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亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

山門入口の妄言と国立戒壇永久放棄の罪過

2013年08月01日 18時35分19秒 | 亡国の坂道 
「星界の道~航海中」と題するブログを書いている「山門入口」を名乗る顕正会崩れ思しき法華講員が、横着にも拙者の書き込みに難癖を付けに来たので、お灸を饐えておきます。

山門入口の云く「日蓮正宗では、時代にそぐわない表現だからとの判断で、国立戒壇の名称を使用しなくなっただけであり、本来の「本門の戒壇」「本門寺の戒壇」と名称を戻しただけである」等と。

これこそがバカの骨頂であります。御本仏大聖人様は広宣流布の暁に富士山麓の最勝の地たる、天生原に本門寺の戒壇=国立戒壇を建てて、日本国を仏国にすることが究竟の御本願であることは、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄に明確に御教示であります。山門入口なる者は顕正会で何を学んだというのでしょうか、顕正会こそが、妙信講発足以来終始一貫して国立戒壇を叫ぶが故に、死罪ともいうべき講中解散処分を受けた、唯一の団体であったことも理解できないでいたとは呆れてしまいます。世間には、「明き盲」なる他人を蔑称する例え話がありますが、このような例え話は彼の為に存在するような例示だと思われます。

山門入口ごときは悪僧日達・日顕等の尻馬に乗って、御本仏大聖人様の御本願であられる、広宣流布の暁の「国立戒壇」を、知ったかぶりして小ばかにし、生意気にも嘲笑っておりますが、然らば山門入口の言う、本来の「本門の戒壇」「本門寺の戒壇」なる戒壇は、如何なる性質の戒壇なのか、何時、如何なる手続きによって、如何なる方の発願によって、如何なる場所に建立されるべきものなのか等々、明確に示すべきなのであります。

それを山門入口なる者は「時代にそぐわなくなった」という理由で「国立戒壇」を放棄したなどと自らのブログで宣伝しておりますが、このような屁理屈は、六十六代目の日達管長が池田大作に媚を売って、創価学会の選挙を勝たせるためと、世間の国立戒壇に対する批判をかわすために、取って付けたように言い出した悪質な詭弁なのであります。山門入口ごときは調子に乗って、それを受け売りしながら、一人でしたり顔しているのであります。

宗門七百年の宿願たる国立戒壇は、政治野心に燃える創価学会の選挙のために、似非信徒の池田大作から、強引に捨てさせられたのが真相なのであります。

そもそも正系門家の貫首からして「国立戒壇」に関する意義と認識がこの程度のものでしかないから、顕正会を退転して宗門に鞍替えした法華講を名乗る山門入口ごときが、御本仏大聖人様の究竟の御本願を正しく理解できないのも当然かも知れません。

それはさて置き悪僧日達は、信徒団体の創価学会と世間に諂って、御本仏大聖人様の一期の御遺命を金で売り渡すことになるのでありますが、こんな出来の悪い悪僧が日蓮正宗の貫首職に就いたということは、宗門に取っても、日本国にとっても取り返しのつかない不幸の始まりであり、甚大な損失でありました。

世間の風評や風当たりを気にして、アメリカから押し付けられた現行義憲法に、国民主権主義が謳われていると言って「主権在民だから国主は民衆だ」等と、有頂天になって国立戒壇を否定し、三大秘法義を破壊して、平然としているのが、今日の日蓮正宗の坊主なのであります。

また、日本国の本有の国主である天皇の権威を貶めるために、主権在民だから「国主」は民衆一人ひとりなどと言い張って恥じる事を知らない。このような間違った考えこそが、戦後の左翼思想に錯倒した戦後民主主義者の典型ともいうべき忌むべき思想なのであります。

「国立戒壇」ということが、どうして時代のそぐわなくなったのか? その明確な理由を示すこともできないで「時代にそぐわなくなった」といえば、恰も民主主義を先取りしたようで、耳障りが良いから大衆受けをする。そこに大きな落とし穴があるのであります。その典型が「勅宣・御教書」の意を「時代にそぐわなくなった」との理由で「建築許可証」などと歪曲する。このバカげた解釈が、御本仏日蓮大聖人に背反する大謗法の所行なのであります。

また「時代にそぐわなくなった」という理由で「国立戒壇」を否定することは、邪教と肩を並べ、立正安国論の仰せを否定することに通ずることになるのであります。いま「国立戒壇」を否定することは、御本仏大聖人を否定することは云うにおよばず、国家永遠の大計治術と広宣流布の暁の国家が防非止悪の当体となる御本尊の及ぼす甚深の秘術を否定することになるのであります。

