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スグルの歴史発見

社会科教員をやっているスグルの歴史エッセイ。おもに中学生から高校生向きの内容ですが、大人でも楽しめると思います。

政党政治と小沢一郎

2007年11月05日 22時23分52秒 | 公民
 小沢代表の辞職が話題となっている。

 小沢一郎という人は、信念の人、原理原則の人、と言われるが、僕は、彼の行動が、政党政治という概念に疑問を投げかける、先進的なものだという評価をしている。

 政党政治では、いわゆる党議拘束にしたがうことがもとめられる。議員は、自身の個の意見よりも、党としての集団の意見にしたがうことをもとめられる。これは、日本に適したシステムではあるが、大きな欠点を持っている。それは、われわれ有権者が、政策を個々にではなく、パッケージとして選ばされるという欠点である。A党に投票することは、A党のマニフェスト全部に賛成したことになるのだが、全部に賛成している有権者などいるはずがかい。政党政治は、意見の多様性を四捨五入して消してしまう。
 
 小沢一郎は、これとは異なるスタイルを持つ。政策を定め、指示するならついて来い、というメッセージを、同僚議員にも、有権者にも発する。小沢にとって、目的は政策の実現であり、政党政治はその手段でしかない。

 二大政党制の実現を、というとき、民主党の多くの議員あるいは支持者が、二大政党制の実現を目的と見ているが、小沢にとってそれは手段なのであり、彼の目的はあくまで政策の実現にあるのだ。この最終目的のちがいが、そのためには連立もありという小沢の判断と、連立なんてとんでもないという周囲の判断の差となってあらわれている。このことを、おそらく小沢は知っている。だからやめたくなったのだと僕は思う。

 政党政治にくらべて、小沢のもとめる政策の政治は、非常にレベルの高いものである。有権者には、個々の政策を熟知して選択できる知的レベルと、政治信条の自律が求められる。

 25世紀くらいになればあるいは可能だろろうか。でも、今回の報道や周囲の反応を見ていると、現代の日本社会は小沢の先進性を受容するレベルにない。

 残念なことではある。

ノート:歴史5 ヤマト王権と鉄 ~古墳時代~

2007年09月07日 19時24分43秒 | 歴史ノート
授業の板書を紹介しています。今回は、古墳時代の授業を紹介します。

1年生歴史5時間目 

板書ここから
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ヤマト王権と鉄 ~古墳時代~

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 ├300前後 前方後円墳がつくられはじめる ・・・埴輪
 │ * 奈良県にヤマト王権が成立
 ├391 倭が新羅、百済をやぶり、高句麗と戦う(広開土王碑より) <B>
 │ * 埼玉県稲荷山古墳→鉄剣 「ワカタケル大王」 <A>
 │ * 熊本県江田船山古墳→鉄刀 「ワカタケル大王」 <A>
 ├478 倭王武が宋に使いを送る(宋書より)  <C>
 │  倭王武 = ワカタケル ?
 ├538 百済から仏教がつたわる。

<A>
Q 埼玉県と熊本県から同じ王の名を書いた武器がでてきたことから、何がわかるか?
A 同じ王(ヤマト王権のワカタケル)が九州から関東までを統一していた

<B>
Q 倭(ヤマト王権)が朝鮮半島に進出した目的は?
A 鉄などの資源やすすんだ技術を手に入れるため

<C>
Q 倭(ヤマト王権)が中国(宋)に使いを出した目的は?
A 中国の皇帝の力をかりて(官位をもらって)、朝鮮半島諸国に対して優位に立つため

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板書ここまで

*もっと詳しく学習しよう!

 古墳時代は、前期、中期、後期の3つにわけられる。
 じつは、同じ古墳時代でも、3つにわけるとぜんぜん違っていたことがわかる。
 
 まず、だいたい4世紀が前期。副葬品を見ると、祭器が多く、古墳の埋葬者つまり王は、司祭のような人物だったことがわかる。埴輪は、たんなる円筒形だ。

 5世紀=中期になると、古墳は大型化し、副葬品は、武具や馬具が多くなる。埋葬者は、武士のような人物だったことがわかる。埴輪も、みんなのよく知っている馬や兵士の形をした形象埴輪が増える。これは、倭が朝鮮半島に進出し、中国に使いを送った時期と一致する。

 6世紀になり、後期になると、古墳は小型化し、群集墳などが登場する。仏教が伝来し、豪族や大王は、古墳よりも寺院にお金をかけるようになる。このころは、朝鮮半島に進出することもなくなり、蘇我氏物部氏が活躍し、やがて聖徳太子の時代へと向かう。

 このように、前期、中期、後期では、ヤマト王権や古墳の性格がぜんぜんちがうため、「王朝が交代した」という説や「騎馬民族が日本を征服した」という説もあるくらいなんだ。
 
