「顕正会の悪義を破す」(P.44~53)に「正本堂の意義にまつわる誹謗を破す」と題して、大草一男と、邪僧小川只道の二人は、顕正会に様々な屁理屈を並べて誹謗中傷しています。
云く『未だ広宣流布が達成していないのに、時の御法主・日達上人は、正本堂を大聖人御遺命の事相の戒壇」であると偽り「時を待つべきのみ」(御書1595)との御遺命に違背した。というものでした。しかしながら、この主張はきわめて場当たり的な、自己矛盾に満ちたものでした。以下、そのことを明らかにしつつ、破折を加えていきます』などと、まことに威勢のいい啖呵をきっています。
つづけて云く「本門戒壇の大御本尊在す処が、広宣流布以前であれ以後であれ、常に本門事の戒壇であるということは前に明らかにしました」として、戒壇の大御本尊を、広宣流布の「事相に約したものではなく、法体の勝劣、即ち教相の違いに約して、またまた邪義を垂れ流しているのであります。
彼らは恥知らずにも何度言い聞かせても同じ邪義を繰り返して、多くの純真な信徒を騙しに掛かっていますが、こんな邪義・邪説がまかり通るなら、何も、日寛上人が、文底秘沈抄、あるいは法華取要抄文段で、噛んで含めるように「事の戒壇」と「義の戒壇」の違いについて御教示下されたことは、最初から無意味だったということになるのであります。
彼らが主張するように戒壇の大御本尊の在す処が、何時、如何なる処に有っても「事の戒壇」ならば、正本堂以前の、御宝蔵も、奉安殿も「事の戒壇」が既に建っていたことになります。ところが正本堂が建てられる時には、あれほどの大騒ぎをして莫大な供養を半ば強要し「広宣流布の達成だ」「大聖人の本願成就だ」「将又仏教三千年史上空前の偉業だ」などと、宗門始まって以来、連日連夜の大騒ぎをしていたのでありますが、仮に正本堂が、御宝蔵や奉安殿と同じ意義内容の建物であるならば、何も昼夜を上げて大騒ぎをする必要は全くなかったのであります。
ところがニセ戒壇正本堂は、一期弘法付嘱書、並びに、三大秘法抄で仰せの御遺命の戒壇、すなわち「広宣流布の事の戒壇」の建立として、国の内外に広く宣伝された建物だったのであります。
故に日達管長は「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大日蓮 昭和43年1月号)等と発表していたのです。
ニセ戒壇正本堂が建築されただけで、何故に広宣流布のなのか、当時の日本の総人口は、約、一億三千万人だったのであります。それを、僅か八百万足らずの学会員と、十数万の法華講員で広宣流布とは、呆れてしまいます。このように法主自らが先頭切って、口から出任せの邪義・邪説を垂れ流していたのであります。
当時、日蓮正宗の信徒団体の池田大作は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の請願之に過ぐるはなく、将又仏教三千年、史上空前の偉業なり」(発請願文)等とバカげた発言をしていたのであります。
池田大作の大風呂敷にも限度が有ろうというものです。ニセ戒壇正本堂が、仏教三千年史上空前の偉業とは、御本仏大聖人様の流罪・死罪の大難を忍び給うた忍難慈勝の御化導を鼻であしらい、高上りが過ぎるあまり、もはや池田大作は、制御の効かないところまで天狗になっていたのであります。
また日達管長の後を狙っていたあの阿部教学部長は、宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、初めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)と。
後に日顕を名乗る邪僧は、池田に対する胡麻磨り三昧の諛言を垂れ流し、池田の歓心を得ようとして、御本仏大聖人様を裏切り、ニセ戒壇正本堂を指して「宗祖大聖人の御遺命の事の戒壇」などと明言していたのであります。
それに続く佐藤慈英宗会議長の云く「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊とすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座います」(大日蓮 昭和42年11月号)と。
つづけて椎名法英宗会議員「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」(同前)と。
更に菅野慈雲宗会議員「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。
このように当時の宗門は、上は日達管長から下は平僧は云うに及ばず、所化小僧の一人に至るまで、ニセ戒壇正本堂を指して「事の戒壇の成就だ」やれ「広宣流布の達成だ」などとバカ騒ぎをしていたのであります。
まさにこの様は、古代中国の趙高が鹿を帝に献じた時、居並ぶ群臣は趙高の威を恐れて鹿を馬と言ったと云う。当時の宗門僧侶の管長をはじめすべての僧侶は、池田大作の威を恐れる余り、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の「事の戒壇」と叫び、先を争って御本仏大聖人様への信を投げ捨て忠誠を破り、謗法に与道に与したのであります。之を称して馬鹿というのだそうです。
しかしながら、六十六代以前の歴代先師上人は、日達管長のような邪義は片鱗たりとも口にしてはいません。
云く「時に戒壇建立は宗門の一大事なり」(五十六代日応上人・御宝蔵説法)と叫ばれていたのであります。
また「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり、国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(六十四代日昇上人・御宝蔵説法)と仰せられています。
