亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

悪人を愛敬し善人を治罰する卑劣とは

2015年05月31日 14時31分23秒 | 亡国の坂道 
本項で本山の坊主らが指摘している問題として、大別すれば下記に記した三つの要件に絞られると思われますが、重複を避ける意味から、ここでは簡単な反論と破折に止めることにします。

①坊主云く「これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされたが、自らの浅智慧と棒暗記の教学に溺れる浅井等は、日達上人の御指南を信解できず、かえって、「日達上人が学会の圧力に屈して己義(自己流の誤った教義)を構えた」について

先ずはじめに、摧破異流義考の執筆に当たった坊主らがいう「これに関蓮する」とは、ニセ戒壇正本堂に御遷座された時の、本門戒壇の大御本尊の御座所のことを指しているのであります。

日達は、ニセ戒壇正本堂を大聖人一期の御遺命の戒壇と偽るからには、正本堂に据え奉る御本尊は、当然本門戒壇の大御本尊を御安置しなければなりません。そこで日達はあろう事か、正本堂建立の発願主となった池田大作の意向に諂って、ニセ戒壇正本堂に御出座しの御本尊の御座所も「事の戒壇」という邪義を構えたのであります。

次に坊主らの記述は「本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた」などと、日達の展開する邪義を正当化せんと、涙ぐましいばかりの言い訳を羅列していますが、それは子供騙しのような屁理屈なのです。

坊主らが強調していますように、日達は「本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされた」等と、如何にも今日に至るまで七百年の間一切明かされていなかった、富士門流の甚深の法門を初めて明かされた如く、勿体ぶった言い方をしていますが、何のことはありません。それは戒壇の大御本尊の法体は、事の一念三千の御当体そのものであるから、戒壇の大御本尊の御座所は、何時でも、何処でも「事の戒壇」というとんでもでもない己義を構えたことであります。その邪義の出所は、先に行われた、日達の戒壇義を歪曲した説法に由来するのであります。

日達の云く「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御法蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿にあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊の在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(昭和45年4月27日 教師補任式)等とした驚くべき邪義であります。この間違った説法を根拠に「甚深の法義を体系的に明かされた」などと、箔を付けた言い方をして、日達の吹聴する怪しげな邪義をなんとか正当化しようとして、純真な罪の無い信徒の信心を根こそぎ狂わせてしまったのであります。

②坊主云く「浅井等は、総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」について

憚りながら当時妙信講の浅井本部長は「総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」との言い掛かりは、前半の「総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して」と、後半の「一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」は、問題の本質が異なる故に、当然分けて論ずべき問題であります。

前半のその部分はまったくのデタラメであり、実際は真逆だったのであります。後半のその部分は坊主が指摘するごとく、創価学会の池田大作の邪義に猛追する坊主らが、大聖人様の三大秘法義を曲げに曲げて邪義を構え、富士門流七百年の伝統教義を破壊したのは事実であります。

坊主が指摘する前半部分の真相を説明しますと、昭和44年5月7日には、問題の「聖人展」が池袋の東武デパートで開催されました。その主たる目的は創価学会の選挙にありました。創価学会は選挙に勝利するためには、今まで頑なに主張していた国立戒壇をかなぐり捨てて、全邪宗および邪宗日蓮宗との対立を解消し、選挙の票のためには、どうしても彼らと和解をしなければならない切実な問題を抱えていたのであります。

そこで「聖人展」の開催を思い付き、全日蓮宗に呼びかけたのであります。邪宗日蓮宗は「聖人展」の開催に挙って賛成を表明しました。なかでも邪宗身延山は、自宗から出品した民部日向の書いた血脈の切れた偽本尊と大石寺から持ち出した日興上人の御影様を同座せしめて公衆の面前に晒したのであります。日興上人が二十六箇条の遺誡置文に記された「謗法と同座すべからず与同罪を恐るべき事」と誠誡された正系門家・富士門流の永遠の禁制がこの時、平然と破られたのであります。

その目を覆うばかりの惨状を目の当たりにされた浅井本部長は、総本山に飛んで行き、このような謗法行為は絶対に許されないとして、5月12日、同18日、翌6月18日と都合三回に亘って「聖人展」を即座に中止すべく宗務院に申し入れたところ、対応に出た早瀬道応(後の日慈)と阿部信夫教学部長(後の日顕)は、浅井本部長の申し入れを歯牙にもかけない大柄な態度で拒絶し、浅井本部長に粗暴な言葉を浴びせて、その都度、何が悪いといった鬼のような形相で、浅井本部長を傲然と追い帰しているのであります。

