大地産笑~畑は笑顔を育てる~

新しいスタートラインに立っている今。いろいろなところに目を向けて未来につなげたい。

細木数子の口からデマカセ

2005-11-30 19:32:01 | 農業を考える
 11月11日放送のフジテレビ「幸せって何だっけ」の番組中に細木数子氏が発言した内容によって全国の養鶏生産者などから激しい反発・抗議が出ている。最近は鶏インフルエンザで消費者や養鶏生産者に強い不安と関心をよんでいる状況である。にも関わらず、さらに消費者に不安を与えるようなことを全国に発信したのは間違っている。根拠があればいいのだが、まったく科学的根拠もなくあり得ない内容だから大変だ。細木数子氏の口調は強く、おどしているようにたまに感じるから、視聴者にとってはとても影響力が強いと思われる。

 
=細木数子氏の発言について=

 鶏卵を8~9円/ヶと安く生産できることはあり得なく恐ろしいことである。これは生産者・販売者と消費者の三者凡退の罪悪である。
 
 このように鶏卵が安い理由は、

1.養鶏場では24時間明かりをつけ夜もない状態で生産させているからである。
→日長時間の変動から明かりを付けたりしている。しかし、24時間つけっぱなしということはないだろ。一睡もさせないなんてことはないし、睡眠なしで生きていくのは科学的にも現実的に不可能である。

2.鶏の生産用の食べ物は殆んどが薬でできており、このような卵を食べると皆病気になってしまう。
→薬事法に定められたもの以外は使っていない。それに生産者自ら自分の首をしめるようなことはするわけない。現に違法した生産者は出てきていないではないか。細木数子氏も卵は少なからず食べてきているはず。病気になっているのか。卵アレルギーの人以外に卵を食べて病気になったという事例はない。

3.鶏に1日2~3個もの卵を産ませている。
→鶏の排卵周期は24時間±α。1日に2個も3個も産むわけがない。世界的にみても鶏が1日に2~3個産んでいるところはない。ありえない。


 フジテレビはこの発言内容に対して疑問も持たずに放送したのか。放送をする前にこの発言内容について事実確認はしたのか。細木数子氏は今まで占い等で世間を騒がしてきた。視聴者に対しての影響力は強いはずだ。科学的根拠もないのに、視聴率かせぎに放送したとしたら大問題だ。これは養鶏生産者から損害賠償を求められてもおかしくないと思う。
 日本の農業は今、窮地にたたされている。自分の国の農業を自分の発言でこわしてしまうことになる。これが事実なら何もいえないが、科学的に根拠もないことだから、生産者にとっては大迷惑だ。
 
 細木数子氏はこの抗議文に対して何か次回の放送で話すだろうか。「ありえない事実を発言してしまったのを大変申し訳なく思っている。視聴者に不安を与えてしまい大変申し訳ない。」とでも言ってくれたらいいが、あの人は間違いを認めなさそうで怖い。「私は間違ったことなんて言ってないわよ。」って言いそうで怖い。フジテレビの方から司会者等を通して、誤りを認めるだけではなく、細木数子の口から申し訳ないという言葉を聞きたい。それだけ視聴者に影響力のある人なんだから。細木数子ねぇ…。はぁ。

抗議文

英語は地球標準語!

2005-11-29 20:40:27 | 非現実世界アジア学院
 このタイトルは11月28日朝日新聞朝刊の記事にあったものだ。早稲田大学125周年記念21世紀国際フォーラム「グローバルコミュニケーションと日本人の英語」の討論の様子が書かれていた。ついついこの記事に目がいってしまった。すごく興味のわいた記事だ。

 この記事でわかることは日本人は英語に関しては遅れているということ。先進国でありながら英語後進国である。アジア・アフリカ諸国はイギリスから独立したため昔から公用語として英語が使われている。台湾・中国・韓国でも最近英語に力を入れるようになってきた。英語はすでにアジアの言語になっているのだ。アジアで英語がしゃべれない国は日本だけというようにならないようにしたい。日本はそこらのアジア諸国と比べて経済力もあるし、一緒にしないでくれという意見もあると思うが。現に日本人は日本もアジアの一員ということを理解していない人も少なからずいるはずだ。アジア=貧乏とかの偏見も持っている人もいると思うし。欧米に憧れるのもわかる、しかし日本もアジアだ。

