亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

悪ガキの捨て台詞以来、一切の功徳が無くなりました

2013年05月30日 13時01分48秒 | 亡国の坂道 
「顕正会の悪義を破す」(P.44~53)に「正本堂の意義にまつわる誹謗を破す」と題して、大草一男と、邪僧小川只道の二人は、顕正会に様々な屁理屈を並べて誹謗中傷しています。

云く『未だ広宣流布が達成していないのに、時の御法主・日達上人は、正本堂を大聖人御遺命の事相の戒壇」であると偽り「時を待つべきのみ」(御書1595)との御遺命に違背した。というものでした。しかしながら、この主張はきわめて場当たり的な、自己矛盾に満ちたものでした。以下、そのことを明らかにしつつ、破折を加えていきます』などと、まことに威勢のいい啖呵をきっています。

つづけて云く「本門戒壇の大御本尊在す処が、広宣流布以前であれ以後であれ、常に本門事の戒壇であるということは前に明らかにしました」として、戒壇の大御本尊を、広宣流布の「事相に約したものではなく、法体の勝劣、即ち教相の違いに約して、またまた邪義を垂れ流しているのであります。

彼らは恥知らずにも何度言い聞かせても同じ邪義を繰り返して、多くの純真な信徒を騙しに掛かっていますが、こんな邪義・邪説がまかり通るなら、何も、日寛上人が、文底秘沈抄、あるいは法華取要抄文段で、噛んで含めるように「事の戒壇」と「義の戒壇」の違いについて御教示下されたことは、最初から無意味だったということになるのであります。

彼らが主張するように戒壇の大御本尊の在す処が、何時、如何なる処に有っても「事の戒壇」ならば、正本堂以前の、御宝蔵も、奉安殿も「事の戒壇」が既に建っていたことになります。ところが正本堂が建てられる時には、あれほどの大騒ぎをして莫大な供養を半ば強要し「広宣流布の達成だ」「大聖人の本願成就だ」「将又仏教三千年史上空前の偉業だ」などと、宗門始まって以来、連日連夜の大騒ぎをしていたのでありますが、仮に正本堂が、御宝蔵や奉安殿と同じ意義内容の建物であるならば、何も昼夜を上げて大騒ぎをする必要は全くなかったのであります。

ところがニセ戒壇正本堂は、一期弘法付嘱書、並びに、三大秘法抄で仰せの御遺命の戒壇、すなわち「広宣流布の事の戒壇」の建立として、国の内外に広く宣伝された建物だったのであります。

故に日達管長は「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大日蓮 昭和43年1月号)等と発表していたのです。

ニセ戒壇正本堂が建築されただけで、何故に広宣流布のなのか、当時の日本の総人口は、約、一億三千万人だったのであります。それを、僅か八百万足らずの学会員と、十数万の法華講員で広宣流布とは、呆れてしまいます。このように法主自らが先頭切って、口から出任せの邪義・邪説を垂れ流していたのであります。

当時、日蓮正宗の信徒団体の池田大作は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の請願之に過ぐるはなく、将又仏教三千年、史上空前の偉業なり」(発請願文)等とバカげた発言をしていたのであります。

池田大作の大風呂敷にも限度が有ろうというものです。ニセ戒壇正本堂が、仏教三千年史上空前の偉業とは、御本仏大聖人様の流罪・死罪の大難を忍び給うた忍難慈勝の御化導を鼻であしらい、高上りが過ぎるあまり、もはや池田大作は、制御の効かないところまで天狗になっていたのであります。

また日達管長の後を狙っていたあの阿部教学部長は、宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、初めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)と。

後に日顕を名乗る邪僧は、池田に対する胡麻磨り三昧の諛言を垂れ流し、池田の歓心を得ようとして、御本仏大聖人様を裏切り、ニセ戒壇正本堂を指して「宗祖大聖人の御遺命の事の戒壇」などと明言していたのであります。

それに続く佐藤慈英宗会議長の云く「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊とすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座います」(大日蓮 昭和42年11月号)と。

つづけて椎名法英宗会議員「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」(同前)と。

更に菅野慈雲宗会議員「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。

このように当時の宗門は、上は日達管長から下は平僧は云うに及ばず、所化小僧の一人に至るまで、ニセ戒壇正本堂を指して「事の戒壇の成就だ」やれ「広宣流布の達成だ」などとバカ騒ぎをしていたのであります。

まさにこの様は、古代中国の趙高が鹿を帝に献じた時、居並ぶ群臣は趙高の威を恐れて鹿を馬と言ったと云う。当時の宗門僧侶の管長をはじめすべての僧侶は、池田大作の威を恐れる余り、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の「事の戒壇」と叫び、先を争って御本仏大聖人様への信を投げ捨て忠誠を破り、謗法に与道に与したのであります。之を称して馬鹿というのだそうです。

しかしながら、六十六代以前の歴代先師上人は、日達管長のような邪義は片鱗たりとも口にしてはいません。

云く「時に戒壇建立は宗門の一大事なり」(五十六代日応上人・御宝蔵説法)と叫ばれていたのであります。

また「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり、国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(六十四代日昇上人・御宝蔵説法)と仰せられています。

更に、上代の三十一代の日因上人は「本門の御本尊堂は広宣流布の時之を建立す。故に当山但祖師堂ばかりなり。乃至、若し国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事御遺状の面に分明なり。乃至、故に知りぬ、本門寺建立並びに御本尊堂造営、正しく広宣流布の時にあるなり」(物語抄)と仰せられています。

つづけて 四十八代日量上人戒壇の大御本尊の謂われを説き給いて云く「現今富士大石寺宝庫にあり、豈現証分明なるに非ずや、右御遺語に任せ、事の広宣流布の時を待ち奉るなり、それまでは富士山大石寺即ち本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)と。

つづけて五十二代の日霑上人云く「滅後一切衆生の為、事の広宣流布の時、大戒壇堂に掛け奉るべき設けとして顕わし給いて云々」(富士要集問答)と、本門戒壇建立は、異口同音に広宣流布の時と定め給うておられるのであります。

その時、先師上人方のこれ等の仰せを思い出され、御本仏大聖人の仰せられる御金言が耳朶を打ち、身の破るるをも顧みず「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送呈されて、宗門諫暁に立たれたのは、妙信講の浅井昭衛氏唯一人だったのであります。

御本仏大聖人の仰せには「法を破る者を見て責めざるは仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)と。

つづけて「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是の如く受持し擁護すべし」(立正安国論)と。

また云く「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」(選時抄)と。

更に「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)と。

ところが、浅井昭衛氏から諫められた日達管長は、浅井昭衛氏に会えば、「妙信講の意見は尤もであり正しい」というかと思えば、学会の池田に会えば「正本堂は広宣流布の『事の戒壇』であります」などと諂って、大聖人様に背逆した邪義を述べる等、浅井昭衛氏はこの様を死して、日達管長は、まさに風にそよぐ葦のごとくだったと述懐しておられました。

そのような腹の座らない日達管長の煮え切らない態度に業を煮やした池田大作は、学会員の本山登山を激減させて、宗門の収入を減殺するという風に、本山を兵糧攻めにして日達管長を追い詰め、宗門に対する学会の生殺与奪の威力を見せつけたのであります。

それ以来、池田の意向に諂った日達管長は、昭和49年8月12日付けを以って、大聖人様が立正安国論で仰せの正義を叫び続けてきた、妙信講を講中解散処分に付してしまったのでありますが、それ以後の日達管長の言動は「毒を食らわば皿までも」の例えの通り、是れが果たして大聖人嫡流の正系門家の貫主上人の言葉かと疑うような、言動を繰り返すようになるのであります。

云く「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、一期弘法抄に云う処の戒壇は理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実の世に於いて我々は信心の誠を捧げて行かなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)等と。

是れが果たして、猊座にあった貫主上人の言葉かと疑いを持つものであります。拙者は、日達管長の大聖人様に対し奉る信心を改めて疑うものであります。

云く「現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう」

云く「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」

何たる言い草でありましょうか! 日達管長という人は、池田大作と共謀して「舎衛の三億」なる詭弁を弄した悪僧であれば、広宣流布への確信も、国立戒壇の実現が確信できなかったのも当然かもしれないのであります。したがって如説修行抄の「吹く風枝をならさず、雨壊を砕かず」等の仏様の金文は、初めから信じていなかったのであります。それにしても、是れが猊座にあった方のことばとしては、まことに悲しい思いであります。