 

ノート:歴史7 唐にならった国づくり ~飛鳥時代から奈良時代へ~

2007年09月06日 21時04分45秒 | 歴史ノート
授業の板書を紹介しています。

1年生歴史7時間目 

板書ここから
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唐にならった国づくり ~飛鳥から奈良時代~

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 ├672 壬申の乱 大海人皇子がかち、天武天皇となる ・・・<A>
 ├701 大宝律令ができる・・・<B> 
 │   →中央に二官八省、地方に国郡里、九州に大宰府
 ├708 和同開珎をつくる
 ├710 平城京(奈良)にみやこをうつす・・・<C>
 ├712 古事記をつくられる
 ├715 国ごとに風土記をつくらせる
 ├720 日本書紀がつくられる
 ├743 東大寺に大仏をつくらせる・・・<D>
 ├743 国ごとに国分寺・国分尼寺をつくらせる・・・<D>

<A>
天智天皇の子(大友皇子)をやぶった。この頃、大王→天皇

<B>
唐の律令がモデル。律は刑罰のきまり、令は政治のしくみ

<C>
唐の長安がモデル。

<D>
Q 聖武天皇が、このようにたくさんの寺院を建てたのはなぜか?
A ききんが続き、仏教の力をかりて、国を守ろうと考えたから

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板書ここまで

*もっと詳しく学習しよう!

 現在の新潟県にあたる地方には、越後国と佐渡国が置かれた。
 越後国の範囲は、何度かの変更を経て、現在とほぼ同じになった。そのとき、越後国は6つの郡、佐渡国は3つの郡から成り立っていた。

 越後国
  頚城郡
  刈羽郡
  古志郡
  蒲原郡
  沼垂郡
  岩船郡

 佐渡国
  雑太郡  
  加茂郡
  羽茂郡

 1300年も前のことなのに、地名が今とあまり変わっていないのには、驚きだね。
  
 

給油は戦争だ。・・・後方支援は戦争だ、その2

2007年08月27日 22時55分20秒 | 公民
 参議院議員選挙の結果を受けて、テロ対策特別措置法の延長について、いろいろ取りざたされている。延長か、打ち切りか。

 さて、この議論は、論点が巧妙にずらされていると感じる。(日本の場合、年金でも何でもそうだが・・・)。国民が気づかないのをいいことに、実際の論点とは違うところで議論がすすむのだ。

 はっきり言って、後方支援は戦争の一部である。海上自衛隊の給油活動も、立派な戦争である。(補給が戦争でない、と考えているようなら、太平洋戦争の戦史の概略を学ぶべし、あるいはライトノベルが好きなら銀河英雄伝説でも読むべし)
 
 給油活動をしていいかどうかは、したがって、戦争をしていいか、悪いかという議論でなければならないのだ。

 ところが日本人は、日中戦争や太平洋戦争の苦しみはすっかり忘れて、補給なら戦争ではない!と考えている。そもそも、中学レベルの学習でもわかることだが、援蒋ルートからの補給が戦争ではないなら、日本軍がインドシナに進出する必要などなかったではないか。補給を経つために、インドシナに兵をすすめざるをえなかったことを思い起こせば、現在、自衛隊が行っている補給活動が立派な戦争の一部であることはわかりそうなものだ。

 僕は、自衛隊が補給活動を行うことに、賛成とも、反対とも言わない。ただし、補給は立派な戦争なので、現憲法のもとでは補給は絶対許されない。補給をするなら憲法を改正し「戦争放棄は原則だが、例外として国際部隊への補給だけは行える」とはっきり書くべきだ。 

 そうゆう根本的な議論を置き去りにして、うわべの議論をして済ませるのはやめていただきたい。


衆愚政治

2007年06月29日 19時46分37秒 | 公民
 参議院選挙が近づいている。年金問題や、住民税の増税問題が話題をあつめているが、歴史を教えている人間からすると、どうも、根本的な認識がおかしいようなきがしてならない。
 二大政党制というなら、選択肢は、基本的に次の2つしかないのである。

 A)増税して、その分で、福祉や教育、食の安全、などを充実させる。
   =負担を増やして、給付を増やす。
 B) 減税して、その分、福祉や教育、食の安全などを効率化つまり削減する。
   =負担を減らして、給付を減らす。

 したがって片方の党がAを、片方の党がBを主張し、有権者が選ぶ、これならば、民主主義としてすっきりする。
 ところが、日本の政党は見みな、負担を減らして、給付を増やすことを主張する。長期的にはそんなことがまかりとおおるわけはないのだが、もっとまずいのは、有権者が、負担を減らして給付を増やすように求めているという実態である。
 