 英語ができない、話せない理由は精神的なもの。文法・発音を気にしすぎていて、自分の英語に自信が持てない。勇気を持たなければならないという。日本は島国で大陸国と違って求心力が働く。運命共同体というか。それに「島国根性」とかもある。

 日本は立派な歴史と文化を持っている。それを世界とどんどん共有していった方がよい。それには国際的な発言力が必要だ。しかし、日本は国際的な発言力が弱い。それを改善していかなければこれから日本は世界から孤立されていくかもしれない。アメリカに発言をまかせて、アメリカの言われるがままだとどうなるかわからない。アメリカがバックにいなくてもズバッと発言できるような英語力がほしいところだ。

 
 アジア学院に来て、英語力のなさがはっきりとわかった。アジア・アフリカ諸国から来た学生はアジア学院が英語が共通語ということもあり英語をみんな話す。文法なんてめちゃくちゃな人ももちろんいるが、他人とコミュニケーションしようと英語をとにかく使って話す。単語だけでも、身振り手振りでコミュニケーションできるし。しかし、今まで5ヶ月間暮らしてきて自分はちゃんとコミュニケーションできたかということは、わからない。最初の頃よりはもちろんコミュニケーションできるようになっていると思う。しかし、わからなくて違う日本人に頼ってしまった時もあった。アジア・アフリカ諸国からの学生は英語と同時に日本語も少し話せるようになっている。それはたぶん日本だからというのと、日本語を学ぶ意欲があるからだと思う。自分をアピールするのも何か発言が必要だし。文法・発音がちゃんとしていなくても相手には伝わるということもわかった。縮こまってないでもっとオープンにならないといけないと思う。もっともっと自分には勇気が必要だと思う。そしてたくさんの人とコミュニケーションを取りたい。自分が興味あることなら力が向上する。

 最後に私たちはみんな地球という惑星に住んでいて、日本人であると同時に地球市民だ。地球標準語である英語を話して世界とコミュニケーションしていかなくてはならない。

こんなところに…

2005-11-28 21:35:46 | 非現実世界アジア学院
 農者大の人が来るわけないだろ!?ってお互いに思っていた。何かの聞き間違いだってことを。アジア学院に昨日、農者大の卒業生がビジターとしてやってきた。お互いに驚きだった。だってねぇ…農者大の英語の授業って自己紹介の "My name is~"から始まるくらいのレベルなのに。共通語が英語っていうここに来るほうが不思議だよ。自分は来ているんだけども。

 ビジターとして来たのは34期生の熊本出身の吉永さん。自分が37期生だから34期生の吉永さんとは全くかぶらなかったんだけども、何回か農ゼミで話が出てきたことがあるようなないような。非農家出身で、現在フィリピンのネグロスのNGOで農村に入って現地の人と一緒に働いている。農者大に講師に来ていた大野先生の授業でNGOに誘われたらしい。そこで働いている時にアジア学院を知って、日本に帰ってきているこの時期にアジア学院に来たというわけだ。

 そんでもってアジア学院に来る前の日、山形の米沢郷牧場に見学しに行き、その晩伊藤幸蔵さんと飲んでたんだって。ここでもまた驚きだよ。伊藤幸蔵さんは入学前の1年研修の研修先「ファーマーズクラブ赤とんぼ」の社長さん。ここで、アジア学院を通して、自分と吉永さんと幸蔵さんがつながった。米沢郷牧場にアジア学院の学生の半分が夏休み研修旅行で行っていた。偶然としか言いようがない。

 吉永さんとのつながりは大切にしていきたい。ネグロスは行きたいと思っている。吉永さんの所属しているNGOを見に行きたいし、その農村で作業したいからである。そんでもってアリエルの農場に行ってみたいからだ。アリエルとはネグロス出身の学生で、自国のフィリピンでは珍しいといえるくらいの有機で農業をしてる。アジア学院では更なる有機農業の知識をつけようとやってきたらしい。吉永さんと話したら、連絡してくれればいつ来ても歓迎すると言っていたし。ホテルとかには泊められないけどねって。泊まるところは農村でホームステイ。こっちのほうがいいよ。