つづけて翌昭和45年3月25日には、第一回諌暁書として浅井本部長は「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を創価学会幹部・宗門の管長及び役僧の12人に送付して、正本堂の誑惑を徹底的に追求し、創価学会および宗門の誤りを諫め、富士門流七百年の伝統教義に基づき、正しい三大秘法義を詳らかにし、正本堂の誑惑を六項目の観点の上から、彼らの展開する前代未聞の邪義を徹底的に粉砕されたのであります。

そしたところ、一週間後の4月3日には、早くも日達管長自らが浅井本部長・浅井甚兵衛氏を総本山に呼び寄せ、大奥で目通りすることとなり、照れ臭そうに「浅井さん、良く書けていますねぇ~、誰にもこうは書けないでしょう。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」等とお世辞ともつかない懐柔する言葉を投げかけた後、「この中の引用の先師の『御法蔵説法』は日応上人のものですね。あれには省略されている部分があるのです。これがその原本です。大事なものだから全部は見せられないが」等と勿体をつけて、毛筆の書き物を持ち出し、姑息にも、その重要な前後の御文を両手で隠しながら「『戒壇の大御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御法蔵であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです」などと言って、浅井本部長・甚兵衛両氏を幻惑して錯誤に陥れ、邪義で丸め込もうと謀ったのであります。

浅井本部長はこの件について次のような感想と経緯を述べられています。

「この細井管長が示された日応上人の御法蔵説法の『原本』と称する本であるが、後日不思議な経路を経て、その全文を入手することができた。それは五十六世日応上人のものではなく、六十代日開上人の御法蔵説法であった。謹んでその全文を拝見するとに、文章は炳焉であった。すなわち細井管長が引用された『此の所即ち事の戒壇』の前後を合わせ拝すれば『御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊当山に在します事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し、此の霊場に一度でも詣でん輩は-----』とある。すなわち日開上人は、広布の暁の国立戒壇を前提として、その事の戒壇に安置し奉る戒壇の大御本尊いまここにましますゆえに、たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、参詣する者の功徳は全く事の戒壇に詣でるのと同じであることを『此の処即ち是れ本門事の戒壇』と仰せられたのである。すなわち、〝義理において事の戒壇〟の意である。これを本宗では『義理の戒壇』あるいは『義の戒壇』と申し上げてきたのである」(懺悔清算を求P.27)と。

故に日寛上人は「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理の戒壇に当たるなり。-----故に、当山は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)と。

ところが日達管長は、浅井本部長を騙すためには「毒を食らわば皿までも」ではないでしょうが「先日4月3日に御山で見せたあの本は、日寛上人よりもっと古いものです」などと言って、何処までも己義を押し通そうと、涙ぐましいばかりの嘘をつきつづけたのであります。

それから二週間後の4月16日、今度は日達管長は東京の常泉寺に下向されて、浅井本部長と甚兵衛氏の二人を招いて、開口一番「国立戒壇を叫べば宗門はつぶされるかもしれない。だから浅井さん、今後はもう国立戒壇を云わんでください。頼みますよ」などと、みっともなない姿を晒しながら、日達管長が二人に頭を下げて懇願しているのであります。

国立戒壇放棄を日達管長から懇願された浅井本部長は「どうして国立戒壇をいうと宗門がつぶされるのですか。〝信教の自由〟はいまの憲法こそ保証しているのではないでしょうか」と丁重に日達管長の真意を問いただしたところ、日達管長は「共産党の動きが怖いのです」などと怖気づいて、日本共産党が松本善太郎衆院議員名義で船田衆議院議長に提出した「国立戒壇」に関する質問主意書のコピーを持ち出して「国立戒壇だけは今後は口にしないで下さい」等と、再び拝むように懇願しているのであります。(正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う P.30)と。

参考までに申し上げますと、日本共産党の谷口善太郎氏の「国立戒壇は憲法違反ではないか」とする、質問主意書に基づく政府の答弁は、次のような明快なものでした。

「憲法を改正しなければ実現することができない事項であっても、その実現を目的とする政治活動を行うことが、直ちに憲法違反になるわけではない」というものでした。いわんや、国立戒壇を宗教目的とする活動が憲法違反に問われることなど、絶対にありえない事であります。それにしても、宗門の坊主らの無知、日達の無知には呆れましたね。