何度も言いますが「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、悪ガキの捨て台詞にも似た、笑うべき没論理であります。

いま御本仏日蓮大聖人の嫡流を誇っていた日蓮正宗の信心に、一切の功徳が無くなり、一人の成仏も叶わなくなった根本原因は、悪僧日達に依ってもたらされた事が良く理解できるものと思います。

云く「それまで本山に来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、誰人に対して発した暴言かと云いますと、これは当時、国立戒壇を宣揚する妙信講員に浴びせた悪言だったのであります。ところがその後、悪僧日達の尻馬に乗ってはしゃぎ廻っていでいた法華講員は、あれ以来、本山にお百度踏んで御開扉を何回受けようとも、一人の成仏も叶わなくなって終っていたのであります。是れ因果応報、還著於本人の現罰であります。

あの魔の殿堂たるニセ戒壇正本堂は、跡形もなく取り壊したとはいうものの、肝心要の三大秘法の教義歪曲を糺さない限り、罪障のみを積み重ねるだけで、すべてが空転、水泡に帰してしまうのであります。






大草一男と、邪僧小川只道は事の戒壇を標して、義の戒壇を述べている

2013年05月25日 11時01分09秒 | 亡国の坂道 
「顕正会の悪義を破す」(P.35~43)に『「事の戒壇」についての浅識』と題して、大草一男と小川只道の二人の詐話師は、戒壇の大御本尊在す処は常に「事の戒壇」などと、あの悪僧日達が展開した、邪義・邪説をそのまま受け売りして、得意満面で邪義を垂れ流しています。

先ず、彼らは「事の戒壇」を説明するに当たり「法華経迹門理の戒壇」を事例に挙げながら、事の戒壇義を巧妙に誤魔化そうとしていますが、彼らの論理の展開こそは、一流詐話師の宣伝する巧妙な手口ともいうべきでものであります。そのため、大聖人様の三大秘法義を正しく学んだ者であっても、大抵の者が、あの悪僧日達の編み出した独断的な法門の展開に残念ながら幻惑されてしまうのであります。

始めに大草一男と邪僧小川只道が展開する、尤もらしい邪義に飲みこまれない為に、本宗第二十六世を務められた、彼の英邁な日寛上人が御示しになられた「義の戒壇」と「事の戒壇」の立て分けを、此処で改めて示す事にします。

日寛上人が此処で仰せられる「事の戒壇」と「義の戒壇」の立て分けは、あくまでも、広宣流布の事相(事実の相)に約されての御教示であります。此処で、大草一男や小川只道が展開する、戒壇の大御本尊を所住の法体に約して論ずることはナンセンスというよりは、間違いなのであります。

戒壇の大御本尊を法体に約すとは、簡単に申し上げますと「事の一念三千」の「事」とは、文上脱益理の一念三千に対して、文底下種の事の一念三千を「事」と仰せられるもので、これは法体の違いを説明する上での法門の展開なのであります。したがって、戒壇の大御本尊は論ずるまでもなく「事の一念三千」の御当体そのものでありますから、戒壇の大御本尊お在します所は、何時でも、何処でも「事の戒壇」となるのであります。

然しながら、日寛上人が文低秘沈抄で仰せられる「事の戒壇」と「義の戒壇の立て分けは、次の如くであります。

云く「夫れ本門戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に、「仏其の中に住す。即ち是れ塔の義」と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべ戒壇なり」として、三大秘法抄の「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」の御文を引いて説明に代えておられます。

上記にお示しの御文を要約するならば次の如くであります。

本門の戒壇に「事の戒壇」と「義の戒壇」がある。いわゆる義の戒壇とは、即ち、本門戒壇の御本尊の所住の処を云うのであるから、是れを「義の戒壇」と呼ぶのである。例せば、天台の文句の第十に「仏様は其の中にお住まいであるから、是れを称して、塔の義と釈するのである」まさしく「事の戒壇」とは、三大秘法抄でお示しの広宣流布の暁の事相の戒壇のことを言うのである」と。

日寛上人が此処で仰せられる「義の戒壇」と「事の戒壇」は、本門戒壇の大御本尊様の在所に限っての御教示であります故に、文上脱益理の一念三千でいう「理」と、文底下種事の一念三千で云うところの「事」は、次元が異なる教相の違いの話であります故に論外なのであります。

依って、事相の戒壇を論ずる時には「文底下種事の一念三千」と雖も、議論の範疇に含めてはならないのであります。

また、法華取要抄文段には次のように御教示であります。云く「本門の戒壇に事あり、理あり、理は謂く、義理なり、これ即ち事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず、その名に迷うこと勿れ、故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と念記せられています。

ここで日寛上人は「事中の理」すなわち、広宣流布以前の戒壇の大御本尊の在所を「義」の戒壇と定義せられ、悪僧日達が云うような、戒壇に「事」の二重の義があるなどとは片鱗も仰せられてはいないばかりか「故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と強調せられ、これ以外の解釈や表現を排除しておられるのであります。

次に「事中の事」とは、広宣流布の暁に天皇陛下の勅宣を賜り、国家意思の表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇のことなのであります。その故に日寛上人は、三大秘法抄を引かれて「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて云々」と仰せられる。この戒壇こそが、広宣流布の暁に事相に建てられる「事の戒壇」であります。これが日寛上人御教示の本門戒壇に関する「事中の事・理」の法門の捌きなのであります。

ところが大草一男と、小川只道が垂れ流す巧妙な解説に依りますと、広宣流布の暁の「事相の戒壇」とはまったく関係のない、法体の違い、あるいは法体の勝劣にすり替えて「迹門理の一念三千」と「本門事の一念三千」を比較して、大聖人様の説かれる「本門事の一念三千」は「迹門理の一念三千」に比べて優れているから「事の戒壇」である。という風に論を展開しているのであります。

云く『日蓮大聖人の御金言(「三大秘法抄」等)を拝すると「本門事の戒壇」とは、天台宗の「迹門理の戒壇」に対して、かくいうのであります。この「迹門理の戒壇」と「本門事の戒壇」という違いは何によるかと、いいますと、天台の弘通した仏法と大聖人の仏法それ自体の相違(天台は迹門理の一念三千、大聖人は本門事の一念三千)によっています。つまり、迹門理の一念三千の仏法に基づく戒壇は「迹門の戒壇」であり、本門事の一念三千に基づく戒壇は「本門事の戒壇」である、ということです』等と。

然しながら日寛上人が仰せの「事」と「理」の立て分けは、何処までも広宣流布の事実の相に約されての御教示なのであります。それ故に法華取要抄文段に「これ即ち事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず、その名に迷うこと勿れ、故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と注意を促され、広宣流布以前の戒壇の大御本尊の在所は、迹門の戒壇のことを指しているのではなく、あくまでも理の戒壇。即ち、広布達成までの戒壇の大御本尊の在所を義の戒壇と名づけるのであるから、決してその名に迷いを生じてはならないと訓戒為されているにも拘わらず、大草と小川の二人は、性懲りもなく、迹門の理戒と、本門の事戒の違いを持ち出して来て、大聖人の仏法は事の一念三千だから、何時でも、何処でも「事の戒壇」なのだと吹聴しているのであります。

法華経本門文底下種事の一念三千の「事」と広宣流布の暁に事相に建てられる事実上の戒壇の「事」の違いは、次元の異なる問題である故に、本迹をごちゃ混ぜにして議論する方が可笑しいのであります。是れ、頭破七分の証明であってバカの骨頂であります。

彼らの宣伝する邪義・邪説を徹底して粉砕するために、三大秘法の開合の相を改めてお示しします。

始めに、本門戒壇の大御本尊の御事を、一大秘法の御本尊、あるいは三大秘法総在の御本尊と申し上げます。此の一大秘法の御本尊を開けば「本門の本尊」「本門の題目」本門の戒壇」と顕われます。是れを称して、三大秘法と申し上げるのであります。

次に此の三大秘法を更に開けば、本門の本尊は「人の本尊」と「法の本尊」に分けられ、本門の題目は「信の題目」と「行の題目」にわけられ、本門の戒壇は「義の戒壇」と「事の戒壇」に分けられ、此れを合すると六大秘法になるのであります。

「人」の本尊とは、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の御事であります。

「法」の本尊とは、法華経本門文底下種事の一念三千の南無妙法蓮華経の曼荼羅御本尊の御事であります。

「信の題目」とは、戒壇の大御本尊を信じて唱え奉る題目のことであります。

「行の題目」とは、信は行のはじまりですから、信には行が具わっていなければなりません。例え、心の中で信じていても口で唱える行の伴わない信では、少しの功徳も生じないのであります。

