立憲民主党・泉代表「自民党政権から立憲主導の政権に」次の衆院選で240人以上の候補者擁立を目指す考え
https://newsdig.tbs.co.jp/list/article?id=jnn-20240206-6137676
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「どうして立憲に?」に応えられるのかなあ
これは否定も肯定もしないで放置するという意味で史上の人物としてお釈迦様、ゴータマ・ブッダは、ある種の質問には「無記」で通したという。
(中略)
なぜ生まれてきたのか、なぜ死ぬのか。どこから来て死んだらどこに行くのか。そのすべてに答えが出ない。
つまり我々の存在にさしたる根拠も意味も見いだせない。この堪え難い状況を、堪え難い故に、「絶対神」や「霊魂」や「理念」で埋め合わせるよりも、この状況をあくまで直視して、なおかつ充実した生を求めていくのが仏教だと、ぼくは思う。この姿勢はある意味で最もシビアだろう。
「問い」から始まる仏教 南直哉:著 第一章「自己への問い」より抜粋。
言葉でそこそこ伝えられると思いたいのが人だ。伝えられるはずだと思って言葉をつむぐ。
そこであらゆることを「語る」ことで把握しようとする。
自分が「リアル」に感じられるものが、自分にとっていいもの、であったとしても、他者にその共感が得られないときは、みんなにとっての「リアル」には至らない。
信じることでしか、存在を認められないものは、作り話以上の力に至らない。それは「ある」とも「ない」ともならない。表題に言う「無記」というのは、姿勢としては正しい。
信じた人には「あり」、信じない人には「ない」のであれば、なにを「リアル」に感じられるかという、それぞれの人の「お好きにどうぞ」以上に踏み込む必要がない。
南さんのおっしゃる「堪(た)え難(がた)い」ものに、私たちはかなりあっさり負ける。
自分が堪え難いもの、我慢のできないものには、誰も見てないところで、自分は、あっさり負ける。
それを「埋め合わせないで」生きる事に、私たちは慣れていない。なにがしかの「埋め合わせ」に走る。
走ってしまう。
自分の意志でやってるつもりが、そのいくつかは「埋め合わせ」であることのなんと多い事か。
それを自分の意志であると思ってる事がなんと多い事か。
自分でやったんだから、自分の意志だと思ってる。それより先に、「自分がそれに堪え難かったのだ」と認める事ができなかったことに、「気づきたくもなかった」人も、多い。
埋め合わせないで、「直視」して過ごすことは、かなり自覚的な工夫や精神力が要る。
要るからこそ、「埋め合わせた」ことにしたくない人が多数だ。
なにが自分にとって「リアル」か。それに引き回されてることは、平気なの?