本項は、坊主らが①~⑧まで述べている「摧破異流義考」(P.125~127)に記された「浅井の謗法与同は厳たる事実」と題して、これが浅井氏に対する誹謗記事は下記の①~⑧のになっています。坊主らは、これを以て「摧破異流義考」を終稿していますが、それに依りますと、最高幹部にまで登りつめた、村岡長治氏と海老原秀夫氏の脱会問題を取り上げて、顕正会を貶め、浅井氏を臆病人として、恰もその事実を見て来たような誹謗記事を書いています。
⑧云く「浅井等は、『法華ジャーナル』の件について、当時の事情を知る村岡長治氏(顕正会総務まで務めた人物、昭和六十一年に脱会)が会内におらぬことをよいことに、『この真相は、邪宗の雑誌「法華ジャーナル」が、顕正新聞を入手して勝手な記事を書いたもので、インタビューなど行われていない』等の嘘を並べ、会員達を欺いている。本件の真相をいえば、『法華ジャーナル』誌によるインタビューは顕正会本部二階において行われ、これには浅井昭衛にお伺いをたてて答え(臆病な浅井は、同記者までが学会の回し者かもしれぬという、異常な猜疑心を懐き、自らは奥に潜んで、村岡氏に応対させた)、その際、『記事を書く参考に』ということで顕正新聞や写真を同記者に提供したものである」と。
上記の文面を読むかぎり、坊主らの指摘は極めて具体的であるため「法華ジャーナル」のインタビューを村岡長治氏が受けたとする記事は、あるいはそれらしき事実があったのかも知れませんが、全てを鵜呑みにすることは出来ないのであります。その故は、当時、東武東上線の常盤台駅の近くにあった妙信講本部の二階といえば、畳約五十~六十畳敷きの大広間の礼拝室になっていた所であります。そのような神聖な場所に、邪教の主催する法華ジャーナルの記者を迎え入れて応待する筈は絶対にないのであります。まして、法華ジャーナルの取材記者は、二十才そこそこの駆け出しの若造であるならば、浅井会長がその場にのこのこ出て行真面目に相手にする筈は絶対に有り得ないのであります。坊主らの説明に依ると法華ジャーナルは、邪教教団が発行する三流機関誌で、特に国立戒壇を高らかと掲げる、妙信講を目の敵にしている雑誌の記者であれば尚更のことであります。
当時の妙信講の会長といえば、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇を捨てた宗門と創価学会の邪義を完膚なきまでに追及し、口をして鼻の如く黙らしめ、富士門流七百年の正義を顕揚されて、三大秘法義の何たるかを正しく御示しになられた宗内稀有の存在であります。それを「自らは奥に潜んで、村岡氏に応対させた」などと悪意を以て宣伝するほうが、余ほど異常なのであります。
憶測の域を出ない拙者の想像でありますが、村岡氏が脱会後に、顕正会憎しのあまり、有りもしない尾ひれを付けて内幕を暴露しのでしょうか? 謎の残る話であります。
つづけて坊主の云く「こうした経緯など誰も知らぬであろうくらいに思って『勝手に記事にされた』などの図々しい嘘はやめてほしいものである。そのうえ、『当時の状況など、その時二十才そこそこだったチンピラのかけだしに何がわかるか』などと息巻くのもよろしいが、この悪文の著者ということになっている海老原秀夫君自信が、当時わずか十才そこそこの稚児であったこをと忘れてもらっては困る。もし海老原君が本当に著者であるなら、同君は、よほどの馬鹿という他ないが・・・・なおまた、浅井等は、元僧侶の浜中和道も『法華ジャーナル』の取材に応じたとして、『浜中を監督していた細井管長は何故黙っていたのか。細井管長こそ謗法与同』などと、日達上人に対し言い掛かりをつけているが、御法主が、いちいち全教師の行動を視ておられるわけがなかろう。宗門の規模と御法主及び教師の立場を知らぬにも程がある。また、浜中が、真に御法主に信伏随従しきれていたならば、後に破門されることもなかったわけで、いかに浜中の粗捜しをしたところで、それが日達上人の非になど結びつかぬと知るべきである」等と。
