森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

20代の我儘----出向社員になる

2021-01-11 12:52:08 | 思うまま



    20代の我儘----出向社員になる

  前回のタイトルで60前の我儘としていたけれども、入社してから3年経過するので
実際は56~57年前ということになりますので訂正します。
  大手電器会社で自ら希望して資材関係の業務に移動したことは、前の投稿でした。
  新たな資材関係の仕事は、協力関係会社、所謂協力会社(世間では下請け会社といわ
れていた)から、組み立て工場の生産計画に基づいて、それらに必要な部品を発注するの
である。私も5社から仕入れする協力会社を担当して、部品によっては、1日前か2日
前に工場に納品されるように発注書を作成し、上司のチエックの上で、協力会社に発注
するのです。

  この仕事は、ただ生産計画に基づいて発注するのであれば、簡単な仕事になるのだ
が、中には必ず部品の不良品が発生することがありますから、その分を考慮に入れた発
注数量でなければ、いけない。そして納入されている協力工場が品質管理も生産体制も
しっかりした会社ならほとんど問題は発生しないけれども、規模が小さいとか、工場の
生産管理が充分でなかったとか、新しい部品製造なので、経験の積み重ねがない会社も
あって、それらを把握した上で発注数量や値段の交渉をしなければなりません。

  そのためには、担当している協力会社の工場を拝見して問題点はないかどうか、お
困りの点はないかということなどを頭の中にいれておかなければならない。それには、
ある程度の経験年数が必要になってくる業務といえよう。もちろん、どの職種にも経験
と知識、技能、交渉力が必要なことは申すまでもないでしよう。

  その資材関係の業務を2年程経ったある日、社内新聞にある記事が目に留まった。
それは、創業者が会長になったのを機会に、個人的にやっていたP研究所への所員募集の
内容でした。入社5年以内の社員でP研究所に興味のある者は、本社まで直接応募せよ、と
いうものでした。私はその時に担当していた資材関係の業務を遣り甲斐のあるもので、
日々忙しく頑張っていたと思っていた。会社から毎月無料で配布されていたP誌には日頃
から感心が強かった。そして何故かP所の理念つまり創業者の目指しているP所の内容に
感動していたと、50数年経った現在でも変わらぬ思いである。ある意味、私は衝動的に
その応募にハガキを出していた。誰にも相談することなしにである。

  それから10日ほど経って、本社から面接の連絡があり、指定されて日時に本社に
行って面接を受けた。面接官はあなたはなぜP所に応募しましたか? と質問があった。
 「私は、P所の理念つまり、物心両面の繁栄を通して人々の平和で幸福な社会を目指す
というところに共感を覚えていたので、応募しました」
  質問はそれくらいで簡単なものでせいぜい10分程度であったので、この程度なのか
と思い、今回は駄目だろうという気がしていた。

  面接の後も変わらず、資材関係の業務に勤しんでいたところ、面接から1週間程度の
或日、工場長から呼び出しがあって、工場長の部屋に入ったところ、いきなり、工場長が
怒った顔でこれはなんじゃ?と、ある書類を突き付けられた。なにがなにやら分からず、
それは何でしようかと、お聞きしたところ、本社から1週間後にP所に出向辞令だと言われ
た。そして、工場長が、「なぜ君は勝手に申し込んだのか」と詰問された。
 「社内新聞にあったように直接本人が本社に応募せよという内容だったので応募しまし
た」
 「それでも工場の上司とか、人事課に一応打診してからすべきではないか、とこれまた
きつい御叱りを受けた」
  そして、工場長は勝手に行け、一言し行って、もういい・・・と。
  私は失礼しましたと一応の挨拶をして引き上げた。

  これが、電器会社から文系(出版関係)に出向することになった経緯です。その時は、
何という工場長の態度だろう、創業者が主催している研究所にいくのだから、「がんばっ
てしっかりやって来い」という励ましをしてくれてもいいのにと、自分勝手な思いをしつ
つ京都のP所に行きました。

  50数年も経ったて振り返って見ると、あまりにも自分が我儘であったと思う。自ら
職種の移動を依頼し、それに報いてくれたにも関わらず、また、自分勝手に誰に相談もな
く出向してしまったことを、ただ若気のいたりだとは言え、日本社会においては、不適切
な行為であったかもしれないと思っている。高校時代に文芸部という詩集作品を発行して
いたことが頭のどこかにあったことは間違いのないことだろう。

