一期弘法付嘱書に云く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍利日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の誡法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
僭越ながら、此処で一期弘法付嘱書の御付嘱状について少しく解説を加えることにします。
はじめに「日蓮一期の弘法」の御文を、御本仏大聖人様の一代三十年の御化道を一言で括って顕すとすれば、「日蓮一期の弘法」とは、①本門戒壇の御本尊の御事となるのであります。此の一期弘法付嘱書の中に日蓮大聖人様の顕された三大秘法と日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が明確に示されているのであります。
次に「白蓮阿闍利日興に之を付嘱す」とは、②唯授一人の血脈相承のことであります。次いで「本門弘通の大導師たるべきなり」とは、御開山日興上人を本門の本尊と題目を弘通する総大将として、広宣流布を成し遂げよとの勧奨であります。したがって未だ広宣流布せざる間は身命を賭して随力弘通せよとの、大聖人様の御命令とも拝すべき、富士門流僧俗信徒に対する絶対の指針であります。
続いて「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とは、③国立戒壇の建立の勧奨であります。即ち、広宣流布の暁に天皇陛下の勅宣を賜り、御教書たる国家意思の表明を闡明にし、富士山麓の最勝の地たる天生原に、国立戒壇を建立せよとの御命令であります。
①~③は、とりわけ日蓮正宗の命ともいうべき宗門の根本的な化法・化儀なのであります。日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が正に此処に存するのであります。即ち「①戒壇の本尊と、②唯授一人の血脈と、③国立戒壇」建立が、この御付嘱状の中に整足して明確に示されているのであります。これこそが日蓮正宗の宗旨の命であって、特に③は、御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願であり、また日蓮正宗七百年来の宿願と謂われるのであります。依って、日蓮正宗に此の三つの宗旨が確然と整足する故に、日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が此処に存するのであります。
今、日蓮正宗の中で国立戒壇を目の敵にして反対を唱える者は、昭和期の始めに猊座に就かれた第五十九世の日亨上人と、第六十四世の日昇上人と、第六十五世の日淳上人並びに、第六十六世の日達上人の四上人だけで、それ以前の貫首上人は、大聖人をはじめ二祖日興上人・三祖日目上人を含め、「誰一人として、国立戒壇を主張した上人はおられない。仮に居るとしたら、その文証を出して見よ」等と悪態をついていますが、是れこそが、自らの無知を晒した恥知らずな姿なのであります。
更に邪義破折班の坊主の手に掛かると、この四上人が宣揚した国立戒壇論は、彼の悪僧日顕が編み出した、いわゆる、『「国主立戒壇」の意味で云っているだけで、決して、国家的に立てる戒壇ではない』などと驚くべき邪義を垂れ流し、悪態をついているのであります。是れでは四上人は、まるで悪僧日顕の弟子となってしまうのであります。
それは置くとして、二祖日興上人から第三祖日目上人への御付嘱についても、①本門戒壇御本尊と、②唯授一人の血脈相承と、③国立戒壇の三つが御相伝として伝えられているのであります。
その文証を挙げる事にします。日興跡条々事に云く「日興が身の宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に掛け奉るべし」と。
「日興が身の宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」とは、申すまでもなく、①本門戒壇の大御本尊の御事であります。次に「日目に之を相伝す」とは、②唯授一人の血脈相承であります。次いで「本門寺に掛け奉るべし」とは、広宣流布の暁に戒壇の大御本尊を、③国立戒壇に掛け奉るべしとの御命令であります。
