動物行動学の第一人者、日高敏隆さんが亡くなったことを11月24日、各紙が報じた。日高さんが書いた本を初めて読んだのはほんの1年ほど前。「ネコはどうしてわがままか」という書名に興味を覚えて買い求め、それがおもしろくて日高さんの本を何冊も読み、生き物の行動の謎解きの世界にハマッていった。
生き物の行動の謎解きにワクワク
美しい羽を広げて居並ぶクジャクのオスたちの間を、メスは一通り見て回ったあと迷わずに一羽のオスと交尾するという。そのオスが選ばれた理由が、羽にある目玉のような模様の数が他のクジャクより僅かに多かったというはなし(「春の数え方」)や、カマキリはその冬の積雪量を予知しているかのように、毎年枝のちょうど雪に埋もれない程度の高さに卵を産みつけるというはなし(「ネコはどうしてわがままか」)など、次々に紹介される人間の能力ではあり得ない驚きの生態の話に夢中でページをめくり、花園を飛び回るチョウや、田んぼで聞こえるカエルの合唱、枝を飛び交うウグイスの声などにすべて意味があるということを知って、身近な生き物への興味や親しみが増していった。
動物や虫だけでなく植物のことまで、動物行動学者の日高さんの話はとにかく面白く、1冊読み終えると次の本を本屋で探し求めていたが、日高さんの目は個々の生き物からもっと大きな生態系というシステムやグローバルなものへと向かう。
「調和のとれた生態系」なんてノンキな幻想だと知る
最近流行りの「生態系の調和を乱すな」という標語に日高さんは疑問を投げかける。そもそも生態系が調和の取れたものであると思うこと自体が幻想であるという。「それぞれの種の1つ1つの個体が自分自身の子孫を殖やしていこうとするので、それは当然シェア争いになる。なぜならその種が生きていける条件をそなえた場所は限られているからである。だとすると、自然はこのような果てしないシェア争いの場であって、けっして調和のとれた場所ではない。(中略)しかしそこには、強弱の問題や、競争コストの問題があるから、一定のところで妥協点に達せざるを得ない。この妥協した状態をわれわれが外から見ると、それは一つの「調和」のようにみえる。」(「春の数え方」より)
これを読んだとき、私達はなんてノンキに「生態系の調和」と唱えていたかと思い知らされる。そして、「自然が果てしない競争と闘いの場であるなら、「自然にやさしく」というとき、いったいそのどれにやさしくしたらよいのだろうか?どれかにやさしくすれば、その相手には冷たくしていることになる。」(「春の数え方」)という話に、絶滅危惧種の保護などに躍起になって環境を「守り」「整える」行動などが、本当の意味で環境を守ることになるのかという疑問を喚起する。更に昔からの日本庭園や近年よく作られる親水公園の類について「美しく管理され、不愉快な「雑草」もなく、いやな虫もいない、擬似自然。」と手厳しい。そして「日本人は昔から自然を愛した、などという誤った思い込みに陥らぬよう、もう少し醒めた認識が必要なのではないか(「春の数え方」)と警鐘を鳴らす。
よく耳にしてきた「ヨーロッパ人が自然を支配しようとしてきたのに対し、日本人は自然と共存してきた」という話を「なるほど」と思っていたが、これまで思い込んでいたこと、信じてきたことを考え直してみる必要があるのではないかと思うようになった。
自然と人間の関係に納得
こうした人間の自然に対する行動を日高さんは「自然とはちがう美を生みだそうとして芸術が生まれたのであろう。そして「死」というものの存在を知ってしまったことから、信仰や宗教も生まれたのであろう。広く人間の文化といわれるものは、このように自然と対決して生きることの上に成り立ってきたのだと思われる。」と、人間が自然をある意味「破壊」してきた訳を示唆し、「自然と対決して生きることは人間文化の根源であり、人間の存在の基盤であることになる。」(「人間はどこまで動物か」)という考えに行き着く。
哲学的とも言える日高さんの自然と人間の関係を見事に捉えたこのコメントを読むと、地球温暖化をもたらしたのも「人間文化の根源」の仕業であったことを思い知る。そうなると、地球温暖化阻止や、持続可能な世界の構築というのは、人間本来の根源的なものと対峙することになり、そこには難しいと言われている以上に実現するにはとても深い問題を抱えていることに気づく。
