小沢代表の辞職が話題となっている。
小沢一郎という人は、信念の人、原理原則の人、と言われるが、僕は、彼の行動が、政党政治という概念に疑問を投げかける、先進的なものだという評価をしている。
政党政治では、いわゆる党議拘束にしたがうことがもとめられる。議員は、自身の個の意見よりも、党としての集団の意見にしたがうことをもとめられる。これは、日本に適したシステムではあるが、大きな欠点を持っている。それは、われわれ有権者が、政策を個々にではなく、パッケージとして選ばされるという欠点である。A党に投票することは、A党のマニフェスト全部に賛成したことになるのだが、全部に賛成している有権者などいるはずがかい。政党政治は、意見の多様性を四捨五入して消してしまう。
小沢一郎は、これとは異なるスタイルを持つ。政策を定め、指示するならついて来い、というメッセージを、同僚議員にも、有権者にも発する。小沢にとって、目的は政策の実現であり、政党政治はその手段でしかない。
二大政党制の実現を、というとき、民主党の多くの議員あるいは支持者が、二大政党制の実現を目的と見ているが、小沢にとってそれは手段なのであり、彼の目的はあくまで政策の実現にあるのだ。この最終目的のちがいが、そのためには連立もありという小沢の判断と、連立なんてとんでもないという周囲の判断の差となってあらわれている。このことを、おそらく小沢は知っている。だからやめたくなったのだと僕は思う。
政党政治にくらべて、小沢のもとめる政策の政治は、非常にレベルの高いものである。有権者には、個々の政策を熟知して選択できる知的レベルと、政治信条の自律が求められる。
25世紀くらいになればあるいは可能だろろうか。でも、今回の報道や周囲の反応を見ていると、現代の日本社会は小沢の先進性を受容するレベルにない。
残念なことではある。
小沢一郎という人は、信念の人、原理原則の人、と言われるが、僕は、彼の行動が、政党政治という概念に疑問を投げかける、先進的なものだという評価をしている。
政党政治では、いわゆる党議拘束にしたがうことがもとめられる。議員は、自身の個の意見よりも、党としての集団の意見にしたがうことをもとめられる。これは、日本に適したシステムではあるが、大きな欠点を持っている。それは、われわれ有権者が、政策を個々にではなく、パッケージとして選ばされるという欠点である。A党に投票することは、A党のマニフェスト全部に賛成したことになるのだが、全部に賛成している有権者などいるはずがかい。政党政治は、意見の多様性を四捨五入して消してしまう。
小沢一郎は、これとは異なるスタイルを持つ。政策を定め、指示するならついて来い、というメッセージを、同僚議員にも、有権者にも発する。小沢にとって、目的は政策の実現であり、政党政治はその手段でしかない。
二大政党制の実現を、というとき、民主党の多くの議員あるいは支持者が、二大政党制の実現を目的と見ているが、小沢にとってそれは手段なのであり、彼の目的はあくまで政策の実現にあるのだ。この最終目的のちがいが、そのためには連立もありという小沢の判断と、連立なんてとんでもないという周囲の判断の差となってあらわれている。このことを、おそらく小沢は知っている。だからやめたくなったのだと僕は思う。
政党政治にくらべて、小沢のもとめる政策の政治は、非常にレベルの高いものである。有権者には、個々の政策を熟知して選択できる知的レベルと、政治信条の自律が求められる。
25世紀くらいになればあるいは可能だろろうか。でも、今回の報道や周囲の反応を見ていると、現代の日本社会は小沢の先進性を受容するレベルにない。
残念なことではある。