 給付を増やしてほしい、年金、教育、食、さまざまな分野に信頼を求めたい、という声には賛成だ。だがそれには、負担が伴うのだ。

 負担を減らしてほしい、増税は困る、減税を続けてほしい、という声には大賛成だ。だがそれには、給付の効率化=削減が必要だ。

 負担を減らして、給付を増やすことは可能だ。ただし、将来の世代に、つけを残せば、である。もっとも、平均年来の高い立法府や行政府が、まだ参政権もない世代につけをまわして給付を確保するのが民主政治だというなら、あまりにも身勝手で自己中心的な話である。そうなっては、衆愚政治のはじまりだ。

 衆愚政治にならないためには、懸命な有権者が必要だ。この点について、われわれ社会科教員の責任は決して軽くない。 

憲法改正に関する国民投票法案に反対?

2007年04月10日 20時31分19秒 | 公民
 憲法改正に関する国民投票法案というのが審議されているが、この法律がどうゆう中身になるかを論じるならまだしも、この法律そのものに反対という意見がある。これはおかしな議論だ。

>第九十六条
>この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
 
 このように、憲法96条では、国会が発議した憲法の改正を承認するかどうか、投票してきめる権利を国民に与えている。
 ところが、これまで、この投票を行うための手続きを定めた法律がなかった。これでは、この96条は空文になってしまう。あるいは、手続きを定めた方がないということは、国民が持っているはずの「憲法改正の発議を承認するか否かについての投票権」を行使できないということだから、これ自体が憲法違反にあたる可能性だってある。
 
 ここで僕は、憲法の中身をどうすべきだと言っているのではない。
 憲法を改正するかしないかを、投票して決めるための手続きのことを言っている。
 そもそも、この投票自体が認められないとしたら、それはもう民主主義ではない。

 憲法改正の話になると出てくるのが9条だ。9条を守れ、という議論で、僕はこれには基本的に賛成だ。

 国民の過半数が9条を守りたいと望んでいれば、憲法改正の投票を行っても、9条は守られるだろう。民主国家なら、投票くらい堂々と行うべきだろう。

 ところで、僕は大学で共和制ローマ史を専攻した。ローマ法のすぐれている点のひとつは、数百年にわたって、必要な法律をつけたし、改正することで、何世紀もの英知を集めて、たえず更新されてきた点にある。

 日本国憲法は、戦後、今から60年も前に、当時の国民が選んだ代表者からなる帝国議会で、制定されたものである。
 その一度きりしか、自分たちの憲法の内容に手を加える権利がないのは、あまりにも馬鹿げてはいないだろうか。僕らが生まれるよりも、もっともっと前の連中が決めた憲法に、僕らは指一本触れることができないなら、それは果たして民主主義なのだろうか。

 むしろ、4年に一度なり、一定の時期に、必要な更新をすると定めたほうがよほど民主的だ。

 また、9条の話に戻る。
 憲法9条が、真に日本国民の誇りとするすぐれた内容であるなら、たとえ10回、20回と憲法改正の投票を経ても、9条が変わることはないだろう。僕自身は、少なくとも9条が今の内容よりも国民の負担を増すような内容に書き換えられるなら、その改正の承認の投票では、反対票を入れるつもりだ。

 ただし、これは、国民の投票で決めなければならない。必要なら、毎年でも、「憲法更新の投票」というのがあってもいい。60年も指一本触れられない憲法より、そのときそのときの世代の投票で、内容を更新できる憲法の方が、よほど民主的だ。

 私見を述べれば、民主的な憲法というのは、民主的な内容の憲法のことを言うのではなくて、民主的な手続きの保証された憲法のことを言うのだ。いくら民主的な憲法ですと言われても、60年間たっても、一文字も更新できないなんて、それが民主的な憲法だとは、とうてい思えない。


 憲法改正に反対するのは結構だ。でも、憲法改正に関する国民投票法案に反対するのは、民主主義としていかがなものかと思う。ちがった言い方をすると、国民には、「憲法を更新する権利」が当然あると思うのだが、みなさんはどう思いますか?


*20世紀の歴史を振り返れば、共産主義国、社会主義国では、一党独裁が生まれやすかった。彼らの「民主主義」「人民ナントカ」というのは、「何が民主主義で何が人民ナントカであるかという中身」はもう決まっていて政府がそれを具体化するだけなのであって、「何が民主主義で何が人民ナントカであるかを決める権利」自体は国民に渡さないのである。日本でも、憲法改正に執拗に反対するのは、左翼に多いように思うが、このことと無関係ではないかもしれない。 


 

 

どこからが格差社会?