「義の戒壇」とは、広宣流布するまでの間の戒壇の大御本尊の在所の御事であります。

「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に富士山下の天母ヶ原に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇の御事であります。

ところが六十六代の悪僧日達は、ニセ戒壇正本堂建設と同時に、本門戒壇には二重の義が有るなどとして、突然恐ろしい邪義を展開するようになったのであります。それによりますと本門の戒壇には「事の戒壇」と「事の戒壇」であると言い出したのであります。この解釈がいわゆる、戒壇の御本尊ある処は、何時でも、何処でも、「事の戒壇」という邪義なのであります。更に、広宣流布の暁の戒壇も、「事の戒壇」と云うのだそうですが、それは当然の解釈であります。

昭和45年4月3日本山大奥の対面所で、顕正会の浅井会長から、ニセ戒壇正本堂は、未だ広宣流布もしていない段階で「事の戒壇」なんて可笑しいではないか! 如何に正本堂といえども「義の戒壇」である。等と悪僧日達は追及されたのです。そうしたところ悪僧日達は「正本堂は事の戒壇といえば言えるのです。正本堂を事の戒壇と言って何が悪い」等と開き直り、天台、伝教の迹門理の一念三千と、大聖人の本門事の一念三千を相対した場合、大聖人の三大秘法は「事の一念三千」だから「事の戒壇」なのです。といった教相の違いを持ち出して来て、貫主の権威でごり押しして邪義を貫いてしまったのであります。

それ以来、戒壇の大御本尊の在所は、何時でも、何処でも「事の戒壇」という、邪義・邪説がまかり通る事態となってしまったのであります。その最大の理由は、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇として、外には日本国家と、内には八百万信徒をたぼらかし、世間の国立戒壇に対する非難をかわす目的と、学会の選挙戦を有利に闘う為の環境づくりに、最大の狙いがあったのであります。

いま、大草一男と、小川只道が得意満面で展開する、これ等の論法は、悪僧日達がこじつけた邪義・邪説の受け売りなのであります。

第二十六世の日寛上人が仰せられる「義の戒壇」と「事の戒壇」の立て分けは、広宣流布の事相に約しての御教示であります。それに対して悪僧日達の法門展開は、法体の勝劣を持ち出して「事の戒壇」「義の戒壇」をこじつけているのであります。それが為「義の戒壇」は如何に? と追及されれば、歴代書写の別の御本尊を他所から担ぎ出して来て、是れを「義の戒壇」などというのであります。

此れはまんざら間違いではないものの、三大秘法六大秘法という、三大秘法開合の相を論ずる時には、一幅の戒壇の大御本尊に限定して、開合の相を申し上げる重要な法門であります故に「義の戒壇」を論ずるに当り、全然別な所から歴代書写の御本尊を持ち出して来て、是れを「義の戒壇」と称するのはナンセンスというものであります。

悪僧日達が展開する開合の相は「事」と「事」の戒壇となってしまい、これでは変則的な六大秘法か、あるいは下手をすると七大秘法という邪義に堕してしまうのであります。

日寛上人は、今日の三大秘法義の混乱を避ける意味から「本門の戒壇に事あり、理あり、理は謂く、義理なり、これ即ち事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず、その名に迷うこと勿れ、故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と御教示下された意味を決して取り違えてはならないのであります。

更に一言付け加えるならば、本宗第四十三世を継がれた日相上人が、日寛上人の聞書きを筆写されたとする「三大秘法之事」を拠り所にして邪義を垂れ流しています。

それにはこのようにあります。「在々処々本尊安置之処は理の戒壇也」とは、嫡々歴代書写の御本尊在所は理の戒壇。これは当然であります。

次に「富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒也」とは、是れは、広宣流布の暁の本門戒壇の御事を指しての筆写なのであります。勘違いをしてはなりません。

故に、日寛上人は「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。

つづけて日亨上人は、「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。

更につづけて、云く「この戒壇について、事相にあらわれる戒壇と、義理の上で戒壇と思える二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える」(日蓮正宗要綱)と。

最後に面白いのは、大草一男と、邪僧小川只道は、日寛上人の「法華取要抄文段」の御文を引いて云く「理は謂く、義理なり。これ則ち事中の事・理にして迹門理戒に同じかからず。その名に迷うこと勿れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と御教示下された御文を解釈して云く『仰せのごとく、「義の戒壇」です』と来たもんだ。

是れでは、何時でも、何処でも「事の戒壇」などと声高に垂れ流していた邪義とは、明らかに矛盾を生じてくるのであります。彼らは、顕正会の浅井会長の宣揚する正義を破したつもりで、実は破してはいない。これ義の戒壇を以って自ら正論を述べているのであります。大真面目に「事の戒壇」を標しながら、之を釈するのに「義の戒壇」の意を述べているのであります。

まさしく、矛盾撞着支離滅裂とは是れであります。

大聖人様は斯くの如く仰せであります。「王法の曲るは小波小風のごとし、大国と大人をば失いがたし。仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるる事疑いなし」(神国王御書)と。

上文の意味するところは、影であるところの政治に少々の失政が有ったとしても国が亡ぶようなことはない。それは、小波が生じ小風が吹くようなものである。しかし、体である根本の仏法が曲がることは、国家の命運をも左右する大問題であり、やがて亡国に至ると仰せなのであります。

このように仏法の曲りは、個人の幸不幸はさることながら、国家の興亡盛衰をも決定づける事になるのであります。何はさて置いても、今こそ、日蓮大聖人の嫡流たる正系門家の仏法の曲がりを正す問題は火急を要するのであります。



富士山天母ヶ原築壇説を否定する大草一男と小川只道の邪義

2013年05月22日 12時00分58秒 | 亡国の坂道 
「顕正会の悪義を破す」(P.27~33)に、邪師大草一男と邪僧小川只道は、御本仏大聖人様が立正安国論で仰せの仏国実現の筋道と大聖人様の終窮究竟の御本願がまるで理解できないと見えて、今度は「天母山戒壇論」を持ち出してきて顕正会を誹謗しています。

云く「顕正会の主な主張の一つに「天母山戒壇論」があります。これは、「国立戒壇論」と対をなす、顕正会の二枚看板ともいうべき邪義です」などと。

先ず、大草一男と小川只道が天母山戒壇を否定する根拠として、大坊棟札に記された、書風、筆跡、作成時期、花押の有無などを挙げて、棟札そのものを贋作呼ばわりしているのであります。

また、あの第五十九世の日亨上人も大坊棟札について独断的に批判の矛先を向け、口を極めて偽物と断じているのは事実であります。

云く「此小本尊を模刻(博肉彫)して薄き松板の裏に御家流の稍豊なる風にして、薬研彫にせるも文句は全く棟札の例にあらず。又表面の本尊も略之本尊式なるのみにて又棟札の意味なし。唯頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし。石田博士も予と同意見なり。徳川時代のもの」として、徹底して大坊棟札を虚仮にして蔑んでいます。

然しながら日亨上人は批判に先立って、そもそも棟札の形式や定型についての本来の定義についての説明は一切なく、只一方的に腐しながら、結論を何処の馬の骨とも判らない、石田博士の名を引き合いに出して「予と同意見なり」などと、賛同者の存在に我が意を得たりとばかり、有頂天になって、断定的な結論を出しているところに、俄かには頷けない問題を孕んでいるのであります。

序でにもう一言いわせてもらえるならば、御開山日興上人を始め数多の上人方は、天母ヶ原をつい指して云く「然れば駿河の国・富士山は広博の地なり、一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり」云々と仰せられているのに対して、日亨上人に限っては「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、六万の坊舎を建設せらるべきや」(富士日興上人詳伝)などと独断的な論陣をはり、広博の天母ヶ原を寸地等と決めつけた理由付けには、理屈無しに理解に苦しむところであります。

それにも増して理解できないところは、他門流の邪僧が並べ立てる非難中傷ならいざ知らず、日亨上人は本宗の第五十九世を継がれた貫主上人であられます。そのお方が、本宗に伝わる宝物「ほうもつ」(大坊棟札)を偽物呼ばわりした上に、御開山日興上人が、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇建立の地を「駿河の国・富士山は広博の地なり、一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり」云々と仰せられた神聖の地に対して「空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、六万の坊舎を建設せらるべきや」などと腐しまくる。

