間に合わないことでホッとする自分というものもあります。
全部を上手に語れたところで、言葉上手な自分がわかるだけで、自分の思いの丈が間に合ったわけじゃないと知れて終いです。それじゃ語れても甲斐がないので詮無きことに思えてくるものです。
年季を重ねた人は「それを味わいに過ごすが生きること」に変容もしていきましょうが、「そうは思わない」のもまた真理で、そっちでもいいけれど、相応には苦しいものです。
選んでるんです、そう生きるんだと。
だからそれでいいのです。
自身が胸に秘めておきたいものを、大切にとっておけばいいのであって、見せようが語ろうが、どうせ間に合うことはないのです。常々「どうしても足りない」に終始するものなのは、自分の胸のうちにもう比べようもない本当の感情が常駐してますんでね、仕方のないことです。
だから本当は「このままどうか間に合いませんように」もまた本音に宿るのでした。
コラム表題は山田太一さんの言葉:引用元・中日新聞2023/12/2朝刊より
人には、程よさが一番居心地がいいことが、日々の生活をキレイに促すし、柔らかくいられます。それはひとえに正しいものばかりじゃないし、善意のものばかりでもなさが、人の妙なる存在を形成しています。
そこに着眼し、パーフェクトの程遠さもまた人々に共感をし、タフネスにする源泉と射抜けた山田氏の慧眼。
実相から肌感覚で自覚できる本当さは、人を勇気づけます。小さな勇気だけれど、りんとして疼くそれは、瀟洒なご馳走よりも日々の食卓のようなもので、毎日それでいて飽きずに長持ちというたくましさの根っこになれます。
朝ごはんの後に母が柿を切ってくれたのをぺろりと平らげました。
「おいしかったです、ありがとう」と告げられるありがたさ。
当たり前のものなんてなくって、いろんな巡りの中から、今こうしてお礼が言えてる。
日々感謝。
デーブ・スペクター氏 日大アメフト部の薬物問題、廃部方針に持論「日大って失礼だけど…」
ドヤ顔いいですね。
連帯責任はとばっちりの面ありますね。
アメフト部が起こしたってのは事実です。
部のせい、個人のせい、に加えて、別個に上層部の不手際、までがスケープゴートに含まれて見えるのはどうなんだろう。
自浄できなさが付き纏ってるし目処もない。