亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

悪僧日達の邪説と邪義班の遁辞を嗤う

2013年09月27日 15時53分44秒 | 亡国の坂道 
「最後に申すべき事を砕破す」(P.39)に云く「正本堂の意義について日達上人は、昭和47年4月28日の訓諭において御指南された」「正本堂は一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり、即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり、但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」とする大誑惑の訓諭を発布したのであります。

邪義班の連中は、この誑惑の訓諭を絶賛して「日達上人と日顕上人の御慈悲」などと云う諛言には呆れるばかりであります。

ニセ戒壇正本堂の何処に「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」実態が存する戒壇のか、デタラメを云うにも大概にしなければならないのであります。更に「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とは、広宣流布は未だしていないが、ニセ戒壇だけは先に建てました」というのでしょうか! それを自らが立証するように「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず」等と苦しい言い訳をしているのであります。

そもそも訓諭とは、天皇陛下の詔勅にも値する時の貫首の最高指南書と云われるものであります。その最高指南書たる訓諭でこのような出鱈目なインチキ訓諭を抜けぬけと発表する貫首の信心とは、一体広宣流布の暁の国立戒壇を何と心得ているのでありましょうか。

悪僧日達のこの度の訓諭を一言で云うならば、御本仏大聖人が忍び給うた小松原の剣難、竜の口の頸の座、伊豆、佐渡の両度の御流罪等の忍難慈勝の三十年の御化導を水泡に帰せしむるほどの大誑惑であり、万死に値するほどの大謗法に当たるのであります。

改めて指摘するに、御遺命を偽る目的で建てたニセ戒壇正本堂の何処に「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義が含まれている」と云うのでしょうか。

一期弘法付嘱書には、三大秘法流溢の時に国主たる天皇陛下が此の三大秘法を護持して守護される時と定め給い、三大秘法抄には、広宣流布の暁に王臣一同が三大秘法を受持して、王仏冥合が成った時と定め給うておられるのでります。

また、この訓諭でいう「現時における事の戒壇」なる言葉は、端からまやかし以外何ものでもない誑惑であります。広宣流布以前の戒壇の大御本尊在所は、事中の事理であれば、義壇であって、決して事壇ではないのであります。

次に「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たる大殿堂なり」についても、これは、御遺命違背の何ものでもりません。即ち三大秘法抄には「時を待つべきのみ」と誠誡し給いて、広布以前に本門戒壇堂と偽って建ててはならないと厳誡遊ばされているのであります。その誠誡に反して「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」などと、苦しい言い訳をしなければならなくなるのであります。これ矛盾撞着支離滅裂ではないか!

ここに悪僧日達の意味不明の謗言を糾弾するなら、云く「正本堂は、いわば八百万民衆の建立であります。「八百万」という数は、実に奇しき数であります。「八百万」とは昔の日本古来の読み方によりますと『やおろず』であります。『やおろず』とは、無数を意味するのであります。今われわれ人間は、十界互具・一念三千の法門からすれば、一面、天界の神々であるといえるし、また仏界の仏であるともいえるのであります。八百万民衆の建立による正本堂は、それ故、古来の読み方に従えば、『やおろず』の神々・諸天善神の建立ともいえるし、また十方三世の無数の仏の建立ともいえるのであります。まことに正本堂は意義深い建物と信ずるのでございます」(大日蓮 昭和45年6月号)と。

こんな馬鹿げた説法を垂れる貫首は、宗門始まって以来の悪僧の成せる業であります。己の三世の生命も認識できない凡夫をして、ある時は、諸天善神に祭り上げられたかと思へば、またある時は十方三世の仏にしてしまう。冗談にしても程が有ろうというものです。

どだい、悪僧日達のこの説法を聞いて理解できる者が果たして存在したでしょうか、正本堂とは、この様な得体の知れない建物であって、魔の殿堂と言うべき建物だったのであります。しかるべくして、ニセ戒壇正本堂は建設からわずか26年にして破壊せしめ、この浮世の世界から消滅させざるを得なかったのであります。

また正本堂は「本門寺の戒壇たる現時における事の戒壇なり、即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」として、大絶賛して建てた大殿堂でありながら、建立の翌年の昭和48年には、宗門と学会の間で早くも大喧嘩を始めています。学会は兵糧攻めよろしく、学会員の登山を激減して経済封鎖を強行し、宗門への金の流れを断つべく、職業坊主に対して先制パンチを食らわせたのであります。

これに対して悪僧日達は「これはもう、このままじゃ話にもならない。もし、学会がどこまでも来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、もし学会がこなくて、こっちの生活がなりたたないと云うならば、御本尊を御宝蔵におしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳して良いという覚悟を私は決めた」(宗門の現況と銘打った指導会 昭和49年7月27日)等と、切羽詰まった泣き言を垂れているのであります。

悪僧日達の此の卑しいまでの嘆きは、正本堂という奇怪な建物は、御本仏大聖人様に背反して広宣流布を偽って建てた、ニセ戒壇とも云うべき魔の殿堂たる事を雄弁に物語っているのであります。

悪僧日達は、禿人としての面目躍如たるところを晒しながら、誰はばかることなく並み居る坊主仲間を前に、己が食わんがための卑しい檄を飛ばしているのであります。あれほど大騒ぎをして建てた「事の戒壇」たる正本堂なる建物は、この体の物だったのであります。

ニセ戒壇正本堂は取り壊せば済むというよな、単純なものではありません。正系門家の仏法違背が齎す災いは、愈々凡夫の思慮の及ばない前代未聞の災いを、千里の果てより招来することになるのであります。

大聖人様はその事を「先難此れ明らかなり、後災何ぞ疑わん」乃至「その時如何がせんや」と仰せられるのであります。


邪義班の狡猾と山崎・原島の悪事を叱る

2013年09月26日 04時58分35秒 | 亡国の坂道 
『「最後に申すべき事」を砕破す』(P.38)に云く「二書に書かれた内容は、正本堂建設に関して生じた汝(浅井昭衛氏)と池田大作の邪義・邪念に対応した戒壇義の展開であるが、その基本は正本堂という建物について、宗内の見解を統一し慰撫教導するために著されたのである」等と、勿体をつけて慰撫教導の書などと自賛していますが、これは、とんでもない独りよがりの虚しい呟きなのであります。

二書とはいわゆる「国立戒壇の誤りについて」と「本門寺戒壇の本義」 の二書のことでありますが、悪坊主日顕が、池田大作の要請を受けて山崎正友や原島 嵩らを筆頭とする学会の法律家グループの示唆に基づき「三大秘法抄」と「一期弘法付嘱書」の中にある国立戒壇に関する文々句々を切り刻んで憲法を主、仏法を従として、正本堂を「事の戒壇」と詐称するために書いた悪書中の悪書なのであります。

例えば二書の中では「勅宣並びに御教書」を建築許可証と謀り「有徳王」を池田先生と諂い「覚徳比丘」を日達上人と持ち上げてゴマを擂り「国主」を民衆一人ひとりと曲会し、憲法に定めた主権在民の意味を国民一人ひとりが「王」であり、国民各人にそれぞれ主権が存在している等と曲会しています。

また両抄の「時を待つべきのみ」の意味を歪曲して「仏法の『時』というのは、本質的には隋自意で判断すべきものである」等と驚くべき邪義を展開しています。つづけて「もしいまだ建物建立の時も至らずと考え、三大秘法抄の前提条件も整わないとして、前以って戒壇を建てるのは『時を待つべきのみ』の御誠誡に背くという意味があるとすれば、それは不毛の論議に過ぎない」(悪書1)等と開き直って、ニセ戒壇正本堂を建設したのであります。このような邪義を展開して、何が慰撫教導なのだ! 此れ大聖人の御心に背反する大謗法の所行であはないか。