此のお方の考える本門戒壇建立の地に対する判断基準が那辺に存するのか、理解に苦しむと共に、まるで悲観的な論陣を張るその神経を疑うのであります。

ところが第六十五世を継がれた日淳上人は日亨上人の謗言には耳を貸すことなく『この元朝勤行とても、(略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。「大石寺の大坊棟札に修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つべし」とあるのが、それであります』(大日蓮 昭和34年1月号)と、大坊棟札は真正な存在と認められ、大坊棟札に記された慶讃文を引用されて御教示下されているのであります。

仮に、大坊棟札が偽物ならば、何故に日淳上人を、昭和34年1月の時点で批判しなかったのか、平仄が合わないとは是れであります。

次に、大聖人様滅後、二百年頃京都要法寺の佐京日教が重須方面に来た時に本宗に帰依し、その後、類聚翰集私と名付ける本を著した。その中に「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」との記述が存在する。また、それから八十年後に、同じく要法寺の広蔵日辰が、「富士山の西南に山あり、名をば天生山と号す。此の上において本門事の本堂・御影堂を建立し、岩本坂において仁王門を建て、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立」云々と有るのは、これらは全て謬説に基づくもので、須らく日蓮正宗の教義ではない等と、大草一男と小川只道の二人は、これ等の説を一方的に排斥しているのであります。

然しながら、佐京日教といい、広蔵日辰と言い、二人とも富士門流の清流を汲む京都要法寺の僧侶であります。大聖人滅後、二百年頃要法寺の佐京日教が本門戒壇について「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべき」等と言及し、その後、八十年後になって広蔵日辰が、本門戒壇建立の場所を天生山と定め、具体的に、本門寺本堂、御影堂、仁王門、六万坊等々の建立に言及している事実からすれば、御開山日興上人が未来広宣流布を目指しての人材育成の場として、重須学問所を開設されて多くの竜像を育成排出していたことと、同上人が一期弘法付嘱書を賜った経緯等を併せ見るに、御開山日興上人の時代には当然の事として、天母ヶ原本門戒壇説が具体的に、広く論じられていたこlとは疑いのない事実と思われます。

そのような時代背景を考えれば、決して、要法寺の佐京日教や広蔵日辰が、突然の思い付きから、天母ヶ原戒壇説を持ち出したものではない事は誰の目にも明らかなのであります。

依って、大草一男や小川只道が垂れ流すごとき、佐京日教や広蔵日辰が書いた天母ヶ原本門戒壇説については「日蓮正宗の教義ではない」等と派手に宣伝している邪義・邪説は、まったくのデタラメという事であります。

更に彼らは、佐京日教や広蔵日辰の云う天母ヶ原戒壇説を否定する為に、各先師方の御筆記等を挙げて証明の裏付けとして、各先師方の御筆記を羅列していますが、それらは皆、無駄な努力に過ぎないのであります。

大草一男と小川只道は下記のように、先師三人の御筆記を挙げて天母ヶ原戒壇を否定するつもりのようですが、下記の御文は、何れも天母ヶ原戒壇説を否定した意味にはなっていない御文ばかりを書き連ねているだけであります。

第二祖日興上人の云く「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加え勤行を致して広宣流布を待つべきなり」と。

三十一世日因上人云く「広宣流布の日は、当山をもって多宝冨士大日蓮華山本門寺と号す」と。

四十八世日量上人云く「今は是れ多宝冨士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」等々。

大草一男と小川只道の二人は「大石寺こそ、広布の暁に大本門寺と改称して、本門戒壇となるべき根本道場です。これこそが本宗伝統の正義なのです」等と胸を張っていますが、各先師方の御筆記の内容は、決して、天母ヶ原戒壇説を否定したものでもなければ、現在の大石寺境内を本門寺戒壇の建立地として場所を定めたものでもありません。

日興上人は、ただ日目上人へ修理を加え広宣流布を待つべきであると仰せられ、第三十一世日因上人は、広宣流布の時には大石寺は本門寺と寺号を改めると仰せられ、日量上人も同じく、広宣流布の時には、現在の大石寺は本門寺と寺号を改めるようになると仰せられているだけであります。是れ、引証の誤りであります。

次いで御開山日興上人は富士一跡門徒存知事に「本門寺を建つべき在所の事」として、本門寺建立の地は大石ヶ原ではなく、富士山下の最勝の地を選ぶべきであると仰せられているのであります。

云く「彼の天台・伝教は在生に之を用ひらるるの間、直ちに寺塔を立てたまふ、所謂大唐の天台山、本朝の比叡山是れなり。而るに此の本門寺に於いては、先師何れの国、何れの所とも之を定め置かず。爰に日興云はく、凡そ勝地を選んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於いて本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国主此の法門を用ひらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」と仰せられています。

要するに大聖人様は、本門寺を建立する場所については御定めにならなかったが、いま、日興が思うには、本門寺を建立するに当たっては、勝地を選んで建てるのは仏法の通例である。依って、駿河の国の富士山は日本第一の名山であれば、広宣流布の暁に国主が此の三大秘法を御用いの時は、必ず富士山に建てるべきであると仰せなのであります。

日興上人が富士一跡門徒存知事を執筆された延慶二年の此の時期、日興上人は大石寺、乃至は重須においでになられたのであります。大石寺、あるいは重須のいずれの所にお住まいであられたとしても、注目すべきは、本門戒壇は「必ず富士山に立てらるべきなり」と仰せになられ「大石寺に立てよ」あるいは「重須に立てよ」とは仰せられてはいないのであります。

次いで第二十六世日寛上人云く「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と仰せられ、本門戒壇建立の地について明確に、天生原と場所を特定されているのであります。

続けて第四十四世日宣上人云く「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺即ち霊山浄土也。(略)広宣流布の時には天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇建立ある」(世界の日蓮)と。

また、第四十八世日量上人云く「本門寺に懸け奉るべしとは、事の広布の時、天母ヶ原に懸け奉るべし」と。

更に、第五十六世日応上人云く「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、茲に本門戒壇建立あって」と。

此処で指摘しておかなければならないことは「天生原」「天母ヶ原」あるいは「天母山」も同一の場所を指しての表現であります。要するにその場所を中心に訳せば、「山」となり、麓に訳せば「原」となるのであります。

あの第五十九世の日亨上人は、広博の天母ヶ原を指して「寸地」などと蔑視し「如何に重畳しても六万の坊舎を建設せらるべしや」などと悪態をついて、本門戒壇の建立地たる「天母ヶ原」を頑強に排斥しておられますが、まことに残念の一言であります。日亨上人は広宣流布の暁の、国立戒壇を宣揚せられた数少ない貫主上人の中の御一人でありますだけに返す返すも残念であります。

同上人の云く「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。

されば日亨上人は、富士山の裾野の広博たる「天母ヶ原」を排斥された後、一体何処の地を想定なされていたのでしょうか。大聖人様は「霊山浄土に似たらん最勝の地」と定め給うておられます。ニセ戒壇正本堂が建設された跡地は、決して、大聖人様御定めの最勝の地なんかではありません。序でに申し上げれば、あの場所はかつては正宗信徒の大規模の墓地だったのであります。

言うなれば、凡夫の臭骨に穢れた土地が恐れ多くも戒壇の大御本尊様の御座所とは、考えるだに背筋の凍るを憶えるのであります。ましてや、御歴代中多数の上人は御土葬とも漏れ伝うるところであります。いまその化を止めて静かに休み給う処を暴き、掘り起こしてニセ戒壇正本堂を立てた跡地においておや。

広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇が建立される時、富士山下の広博たる「天母ヶ原」には、国立戒壇堂と共に王城が築造され、六万坊と仰せられる多くの坊舎が建設されるという、一大宗教都市の建設が始まるのであります。

大草一男と小川只道は、本門戒壇建立の地たる「天母ヶ原」戒壇説は「本宗の教義ではない」とする邪義・邪説を、今こそ改めるべきであります。

唯、正宗信徒が歓喜雀躍して広宣流布の闘いを進める真の原動力は、宗門が何をさて置いても「国立戒壇」が宗門の公論となって、宗門七百年の宿願たる最終の目的を取り戻さない限り、すべてが絵に描いた餅で終わるのであります。



本化聖天子の出現を否定する大草一男と小川只道の迷妄を破す

2013年05月18日 11時11分50秒 | 亡国の坂道 
「顕正会の悪義を破す」(P.25~26)に、大草一男は下記のような惚けたことを活字にし、小川只道はそれに印可を与えています。