新刊「なぜ飼い犬に手をかまれるのか」は先週届いたばかりだった
「客観的な世界は存在しない!」にびっくり
そして更に大きな問題を意識させられたのが、いちばん最近読んだ「動物と人間の世界認識」という本。ここで日高さんは動物行動学の先駆的研究家であるドイツのユクスキュルが唱えた「環世界」という概念をもとに、動物は種ごとにそれぞれの主観的な世界を構築していて、それは人間も例外ではなく、人間も「本当に客観的な世界を見て、客観的な世界を構築しているのではない」と断じる。
読み始めてまず興味を引かれたのは日高さん自身による以下のような猫の行動記録。
家で飼っていたネコが、あるとき、奥さんが買ってきた陶器製のネコの置き物に対してあたかも本物のネコと思い込んでいるような行動を取った。それが面白かったので今度はもっとリアルなネコのぬいぐるみで試したが、そのぬいぐるみに対してはネコだと勘違いしたような行動は全くなかった。ところが、画用紙にマジックでごく大雑把に描いたネコの線画に対し、驚いたことにこのネコは本物のネコに取るような行動を起こした。
これはネコが見て、感じている世界は人間が見ている世界とは全く違うものである、ということを物語っている。このように生き物はそれぞれが独自の感覚で自分たちの世界を作っている。客観的なひとつの環境というものは存在せず、それぞれの生き物がある種の「色眼鏡」で見ている世界があるだけで、その世界を日高さんは「イリュージョン」と名づけ、様々な生き物たちにとってのそれぞれの「イリュージョン」について実に興味深い行動を多数の例をあげながら語っていく。
動物たちには、自分が生きるためと、自分の遺伝子を残すために必要な情報しか見えていないし、感じていないのだという。それは客観的なものではなく、完全に主観的な世界であり、人間の目に見える世界も結局はイリュージョンであり、決して「客観的なもの」や「真実」ではないのだと説く。つまり「自分の目で確かめろ」と言われて確かめたと思っていても、真実とは限らないということだ。
文化を育むことが人間の生存条件?
人間と他の生物が持つイリュージョンで大きく異なるのは、他の動物は同じイリュージョンを何千年、何万年と変わらず持ち続け、それに基づいて遺伝子を受け継いでいるのに対して、人間にとってのイリュージョンは実験や発見、科学的な考察などから、「世代によってイリュージョンが変わり、人びとは、そのときそのときのイリュージョンに基づく世界を認識し、構築する」ということ。地球が丸いこと、地球が回っているということ、紫外線や超音波、電磁波や放射線の存在… 人間には知覚することのできないこれらを、人間は知恵と技によって理解し、それを自分のイリュージョンに組み込んできた。
他の動物は自分達が命をつなぐためだけに必要な情報しか知覚することはなく、そのイリュージョンの中で生き、行動している。しかし人間は、自分たちが子孫を残すこととは関係のない情報、例えばパートナーとつがうために必死になっているカエルの合唱や鳥のさえずり、或いは虫に受粉させるためにキレイに咲き誇る花などを「のどかだなぁ」とか、「きれいだなぁ」とか感じて、そこから文学や音楽などの芸術を生み出した。でも、どうして人間にだけ、自分たちが生きることと直接関係ない世界を認知できる能力があるのだろうか。もしかすると他の動物が摂食行動や生殖行為で命を繋いで行くことと同じくらいに人間にとってこうした「文化を育むこと」は生きていく上で必要不可欠なことなのではないだろうか。
日高さんがこの壮大なイリュージョンについての著作の最後で、「学者や研究者が何かを探って考えて新しいイリュージョンを得て、それによって新しい世界が開けたように思うという新鮮な喜びを楽しむことが、人間が心身ともに元気で生きていくために不可欠」と、学者としての営みが自らの生きる原動力となっていることを告白しているが、「音楽がなければ生きていけない」とか、「サッカーなしの人生なんてあり得ない」というのも、もしかするとそれはその人にとって本当の生存条件になっているのかも知れない。
