【2009年10月6日(火)】10月6日付の日本経済新聞朝刊1面の主見出し「軽と小型車 開発一本化」、サブ見出し「三菱自、車台を共通に 人員や設備集約」の記事に目が留まる。流通関連、産業関連の記事では、他の一般紙が掲載していなくても日経には掲載されているし、一般紙に掲載されている内容は日経も掲載し、記事の文字数も多い。このコラムは流通業に関連した世の中の動きの「今」を新聞記事をセンサーに「気づき」を発見していくことをめざしている。必然的に日経の記事を取り上げることが多くなり、これからもそうなっていくのは間違いない。したがって、毎日、まず日本経済新聞に目を通す。ざっと見出しを追っていくと、必ず目が留まるというより、心に何かが引っかかって、その見出しをしばらく見続けている記事を必ずと言っていいほど毎日発見する。今日は先に挙げた記事に最も心が留まった。同じく6日付朝刊3面に「生活関連消費 中高年が主役」、「シェアで過半・逆転」の見出しで、2009年度には、眼鏡の小売最大手の三城ホールディングスが売上高に占める老眼鏡の割合が50%を超えたこと、紙おむつ市場は大人用が子供用を逆転する見通しであることなど、中高年向けの商品やサービスが国内市場の過半数を占める例が相次いでいることを伝えている。本来なら、真っ先に目が留まる記事のはずだが、なぜか、自動車業界のことはまったくの門外漢なのに、先の1面の記事に関心がいった。
心に留まる記事と心を通過する記事の違いは何なのか。その分かれ目は、記事スペースの大きさや掲載ページの違いではなく、「これは新しいこと…」「これはなぜか…」と感じるか、「そんなことは当たり前…」と思うかの違いである。今日の例では、1面の記事に、門外漢ゆえに「そんなことは当たり前では…」と思う半面、「これはなぜか…」と感じたのである。
記事は、三菱自動車は軽自動車と小型車のプラットホーム(車台)など自動車の骨格や基幹部品を共通化することで、人員や設備を集約して開発・生産コストを引き下げるという内容である。産業規模の大きさや商品単価(1台当たりの末端価格)の大きさなどから、決して一概に言えることではないのだろうが、共通・共有化は他の産業分野でも取り組んできたことで、やらなければならない切羽詰った状況にあることは予想されるが、なぜ今になってやるのか、今できるのなら、なぜもっと早くやって競争力を強くしなかったのか、という疑問を感じたことが、見出しに目が留まった理由である。あまりにも比べる対象が不釣合いだが、門外漢ゆえに感じることは、外食産業などは同じ食材をメニューごとに使い分けて、または使い分けられるメニュー開発に取り組み、食材管理、メニュー管理に注力してきた。本来なら「当たり前のこと」として心が通過する記事だが、これからの社会の変化、社会の価値観の変化の大きな基軸になると考えている「エコ」の問題とも関係する内容であることが、今日一番の関心記事となったのだと思う。
物や人の集約化は環境問題の解決では大変大きな部分を占める。雇用問題をあえて考えないで言うと、物や人が少なくなると、物や人の動きで費やすエネルギーが少なくなり、全車種合計の総生産工程数も少なくなる。「エコ」の問題は単なるエネルギー消費の問題にとどまらず、産業構造や業務プロセスにまで縦横無尽にメスを入れていかなければならない問題である。すでに無駄の排除と効率化に取り組んでいる企業があると思うが、会議一つを取ってみても、「エコ」の問題が関係してくる。会議の回数を減らしたり、効率的に行えるように努力するだけでなく、極端に言えば、同じ効率化に努力するにしても、いかに短い時間で濃い内容が伝えられるように工夫をして会議時間を短くするとか、早くもなく遅くもなく決められた時間に出席者がきちんと集まって会議が進められる環境を整えるとか、「エコ」に直接的、間接的にかかわる無駄の排除は限りがないほど多くある。現実には、あまり細かい決まり事を作ると逆にスムーズに事が運ばないこともあるが、メス入れを検討する箇所はどの業務分野でも無数に見つかるということである。要は、今の延長で無駄を除くのではなく、いったん白紙に戻してカウントゼロから組み上げなければ根本的な問題解決はできないというのが「エコ」の問題であるとも感じている。
