ここんとこずっと政治ネタばかりですみませんが、
これは是非とも多くの人に知って欲しい事なので
許可を頂き転載させて頂きます。
My日本yamaさんの日記(2010/9/12分)より転載
原爆投下を「戦争の悲惨さ」で語ってはいけない①
「空と海からの完全封鎖と条件付降伏があれば、日本本土に上陸する必要すら全くない」 ウィリアム・D・レイヒ提督
「原爆は全く不必要であり、アメリカ国民の命を救う手段としてもはや不可欠ではなくなった。アメリカがここまで恐ろしい兵器を最初に使う国にならないよう望んでいる」 ドワイド・D・アイゼンハワー将軍
「(原爆投下は)軍事的に見れば全く不必要だ」 ダグラス・マッカーサー
戦争中、米国で軍事面の指導者として尊敬を集めていたアイゼンハワー、マッカーサー、レイヒの3人ともが、日本の降伏に原爆投下は「不必要」と見ていました。(補足しますと、対日戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイは、戦後、回想記の中で「原爆を落とすまでもなく太平洋戦争は実質終わっていた」と記していますし、1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という結論が出されています。また1946年実施の戦略投爆調査の結論も、「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」との結論を示しています。)
しかし、3期務めて偉大な大統領だと評価されていたルーズベルトが急死した結果、「つぶれた田舎の雑貨屋の親父」みたいな風貌とアメリカ国民にみられていたトルーマンが大統領に就任し原爆投下への流れが加速していきます。彼は自らのイメージを挽回し「男らしさ」を証明する事を強く望んでいました。
もともと、原爆開発はルーズベルトの時代にドイツの核開発を恐れた、ドイツから亡命してきた科学者達の促しにより1939年、ルーズベルトの許可が出て始められました。
しかし、ドイツが1942年に原爆開発を断念していた事を知ってもなおアメリカは開発を続け、1943年5月、アメリカの軍事政策委員会では原爆投下地点について対日戦で使用する意見が大半を占めました。また、1944年9月18日、ニューヨーク州のハイドパークで行われた極秘会談でチャーチルとルーズベルトは原爆を「日本に対して使用するかもしれない」と合意しています。(「チューブ・アロイズ」の覚書)
つまり、開発のきっかけは対独戦ではあったものの、
原 爆 使 用 に 関 し て は ド イ ツ の 降 伏 前 か ら、 ド イ ツ に 対 し て で は な く 日 本 に 対 し て 使 用 す る 意 図 が あ っ た わ け で す。
しかしルーズベルトは日本との戦争が長引けば、中国が内戦になる可能性が高まると考え、ドイツを降伏させた後、一日も早く日本を降伏させるために知日派で早期講和論者(天皇の地位保全の条件さえ出せば日本は降伏すると主張する)グルーを国務次官に抜擢し、対日政策を変更していきました。しかしルーズベルトが急死しトルーマンが大統領に就任すると、グルーの対日政策は無視されていきます。
(ちなみにタフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受け入れていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っています。)
グルーはルーズベルトの後を継いだトルーマンに対して、天皇の地位さえ保証すれば日本は容易に講和に応じる事をドイツ降伏後の1945年5月末から再三トルーマンに進言していました。
「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」(草思社)の著者・鳥居民氏は、様々な状況証拠を踏まえ、もしここでトルーマンが進言を受け入れていたら戦争は7月2日に終わったとシュミレートしています。
アメリカの高官たちは「天皇の地位保証」が日本降伏の最重要条件だとすでに認識し、フーバー元大統領、スティムソン陸軍長官、レーヒ提督などもトルーマンに働きかけを行っていました。
しかしトルーマンはそれらの意見もことごとく
無視します。
ポツダム宣言第12項には「我々の諸目的が達成されて、且つ日本国民を代表する性格を備え、明らかに平和的志向と責任ある政府が確立されたとき、連合国占領軍はただちに撤収されるであろう。」とありますが、実は草案の段階では以下の様な続きがありました。
「このような政府が二度と侵略の野望を抱くものではないことを、平和を愛好する諸国が確信するのであれば、
こ れ に は 現 皇 統 の も と に お け る 立 憲 君 主 制 を 含 む も の と す る 」
つまり、ポツダム宣言草案の時点では「天皇制の維持」を保証していたわけです。これは早期講和論者グルーによる発案でしたが、トルーマンはこの草案の後半部分の天皇地位保全に関する部分をあえて削除しました。
そればかりではなく、草案では共同提案国にソ連の名前が入っていたもののトルーマンはそれも削除し、中国国民党政府に名を差し替えました。
当時、日本にとってソ連は和平の仲介を依頼中の国であり(アメリカは暗号解読によってすでにその事を知っていました)、中国国民党政府は交戦中の敵。。。日本がポツダム宣言をより一層受け入れにくいように細工をしたわけです。
しかもトルーマンはこのポツダム宣言を国務省からではなく、宣伝機関の戦時情報局から発表させていました。それも「最後通牒」といった記述も無く、降伏を勧告する外交文書としての文面でもなく、「これ以上抵抗するならもっと徹底的に叩きのめすぞ」といった単なる宣伝文書にしか見えないような書き方にしていました。
