パパさんのお墓のある瑞源寺の本堂・書院修復落法要・開基第5・7代福井藩主松平吉品公三百回忌法要が
フェニックスプラザで行われました。
(瑞源寺)
今から約1250年前の天平宝字2年(758)に、泰澄大師によって現福井県鯖江市吉江の地に創建されたと
伝わっています。
宝亀2年(771)には光仁天皇の勅願祈祷所となりましたが、残念ながらその後の瑞源寺は時の流れに飲み
込まれ、歴史の舞台から姿を消してしまいます。
900年の時を経て、江戸時代に入った延宝元年(1673)、当時吉江藩2万5千石の藩主であった松平吉品
(よしのり)公が瑞源寺の由来を聞き、太隨祖功禅師を開山に迎え堂宇を復興、亡き母高照院の位牌を納め
菩提所に定めます。
延宝2年(1674)、が五代藩主として福井藩47万5千石を相続するのにともない、瑞源寺も福井市足羽(あすわ)
の現在地に移転、松平家菩提所の一つとして、吉品公と母君の廟所を今に伝えています。
(松平吉品公)
寛永17年(1640)4月11日第3代福井藩主、松平忠昌公(徳川家康公の孫)の5男として福井に生まれました。
数え年6歳の正法2年(1645)に福井支藩である吉江藩2万5千石の藩主に就任した後、元服して昌親(まさちか)
と名乗り延宝2年(1674)兄である四代藩主光通(みつみち)公の死去にともない47万5千石の福井藩を相続、
35歳で5代藩主となりました。
その後いったんは職を辞すも、貞享3年(1686)の47歳で7代藩主として再勤、将軍徳川綱吉公の一字を拝領して
名を吉品と改めました。
正徳元年(1711)9月12日、72歳の天寿をまっとう。藩主の座にあること26年、遺言によりこよなく愛した瑞源寺山腹の
母の墓の隣に葬られました。
ちなみに吉品公が吉江藩主時代の家臣の中に近松門左衛門の父親がおり、幼少時代を吉江で過ごしたものと
考えられています。
(瑞源寺の本堂と書院)
本堂ならびに書院は共に保元年(1830)に建てられた福井城本丸御殿の遺構であり、本堂は「本丸御小座敷」を、
書院は「大奥御座之間」を拝領移築したものです。
本堂の建築年代は天移築が万延元年(1860)は吉品公の150回忌法要にあわせて移築された記録があり、
以来今回の300回忌法要までに、さらに 150年の歳月が経過したことになります。
平成19年秋より始まった本堂工事においては、建物すべてを解体しその部材を修復、補修、その後一から
組み立てるという大変複雑な作業が行われました。また、書院工事中には床の間の天井下地にお城のものと思われる
古い襖戸が使用されていることや、縁側の床板に長押が再利用されているのが発見され、物を大切にする当時の姿勢
を目の当たりにすることができました。
そして、さらに今回、本堂、書院の前身建物であった本丸御殿の「御小座敷」と「大奥御座之間」が、ともに西三ノ丸御座所
の御殿の部材を用いて建てられたことが確認され、福井城の歴史研究に大きな成果がもたらされました。
現存が確認されている唯一の福井城の遺構であり、全国的にもまれなお城の御殿建築として県の文化財に指定されています。

午前中の法要に先立ち行われた稚児行列には75人の稚児とその家族が、雨の中、寺までの1キロを練り歩いたそうです。
オレンジ色の袈裟の方は臨済宗妙心寺派前管長の雪香室東海大光(せっこうしつとうかいだいこう)・老大師。
右で挨拶されている方は越前松平家第20代当主 松平宗紀氏です。
法要には妙心寺の本山のある花園町の「阿じろ」の本格精進料理が振舞われました。






皆さんが口をそろえて美味しいといっていました。
年齢層もさまざまな皆が美味しいよいうのはかなり凄いことだと思います。
あまりに美味しかったので「阿じろ」さんについて調べてみました。
妙心寺の寺方料理を長年務めてきた由緒ある料亭。
肉や魚などの生臭物は一切使いません。
おだしには上質の昆布やどんこ椎茸、干瓢、煎り大豆を用いることで深い風味を醸し出しています。
精進料理の基本は「五味・五法・五色」 それを守られて作られているそう。
正式な精進料理って、ねぎなどの香りの強い食材を使ってはいけないし、
正式な和食(精進・懐石)は、お茶を途中で出すのはNGなのだそうです。
ですから途中ではお茶の代わりに、写真の中にある焼きおにぎりの入った香ばしい白湯が出されました。
本格精進料理を頂く、いい経験をさせて貰いました。

引き出物の中の本。歴史好きの主人にはたまらないお土産でした。
P.S.
福井城跡には現在お堀だけが残されて、県庁と県警が建っています。
私個人としては、あそこにお城が再建されたら素敵だなって昔から思っていました。
(近代的なコンクリートではない資料に基づいた、古い息遣いのするもの)
観光地の少ない福井。残念だなぁ~。