新聞記事から離れて、「エコ」の問題で気にかかっていることがある。これも業界のことは不案内なので、一人の素人の意見として受け止めてもらいたい。
出版不況が言われているが、その中で、書籍・雑誌のリサイクルショップが定着している。リサイクルショップは「エコ」の一角を担う業態のイメージを持っていたが、それはそれと認めつつ、この先、このままで良いのだろうかと疑問に思っている。最近、不要な書籍を処分しようと、着払いの宅配便による「無料買取サービス」を利用した。リサイクルに回せないような古く、汚れた本も含まれていたが、ショップ側の判断でリサイクル販売できないものは資源ごみとして処分するということに承諾した上での「無料買取サービス」の利用である。第一陣として、段ボール箱6箱に約300冊を取りに来てもらった。宅配便の着払い依頼主控えには1箱の運賃が740円と記されている。この運賃は、「無料買取サービス」だから、当然ショップ側の負担と考えている。店頭で販売されても、資源ごみで処分されても、買い取った書籍は何らかの形で収益を生み、その中から着払い運賃も賄うものだと解釈している。ただ、実態の詳細はわからない。
宅配便で出して約1週間後にハガキで査定の結果が届いた。リサイクル販売できない本は1冊としてあるが、買取金額の合計は609円だった。1冊2円の計算である。ショップは4,440円の運送料を自己負担し609円で商品(古本)を仕入れて利益を上げていることになる。帳簿上は別にして、買取金額の中に幾分かは運賃を含んでいるのではないかと思ってしまう。同じ新刊を買って来て、「無料買取サービス」と「店頭への持ち込み」を比べてみるとわかることだが、そこまではしなかった。第二陣として、文庫本を中心に32冊を同じく「無料買取サービス」で出した。今度は300円の査定であった。「無料買取サービス」と「店頭への持ち込み」を比べていないし、業界の仕組みにも不案内だから、これらの理解が間違っていたとすれば当該企業に迷惑をかけることになるので、先に断っておくが、「無料買取サービス」がどうのこうのと言うのではなく、それほどの金額にしかならないのなら、もちろん無料で良いから、市の資源ごみ回収や町内会の資源ゴミ回収に出した方がトラックが排出するCO2を少なくできたのではないだろうかという反省がある。「エコ」ビジネスの一角にあると思っていたビジネスの反「エコ」と思われるような仕組みを経験して、この先、このビジネススタイルが継続できるのであろうかと思うのである。流行の言葉を使うなら、「持続可能」なビジネススタイルなのだろうかということである。
「エコ」の問題は様々な角度から縦横無尽に考えることができる。三菱自動車の記事に目が留まったのは、そういう「エコ」に対する思いが伏線としてあったのである。(東)
心に留まる記事と心を通過する記事の違いは何なのか。その分かれ目は、記事スペースの大きさや掲載ページの違いではなく、「これは新しいこと…」「これはなぜか…」と感じるか、「そんなことは当たり前…」と思うかの違いである。今日の例では、1面の記事に、門外漢ゆえに「そんなことは当たり前では…」と思う半面、「これはなぜか…」と感じたのである。
記事は、三菱自動車は軽自動車と小型車のプラットホーム(車台)など自動車の骨格や基幹部品を共通化することで、人員や設備を集約して開発・生産コストを引き下げるという内容である。産業規模の大きさや商品単価(1台当たりの末端価格)の大きさなどから、決して一概に言えることではないのだろうが、共通・共有化は他の産業分野でも取り組んできたことで、やらなければならない切羽詰った状況にあることは予想されるが、なぜ今になってやるのか、今できるのなら、なぜもっと早くやって競争力を強くしなかったのか、という疑問を感じたことが、見出しに目が留まった理由である。あまりにも比べる対象が不釣合いだが、門外漢ゆえに感じることは、外食産業などは同じ食材をメニューごとに使い分けて、または使い分けられるメニュー開発に取り組み、食材管理、メニュー管理に注力してきた。本来なら「当たり前のこと」として心が通過する記事だが、これからの社会の変化、社会の価値観の変化の大きな基軸になると考えている「エコ」の問題とも関係する内容であることが、今日一番の関心記事となったのだと思う。
