冥土院日本(MADE IN NIPPON)

祭りと父の日

朝早くから祭囃子と太鼓の音がきこえてくる。昨日、今日は産土神社の大祭である。四年に一度の祭りに街中が浮かれにぎわっている。土地を鎮め守る産土様に参拝し地域と人々の安寧を祈願した。

幼い頃の思い出といえば、やはりお祭りにつきる。故郷の産土神社の春と秋の年二回の大祭があった。商売繁盛にご利益のある神様でもあったので、地元はもとより遠方から大勢の参拝客が押しかけた。参道には屋台が立ち並び、境内にはサーカス小屋やら見世物小屋もあって大層な賑わいであった。

親に連れられてこの祭りに行くのが何よりの楽しみではあったのだが、ある面憂鬱な気分もあった。それは祭りといえば必ず父親が私を連れて行くことであった。我が家では何故か神社の行事は父親、お寺の行事は母親という不思議な職務分掌があった。お祭りの子供の楽しみといえば見世物と屋台の食べ物や飲み物と決まっている。私の父は潔癖症で「屋台の食べ物は不衛生。着色料や甘味料の入った飲み物は身体に悪い」と言って食べ物や飲み物を買い与えてくれないのである。これでは祭りの楽しみは半減である。父親がいない時を見計らって、母親に「祭りに連れて行け」とねだったことも度々であった。

父親は無口な性格で躾には厳格であった。現代風な甘口の優しい父親像とは総てが対称的な、古典的かつ辛口頑固親父あった。父は毎朝起床すると身なりを整え、神棚の榊と水玉の水を換え、炊き立てのご飯を供え、大きな音で拍手を打ち無言で祈った。旅行などで家を空ける日以外は神棚に祈るのが日課であった。

当時我が家には30坪ばかりの庭というか空き地があった。父はそこで野菜や果樹、花を育てた。そして時には鶏も飼った。休日は朝から作業着姿で一人黙々と畑仕事。畑仕事が終わると書き物をするというのが思い出に残る父の姿である。私はこのような父の姿があまり好きではなかった。時には格好悪いとさえ思った。他の家のお父さんの様に、休日はゴルフとまでは言わないが釣りくらいの趣味を持てば良いのにと思ったこともあった。

私の世代は戦後のアメリカ的価値感に毒されて育ったために、父親の価値感がとても古臭いものに思えた。そして私は少年期から青年期にかけてことごとく父に反発した。その頃「父の日」に何かをプレゼントを贈ったり、感謝の言葉をかけた記憶も無い。恥ずかしながら、父親の事がようやく理解できたのは30代も半ばを過ぎてからであった。

私は父の口から愚痴や恩着せがましい言葉を聞いた覚えが無い。躾には厳しかったが、成人してからの生き方についてとやかく言われた事も無い。現世的な通念から言えば、父の人生は不遇であった。親兄弟との縁も薄く、努力して得た地位も財産も先の戦争で失った。4年間のシベリア抑留生活の末に勤め人として再出発を図ったが、子供三人を育て大学教育まで受けさせるには並大抵の苦労ではなかったろう。

父は大量の遺稿を残した。今それを読み返してみても愚痴や弱音、社会や他人への恨み言は一つも見当たらない。今日一日の生を与えられたことを神に感謝し、どのように過酷であっても現実を受け入れ、家族のために黙々と働き、淡々と日常を送る。それが父の生き方であった。

気がついてみれば、いつしか私も毎朝神棚の前で家族の健康と幸せを祈り、ベランダで観葉植物を育て、何時かは家で食べる野菜は自分で育てる畑が欲しいと思うようになった。あれほど格好悪いと思っていた父の生き方が、今ではとても素敵なものに思えてくる。父ほどには淡々とは生きられないが、人としての生き方を無言で教えてくれた父親に只々感謝するのみである。

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