このように、宗門の坊主らがいう「浅井等は、総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」などとする記述は、有りもしないデタラメということがお分かりだと思うのであります。

③坊主云く「総本山や正宗寺院に対して、右翼顔負けの街宣車を用いた嫌がらせをなし、とうとう大量逮捕者まで出す集団暴行事件を引き起こして、昭和49年、日蓮正宗から破門されるに至ったのである」について

坊主らは事の真偽をおり混ぜ、亦、事の次第を前後させて、悪質にも妙信講が一方的に正宗信徒としての統制を乱し、宗制宗規を蹂躙したかのごとく誹謗中傷していますが、今となっては何んとでも言えるのであります。

昭和49年と云えば御遺命守護の闘いも佳境に入っていました。創価学会は、日本共産党が「国立戒壇」に関する質問主意書を政府に提出した回答に応えるべく、同年4月23日付で政府に対して、次のような欺瞞回答を提出したのであります。

1.本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者 の創意と供養によって建てるべきものである。

2.既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定で ある。これが本門戒壇に当たる。

3.一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1.で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業と して行うのであって、国家権力とは無関係である。

妙信講は、創価学会のこのような本門戒壇に関する欺瞞回答を粉砕すべく、明治公園に三千名が集い「立正安国野外集会」を開催しました。そして、来る8月15日までに、政府に対して行った欺瞞回答の訂正を求める書状を、学会本部に小園江理事の手で届けました。そして、その期日までに欺瞞回答の撤回をしなければ、妙信講が日蓮大聖人の弟子として、大聖人様仰せの国立戒壇の意義と目的を、正しく創価学会に変わって政府に堂々と訂正して来ると書状に記したのです。

ところが創価学会と宗門は、妙信講が要求する国立戒壇に関する欺瞞回答の訂正を要求した、8月15日を待たずに、3日前の8月12日付けで下記のごとく「宣告書」を内容証明郵便で送りつけ、妙信講を部外者の立場に追いやるため、講中解散処分という暴挙に打って出て信徒資格を剥奪し、一切関係なくしてしまったのであります。

 宣告書

一、主文 講中解散に処する。
 
右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度に及ぶ宗務院の説得、戒告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などを行った。これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許し難いものである。従って、七月三十一日をもって弁疎の提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする事由は見当たらず、いまだ情状酌量の余地も全くないものである。よって宗規第百六十四条(旧第六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する。

昭和四十九年八月十二日 
                                                     日蓮正宗管長 細井 日達 印



斯くの如くに妙信講は、昭和49年8月12日を以って講中解散処分を受けるに至りました。しかしながら、それ以前には「右翼顔負けの街宣車を用いて云々」等は虚偽の羅列であり、一切行ったことはありません。また、一末寺に街宣車で押しかけて何をしたというのでしょうか。そんな必要は全くないのであります。妙信講が相手としているのは、あくまでも邪義を振りまく大本の、日蓮正宗の総本山に巣食う坊主の代表だったのであります。

そもそも妙信講をこのような理不尽な解散処分に付したのも、宗門と創価学会は一体になって、正本堂の誑惑を正当化するためには、4月23日に政府に対して国立戒壇の性質について回答した手前、妙信講の宣揚する国立戒壇の正義を宗内から完全に滅失し、排除しなければならない状況に追い込まれていたのであります。

妙信講が大聖人様以来の三大秘法義を正しく宣揚することに対して、宗門・学会は数年前から、妙信講の存在を快く思っていないばかりか、国立戒壇を主張し続ける妙信講を一刻も早く排除することだけに捉われ、日夜汲々としていたのであります。

当時の状況を山崎正友弁護士は「盗聴教団」と題する自著に次のように告白しています。

「五月には、宗議会を開いて日蓮正宗の宗規を改正し、従来はなかった講中や檀徒に対する処分条項を新たに制定した。妙信講が、もし、ことを荒立てたら、講中解散処分し、幹部は信徒除名処分にすると脅しをかけたのであった」「できるなら、多少のさわぎがあろうと、このまま妙信講を処分で押し切ったよほうがよい、というのが、北条、秋谷両副会長はじめ私たちの意見だった」(盗聴教団 P.46)等と。    

かくして妙信講は、昭和49年8月12日付を以って、大聖人様に背逆する悪僧日達の手によって、講中解散処分を受け、指導者は信徒除名処分に付されるという、理不尽極まる仕打ちを受けるに至ったのであります。