「国立戒壇」の意義を少しく説明するならば、大聖人様は種々御振舞抄に、開目抄の意を解説されて云く「去年(こぞ)の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり。頸切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり。此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人(しびと)なり。日蓮は日本の人の魂なり」と。
即ちこの元意は、御本仏大聖人様は自らを日本国の魂であると仰せ下さり、大聖人様を国家の柱として立てるか、立てないか。すなわち、国立戒壇を建てて戒壇の大御本尊を国家的に尊崇するか、しないかで、日本国の存亡が決すると仰せなのであります。

そんな重大な大聖人様の仰せが耳に入らないのか、あるいは理解が及ばないのか、やれ民主主義だ、国民主権主義だと大騒ぎをした揚句「国立戒壇」は時代にそぐわなくなったから永久に捨てるとは、為にする世間への諂いであり、これを、軽佻浮薄の最たる愚行というのであります。

広宣流布の暁に国家の意思表明を以って、大聖人様の御魂である戒壇の大御本尊を国立戒壇に奉安することによって、日本国の魂は戒壇の御本尊となるのであります。御本仏を魂とする日本国は、即仏国であります。この原理を端的に「日蓮は日本の人の魂なり」と仰せられているのであります。

安国論に仰せの「仏国其れ衰えんや、十方は悉く宝土なり、宝土なんぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無くんば、身は安全にして心は是れ禅定ならん」の仰せがその事を指しているのであります。

いま、此処で立正安国論で仰せの、正法治国・邪法乱国の三世を貫く不滅の原理と国立戒壇の防非止悪の妙用と力用の広大無辺の御利益を説明したところで、理解の及ぶ者は皆無だと思われますが、その広大甚遠の御利益は、個々人に於いては現当二世の安穏は勿論の事、国家永遠の安泰はいうにおよばず、中國・印度さらには、全世界の人々の懺悔滅罪の戒壇となり、天界即ち自然界にも利益が及ぶと仰せなのであります。

即ち、自然界にも利益が及ぶとは、毎年のように繰り返される台風や水害等の災害から解放されるということであります。その事を三大秘法抄に「三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」と御教示なのであります。

ところがその御本仏の意に反して、国立戒壇に悪念を懐き反対する者の国土世間は、御開山日興上人が御指摘の如く「所詮、末法に入って法華本門を建てられざるの間は、国土の災難日に随って増長し、自他の叛逆歳を逐うて蜂起せん」との仰せが、月々年々現実のものとなりつつあるのであります。

最近の自然災害を挙げるまでもなく、今年のゲリラ豪雨と大旱魃は、山口、島根、福島、新潟等の大豪雨に反して、沖縄、奄美、九州宮崎等の無残な大旱魃は近年にない大惨事であります。是れ、安国論で仰せの魔鬼来乱の為せる災いであります。また、国際社会に目を転ずれば、隣国の中國や、韓国からは、毎年のように歴史認識や慰安婦問題を持ち出された上に、日本固有の領土である尖閣諸島の侵略は風前の灯と化し、竹島は武力で不法に略奪されて執拗な攻撃を受け、民族の自尊心は徹底的に侮蔑されたまま歴史認識を逆手に取られて貶められ、逆に嘲りをうけています。

昨今も、韓国から浴びせられる卑劣な侮蔑はスポーツの世界にまで持ち込まれ「歴史を忘れた民族には未来はない」等と大書した横断幕がサッカー場に掲げられたり、アメリカ、ロス郊外のグレンデル公園には、あの忌まわしい慰安婦像が設置され、歴史を歪曲して日本の過去をあげつらってそれを槍玉に挙げ、アメリカ全土にこれ等の慰安婦像を数十カ所も設置する計画を発表する等、日本民族を徹底して侮辱し貶めようとしています。

是れ唯一の正系門家が、御本仏大聖人様の御本願たる、三大秘法抄で仰せの本門寺の戒壇=国立戒壇を永久放棄したが故の仏罰であります。然るところ、これ等の終わりのない国難とも云える災いは、如何に、政治・外交の最善を尽くしても、決して解決はしないのであります。まさしく「災いを千里の果てより招き寄せる」の御本仏の戒文が事相となって参りました。やがて国立戒壇永久放棄の大悪事は、早晩国家の存立をも危うくする事態を迎えるのは明らかなのであります。

いま、日本国がこれ等の降りかかる諸問題を根本的に解決するには、御本仏大聖人様の唯一の御本願たる、国立戒壇の正義を速やかに取り戻し、五体投地の深い懺悔と共に正宗僧俗全信徒が一決して国立戒壇の旗を高らかに掲げて国家を諫暁し、正しく三大秘法の弘通に専念する以外には、絶対に解決の道はないのであります。