ここで坊主らが指摘しているごとく「勝手に記事にされた」とか「当時の状況など、その時二十才そこそこだったチンピラのかけだしに何がわかるか」等と顕正会が反論した文面は「浅井昭衛氏が海老原秀夫氏の名前を語って書いた俗悪文」などとしているのでありますが、それも不可解な話であります。当時、妙信講から発刊されていた書籍は「顕正新聞」と「月刊誌・冨士」の二種類でありますが、浅井氏が一人で全ての執筆を引き受けていたのではなく、顕正新聞も冨士も、それぞれ大勢の執筆者が持ち場持ち場で、それぞれが手分けして、顕正新聞と冨士の執筆に当たっていたのであって、坊主が言い掛かりを付けているような事実は、全く存在しないのであります。
ここに出て来る海老原秀夫とか浜中和道、あるいは細井日達らは皆様おなじみの一応名の知れた面々でありますが、夫々が途中で挫折し道を誤った連中であります。
拙者が知る限りの海老原秀夫氏は、顕正会男子部のナンバーⅡと云われるほどの頭脳明晰の実力派として、名を馳せた人物であります。ところが、ある時彼はまことに不穏当な発言をした事が災いしたか、それから間もなくして、姿を消してしまったような記憶があります。
その不穏当な発言とは、彼云く「七百年の伝統ある正系門家の宗門が信徒団体創価学会・池田大作の圧力で、大聖人一期の御遺命である国立戒壇を永久に放棄してしまった。その間違いを一人糺されたのが他ならぬ浅井先生なのであります。まさにこの闘いは、戦艦にイカダで立ち向かうような闘いだったのであります。正しくこの闘いを振り返る時、先生の闘いは青天の霹靂であります」(趣意)と。
頭脳明晰の実力派と謳われた海老原秀夫氏にしては、真にお粗末というか、非常識というか「青天の霹靂」という言葉の使い方を完全に誤ってしまったのであります。それが彼の脱会の引き金なったか、どうかは与り知らぬところでありますが、いずれにしても残念な事象でありました。
次に浜中和道でありますが、学会に反旗を翻して、学会壊滅の急先鋒と云われた弁護士の山崎正友と正信会に寝返りを打った浜中和道は、ともにタッグを組んで学会潰しに奔走していたのでありますが、学会擁護の日達の不興を買って、日達から破門処分を受けているのであります。
後に浜中和道の妻と山崎の男女関係が発覚し、浜中は山崎と犬猿の仲となって、袂を別つことになるのでありますが、浜中の人生は愛する女房に逃げられ、不幸の見本のような人生で、踏んだり蹴ったりでありました。一方、山崎も若い頃から腎臓病を患い入退院を繰り返していましたが、それが元で73歳で黄泉の国へ旅立つのであります。山崎が逝去した時、喪主となってその死に水を取ったのは、かつての浜中和道の女房だったその人であります。
次は細井日達でありますが、昭和三十四年十一月十六日丑寅の刻に、先代の日淳上人から唯授一人の血脈相承を受け、第六十六世の法灯を継ぐのであります。登座直後は、御本仏大聖人様の弟子として、日淳上人同様、堂々と広宣流布の暁の本門戒壇=国立戒壇を次の如く叫んでいたのであります。
云く「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。
つづけて「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。
ところが、池田大作に対する諂いが高じて来ると「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」(昭和45年5月3日 創価学会33回総会)等と、今までとはまるで真逆なことを言い出したのであります。
亦云く「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 201号)と。
日達が言うようにニセ戒壇正本堂なる建物が出来た時が広宣流布だとは矛盾の極みであります。このようなこじつけをして、三大秘法を根こそぎ破壊するよな邪義を展開すが故に、取り返しのつかない大罰を被り、恥を末代に晒す結果を招くことになるのであります。
この悪坊主は昭和54年7月22日の払暁、入院中のフジヤマ病院で誰に看取られることもなく、突然襲い掛かってきた心臓の痛みと激烈な腹痛に見舞われ、七転八倒の末、あえなく黄泉の国へ旅立つ羽目に追いやられるのであります。是れ現罰・仏罰であります。
さらに坊主らは「笑うべき浅井等の感覚」と題して