私達の存在意義を思う
日高さんのいくつもの著作から、動物たちの行動は全て、生きていくために驚くべきメカニズムを駆使して行われている目的のある行動だということを学んだ。そうすると人間が文化を育むということも、人間が生きていく上で欠かせない生命体の機能として人間の意志を超えてプログラミングされていることのようにも思えてくる。科学技術を発展させ、それによって人類が繁栄したこと、戦争という行為で大規模な殺し合いを繰り返してきたこと、自然を破壊し、地球温暖化をもたらしたこと、そして今、その反省に立って地球温暖化の阻止に動き始めたことももしかすると全てプログラミングされていたことなのだろうか。
動物の行動が全て「命を繋ぐ」という使命のためにプログラミングされたものであるのなら、人間も含めた動物がこの世に存在すること自体にも大きな意味が与えられているのではないだろうか。人間のイリュージョンでは計り知ることもできないような壮大な宇宙の中で大切な使命を達成する一端を我々は担わされているのではないだろうか。こんな宗教めいた話が日高さんの著作に出てくるわけではないが、日高さんの著作を読んでいるうちに、今までまともに考えたこともなかった自分が存在していることの意味まで考えるようになり、地球という枠を超えた世界に意識が向かった。これは自分のなかでの大きな世界観の変化だ。
叶わぬ夢
これから著される著作では、そんな哲学的な領域まで踏み込んだ話へも発展するかも知れないという新たな楽しみも加わり、新聞広告で見た新刊を喜んで書店に注文して届くのを待っていたときに接した訃報。講演会などがあれば是非聞きに行って生の声に触れたいとも思っていたし、私達の存在意義についても直接伺ってみようかとも思っていたが、それも叶わぬ夢となってしまった。
今は、残された多くの著作を読む以外に日高先生(敬意を表して)からのメッセージを受け取ることはできなくなってしまったが、僕はまだ日高先生の著作を読み始めたばかり。名訳の数々も含め、広大な日高ワールドに入り、自分のイリュージョンの世界を広げて行こう。
生き物の行動の謎解きにワクワク
美しい羽を広げて居並ぶクジャクのオスたちの間を、メスは一通り見て回ったあと迷わずに一羽のオスと交尾するという。そのオスが選ばれた理由が、羽にある目玉のような模様の数が他のクジャクより僅かに多かったというはなし(「春の数え方」)や、カマキリはその冬の積雪量を予知しているかのように、毎年枝のちょうど雪に埋もれない程度の高さに卵を産みつけるというはなし(「ネコはどうしてわがままか」)など、次々に紹介される人間の能力ではあり得ない驚きの生態の話に夢中でページをめくり、花園を飛び回るチョウや、田んぼで聞こえるカエルの合唱、枝を飛び交うウグイスの声などにすべて意味があるということを知って、身近な生き物への興味や親しみが増していった。
動物や虫だけでなく植物のことまで、動物行動学者の日高さんの話はとにかく面白く、1冊読み終えると次の本を本屋で探し求めていたが、日高さんの目は個々の生き物からもっと大きな生態系というシステムやグローバルなものへと向かう。
「調和のとれた生態系」なんてノンキな幻想だと知る
最近流行りの「生態系の調和を乱すな」という標語に日高さんは疑問を投げかける。そもそも生態系が調和の取れたものであると思うこと自体が幻想であるという。「それぞれの種の1つ1つの個体が自分自身の子孫を殖やしていこうとするので、それは当然シェア争いになる。なぜならその種が生きていける条件をそなえた場所は限られているからである。だとすると、自然はこのような果てしないシェア争いの場であって、けっして調和のとれた場所ではない。(中略)しかしそこには、強弱の問題や、競争コストの問題があるから、一定のところで妥協点に達せざるを得ない。この妥協した状態をわれわれが外から見ると、それは一つの「調和」のようにみえる。」(「春の数え方」より)