 せっかくアジア学院に来て外国人と交流できるようになったんだから、こういうチャンスは活かしたいと思う。いい機会だし。アジア学院はいろんな人がいるし、やって来る。農業とは関係ない方ももちろん来るし、農業したいっていう大学生も、国際協力に興味ある大学生も、最近の高校生も、青年海外協力隊にこれから参加するという人も、アジア学院の講師も、有機農業者も、そして変な人も来る。たくさんの人がいるから「農業」という1つの点に絞られた話だけでなく様々な話ができる。お互いに知らない知識の共有もできた。若いときはいろんなものを見とけっていうし、ここに来てホントよかったと思っている。農家では経験できないこと、得ることのできない知識を得ている。もちろん農家で学べるような先進技術というものはないけれど。それは大学を卒業してからもできるし。今はこのたくさんの人との出会いを大切にしていきたいと思っている。

 今日、一緒に作業したとき農者大の話をした。先輩の話とか、飲み会の話とか、後輩の話とか、もう廃止なっちゃうねとか、学校生活の話とか…懐かしかったね。みんなに会いたくなった。

 最後なんだけど、なんか日本語って好きなんだけど嫌だなって思った。どっちなんだよって感じなんだけど。まぁ気にすんな。アジア学院では英語が主流だから英語で会話する。英語には敬語がないんだよね。どう言いまわそうとしても。だから年関係なく普通に敬語使わず話しているし。日本語になってもそれは同じで、ほとんどタメ語で話している。一部のスタッフの方をを除いてタメ語だ。外部から来る人にも年とか関係なくタメ語で話してしまっている自分がいる。だから態度でかいと思われて老けて見えるのかもだけど。昨日農者大の先輩が来て、もちろん最初は敬語だよ。初対面だもん。いつもなら作業中なら年関係なくタメ語で話しちゃってるのにそれができなかった。昨日が初対面だけど先輩だからっていうのがやっぱ強かった。しかも今日の敬語すごいぎこちなかった気がする。無理やり敬語言っているなぁと話しながら自分で思っていた。敬語なんてなくてもいいのに。こんなところで年関係なく敬語関係なく話せる英語っていいなぁって思った。

日光を浴びてきた!(東照宮編)

2005-11-28 19:20:36 | 旅行に行っちゃえば
 いろいろ書いてきたけど今回で終わらす予定。もうそろそろいいだろ。

 東照宮はね、やっぱよかったよ。キレイだったし。1ヶ所だけ工事していた部分あったけど。キレイという言葉ではまとめらんないけど。彫刻技術に感動したね。

 小学校の時はただすごいねぇとか何だコレとかキレイとしか思ってなかったけど、ちゃんと物事を考える今になって改めてその美しさにわかった。勉強とか関係なしに来るのが初めてだったから、ツアーガイドの言ったことを写さなきゃなんてことも思わず、ツアーガイドの話を無断で聞いていた。でもツアーガイドは話長すぎ。大体がわかったら次の場所に移ってまた新しい団体に混じって話を聞く感じだった。

 鳴き龍もよかった。薬師寺だっけかな。鳴き龍の顔の下で拍子木を叩くと音が反響してそれが龍が鳴いているように聞こえるってやつだ。鳴き龍の顔の下でないところで拍子木をたたいても反響はしない。でもね、心なしか顔の下で叩いていたときのほうが強かったような気もした。反響音はきれいだったよ。澄んだ音だったし。

 そういや甘酒も飲めるようになったんだゎ。子供の頃はまったく飲めなかった。気持ち悪い味だし、臭いし。でも寒くて甘酒買って飲んだらおいしいんだよねこれが。子供の頃とは考えも全く変わっているし、好みの味覚も変わっているね。

 あとアジア学院来てセロリも食えるようになった。今まであの匂いがダメで、あんなもの食わなくても生きていけるって思ってたけど。アジア学院は外で野菜を買ったりはしないから、夏場は葉物野菜がなくてね。あってもゆでられたりするし。生野菜ってのほとんどなかった。生野菜が恋しいときに、セロリがスタッフの知り合いから送られてきた。もちろん生で食したんだよね。そしたらそれがまた美味かったんだって。生野菜が特に恋しかった時だってこともあったけど。