2007年04月06日 23時43分32秒 | 公民
「格差社会」がはやり言葉である。
 ややひねくれた言い方をすれば、歴史上、格差社会でなかった社会はない。中学生の歴史教科書によれば、少なくとも、弥生時代には「貧富の差」が生まれ、以来、社会は何らかの格差社会だった。
 あたりまえのことだが、「格差のある社会」と、「格差のない社会」という、2つの社会があるわけではない。0か100かではないのである。格差というのは、程度の問題であって、つきつめれば、富裕層と最貧層の間に、どの程度、格差があるかということだ。

 さて、では、たとえば20年前なり10年前なり、あるいは高度成長期が格差社会ではなくて、現在が格差社会であるという証拠は?具体的な数値を挙げて答えよ。
 
 と、言われると、きちっと説明できない人がほとんどではないだろうか。国会では、ジニ係数というのが取り上げられたが、ジニ係数は格差の一面をはかれはするが、すべてを映す鏡ではない。

 といっても、僕は、現在の日本は「格差社会」だと感じる。ただ、具体的な数値も言えずに、ただマスコミの言うままに「格差」というのはどうかと思う。数値が言えずに感覚で述べているなら、それはレッテルかもしれない。
 
 同じような例に、ベースアップというのがある。

 高度経済成長期には、ケインズ政策の全盛期だったから、西側諸国は賃金も上げる=インフレも起こす、という政策をとった。現在は、ややマネタリストの政策に転換され、インフレを抑制=賃金も横ばい、が先進国の趨勢である。

 さて、我々の職場には、「昔はどんどん昇給したものだが、今はぜんぜんだな、不景気だからな」なんていう人がいる。こうゆう人に限って、ケインズとマネタリストの何が違うかがわからない。
 これだと、ケインズ政策期にはインフレに文句をいい、マネタリスト政策期には賃金の上昇率の低さに文句を言う人間が生まれる。こうなると、いちゃもんの類である。

 子どもに、経済や政治を教えることは、知的なものの見方をする大人になってもらうために、とっても大切だなあと感じる。雑感である。

   

 
 
  

後方支援は戦争ではない?

2007年04月05日 23時58分53秒 | 日本史
 日本人は、後方支援は戦争にはあたらないと考えている。国会でも、自民党と民主党は自衛隊の海外派兵について激論は交わすものの、この点だけは一致していたように思われる。後方支援なら、戦争ではない、という前提である。

 さて、ちょっと考えればわかることだが、これは嘘である。

 戦争というのは、戦場で激突する会戦だけを言うのではない。孫子の兵法にも出ていることだが、古くから、相手の補給部隊を攻撃し物資を経つことは、立派な作戦であり、もちろん戦争の一部である。補給部隊を攻撃してはいけないなどというルールはない。後方支援というのは、前線と同じように相手の攻撃対象になる。
 イラクやアフガンでそうならなかったのは、アメリカに対して相手が弱小すぎたからだ。軍事力が互角の戦争なら、後方支援は安全であるはずがない。また、自分が敵側なら、当然、相手の補給路を経つことを狙うだろうから、後方支援の自衛隊は作戦目標になる。繰り返すが、そうならなかったのは、たまたまイラクやアフガンが弱小だったからである。
 
 後方支援は、歴史上、どこから見ても、立派な戦争である。
 
>第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
>2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 さて、日本は岐路に立っている。

 アフガンやイラクでやってきたことが正しいなら、憲法はもう破綻している。
 憲法が正しいなら、アフガンやイラクでやったことは憲法違反だ。

 後方支援が戦争ではないという前提の上に、両者は矛盾しないと説明されているのだが、その前提が間違っている。

 後方支援は戦争である。日本人は太平洋戦争の印象があまりにきつかったせいで、戦争といえば玉砕とか、大空襲とか、原子爆弾とか、とかくでかい連想をしがちである。これはこれで大切なことなのだが、だからといって、それらにくらべたら派手さのない補給や後方支援を、戦争ではないと考えているとしたら、考え違いだ。後方支援は立派な戦争の一局面、一手段である。

 つまり、日本は戦争を、やってしまったのだ・・・。

 思えば日本は1937年に盧溝橋事件で日中戦争の戦端を開いてから4年もの間、これは戦争ではない、支那事変という「事変」だ、と言って、戦争していることを認めなかった。
 今回も、後方支援だから戦争ではないという。
 
 どうも、このあたりの日本の悪癖は、60年前と変わっていない。戦争なら戦争だと、国民にはっきり言えばいいのに、今も昔も、詞じりでごまかすのが、日本流であるようだ。

*国際法では、民間船であっても、敵国の軍事物資を輸送している場合には補給部隊とみなされ、攻撃してもよいことになっている。つまり、民間船であっても、戦争の手助けをする活動をしていれば、戦争に参加しているとみなされ、民間船だから・・・という理屈は通らない。
 自衛隊は歩兵も艦船もみな最新兵器で武装しているのだから、まあ誰が見ても、立派な戦争である。