六十六代の日達管長と六十七代の日顕管長の二人は、似非信徒団体の池田大作に諂って世間に迎合する余り、大聖人一期の御遺命である「国立戒壇」を「民衆立」あるいは、「国主立」等という造語をもって御遺命を破壊したのであります。また、悪知識の権化とも云うべき悪僧日顕は、三大秘法抄の文々句々を悉く捩じ曲げて、末法弘通の大白法たる三大秘法を徹頭徹尾破壊したのであります。

また悪僧日顕は日本国の「王法」を指して「あらゆる社会の原理」などと嘯いていますが「王法」とは、一言でいうなら一国の政治を指すのであって、広義には国家主権のことを云うのでありますが、その国家主権も国立戒壇永久放棄によって、今や隣国より著しい嘲りを受ける結果を招いているのであります。

四十九院申状に云く「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」とは是れであります。

悪僧日達が「時代にそぐわなくなった」との理由で「国立戒壇」を永久放棄して、ニセ戒壇正本堂を「広宣流布の事の戒壇」と呼ぶ牽強付会と、悪僧日顕が「勅宣・御教書」を「建築許可証」等とするたばかりも同根から出た邪義なのであります。大聖人様の一期の大事の御遺命がこのような形で破壊されるとは、誰人も予想できなかったとは云え、一山を代表する貫首が、御本仏大聖人様の三大秘法義を曲げることに依って、今日の日蓮正宗は一切の功徳を失い、国威まで喪失してしまったのであります。

大聖人様の仰せに云く「仏法ようやく転動しければ世間も亦濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。亦云く「源濁れば流れ清からず」と。更に云く「根本滅するにおいて豈枝葉栄えんや」との仰せを今こそ深く味わうべきであります。

根本とは三大秘法であり、枝葉とは、政治・経済等一切の治生産業のことであります。

故に減劫御書に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」と仰せられるのであります。

現今の宗門が「国立戒壇」を否定して、ニセ戒壇正本堂を「広宣流布の事の戒壇」と宣伝した後、事相の広宣流布の暁に建てられる「本門戒壇」とは、如何なる戒壇なのでしょうか? 国家とは一切関わりのない無関係の戒壇とは、ニセ戒壇正本堂のような戒壇になるのは目に見えています。このような戒壇では、国家・国土を成仏せしめる戒壇どころか、一人の成仏も叶わない戒壇となるのであります。

そもそも宗門七百年の唯一の宿願たる、国立戒壇を永久放棄した今日の宗門には、新たに戒壇を建てようとする気力そのものが失われている故に、そのような心配はナンセンスかもしれません。要するに間違った教義を展開する中では、折伏そのものが一切出来なくなるばかりか、間違った教義の展開は大聖人様が決してお許しにならないのであります。

故に、平成27年の日興上人御誕生七百七十年の佳節に合わせた法華講員50%増と、平成33年の大聖人様御誕生の八百遠忌に、法華講員80万人体勢にするとの折伏目標も、絶対に実現できない絵に描いた餅で終わるのであります。

いずれにしても、国家意思の表明のない国家と無関係に建てた戒壇では、仏国は決して実現しないのであります。そのような戒壇は所詮、かつての正本堂と同じ意味合いのニセ戒壇ということになるのであって、そんな建物を立てるのに大聖人様はどうして「時を待つべきのみ」と仰せられる理由があるのでしょうか、平仄が合わないとはこの事であります。

山門入口の続けて云く「広宣流布は、時の法主の判断に従うのが、日蓮正宗信徒のとる姿である」などと。

脱線するにしても限度を弁えなければならなりません。「国立戒壇」は御本仏大聖人の究竟の御本願なのであります。それを、「時の法主の判断に従うのが、日蓮正宗信徒のとる姿である」とは呆れましたね。信徒がそのように無能にして無気力な体たらくだから、邪義坊主に舐められるのであります。

そもそも「広宣流布は、時の法主の判断に従うのが、日蓮正宗信徒のとる姿である」等と言い出したのは、悪僧日顕が、貫首の権威に箔を付けようとする魂胆以外にはないのであります。そんなバカげたことがまかり通るなら、貫首の気まぐれで何時だって、広宣流布の宣言ができてしまう。裏を返せば、信徒は盲で良い。ただ黙って供養に励めばお利口さん。ということになってしまうのであります。

出家坊主のそのような狡猾に目をつむり、盲信徒の山門入口らがそれを有りがたがって、坊主の垂れ流す邪義を無批判に受け売りしているだけだから、今日の法華講は邪義を振りまく禿人からバカにされるのであります。法華講にはこのような無能な盲信徒しかいないから、禿人が己の邪義をいつまでも改めることもなく、どこまでも邪義を垂れ流して平然と構えているのであります。




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