 「日光(にっこう)を見(み)ずして結構(けっこう)と言(い)うな」という慣用句がある。これ慣用句だからね。オヤジギャグではないから注意を。日光の東照宮の建築の美しさこそは「けっこう」という言葉に値するっていう意味なんだよね。やっぱり見てきてよかった。栃木にいるのに見ないなんてダメだね。この慣用句と同じようなもので「ナポリを見てから死ね」って慣用句もある。でもこっちはいただけないね。死ねってことはないだろ。ってことでナポリも見に行かなきゃなぁ…。

日光を浴びてきた!(三猿からわかる恋愛編)

2005-11-27 21:24:20 | 旅行に行っちゃえば
 日光の中でも特に有名な三猿(見猿・言わ猿・聞か猿)。日光行ったらやっぱこれも見なきゃね。小学校の頃はデジカメなんてなかった時代だから、昨日ちゃんと写真におさめてきた。

 この彫刻の解説には「目、口、耳をふさぐ猿は幼年期の猿で、子供のころは悪い事を見たり、言ったり、聞いたりしないで、素直なままに育ちなさいという教育論の意味がこめられています」とある。ちなみに英語だとhear no evil, see no evil, speak no evilってなるんだってさ。

 こんな教育的な意味がこめられているとは知らなかった。そうなんだよね~子供の頃は悪いことを見たり話したり聞いたりしないで素直に育つのがホントはいいことなんだけど、実際は悪いことをしたくなってしまう年頃だったんだよね。不良とかがかっこいいと思っていたし。悪いことをしている人の方がみんなから慕われていたしね。近所のガキ大将ってそんな感じだ。ドラえもんでいうジャイアンタイプ。

 「見ざる・言わざる・聞かざる」ってあっても子供にとっては難しいことだよ。悪いことを少しでもできないと仲間はずれにされたりするし。「見ざる・言わざる・聞かざる」のままで生きていたらイジメの対象になってくる。それに悪いことは少しでも経験したほうがいいと思う。それで罰があたったらそこで悪いってわかるし、自分の糧にもなると思う。

 外の世界(悪い世界)を全く知らないと、うまく人生をわたっていけないと思う。いい子いい子されて育った子はわがままになってしまうんじゃないか。子供の過保護もよくないしさ。だからって悪いことしろって言っているわけじゃないけど。


 これは大人の世界でも言えるかもしれない…。

 悪いことだけじゃないと思うけど、特に自分や気持ち・心にとって思わしくない面でさ。例えば悪口ってそうだよね。聞かなかったらよかったっていうことが何回かある。聞いちゃった時点でその相手のことが気になって仕方なくなるし。その人の行動・話がさ。手で顔を覆って見なきゃいいのにさ。でも指と指の隙間から覗いてしまう。「見ざる・言わざる・聞かざる」のように最初から聞いていなかったら自然のまま普段どおりに生きていけるんだろうけど。でも少しでも聞いちゃったらそれはもうできなくなる。

 これは憎んでいる人だけに言えることじゃない。家族とか大事な人・好きな人・関係が深い人(上司・先生とか)の場合でもそうなるね。自分と関わりのない人、どうでもいい人(知らない土地の人・芸能人とか)だったら見たり聞いたり話したりしてもぜんぜん気にならないんだけどさ。誰でもあるはず。こんなこと聞かなきゃよかった、こんなこと知らなきゃよかった、こんなこと話さなきゃよかったって思うこと。でも知らないままでいたら自分は幸せだったのか!?知って幸せになるわけではないと思うけどさ、そのまま知らないよりは知った方がよかったんじゃないかな。知らなかった方が不幸せだったりするんじゃないのかな。
 
 誰でも経験のある片思い中とかもそうだしさ。好きな人のことは気になって気になって仕方なくなる。その人をもっと知りたいと思う。その人の言ったこと、自分に対しての見方、そして自分の話すこと…すべてが気になってしまう。どうでもいい人ならあっそうって感じなんだけどさ。どうでもよかないんだから。恋人がいる人もそうだよね。ケンカしてしまった時にさ。あ、言わなきゃよかったとかってあるじゃん。傷ついて傷つけあって。でも好きな人だからこそ、ついつい口に出ちゃうんだよね。本音がさ。直してもらいたいから。わかってもらいたいから。
 