米はどこへ消えた?~江戸のマクロ経済学

2007年04月05日 22時54分01秒 | 中学歴史
 中学の歴史教科書によると、江戸時代には年貢がとても高く「五公五民」であった。つまり、収穫した米の半分を藩や幕府に収めなければならなかったのである。そこで、百姓一揆や打ちこわしが徐々に増えていった、という。
 これははたして簡単に信じられる話だろうか。
 大雑把に言って、江戸時代の人口比は、武士1割、町人1割、百章8割といったところだ。このことは中学校の教科書にも記載されている。これを、何かと便利な100人の村で考えてみよう。
 江戸時代がもし100人の村だったら、武士が10人、町人が10人、百姓が80人である。日本全体で、米の生産量と必要量が1:1であたとすると、五公五民なら、50人分が武士に、残りの50人分が百姓に残される。この時点で百姓は、50人分を80人で食べなければいけないから、一見、貧しく見える。ところが、武士は50人分の米をいったいどうしたのだろうかという疑問が残る。武士だって、米を2倍も3倍も食べないだろうから、40人分は売ってお金にかえるだろう。買い取るのは町人である。ここで、武士10人の手元には、10人分の米と、米40人分で得た貨幣が残る。さて、町人だって、10人だから、40人分も米はいらない。30人分は、仕入れ値に儲けを足して売ることになる。ところが、さて、これを誰が買うのかである。
 最初の教科書の説明は、ここで破綻する。鎖国をしている以上、市場は国内にしかなく、この30人分の米は、国内に買い手を見つけるしかない。今の時点で、武士10人は10人分の米を、町人10人は10人分の米を持っているので、需要があるとすれば80人で50人分の米しか持たない百姓である。ところが百姓には貨幣がない。町人だって、米をただでばらまいたりしないだろうから、結局、百姓は商品作物など米とは別の作物を売って貨幣を獲得し、その貨幣で米を買う、経済全体が成り立つにはこれしかない。こうして、江戸時代には全国に商品作物の栽培が広がり、貨幣経済が発展する。百姓の売った商品作物は、町人に買い取られ、町人はそれを武士に売ったわけだ。
 こうしてみると、百姓の手を離れた米はまた百姓のもとに戻るわけである。
 では江戸時代が進むにつれて、百姓一揆や打ちこわしが増えたのはなぜなのだろうか。
 これは第一に、リスク管理の欠如からであろ。現在の所得税のように、毎年の所得に応じて課税されるのではなく、一定の枠が決まっており、豊作でも不作でも同じ年貢を取られた。現在ならそうゆう場合に備えて収入の多いときに保険や預貯金で備えを増やしておき、万が一の場合に預貯金を取り崩すが、当時は豊作のときにはたくさん食べたり売ったりして蓄えをあまりしなかった。保存した米を不作に備えてとっておくシステムがなかったのである。
 第二に、貧富の差の拡大、現在の言葉で言えば格差社会の到来があっただろう。商品作物の増加は、大人数での稲作作業から少人数での畑作作業への転換をうながし、一人ひとりの差を広げただろう。貨幣経済の拡大は、財産の留保を可能とし、それができないものとできるものとの間に格差を生み出したにちがいない。
 以上のことから、「年貢の重さが一揆の原因である」とは必ずしも言えない。歴史の教育は、これは庶民が善でお上が悪とするマルクス主義史観によって塗り固められているが、これは後世にでっちあげられた見方である場合が少なくない。
 正しくは、貨幣が循環するにつれて富が偏在していくのを野放しにした政策が、富を蓄積しえた者と、富の蓄積から取り残されたものとの差を生み出し、異常気象などをきかけに後者が百姓一揆や打ちこわしを起こした、ということだろう。
 年貢の重さが問題だったのではなく、貨幣経済のしくみづくりのが問題だったといえる。

貨幣がないと困るのは誰?貨幣経済発達のナゾ

2007年04月02日 23時00分23秒 | 中学歴史
 歴史教科書では、律令制をととのえたあとの奈良時代に、貨幣経済が発達したが、貨幣が流通したのは都の周辺など限定された地域だったとある。
 また、江戸時代には、農村に貨幣経済が浸透したとある。
 奈良時代や江戸時代に、このような貨幣経済の発達が見られた原因について、教科書は、生産力の拡大などを挙げるにとどまる。
 
 生産力が拡大したならば、人々は貨幣などなくても生きていけるじゃないか、と僕は思う。したがって、これに関する教科書の説明はいかにも「教科書的」(←そりゃ教科書だもの)で、どうも怪しいのである。
 
 さて、ここで単純なマクロ経済学を考えてみよう。奈良時代の律令の時代と江戸時代の幕藩体制の時代は、ともに税の重かった時代である。奈良時代には、租庸調つまり稲、特産品、布などを、江戸時代には米を、とにかくかなりの税率でしぼりとったのである。さて、そんなにとってどうするんだろう・・・?と素朴に問うてみよう。