云く『おそらく顕正会では「国立戒壇が実現する時には、仏より守護付嘱を与えられた本化聖天子が国主となって現れ、日本国を挙げて御本尊を守護するようになるから、そのような心配はいらない」とでも言うのでしょうが、そのように明示された御金言を出すべきであります』などと。

大草一男と、小川只道なる邪僧は「広宣流布が達成されて戒壇の大御本尊様の護持を国家に委ねた場合、政権が反対勢力に取って変わった時、戒壇の大御本尊が破却されるという恐れがある」等とバカげたことを書き連ねているようですが、広宣流布の暁に本化聖天子が出現される時の国家の様相は、王仏冥合が実現された時の政治体制でありますから、戒壇の大御本尊様が反対勢力から破却されるという、心配をする方がバカげているのであります。

大草一男と小川只道の二人は、広宣流布の暁の国立戒壇は、本化聖天子の発願によると仰せられる御開山日興上人の御教示を鼻でせせら笑い、傲慢な態度で御開山日興上人の仰せを否定し、浅井会長が日興上人の仰せられる御教示を敷衍して、確信を述べられた事に対して轟然と睥睨した啖呵を切っています。

彼ら二人が撒き散らすこのような邪義・邪説は、現今の宗門の意見を集約代弁したものと思われますが、正気で広宣流布の暁の本化聖天子の出現を頭から否定し、之を非難するのであれば、現在本山の客殿の正面に現存する、通称「開かずの門」と称される「勅使門」は、まるで必要のない無用の長物と化するのであります。

この「勅使門」の存在こそ、御開山日興上人が身延離山後の、正応三年十月に南条時光殿の御供養に依って、今日の大石寺が建立されて以来、延々と引き継がれ、本化聖天子の御出現の一日も早からん事を願って、を頸を長くして待ち望んで来た富士門流の清らかな歴史を証明しています。それを頭から否定することは、すべてを水泡に帰せしむる大謗法となるのであります。

大聖人様は、広宣流布の暁に必ず御出現される本化聖天子に下付される御本尊として、戒壇の大御本尊を御図顕遊ばされた五か月後の「弘安三年三月  日」の脇書きのある「紫宸殿の御本尊」を御用意下されているのであります。

故に富士一蹟門徒存知事に云く「是れ偏に広宣流布の時、本化国主御尋ねあらん期まで深く敬重し奉るべし」云々と。

「紫宸殿の御本尊」の存在と「勅使門」の由来と「本化聖天子」の出現を、深く思うべきであります。

また云く「王城に於いては勝地を選ぶ可きなり、就中仏法は王法と本源体一なり居処随って相離るべからざるか、仍って、南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と。

広宣流布の時来たれば、天子自ら本門戒壇の大御本尊様を丑寅の方向に望み、王城を築き一所に居し給い、身を賭して戒壇の大御本尊様を守護し奉るのであります。是れ、守護付嘱の故であります。

然れば本化国主とは誰人なるか。先師上人の仰せには「無辺行菩薩の再誕・日興上人の後身・本化聖天子」と。その時の御座主は、浄行菩薩の再誕・日目上人と仰せられるのであります。

その事を「日興跡条々事」に云く「本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本乃至一閻浮堤の内、山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし」と。

つづけて云く「日興が身に充て給わる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」と。

広宣流布の暁の王仏冥合の事相、三大秘法抄の明文豁然と拝する思いであります。

大草一男と小川只道なる邪僧は、本化国主の出現と守護付嘱の妙契を小賢しく嗤い「そのように明示された御金言を出すべきであります』などと、嵩に掛かった物言いをしていますが、少しは身を律して口を慎むべきであります。

「災いは口より出でて身を破る」とは世間通途の戒めでありますが、仏法の破壊は、世間のそれとは百千萬億倍の罪科を被る事になるのであります。

いま理境坊を代表する悪知識の二人から、このようにして御本仏大聖人嫡流の富士門流の正義が曲げられ、邪義・邪説が声高に叫ばれていますが、それによって妙観講の信心には、一切の功徳を喪失してしまいました。然しながら、これは単なる妙観講の中に止まるものではなく、宗門僧俗全信徒に及ぶほどの不幸な結果を齎しているのであります。




一期弘法付嘱書と三大秘法抄には、国主立戒壇の義だけが説かれているんだって

2013年05月14日 13時36分56秒 | 亡国の坂道 
「顕正会の悪義を破す」(P.25~26)に、大草一男は下記のような馬鹿げたことを記しています。

云く『本門事の戒壇について明かされた「三大秘法抄」「一期弘法付嘱書」のいずれを拝しても、そこに国立戒壇の義を見出すことはできません』などと。

大草の書いた謗書を監修する立場にある小川只道は、このような馬鹿げた記述に対し、何の意見を鋏むこと無く、それをただ追認するという、まことに好い加減な態度で大草一男に墨付きを与えているようです。 

先ず始めに一期弘法付嘱書」には「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門事の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と仰せであります。

此処では御付嘱状の内容すべてを通釈することが詮ではありませんので「国主此の法を立てらるれば」についてのみ、申し上げることにします。

此処で仰せられる「国主」ですが、日本国の本有の国主とは、謂うまでもなく、天皇陛下を意味するものであります。ところが、大草一男と小川只道に言わせれば「国主」とは、全民衆を指すのだそうです。

云く「現在は主権在民で、国民の圧倒的意思を国主とみることができましょう」(P.26)等として、大聖人様の御本願たる「国立戒壇」を捻じ曲げて『「三大秘法抄」「一期弘法付嘱書」の御意に添って、御遺命の戒壇の意義・名称を考えるなら、その時の国主(国民)が戒壇の発願主となる、という意味において、相応しい名称は「国主戒壇」であるといえます』などとして、新説邪義を披歴しているのであります。

更に猛々しく云く『此の国主立戒壇こそ、将来どのような政治形態になろうとも不変のもの、それは大聖人の御金言である。日顕上人は、一期弘法抄にお示しの「国主此の法を立てらるれば」の御金言を一言で「国主立」と表現されたものであり、この「国主立」こそいかなる政情にも耐えうる絶対の戒壇義なのである』(最後に申すべき事を砕破すP.78)と。

尤も、あの悪僧日顕が過去にはこのような邪義を展開していました。云く『一期弘法付嘱書の「国主」とは、日達上人の御指南の如く、現在は主権在民の上から民衆とみるべきである』(日蓮正宗要義)等と二人の貫主がこのような邪義を展開していますのでむべなるかなとおもわれますが、此れを称して大聖人様は「師は針の如く、弟子は糸の如し」と仰せられるのであります。

いずれに致しましても、国民一人一人を「国主」と見るのは明らかな間違いであります。

大聖人様は報恩抄に「国主は但一人なり、二人となれば国土おだやかならず、家に二の主あれば其の家必ずやぶる」と御教示なのであります。

悪僧日達も日顕も、大草、小川らは、単なる日本国の「国主」の解釈すらできない情けない人種なのであります。彼らは、憲法の定める主権在民の規定に魂を抜かれて、仏法のイロハが端から判断できなくなっているのであります。

一期弘法付嘱書こそ、第二祖日興上人ただ御一人へ与えられた「広宣流布の暁に富士山に本門寺の戒壇=国立戒壇を建立すべし」という、大聖人様から日興上人御一人へ下された御命令であります。依って、他の五老僧は誰一人として、此の御付嘱状の存在と内容を知る者はいなかったのであります。

そうした観点からこれ等二書の位置づけを申し上げますと「三大秘法抄」は「一期弘法付嘱書」を助けるための助証に当る御書なのであります。依って此の二書を並べて表記する場合は、始めに、「一期弘法付嘱書」を挙げ次に「三大秘法抄」という風に、記さなければならないのであります。この二人はそれすらも理解できていない無知なのであります。

次に三大秘法抄でありますが、此の御書こそ、建長五年四月二十八日の立宗より展開し給うた一代三十年の御化導を総括遊ばされ、広宣流布の暁に建立すべき本門寺の戒壇=国立戒壇に関する御教示を、大聖人様御入滅の年に至って、初めて御指南された重書中の重書なのであります。

其の大事を大聖人様は「法門のことは、佐渡の国へながされ候いし已前の法門は、ただ仏の爾前の教とおぼしめせ」(三沢抄)と仰せられ、三大秘法の具体的な内容を明かされる中で、竜の口御法難以後の文永九年二月になって始めて開目抄で人の本尊を顕わされ、次いで翌年の五月に、観心本尊抄で法本尊を顕わされています。残るところの本門寺の戒壇=国立戒壇の「時」と「場所」と「手続き」については、御入滅になられる直前の弘安五年の四月になって、初めてこの三大秘法抄で明らかにされているのであります。