更に、上代の三十一代の日因上人は「本門の御本尊堂は広宣流布の時之を建立す。故に当山但祖師堂ばかりなり。乃至、若し国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事御遺状の面に分明なり。乃至、故に知りぬ、本門寺建立並びに御本尊堂造営、正しく広宣流布の時にあるなり」(物語抄)と仰せられています。
つづけて 四十八代日量上人戒壇の大御本尊の謂われを説き給いて云く「現今富士大石寺宝庫にあり、豈現証分明なるに非ずや、右御遺語に任せ、事の広宣流布の時を待ち奉るなり、それまでは富士山大石寺即ち本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)と。
つづけて五十二代の日霑上人云く「滅後一切衆生の為、事の広宣流布の時、大戒壇堂に掛け奉るべき設けとして顕わし給いて云々」(富士要集問答)と、本門戒壇建立は、異口同音に広宣流布の時と定め給うておられるのであります。
その時、先師上人方のこれ等の仰せを思い出され、御本仏大聖人の仰せられる御金言が耳朶を打ち、身の破るるをも顧みず「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送呈されて、宗門諫暁に立たれたのは、妙信講の浅井昭衛氏唯一人だったのであります。
御本仏大聖人の仰せには「法を破る者を見て責めざるは仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)と。
つづけて「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是の如く受持し擁護すべし」(立正安国論)と。
また云く「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」(選時抄)と。
更に「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)と。
ところが、浅井昭衛氏から諫められた日達管長は、浅井昭衛氏に会えば、「妙信講の意見は尤もであり正しい」というかと思えば、学会の池田に会えば「正本堂は広宣流布の『事の戒壇』であります」などと諂って、大聖人様に背逆した邪義を述べる等、浅井昭衛氏はこの様を死して、日達管長は、まさに風にそよぐ葦のごとくだったと述懐しておられました。
そのような腹の座らない日達管長の煮え切らない態度に業を煮やした池田大作は、学会員の本山登山を激減させて、宗門の収入を減殺するという風に、本山を兵糧攻めにして日達管長を追い詰め、宗門に対する学会の生殺与奪の威力を見せつけたのであります。
それ以来、池田の意向に諂った日達管長は、昭和49年8月12日付けを以って、大聖人様が立正安国論で仰せの正義を叫び続けてきた、妙信講を講中解散処分に付してしまったのでありますが、それ以後の日達管長の言動は「毒を食らわば皿までも」の例えの通り、是れが果たして大聖人嫡流の正系門家の貫主上人の言葉かと疑うような、言動を繰り返すようになるのであります。
云く「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、一期弘法抄に云う処の戒壇は理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実の世に於いて我々は信心の誠を捧げて行かなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)等と。
是れが果たして、猊座にあった貫主上人の言葉かと疑いを持つものであります。拙者は、日達管長の大聖人様に対し奉る信心を改めて疑うものであります。
云く「現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう」
云く「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」
何たる言い草でありましょうか! 日達管長という人は、池田大作と共謀して「舎衛の三億」なる詭弁を弄した悪僧であれば、広宣流布への確信も、国立戒壇の実現が確信できなかったのも当然かもしれないのであります。したがって如説修行抄の「吹く風枝をならさず、雨壊を砕かず」等の仏様の金文は、初めから信じていなかったのであります。それにしても、是れが猊座にあった方のことばとしては、まことに悲しい思いであります。
何度も言いますが「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、悪ガキの捨て台詞にも似た、笑うべき没論理であります。
いま御本仏日蓮大聖人の嫡流を誇っていた日蓮正宗の信心に、一切の功徳が無くなり、一人の成仏も叶わなくなった根本原因は、悪僧日達に依ってもたらされた事が良く理解できるものと思います。
云く「それまで本山に来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、誰人に対して発した暴言かと云いますと、これは当時、国立戒壇を宣揚する妙信講員に浴びせた悪言だったのであります。ところがその後、悪僧日達の尻馬に乗ってはしゃぎ廻っていでいた法華講員は、あれ以来、本山にお百度踏んで御開扉を何回受けようとも、一人の成仏も叶わなくなって終っていたのであります。是れ因果応報、還著於本人の現罰であります。
あの魔の殿堂たるニセ戒壇正本堂は、跡形もなく取り壊したとはいうものの、肝心要の三大秘法の教義歪曲を糺さない限り、罪障のみを積み重ねるだけで、すべてが空転、水泡に帰してしまうのであります。
