日本書紀は、初代神武天皇の即位年を紀元前660年とし、7世紀の持統天皇までの歴史を記しているが、歴史の史料としてはどれだけの信憑性があるのだろうか。
紀元前660年というのは、明らかに創作であり、紀元前の部分はまず信用できないと考えられる。しかし、記事によっては、たとえば120年ずらすと朝鮮の史書と年代が一致するなど、まったくの嘘ではなく、もともとは知られていた正しい年代を、何らかの数式で操作して遅らせたことが伺える。そのおかげで我々は日本の古代史について正しい年代を知ることが困難なので、日本書紀の編者は、歴史の記録者としてはとんでもないことをしてくれたことになる。
その日本書紀でも、飛鳥時代にあたる部分はおおむね正しい年代が記載されていることが知られている。それは、古事記や、中国、朝鮮の史書との比較でわかるのだが、逆に言えば、それらが一致しなくなる時点から以前の記録が、操作されているということである。この場合、日本ではじめての史書である日本書紀よりも、司馬遷の頃から史書編纂の実績を重ねてきた中国の記録のほうが、はるかに信憑性が高く、ずれていれば日本側を疑うのが自然だ。
さて、そのように見てみると、年代が正しいのは継体天皇からであることがわかる。
継体天皇は、研究者の間でも、それまでの王朝が断絶して、新たしい王朝を開いた可能性が高いとされている天皇である。それ以後の年代が正しく、それ以前の年代が操作されているというのは、どうも、話ができすぎていると感じる。
たとえば、継体の前の武烈の時代には、中国の史書によると梁の皇帝が倭王武に称号を与えた、とされており、さらに三人前の雄略の時代にも、中国の宋の皇帝が倭王武に称号を与えた記事がある。日本では、雄略から武烈まで5人の大王が交代しているのに、中国の史書では倭王武1人のままである。
さらに、日本書紀は、雄略と武烈を、「大悪」などと書いており、古事記では雄略と武烈の間の3人の大王の没年の記載がないなど、日本書紀の記述は故意に操作されたとしか考えられないものである。
これは、継体の子孫に当たる天皇家を擁護する側の立場から、それ以前の記録を故意に捻じ曲げたものではないだろうか。
倭王武の業績は、五人の天皇に分割され、大悪などと故意に貶められたのではないだろうか。また、中国に朝貢した記録も日本書紀には見られず、日本が中国に臣下の礼をとった前王朝の振る舞いを隠すため、故意に記録を消したのではないだろうか。
日本書紀は、編纂からわずか数十年前の蘇我氏についても、本名ではなく、馬子、入鹿など、とうてい実名とは思えない蔑称で記録している。
歴史を学ぶ我々からすると、実にとんでもない書物であるが、残念ながら、そのとんでもない書物によってしか、それ以前の日本史を再現できない。
紀元前660年というのは、明らかに創作であり、紀元前の部分はまず信用できないと考えられる。しかし、記事によっては、たとえば120年ずらすと朝鮮の史書と年代が一致するなど、まったくの嘘ではなく、もともとは知られていた正しい年代を、何らかの数式で操作して遅らせたことが伺える。そのおかげで我々は日本の古代史について正しい年代を知ることが困難なので、日本書紀の編者は、歴史の記録者としてはとんでもないことをしてくれたことになる。
その日本書紀でも、飛鳥時代にあたる部分はおおむね正しい年代が記載されていることが知られている。それは、古事記や、中国、朝鮮の史書との比較でわかるのだが、逆に言えば、それらが一致しなくなる時点から以前の記録が、操作されているということである。この場合、日本ではじめての史書である日本書紀よりも、司馬遷の頃から史書編纂の実績を重ねてきた中国の記録のほうが、はるかに信憑性が高く、ずれていれば日本側を疑うのが自然だ。
さて、そのように見てみると、年代が正しいのは継体天皇からであることがわかる。
継体天皇は、研究者の間でも、それまでの王朝が断絶して、新たしい王朝を開いた可能性が高いとされている天皇である。それ以後の年代が正しく、それ以前の年代が操作されているというのは、どうも、話ができすぎていると感じる。
たとえば、継体の前の武烈の時代には、中国の史書によると梁の皇帝が倭王武に称号を与えた、とされており、さらに三人前の雄略の時代にも、中国の宋の皇帝が倭王武に称号を与えた記事がある。日本では、雄略から武烈まで5人の大王が交代しているのに、中国の史書では倭王武1人のままである。
さらに、日本書紀は、雄略と武烈を、「大悪」などと書いており、古事記では雄略と武烈の間の3人の大王の没年の記載がないなど、日本書紀の記述は故意に操作されたとしか考えられないものである。
これは、継体の子孫に当たる天皇家を擁護する側の立場から、それ以前の記録を故意に捻じ曲げたものではないだろうか。
倭王武の業績は、五人の天皇に分割され、大悪などと故意に貶められたのではないだろうか。また、中国に朝貢した記録も日本書紀には見られず、日本が中国に臣下の礼をとった前王朝の振る舞いを隠すため、故意に記録を消したのではないだろうか。
日本書紀は、編纂からわずか数十年前の蘇我氏についても、本名ではなく、馬子、入鹿など、とうてい実名とは思えない蔑称で記録している。
歴史を学ぶ我々からすると、実にとんでもない書物であるが、残念ながら、そのとんでもない書物によってしか、それ以前の日本史を再現できない。