悪僧日顕の嘯く如く「もしいまだ建物建立の時も至らずと考え、三大秘法抄の前提条件も整わないとして、前以って戒壇を建てるのは『時を待つべきのみ』の御誠誡に背くという意味があるとすれば、それは不毛の論議に過ぎない」等と垂れ流す邪義が正当ならば、ニセ戒壇正本堂は、早々に取り壊す理由などまったくなかったのであります。

このような御本仏大聖人様に背反する邪義を数の論理で押し通そうとした悪巧みを顕正会の浅井会長から追及されて、ニセ戒壇正本堂は取り壊さざるを得なくなったのでありますが、取り壊した今頃になって、ニセ戒壇正本堂の建設は「信徒に対する慰撫教導だった」とは呆れるばかりであり、開いた口が塞がらないとはこの事であります。

邪義破折班の云く(P.38)「日達上人は池田大作の邪念を矯正されるに際し、日蓮正宗信徒であった創価学会員の御遺命達成に向けての折伏の情熱に水を差さぬように配慮されたのである。日顕上人は日達上人の御意を体して二書を執筆され、その中で正本堂の意義付けをされたのである」などと。

邪義破折班ときたら、今になれば何とでも嘘と出鱈目を垂れ流せることを奇貨として、二書の意義を己に都合よく粉飾しているようですが、こういう狡猾な薄汚い腐り切った精神構造だから教義歪曲は、朝飯前の問題なのでしょう。宗門は、何時如何なる時も常に正しく、何処まで行っても無謬性を誇っていれば済むと思っているようですが、大聖人の御目を恐ろしく思わぬ者には何を言っても糠に釘の如くであります。

一時は、池田大作の懐刀として飛ぶ鳥を落とす如き名声を馳せた山崎正友の証言によれば、この二書は「原島 嵩・山崎正友以下学会の弁護士・検事グループの協力と示唆に従って阿部教学部長が書いた」(盗聴教団)と暴露しているのでありますが、原島といい、山崎といい、二人とも大謗法が災いして、黄泉の国へ一目散で駆けて行く羽目になったのであります。

彼等二人は、本山に詫びを入れ末寺の信徒に迎えられて恵妙(新聞)に華々しく登場し「あの日あの時」などと銘打って、学会当時の思い出話を連載していましたが、彼らは狡猾にも、宗門にあの手この手で圧力を掛けて「国立戒壇」を放棄させた経緯などは、一切語ろうとしなかったのであります。

彼等が恵妙に嘘と出鱈目を並べて、それをネタに今後の飯の種にしようと、学会だけを悪者に仕立てて糾弾する企画を組んでいたのでしょうが、そのような身勝手な大悪事を、大聖人は決してお許しにならなかったのであります。

坊やの邪義は砕破異流儀考の焼き直しだ

2013年09月25日 08時12分01秒 | 亡国の坂道 
坊やの云く「君の言う本門寺の戒壇が出来た後の戒壇のみを「事の戒壇」と言うのなら、現在は事の戒壇が無いと言うことになるでは無いか?これはどのような国語学者に聞いてもそのように読める。そして未来、事の戒壇が出来るのであるならば、現在は事の戒壇は存在しない。だからこそ現在は「五大秘法」なのは君自身の主張なのである」等と。

坊やは何度云っても六大秘法が理解できないとみえて、また愚問を繰り返していますね。ここで改めて、日蓮正宗第二十六世日寛上人の「文底秘沈抄」の文証を挙げて、戒壇の「事」と「義」について説明をすることにします。

云く「本門戒壇に事あり、理あり、理は謂く義理なり。是れ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。初めに義の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く『当如是処即是道場』は是れなり。天台曰く『仏住其中即是塔義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり」続けて「亦復当に知るべし、広宣流布の時至れば一閻浮堤の山寺等に皆嫡々の本尊を安置す、其の処は是れ義理の戒壇なり(中略)次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ仏法王法に合して、・・・・・・・事の戒法と申すは是なり』等云々と。

日寛上人の御教示によれば、戒壇の御本尊の在所は「本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり」と定義されておられるのであります。すなわち「義理において事の戒壇」なのだと仰せなのであります。次に正しく事の戒壇の説明として、三大秘法抄の文を挙げられて「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、・・・・・・事の戒法と申すは是なり』等云々と仰せられるのであります。坊やはこの日本語の意味が理解できていない。まさか、君はジャパ行きさんではあるまいね。

要するに三大秘法の開合の相について厳密な立て分けをすると、本尊に(法と人)、題目に(信と行)、戒壇に(義と事)すなわち(義理における事の戒壇と、広宣流布の暁に国家意思の表明を以って事相に建立される本門事戒壇=国立戒壇)を以って六秘が成就するのであります。更には、嫡々書写の本尊安置の処も亦義の戒壇となるのであります。是れを称して「事を事に建てる」ということになるのであります。

時に、拙者の展開する戒壇義を五大秘法などと誹謗を加えるのは当たらない。大聖人様の弘通される三大秘法の法体そのものが、法華経本門寿量品の文低に秘沈された下種の法体事の一念三千の南無妙法蓮華経であれば、「仏住其中即是塔義」の文の如く、広布以前の戒壇御本尊の在所は、非公開の塔の中にお住まいの秘仏であられるから「義理の戒壇、あるいは義の戒壇」と称し、広布の暁に建立される国立戒壇は公開されるを以って「事の戒壇」と通称してきたのが正系門家、日蓮正宗七百年来の教義解釈だったのであります。

また云く「この戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処 ・・・」とあるが、これすら二重の事で考えねば、齟齬をきたすのである。君の言うように、もしも事の戒法が時を待って後の本門寺の戒壇建立まで存在しないのであれば、それまで叡山が利益ありとなってしまうが」等とあるが、坊やは矢張り日本語が解っていないようです。

「延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処 ・・・」の御文の何処の部分が益があるという意味になるのでしょうか? 「益あるまじき処」との意味は、正像二千年を過ぎた釈迦仏法の法華経と雖も理戒であるが故に利益が無くなった処に、三代の慈覚・四代の智証の二人が真言の邪義を入れてしまったので余計に利益が失せてしまった。延暦寺の戒は、今まで清浄無染の中道の妙戒であったが、真言の毒を入れたので、彼の摩黎山の瓦礫のような戒となってしまったと仰せなのであります。

次に「阿部教学部長の国立戒壇論の誤りをそのまま転載する」として、あの阿部日顕の邪義と邪説を並べているが、まさしく日顕の展開する戒壇論は間違いだらけであります。

云く『「事の戒法と申すは是なり」について、「事の戒法」の語自体としては、解釈上三つの意味が含まれている。その第一は天台の迹門の理戒に対する本門の事の戒法という相対的な立場である。すなわち釈尊の一代仏教中、小乗権大乗では五戒十戒・比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒十重禁戒・四十八軽戒等を説いて、行者の実際の行動を律するゆえに事戒という」などと。

このような下らない説明がどうして此処で必要なのでしょうか? 何の意味もないのであります、坊やは時と場所を間違えています。日顕がこのような小乗経、権大乗経等の戒を持ち出すこと事態、三大秘法抄で仰せられる「事の戒壇」の意味を紛らかす目的から、見当はずれなことを言い出したに過ぎないのであります。

次に「これに対し迹門の円戒は、これらの事を捨て、専ら法華の理に意を注ぎ、観念することにより悟りを顕す」などとしていますが、これは明らかな間違いであります。迹門で何故に事戒を捨てたのか? 坊やは悪坊主日顕のこの邪説を引用するのなら「廃事存理」なる屁理屈の説明責任を負うべきであります。

次に「三大秘法抄(全一〇二二)に「この戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処 …」と仰せあるごとく末法に入っては無益の戒なのである」当たり前ではないか! 