此処で最も大切な事は、御開山日興上人から第三祖日目上人への御付嘱状にお示しの「日興跡条々事」と題された、日興上人の命の底からの叫びにも似た甚深の御配慮に、末代の我等は満腔の思いを致さなければならないのであります。その故は、その表題が示す如く「日興跡条々の事」と仰せられる題号の元意に、末法万年尽未来歳に亘って日蓮正宗の貫首たる者は、①戒壇の大御本尊と、②唯授一人の血脈と、③国立戒壇の三つの宗旨は、決して捨てたり忽せにしてはならないという、重大な警告が含まれているのであります。
ところが六十六代の貫主職に就いた日達は、①~③の内、①の戒壇の大御本尊は認めてはいたものの、②の唯授一人の血脈相承の受については、昭和34年11月16日、丑寅の刻に先代の日淳上人から血脈相承を受けるも、授については、残念ながら是れを為し得なかったのであります。その故は、昭和54年7月22日、入院中のフジヤマ病院で思わぬ急死を遂げ、次期貫主に対する相承を授ける事が適わなかったのであります。是れ「授」なしであります。更に、③については、昭和45年5月3日、世間に諂って、国立戒壇永久放棄の宣言を為して、正系門家七百年来の伝統教義と宿願を弊履の如く捨て去ったのであります。
仄聞するところに依りますと、日達管長は相承の授受を済ませようと考えていた前日の7月21日、病院を訪れた側近の僧侶に対して「いまだ退院には時間がかかるようだが、取り敢えず、相承に儀を済ませて置きたいので大奥に布団を敷いておくように」と命じられてその日に備えていたのでありますが、御本仏大聖人様は、国立戒壇を否定するような曲がった貫首には、相承の授受をお許しにならなかった。との事であります。
何とも厳しい現実であります。日達管長は後任の貫首に誰を考えていたかは、本人のみ知る処にして、決して他人は窺い知ることは出来ない事柄でありますが、悪僧日顕でなかった事だけは確かのようです。いずれに致しましても、御本仏大聖人様の一期の御遺命たる国立戒壇を否定するような、悪僧日達には唯授一人の相承の授受をお許しになられず、その直前になって大聖人様から命を召し取られているのであります。
つづく六十七代に就いた日顕は、①~③の全てを否定したのであります。①については、昭和53年2月7日、東京帝国ホテルの一室で腹心の川辺慈篤房との密談の中で、①の戒壇の大御本尊は偽物と断定。②の唯授一人の血脈相承については、昭和54年7月22日先代の急死に依り「受」の無いまま、勝手に自己申告の形で猊座を簒奪したのであります。③の国立戒壇については、猊座に就く前から徹底して反対し「国主立戒壇」が、主権在民の今日では絶対的に正当としているのであります。
かつて日蓮正宗の血脈付法の第六十四世の日昇上人は、次の如く国立戒壇を高らかと宣揚していたのであります。
云く「夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生の帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之を建立して血脈付法の二祖日興上人に身に宛て給わるところなり。上人身魂を尽くして護持し大石の寺に奉安し、一閻浮堤の座主日目上人付嘱してより、血脈の法主歴世に奉戴し、或る時は校倉を、或る時は土蔵を宝蔵とて奉安し、専心に守護し、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。三大秘法抄に、『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に三大秘法の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して建立する所の戒壇なり』と。之は是れ、宗祖の妙法蓮華経が一天四海に広宣流布の時こそ之の時なり。・・・・血脈付法の法主を継げる日昇・・・・『時を待つべきのみ、事の戒法とは之なり』の金言を身に体して、必ず来たるべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖人の法魂、安穏に常住し給わんことを」と熱祷為され、粛然として身振るいするよな慶讃文を垂れられて、国立戒壇を熱願なされていたのであります。
その後を継がれた日淳上人は「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知の文)と。
つづけて「この元朝勤行とても、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と。
