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団塊団子

団塊世代の暇潰し冗談 ぼやき と たわごと

オルゴルド

2015年11月14日 21時36分28秒 | 小樽



小樽オルゴール如何(堂)


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第2次小樽・石狩戦争

2014年04月21日 11時20分00秒 | 小樽

第2次小樽・石狩戦争

石狩湾の国境、いや市境はどこ?

洋上風力発電の税収をめぐり小樽と石狩が綱引き、
陸界延長か海岸垂直かで第2次小樽・石狩戦争勃発か?

洋上風力発電の計画が進む石狩湾新港沖の海上で、
小樽市と石狩市の境界を画定する必要が生じている。
境界線の引き方次第で、
発電施設にかかる固定資産税収入が大きく変わるためだ。

(2014.3.24 北海道新聞)



第1次小樽・石狩戦争

小樽の領土は奇妙に北東方向に延びたゲリマンダーである。
そこは、小樽と石狩の新港利権を巡る経済戦争の結果、
小樽領となったのである。

石狩湾新港

1973年、港湾工事が開始されるも、小樽港の衰退を懸念する小樽市がごねたため、
1975年、石狩町大字樽川村の一部を割譲し、小樽市銭函4~5丁目とした。
石狩湾新港を真っ二つに分割することによって和睦した両者は、
1978年、それまで北海道単独だった港湾管理者に加わり、
三者により石狩湾新港管理組合を設立した。
JR銭函駅で降りて銭函5丁目の新港までタクシーで行った早とちり氏は
国道337をぶっとばし、メーターが3千円4千円と上がるのに驚いたという。


バッタバッタ

小樽の東端、手稲山口にバッタ塚というのがある。
明治時代の北海道はバッタの大量発生で被害甚大だった名残である。
北海道でイナゴの大群?、まるでパールバックの大地じゃないか?
映画『北の零年』の一シーンに疑問を持ったのだが、
これが動かぬ証拠であった。
映画『北の零年』は稲田騒動から始まるが、この映画、
史実は参考程度と割り切り過ぎた娯楽活劇ではあった。


(注1)小樽の領土はバッタ塚よりさらに北東に延びる。

(注2)稲子
パールバックの大地で描かれたイナゴの大群、
昔は大群で押し寄せ、農地に壊滅的打撃を与えたのはイナゴと思われていたが、
イナゴは大群で飛び回ることはないそうだ。
バッタは普段はおとなしく緑色で孤独な生活をしているが、
旱魃で食べ物が減ると、えさをもとめ幼虫が密集し、刺激物質を発散し、互いに刺激し合い、
体は黒くなり、顔も四角になり、凶暴な群生バッタに変身するということだ。
明治13年~17年頃、北海道で農作物を全滅させた記録がある。

(注3)稲田騒動
江戸時代、徳島藩家老の稲田氏が淡路島を支配し、
稲田家臣は、徳島本藩からは陪臣として扱われていた。
明治2年、政府は武士の身分を改め、
稲田家当主は士族としたが、家臣は陪臣のため卒族とした。
稲田家臣は士族への編入と分藩独立を求めるに至り、
この動きは徳島家臣の激しい怒りを買い、明治3年、
稲田家臣が襲撃される事件が起きた。
政府は徳島藩側に斬首など厳しい処罰を下し、
稲田家側には北海道開拓を命じ、静内に移住させた。

(注4)バッタ塚
手稲山口のバッタ塚は札幌市指定史跡になっている。
飛蝗(ひこう)はバッタ科の昆虫(殿様飛蝗)が群飛して移動するもので、
アイヌ人の口承では何十年かおきに有ったという。
明治13年に十勝で発生し各地に広がり18年まで被害を与えたという記録が残っている。
政府は飛蝗が津軽海峡を越えることを心配し駆除に努め、
捕えた成虫は穴に埋め土で覆ってバッタ塚を造った。
手稲山口のバッタ塚は明治16年に掘り集めた大量の卵のうを砂地に並べて埋めたものである。



石狩挽歌

ニシン漁の労働歌ソーラン節に江差追分

北原ミレイ、石狩挽歌の歌詞に、

「海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆がさわぐ・・
わたしゃ大漁の網を曳く」


石狩湾では鰊の群来(くき)が目撃され、
今年の小樽沿岸のニシン漁獲量は、
既に昨年の年間漁獲量の2倍を超え、
96年に放流事業を開始して以降、
最高記録を更新中とのこと。
(2009.3.5 北海道新聞)


浜は祭りの様だけど
海の中では
何万の鰊の弔いするだろう
(金子みすず)


(注1)金子みすず
早死にの童謡詩人

原詩は鰊ではなく鰮、
だが、ニシンとイワシは親戚関係、
同じニシン科の魚

(注2)群来(くき)
産卵と白子で海が真っ白くなり、
浜辺にうち寄せ子どもも手づかみし、
学校も役場も休みになった(昔の話)

(注3)江差追分
高島岬の祝津展望台には江差追分歌碑があり、
晴れれば札幌JRタワーも見える

(注4)石狩挽歌
2,424,024人目の入館者に記念品贈呈、中途半端な数字と思ったら、
ニシン・ニシン・オーニシン、にしん御殿 旧青山別邸って、
小樽貴賓館で石狩挽歌の碑があり、江差追分碑や鰊番屋も近い
(水族館・青塚食堂の1kmほど手前の細い道を海側から上がって行く)
(2011.5.1 北海道新聞)



歴史の重み

1851=嘉永4年、新潟で創業
1904=明治37年、小樽に移転
2010=平成22年、札幌は閉店

花月堂
フランチャイズ24店 道内最古の企業が看板の重みと雪の重みでつぶれた
(2010.11.24 北海道新聞)



