「最後に申すべき事を砕破す」(P.39)に云く「正本堂の意義について日達上人は、昭和47年4月28日の訓諭において御指南された」「正本堂は一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり、即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり、但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」とする大誑惑の訓諭を発布したのであります。
邪義班の連中は、この誑惑の訓諭を絶賛して「日達上人と日顕上人の御慈悲」などと云う諛言には呆れるばかりであります。
ニセ戒壇正本堂の何処に「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」実態が存する戒壇のか、デタラメを云うにも大概にしなければならないのであります。更に「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とは、広宣流布は未だしていないが、ニセ戒壇だけは先に建てました」というのでしょうか! それを自らが立証するように「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず」等と苦しい言い訳をしているのであります。
そもそも訓諭とは、天皇陛下の詔勅にも値する時の貫首の最高指南書と云われるものであります。その最高指南書たる訓諭でこのような出鱈目なインチキ訓諭を抜けぬけと発表する貫首の信心とは、一体広宣流布の暁の国立戒壇を何と心得ているのでありましょうか。
悪僧日達のこの度の訓諭を一言で云うならば、御本仏大聖人が忍び給うた小松原の剣難、竜の口の頸の座、伊豆、佐渡の両度の御流罪等の忍難慈勝の三十年の御化導を水泡に帰せしむるほどの大誑惑であり、万死に値するほどの大謗法に当たるのであります。
改めて指摘するに、御遺命を偽る目的で建てたニセ戒壇正本堂の何処に「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義が含まれている」と云うのでしょうか。
一期弘法付嘱書には、三大秘法流溢の時に国主たる天皇陛下が此の三大秘法を護持して守護される時と定め給い、三大秘法抄には、広宣流布の暁に王臣一同が三大秘法を受持して、王仏冥合が成った時と定め給うておられるのでります。
また、この訓諭でいう「現時における事の戒壇」なる言葉は、端からまやかし以外何ものでもない誑惑であります。広宣流布以前の戒壇の大御本尊在所は、事中の事理であれば、義壇であって、決して事壇ではないのであります。
次に「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たる大殿堂なり」についても、これは、御遺命違背の何ものでもりません。即ち三大秘法抄には「時を待つべきのみ」と誠誡し給いて、広布以前に本門戒壇堂と偽って建ててはならないと厳誡遊ばされているのであります。その誠誡に反して「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」などと、苦しい言い訳をしなければならなくなるのであります。これ矛盾撞着支離滅裂ではないか!
ここに悪僧日達の意味不明の謗言を糾弾するなら、云く「正本堂は、いわば八百万民衆の建立であります。「八百万」という数は、実に奇しき数であります。「八百万」とは昔の日本古来の読み方によりますと『やおろず』であります。『やおろず』とは、無数を意味するのであります。今われわれ人間は、十界互具・一念三千の法門からすれば、一面、天界の神々であるといえるし、また仏界の仏であるともいえるのであります。八百万民衆の建立による正本堂は、それ故、古来の読み方に従えば、『やおろず』の神々・諸天善神の建立ともいえるし、また十方三世の無数の仏の建立ともいえるのであります。まことに正本堂は意義深い建物と信ずるのでございます」(大日蓮 昭和45年6月号)と。
こんな馬鹿げた説法を垂れる貫首は、宗門始まって以来の悪僧の成せる業であります。己の三世の生命も認識できない凡夫をして、ある時は、諸天善神に祭り上げられたかと思へば、またある時は十方三世の仏にしてしまう。冗談にしても程が有ろうというものです。
どだい、悪僧日達のこの説法を聞いて理解できる者が果たして存在したでしょうか、正本堂とは、この様な得体の知れない建物であって、魔の殿堂と言うべき建物だったのであります。しかるべくして、ニセ戒壇正本堂は建設からわずか26年にして破壊せしめ、この浮世の世界から消滅させざるを得なかったのであります。
また正本堂は「本門寺の戒壇たる現時における事の戒壇なり、即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」として、大絶賛して建てた大殿堂でありながら、建立の翌年の昭和48年には、宗門と学会の間で早くも大喧嘩を始めています。学会は兵糧攻めよろしく、学会員の登山を激減して経済封鎖を強行し、宗門への金の流れを断つべく、職業坊主に対して先制パンチを食らわせたのであります。
これに対して悪僧日達は「これはもう、このままじゃ話にもならない。もし、学会がどこまでも来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、もし学会がこなくて、こっちの生活がなりたたないと云うならば、御本尊を御宝蔵におしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳して良いという覚悟を私は決めた」(宗門の現況と銘打った指導会 昭和49年7月27日)等と、切羽詰まった泣き言を垂れているのであります。
悪僧日達の此の卑しいまでの嘆きは、正本堂という奇怪な建物は、御本仏大聖人様に背反して広宣流布を偽って建てた、ニセ戒壇とも云うべき魔の殿堂たる事を雄弁に物語っているのであります。
悪僧日達は、禿人としての面目躍如たるところを晒しながら、誰はばかることなく並み居る坊主仲間を前に、己が食わんがための卑しい檄を飛ばしているのであります。あれほど大騒ぎをして建てた「事の戒壇」たる正本堂なる建物は、この体の物だったのであります。
