世紀に豊かな生活を実現した社会はどれも女性の社会進出をすすめた社会であったことは、確かな事実だ。そしてそれはこれからも変わらないし、女性には男性と同じ条件で働く環境が整備されていくべきだ。
 しかし、女性の社会進出という「よいこと」には、出生率の低下という「よくないこと」がついてくる。出生率の低下は、社会にとって致命的である。にもかかわらず、日本やNIESの国々は、少子化への対策を怠ってきた。これは、経済発展をすすめながら公害対策を怠るのと似ている。
 具体的には、女性が社会に進出することが、晩婚化、独身の増加、子どもを生まないという価値観、にむすびつかないような施策が、国に求められるということだ。男女が協力して子どもを生み、育てていける環境を、ととのえていかなければならない。
 現在の日本のしくみでは、働く女性は結婚、出産がしにくい。女性にとって、社会進出と結婚・出産が反比例するようになっている。これではいけないのであって、男性にとっても女性にとっても、ともに、社会進出と結婚・出産が比例するような社会のしくみをつくる必要がある。
「子どもも育てたいけど、仕事もしたい」という社会ではだめだ。
「子どもを育てたいから、仕事もしたい」という社会でなければならない。
 欧米の国々では、女性の社会進出と少子化対策が両立している場合が多い。日本の合計特殊出生率1.29(2003年)に対し、アメリカは2.01(2002年)、フランスは1.90(2001年)である。
 21世紀の日本は、是が非でもこれを両立しなければ、高齢社会となり、年金も、税制も、何もかもが持ちこたえられない。
 少子化対策には男女が同じように取り組む必要がある。また、国家の適切な施策が不可欠である。
 具体的には、
・小学校就学前の子どもを無償で預かる施設(保育園、幼稚園に変わる統一した何らかの施設)を制度化する。
・子どもの人数に応じて税制上の優遇措置をとる。
・高等学校教育の無償化。
 などがあると思う。

 まあ、僕自身はまだ独身なので、あまりでかいことは言えない(笑)。