
他者の「好き」を否定しないで、尊重する・・・この基本スタンスは確かに日本の中において、ごく自然に培われています。
宗教など、幼少時より教養に備えた方以外は、基本的に宗教的教義を判断材料に下地にしないで済むと言うことは、よそから見たら無頓着とも、無教養とも、倫理性の欠陥とも捉えられかねないことを、日本人はついぞ知らない。
そんなふうに責め立てる「倫理的な他者の存在」を生活上では知らないで済むからだ。
一神教の強烈さは「自分の神以外を信じてはならない」のエスカレーションな衝動ぶりに顕著です。漠然とした「信じてはいけない」ではなく、引用動画のように「どっちでもいいけど」に類する曖昧さがない。排斥せよ、であり、諍いの種になる。
「無宗教」を口にしたら、不見識とか無教養、どこで社会性を担保するの?などなど、急激な嫌悪や排斥、畏怖をはらみ出すのは、たいてい諸所の外国人の方になる。
「自分の生まれ育った地域の、気心が知れてる同士」なら、誰だって相手の素性がすでに知れてる。
ただ、大陸に住まうとか、移動してくる人らが「コミュニティごと、向こうの文化をひっさげて大挙してくる」などのような「侵略にも等しい規模の出入りがある際、というのが外国には起こり得る。
その刹那には「信用できる相手かどうか」の測る指針が「どの宗教倫理観に準じてるか?」が物差しになる。
共通の宗教に準じてる同士であれば、言語は文化圏、所属国家に差はあれど、許容できる。
倫理観が宗教で担保されるから。
ひどいことはしないだろうし、と知れることが出会の最初の関門にされる。
宗派に属すことで、認識・判断・采配が容易になり、おおくくりに相手の存在を把握しだす一歩目が踏み出せる。
そこを「日本人」は「無宗教」と、どこぞのジャングル奥地の、未開の蛮族と同じみたいなスタンスで「文化圏を気取って」表明を辞さないのだから、当惑しりきなのでしょう。なによ?どっちよ?大丈夫なの?が先方の「判断基準たち」のことごとくに争ってる。
今でこそ日本人の「無宗教」称は、その場の言い繕いに近い事は知れ渡ってるし、ヤオヨロズ神道も仏教も根付きすぎた緩慢のうちにあることが事前了承されるだろう。いや、ましになった、程度かな。
一神教にいう「自らの神以外の排斥っぷり」を彼らの歴史のうちでは背徳者、異教徒、異神論者などと死罪を伴わせたり、改宗なくば許容しないなどの歴史史実のある人らの文化背景は、正直日本人にはない。「それほどまでして避け、排斥を徹底する」がそもそも日本人には「踏み絵」まで遡らねば、理解の拠り所がない。それにしたって、はるか遠いうっすらとした教育のうちにしか知らない。
二つ目の動画に岡田さんがユダヤ教のスネ夫説を上手にメタファーにしてたけれど、かの宗教の「畏怖し、起こることを須く受け取る」見立ては、不思議と自然信仰のそれにさほど差異を個人的には感じない。
無論ユダヤ教にはタルムードとか、連綿と刷新され続ける、常に現代性を維持させる教義の自己変革性は、他の宗教よりも強烈な「意志の力での存続」を肌感覚にも伝えてきます。
起こることはそのまま受け、までは日本人のヤオヨロズに通じやすいのかも。
キリスト教、イスラム教の寛容とか愛になってくると、神様というより、人間サイドの要望の強さの方が滲んで感じるのは私の自己解釈がそんなもんってことなのでしょう。申し訳ない。
綺麗なジャイアンは「面白いなあ」まででお腹いっぱいなんス。
昨今、トランプさんが中国に当てつける態度や、贔屓や自身の好き嫌いを奔放に振る舞うのを「気分悪く見える」のを、日本人は「なんであそこまで勝手をするんだろうね」と呆れる。
返すとアメリカ人のコメント内には「トランプはずっとああだった」以上にも以下にもしない諦観が先にくる。ここに、ある意味「排斥性」に慣れちゃった文化圏の理由を感じるのは、私が日本人だからでしょうか。
一神教国家の感じで、私が違和感を抱くのが、「身内の暴言・暴力には妙に寛容」ってとこ。
異教との軋轢に比べれば、まだその咆哮を代理でぶつけてくれてるうちはほっとくか、みたいな「悪い個人認証っぷり」を放置しがち。
独裁を暗に渇望する気配は、「排斥する力」の放棄を、文化圏そのものが決断できないでいるせいかも、って思ってるのでした。
役に立つとこもある、ってね。
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