 50数年経って、そのことが自分自身のこれまでの人生にとって、結果的に良かったか、
それともと悪い目が出てしまうことなったかを静かに考えて見る時、自分としては、大変
にその後恵まれた環境があり、自分の意志を貫いたことを良かったととも思っている自分
がいます。0


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60数年前の我儘-----会社員になっての職種変更

2021-01-09 11:35:51 | 思うまま




     60数年前の我儘-----会社員になっての職種変更



   大手電器メ-カ-に入社して、3か月の実習後、新設工場の品質管理課に配属され
その工場では、厨房器類を製造する工場で私の流し台を作る部門の品質管理の業務を担当
することになった。流し台という製品は、木の箱にステンレスのシンク(水を流すところ)
を乗せるという比較的、簡単なつくりである。その木の箱の部分を協力会社から納入され
ものを正規の状態であるかを検査する仕事でありました。

  何せ新設の工場でありますから、社員も責任者も手探りの状態であったと思う。だか
ら検査器具もなければ、その基準も明確でなく、視覚にて判断する検査の比重が高かった。
  その品質管理業務をしつつも2年も経つ頃には、何か物足りなさを感じてくる。それ
は、上司や先輩(といっても経験が少ない人たち)から厳しく教えられるとか、叱られるとか
ということが一度もなかったのです。これは、私の仕事遂行が適切であったからではなく、
誰も経験が少なかったからだ。

  工場には、職種として、品質管理、設計、資材(部品を仕入れる)、シンクのプレス等が
あった。有る時ふと思いついて、職種を変えてほしい思いが強くなって、人事課の課長に
直接、職種替えの御願いに行った。
 「課長、今日は御願いがありお時間を頂きました」
 「なにかね?」
 「はい、私は、今品質管理の業務を担当しておりますが、資材の調達部門の仕事をした
いと強く思っています。是非、私をそり部門に変えて頂きたいのです。
 「変えてほしいと言われてもすぐにはできない」
 「おっしゃる通りです。そこで、この工場は年々発展し社員も増えてくるでしよう。そ
の時資材業務にも人でを増やす必要があると思いますので、その時に私を指名して頂きた
いのです」
 「解ったそのような状況になれば、考えてみよう。ただし、君が今の業務において、手
を抜いたり、いやいやしたりする、態度をみせたり、他からのそのような噂であっても、
そのようなことであったなら、一切君の希望を叶えることはしない」
 「ありがとうございます。決してそのような怠惰が微塵もなきよう今の業務に励みます」

  そして丁度一年後に、人事課長から呼び出しがあった。
 「君が一年前に、資材部門に尽きたいと言って来たが、その時と現在の気持ちに変わり
はないか」
 「全く、一年前と同じ思いです。今の仕事も私なりに一所懸命努めているつもりです」 
 「解った、それなら来週から君を資材部に配属替えをするよう手配しよう」
 「誠に勝手な御願いをお聞きいただき誠にありがとうございます。これからも新しい
業務を懸命に努める覚悟です」

  こんな経緯で、入社3年目で職種替えをさせていただいた。よく所属の責任者にも誰
一人このことわ相談もしていなかったので、2年間勤めていた品質管理の皆さん、特に責
任者の方に悪いことをしたことを内心では詫びていた。このような60数年経った現在に
思うことはね組織に居ながら、自分勝手な我儘を通してきたことをつくづく反省も込めて
おもっています。しかも、こうして職種替えをしてもらったにも関わらず、その2年後に
また、私の我儘で進路が大きく変わっていくのである。それは、またの機会にすることと
します。 0
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60年前の奇跡---社会人としてのスタ-ト(入社と記念日)

2021-01-03 13:28:01 | 思うまま



   60年前の奇跡---社会人としてのスタ-ト(入社と記念日)