これを読んだとき、私達はなんてノンキに「生態系の調和」と唱えていたかと思い知らされる。そして、「自然が果てしない競争と闘いの場であるなら、「自然にやさしく」というとき、いったいそのどれにやさしくしたらよいのだろうか?どれかにやさしくすれば、その相手には冷たくしていることになる。」(「春の数え方」)という話に、絶滅危惧種の保護などに躍起になって環境を「守り」「整える」行動などが、本当の意味で環境を守ることになるのかという疑問を喚起する。更に昔からの日本庭園や近年よく作られる親水公園の類について「美しく管理され、不愉快な「雑草」もなく、いやな虫もいない、擬似自然。」と手厳しい。そして「日本人は昔から自然を愛した、などという誤った思い込みに陥らぬよう、もう少し醒めた認識が必要なのではないか(「春の数え方」)と警鐘を鳴らす。
よく耳にしてきた「ヨーロッパ人が自然を支配しようとしてきたのに対し、日本人は自然と共存してきた」という話を「なるほど」と思っていたが、これまで思い込んでいたこと、信じてきたことを考え直してみる必要があるのではないかと思うようになった。
自然と人間の関係に納得
こうした人間の自然に対する行動を日高さんは「自然とはちがう美を生みだそうとして芸術が生まれたのであろう。そして「死」というものの存在を知ってしまったことから、信仰や宗教も生まれたのであろう。広く人間の文化といわれるものは、このように自然と対決して生きることの上に成り立ってきたのだと思われる。」と、人間が自然をある意味「破壊」してきた訳を示唆し、「自然と対決して生きることは人間文化の根源であり、人間の存在の基盤であることになる。」(「人間はどこまで動物か」)という考えに行き着く。
哲学的とも言える日高さんの自然と人間の関係を見事に捉えたこのコメントを読むと、地球温暖化をもたらしたのも「人間文化の根源」の仕業であったことを思い知る。そうなると、地球温暖化阻止や、持続可能な世界の構築というのは、人間本来の根源的なものと対峙することになり、そこには難しいと言われている以上に実現するにはとても深い問題を抱えていることに気づく。
新刊「なぜ飼い犬に手をかまれるのか」は先週届いたばかりだった
「客観的な世界は存在しない!」にびっくり
そして更に大きな問題を意識させられたのが、いちばん最近読んだ「動物と人間の世界認識」という本。ここで日高さんは動物行動学の先駆的研究家であるドイツのユクスキュルが唱えた「環世界」という概念をもとに、動物は種ごとにそれぞれの主観的な世界を構築していて、それは人間も例外ではなく、人間も「本当に客観的な世界を見て、客観的な世界を構築しているのではない」と断じる。
読み始めてまず興味を引かれたのは日高さん自身による以下のような猫の行動記録。
家で飼っていたネコが、あるとき、奥さんが買ってきた陶器製のネコの置き物に対してあたかも本物のネコと思い込んでいるような行動を取った。それが面白かったので今度はもっとリアルなネコのぬいぐるみで試したが、そのぬいぐるみに対してはネコだと勘違いしたような行動は全くなかった。ところが、画用紙にマジックでごく大雑把に描いたネコの線画に対し、驚いたことにこのネコは本物のネコに取るような行動を起こした。
これはネコが見て、感じている世界は人間が見ている世界とは全く違うものである、ということを物語っている。このように生き物はそれぞれが独自の感覚で自分たちの世界を作っている。客観的なひとつの環境というものは存在せず、それぞれの生き物がある種の「色眼鏡」で見ている世界があるだけで、その世界を日高さんは「イリュージョン」と名づけ、様々な生き物たちにとってのそれぞれの「イリュージョン」について実に興味深い行動を多数の例をあげながら語っていく。
動物たちには、自分が生きるためと、自分の遺伝子を残すために必要な情報しか見えていないし、感じていないのだという。それは客観的なものではなく、完全に主観的な世界であり、人間の目に見える世界も結局はイリュージョンであり、決して「客観的なもの」や「真実」ではないのだと説く。つまり「自分の目で確かめろ」と言われて確かめたと思っていても、真実とは限らないということだ。
文化を育むことが人間の生存条件?