つづけて「末法の大聖人の仏法では、現実に吾々が不受余経一偈の誓いをもって下種妙法を受持し、その行体が即妙法蓮華経である故に事戒といわれるのである。しかるに末法の妙法とは御本尊であるから、御本尊を受持することが天台の理戒にたいし事の戒法となる。また御本尊安置の場所を戒壇というから、大聖人の仏法において戒法は即戒壇に当るのである。 第二の事の戒法(戒壇)とは、大聖人の一期弘通の本懐たる三秘惣在の本門戒壇の大御本尊であり、またその所住の処である。釈尊の法華経本迹二門が通じて迹門の理の一念三千であるに対し、大聖人の仏法は寿量品文底の本門事の一念三千の法体である。故に大聖人の本懐の戒壇の大御本尊は三秘惣在の事の法体であるからその当体直ちに事の戒法であり、事の戒壇である」などと。

これが悪坊主日顕の特有の姦佞邪智というものです。御本尊の当体たる文底下種事の一念三千の事と、広宣流布の暁に事相に建立される事の戒壇をごちゃ混ぜにして、法門に疎い無知な信徒を欺いているのであります。

悪僧日顕は、文底下種事の一念三千の「事」と、広宣流布の暁に事相に建立される戒壇の「事」を、をごちゃ混ぜにして論じているが、本門文底下種事の一念三千の「事」は、迹門理の一念三千に対する「理」を比較相対した時に用いられる経相の違いを「事」と仰せられたものであって、もう一方の事実の相として建立される本門戒壇を「事」と仰せられる意味合いは、まったく次元が異なる話なのであります。

法華経神力品で上行菩薩が釈尊から地涌千界の上首として付嘱を受けられたのは、紛れも無い三大秘法であります。しかし大聖人様は、印度の釈尊の説いた迹門熟益理の一念三千および本門脱益事の一念三千は通じて理の一念三千とし、大聖人の弘通される文底下種事の一念三千とは大きな違いが存するのは当たり前であります。

大聖人の文底下種事の一念三千を称して第三の秘法、或いは第三の法門と名付けるのであります。大聖人が三大秘法抄で「日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり」と仰せられる此処で云う「事」と、事相に建てられる「事」とは、まったく次元が異なるのであります。

第五十九世日亨上人は「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、そのことは将来に属する(富士日興上人詳伝)と仰せなのであります。

つづけて「僧俗信心の徒が、夫々の住所において書写の御本尊を受持する処、その義が事の戒壇に当るのである」などと。

これも大きな間違いであります。こんな悪坊主日顕の邪説を信じて坊やは拙者を教訓しようとしたのでしょうが、その神経がまるで理解できません。夫々の住所において、嫡々書写の御本尊を受持する処は義理の戒壇なのであります。

つづけて云く「第三には正しく三秘抄の文のごとく、広宣流布して仏国土が顕現される処を事の戒法というのであり、先師は事相の戒壇ともいわれている。これは、要するに妙法受持の功徳が社会層の内面に広く深く浸透し、仏法の正義があらわれ、平和福祉社会に正法が顕現する、いわゆる王仏冥合の理念が現実に現われること、それが根本的な本門の金剛宝器戒の捨悪持善の相である。ただし、一切の民衆に妙法の功徳が授与されるのは、本仏大聖人の仏法の根本法体たる、本門戒壇の大御本尊がまします故である。ややもすれば三大秘法抄の広大雄壮な御文に、眼を奪われ勝ちであるが、その文の裏底には戒壇の大御本尊が厳としておわしますことに注意すべきである。この大御本尊は三大秘法惣在の御本尊であり、三大秘法抄(全一〇二三)の「今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に、芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」の文の「事の三大事」に深く心を致すべきである」などと。

なんで本門戒壇が建立された後の功徳を何故にこんなまわりくどい説明が要るのでしょうか? 三大秘法の広宣流布の暁に本門戒壇=国立戒壇が建立されれば、妙法の妨非止悪の秘術により、国家社会に蔓延する凶悪犯罪は早露のごとく跡形もなく無くなり、打ち続く三災七難の災過から開放され「仏国其れ衰えんや」の御金言が事相となるのでります。

悪坊主日顕の「今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に、芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」の要文引用はとんでもない場違いの引用であります。

つづけて云く「上記文書は日顕上人が後に書きすぎたと称された文書の中でも特に問題とならない部分である。相当の仏教知識が無ければ読めないであろうが、伏して拝せよ」などと馬鹿げた事を吐いています。

伏して拝すも拝さないもあるものか! だいたい「国立戒壇の誤りについて」なる悪書は、国立戒壇を否定するために、池田大作の悪巧みの圧力に屈して創価学会の法律家グループの入れ知恵に諂って、悪坊主日顕が書いた天下の謗書なのであります。

誤魔化そうとするから言っている事が矛盾撞着支離滅裂なのであります。また之を引用して「伏して拝せよ」等と講釈を垂れる坊やの教学力を疑うのであります。

続けて云く『ちなみに三秘を六秘に分かったのは寛師であるが、それ以前の御法主にも「事の戒壇」と言う言葉は存在し、それは戒壇の本尊堂を即「事の戒壇」としている。有師の文書を挙げる。

「大石は父の寺・重須は母の寺、父の大石は本尊堂・母の重須は御影堂…此れ(石山)は能生…三妙合論の事の戒壇なり…」(歴代法主全集)』と。

有師の「此れ(石山)は能生…三妙合論の事の戒壇なり…」の御文は、三秘を六秘に分かつ前の「今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に、芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」の御文をそのまま説明された御教示なのであって、驚くに値しません。

つづけて「古来、大石の寺の本尊堂はそのまま「(三妙合論の)事の戒壇」だったのである」と。

当たり前ではないか。何度も云うようだが、此処で云う事の戒壇は「本門戒壇に事あり、理あり、理は謂く義理なり。是れ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ」と仰せられた、事中の事理、すなわち義理の戒壇なのであります。日寛上人は「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無し」(寿量品談義)と、御教示なのであります。

つづけて「さらに寛師の御講聞書を相伝のまま書き写されたまた相師の文書にも本門戒壇 --- 在々処々本尊安置の処は理の戒壇なり。 --- 富士山、戒壇の御本尊御在所は事の戒(壇)なり」と。

それでは聞くが、日寛上人の御講を相師が直接聞いて聞書として纏めたものなのか、それを相伝のまま相師が書き写されたというのでしょうか?