云く『未だ広宣流布が達成していないのに、時の御法主・日達上人は、正本堂を大聖人御遺命の事相の戒壇」であると偽り「時を待つべきのみ」(御書1595)との御遺命に違背した。というものでした。しかしながら、この主張はきわめて場当たり的な、自己矛盾に満ちたものでした。以下、そのことを明らかにしつつ、破折を加えていきます』などと、まことに威勢のいい啖呵をきっています。
つづけて云く「本門戒壇の大御本尊在す処が、広宣流布以前であれ以後であれ、常に本門事の戒壇であるということは前に明らかにしました」として、戒壇の大御本尊を、広宣流布の「事相に約したものではなく、法体の勝劣、即ち教相の違いに約して、またまた邪義を垂れ流しているのであります。
彼らは恥知らずにも何度言い聞かせても同じ邪義を繰り返して、多くの純真な信徒を騙しに掛かっていますが、こんな邪義・邪説がまかり通るなら、何も、日寛上人が、文底秘沈抄、あるいは法華取要抄文段で、噛んで含めるように「事の戒壇」と「義の戒壇」の違いについて御教示下されたことは、最初から無意味だったということになるのであります。
彼らが主張するように戒壇の大御本尊の在す処が、何時、如何なる処に有っても「事の戒壇」ならば、正本堂以前の、御宝蔵も、奉安殿も「事の戒壇」が既に建っていたことになります。ところが正本堂が建てられる時には、あれほどの大騒ぎをして莫大な供養を半ば強要し「広宣流布の達成だ」「大聖人の本願成就だ」「将又仏教三千年史上空前の偉業だ」などと、宗門始まって以来、連日連夜の大騒ぎをしていたのでありますが、仮に正本堂が、御宝蔵や奉安殿と同じ意義内容の建物であるならば、何も昼夜を上げて大騒ぎをする必要は全くなかったのであります。
ところがニセ戒壇正本堂は、一期弘法付嘱書、並びに、三大秘法抄で仰せの御遺命の戒壇、すなわち「広宣流布の事の戒壇」の建立として、国の内外に広く宣伝された建物だったのであります。
故に日達管長は「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大日蓮 昭和43年1月号)等と発表していたのです。
ニセ戒壇正本堂が建築されただけで、何故に広宣流布のなのか、当時の日本の総人口は、約、一億三千万人だったのであります。それを、僅か八百万足らずの学会員と、十数万の法華講員で広宣流布とは、呆れてしまいます。このように法主自らが先頭切って、口から出任せの邪義・邪説を垂れ流していたのであります。
当時、日蓮正宗の信徒団体の池田大作は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の請願之に過ぐるはなく、将又仏教三千年、史上空前の偉業なり」(発請願文)等とバカげた発言をしていたのであります。
池田大作の大風呂敷にも限度が有ろうというものです。ニセ戒壇正本堂が、仏教三千年史上空前の偉業とは、御本仏大聖人様の流罪・死罪の大難を忍び給うた忍難慈勝の御化導を鼻であしらい、高上りが過ぎるあまり、もはや池田大作は、制御の効かないところまで天狗になっていたのであります。
また日達管長の後を狙っていたあの阿部教学部長は、宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、初めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)と。
後に日顕を名乗る邪僧は、池田に対する胡麻磨り三昧の諛言を垂れ流し、池田の歓心を得ようとして、御本仏大聖人様を裏切り、ニセ戒壇正本堂を指して「宗祖大聖人の御遺命の事の戒壇」などと明言していたのであります。
それに続く佐藤慈英宗会議長の云く「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊とすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座います」(大日蓮 昭和42年11月号)と。
つづけて椎名法英宗会議員「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」(同前)と。
更に菅野慈雲宗会議員「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。
このように当時の宗門は、上は日達管長から下は平僧は云うに及ばず、所化小僧の一人に至るまで、ニセ戒壇正本堂を指して「事の戒壇の成就だ」やれ「広宣流布の達成だ」などとバカ騒ぎをしていたのであります。
まさにこの様は、古代中国の趙高が鹿を帝に献じた時、居並ぶ群臣は趙高の威を恐れて鹿を馬と言ったと云う。当時の宗門僧侶の管長をはじめすべての僧侶は、池田大作の威を恐れる余り、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の「事の戒壇」と叫び、先を争って御本仏大聖人様への信を投げ捨て忠誠を破り、謗法に与道に与したのであります。之を称して馬鹿というのだそうです。
しかしながら、六十六代以前の歴代先師上人は、日達管長のような邪義は片鱗たりとも口にしてはいません。
云く「時に戒壇建立は宗門の一大事なり」(五十六代日応上人・御宝蔵説法)と叫ばれていたのであります。
また「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり、国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(六十四代日昇上人・御宝蔵説法)と仰せられています。