ところが、その後の貫首職を継いだ第六十六世の日達管長は途中で、信徒団体の創価学会の政治選挙のために、池田大作という似非信徒に諂って、正本堂というニセの戒壇堂を広宣流布の「本門事の戒壇」などと偽り、内には八百万信徒をたぼらかし、外には世間と国家を欺き、御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願たる「国立戒壇」を永久に放棄するとして、三大秘法義を滅茶苦茶に破壊して葬り去ったのであります。
それは昭和45年5月3日、国民注視の中で行われた創価学会第33回総会の席で「国立戒壇」を永久放棄する旨の宣言に始まり、それ以来日蓮正宗では「国立戒壇」の四文字が禁句となってしまったのであります。嗚呼何たる無慚な僻事でありましょうか。このような大それた仏法違背は、久遠の昔に誓いを立てた、南無妙法蓮華経の守護神たる梵天・帝釈・日月四天等の諸天の怒りをかい、これ等の諸天は決して御本仏大聖人様に対し奉る背逆は、絶対に許さないのであります。
その時の日達管長の「国立戒壇」放棄の宣言を振り返れば次の如くであります。「日蓮大聖人は、決して大聖人の仏法を国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でもない仏法に『「国立戒壇」などということはありえない。(中略)今後本宗では、あらぬ誤解を招き、布教の邪魔になるため、そういう名称を使用しないことに致します。昭和四十七年十月に完成する正本堂は、広宣流布の本門事の戒壇であります』等と。
この時の日達管長の「国立戒壇」放棄の宣言が、日蓮正宗の命取りとなって、それ以来、取り返しのつかない汚濁に染まった宗門となってしまったのであります。この「国立戒壇」放棄の宣言によって、大石寺を除く富士五山と云われる、北山、西山、小泉、下条、等の諸山は、諸手を挙げて狂喜の酒宴を張って乱舞し、身延をはじめとする邪宗日蓮宗諸派は云うに及ばず、日本のあらゆる邪宗教団の面々は、口裏を合わせたように狂喜して「国立戒壇」放棄をもろ手を挙げて歓迎したのであります。
この宣言によって、国内の既成宗教などの邪宗教団は害毒を流し続け、人々を不幸のどん底に突き落としながら命を長らえることが可能となり、正系門家の国立戒壇放棄宣言は、邪教の存在を何処までも許す結果となってしまったのであります。
「国立戒壇」を否定する六十六代、六十七代の貫主は、ニセ戒壇正本堂のために、一期弘法付嘱書と三大秘法抄の文々句々を次のように捩じ曲げてしまったのであります。
一期弘法付嘱書の「国主」の意を「民衆一人ひとり」と捩じ曲げた揚句、現行憲法の定める主権在民の今日では、『「国主立戒壇」が本来のあり方である』等と言いだしたのであります。また三大秘法抄の「王臣一同」を「民衆一同」に。「勅宣・御教書」を「建築許可証」等とたばかり「霊山浄土に似たらん最勝の地」を「大石寺境内」と偽り、「時を待つべきのみ」を「今立てて何が悪い」などと開き直っているのであります。また「国立戒壇」を云えば、国家主義とのあらぬ誤解を招くこととなり、反って布教の邪魔になるなどと、大仰な諛言を垂れ流して、大聖人様の御本願たる国立戒壇を弊履の如く捨て、永久放棄してしまったのであります。
このような大それた仏法違背は、大聖人様一代三十年の死罪、流罪の大難を忍び給うた忍難慈勝の御化道を水泡に帰すこととなり、御本仏大聖人様を冒涜する最大の大謗法を犯すに当たるのであります。その故に、月々年々国土に三災七難が歳を追うて蜂起する結果を招いているのであります。しかしながら、年々盛んになる災害は、こんなものでは終わらないのであります。
「国立戒壇」を放棄することが、国家に対して如何なる災いを齎すのか、具体的事例を挙げて誤りを糾すことにします。
「国立戒壇」を否定することは、僧俗信徒は人生の目的観の喪失に奔り、形而下の欲望の充足のみに捕らわれて、両親、兄弟、姉妹等、六身不和にして相争い修羅道の集団と化し、信心に対する峻厳なる確信を失わしめ、爪の垢ほども功徳のない、無気力な罰の生活を年々繰り返す事になるのであります。
大聖人様は「人皆口には此の経を信じ、手には経巻を握ると雖も経の心に背く間、悪道免れ難し」(新家御書)と仰せであります。
「国立戒壇」を否定することは、還著於本人であります。仮令、正系門家、日蓮正宗の最高位の貫首であっても、あるいは、日蓮正宗の高僧たりと雖も一様に徳を失い、殉教の精神は云うもおろか、僧道は渡世のための道具となって、職業坊主ばかりで満ち溢れ、世間や身内の信徒からも軽賎の謗りを受ける身となるのであります。また因果応報の輪廻の因果によれば「国立戒壇」を否定する信徒も、おのずから軽賎の罪果を身に受ける事になるのであります。