寛師は大石寺第二十六代目の貫首上人であられ、相師は同じく第四十三代目の貫首上人であられる。相師は、寛師の御入滅から、四十四年後にお出になられた御方であれば、寛師の御講を直接聞書など出来る筈もないではないか! たばかりも好い加減にしなければならない。

冒頭に挙げた寛師の文底秘沈抄の御文といい、寿量品談義の御文も然り、あるいは「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)等と、枚挙に暇も無いほど「事の戒壇」に関する御教示がありますように、坊やはこれ等の仰せを須らく否定するという事なのか。

相師の「富士山、戒壇の御本尊御在所は事の戒(壇)なり」と仰せられたのは、広布事相の「事の戒壇」を指されての筆写であることは誰が見ても明らかではないか。広布以前の戒壇の御本尊の在所を直ちに「事壇」としているのではありません。


国立戒壇を目指していた頃の大功徳は

2013年09月24日 11時17分08秒 | 亡国の坂道 
これから述べる事は素朴な感想であり、誇張もハッタリもない現実の話であります。

創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったことから、日々の折伏活動の中では当然、国立戒壇を高らかに掲げての闘いでありました。戸田城聖氏は、戦後創価学会の再建に当たっては、学会単独で文部省から宗教法人としての許認可を得て、更に折伏活動を本格化するに当たっては、日蓮正宗と創価学会の間で、次のような三項目の取り決めが為されたのであります。

①折伏した入信者は必ず日蓮正宗の寺院に所属させる。②日蓮正宗の教義を護る。③仏・法・僧の三宝を敬う。等の約束を本山との間で取り交わし、創価学会は日蓮正宗の信徒団体として大折伏の敢行に打って出たのであります。

しかし戸田城聖氏は、①については最初から約束を履行する腹は無く、単なる口約束で終わったのであります。それでも折伏戦の敢行に当たっては「我等が政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち「国立戒壇」の建立だけが目的なのである」(大白蓮華昭和31年8月号)として、創価学会の目的を世間に向かって明確に宣言していました。

かくして、戸田城聖氏が宗教法人を取得して本格的に折伏戦に打って出たのは、昭和21年の秋~昭和33年4月2日に逝去に至るまでの間、わずか12年足らずの間に、実に75万世帯の大折伏を敢行しているのであります。

思い起こせばこの頃の学会員は、老いも若きも胸に鶴丸のバッジを輝かせ、連日連夜希望に燃えて「国立戒壇」建立を合言葉に胸を膨らませ、学会活動に誇りを持ち、嬉々として喜び勇んで闘っていたのであります。創価学会の折伏活動は、言葉を以ってはしては到底言い表す事のできない、凄まじいばかりの勢いがあったのは事実であります。その怒涛のような勢いは、大聖人様の御本願たる「国立戒壇」の旗を高らかに掲げ、寝食を忘れた闘いの日々だったのであります。

それこそ、1対1の折伏戦の際にも「国立戒壇の」の意義も解らない者が、何も分らない新来者に対して「国立戒壇」の大理想を熱っぽく語ったものです。

創価学会の目指す国立戒壇の大理想は、戸田城聖氏の後を継いだ三代会長の池田大作にも引き継がれ『「国立戒壇」建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的であります』(大白蓮華昭和31年4月号)と。「国立戒壇」の建立が高々と謳われていたのであります。

そうした創価学会の大折伏は昭和36年には150万世帯を達成し、戸田城聖没後12年後の昭和45年には、何とその数、実に800万世帯にまで膨れ上がり、日達管長をして「今や広宣流布」と言わしめるほどの驚異的な、前人未到の大折伏を為さしめたのであります。

その原動力は御本尊の功徳は太陽の光が燦々と万人を照らすが如く、目を見張るような信じ難い奇跡とも云うべき功徳がいたる処に充満し、夜ごと開かれる折伏座談会は、驚異的な功徳がが人々を熱狂的に引き寄せ、人が人を呼び、功徳が人を呼んで皆先を争うように、入信者が怒涛のごとく雪崩を打って御本尊を求めたのであります。

そのような中、創価学会は会員の爆発的な増加につれて、池田大作は政治権力を手中に治めようと政治野心を抱くようになったのであります。時を同じくして、学会は言論出版妨害事件等で世間の非難を浴びる事となり、当初の目的であった「国立戒壇」が、世間の批判に晒され、選挙のためには国立戒壇は、反って邪魔な存在になってきたのであります。

そのようなことから昭和45年5月3日、池田大作と日達管長は創価学会第33回総会の席で、大聖人の一期の御遺命たる「国立戒壇」の永久放棄を宣言するに至るのであります。その事が功を奏したか、世間から学会批判の矛先をかわすことに成功し、学会は再建以来の「国立戒壇」は禁句となってしまったのであります。

それ以来、創価学会の標榜する「国立戒壇」の大理想は捨て去られ、折伏の勢いは急速に萎えてしまいました。併せて信心の功徳と確信を失った学会員は茫洋として活力を失い、目的を喪失した組織は、生ける屍のような存在に変貌してしまいました。純粋な信心のための縦線組織は、選挙のための地域別のブロック体制に取って代わったのであります。

云く「王仏冥合のための選挙活動の一票の功徳は、一人の折伏の功徳に勝るとも劣らない」と。

一方「国立戒壇」の永久放棄を宣言した宗門は、広宣流布への目標そのものが消えて無くなり、僧侶は学会員の冠婚葬祭を請け負う集団と化し、僧侶の職業化は急速に進み、僧侶の間では政治抗争顔負けの派閥抗争さえ繰り広げる者があると思えば、袈裟の権威を嵩に着て信徒を睥睨する者等、あるいは逆に学会に媚を売る者までが現れるという、野放図な状態になってしまったのであります。

それ以来僧侶は、世間の動静ばかりを気に掛ける事となり、戦勝国のアメリカから押し付けられた憲法をありがたがって、国民主権主義が謳われっている憲法は素晴らしい。国主は民衆である等と云った風潮に流され、ついに御本仏大聖人様の御遺命が何であるかも、解らなくなってしまったのであります。

このような堕落した姿を宗開両祖が御覧遊ばした時、如何様に慨嘆為されるでしょうか、国立戒壇という大聖人様の究竟の本願を放擲し、舎衛の三億に名を借りて、日本の人口の3分の1が入信したら、広宣流布などという邪説を展開するまでに堕落してしまいました。

いま、振り返ってあの前人未到の驚異的な学会の折伏大前進は、戸田城聖氏や池田大作といった稀有の指導者に恵まれたが故の大折伏だったのでしょうか。甚だ疑問の残る所であります。前人未到、未曾有の大折伏戦が成就した最大の要因は、第一には御本仏大聖人様の御心に適う広宣流布への如説修行だったのであります。まさしく当時の折伏戦は、大聖人様の御心に適う国立戒壇を目指しての闘いを実践したが故に、驚異的な大功徳が生じた折伏戦であった事を忘れてはならないのであります。

日達管長は先の第33回総会の席で『「国立戒壇」を叫ぶことは、反って布教の邪魔になり世間の誤解を招くので、今後、国立戒壇を永久に言わない』(主意)との理由を挙げて国立戒壇を永久放棄したのでありますが、まさしくこのような所行は大聖人様の御心に背反する邪義であり、大聖人様の忍難慈勝の30年の御化導を水泡に帰せしむるほどの大罪なのであります。

今後の布教の邪魔になるとの理由で「国立戒壇」を放棄した後の闘いは、一切が空転、折伏が進むどころか、すべてに狂いが生じてきたのであります。その後、宗門と学会は醜い抗争を始め、その闘いは両者の存在を許さないほどの激烈を極めるものでした。

宗門は謗法団体と化した創価学会を平成3年に解散処分に付した時点で、何をさて置いても本来の「国立戒壇論」に回帰すべきだったのであります。

あれ以来、早くも22年の歳月が流れようとしていますが、果たしてその間、何人の折伏が達成されたと云うのでしょうか?