その三大秘法抄ではこのように仰せであります。大聖人御入滅後になって「一期弘法付嘱書」の存在について疑義を生ずるおそれが出て来た時、例えば「本門寺の戒壇=国立戒壇なんて聞いたこともない」あるいは「あれは日興上人が勝手なことを言っているだけだ」等々の問題が持ちあがって来ることを慮られて、在家の重鎮たる太田金吾殿に、滅後保存の意を込めて給わった御書が、三大秘法抄なのであります。

依って本抄の末文には「予、年来己心に秘すと雖も、此の法門書きつけて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き遺し候。一見の後は秘して他見有る可からず、口外も詮なし」と訓戒せられています。

上の御文を通釈すると「自分は長い間、本門寺の戒壇については心に秘めて誰にも言わないでいたが、国立戒壇について書き遺して置かなければ、自分の滅後に門下の間で、大聖人は何て無責任なことをしてくれたんだ。等と讒言を加えて悪口を云う者が出て来るであろう。そんな事になってしまった後になって、如何に悔いてもはじまらない。その為、貴方に差し上げた書面に本門寺の戒壇の意義について、細々と書き遺して置いたので、一度貴方が眼を通した後に、此の書は他人に見せてはなりません。増して他人にこの大事を口外することは断じてなりません」と訓戒なされているのであります。

此の三大秘法抄こそ、御書四百余編の中で「本門寺の寺の戒壇=国立戒壇」の意義内容を具体的に御教示下された唯一の御書なのであります。したがって滅後の日蓮門下全信徒に下された国立戒壇建立への御遺命と拝すべき重書なのであります。依って本抄は、一期弘法付属書の存在を助けるための助証として拝さなければならないのであります。

ところが大草一男と小川只道の二人は『「三大秘法抄」「一期弘法付嘱」のいずれを拝しても、そこに国立戒壇の義を見出すことはできません』として、自らの無知蒙昧を曝しているのであります。彼らは大聖人様一代三十年の御化導に於ける二書の位置づけすらも理解できていないのであります。更には、この二書の御文を一切解説する能力もなく、間違った独り善がりの貧相な感想のみを垂れ流しながら得々として、顕正会を誹謗中傷しているのであります。





国立戒壇は、「世間普通の義」に飛びついて取捨選択したとは呆れたね

2013年05月08日 18時02分30秒 | 亡国の坂道 
「顕正会の悪義を破す」(P.22)に「予が法門は四悉檀を心に掛けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」(太田左衛門尉御返事)の御文を引用しながら、宗門が国立戒壇の用語を使用していた理由は大聖人様仰せの「世間普通の義」に任せて、国立戒壇という語を使用したに過ぎない」などと、実にくだらない説明をしています。

云く「明治時代には、国威発揚の国体思想が広く国民に支持され、国立戒壇という名称が一般の人に理解しやすかったので、本宗でもこの語を自然に使用していたが、太平洋戦争の終結と同時に国体思想が崩壊した。大石寺では、第六十六世日達上人の御代に、本来の意味合いに照らして、国立戒壇という名称は布教の邪魔になるので永久放棄した」(要旨)などと。

今の大石寺の坊主らは、恰も悪僧日達はいち早く民主主義を先取りしたような言い訳をしていますが、これこそが世間に迎合した負け犬の態度であり、折伏精神をかなぐり捨てて、世間に諂った姿以外なにものでもありません。悪僧日達の時代ら日蓮正宗の根本教義が、止めどなく曲がって行くのであります。

このように国立戒壇という肝心要の教義を時流に随順して取り入れたり、あるいは諂って捨てたりすることは、仏法(三大秘法)を根本から破壊することに繋がり、個人に取っても国家に取っても、取り返しのつかない重大な結果を招くことになるのであります。

拙者がこの機に悪僧日達が垂れ流した邪義・邪説がもたらす弊害を指摘し、四悉檀に則って、幾つかの項目を挙げて破折を加えることにします。

①「明治時代には、国威発揚の国体思想が広く国民に支持され、一般の人に理解し易かったので国立戒壇の語を使用した」とは、余りにも馬鹿げた話だ。

②「敗戦によって国体思想が崩壊し、日本は民主主義国家となって、信教の自由が定められたので国立戒壇を永久放棄した」とは、五老僧の跡を継承するものだ。

③国立戒壇を捨てた宗門は、京都要法寺の広蔵日辰の唱えた邪義と瓜二つである。

④国立戒壇を永久放棄したことにより、日本国は必ず亡国に至る。

そもそも四悉檀という事でありますが、悉檀の悉とは遍くの意であり、悉檀の檀とは、檀那の意であって、施しの意であります。故に、悉檀とは、衆生に法を遍く振る舞うの意であり、その方法に四つの施し方があるということであります。

1.世界悉檀、2.為人悉檀は、3.対治悉檀、4.第一義悉檀の四種の弘教の方法を云うのであります。

1.世界悉檀とは、人々を折伏するに当って、その時々の国情や社会の動き等に合せながら、相手の意見に理解を示し、緩やかに弘教する方法を云うのであります。

2.為人悉檀とは、成仏の妨げにならない限り、相手の機に応じ、世間一般の義を用いながら、柔らかく弘教することをいいます。

3.対治悉檀とは、相手の間違った邪義・邪説に染まった考えを強言をもって打ち破り、相手を屈服させて、三大秘法を弘通する方法を云うのであります。

4.第一義悉檀とは、相手が解ろうと解るまいとに関係なく、此の御本尊でなければ絶対に救われないのだ。として強力に折伏し、三大秘法を弘通する方法を云うのであります。 

1.2.は、正像二千年の本已有善の衆生に対して、釈迦仏法を弘通する方法であります。これは摂受であります。

3.4.は、末法万年の本未有善の衆生に対して、三大秘法を絶待妙の立場から、折伏によって弘通する方法を云うのであります。

次に、国立戒壇を時流に諂って取捨選択した事による間違いを破折することにします。

①「国体思想が広く国民に支持され、一般の人に理解し易かったので国立戒壇の語を使用した」について

国体思想の国威発揚の世情に迎合して国立戒壇を用いる事になった」とは、余りにもバカげた言い草であります。 四上人が国立戒壇の語を用いた理由に、明治・昭和の国体思想が影響したものとして決めつけていますが、死人に口なしとは是れであります。四上人は、今頃草葉の陰で大いに慨嘆されているものと思われます。今の坊主らは末法今時では絶対に用いてはならない、摂受の修行を自慢してそれを言い訳にしているのであります。

②「敗戦によって国体思想が崩壊し、日本は民主主義国家となって、信教の自由が定められたので国立戒壇を永久放棄した」について

論評の仕様もないほど堕落した話であります。これこそ、仏法(三大秘法)を憲法の下に従属させた諛言の見本のような邪説であります。戦勝国のアメリカから押し付けられた憲法に、主権在民と信教の自由が謳われていることを理由に、国立戒壇を放棄するやり方は、催尊入卑の最たるものであり、これこそが仏法を憲法の下に従属させた諂いの典型であります。これでは折伏どころか、摂受以前の問題になります。

宗門を代表する貫主がこのような体たらくでは、大聖人様が、あの流罪、死罪を忍び給うた一代三十年の御化導を、泡沫に帰せしむることになるのであります。このようにして大聖人様の御遺命破壊が、これから始まったのでありますが、このような時に大聖人様は、信徒たる者は如何にあるべきかをお示し遊ばされているのであります。

云く「法を壊るものを見て責めざる者は仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)と。
云く「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」(立正安国論)と。
云く「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」(選時抄)と。
云く「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)と。

③「国立戒壇を捨てた宗門は、京都要法寺の広蔵日辰の唱えた邪義と瓜二つである」について

かつて御開山日興上人が五人所破抄の中で、末法の仏道修行について、五人の邪義を破折された御教示があります。

五人一同に云く「如法経を勤行し之を書写し供養すと、仍って在在所所に法華三昧は一日経を行ず」と。

日興が云く「此くの如き行義は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず、之に依って日興と五人と堅く以て不和なり」と。