「国立戒壇」を否定することは、仏法(三大秘法)を破壊することになるのであります。また、国家・国民統合の象徴である皇室や天皇を軽視することとなり、皇室の存続に無関心を助長することにと繋るのであります。皇室に対する敬愛の念を持てない者ばかりが世の中に蔓延する。言うなれば、国家に中心のない、己の我欲や権利ばかりを主張する者で溢れかえり、地獄・餓鬼・畜生の三毒強盛の世の中は、欲望民主主義ばかりが横行する殺伐とした獣の集まりのような世の中になるのであります。現代の世相が正しくそれに当たっています。
「国立戒壇」を否定することは国威を喪失せしめ、近隣諸国から20万人の慰安婦強制連行・30万にの南京大虐殺などの嘲りを受け、政治・経済は混沌として行き詰まり、国民は総じて無気力となり、自殺者は毎年驚異的な増加をたどる結果を招き、凶悪犯罪は日を追って増加し、犯罪国家を呈するような暗い希望の持てない無気力な国家となるのであります。
「国立戒壇」を否定することは、隣国から北方領土・竹島等の領土を侵奪・略奪される結果を招き、国民は等しく絶望的悲壮感に覆われ、総罰の苦悶を味わう事になるのであります。
「国立戒壇」を否定することは、やがて影であるところの、国内の政治・経済をはじめ、産業、教育、文化等の一切の治生産業に行き詰まりをきたし、行き着くところ、終には自界反逆・他国侵逼の二難が現実のものとなり、やがて亡国へと突き進んで行くことになるのであります。
今日、国立戒壇を永久放棄した宗門がいくら口先で布教の重要性を叫んでみても、広宣流布は、絵に描いた餅に等しいと云わざるをえないのであります。一刻も早く「国立戒壇」の正義を、日蓮正宗の僧俗が何をさて置いても取り戻さない限り、やがて自叛、他逼、の二難が事相となることは、絶対に避けることは出来ないのであります。
近年、年を経る毎に盛んになる、異常気象による自然災害や凶悪犯罪の増加、あるいは隣国から領土を侵され侵奪される等の災いは、明らかに是れ先難であり、諸天の諫める警告であります。
立正安国論に云く「徴先に顕れ災い後に至る」と。亦云く「先難是明らかなり、後災何ぞ疑わん、若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、その時何がせんや」と。
僭越ながら、此処で一期弘法付嘱書の御付嘱状について少しく解説を加えることにします。
はじめに「日蓮一期の弘法」の御文を、御本仏大聖人様の一代三十年の御化道を一言で括って顕すとすれば、「日蓮一期の弘法」とは、①本門戒壇の御本尊の御事となるのであります。此の一期弘法付嘱書の中に日蓮大聖人様の顕された三大秘法と日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が明確に示されているのであります。
次に「白蓮阿闍利日興に之を付嘱す」とは、②唯授一人の血脈相承のことであります。次いで「本門弘通の大導師たるべきなり」とは、御開山日興上人を本門の本尊と題目を弘通する総大将として、広宣流布を成し遂げよとの勧奨であります。したがって未だ広宣流布せざる間は身命を賭して随力弘通せよとの、大聖人様の御命令とも拝すべき、富士門流僧俗信徒に対する絶対の指針であります。
続いて「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とは、③国立戒壇の建立の勧奨であります。即ち、広宣流布の暁に天皇陛下の勅宣を賜り、御教書たる国家意思の表明を闡明にし、富士山麓の最勝の地たる天生原に、国立戒壇を建立せよとの御命令であります。
①~③は、とりわけ日蓮正宗の命ともいうべき宗門の根本的な化法・化儀なのであります。日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が正に此処に存するのであります。即ち「①戒壇の本尊と、②唯授一人の血脈と、③国立戒壇」建立が、この御付嘱状の中に整足して明確に示されているのであります。これこそが日蓮正宗の宗旨の命であって、特に③は、御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願であり、また日蓮正宗七百年来の宿願と謂われるのであります。依って、日蓮正宗に此の三つの宗旨が確然と整足する故に、日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が此処に存するのであります。