御本仏大聖人様の御本願たる「国立戒壇」を永久放棄しておきながら、昨今は日興上人御誕生の七百七十年の、平成27年までに、法華講員50パーセント増を目指す。あるいは、宗祖御誕生八百年遠忌の平成33年までに、法華講員を現有勢力の40万人~80万人体勢にする。との掛け声は空しくなるものは火を見るよりも明らかであります。また仮にその数が達成されたとしても、烏合の衆ごとき養老集団のような存在では広宣流布を叫ぶもおろか、車椅子のお世話になる老人ばかりの集まりになるものと思われます。

大聖人様の一期の御遺命を放棄したが故に、月々年々三災七難は盛んとなりつつあります。これ仏罰と云わずして如何なる徴しでありましょうか。安国論に云く「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑はん、若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、其の時如何が為んや」と。

宗門は、学会が日蓮正宗の教義を蔑ろにし、謗法化した事に依って今日の三災七難が齎されるようになった。等と学会の責任を一方的に論っていますが、それは一理であっても、学会に全ての責任を擦り付けるのは完全な間違いで、自らの腐敗が起因してることを知るべきであります。

大聖人様は「源濁れば流清からず」と御教示でありますように、一切の責任は、正系門家たる宗門に存するのであります。腐っているのは本家本元の、悪僧日達後の宗門そのものであることを知るべきであります。

何をさておいても、国立戒壇が宗門の公論となるべく、御本仏大聖人様の本願たる国立戒壇の正義を取り戻さない限り、それこそ取り返しのつかない、未曾有の国難に見舞われ、悲惨な国家体験を味わうことになるのは、避けて通れないものと思われるのであります。




御開山上人の妻帯禁止の正しい読み方

2013年09月20日 09時43分50秒 | 亡国の坂道 
御開山日興上人の二十六箇条遺誡置文の中に「先師の如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或は修学の仁に於いては、一旦の媱犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」との一文があります。

この御文は基本的な間違いを犯しているのであります。御開山日興上人が末法万年に亘り、三大秘法を清く正しく伝えるために、訓戒を垂れ給うた富士門理流の憲法とも云うべき誡文を、最初に書き写した者が、誤写したものと思われるのであります。

この条目は、一山を統率し三大秘法の令法久住に心を砕かれ、僧俗信徒に教導を垂れ給う能化中の能化たる貫首上人と、所化である修学の仁を一緒くたにして論じていますが、そもそも一山を統率する貫首たるものが、媱犯などを犯す道理が有ろう筈が無いのであります。

如何に末代の僧道が乱れるとはいえ、御開山様がこのような誡文をお残しになる理由がまったくないのであります。仮に、時の貫首に対してまで、このような誡文を残さなければならないような宗門ならば、それこそ、僧侶の世界では女犯が日常的に平然と繰り返されている事になってしまうのであります。

上記の御文は次のように読まなければならないのであります。

云く「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし、時の貫首に於いては、但し、修学の仁は或は一旦の媱犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」と、読まなくてはならないのであります。

この文を要約しますと「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし」ここ文は、このまま修正には及ばないのであります。

何故ならば、正系門家の僧侶たるもの、どこまでも大聖人様の御大法(三大秘法)を純粋に清く正しく令法久住してお護りするには、自らの心身を、世間の穢れや誘惑等から遠ざけて、一線を隔するのは当然であって、今さら云々するまでもないのであります。

次の「時の貫首においては、但し、修学の仁は或は一旦の媱犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」と読まなくてはならないのであります。要するに修行中の若い所化が間違って女犯を起こしてしまった場合、時の貫首は末法万年の総貫首たる日興上人に成り代わって、良く訓戒し、擯籍処分や追放処分にまでする必要はない。本人の反省があれば、また皆と一緒の仲間に入れてあげなさい。という御教示なのであります。

これ等の遺誡置文は漢文で書かれているものだから「返り点」の打ち方を間違えると、とんでもない文章や意味になってしまうのであります。したがってこの条目は、最初に書き写した僧侶の間違いなのであります。

上掲の誡文について、第五十二世の日霑上人のお書き物の中に、此の条目はこのように読みなさいとの解説文が存在する。との話を拝聴した記憶がありますが、むべなるかなと思う次第であります。

それはさて置くとして、御開山日興上人が二十六か条から成る遺誡置文を遺された理由は、出家した僧侶に、女房や子供、あるいは兄弟・姉妹等の家族があれば、時として世俗の欲得に惑わされ、命より大切な大聖人様の仏法を蔑ろにし、純粋に護れない恐れが生ずる事を慮られ、御開山上人はこのような誠誡を設けられて、三大秘法の令法久住を計られたものと拝するのであります。

ある人の仰せに、僧侶の妻帯については、当然とばかり我見を述べ、拙者に難癖をつける者がいますので、ついでに紹介しておきます。

「君が好きな堀日亨上人の御言葉(日亨上人講述から出典)でお答えしよう。君は御開山の「先師が如く予が化義も聖僧・・・」の文を持って論じているのであろうが、日亨上人は「御開山二十六箇条中」この文を後加文としている。つまりこれ自体、日興上人の時代には無かったのである」等と。

しかしながら、日亨上人より前の日霑上人は、そのような加文については、一言も仰せになられてはいないのであります。仮に、そのような事実があるならば、二十六か条の中の第何条から以後は、〇〇坊が後から付け足した加文であるとの立証がなされなければならないのであります。

続けて「さらに、講義の中で日亨上人は「聖僧を妻帯しない僧とするのは、戒・定・慧のうち戒を中心に据えた考え方であり、末法は無戒であり、これは適用されない。日有上人は一心に題目を唱える事を戒とし、何となく乱暴なことをせず、信を保つ僧侶を聖僧とした」(趣意)と仰られている。つまり女犯と聖僧を結びつける義は当宗にはそもそも無いのである。僧侶が女犯しないのは教義上の理由では無く、そもそもが世間普通の義(世界悉檀)に従ったからである。君は堀上人の講義にどう答えるのかね・・・」等と。

彼は日有上人の『「一心に題目を唱える事を戒とし、何となく乱暴なことをせず、信を保つ僧侶を聖僧とした」(趣意)と仰られている』などと、呑気なことを垂れ流していますが、卑近な例を挙げるまでもなく、今日富士宮の歓楽街で大酒を飲み、夜遅くまで女の尻を追っかけ回して大騒ぎをし、他人に迷惑を及ぼしながら平然としているのは、地元のヤ~さんか、スキンヘッドで変装した大坊にねぐらを構えた所化小僧などと噂されているのであります。是れ、僧道の乱れが極限に達した由々しき問題であります。

堀上人は僧侶の妻帯については「一時的な変体から妻帯が常態化しているが、時来たらば、いずれ正常な形に戻る。すなわち、出家僧侶の妻帯は無くなる」と仰せられたと聞いています。序にもうしあげれば、日蓮正宗の僧侶が御開山上人の仰せられる「先師の如く予が化儀も聖僧たるべし」の誡文を貫かれた聖僧は、第五十五世の日布上人までの代までで、それ以後の貫主上人はすべて、皆妻帯しているのであります。

正宗僧侶が御開山日興上人の仰せられる正浄な姿に戻るには、一にも二にも宗門が六十六代悪僧日達以来の邪義を捨てて、国立戒壇の正義に立ち返る事が必須の条件であることはいうまでもありません。

唯一の正系門家たる日蓮正宗の僧侶がニセ戒壇正本堂建設以前の、昭和30年代初頭の第六十五世日淳上人の時代に帰るべく、国立戒壇論が宗門の公論となる日の一刻も早からん事を祈るばかりであります。



横レス失敬君の邪義を粉砕する

2013年09月16日 11時03分39秒 | 亡国の坂道 
横レス失敬君の云く「残念ながら国立戒壇と言う用語は宗門古来には存在しない」云々と。

横レス君は、突然横から割り込んで来て己の無恥を晒したいようですが、どだいこの者は仏法のイロハが理解できていないようです。何度もいうようですが法華経の中には「一念三千」という語は何処にも存在しません。果たして是れ、天台の邪義でしょうか、あるいは、大聖人の説かれた三大秘法の中には「人法体一」という文言は何処にも存在しませんが、第二十六世の日寛上人は「自受用身即一念三千」の御文を活釈されて「人法体一」と名付けられたました。是れ、日寛上人の己義なのでしょうか。