扨て、次に「総本山や正宗寺院に対して、右翼顔負けの街宣車を用いた嫌がらせをなし、とうとう大量逮捕者まで出す集団暴行事件を引き起こして」について

ここで妙信講解散後の御遺命守護の戦いについて、正確を期すために浅井会長が記した、大量逮捕者を出すに至った経緯と真実を紹介したいと思います。

「解散処分と同時に、いよいよ妙信講の壊滅を期して、学会・宗門一体になっての狂気のごとき攻撃が開始された。この攻撃の直接指揮を執ったのは、池田の腹心・悪徳弁護士の山崎正友であった。彼は謀略部隊を率いてあらゆる策謀をめぐらし、また情報にうとい.細井管長・宗務役僧を煽動しては、これを思うままに操って妙信講の壊滅を計った。

先ず処分直後、細井管長の直筆の「元妙信講員の皆様へ」という手紙が、多くの講員宅に郵送されて来た。文章は山崎の手に成るものであったが、筆跡はまぎれもなく細井管長の直筆であった。しかし心の乱れをそのままに、筆は大いに乱れていた。その内容は『〝国立戒壇の名称を使用してはいけない〟との公式決定に従わぬから、今回解散処分に付した。講員は誤った指導者に付くことなく、六十日以内に指定四ヶ寺に所属替えをもうしでるように』というものである。

山崎等は、〝猊下からのお手紙〟ならば、講員は大いに動揺し、離脱する者が続出すると思ったのであろうが、この手紙を見た講員は、その破廉恥の内容にあきれ、かつ憤った。一人も申し出る者が無いのを見て、九月中旬『再び元妙信講員の皆様へ』という細井管長の手紙が送られてきた。それには『若し六十日以内に所属替えを申し出ない場合は日蓮正宗信徒ではなくなる』と威してあった。しかしこれも効果は全くなかった。

彼らはさらにこれらの手紙ならびに解散処分を宣伝する文を、宗門機関誌『大日蓮』と法華講機関誌『大白法』に掲載させ、それをまた妙信講員宅に送りつけてきた。これを見ると、表面はいかにも宗門あるいは法華講連合会が妙信講を攻撃しているように見えるが、発送等に至るまで、すべて学会がやっていた。北条副会長(当時)が法華講連合会から大量の『大白法』を買い上げていることも、連合会担当者の自供により判明した。自らは姿を隠して悪事を為す手口は、学会の常とう手段であるが、いかにも卑劣であった。

『なぜ正々堂々と出てこないのか』と、北条浩を糾弾するため、十月四日男子部幹部数十名が学会本部に赴いたところ、これを事前に察知して待機していた特殊部隊が、一斉に襲いかかってきた。その上彼等は日頃馴れ合いの四谷署に通報して、妙信講員が暴力を振るったと偽り、全員を逮捕させた。さらに宗務院はこれを理由に、妙信講の首脳幹部三十三名を除名処分にした。すべては山崎・桐ケ谷等、学会弁護士の悪辣な策謀であった」(御遺命守護の闘いP.198~199)と。

浅井本部長は、学会が下したこの度の暴力事件を極めて抑制的な記述に止めておられるように見受けられますが、実際にこの糾弾抗議に参加した当事者の話によると、学会は数百名の精鋭部隊を建物内外の物陰に潜伏させて、妙信講員が門扉を抉じ開けて敷地内へ乱入するように仕向けた上、消火器を持ち出して、敷地の中から消化液を妙信講員の頭や顔等に噴射して挑発し、中には角材や鉄パイプ等を振りまわして、妙信講員の顔や頭を殴りつけ、あるいは消化液を吹き付けられて泡だらけにされ、互いの怒号が飛び交う中に「殺すなよ、殺さない程度にやれ!」などと大声で叫ぶ学会側の指揮官がいた性か、さすがに命を奪われる者はいなかったものの、怪我を負わなかった妙信講員は、一人として居なかったと証言しています。

このように、三大秘法の正義を叫ぶ者が講中解散処分という重科を負わされ、あるいは信徒資格を剥奪されたうえに、さらに国家権力によって暴力事件をでっちあげられ、全員が逮捕されるという、未曾有の暴力事件に巻き込まれたのでありますが、どちらに非があるかは、いまさら、説明にはおよばないのであります。

坊主らは今頃になって、妙信講員が街宣車をくりだして、一方的に学会本部に乗り込んで、暴力事件を引き起こしたかの如く宣伝し、そのことが、講中解散処分を受けるに至った根本原因のように書き連ねていますが、真相はぜんぜん別な所にあったのであります。