今、日蓮正宗の中で国立戒壇を目の敵にして反対を唱える者は、昭和期の始めに猊座に就かれた第五十九世の日亨上人と、第六十四世の日昇上人と、第六十五世の日淳上人並びに、第六十六世の日達上人の四上人だけで、それ以前の貫首上人は、大聖人をはじめ二祖日興上人・三祖日目上人を含め、「誰一人として、国立戒壇を主張した上人はおられない。仮に居るとしたら、その文証を出して見よ」等と悪態をついていますが、是れこそが、自らの無知を晒した恥知らずな姿なのであります。
更に邪義破折班の坊主の手に掛かると、この四上人が宣揚した国立戒壇論は、彼の悪僧日顕が編み出した、いわゆる、『「国主立戒壇」の意味で云っているだけで、決して、国家的に立てる戒壇ではない』などと驚くべき邪義を垂れ流し、悪態をついているのであります。是れでは四上人は、まるで悪僧日顕の弟子となってしまうのであります。
それは置くとして、二祖日興上人から第三祖日目上人への御付嘱についても、①本門戒壇御本尊と、②唯授一人の血脈相承と、③国立戒壇の三つが御相伝として伝えられているのであります。
その文証を挙げる事にします。日興跡条々事に云く「日興が身の宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に掛け奉るべし」と。
「日興が身の宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」とは、申すまでもなく、①本門戒壇の大御本尊の御事であります。次に「日目に之を相伝す」とは、②唯授一人の血脈相承であります。次いで「本門寺に掛け奉るべし」とは、広宣流布の暁に戒壇の大御本尊を、③国立戒壇に掛け奉るべしとの御命令であります。
此処で最も大切な事は、御開山日興上人から第三祖日目上人への御付嘱状にお示しの「日興跡条々事」と題された、日興上人の命の底からの叫びにも似た甚深の御配慮に、末代の我等は満腔の思いを致さなければならないのであります。その故は、その表題が示す如く「日興跡条々の事」と仰せられる題号の元意に、末法万年尽未来歳に亘って日蓮正宗の貫首たる者は、①戒壇の大御本尊と、②唯授一人の血脈と、③国立戒壇の三つの宗旨は、決して捨てたり忽せにしてはならないという、重大な警告が含まれているのであります。
ところが六十六代の貫主職に就いた日達は、①~③の内、①の戒壇の大御本尊は認めてはいたものの、②の唯授一人の血脈相承の受については、昭和34年11月16日、丑寅の刻に先代の日淳上人から血脈相承を受けるも、授については、残念ながら是れを為し得なかったのであります。その故は、昭和54年7月22日、入院中のフジヤマ病院で思わぬ急死を遂げ、次期貫主に対する相承を授ける事が適わなかったのであります。是れ「授」なしであります。更に、③については、昭和45年5月3日、世間に諂って、国立戒壇永久放棄の宣言を為して、正系門家七百年来の伝統教義と宿願を弊履の如く捨て去ったのであります。
仄聞するところに依りますと、日達管長は相承の授受を済ませようと考えていた前日の7月21日、病院を訪れた側近の僧侶に対して「いまだ退院には時間がかかるようだが、取り敢えず、相承に儀を済ませて置きたいので大奥に布団を敷いておくように」と命じられてその日に備えていたのでありますが、御本仏大聖人様は、国立戒壇を否定するような曲がった貫首には、相承の授受をお許しにならなかった。との事であります。
何とも厳しい現実であります。日達管長は後任の貫首に誰を考えていたかは、本人のみ知る処にして、決して他人は窺い知ることは出来ない事柄でありますが、悪僧日顕でなかった事だけは確かのようです。いずれに致しましても、御本仏大聖人様の一期の御遺命たる国立戒壇を否定するような、悪僧日達には唯授一人の相承の授受をお許しになられず、その直前になって大聖人様から命を召し取られているのであります。
つづく六十七代に就いた日顕は、①~③の全てを否定したのであります。①については、昭和53年2月7日、東京帝国ホテルの一室で腹心の川辺慈篤房との密談の中で、①の戒壇の大御本尊は偽物と断定。②の唯授一人の血脈相承については、昭和54年7月22日先代の急死に依り「受」の無いまま、勝手に自己申告の形で猊座を簒奪したのであります。③の国立戒壇については、猊座に就く前から徹底して反対し「国主立戒壇」が、主権在民の今日では絶対的に正当としているのであります。