そんな事はありません。仏家の習いとして、義に依って文を判ずる事は、仏法の通軌なのであります。

この種の短絡的な誹謗を繰り返して恥じない盲信徒の大半は、御本仏大聖人が直接『「国立戒壇」の四文字を使われた御妙判を出して見ろ』などと大騒ぎをしていますが、横レス君もその一人のようで、彼等は仏家の通軌たる依義判文という初歩的な基本が、まるで理解できていないのであります。

此処で愚鈍の迷惑の助けとして、大聖人様仰せの御金言の一文を引いて、拙者が少しく解説する事にします。

先ず、一期弘法抄には「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」との御教示があります。

ここで云う国主とは、日本国の本有の国主の事であり、時の天皇陛下の御意志を指すのであります。決して民衆の漠然とした意思を指すものではありません。また民衆は如何なる時代にあっても、国主では有り得ないのであります。

また「此の法を立てらるれば」とは三大秘法のことであります。また「本門事の戒壇」とは、広宣流布の暁の国立戒壇の異名であります。決してニセ戒壇正本堂なんかではありません。即ち、国主たる天皇が受持する三大秘法とは、国教とすべき三大秘法であります。依って三大秘法は国教たるべき大白法であるが故に、広宣流布の行き着くところ、国立戒壇でなければならないのであります。

また三大秘法抄には「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒壇と申すは是れなり。云々」と仰せであります。

王臣・万民が一同に三大秘法を受持する御大法とは、まさに国教であります。国教であるからこそ、事の戒壇は当然国立戒壇となるのであります。

また「勅宣」とは時の天皇が発せられる詔(みことのり)であり、「御教書」とは、今日的には国会の議決、あるいは内閣の決定をいうのであります。このように天皇の発せられる詔勅と、国家意思の公式表明手続きを踏んで建てられる「事の戒壇」とは、国立戒壇に他ならないのであります。

王法であるところの国の政治と三大秘法が冥合し、仏法の慈悲の精神を根底にした妙法の政治が行われるところに、三災七難から解放された、国家と民族の永遠の発展が存するのであります。

その事を安国論には「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち、三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや、云々」と仰せられるのであります。

即ち「実乗の一善」たる三大秘法を国民の大多数が受持して捨邪帰正し、国立戒壇を建立して戒壇の御本尊を日本国の名山たる富士山天生原に奉安する事に依って、日本国の柱が立てられる事になり、その時日本国は仏国となるのであります。

また種々御振舞御書には「日蓮は日本の人の魂なり」と仰せられる如く、戒壇の大御本尊を魂とする国は、まさしく仏国であります。依ってこの時、日本国の魂は戒壇の御本尊となるのであります。戒壇の御本尊を魂とする日本国は、金剛不壊の国となり、軍事的にも、経済的にも何処からも、亦いかなる手段を以てしても壊されない、世界に類例のない前代未聞の仏国日本が現出するのであります。

更に大聖人様は「仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付きて国も亡び、人の寿も短かかるべし」(神国王御書)と仰せであります。

戦前の日本国は、国家神道を国を挙げて尊崇したことに依り、亡国の憂き目を味わいました。是れ邪法乱国の現証であります。末法万年尽未来歳に亘っての国づくりは、三大秘法を国家的に護持することによって、国の柱が立つ事になるのであります。この時、正法治国の理想が顕現し、仏国が実現するのであります。

ゆえに四十九院申状には「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と仰せられています。

四十九院申状で仰せられる御教示も、三大秘法を国家的に護持することによって、仏法の威力が愈々増し、国家の永遠の発展があるとの大事を御教示であります。国家発展の永遠の秘術こそ、国立戒壇が決め手になるということであります。

いずれの御書にも「国立戒壇」の四文字が見当たらないからとして、それをバカの一つ覚えのごとく叫ぶ姿は、大聖人様を信じているようで信じていない、幼稚この上ない者のいう戯れ言であります。 

御本仏大聖人様の御本願たる国立戒壇を否定し、国家意思の伴わない漠然とした単なる個人や信徒団体の立てる戒壇では、仏国土は決して実現しないのであります。奪って云えば、国立戒壇を否定したうえで建てる戒壇堂なるものは、かつての正本堂と同じ意味合いの、御本仏大聖人様の御心に反するニセ戒壇という事になるのであります。

恐れ多くも、大聖人様の御心に反するニセ戒壇に戒壇の大御本尊を据え奉る事は「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」と仰せの如く、災いを千里の果てより招き寄せる結果を生むことになるのであります。今日の世相がそれを証明しているのであります。

つづけて横レス君の云く『「彼が宗義を奪ったのは「身延の己心戒壇」に対する「現実的な戒壇を建立する」と言う義である』などと。

この御仁は一体何が言いたいのか、さっぱり解りません。そもそも「彼が宗義を奪ったのは」と云う彼とは、誰を指すのか理解できません。つづいて『「身延の己心戒壇」に対する「現実的な戒壇を建立する」と言う義である』なんぞは、如何なる意味なのか、文章そのものが日本語になっていません。

また「身延の己心戒壇」なんて、初めて耳にする戒壇義であります。そもそも邪宗身延に「己心戒壇」なる戒壇義が存在するのでしょうか、仮に「己心戒壇」なる義が身延に存在するなら、その実態を是が非でも説明して貰いたいものです。

末法の今日、熟脱の教主たる釈尊像や狐や蛇・竜神等を本尊とするような、邪宗身延に「身延己心の戒壇」なるものが存在するとしたら、それこそ奇妙奇天烈な化け物のような戒壇でしょうね。

次に「大石寺古来の戒壇は「国主(人)が建てる戒壇」であり、田中の主張する戒壇は「国家(機関)が建てる戒壇」である。つまり、ここには大いなる違いがある」云々と。

バカも休み休み言い給え、大石寺の戒壇義も田中智学の宣揚する戒壇義も言わんとする事は同じ戒壇、すなわち、「国立戒壇」なのであります。田中智学は日蓮正宗本来の「国立戒壇」義を盗み口真似しただけのことであります。

横レス君のように、戒壇を「人」とか「機関」に区別する戒壇なるものは、為にする戒壇義であって、何の意味があるのでしょうか。三大秘法のイロハが理解できないと、こういう訳の解らないことを文字にして、一人悦に入っている構図が眼に浮かぶようです。

彼は大聖人の御在世当時の専政政治と今日の民主政体の政治体制の違いを挙げて国立戒壇を否定したいようですが、御本仏大聖人の三世了達の仏様の御智慧を侮り侮蔑するにも限度を超えています。鎌倉時代と今日では政治体制の違いはあるものの、広宣流布の暁に建てられる本門寺の戒壇=国立戒壇は、国家的に建てられる戒壇に限られるのであります。

更に横レス君の云く「そもそも宗祖の時代の国家観は近代国家の国家観では無い。宗祖御在世の國の政治は全て「まつりごと(祭ごと)」であったが、近代国家は違う。政と書いてまつりごとと読ませたのは、近代以前の政治が全て、祭政一致的な意味があり、その中でも祭祀を継承する天皇陛下が正法を護持する事に大きな意味があった。もっとも、明治維新以降、大東亜戦争終結までの天皇陛下(欽定憲法下)ならまだその一致的な意味(国立戒壇)があったであろう」云々と。