人間と他の生物が持つイリュージョンで大きく異なるのは、他の動物は同じイリュージョンを何千年、何万年と変わらず持ち続け、それに基づいて遺伝子を受け継いでいるのに対して、人間にとってのイリュージョンは実験や発見、科学的な考察などから、「世代によってイリュージョンが変わり、人びとは、そのときそのときのイリュージョンに基づく世界を認識し、構築する」ということ。地球が丸いこと、地球が回っているということ、紫外線や超音波、電磁波や放射線の存在… 人間には知覚することのできないこれらを、人間は知恵と技によって理解し、それを自分のイリュージョンに組み込んできた。
他の動物は自分達が命をつなぐためだけに必要な情報しか知覚することはなく、そのイリュージョンの中で生き、行動している。しかし人間は、自分たちが子孫を残すこととは関係のない情報、例えばパートナーとつがうために必死になっているカエルの合唱や鳥のさえずり、或いは虫に受粉させるためにキレイに咲き誇る花などを「のどかだなぁ」とか、「きれいだなぁ」とか感じて、そこから文学や音楽などの芸術を生み出した。でも、どうして人間にだけ、自分たちが生きることと直接関係ない世界を認知できる能力があるのだろうか。もしかすると他の動物が摂食行動や生殖行為で命を繋いで行くことと同じくらいに人間にとってこうした「文化を育むこと」は生きていく上で必要不可欠なことなのではないだろうか。
日高さんがこの壮大なイリュージョンについての著作の最後で、「学者や研究者が何かを探って考えて新しいイリュージョンを得て、それによって新しい世界が開けたように思うという新鮮な喜びを楽しむことが、人間が心身ともに元気で生きていくために不可欠」と、学者としての営みが自らの生きる原動力となっていることを告白しているが、「音楽がなければ生きていけない」とか、「サッカーなしの人生なんてあり得ない」というのも、もしかするとそれはその人にとって本当の生存条件になっているのかも知れない。
私達の存在意義を思う
日高さんのいくつもの著作から、動物たちの行動は全て、生きていくために驚くべきメカニズムを駆使して行われている目的のある行動だということを学んだ。そうすると人間が文化を育むということも、人間が生きていく上で欠かせない生命体の機能として人間の意志を超えてプログラミングされていることのようにも思えてくる。科学技術を発展させ、それによって人類が繁栄したこと、戦争という行為で大規模な殺し合いを繰り返してきたこと、自然を破壊し、地球温暖化をもたらしたこと、そして今、その反省に立って地球温暖化の阻止に動き始めたことももしかすると全てプログラミングされていたことなのだろうか。
動物の行動が全て「命を繋ぐ」という使命のためにプログラミングされたものであるのなら、人間も含めた動物がこの世に存在すること自体にも大きな意味が与えられているのではないだろうか。人間のイリュージョンでは計り知ることもできないような壮大な宇宙の中で大切な使命を達成する一端を我々は担わされているのではないだろうか。こんな宗教めいた話が日高さんの著作に出てくるわけではないが、日高さんの著作を読んでいるうちに、今までまともに考えたこともなかった自分が存在していることの意味まで考えるようになり、地球という枠を超えた世界に意識が向かった。これは自分のなかでの大きな世界観の変化だ。
叶わぬ夢
これから著される著作では、そんな哲学的な領域まで踏み込んだ話へも発展するかも知れないという新たな楽しみも加わり、新聞広告で見た新刊を喜んで書店に注文して届くのを待っていたときに接した訃報。講演会などがあれば是非聞きに行って生の声に触れたいとも思っていたし、私達の存在意義についても直接伺ってみようかとも思っていたが、それも叶わぬ夢となってしまった。
今は、残された多くの著作を読む以外に日高先生(敬意を表して)からのメッセージを受け取ることはできなくなってしまったが、僕はまだ日高先生の著作を読み始めたばかり。名訳の数々も含め、広大な日高ワールドに入り、自分のイリュージョンの世界を広げて行こう。