更に、上代の三十一代の日因上人は「本門の御本尊堂は広宣流布の時之を建立す。故に当山但祖師堂ばかりなり。乃至、若し国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事御遺状の面に分明なり。乃至、故に知りぬ、本門寺建立並びに御本尊堂造営、正しく広宣流布の時にあるなり」(物語抄)と仰せられています。
つづけて 四十八代日量上人戒壇の大御本尊の謂われを説き給いて云く「現今富士大石寺宝庫にあり、豈現証分明なるに非ずや、右御遺語に任せ、事の広宣流布の時を待ち奉るなり、それまでは富士山大石寺即ち本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)と。
つづけて五十二代の日霑上人云く「滅後一切衆生の為、事の広宣流布の時、大戒壇堂に掛け奉るべき設けとして顕わし給いて云々」(富士要集問答)と、本門戒壇建立は、異口同音に広宣流布の時と定め給うておられるのであります。
その時、先師上人方のこれ等の仰せを思い出され、御本仏大聖人の仰せられる御金言が耳朶を打ち、身の破るるをも顧みず「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送呈されて、宗門諫暁に立たれたのは、妙信講の浅井昭衛氏唯一人だったのであります。
御本仏大聖人の仰せには「法を破る者を見て責めざるは仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)と。
つづけて「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是の如く受持し擁護すべし」(立正安国論)と。
また云く「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」(選時抄)と。
更に「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)と。
ところが、浅井昭衛氏から諫められた日達管長は、浅井昭衛氏に会えば、「妙信講の意見は尤もであり正しい」というかと思えば、学会の池田に会えば「正本堂は広宣流布の『事の戒壇』であります」などと諂って、大聖人様に背逆した邪義を述べる等、浅井昭衛氏はこの様を死して、日達管長は、まさに風にそよぐ葦のごとくだったと述懐しておられました。
そのような腹の座らない日達管長の煮え切らない態度に業を煮やした池田大作は、学会員の本山登山を激減させて、宗門の収入を減殺するという風に、本山を兵糧攻めにして日達管長を追い詰め、宗門に対する学会の生殺与奪の威力を見せつけたのであります。
それ以来、池田の意向に諂った日達管長は、昭和49年8月12日付けを以って、大聖人様が立正安国論で仰せの正義を叫び続けてきた、妙信講を講中解散処分に付してしまったのでありますが、それ以後の日達管長の言動は「毒を食らわば皿までも」の例えの通り、是れが果たして大聖人嫡流の正系門家の貫主上人の言葉かと疑うような、言動を繰り返すようになるのであります。
云く「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、一期弘法抄に云う処の戒壇は理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実の世に於いて我々は信心の誠を捧げて行かなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)等と。
是れが果たして、猊座にあった貫主上人の言葉かと疑いを持つものであります。拙者は、日達管長の大聖人様に対し奉る信心を改めて疑うものであります。
云く「現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう」
云く「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」
何たる言い草でありましょうか! 日達管長という人は、池田大作と共謀して「舎衛の三億」なる詭弁を弄した悪僧であれば、広宣流布への確信も、国立戒壇の実現が確信できなかったのも当然かもしれないのであります。したがって如説修行抄の「吹く風枝をならさず、雨壊を砕かず」等の仏様の金文は、初めから信じていなかったのであります。それにしても、是れが猊座にあった方のことばとしては、まことに悲しい思いであります。
何度も言いますが「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、悪ガキの捨て台詞にも似た、笑うべき没論理であります。
いま御本仏日蓮大聖人の嫡流を誇っていた日蓮正宗の信心に、一切の功徳が無くなり、一人の成仏も叶わなくなった根本原因は、悪僧日達に依ってもたらされた事が良く理解できるものと思います。
云く「それまで本山に来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、誰人に対して発した暴言かと云いますと、これは当時、国立戒壇を宣揚する妙信講員に浴びせた悪言だったのであります。ところがその後、悪僧日達の尻馬に乗ってはしゃぎ廻っていでいた法華講員は、あれ以来、本山にお百度踏んで御開扉を何回受けようとも、一人の成仏も叶わなくなって終っていたのであります。是れ因果応報、還著於本人の現罰であります。
あの魔の殿堂たるニセ戒壇正本堂は、跡形もなく取り壊したとはいうものの、肝心要の三大秘法の教義歪曲を糺さない限り、罪障のみを積み重ねるだけで、すべてが空転、水泡に帰してしまうのであります。