 江戸時代の年貢は「5公5民」であるという。つまり、収穫した米の半分は武士に収めるのだ。ところが、武士は人口の1割に満たない。どうみたって、全部自分たちで食えるとは思えない。これはたとえてみれば、クラスの生徒10人の給食を、不良のボス1人が5人分とってしまったようなものである。どうやったって毎日1人で5人分は食えない。かえすしかない。とすると、大名も百姓に米を返さねばならないことになるが、しかし、大名が百姓に米を返すわけがない。
 そこで、「貨幣」の登場である。余った米は売るしかないのだ。そこで、「5公5民」でしぼりとった米で自分たちが豊かになるには、どうしても貨幣流通がなければならないことになる。
 
 同じようなことが律令の時代にも言えそうだ。

 貨幣がないと困るのは、税や年貢を搾り取った支配者層の方なのである。そう考えると、なるほど奈良時代や江戸時代に貨幣が流通したのは、きわめて自然なことだ。

冷たい戦争~アメリカとソ連はなぜ犬猿の仲なのか?

2007年04月02日 22時42分29秒 | 中学歴史
 冷たい戦争、は中学校の歴史で必ず覚える語句です。
 アメリカを中心とした資本主義陣営と、ソ連を中心とした社会主義陣営が、ボス同士は実際には戦火を交えずに対立した、これが授業での一般的な説明です。ところが、このアメリカの資本主義と、ソ連の社会主義が、なぜ対立の原因なのかを、きちんと理解している生徒は少ないように思います。

 僕は、この対立の根本原因を理解させるときに、この2つの超大国が誕生するにあたって、どのような勢力を打倒したかを問いかけます。ところが、多くの生徒は、こう答えるんですね。

 アメリカはイギリスから独立した、ソ連はロシア帝国を倒して成立した。

 これでは、冷たい戦争が理解できるわけはありません。ロシア革命の理解が間違っています。教科書にはちゃんと書いてあり、教えているはずなんですが・・・。
 正解は、

 アメリカはイギリス王国の植民地から独立した
 ソ連は、ロシア帝国を打倒した資本家層の政権を打倒して成立した

 まず、古くからの土地を財産とする皇帝や王や貴族の既得権が打破されて、新たな財産である資本を持つ資本家層が政権をとります。これが、アメリカ独立戦争やロシアの三月革命です。ところが、アメリカはそのまま資本家層の政権のまま今日まで至るのに対して、ソ連はその後1年足らずで労働者層が資本家層の政権を打倒してしまいます。
 つまり、新たな財産である資本を持つ資本家層が、旧来の財産である土地を持つ王侯貴族を打倒するまでは同じだったのに、ソ連ではその次の革命が起きているんですね。中国でも、孫文の辛亥革命のあと資本家層政権の中華民国だできますが、のちに毛沢東の労働者政権に打倒されています。

 冷たい戦争というのは、労働者革命が起きなかったゆえに政権が資本家層のもとにある国々=資本主義国と、労働者革命によって政権が労働者層のもとに移った国々=社会主義国の対立、ということになります。
 そうすると、一国でも社会主義国にさせたくない資本主義のボス=アメリカと、一国でも社会主義に引き込みたい社会主義のボス=ソ連の対立の原点がはっきりしてきます。

 ここで問題なのは、資本主義国では、財産も資本家が独占していて、格差など問題は多いんだけれども、とりあえず「政権を選べ!」とはいうんですね。アメリカや韓国のように共産党を締め出している国と、日本やEU諸国のように認めている国とがありますが、とにかく「国民が選べ」と。
 これに対して、社会主義国では、資本家層の復活を阻止するために、一党独裁がとられます。

 どちらがより正しかったか・・・正しかったというのは語弊がありますね、僕も好きじゃない言葉なので言い換えます、どちらがより一般の人々の生活を豊かにするしくみを内包した制度だったか、は、20世紀の歴史が証明したと思います。

 このあたりをきちんと教えられないのは、教育現場に、マスクス史観から抜け出せないふるい先生が多いからかもしれませんね。
 

あのムネオ議員が・・・、のつづき

2007年04月02日 21時58分53秒 | 歴史一般
 近々、300(スリーハンドレッド)という映画が公開されるようだ。あれの舞台となっている、ギリシャとアケメネス朝ペルシャとの戦いのことを、世界史ではペルシア戦争という。しかし、これはギリシャ史からの呼び名である。ペルシャがこの戦争をペルシャ戦争と言う訳がない。