五人一同に云く「如法一日の両経は共に法華の真文を以てす書写読誦に於いて相違すべからず」と。

日興が云く「如法一日の両経は法華の真文たりと雖も正像転時の往古、平等摂受の修行なり。今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば、一部読誦を専らにせず但五字の題目を唱えて三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責むべき者か、是れ則ち勧持不軽の明文、上行弘通の現証なり。何ぞ必ずしも折伏の時に摂受の行を修すべけんや、但四悉の廃立、二門の取捨宜しく時機を守るべし、敢えて偏執すること勿れ」云々と。

ところが要法寺の日辰が永禄年中に造読論を述べ、大石寺を難じた中で、次のような邪義を展開しているのであります。

日辰が記に云く「御草案に曰く日興が云く、如法一日の両経乃至但し四悉の廃立、二門の取捨宜しく時機を守るべし、敢えて偏執する勿れ、已上。但し四悉の下は或る時は世界悉檀を用い王法に順じて仏法の滅を致さず。或る時は第一義悉檀を用い仏法の正理を立つ、或る時は摂受門を用いて折伏門を捨つ。或る時は折伏門を用いて摂受門を捨つ是れを四悉の廃立、二門の取捨と謂う。或は四悉折伏を用ゆべく亦之を捨つべし其の故は時に依り機に依る故なり、敢えて一遍の局見を生ずること勿れ、是れを宜しく時機を守り敢えて偏執すること勿れと謂うなり、不読の一類、但四已下の文を見ず故に末法と雖も摂受無きに非ず、何ぞ一部読誦を制せんや」と。

日辰は大石寺を難じた中で、日興上人が五人所破抄の文中、日辰の都合の悪い処は「乃至」の文を以って切り文にし、但の御文を「但し」として用い、都合の良い処だけを曲会して用いて、日興上人は末法と雖も、摂受門を用いる時もあると言われているではないか。として「敢えて局見を生ずること勿れ」などと言って、「大石寺は其の文を見ていないだけだ」と誹謗しているのであります。

このような日辰のこの邪義を、日寛上人が完膚なきまでに破折されたのが、末法相応抄の次の御文であります。

日寛上人の云く「但四悉檀等とは上代は本已有善の衆生にして而して是れ熟益の時なり、故に対治、第一義を廃して世界、為人を立つ。宜しく楽欲に随って宿善を生ぜしむるべし、故に正像に於いては折伏門を捨てて摂受門を用ゆるなり。末代は本未有善の衆生にして是れ下種の時なり、故に世界、為人を廃して退治、第一義を立つ、宜しく諸宗の邪義を破して五字の正道を開かしむるべし、故に末法に於いて摂受門を捨てて折伏門を用ゆるなり、敢えて正像摂受の行を偏執すること勿れ」と、日辰の邪義を木端微塵に破折されています。

いま宗門が時流に随順して国立戒壇を用いたり、諂って捨てたりするやり方は、日辰が日興上人の示された四悉檀を都合良く改竄して、末法といえども、世界、為人の二門を行じても誤りではないとした邪義・邪説と、今日宗門が展開する国立戒壇の取捨選択とが、まことに酷似していることに空恐ろしい不気味さを感ずるのであります。

④「国立戒壇を永久放棄したことにより、日本国は必ず亡国に至る」について

「予が法門は四悉檀を心に掛けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」の御教示の中で、決して見落としてはならない絶対条件として「強ちに成仏の理に違はざれば」と仰せられ、但し書が付されているのであります。

その前の「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば」とは、折伏に当たって、仮に病に伏している相手に対しては、難しい理論的な話よりは、病を克服した体験談を聞かせて折伏する等の弘教の方法を、「予が法門は四悉檀を心に懸けて」と仰せられたものであります。

ところが国立戒壇を永久放棄した後の日蓮正宗の今日の信心では、一つの病すら解決できないのであります。それは、大聖人様の究極の御願業を切れた草履の如く捨て去り、宗門七百年の唯一の大目的、唯一の宿願として来た、広宣流布の暁の国立戒壇を永久放棄したが故の報いであります。

この大罪は、五老僧の如法一日の両経を読んだり書写したり、あるいは、日辰が四悉檀を取り違え、造読論等の邪義を展開するような、可愛い謗法とは比較にならないほどの大罪であり、大謗法に当るのであります。故に宗門の法華講の信心では、一切の功徳を喪失したまま、一人の成仏も適わなくなったのであります。

広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇は、一期弘法付嘱と三大秘法抄で御教示のごとく、大聖人様の根本教義であって、これに過ぎる化法・化儀は存在しないのであります。その最も大切な国立戒壇を世情に随順して用いたり、諂って捨てたりする行為は、当然過ぎるほど「成仏の理に違う」事になるのであります。

そのような一番大切な勧誡を蔑ろにして、宗門が国立戒壇の語を用いたり、捨てたりした理由を「世間普通の義であったといえましょう」などと、アッケラカンとして、開き直る大草一男と、小川只道の信心を疑うのであります。

今、この二人が垂れ流す邪義・邪説は宗門を代弁しての記述であり、このような大それた教義歪曲が、一切の功徳を喪失し、一人の成仏も許されない結果を招いている事実は「強ちに成仏の理に違はざれば」との誡文を犯していることに、深く思いを致すべきであります。

唯一の正系門家が国立戒壇を永久放棄した大悪事は、宗門に取っても、日本国に取っても取り返しのつかない結果を生み、先行き間違いなく全国民が悲嘆に暮れるような亡国の悲惨は、決して避けては通れないのであります。






「顕正会の悪義を破す」を砕破するとは呆れたね 

2013年05月04日 13時00分41秒 | 亡国の坂道 
「顕正会の悪義を破す」(P.20~25)に国立戒壇に固執する誤りと題して、実に好い加減な邪義・邪説を書き連ねて顕正会を誹謗中傷しています。

云く『顕正会の最も端的な邪義は「国立戒壇」に固執して日蓮正宗を誹謗していることです。それは、“日蓮大聖人が「三大秘法抄」「一期弘法付嘱書」で御遺命された、広宣流布の暁に立てられる「本門戒壇」は、日本の国家が建立する国立戒壇でなくてはならない”というもので、彼らは、“大石寺でも古来から国立戒壇と言ってきたのに、これを捨ててしまう大謗法を犯した”などと言っています』 などと記し、悪僧日達が国立戒壇を永久放棄した時の歴史的曲会に満ちた講演や、国柱会の田中智学氏が著した「本化妙宗式目」の著書名を挙げて、顕正会の誤りを破折したとしています。

更に「太平洋戦争の終結と共に国体思想が崩壊し、日本は民主主義国家となって、政教分離・信教の自由などが定まりました。この時代において、あくまでも天皇を国主とし、勅命によって国家が戒壇を建てる(国教化)という国立戒壇論を押し立てていくことは、いらぬ誤解を招き、いたずらに布教の妨げとなりますので、大石寺では第六十六世日達上人の御代に、本来の意味合いに照らして、国立戒壇という名称を使用しない事に決定したのであります」等と。

大草一男は暗に、戦後GHQから無理やり押し付けられた、憲法の定める国民主権主義の規定を基本に据えて、仏法(三大秘法)を憲法の下に従属させ、仏法を曲げたのは、あの六十六代の悪僧日達であったことを白状しています。

つづけて『こうした経緯も弁えず、宗開両祖以来、六十八世に及ぶ御歴代上人方の中で、わずかに昭和の四上人が国立戒壇の語を使われていることを取り挙げ「国立戒壇は日蓮正宗の古来からの教義だ」とか「国立戒壇を捨てることは仏法を曲げることだ」などと言うのは、まさに子供騙しの戯れ言と呼ぶほかはありません』として、顕正会の正義をやり玉に挙げて誹謗しています。

ここでは大草一男や小川只道が、宗門の代弁者面して得意満面で吹聴するごとく「国立戒壇は日蓮正宗の古来からの教義」ではないとする、宗門の展開する邪義が、果たして大聖人様の御教示なのか、こうした教義上の重大問題を徹底して検証することにします。

大聖人様の御書四百余編の中で、本門寺の戒壇=国立戒壇について述べられた御教示は、一期弘法付嘱書と、三大秘法抄の二編の御書のみであります。依って、この二書にお示しの大聖人様の御心の元意を、謹んで拝して参りたいと思います。

先ずはじめに一期弘法付嘱書を拝見することにします。

「日蓮一期の弘法白連阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり、就中我が門弟等この状を守るべきなり」とあります。

上記の御文を要約しますと、日蓮一期の弘法とは、大聖人様一代三十年、流罪、死罪の忍難慈勝の御化導を一つに括られて仰せられた御教示であります故に、戒壇の大御本尊様の御事を「日蓮一期の弘法」と申し上げるのであります。