 そして見なきゃよかったって一番思うのは浮気の現場とかね。経験はないけどさ。でも見ちゃったからには怒りもこみ上げてくる。浮気を知ったり見なかったりしたら、それからも今まで通りにいけると思うけどさ。でも実際は二股されてるんだよね。しかも自分が知らないところで。そのまま知らないのは不幸だよ。知っちゃって最悪って思うかもしれないけど、知らなかったほうが最悪だって。相手に悪いところがあったら直せるかもしれない。けど悪いところを知らなかったらそのまま悪いままなんだよね。自分の過ちに気づいてもらえるかもしれないしさ。

 悪いことを知ることは悪くはない。「失敗は成功の基」ともいうしさ。悪いことを知って、それを良い方向にもっていけたらいいんじゃないかな。いろいろなことを知ることはスタートラインになる。

 「見ざる・聞かざる・言わざる」が良いっていっても難しいよ。大人だって難しいんだから子供なら尚更難しいよ。苦労して生きなきゃ。人生に厚みができる。薄っぺらい人生ってイヤじゃん。

 
 「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿にもう一匹付け加えるとしたら「着飾らざる」だろうなぁと。言いにくいけど。見栄をはったり着飾ってしまうのはよくないよ。厚化粧とか香水つけまくりとか…ちょっときついね。小学校の父母参観とかの時の母親の格好とかね。どこの母親も勝負みたいにケバイ格好してくるし。みっともないと思うね。それに我が子自慢とかね。子供にとっては恥ずかしいって。子供はそういう親の姿見て育つってこと忘れないでほしいよなぁ。あとね、自分の自慢ばかりする人もイヤだね。自慢ならまだしも見栄とか嘘は。いつか剥がれ落ちるぞって感じ。わかったわかった、はいはいってね。「着飾らざる」なら大人でも子供でもできるでしょう。自分の素を出していくのは自分にとって苦痛にならないしさ、気持ちぃじゃん。

 あぁぁ…こんな長くなってしまった。絵文字とか入れれば見やすくていいんだけど、好きじゃない。めんどくさいっていうかイマイチ使い方わからんし。ってことでおやすみなさい。ざるソバ食いたい。

日光を浴びてきた!(こんなことしなくても編)

2005-11-27 12:10:30 | 旅行に行っちゃえば
 眠り猫の門をくぐって家康の墓に行くまでの間ずっと上り階段だ。まわりは年月の経過している歴史ある木々が生い茂っている。まだお昼過ぎなのに少し暗い感じだ。

 太い幹にたくさんの葉、そして金属ワイヤー。え!?ワイヤー?と思い、周りの木々を見渡すと木々に張り巡らされてる金属ワイヤー。こんなことしなくても…。寺院に木が倒れてきて壊れたら大変ってことでなんだろうけどさ。でもなぁ…せっかくの緑に囲まれた道でキレイなんだからさ。風情がなくなるよなぁ。自然に逆らってもいつか人口のものは壊れてしまうんだからさ。なんかなぁ…いただけないなぁと思いながら階段を上っていった。

 階段を上っていると上から肩に手をかけられて下りて来ているおじさんがいた。病気?怪我?どうしたんだと思いきや、前にいた女性にヨォって声をかけている。すれ違った瞬間酒の香りが。酒臭いなぁ…酔ってるのかよ。ってかここまできて酔っ払うなよ。いい年してさ。もう少し場を考えろ!

 写真では見にくいかもしれないけど、周り、そして上を見渡すと木々には金属ワイヤーが張り巡っていた。ほんとこの写真見にくいうえに、実際はワイヤーがとても醜いね。

 歩くこと10分家康の墓に着いた。手前の陽明門に比べるととても質素な感じだ。周りに長寿を意味する鶴や亀の形をした彫り物がおかれている。叶杉もある。願い事は…内緒。

日光を浴びてきた!(眠り猫編)

2005-11-27 11:48:22 | 旅行に行っちゃえば
 やっと日光の社寺にやってきた。輪王寺とか二荒山神社、薬師寺、東照宮を拝観するには拝観料が取られる。大人1300円なり。以前来たの小学校の頃だったから金かかるなんてこと知らなかった。まぁ仕方ない。しぶしぶ1300円払って拝観券を得た。順番どおりに見回った。ツアーガイドさんの説明を聞きながら。ツアーで行ったわけではないが。ツアー客になりすましてというかツアー客の後ろを歩いていた。ツアーでもないのにガイドの説明が聞ける。モノ(ヒト)は使いようだ。