 元は、日本を攻めたことを元寇とは言わない。日本も、秀吉が朝鮮を攻めたことを倭乱とはいわない。

 前置きが長くなったが、いろいろ調べてみたところ、太平洋戦争というのは、アメリカを筆頭とする連合国が、中華民国を助けて大日本帝国と戦った戦争の、アメリカから見た呼び名らしい。だから、ウィキペディアでは、太平洋戦争が1937年の盧溝橋事件からはじまるのだ。

 ところが、これがどうも日本側の理解とは合致しない。日本人は、中華民国との戦争は日中戦争であって、アメリカとの戦争が太平洋戦争である、と考えているだろう。

 過去の世界史の例から言って、戦争の呼称には、1)一般的に国際的に通用する名称と、2)各国がそれぞれの立場から命名する名称、の2つが認められていると言っていい。日本も、自国が関わった戦争に、自国の立場から名称を付しても良いわけである。歴史における命名権(ネーミングライツ)のようなものか。

 となると、日米で定義の一致しない太平洋戦争、あるいは政府が公式見解だとする大東亜戦争、それとも第三の名称が与えられるべきか、世紀も変わったし、英語での呼び名はともかく、日本人としてはどう理解すべきか、ちょっと考えてみる時期に来ているようにも思う。

 まあ、文学的には、「あの戦争」というのもいいかもしれない。


あのムネオ議員が歴史を問う、大東亜戦争と太平洋戦争は同一の戦争か?

2007年04月01日 02時25分02秒 | 歴史一般
 ムネオハウスといえば、生徒の間でもよく知られている。あのムネオハウスの鈴木宗男議員が、最近、面白い質問を行った。これである。
 
>大東亜戦争の定義等に関する質問主意書
>一 大東亜戦争の定義如何。
>二 太平洋戦争の定義如何。
>三 大東亜戦争と太平洋戦争は同一の戦争か。
>右質問する。
(平成十九年一月二十六日提出質問第六号 提出者は鈴木宗男議員)

 僕の理解では、

大東亜戦争 = 日中戦争(支那事変) + 太平洋戦争
第二次世界大戦(広義) = 太平洋戦争 + 第二次世界大戦(欧州)

 であった。で、この大東亜戦争という呼称は、何らかの理由で、戦後はもちいないことになり、日中戦争、太平洋戦争とわけて呼ぶことになった。

 と、このように生徒にも教えてきた。・・・ところが、僕は間違っていたらしい。
 鈴木議員の質問に対して、安倍総理が次のように答弁している。

>衆議院議員鈴木宗男君提出大東亜戦争の定義等に関する質問に対する答弁書
>一について 昭和十六年十二月十二日当時、閣議決定において「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされている。
>二について 「太平洋戦争」という用語は、政府として定義して用いている用語ではない。
>三について 「太平洋戦争」という用語は政府として定義して用いている用語でもなく、お尋ねについてお答えすることは困難である。
(平成十九年二月六日に安倍晋三内閣総理大臣から河野洋平衆議院議長に提出された答弁書より)

 太平洋戦争は、政府の公式の呼称ではなかったのか。で、ついでにウィキペディアを調べたら、さらに衝撃の事実が。
 英語版のウィキペディアには、「太平洋戦争は1937年7月7日にはじまった」と書かれていたのである!
 1937年7月7日は、盧溝橋事件のあった日で、日中戦争(支那事変)の開始日である。太平洋戦争って、1941年の真珠湾攻撃からじゃないの???
 
 安倍総理の答弁によると、大東亜戦争は支那事変も含むのだから、大東亜戦争は1937年にはじまったことになる。するとやはり、大東亜戦争=太平洋戦争なのだろうか。でも、それだと日中戦争は太平洋戦争に含まれることになり、教科書に書かれている、真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまるという理解と矛盾する。

 教科書では、

 日中戦争 1937年から
 第二次世界大戦 1939年から
 太平洋戦争 1941年から

 で、
 
 大東亜戦争 = 日中戦争(支那事変) + 太平洋戦争
 第二次世界大戦(広義) = 太平洋戦争 + 第二次世界大戦(欧州)
 
 のはずである。生徒もそのように暗記している。

 でも、政府の答弁やウィキペディアの記事を見ていたら、この理解は正しくないことがわかってきた。
 どう教えたらいいんだ???これはうかつなことは書けないので、ちょっと調べて、意見をまとめてみよう。ということで、続く・・・。