このことについてスチムソン陸軍長官は後にこう語っています
「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた。」
ここには明らかに、日本が黙殺するように仕組んだアメリカ側の意図があり、これを持って日本側の黙殺を原爆投下に結びつけて批判するのはあまりにもアンフェアといえるでしょう。
また、アメリカは1945年2月のヤルタ会談で、スターリンにドイツ降伏の3ヶ月後にソ連参戦を約束させていますが、それ以降ポツダム会談までに原爆を完成させていたアメリカが、ソ連の対日参戦が無くても日本を制圧できるとして、そしてスターリンの共産勢力に対する威嚇といった意図から急遽原爆投下に踏み切ったという側面もあります。トルーマンは国内の原爆投下反対派の共和党議員よりも早く、スターリンに対して原爆実験成功について話をしています。(このことで後に共和党議員から反感を買うことになるのですが)
また5月の下旬に、ルーズベルトの個人特使であったハリー・ホプキンズをモスクワに派遣し、ポーランドの処遇をソ連に委ねることをモロトフ外相に確約した上で(これはソ連に対する大幅な妥協を意味します)、正確な対日参戦日を聞きだすことに成功しています。
これは原爆投下の準備が完了する8月1日以前にソ連の大規模な機甲部隊が満州に攻め込むと、日本が降伏してしまい、原爆投下をせずに終戦を迎えてしまう事を恐れたためと思われます。また、ドイツ降伏後にチャーチルから首脳会談(ポツダム会議)の提案があったにもかかわらず、トルーマンは無意味に引き伸ばしを図っています。これは7月4日に予定されていた原爆実験の結果を把握してから会談に臨みたかったトルーマンの意図があったのではないか、と鳥居氏は推測しています。
トルーマンの思惑は上に記したとおり、全米から嘲笑されていた自らのイメージを回復し、強い指導者である事をアピールするために何としても原爆投下を行いたかったこと。(実のところトルーマンは、彼の部下の高官たちと違い、エールやハーバードといった一流大学の卒業生でもなければ、歴代大統領の中でも珍しく大学を出ていない大統領で、その事に対して強いコンプレックスがありました。それだけではなく、大戦争の遂行に大きな役割を果たしたチャーチルやスターリンなどの同盟国の首脳に対しても引け目がありました。自分だけが棚牡丹式に指導者の地位を得ていながら、何一つ実績がないと。)
そして、彼個人のそうした内面的な動機だけではなく、以下の要件も重要でした。
1、膨大な費用をかけて作った原爆を議会対策のためにも使わなければならなかった。( 実は原爆製造にかかわる資金は完全な秘密のうちに投じられていました。もし使わないで戦争が終結してしまった場合、レスリー・グローブス〈原爆製造・開発の責任者〉管轄下の工兵団の予算の中に隠しておく事ができなくなり、議会の承認が必要になってくる。原爆の使用が無いまま戦争が終わってしまえば、どうやってそれまでの巨額な資金の支出と、今後も必要なのかを国民と議会に納得させることが難しくなってしまう、という問題がありました。)
2、ウラン濃縮型と、プルトニウム型の2種類の原爆を黄色いサルの住む都市で実験使用してそれぞれの効果を確かめる必要があった。(ちなみに1993年2 月5日の『朝日新聞』に、ネバダ核実験場を管轄している米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中で、広島・長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが明らかになったと報じられました。また1958年2月3日『東京新聞』には「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。」というトルーマン前米大統領の言葉が紹介されています。)
3、戦後の世界秩序をめぐってソ連のスターリンに脅しをかけておく必要があった。 (これは広く知られているので割愛します。)
つまりアメリカ側は、
原 爆 な し で も 日 本 を 終 戦 に 持 ち 込 む 事 が で き る と 知 っ た 上 で 、日 本 に 終 戦 の 意 思 が あ る 事 も 知 っ た 上 で 、 あ え て 終 戦 時 期 を 引 き 延 ば そ う と し て い た 確 実 な 状 況 証 拠 が あ る と い う こ と 。
そしてそれらの工作の意図は
「 原 爆 を 投 下 す る ま で 日 本 を 降 伏 さ せ た く は 無 か っ た か ら 」 と 考 え ざ る を 得 な い 、というのが最も新しい史料検証の結果導き出される歴史的実態だということです。
倫理的・戦略的な視点で、原爆使用の阻止を図ろうとした米政府・米軍高官・科学者がいたことは上記のとおり確かですが、反対に警告なしで(ドイツではなく)日本に原爆を投下する事を強硬に主張した人種差別主義者ロバート・オッペンハイマーのような人物が「マンハッタン計画」を主導していた事や、トルーマン、バーンズなどの動きを知る時、結局のところ歴史は「倫理的でない」者の主張に沿った形で進んでいった事ははっきり明記しておく必要があります。
私達日本人は、2種類の原爆の効果を確かめるためのモルモットとして実験されたのだという歴史的事実を覆す事はできません。
(ちなみに、ポール・ティベッツ機長をはじめエノラゲイ搭乗員の多くは、戦後もずっと「全く後悔していない。夜眠れなくなったことも一度もない。あの時、我々は人類にとって最善のことをしたんだ」と述べ、原爆投下の正当性を強調しています。)