かつて日蓮正宗の血脈付法の第六十四世の日昇上人は、次の如く国立戒壇を高らかと宣揚していたのであります。
云く「夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生の帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之を建立して血脈付法の二祖日興上人に身に宛て給わるところなり。上人身魂を尽くして護持し大石の寺に奉安し、一閻浮堤の座主日目上人付嘱してより、血脈の法主歴世に奉戴し、或る時は校倉を、或る時は土蔵を宝蔵とて奉安し、専心に守護し、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。三大秘法抄に、『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に三大秘法の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して建立する所の戒壇なり』と。之は是れ、宗祖の妙法蓮華経が一天四海に広宣流布の時こそ之の時なり。・・・・血脈付法の法主を継げる日昇・・・・『時を待つべきのみ、事の戒法とは之なり』の金言を身に体して、必ず来たるべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖人の法魂、安穏に常住し給わんことを」と熱祷為され、粛然として身振るいするよな慶讃文を垂れられて、国立戒壇を熱願なされていたのであります。
その後を継がれた日淳上人は「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知の文)と。
つづけて「この元朝勤行とても、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と。
ところが、その後の貫首職を継いだ第六十六世の日達管長は途中で、信徒団体の創価学会の政治選挙のために、池田大作という似非信徒に諂って、正本堂というニセの戒壇堂を広宣流布の「本門事の戒壇」などと偽り、内には八百万信徒をたぼらかし、外には世間と国家を欺き、御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願たる「国立戒壇」を永久に放棄するとして、三大秘法義を滅茶苦茶に破壊して葬り去ったのであります。
それは昭和45年5月3日、国民注視の中で行われた創価学会第33回総会の席で「国立戒壇」を永久放棄する旨の宣言に始まり、それ以来日蓮正宗では「国立戒壇」の四文字が禁句となってしまったのであります。嗚呼何たる無慚な僻事でありましょうか。このような大それた仏法違背は、久遠の昔に誓いを立てた、南無妙法蓮華経の守護神たる梵天・帝釈・日月四天等の諸天の怒りをかい、これ等の諸天は決して御本仏大聖人様に対し奉る背逆は、絶対に許さないのであります。
その時の日達管長の「国立戒壇」放棄の宣言を振り返れば次の如くであります。「日蓮大聖人は、決して大聖人の仏法を国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でもない仏法に『「国立戒壇」などということはありえない。(中略)今後本宗では、あらぬ誤解を招き、布教の邪魔になるため、そういう名称を使用しないことに致します。昭和四十七年十月に完成する正本堂は、広宣流布の本門事の戒壇であります』等と。
この時の日達管長の「国立戒壇」放棄の宣言が、日蓮正宗の命取りとなって、それ以来、取り返しのつかない汚濁に染まった宗門となってしまったのであります。この「国立戒壇」放棄の宣言によって、大石寺を除く富士五山と云われる、北山、西山、小泉、下条、等の諸山は、諸手を挙げて狂喜の酒宴を張って乱舞し、身延をはじめとする邪宗日蓮宗諸派は云うに及ばず、日本のあらゆる邪宗教団の面々は、口裏を合わせたように狂喜して「国立戒壇」放棄をもろ手を挙げて歓迎したのであります。
この宣言によって、国内の既成宗教などの邪宗教団は害毒を流し続け、人々を不幸のどん底に突き落としながら命を長らえることが可能となり、正系門家の国立戒壇放棄宣言は、邪教の存在を何処までも許す結果となってしまったのであります。
「国立戒壇」を否定する六十六代、六十七代の貫主は、ニセ戒壇正本堂のために、一期弘法付嘱書と三大秘法抄の文々句々を次のように捩じ曲げてしまったのであります。