依って、戒壇の大御本尊及び三大秘法義は、白蓮阿闍梨日興に余すところ無く付嘱したので、本門弘通の総大将として、此の三大秘法を身を捨てて弘通すべし、と勘奨為されています。これは、大聖人様から二祖日興上人へ下された、広宣流布達成への御命令であります。

次に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とは、広宣流布の暁に、日本国の本有の国主たる天皇陛下が、この三大秘法を護持する時が到来したならば、富士山麓の天生原に本門寺の戒壇を建立すべきであると強く勧奨せられています。

そのため第五十六世日応上人は、一期弘法付嘱書の御文を活釈されて「国主此の法を立てらるれば」とは「上一人より下万民に至るまで、この三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布と云う。その時は天皇陛下より勅命を賜り、富士山の麓に天母ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって・・・・・」(御宝蔵説法本)と仰せられています。

これは正しく広宣流布の暁に、必ず国立戒壇を建てよということであります。日本国の本有の国主たる天皇が護持する三大秘法とは、国教を意味するものであります。依って、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇とは、国立戒壇となるのであります。

次に「時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり、就中我が門弟等この状を守るべきなり」とは、広宣流布も成らない内に、広宣流布が達成されたと称して、ニセ戒壇正本堂のようなものを建ててはならないという制誡であり、勧誡であります。

つづけて、広宣流布の暁に建立される国立戒壇こそが「事の戒法」と謂われるものであるから、日興上人の門弟らは、この状を堅く守るべきである。と改めて厳しく厳誡を加えられているのであります。

次に三大秘法抄を拝することにします。

「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。

先ず、「戒壇とは」と仰せられる戒壇は、広宣流布の暁の本門戒壇=国立戒壇の御事を指して、このように仰せなのであります。

次に「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」の御聖文を通釈すれば、此処で云う王法」とは、国の政治を指して王法と仰せられています。依って、国の政治と仏法が冥合する仏法とは、是れ国教とすべき三大秘法であります。王臣万民が一同に本門の三大秘法を持ち奉り、この三大秘法こそ国家安泰・衆生成仏の唯一の正法と認識し、全国民が尊崇守護すると云うことであります。

次に「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とは、涅槃経に説かれている有徳王・覚徳比丘の古事にあるような、広宣流布が成就する時にはこの三大秘法を弘める正道の侶の命を狙う邪宗の坊主らが国に充満し、正道の侶との間で熾烈な闘いが起こるが、三大秘法を守護するためには身命も惜しまぬ護法心を以て仏法を守護する必要を説かれたものであります。

次に「勅宣並びに御教書を申し下して霊山に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」とは、国立戒壇建立に当っての厳重な手続きの定めであります。「勅宣」とは、云うまでもなく、時の天皇陛下の詔勅であり「御教書」とは、当時で云えば幕府の令書のことを言います。それを現代に約言すれば国家意思の表明ということであります。即ち国会の議決、あるいは国民投票を以って、国家意思の表明が為され、国立戒壇を建立するということであります。

大聖人様は何故に「勅宣並びに御教書」という二重にわたる厳重な手続きを経ることをお定めになられたのか、謹んで御聖意を拝するに、個人や一団体の漠然たる帰依では、仏国の実現は絶対に叶わない。国家が二重に亘る手続きを公式に踏んで三大秘法を護持してこそ、初めて安国論で仰せの仏国が実現するのであります。その時、妙法の力用に依って、国家そのものが防非止悪の働きを現ずる事になる。即ち国立戒壇の秘術がそこに存するのであります。

最後の「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」とは、広宣流布が成った暁に、霊山浄土に勝るとも劣らない富士山麓の最勝の地たる天生原に、国立戒壇を建立すべしという事であります。この国立戒壇は全世界の人々の懺悔滅罪の道場となるばかりか「大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」とある如く、天界すなわち宇宙法界も安泰となり、地震あるいは毎年押し寄せる風雨水害からも守られ国家自体が安穏となるということであります。

故に第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と、仰せなのであります。

また、第五十九世日亨上人は「唯一の国立戒壇、すなわち本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と仰せられています。

此の国立戒壇建立の功徳は、印度、中国、日本の三国のみに留まるものではなく、全世界に波及し、そればかりか、宇宙法界にまで及ぶ広大無辺の力用をお示しになられた御教示であります。

ところが大草一男は、一期弘法付嘱及び三大秘法抄の御文を引用して、本門戒壇のあり方を論じながら、二書で仰せられる本門戒壇に関する解説は、鼻糞ほども出来ていないのであります。また本書の監修を務める、小川只道なる邪僧も恥ずかしながら、本門戒壇に関する御本仏大聖人様の御意を拝受することが出来ない為か、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる本門戒壇義に関しては、一節たりとも解説することなく、口を閉ざして逃げているのであります。

そんな体たらくを晒して云く『顕正会では、この御金言の中に、国立戒壇の語はなくても義がある、などというのですが、この御金言において、国主が立てるのは「此の法」です(「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」も同義)。また「勅宣並びに御教書を申し下して」との、国主の意思表明(戒壇建立の発願)があったとしても、戒壇を国家が立てることにはなりません』(P.24)などと、支離滅裂にして邪義で固められた愚論を展開しながら、国立戒壇に徹底した反対を表明し、批判の言動を繰り返しています。

ところで悪僧日顕は『一期弘法抄の「国主」とは、日達上人の御指南の如く、現在は主権在民の上から民衆と見るべきである』(日蓮正宗要義)として、国主は民衆であると定義しているのであります。

云く「現今は、我が国の憲法において、主権在民と定められている以上、本門の戒壇が民衆の力によって建立されておっても、少しも不思議ではないのであります。あえて天皇の意志による国立戒壇が無ければならないという理由はないのであります。一期弘法抄の『国主此の法を立てらるれば』とは、現今においては、多くの民衆が、この大聖人の仏法を信受し、信行することであり、そして本門寺の戒壇を建立することを御命じになったと解釈してさしつかえないのであります」(大日蓮 昭和49年11月号)と。

ところがこの度の大草一男と小川只道らの解説によりますと「勅宣並びに御教書を申し下して」との、国主の意思表明(戒壇建立の発願)があったとしても、戒壇を国家が立てることにはなりません」などと記しています。

此処では恥も外聞もなく「国主」を天皇と見ての記述をしています。このような体たらくが、現今の宗門の無定見な蝙蝠的な実態であります。ある時は「国主」を民衆一人ひとりと定めるかと思えば、ある時は「国主」を天皇と捉えた言い方をする。なんとも恥ずかしい教義展開であります。彼らは仏法の教義を曲げることが、個人を堕獄に追いやり、国家をも亡国に至らしめる大事がまるで理解できていないのであります。

また、一期弘法付属書及び三大秘法抄の御教示の中に、直截的な国立戒壇の御文は見当たらなくても、広宣流布の暁に建立される本門戒壇は、国立戒壇でなければならない「義」が厳然と存在する事は、これ等の二書の文意を真面目に拝推さえすれば誰の目にも明らかなのであります。

例えば法華経の中には「一念三千」という語句は何処にも存在しませんが、中国の天台大師は、人間の生命が縁に触れて刹那に変転する実相を説明する上で「一念三千」という語句を創唱されました。また、第二十六世日寛上人は、三大秘法の中の御本尊を説明する上で「人法体一」という言葉を用いておられますが、このお二人はそれらの御文中の「義」を謂い顕わするために「一念三千」「人法体一」という語句を使用されています。これを、天台の邪義だ。寛尊の己義だ。等と騒ぐ者は何処にもいません。是れ、仏法の通軌であります。

一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の御文の中には、国立戒壇の「義」が厳然と備わっているのであります。

故に、第六十五世の日淳上人猊下は「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知の文について)と仰せられているのであります。

いま、日蓮大聖人の嫡流を誇っていた宗門が、御本仏大聖人様の御本願たる「国立戒壇」を敢然否定することは自殺行為にも等しい、広宣流布を完全否定することになるのであります。

そのため、日蓮正宗の信心には一切の功徳を失い、一人の成仏も適わなくなったのであります。

三大秘法抄に云く「思いの外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが、徒に土泥となりぬる事云うても余りあり、嘆きても何かはせん。彼の魔黎山の瓦礫となり、栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし」云々と。

上記の「延暦寺の戒」を「日蓮正宗の戒」と入れ替えて、拝読して見ては如何でしょうか? 現今の宗門はそれほど腐ってしまったのであります。