このような転倒した論理の展開こそ間違いなのであります。何が「宗祖の国家観は近代国家の国家観では無い」なのか。「末法唯一人の御本仏様の三世了達の御知恵と、凡夫の浅知恵を並列に並べて論ずる事は、そもそもの間違いで、御本仏大聖人様の尊貴を傷つけ、冒涜し軽賤することになるのであります。

近代以前の欽定憲法下における専制政治と、民主政体の今日の政治体制を比べて見たところで、大した意味はないのであります。専制政体にせよ、民主政体にせよ、いずれに致しましても、三大秘法を国家的に護持すること以外に、仏国の実現は達成されないのであります。

横レス君は悪僧日顕や邪義破折班と何等変わるところがないのであります。何んとなれば、専制の鎌倉時代に発せられた大聖人様の仰せは「時代錯誤」として捉え、恰も今日のような民主政体の社会では、大聖人様の仰せは、通用しないかのような決め付けは、大謗法者の日顕の展開する邪義と同根であって、大聖人様の末弟とは言えないのであります。

横レス君は、日本の敗戦に依って戦勝国のアメリカから押し付けられた現行憲法を不磨の大典の如く崇めて之を「主」と捕らえ、仏法を「従」として貶めています。これは、凡夫の作った憲法に、御本仏大聖人様御悟りの三大秘法を従属させる考え方であります。これこそ、摧尊入卑の転動した邪義の典型だと指摘しておきます。

大聖人様は四十九院申状に「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と御教示であります。即ち、王法とは、国家、あるいは、国の統治権力の事を云うのでありますが、国家的に戒壇の大御本尊を崇尊することで、日本国は御本仏の守護によって、永遠に発展するとの御教示であります。これこそが、王法と仏法の冥合した具体的姿なのであります。

国立戒壇建立の意義は正しくそこに存するのであります。この時、日本国は三災七難から解き放たれ、立正安国論で示された「仏国それ衰えんや」の原理が顕現するのであります。

横レス君の続けて云く、「しかし、戦後は、祭祀(天皇家)と政治(内閣等の執政機関)は分かれた(つまり御在世、天皇家と鎌倉幕府が分かれていた状態と同じになった)。つまり天皇陛下が戒壇を建立しても、国立戒壇とはならない。つまり「国立戒壇」=「国主立戒壇」とはならないのである」などと。

横レス君は、専制の鎌倉時代の皇室の役割と、戦後、民主政体に移行した後の皇室の役割を比較しながら、例え民主政体の今日「天皇陛下が戒壇を建立しても「国主立戒壇とはならない」などと、見当違いの幼稚な論を展開していますが「国主立戒壇」なるものは、悪僧日顕が「国立戒壇」に反対するために編み出した邪義の典型であります。悪僧日顕の云う「国主」とは、「一人一人の民衆」の事を指しているのであります。

ここで一言申し上げれば、悪僧日顕らが「国立戒壇」に反対し「国主立戒壇」にこだわる最大の理由は、仮に、国立戒壇が現実のものとなった場合、戒壇の大御本尊様の管理権が国に奪われ、坊主の仕事が無くなることを危惧しているようですが「国主立戒壇」ならば「国主」は民衆だから戒壇の大御本尊の管理権は国に奪われることなく、坊主の手元に御本尊の管理権が残るといった考え方なのです。それこそが大きな間違いというものです。

話を元にもどします。そもそも民主政体での国立戒壇は、広宣流布の暁に、日本の朝野に戒壇の御本尊を守護するにおいては、身命も惜しまないという大護法心が国中に漲った時に、国家的に建てる戒壇であります。民主政体の今日では、広宣流布以前に天皇陛下が例え三大秘法を護持することが有ったとしても、直ちに国立戒壇建立とはならないのは当然であります。

それに横レス君は「天皇家」なる珍語を使用して自惚れておいでだが、この「天皇家」なる言葉は、戦後、左翼政党が皇室の伝統と尊厳を解体する目的で、言い出した卑語なのであります。

恐れ多くも日本国の皇室に対して「天皇家」などとお呼びするのは間違いであります。これではまるで一般家庭を、〇〇家、△△家、と呼ぶのと何等変わらない。そこには国民こそ「主権者」とする考え方を強調するために、皇室の権威を弱体化する目的で、好んで使用する左翼の造語なのであります。日本国内に蔓延する左翼はこのようにして、伝統ある皇室の権威と尊厳をそぎ落とそうとしているのであります。

横レス君の云く「日蓮正宗は、その自己矛盾を避ける意味から、国立戒壇という用語を放棄したが、顕正会は自己矛盾を包含したままである」などと。

ここでも横レス君は訳の解らない世迷い事を展開しています。国立戒壇を主張すると如何なる「自己矛盾」が存在するのか、横レスの説明を聞きたいものであります。

日蓮正宗が国立戒壇を放棄した最大の理由は余りにも明白であります。それは、時の貫首が池田大作の施す奢侈に溺れ、池田の作った支持政党に対する世間の批判をかわす目的と「国立戒壇を叫ぶと憲法の定める政教分離の規定に違反し、日蓮正宗が憲法違反で潰される」という幼稚にして間違った脅しに屈した結果、簡単に捨て去ったのであります。

最後に云く「つまり浅井の言っている「勅宣」による戒壇が正義だったとしても、用語が「国立戒壇」では、矛盾するのである」などと、彼の言っていることは、言語明瞭にして意味不明であります。

顕正会の浅井会長は正本堂は「事壇に非ず」として正義を叫びつづけ、事の戒壇は広宣流布の暁に富士山天生原に建立される国立戒壇こそが唯一「事の戒壇」であるとして、宗門と学会の教義歪曲を糾したが故に、死罪に等しい不当な講中解散処分を受けたのであります。正に顕正会は、大聖人の究竟の本願を主張して頸を刎ねられたのであります。

大聖人様は佐渡御書に「外道・悪人は如来の正法破りがたし、仏弟子等必ず破るべし、師子身中の師子を食む」云々と御教示でありますが、袈裟を纏った悪坊主や似非信徒が仏法を破壊すると大聖人は戒められているのであります。

正系門家の中で、御本仏の唯一の御遺命を破壊する「獅子身中の虫」とは一体誰人なのか、今さら改めて申すまでもないのであります。





邪義班の、「最後に申すべき事を破す」の中の言い訳を摧破する

2013年09月11日 15時30分55秒 | 亡国の坂道 
「最後に申すべき事を砕破す」(P.36)に云く「仰せのように、両者の行き過ぎや邪義を矯正破折するとともに、宗内の見解を統一善導するために、日顕上人は二書を執筆遊ばされたのである」等と。

此処で云う両者とは、創価学会と顕正会のことであります。それに続く二書とは、悪僧日顕が池田大作の要請に基づいて書いた「国立戒壇の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」と題した二冊の悪書のことであります。此の二冊の悪書は「正本堂こそ広宣流布暁の事の戒壇であり、正本堂は大聖人様の御遺命の実現」などと賞賛していますが、純真の信徒を騙す目的と池田大作の歓心を買うことを目的とした諂いだけで書かれた唾棄すべき噴飯ものであります。

このような悪書は宗門七百年の歴史の中で、未だ誰人も筆にしたことのない悪辣極まりない、御本仏大聖人の究竟の御本願たる国立戒壇の実現を、徹底して破壊した悪書なのであります。

実は悪僧日顕が二冊の悪書の執筆に当たって、その知恵袋を務めたのは、糖尿病を患って早々と黄泉の国へ旅立った学会の顧問弁護士を務めていた、あの悪徳弁護士山崎正友だったのであります。彼の生前中の証言によりますと、山崎正友を筆頭に「学会の弁護士・検事グループの協力と示唆に基づき、阿部教学部長(日顕)が書いたものである」等と。山崎の自著「盗聴教団」の中でその真相を暴露しているのであります。