  昭和37年8月、夏休みにテニスの猛練習をしていた。高校生三年生として大望の10月の国民
体育大会(全国大会)への予選(兵庫県で3位まで)を通過し、国体への出場資格を得ていた。その猛練
習中であつた。
  そういう時、機械科担任の先生が練習場に来られ、私が呼ばれた。
  何かと思い先生に挨拶をしたところ、就職活動をしていた、関西の大手電器メ-カ-へ学校から
7名が応募していた。私もその7名の中の一人で、その会社は創業者が有名で度々マスコミに登場し
ており、急速な成長をしている会社であったし、関西ということでもあったので応募した。
  担任の先生曰く、応募していた会社から内定の連絡が入った。ところがあなたの名前だけ無かった
ということを告げられた。そして、先生は念のためにもう一つ別の会社に応募したらどうだ。と言われ
た。
  私は残念に思いながらも、テニスの国体への出場のために猛練習している最中でもあったので、
すぐには他の会社には応募しない、採用しないという連絡が入ってからにしたいことを先生に告げた。
先生は心配顔でしかたがないなという雰囲気で去って行った。
  それから1週間後に、再度先生がテニスの練習中に笑顔で来られて、私に、追加内定として君の内
定が決まったことを教えていただいた。これでひと安心だと先生に御礼を言うと、先生が次のようなこ
とを言った。君が最初の内定から外れたのは、君の父親が亡くなった原因について、頭の件で亡くなっ
たと履歴書に書いてあったために、会社は、精神的な問題があるのではないかということで実質的に不
採用ということであったらしい。ところが、その会社の部長職の方が、君をよろしくといっていたので、
君の父親の亡くなった原因を専門家に依頼して調査されたところ、船大工の作業中に頭を強く打つ怪我
が原因であることが分かったので、追加採用となったということが、会社から説明があったとのことで
した。
  それに関して、私の兄が知り合いの人に、ギリギリの場合はよろしくとお願いをしていたことが後
から分かったのです。首の皮一枚繋がっていたわけです。

  卒業した4月に大望の入社できた。高校生が全国で800名ほどの入社されたようだ。そして、会
社の寮生活が始った。私が入った寮は、会社で一番古く小さい寮で、そこの寮監督は、軍人あがりの厳
しい60歳近い人だった。
  ある日、寮監に呼ばれた。
  毎年、この寮生から、5月5日の会社の創業記念日に高校入社の800名を代表して、社長に答辞
を述べてもらうことになっている、ついては、この寮から二人の寮生を本社に推薦することになってい
る。君ともう一人二人で一緒に3日後に本社の人事部に行きなさい。と。
  その日に本社の言われたところに行った。本社の小さな会議室に二人が待たされた。数分後人事部
の人が入ってきて、寮監が言われた同じことを言った。お二人のどちらかに創業記念式典に答辞を読ん
でもらいたい、どうですか。と言われた。どうですかと言われても二人いて、質問もなく、どうします
かと言われても一瞬どういえばいいのか、分からず沈黙があったが、私は、もう一人の人に「あなたは
答辞をやりたいですか?」と聞いた。その人は間髪を入れずに「ぼくは結構です」つまりやらなくても
いいと言うことであったので、厚かましいと思ったけれども、私は人事部の人に、彼がそういわれたの
で、私でよろしければやらせて頂ます。と申し上げた。それで決まってしまった。

  5月5日は、晴天の良い天気であった。「この良き日に創業記念日を心よりお祝いし、これからの
発展に資する人材になれるよう、精進に努めます・・・・・・・」こんな答辞を体育館の壇上に上がり
自ら作成した答辞文を読みました。

  運命というのは、何と不思議な事だろうと思う。本来であれば、この会社に入社できなかった人間
である。それにも拘わらず、800名の新入社員を代表して答辞を読むなどということはこれは奇跡で
はなかろうかと思っている。私はそのために何にも努力していないし、学校の成績も常に中程度のもの
であるのにかかわらずです。このような思い出を投稿しているのは、決して自慢をしたいためではあり
ません。人生の奇跡があることを述べたかったからです。

  60年前の高校生時代には、先に投稿した内容とともに、10年も20年もの経験を一年間にした
ような劇的なことが起った日々でありました。私自身として、最もその後の人生に今日まで良い影響を
与えてくれた、出来事が実はもう一つあります。でも、このことは今は控えておくことにします。
今しばらく、自分の胸の底に静かに抱いておきたいのです。 0

  
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60年前の衝撃 ・・・・母の愛

2021-01-01 11:13:39 | 思うまま




  新年明けましておめでとうございます

  60年前の衝撃・・・・母の愛(高校三年生の部活活動とその仲間たちとの思い出)