 パンフレットにも書いてあった「眠り猫」。なんとここは拝観料とは別に料金がかかる。ここでも金かよ。でもせっかく来たんだから。家康の520円をまたしぶしぶ払って。
 
 ってちょっと待ったぁ…今インターネットで日光観光協会のオフィシャルサイトで料金確認したらなにかおかしい。最初拝観料1300円払ったんだよなぁ…それは東照宮券で奥宮・眠り猫・鳴龍を含むって書いてある。鳴龍と奥宮はこの最初に買った拝観券で通れた。でも眠り猫のとこは通れなかった。二社一寺共通拝観券ってのもある。こっちは1000円だ。輪王寺も二荒山神社も見たからこっちを最初に買ったはずじゃないのか!?こっちの1000円券だと眠り猫見るのに520円かかる。ほんとは1520円ですんだところ1820円かかっている。ボッタクリじゃねぇか!?おいおいバイトの巫女さんふざけるなよ。ここまで来てボッタクリに会うとは…。あぁ…インターネット見て料金確認なんてしなきゃよかった。いや、もしかしたらインターネットが間違ってるのかも。ということにしよう。
 
 眠り猫の方はというと、またまたこれも神橋という感じに、え!?これだけなの?って感じになってしまった。小さっ…。うぅ~また期待しすぎた。でも写真はとっておいた。ツアーガイドの説明も少し聞いて。眠り猫のいる門をくぐって上り階段を10分ほど歩いたところには家康の墓がある。

日光を浴びてきた!(神橋編)

2005-11-27 11:13:16 | 旅行に行っちゃえば
 一年間だけの特別公開という世界遺産の神橋が観光案内所のパンフレット棚にあったので行きたいと思った。朱塗りの橋で鮮やかな赤がパンフレットの写真にあった。おぉきれいだなぁ~どんなに輝いてるんだろと思い期待が膨らんだ。
 
 日光の表玄関にある神橋。えっ!?あ、これなんだぁという感じ。期待を膨らましすぎていた。少し残念。パンフレットの鮮やかな赤とは違いなんかくすんでいる。たぶん最初の頃は鮮やかな朱色だったんだろうなぁ。4月から公開してるからね。まぁしょうがない。神橋をわたるにはお金がかかる。これだったら外から眺めようってことでいいや。しかもパンフレットの写真はたぶん春くらいだから、神橋の朱色と周りの木々の緑のコントラストがきれいなのだが昨日は冬の初めだったからな…。もう少し時期が早かったら紅葉・黄葉の赤と黄色と、神橋の朱色のグラデーションがきれいだったんだろうけど。

 神橋は奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれたという。しかしこの朱色は昔ながらの色ではない。修理・改修を重ねられた朱色。しかも神橋は明治35年に、修理中に洪水により流失したようだ。ってことで奈良時代古来からの橋ではない。在来工法により再築されたものである。再築は明治37年だからそれからまた修理・改修されてきたものが今の神橋となっている。

 神橋って最初なんて読むんだろうと思った。カミハシ?シンバシ?カミキョウ?シンキョウ?絶対シンバシだと思っていたけど、正解はシンキョウだ。
 
 シンバシだったら新橋だし、見れるの神橋の赤(朱色)ではなくサラリーマンの赤い顔だよなぁと。酔っ払いのサラリーマンが頭にネクタイ巻いて騒ぐのって日本特有だし、ある意味世界遺産だと思うけどね。そんな風にはなりたくない。

 次回の日光を浴びてきた!は眠り猫編で。

日光を浴びてきた!(電車内編)

2005-11-27 10:26:55 | 旅行に行っちゃえば
 昨日、日光に紅葉を見に行こうようって感じで行ってきた。アジア学院での最後の休み(来週は農ゼミで東京だし、再来週は卒業式だから)のため、栃木めぐりしようと思って。日光は小学生の修学旅行以来のこと。全くといっていいほど覚えてない。たぶんその頃はつまんなさそうにしていたに違いない。価値観って変わるもんだなぁって…小学生の頃はどうでもよかったことなんだけど、今となっては興味があるし、日光に行きたいと思った。栃木にいるんだから行かなきゃじゃんって。