教科書は何を載せるべきか? 沖縄戦の「集団自決」削除の問題から

2007年04月01日 01時51分45秒 | 教育問題
 沖縄戦の「集団自決」について、日本軍が強制したとの記述に、修正を求める検定意見が初めて付いたというニュースが話題だ。社会科教師をやっていると、この手の話題は避けて通れない。僕は、この検定意見の考え方には賛成できないが、検定とは別の理由からこの記述を教科書に載せないことには賛成だ。
 検定では、「日本軍による強制または命令は断定できない」との立場で検定意見を付することを決定したようだ。しかし、当時を知る人や体験者の証言からは、むしろ、集団自決の強制なり命令がまったくなかったということはありえないように思う。だから、この検定意見の立場には賛成できない。
 しかし、中学生や高校生が学ぶ歴史の学習に、集団自殺の強制という記事が必要だろうか。それは、たとえば資料集なりに記事としてあるのはいいと思うし、そうした事に関する本を授業で教師が紹介するのもおおいにおすすめしたい。でも、教科書に載せるのは僕は反対だ。
 同じ理由で、従軍慰安婦についてや、南京大虐殺についてもそうだ。これらは、歴史として事実でも、生徒が学ぶ歴史教科書に載せなければならないものなのだろうか。
 もしも、残虐な行為を載せることにしたなら、ある国のある時期のものだけをとりあげれば、その国のその時期だけが残虐な印象を持ってしまうから、そうならないために、古代から、ありとあらゆる残虐行為を順番に列挙しなければならなくなる。この時代に、この国で、こうゆう残虐なことが、この時代には、と順番に載せなければならなくなる。でも、それは、はじめて歴史を学ぶ生徒が、教科書で学ばなければならない内容とは思われない。政治、外交、文化、生活など、もっと別に扱うことがあるはずで、残虐な部分は、それぞれが読書なり、インターネットなりで調べたらいいことだ。
 僕は、歴史として、南京大虐殺や従軍慰安婦や沖縄戦を避けていいと言っているのではない。これらは、日本人が正面から向き合わなければならない問題だ。でも、中学生や高校生に教える歴史で、共通して触れなければならないことだとは思わない。

 

関が原の戦い、家康の狙いは各個撃破??

2007年03月28日 23時56分55秒 | 中学歴史
 関が原を囲んで包囲陣を敷く西軍、それに対して家康はその関が原へ、実は家康と西軍の小早川との間に密約が・・・。
 これは、典型的な関が原の戦いの説明です。
 でも、これはちょっと考えるとヘンです。
 なぜなら、小早川が裏切らなかった場合のリスクがフォローできない。株があがるといわれて全財産をその株につぎ込むようなものです。こんな作戦を、家康が取るとは思えない。

 戦場をおおまかに俯瞰すると(中学校向けの説明です、歴史好きの方、細部には目をつむってください)

●東軍 ○西軍
 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

大阪 ○石田  ●先鋒福島ら    
   ○大谷      ●徳川本体
 ▲     関が原 
 ▲ ○宇喜田
 ▲              ▲▲
 ▲▲▲▲  ○小早川 ▲▲▲▲▲ ○毛利
     ▲
      ▲▲▲
         
 こうゆう布陣なので、徳川勢が関が原に入れば、袋のネズミです。
 それでも家康が関が原に突入したのはなぜなんでしょうか?
 僕だったら、小早川の裏切りに期待して突入するのは、あまりにリスクが大きいです。
 
 近年の発掘で、西軍の陣地構築の跡などから、西軍もまた移動中であったことがわかってきたようです。つまり、これは、我々が図面で見るような「静的な」布陣ではなくて、もっと刻一刻と変わる「動的な」布陣だったのです。徳川方は、夜のうちに関が原に移動していますから、スピードを重視していることが伺えます。

 ということは、これは、西軍の包囲網が完成する前に、先頭の石田勢を突破して、大阪に向かう街道をおさえようという、各個撃破作戦ではないでしょうか。
 つまりこうです。

 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

大阪  石田→  ←先鋒福島ら    
   ↑大谷      ←徳川本体
 ▲     関が原 
 ▲ ↑宇喜田
 ▲              ▲▲
 ▲▲▲▲  ○小早川 ▲▲▲▲▲ 
     ▲(最初から       ←毛利
       ここに野営)
      ▲▲▲


 徳川方は、福島正則を先頭に、石田勢を攻めて突破を図り、家康自身も実際に陣を前に出しています。ところが、期待の福島勢らは大苦戦、家康の思惑に反して長期戦に・・・。というあたりが、真実に近そうです。
 家康としては、情報作戦で小早川を足止めしているうちに、石田勢を突破しようとしていたというあたりが、妥当な評価ではないでしょうか。
 ところが、以外に石田勢は強く、福島らは以外にもろかった・・・。

 福島正則はのちにいいがかりをつけられて改易寸前まで石高をへらされ転封されましたが、このあたりの失敗が尾を引いた??? 
  
 とにかく、家康が小早川に期待したのは、自分が石田軍+αを突破するまでの小早川+毛利勢の足止めであって、家康のねらいは、裏切る裏切らないにかかわらず、一定期間躊躇させて軍事行動を留めておくことであった、と僕は考えます。

 素人意見でごめんなさい。