悪党山崎の暴露に依ると日顕は「学会の弁護士・検事グループの協力と示唆に基づき、二冊の悪書を書いた」とのことでありますが、想像するに、悪僧日顯は都内のホテルに泊まりがけで、相当の日数を掛けて、学会の弁護士・検事グループの複数の者から、強烈なレクチャーを受けたものと思われます。

そもそも日顕のものした二冊の悪書が執筆された動機は、顕正会の宗門諌暁に対する反論書として、諂い三昧の日顕が池田名誉会長の意を受けて書いたものでありまして、いわゆる一期弘法付嘱書と三大秘法抄の文々句々を曲げに曲げた思想的背景は、現行憲法を「主」として捉え、仏法はどこまでも憲法の下に従属する「従」として捉え、大聖人様の仏法を根こそぎ破壊した、催尊入卑の典型とも云うべき、転倒した考え方で構成された悪書なのであります。

その代表的な事例を挙げれば「国主」=「民衆一人ひとり」と謀り、「有徳王」=「池田先生」と諂い、「覚徳比丘」=「日達上人」等とお世辞を使う。「勅宣並びに御教書」=「建築許可証」等と歪曲し、「天生原」=「大石寺境内」と嘯く有様なのです。

報恩抄には「国主は但一人なり、二人となれば国土おだやかならず、家に二の主あれば其の家必ずやぶる」と仰せでありますように、どのような時代になっても、国民が国主である道理はないのであります。

話は変わりますが、かつて正本堂建立の翌年の昭和48年10月14日、晴れがましい記念すべき式典のあった良き日、池田大作は、正本堂東側広場に於いて大勢の信徒の面前で、日達猊下を居丈高に怒鳴りつけて「私に十億円を寄こせ」等と大声で怒鳴り散らし、本山から大金を収奪するという、前代未聞の驚くべき事件がありました。

信徒が僧侶から逆に大金を収奪するような者は不徳王であっても、けっして「有徳王」である訳がありません。また、一山の僧俗信徒を統率する尊貴な立場にある、時の貫首上人が信徒団体に諂って、御本仏大聖人一期の御遺命たる国立戒壇を信徒に金で売り渡するような貫首が果たして「覚徳比丘」に当るのでしょうか。

有徳王と覚徳比丘の物語について簡単に説明しましょう。むかし歓喜増益如来の末法に、仏法はまさに滅せんとしていました。その時、一人の覚徳比丘という聖僧がいましたが、多くの堕落僧や謗法の俗人から、覚徳比丘は命を奪われんとする事件に遭遇します。まさに仏法が滅せんとする危険を聞きつけた一人の有徳王は、身を捨てて謗法の俗人をはじめ堕落僧と戦闘し、終に有徳王は身に全き処無きほどの、刀剣の傷を被り命終が迫ってきました。

これを見た覚徳比丘は「善きかな、善きかな、王今真に是れ正法を護る者なり、当来の世に此の身当に無量の宝器と為るべし」と褒め称える賞賛の声を聴いた有徳王は、大いに歓喜して命終しました。その後、有徳王は前世の仏法守護の功徳によって阿閦仏の国に生まれ、彼の仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となりました。

その仏法守護の逸話に比べて仏法を学会の政治・選挙のために曲げる如きは、有徳王とは呼ばないのは当然で、また、身に余る奢侈に溺れて仏法を売り渡すような貫首も、決して、覚徳比丘とは呼ばないのであります。

阿部日顕は「霊山浄土に似たらん最勝の地」=「大石寺境内の墓地」などと嘯いて恬として恥じる事を知らない己義・邪説を、彼の日寛上人は破して云く「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。

日顕が垂れ流すこれ等の邪義は、五体投地の思いで国立戒壇の正義を宣揚しない限り、死後の堕獄は絶対に免れる事はできないのであります。

さて顕正会の浅井会長が、正本堂は「事壇に非ず」として、学会、宗門の歪曲を糺したことに対する反論として(同書P.36)云く、浅井は「御遺命を破壊とか、正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかり」と悪口するが、それが大邪見であることは明らかである」などと。邪義班の坊主らは自らの邪義を棚に上げて、正論を述べる浅井会長の身を捨てての諫暁を『正本堂はあくまでも「事の戒壇」である』との強弁には、呆れて開いた口が塞がらないとはこのことであります。

更に(同書P.36~37)云く「二書における信徒に対する慰撫教導は、正本堂建立という事相に即したものであったために、池田創価学会が謗法となった今日から見れば、行き過ぎや書きすぎもあったと、日顕上人は訂正遊ばされているのである」などと。

一期弘法付嘱書と三大秘法抄の文々句々を破壊するだけ破壊しておきながら「行き過ぎや書き過ぎがあったので反省した」等と今ごろになって云っていますが、そんな口先だけの間の抜けた反省で許されるなら、彼の法然の「捨・閉・閣・抛」も、弘法の「第三戯論」も、あるいは「理同事勝」の誑言も、叡山を亡ぼした慈覚・智証の真言の邪義も、言い過ぎはみ出しで事が済んでしまうことになるのであります。

悪僧日顕の御遺命違背による謗法の罪科は、法然、弘法、あるいは慈覚・智証の百千萬億倍も過ぎるほどの大謗法に値するのであり、これに与同する信徒もまた日顕と同罪となる事は云うまでもありません。

笑わせるではありませんか。あれほどまでに邪義を欲しいままに御遺命を破壊しておきながら「信徒に対する慰撫教導」とは恐れ入りましたね。また、あのような驚くべき間違った邪義・邪説が「正本堂建立という事相に即したものであった」と言うに至っては、滑稽をとおり越して悲しみさえ憶えるのであります。これは救い難い謗言以外何ものでもありません。

ここで邪義班の強弁を解り易く説明するなら、正本堂建設は「広宣流布したことを証明するために事実の相として建設した」ものであると嘯いているのであります。わずか学会員800万足らずの入信で広宣流布などと言えるのでしょうか、まさに狂気の至りであります。この800万の数字も、学会が一方的に発表したものであり、第三者には、それを客観的に証明する術のない数字なのであります。

続けて「池田創価学会が謗法となった今日から見れば、行き過ぎや書きすぎもあった」などとする言い訳は、狭い曲がった宗門内だけで通用する、傲慢にして身勝手な屁理屈というものでしかありません。

仮に、学会が謗法団体とならなかったならば「行き過ぎも書きすぎも一切無かった」とでも云うのでしょうか、信徒を愚弄するにも限度を超えた言い訳であります。「勅宣並びに御教書」が何故に「建築許可証」なのか、誰が何処から見ても、反省の一分も感じられない今日の宗門は、このように腐りきっているのであります。

そんな悪僧を指して「御隠尊猊下様」だなんて、いくら、お世辞にしても絶対に口にしたくない尊称ですね。

窪尼御前御返事には「まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる」と誡められています。

この御教示の意味するところ、まことの信仰心から出た供養であっても、供養を受け取る相手の僧侶が、国立戒壇に反対するほどの謗法の悪人ならば、供養した側も悪道に堕ちるとの御教示であります。

また「まことならぬ事を供養すれば大悪とはなれども善とならず」とも仰せられています。此処で仰せの、「まことならぬ事を供養」とは、供養する側に下心のある場合、あるいは不純な信心で、謗法で心が曲がっている場合の事を云うのであります。

顕正会の広宣流布の闘いを妨害し、信徒の信仰心を悪用して食い物にする、今日の曲った宗門に供養する事は、爪の垢ほども善にはならず、大悪に加担することになるのであります。

それでもあなたは、供養に励みますか?