物や人の集約化は環境問題の解決では大変大きな部分を占める。雇用問題をあえて考えないで言うと、物や人が少なくなると、物や人の動きで費やすエネルギーが少なくなり、全車種合計の総生産工程数も少なくなる。「エコ」の問題は単なるエネルギー消費の問題にとどまらず、産業構造や業務プロセスにまで縦横無尽にメスを入れていかなければならない問題である。すでに無駄の排除と効率化に取り組んでいる企業があると思うが、会議一つを取ってみても、「エコ」の問題が関係してくる。会議の回数を減らしたり、効率的に行えるように努力するだけでなく、極端に言えば、同じ効率化に努力するにしても、いかに短い時間で濃い内容が伝えられるように工夫をして会議時間を短くするとか、早くもなく遅くもなく決められた時間に出席者がきちんと集まって会議が進められる環境を整えるとか、「エコ」に直接的、間接的にかかわる無駄の排除は限りがないほど多くある。現実には、あまり細かい決まり事を作ると逆にスムーズに事が運ばないこともあるが、メス入れを検討する箇所はどの業務分野でも無数に見つかるということである。要は、今の延長で無駄を除くのではなく、いったん白紙に戻してカウントゼロから組み上げなければ根本的な問題解決はできないというのが「エコ」の問題であるとも感じている。
新聞記事から離れて、「エコ」の問題で気にかかっていることがある。これも業界のことは不案内なので、一人の素人の意見として受け止めてもらいたい。
出版不況が言われているが、その中で、書籍・雑誌のリサイクルショップが定着している。リサイクルショップは「エコ」の一角を担う業態のイメージを持っていたが、それはそれと認めつつ、この先、このままで良いのだろうかと疑問に思っている。最近、不要な書籍を処分しようと、着払いの宅配便による「無料買取サービス」を利用した。リサイクルに回せないような古く、汚れた本も含まれていたが、ショップ側の判断でリサイクル販売できないものは資源ごみとして処分するということに承諾した上での「無料買取サービス」の利用である。第一陣として、段ボール箱6箱に約300冊を取りに来てもらった。宅配便の着払い依頼主控えには1箱の運賃が740円と記されている。この運賃は、「無料買取サービス」だから、当然ショップ側の負担と考えている。店頭で販売されても、資源ごみで処分されても、買い取った書籍は何らかの形で収益を生み、その中から着払い運賃も賄うものだと解釈している。ただ、実態の詳細はわからない。
宅配便で出して約1週間後にハガキで査定の結果が届いた。リサイクル販売できない本は1冊としてあるが、買取金額の合計は609円だった。1冊2円の計算である。ショップは4,440円の運送料を自己負担し609円で商品(古本)を仕入れて利益を上げていることになる。帳簿上は別にして、買取金額の中に幾分かは運賃を含んでいるのではないかと思ってしまう。同じ新刊を買って来て、「無料買取サービス」と「店頭への持ち込み」を比べてみるとわかることだが、そこまではしなかった。第二陣として、文庫本を中心に32冊を同じく「無料買取サービス」で出した。今度は300円の査定であった。「無料買取サービス」と「店頭への持ち込み」を比べていないし、業界の仕組みにも不案内だから、これらの理解が間違っていたとすれば当該企業に迷惑をかけることになるので、先に断っておくが、「無料買取サービス」がどうのこうのと言うのではなく、それほどの金額にしかならないのなら、もちろん無料で良いから、市の資源ごみ回収や町内会の資源ゴミ回収に出した方がトラックが排出するCO2を少なくできたのではないだろうかという反省がある。「エコ」ビジネスの一角にあると思っていたビジネスの反「エコ」と思われるような仕組みを経験して、この先、このビジネススタイルが継続できるのであろうかと思うのである。流行の言葉を使うなら、「持続可能」なビジネススタイルなのだろうかということである。
「エコ」の問題は様々な角度から縦横無尽に考えることができる。三菱自動車の記事に目が留まったのは、そういう「エコ」に対する思いが伏線としてあったのである。(東)