一 閑 堂

ぽん太のきまぐれ帳

ファッション音痴

2005年05月24日 | きもの
時々「なぜ、きものなのか?」を説明したり、釈明しなくてはいけないことがある。
きものでいることは一般的に少数派だから、不思議に感じる人が多いのはごく自然のことだろう。サリーやチャイナドレス、はたまたアラブの国々のチャドルなどを身につけている人が珍しいのと同じだと思う。
ただ、ありがたいことに、日本には洋服以外に和服を着るという衣服の選択肢がある。たとえば、伝統芸能に携わる人を始め、旅館や和食の店などでは、仕事着としても認められているし、さらには冠婚葬祭や年中行事などのハレ含め、正式な衣服として社会的に通用する環境がまだ残っているのだから、声高に「きものの復権」を訴える必要はないと思っている。

けれども、今の時代、【あえて】きものでいる意味のようなもの、説明責任のようなものが、なんとなく求められることもたしかである。
まず、いざ着ようと思った時、自分自身に対してだ。最近は「趣味で」「ファッションとして」といういい方が多いようだ。
着る理由をみいだしたら、次は世間様に対して。きものと縁遠い人へもだが、わけてもきもの愛好家に向けた説明は結構難儀で、「ただなんとなく」という回答はどうもあまり説得力がない。きもの好きな人たちの強烈な自意識にふれて、ハッとするのだ。ファッションとしてきものを自覚的に選んだ人にはそれぞれに強いこだわりがあるため、私にもなにがしかの根拠や理由を求めるのだろうか、と。

さて、私はというと、元来ファッションへの関心度がとても低い人間である。
お洒落命・流行命でもなく、好きなスタイルがみつかれば、年中制服のようにそのスタイルばかりで満足。どちらかというとマニッシュでシックが好み、テイストはヨーロピアン程度のどうでもいい嗜好で、好きなブランドも特になかった。誰かにファッションの好みを伝えたいと思ったこともなかった。
美容とファッション。女性の二大欲望と呼ばれるいずれにも、まるっきり興味がなかった私は、たまたまきものを着るようになったものの、きものをファッションとして楽しむという流れや見解に未だになじめないでいるのだが、きものを通じて「衣服とは示威行為あるいは自己主張・自己演出であり、みせるもの・みられるものである」ことを遅まきながらいささかは考えるようになった。衣服やファッションが持つ機能について真面目にあれこれ検討するというのは、ファッションについての言葉をあまり持たない私には、実に新鮮な視点だった。

一方、きものをめぐるおのおののファッション観だが、やはり、今一つわからないことが多い。着方などについて、一緒になってあれこれ語り合う意味がみいだせないのかも知れない。
「普段に着てこそ」「お洒落に着るには」「自由に気軽に」「特別視せず」「場をわきまえて」・・・。論点は色々あるのだがいずれもピンと来ない。何よりも、衣服をどう着るか?で広くあるいは深く、相互に意見交換する必要を私自身はあまり感じないのである。まして、嗜好美意識に関わることになるといよいよ落とし所がなく、いつも途方に暮れてしまう。
極端な例だけれど、洋服に対し数の上で完全な少数派であるきものファンの言説は、時にあまりに啓蒙的であり、時に説教くさくなったりもする。なにがしかの連帯を強いる、運動めいた雰囲気さえ呈することもある。そうなると、きものイズムめいて、息苦しくなってくる。

かつて、アップル社のパソコン愛用者が、誰彼となくMacを奨めるということがあった。彼らを総称してエヴァンジュリスト(伝道者)と呼んだが、恥ずかしながらその典型だった時期がある。幾人かにMacを奨め、一緒に機種を選び、セットアップをし、説明書を買って進呈し、深夜だろうといとわずトラブル相談に応じた。
ところでMacは、使用者のニーズに応じて変化自在、カスタムメイドなパソコンではあったが、少し前まではシステム環境が不安定だった。そのかわり、たとえパソコン素人で、コンピュータ言語を知らなくても、意志さえあれば、自分でなんとかできる敷居は低かった。人に優しいインターフェイスがMacの特色だったのだ。同時に、意欲なき者にとっては、マイナー機種であるだけに受け身ではクリアできない部分も多かった。システムに親しむことが前提とされていたのである。
伝道した知人で、今現在もMacを使用している人は一人もいない。皆が皆、Winになっている。Mac使いは、自らMacが好きになった人か、仕事でMacを使いこなさないといけない人ばかりだ。
という次第なので、好きなものを広くお奨めしたい気分はよくわかる。が、無理して啓蒙したところで、必然性なきところに果実は実らないことも実感している。大きなお世話になってしまう。

服を着る人全員が、着ている服に強い関心を持っている訳ではない。洋服が好き【だから】洋服を着ていると主張する人がそんなにいるだろうか?ほとんどの人が、無意識に着ているはずなのだ。
服なんて、とどのつまり、そんなもの。ただし、きものは珍しいし目立つから、相応な装いを考えることは必要だろうし、「なんで着てるの?」と問われるのも当然だから、その際は適当に答えておけばいい。だが、服を着ているだけで自意識過剰になっていては疲れてしまう。それよりも、きものという衣服の背後に連綿と続く、日本的な価値観や歴史制度を再発見したり検証したりする方がよっぽど面白いだろうに、というように、私の志向はどうしても服飾文化史誌メタきもの論に傾きがちなのだ。
自己演出することをどう遊ぶか?といったファッション論は、和装洋装問わず、今も遠いことがらのままである。ファッション談義にとことん向いていない、ただのファッション音痴である。

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