 朝9:30にアジア学院を出て10時くらいの電車に乗って宇都宮へ。宇都宮に着いたのが10:40くらい。あぁ~日光行きの電車行ってしまってる。次来るの50分後じゃん。なんでこんなに電車ないんだよと思いながら待ち続ける。日光行きの電車(日光線)は10時から15時くらいの間だったけな、1時間に1本しかないんだよ。時刻表確認してから行けばよかった。

 日光線は2両編成だった。短っ!!常総線並じゃん。たぶん半分くらいは日光でおりたと思う。若い人はほとんど鹿沼とかで降りちゃって。
 その電車の中にとてつもないおばちゃんがいた。名古屋出身の人らしい(話が聞こえたので)が隣のひぃおばあちゃん(97歳←これも聞こえた)とひたすら話している。実際うるさい。車内はその二人の会話をちらちら。おれもちらちら。前に座っている人と苦笑い…。車内の誰もが聞こえるような声で。ひぃおばあちゃんの方から話しかけていておばちゃんは迷惑そうだなと思っていたけど、すごい聞き入っていた。しかもメモまで取り出して、話をメモってる。完璧に意気投合。
 ひぃおばあちゃんの方は仏様とか神様なんていない、私自身あなた自身が仏様であり神様なんだよという話から、自分の生まれから今までの話、戦争の時の話、地元の話、子供の話などを話されていた。名古屋のおばちゃんの方はそれを熱心に聞きメモを取り自分の話まで。
 ひぃおばあちゃんは日光より手前の駅で降りてしまって、名古屋のおばちゃん今度は隣のおじさんに話しかける。自分より年配の方、歴史ある話ができてよかったとか、こういう一期一会の出会いが大切だよとか、そしてそのおじさんの読んでいた新聞記事を集めたもの(定年帰農)の話題とか話し出した。おじさんも日光の手前で降りてしまったが、名古屋のおばちゃんはとても満足そうだった。
 一人で知らない土地に行くと話さず終わってしまうこともあると思うが、地元の人と話せば自分の知らないことを得ることができ、とてもいいことだと思う。自分の生きる糧にもなるし。知識も増えるし。これがアジア学院でいう共に生きるっていう感じだなぁと。sharing(分かち合い)だなぁと。肯定的に言えば。
 でももう少し車内では静かにしてほしいよなぁと。ひぃおばあちゃんだから耳が遠いから声もでかくなっちゃうんだろうけどさ。もうちょっと他の人の迷惑も考えてほしいなぁと。否定的に言えばね。
 
 そんなこんなで車内は騒がしく、日光に着いた。東照宮を目指しレッツゴー!

 行きの電車内のことで長くなってしまった。ってことでまた次回の日光を浴びてきた!(神橋編)でこの続きを。

 ちなみにタイトルの日光を浴びてきた!っていうのは、太陽の光(日光)を浴びてきたっていうのと日光を満喫してきたっていうのをかけてあります。これもオヤジギャグかな!? 

年相応に見られたいかな…!?

2005-11-26 09:32:09 | 日記っていうかその他
 実際のところ老けて見えようともどうでもいいのだが。アジア学院に来てから、年相応に見られなくなった。ワークキャンパーやビジターが来るたびに恒例の私はいくつでしょう?のコーナーが始まる。現在20だが、20に見られるときもあるが大体は上に見られる。22・23ならまだしも、25・26・28に見えるといわれたことも。

 そんな老けてはないと思うんだけどなぁ…言動は老けてると自覚しているけど。上に見られるのは、体もデカイし、態度もデカイし、心もデカイし、落ち着いてるってのもあると思うけど突発的に出てしまうオヤジギャグだろうなぁと。でも出ちゃうもんは仕方ないでしょ!?それが好きなんだから。

 この恒例の私はいくつでしょう?のコーナーからひとつわかったことがある。

 自分より年下の人(高校性とか18・19)から見ると年齢は意外と若めに見られる傾向がある。20~23くらいに。しかし、同い年、年上の人から見ると年齢は相当上に見られる傾向がある。23~28くらいに。ってことでわかったことがある。同い年くらいの人は自分と比較してしまうから上に見えるんだろうなぁと。こんなことわかっても何にもならないんだけどね。

 でもまぁ、アジア学院の中では精神年齢の老けてる順位4位くらいに入ってしまっているがね…。うれしいのやら悲しいのやら。でも老けて見られようが、今の自分は素だから仕方ないね。ってことで終わり。