旬の味

美味けりゃ高くたって良いが、安くても不味けりゃ駄目。
刺し身は一切れか二切れを食うから美味いのであって、
丸ごとドンじゃただの生臭魚肉だ。
一心太助は丸ごとドンの典型だけど、
魚屋の息子がやっている店だから新鮮で美味い。
丸ごとドンは料理ではないけれども地元の産地に直結だから美味いのだ。
流通経路が込み入っていれば地元だって新鮮なものが食える訳ではない。

我々よそ者は地物は美味いと思っているが、
地元の人は今年(2004年)のウニは甘味が足りなかったと言っている。
小樽のウニは5月~8月が漁期で、
9月になると他所のウニか冷凍物で味も落ちる。
採れたてを旬で食うから美味いのであって、
採れたての旬の味を遠方に送ることは無理な話しなのだ。

(注)2006.11 一心太助はノロウィルスにて消滅


毛蟹、鱈場蟹、ずわい蟹、花咲蟹

カニ食えば 金が無くなる 北海道

北海道は、
自然は一流、設備は二流、サービスは三流と言われている。
三流のサービスとは例えば「毛蟹送ってー」と言う人に
スカスカの味気ない毛蟹を送ってしまうとか、etc & etc
地元の人間がなんで地元の悪口を言うんだ、と、
お怒りの人もいるけど、これは悪口ではなく叱咤激励なのだ。
地元のためにこそ言っているのだ。
北海道は、
自然は一流、設備もサービスも一流だ、と
言ってもらえるようになってほしいからこそ言っているのである。

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赤い靴はいてた女の子

2014年03月29日 19時25分28秒 | 小樽

赤い靴はいてた女の子

異人さんに連れられて行っちゃった♪

赤い靴の女の子、きみ

きみは米人牧師の養女に出されるほど実母のかよは貧しかった

かよの再婚相手、志郎

志郎、啄木、雨情は小樽日報の同期だった

雨情はかよから話しを聞き作詞した

きみは病弱で米国へは行けず東京の孤児院で結核を患い死んだ

かよはこの事実を知らなかった・・



石川啄木

電車を降り、333個のガラスランプを眺めながら小樽駅を出ると案内版に
『子を負いて 雪の吹きいる 停車場に われ見送りし 妻の眉かな』
歌碑は左手を上がった三角市場の入り口にある。

啄木下宿先の『た志満(たじま)』は花園公園通りに面し、
公園通りを山側に上がって行くと公園があり歌碑がある。
公園通りを海側に上がると水天宮(すいてんぐう)に歌碑がある。




啄木が勤めた小樽日報社の社屋が写った写真が発見された。
これまでは、
啄木研究家撮影の粗末な板張り民家風が社屋とされてきたが、
啄木の『北海道一の立派な新築大家屋』という記述に合わず謎だった。

啄木が見栄を張ったと言われていたが発見された写真では、
2階建てでモダンなたたずまいの大きな建物で啄木の記述に合致する。
この建物は大正15年(1926年)に焼失し、その跡に建てられたのが
啄木研究家が撮影した建物らしいことも分かった。

隣接の蕎麦屋、籔半の店主は「弊店の石蔵が写っている」と言う。
小さな新聞社で働く見栄っ張り啄木のイメージが修正され、
北のウォール街、小樽の活気あふれる新聞社での活躍が目に浮ぶ。

( 注1 ) 2008.11.8 北海道新聞

( 注2 ) 蕎麦屋、籔半は通に言わせると、
    そばを食わせる店じゃない・・



俺の小樽
俺の小樽 は坂の街
俺の小樽 は海の街
俺の小樽 は鮨の街


小樽っ子
● おたる
第一音節「お」にアクセント

● おたる
第二音節「た」にアクセント

この違いで 小樽っ子 かどうかが分かる。


小樽といえば寿司!
食べ放題 2980円 の看板にそそられ入店、
案内されたのが立派な白木のカウンター、
で、
おしぼりが出て、
「何握りましょ?」
「食べ放題で…」
- 途端に店の人、豹変 -
「お席はこちらでお願いします」
と、
階段下のせま~いテーブルへ連れてこられ、
出るは不味い寿司、
お替りは注文しようにも誰もやって来ない・・


「世界一無礼な寿司屋」北杜夫

私と妻とカメラマンは、カウンターに坐った。
妻が
「あの貝は何ですの?」
と店員に尋ねた。
そこは親父さんとその息子らしい若い三十歳代の男がいた。
その若い男は、先客の二階の客の寿司を握っていて、
「それは、これが済んでから」
と、実に突っけんどんに言った。
私はムッとした。
いやしくもこちらは客である。
またその若造は、私が醤油の皿を前に置くと、
パッと邪険に無言で位置を変えた。
それから二階の寿司を握り終えると、
「注文しないと何も出んよ」
と、客を客とも思わぬ口調で難ずるように言った。


小樽の寿司屋に限らず北海道の観光街の店は
一見客に対する扱いはひどいです。
当時小樽の街ではちょっとした騒ぎになったエッセイです。
自称躁鬱病の北氏ですから、
かなり精神のバランスが悪い時に書かれたのでしょう。
インターネットで店の評判が分かる今の時代では、
おごった店や職人は淘汰されて行くことでしょう。

二度と来ないであろう客ということでボる店もあるようですが、
一般的に小樽の寿司屋は高いのが多いです。
松竹梅特上並とかのセット以外は会計時にトラブルことの無いよう
値段を確認してから注文するなどした方がいいでしょう。
食中毒で営業停止になって、その間に出前だけならと営業して
また被害を出したのも小樽の寿司屋でした。
偏屈で有名とかいう店でも衛生観念が無いような店も有ったりで、
評判が良くても必ずしも満足出来ない店があります。

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