山口県・岩国市の国名勝・錦帯橋は今年、創建350年を迎えました。
何度も架け替えられましたが、
江戸初期と同じ威容を現在も誇っています。
岩国徴古館(ちょうこかん)で、記念の展覧会が開かれています。
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毛利氏つながりの岩国。
まずは、歴史のおさらいです。
以前にも載せていますが、
元就の次男・元春は、大朝の吉川(きっかわ)家に養子に入りました。
その三男・広家が、初代岩国領主です。
関ヶ原の戦の頃は、元就の孫の代です。
豊臣の大名である輝元が、西軍の総大将として関ヶ原に陣を構えていました。
いとこで、有能な武将・吉川広家は、東軍の勝利を信じて徳川と内通。
中国地方全域を治めていた毛利の所領を安堵してもらう代わりに、
毛利は参戦しないという密約を交わしたのです。
(書状も残っています。)
しか~し、おのれー、家康め!
戦いに勝った途端、その約束を反故にし、
毛利氏は山口県の周防・長門に減封され、
吉川氏は周防の端の小さな領地・岩国を与えられました。
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前置きが長くなりましたが、そんな歴史のある岩国です。
展覧会会場は、吉川家屋敷跡地の一角に建てられている徴古館。
吉川氏が造らせた、錦帯橋の歴史を辿ります。
そもそも、岩国の領地は、川で分断されていました。
岩国城側には、上級武士が居住し、
川向こうが、下級武士や町民の住む城下町でした。
下級武士は渡し船で川を渡って登城していましたが、
雨で増水すると渡れず、何かにつけて不便です。
橋を架けても度々流されてしまい、
「丈夫で流されない橋はできないものか?」と考案されたのが、錦帯橋。
岩国の町が川で分断されていなかったら、
こんな橋はできていなかっただろうと言われています。
葛飾北斎や歌川広重をはじめ、多くの浮世絵にも登場し、
江戸期から観光の名所だったことが伺えます。
川瀬巴水
ただ、この橋は、武士が登城するための武士のみ渡れる橋。
渡ってみたい!という人は、
番人に”袖の下”を払って渡っていたそうです。
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薩摩藩から徳川将軍家へ嫁いだ篤姫は、江戸へ上る途中、
わざわざ遠回りをして錦帯橋を訪れたとか。
橋を渡るには事前に許可を得る必要がありましたが、
なかなか許可が下りなかったため、
押しかけて橋を渡ったと記録されているそうです。