ニセ戒壇正本堂は取り壊せば済むというよな、単純なものではありません。正系門家の仏法違背が齎す災いは、愈々凡夫の思慮の及ばない前代未聞の災いを、千里の果てより招来することになるのであります。
大聖人様はその事を「先難此れ明らかなり、後災何ぞ疑わん」乃至「その時如何がせんや」と仰せられるのであります。
邪義班の連中は、この誑惑の訓諭を絶賛して「日達上人と日顕上人の御慈悲」などと云う諛言には呆れるばかりであります。
ニセ戒壇正本堂の何処に「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」実態が存する戒壇のか、デタラメを云うにも大概にしなければならないのであります。更に「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とは、広宣流布は未だしていないが、ニセ戒壇だけは先に建てました」というのでしょうか! それを自らが立証するように「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず」等と苦しい言い訳をしているのであります。
そもそも訓諭とは、天皇陛下の詔勅にも値する時の貫首の最高指南書と云われるものであります。その最高指南書たる訓諭でこのような出鱈目なインチキ訓諭を抜けぬけと発表する貫首の信心とは、一体広宣流布の暁の国立戒壇を何と心得ているのでありましょうか。
悪僧日達のこの度の訓諭を一言で云うならば、御本仏大聖人が忍び給うた小松原の剣難、竜の口の頸の座、伊豆、佐渡の両度の御流罪等の忍難慈勝の三十年の御化導を水泡に帰せしむるほどの大誑惑であり、万死に値するほどの大謗法に当たるのであります。
改めて指摘するに、御遺命を偽る目的で建てたニセ戒壇正本堂の何処に「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義が含まれている」と云うのでしょうか。
一期弘法付嘱書には、三大秘法流溢の時に国主たる天皇陛下が此の三大秘法を護持して守護される時と定め給い、三大秘法抄には、広宣流布の暁に王臣一同が三大秘法を受持して、王仏冥合が成った時と定め給うておられるのでります。
また、この訓諭でいう「現時における事の戒壇」なる言葉は、端からまやかし以外何ものでもない誑惑であります。広宣流布以前の戒壇の大御本尊在所は、事中の事理であれば、義壇であって、決して事壇ではないのであります。
次に「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たる大殿堂なり」についても、これは、御遺命違背の何ものでもりません。即ち三大秘法抄には「時を待つべきのみ」と誠誡し給いて、広布以前に本門戒壇堂と偽って建ててはならないと厳誡遊ばされているのであります。その誠誡に反して「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」などと、苦しい言い訳をしなければならなくなるのであります。これ矛盾撞着支離滅裂ではないか!
ここに悪僧日達の意味不明の謗言を糾弾するなら、云く「正本堂は、いわば八百万民衆の建立であります。「八百万」という数は、実に奇しき数であります。「八百万」とは昔の日本古来の読み方によりますと『やおろず』であります。『やおろず』とは、無数を意味するのであります。今われわれ人間は、十界互具・一念三千の法門からすれば、一面、天界の神々であるといえるし、また仏界の仏であるともいえるのであります。八百万民衆の建立による正本堂は、それ故、古来の読み方に従えば、『やおろず』の神々・諸天善神の建立ともいえるし、また十方三世の無数の仏の建立ともいえるのであります。まことに正本堂は意義深い建物と信ずるのでございます」(大日蓮 昭和45年6月号)と。
こんな馬鹿げた説法を垂れる貫首は、宗門始まって以来の悪僧の成せる業であります。己の三世の生命も認識できない凡夫をして、ある時は、諸天善神に祭り上げられたかと思へば、またある時は十方三世の仏にしてしまう。冗談にしても程が有ろうというものです。
どだい、悪僧日達のこの説法を聞いて理解できる者が果たして存在したでしょうか、正本堂とは、この様な得体の知れない建物であって、魔の殿堂と言うべき建物だったのであります。しかるべくして、ニセ戒壇正本堂は建設からわずか26年にして破壊せしめ、この浮世の世界から消滅させざるを得なかったのであります。
また正本堂は「本門寺の戒壇たる現時における事の戒壇なり、即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」として、大絶賛して建てた大殿堂でありながら、建立の翌年の昭和48年には、宗門と学会の間で早くも大喧嘩を始めています。学会は兵糧攻めよろしく、学会員の登山を激減して経済封鎖を強行し、宗門への金の流れを断つべく、職業坊主に対して先制パンチを食らわせたのであります。
これに対して悪僧日達は「これはもう、このままじゃ話にもならない。もし、学会がどこまでも来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、もし学会がこなくて、こっちの生活がなりたたないと云うならば、御本尊を御宝蔵におしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳して良いという覚悟を私は決めた」(宗門の現況と銘打った指導会 昭和49年7月27日)等と、切羽詰まった泣き言を垂れているのであります。
悪僧日達の此の卑しいまでの嘆きは、正本堂という奇怪な建物は、御本仏大聖人様に背反して広宣流布を偽って建てた、ニセ戒壇とも云うべき魔の殿堂たる事を雄弁に物語っているのであります。
悪僧日達は、禿人としての面目躍如たるところを晒しながら、誰はばかることなく並み居る坊主仲間を前に、己が食わんがための卑しい檄を飛ばしているのであります。あれほど大騒ぎをして建てた「事の戒壇」たる正本堂なる建物は、この体の物だったのであります。
ニセ戒壇正本堂は取り壊せば済むというよな、単純なものではありません。正系門家の仏法違背が齎す災いは、愈々凡夫の思慮の及ばない前代未聞の災いを、千里の果てより招来することになるのであります。
大聖人様はその事を「先難此れ明らかなり、後災何ぞ疑わん」乃至「その時如何がせんや」と仰せられるのであります。