一期弘法付嘱書の「国主」の意を「民衆一人ひとり」と捩じ曲げた揚句、現行憲法の定める主権在民の今日では、『「国主立戒壇」が本来のあり方である』等と言いだしたのであります。また三大秘法抄の「王臣一同」を「民衆一同」に。「勅宣・御教書」を「建築許可証」等とたばかり「霊山浄土に似たらん最勝の地」を「大石寺境内」と偽り、「時を待つべきのみ」を「今立てて何が悪い」などと開き直っているのであります。また「国立戒壇」を云えば、国家主義とのあらぬ誤解を招くこととなり、反って布教の邪魔になるなどと、大仰な諛言を垂れ流して、大聖人様の御本願たる国立戒壇を弊履の如く捨て、永久放棄してしまったのであります。
このような大それた仏法違背は、大聖人様一代三十年の死罪、流罪の大難を忍び給うた忍難慈勝の御化道を水泡に帰すこととなり、御本仏大聖人様を冒涜する最大の大謗法を犯すに当たるのであります。その故に、月々年々国土に三災七難が歳を追うて蜂起する結果を招いているのであります。しかしながら、年々盛んになる災害は、こんなものでは終わらないのであります。
「国立戒壇」を放棄することが、国家に対して如何なる災いを齎すのか、具体的事例を挙げて誤りを糾すことにします。
「国立戒壇」を否定することは、僧俗信徒は人生の目的観の喪失に奔り、形而下の欲望の充足のみに捕らわれて、両親、兄弟、姉妹等、六身不和にして相争い修羅道の集団と化し、信心に対する峻厳なる確信を失わしめ、爪の垢ほども功徳のない、無気力な罰の生活を年々繰り返す事になるのであります。
大聖人様は「人皆口には此の経を信じ、手には経巻を握ると雖も経の心に背く間、悪道免れ難し」(新家御書)と仰せであります。
「国立戒壇」を否定することは、還著於本人であります。仮令、正系門家、日蓮正宗の最高位の貫首であっても、あるいは、日蓮正宗の高僧たりと雖も一様に徳を失い、殉教の精神は云うもおろか、僧道は渡世のための道具となって、職業坊主ばかりで満ち溢れ、世間や身内の信徒からも軽賎の謗りを受ける身となるのであります。また因果応報の輪廻の因果によれば「国立戒壇」を否定する信徒も、おのずから軽賎の罪果を身に受ける事になるのであります。
「国立戒壇」を否定することは、仏法(三大秘法)を破壊することになるのであります。また、国家・国民統合の象徴である皇室や天皇を軽視することとなり、皇室の存続に無関心を助長することにと繋るのであります。皇室に対する敬愛の念を持てない者ばかりが世の中に蔓延する。言うなれば、国家に中心のない、己の我欲や権利ばかりを主張する者で溢れかえり、地獄・餓鬼・畜生の三毒強盛の世の中は、欲望民主主義ばかりが横行する殺伐とした獣の集まりのような世の中になるのであります。現代の世相が正しくそれに当たっています。
「国立戒壇」を否定することは国威を喪失せしめ、近隣諸国から20万人の慰安婦強制連行・30万にの南京大虐殺などの嘲りを受け、政治・経済は混沌として行き詰まり、国民は総じて無気力となり、自殺者は毎年驚異的な増加をたどる結果を招き、凶悪犯罪は日を追って増加し、犯罪国家を呈するような暗い希望の持てない無気力な国家となるのであります。
「国立戒壇」を否定することは、隣国から北方領土・竹島等の領土を侵奪・略奪される結果を招き、国民は等しく絶望的悲壮感に覆われ、総罰の苦悶を味わう事になるのであります。
「国立戒壇」を否定することは、やがて影であるところの、国内の政治・経済をはじめ、産業、教育、文化等の一切の治生産業に行き詰まりをきたし、行き着くところ、終には自界反逆・他国侵逼の二難が現実のものとなり、やがて亡国へと突き進んで行くことになるのであります。
今日、国立戒壇を永久放棄した宗門がいくら口先で布教の重要性を叫んでみても、広宣流布は、絵に描いた餅に等しいと云わざるをえないのであります。一刻も早く「国立戒壇」の正義を、日蓮正宗の僧俗が何をさて置いても取り戻さない限り、やがて自叛、他逼、の二難が事相となることは、絶対に避けることは出来ないのであります。
近年、年を経る毎に盛んになる、異常気象による自然災害や凶悪犯罪の増加、あるいは隣国から領土を侵され侵奪される等の災いは、明らかに是れ先難であり、諸天の諫める警告であります。
立正安国論に云く「徴先に顕れ災い後に至る」と。亦云く「先難是明らかなり、後災何ぞ疑わん、若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、その時何がせんや」と。