「石ころ避けて“汚物”に手を出し」 山尾志桜里氏に酷評された玉木「国民民主」の醜態(デイリー新潮)
真偽は判然としないのでさておくとして、二つのことは感じています。
ひとつは「たったひとりの影響で、事態というのはこうも徹底的に転換するものである」ということ。
ここまで国民民主党は「実績」以上に、過分な雰囲気評価で向上途中にあれたものが、一挙にマイナス化して、凋落一辺倒にいたれてしまった。
存在に厚みがない時、かくも簡単に転げ落ちてしまう好例(?)といえるので、よくよく「慎重でなくてはならない」とも思うし、政(まつりごと)は魔境だなあ、と痛感します。
二つ目は「賢く頭のいい人と働こうとするなら、『黙ってられる人』と組まねば痛手をいつでも、常時、被る」んだなということ。
賢い人は世間にごまんといる。クレバーで聡明で端的で、仕事に適した采配と機転が備わっている。
「仕事のできる人」と呼ばれがちで、重宝もする。効率が格段に上がり、洞察力も着眼も冴えてるので、どうしたって組織なら引き上げたくなる。
されど「感情に任せて屋台骨をへし折る」こともできるだけの基幹部分を心得てもおり、ここぞ、に「黙っておいてくれる人」で、ない限り、諸刃の剣よろしく、組織に存続不可能・回復困難なまでの被害を起こせる。
賢さが仇になり、切れ味も押力も抜群ゆえ、コッテンパンに打ちのめしにもくる。
内部事情が「わかっていて」もいいのだが、「黙ってはいてくれる」の点が期待できない時、なにをさておいても「遠ざけておく」が安牌になる。
「弁が立つ」だけでは味方にあるうちしか優位ではなく、敵に位置した時に節度ある振る舞いは、恣意的で任意になるので、今回のように「壊滅的破壊」に至った。
当人がどう思ってても自由だが「なまじ弁が立つ」の悪例に映った。
とはいえ、「雰囲気で選挙してしまう」気風の扇動が、未だ選挙までには濃厚な時に、国民は猛烈なパンチをみまわれたので、目の覚める好機となった。
少々口の中に苦々しいものを感じるが、教訓というのはいつだって、この苦さにキツさがあってくれることで、身に染みるものである。
国民民主党は「本来の規模と成果」に戻れたと観念して、あればよい。
「勝ってきた理由」で「負けだす」のも、須く「身からでるサビ」にすぎやしないのだから。