  今回は、投稿者である私自身の事を書き綴ります。
  あれは、60年前の高校三年生の秋に開催された学校における文化祭のときの有様です。その学
校は兵庫県立洲本実業高等学校で、商業科、機械科、電気科の三つの科があり、私は機械科でした。
そこには男子生徒ばかり40名のクラス規模でした。

  私は、中学校からやっていた軟式テニスを高校でも部活としてやっていました。このクラブは歴
代の先輩の皆さんは成績優秀で、全国でも上位クラスに入るテニスの名門校といっていいでしよう。
その分、毎日授業終了後の練習は厳しいものがありました。この間、学校の授業の他には、何にも経
験することがなかったし私は、三年生になってもテニスの実力は学校で二番目という、あまり目立た
ない生徒だといっていいでしょう。

  機械科は40名の男性ばかりで、女子生徒との会話もふれ合いも全くなかったのです。三年にな
って間もなく親しいクラスの友達と何となく会話をしている時に、こんなことを思いつきました。そ
れは、女子生徒の多い部活を探そう、そして男子生徒が少ないところというのが、クラブを探す条件
として決めたのです。いろいろと学校における部活の内容を調べたところ、。ある部活が二つの条件
に当てはまるところが見つかりました。その部には我々男性として、おまけがありました。それは、
文芸部という部で、その部で活動している三年生の皆さんは、こぞって所謂美人ぞろいの女性中心だ
ったのです。

 そこで、最初に話し合った友人と相談して、相手の女性は7名おられるので、こちらも7名の男子
を誘って、当時の女性部長さんに入部の御願いに私が行つたところ一つ返事で心快く受け入れてもら
えました。すぐ機械科のクラスに帰って誘った7人の仲間とバンザイをしたものです。

 これら一連のこともつい数年前のように記憶にあり、良き思い出として残っています。でも、ほん
だいは、これからで、その文芸部においての活動ですが、何分にも動機が不純といえは不純のため、
詩とか、短歌とか、まして文章を考えて書くなどということは大の苦手でありましたが、文芸部とし
てこちらから入れてもらったことでもあり、男性のそれぞれは、仕方なく、何か詩らしい、文章らし
いものを書いて、優れた文章を書かれる女子部員の皆さんに教えて貰いながら、卒業するまでに、部
活として詩集「すらん」だったか「しののめ」でしたか、一年間に3回程度発行しました。その印刷
費用は、町の商店街を回って、一口500円か1000円だったと思いますが、店の広告代金として集
めて、学校から部に支給された金額と合わせて、少しおつりが出るくらい、うまく運ぶことが出来ま
した。

 あれは、7月ごろでしたか、学校の生徒会役員の皆さんは、秋の文化祭の計画を作り始めたとの情
報があり、誰からとはなく、学校生活の思い出づくりに、文芸部として、文化祭に演劇をしようじゃ
ないかということになったのです。文化祭に文芸部が参加し活躍することは、これは当然にあるべき
ことではないかと思いも部員のみんなにもあったと思う。しかし、この学校ではその様な単独の部が
演劇をした経験がなかったのです。
 そのため、生徒会の役員として、文化祭のプログラムの素案にはなかったのです。そこで、生徒会長
のところへ行き、文芸部として文化祭に演劇を演りたいので、90分の時間を取ってもらいたいと申
し出をしました。担当の部活の先生には何の相談もなくです。最初は、前例がないことから、なかな
か色よい返事を貰うことが出来なかったのですが、相手がしびれを切らすほど粘ったために、60分
の時間を約束してくれました。

  その演劇の脚本(劇の粗筋)や小道具、衣装、設営等はすべて、部員だけで実施するという方針で
部員それぞれ手分けして担当し、私もコタツ毛布を持ってきました。その演劇らしいものの内容は、
私達の高校は、実業高校であり、99%の生徒は就職することになっていたのです。しかし、一人の
生徒は、何とか大阪や東京の大学に行きたい、けれども、家庭が貧しく大学の学費が賄うことがで
きない。そんな三年生の子供を囲んで、そのことについて家族会議をしている場面を設定していた。

 その演劇で、私自身が大学に行きたいと思っていることもあって、進学希望生徒の役を演らせて
頂きました。この役柄は私そのものでした。私の家庭は、母と父方の祖母、八つ年上の兄、四つ上
の姉の5人家族で、父は、神戸の長田で船大工をしておったそうですが、私が生まれた(昭和19年)直
後に仕事中に海に落ちた時に頭を強く打って、私が4歳の時になくなったことを聞いています。私
には、父の姿は何一つ記憶にありません。父が亡くなって、母が一人で、家族5人の生活を養わなけ
ればならず、町の鋳物工場で働いておりました。鋳物工場というのは、私は機械科ですから、学校で
鋳物の授業をしたことがありますが、砂で型を作って、それに金属を溶かしたものを流し込んでする
作業で、それこそ真っ黒になっての仕事を母は、5人の家族のために朝は8時ごから夜に帰るのはい
つも9時ごろまでという記憶があります。そのために、私は家族との特に母との会話やふれ合いの記
憶がほとんどありません。

 そんな家庭環境ですから、小学校から高校までの間、例えば、学芸会で、運動会だ、参観日だとい
う日には、親が学校に来ることになります。しかし、私の母は仕事を休むわけにはいかない、休むと
給料が減って、家族の生活がなりたたない、それがたとえ一日でも大切な稼ぎ時間であったのでしよ
う。小学校の運動会の昼休みには、それぞれ親が来て、持参した御馳走をグランドに茣蓙を強いて、
家族とともに和やかに過ごします。私は、一度、弁当を持ってある年の運動会に行きました。一人で
弁当を食べていると、お隣の生徒の家族の方から、お一人で寂しいから一緒にたべましようと言って
くれました。しかし、私は喜んで、否、淋しさが増してきてしまいました。それ以降、運動会の昼食
時には、家まで走って食べに帰っていたことを忘れることができません。

 さて、文芸部の演劇のことですが、土曜日と日曜日の二回、生徒の家族の参加のもと、大講堂が満
員での開催です。私が、進学希望の生徒として家族で話し合っている簡単な筋書きでした。コタツに
入っての話し合っているときに、会場の方から紙飛行機が演じている私のすぐ側、手が届くところに
飛んで来ました。多分、参加者のお子さんが、飛ばしたものでしよう。その時、私は、自然とその紙
飛行機を手に取りました。もちろん、演劇の筋書きにはありません。そしてその紙飛行機を今度は飛
んで来た会場に飛ばし返しました。事件はその時に起きました。いや、事件というにふさわしい、劇
的奇跡的な光景が、私の目の中に飛び込んできました。

 それは、紙飛行機を会場に向けて飛ばしたときの視線の向うに、何と私の母の姿を目にしたのです。
うそでしようとおもいましたが、確かに母でありました。小学校から高校までこれまで、一度も母が
学校に来られなかった、母は学校に行きたかったに相違ありません。でも、それが出来なかった。私
の学校生活で最後の親が参加できるこの文化祭に、母は来てくれた。演劇を続けながらも涙が出てく
るほど感激というかびっくりしたことを昨日のように思い出します。たぶん母も涙をながしていたの
かもしれません。

 演劇のある当日、母は学校に行くことは素振りにもださず、私は、毛布を持って学校に行きました。
演劇の内容が自分の家庭の実体そのももだっただけに、貧しいために、自分の息子を大学に希望して
も行かせてやれない、親としての辛さをその時に複雑に思っていたことを懐かしくも母が不憫にも思
い出します。母には気の毒な内容の劇だったなあ-と。それまで余り母との会話らしきものが無かった
だけに、母の愛情の深さと強さを感じました。その母は30年前に72歳で亡くなっております。母よ
りも一歳でも長生きして自分らしく生活することが母へのせめてもの供養ではないかとずっと思って
今77歳に今年なります。

 これが今から60年前にあった衝撃であり、事件であり、奇跡であると思う。私にとってこのこと
今年77歳になりますが、これまでの日々の大きな糧となっていることは間違いのない事実で、この
高校三年生のたった一年間の間に、私の今日まで強く影響を与えた出来ごとの一つです、当時の文芸
部の皆さんに感謝しています。文芸部への入部を断られていたら、また、演劇をしなかったとしたら、
このような出会う機会はなかったのですから、誠に運がいいといいますか、これらの奇跡に感謝です。
この高校三年生において、まだ三つぐらい劇的なことがありましたが、それは、いつの日にか、また
書き綴りたいと今回はこれにて停めおきます。甚だ拙い文章にて失礼します。0



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