云く「以上、八項目にわたって述べてきたが、浅井等の悪文のうち、かろうじて反論の体をなしている箇処すら、かくのごとく嘘で塗り固められており、このうえ、さらに口汚い悪口雑言を全編にわたって並べ立てられているものだから、『一読して、その低俗さに吐き気をもよおした』との感想を語る人が多いのもうなづける。かかる俗悪文をもって『粉砕した』などと称し、無知な会員を欺いて、ついに法義論争から逃避を決め込んでしまった浅井等の腰抜けぶり、大いに笑うべきである(その後、この俗悪文の筆者とされた海老原君は、顕正会を脱会してしまったという)。いずれにせよ、浅井昭衛との法義論争については、誰の目にも決着が明らかになったものと確信する故、ここに浅井一派の敗北確定を宣言し、擱筆する」として本項を終えていますが、
坊主らが書き記した文面に目を通しますと「かくのごとく嘘で塗り固められており、このうえ、さらに口汚い悪口雑言を全編にわたって並べ立てられているものだから『一読して、その低俗さに吐き気をもよおした』との感想を語る人が多いのもうなづける」等とする文面は、そっくり坊主らにお返ししたくなるような、低俗にして野卑な言葉で綴られています。これが今日の日蓮正宗の坊主の実態であります。
これ等の坊主らには、もはや広宣流布へ向けての止み難い情熱の一欠けらも持ち合わせていない事を感じさせるばかりか、富士門流だけに伝わってきた、大聖人様の三大秘法を清く正しく令法久住し、命懸けで仏法を聊かも汚してはならないという、峻厳な犯し難い気迫も、清楚な気品すらも感じられないのであります。
今後彼らは仏法を何処へ持って行こうとしているのでしょうか、あるいは亦、どこまで汚せば気が済むというのでしょうか。一刻を争って富士の清流を取り戻さない限り、宗門ばかりか、このままでは、早晩国家が危うくなるのであります。
神国王御書に云く「王法の曲るは小波小風のごとし、大国と大人をば失いがたし、仏法の曲るは大風大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるること疑いなし」と。
⑧云く「浅井等は、『法華ジャーナル』の件について、当時の事情を知る村岡長治氏(顕正会総務まで務めた人物、昭和六十一年に脱会)が会内におらぬことをよいことに、『この真相は、邪宗の雑誌「法華ジャーナル」が、顕正新聞を入手して勝手な記事を書いたもので、インタビューなど行われていない』等の嘘を並べ、会員達を欺いている。本件の真相をいえば、『法華ジャーナル』誌によるインタビューは顕正会本部二階において行われ、これには浅井昭衛にお伺いをたてて答え(臆病な浅井は、同記者までが学会の回し者かもしれぬという、異常な猜疑心を懐き、自らは奥に潜んで、村岡氏に応対させた)、その際、『記事を書く参考に』ということで顕正新聞や写真を同記者に提供したものである」と。
上記の文面を読むかぎり、坊主らの指摘は極めて具体的であるため「法華ジャーナル」のインタビューを村岡長治氏が受けたとする記事は、あるいはそれらしき事実があったのかも知れませんが、全てを鵜呑みにすることは出来ないのであります。その故は、当時、東武東上線の常盤台駅の近くにあった妙信講本部の二階といえば、畳約五十~六十畳敷きの大広間の礼拝室になっていた所であります。そのような神聖な場所に、邪教の主催する法華ジャーナルの記者を迎え入れて応待する筈は絶対にないのであります。まして、法華ジャーナルの取材記者は、二十才そこそこの駆け出しの若造であるならば、浅井会長がその場にのこのこ出て行真面目に相手にする筈は絶対に有り得ないのであります。坊主らの説明に依ると法華ジャーナルは、邪教教団が発行する三流機関誌で、特に国立戒壇を高らかと掲げる、妙信講を目の敵にしている雑誌の記者であれば尚更のことであります。
当時の妙信講の会長といえば、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇を捨てた宗門と創価学会の邪義を完膚なきまでに追及し、口をして鼻の如く黙らしめ、富士門流七百年の正義を顕揚されて、三大秘法義の何たるかを正しく御示しになられた宗内稀有の存在であります。それを「自らは奥に潜んで、村岡氏に応対させた」などと悪意を以て宣伝するほうが、余ほど異常なのであります。
憶測の域を出ない拙者の想像でありますが、村岡氏が脱会後に、顕正会憎しのあまり、有りもしない尾ひれを付けて内幕を暴露しのでしょうか? 謎の残る話であります。
つづけて坊主の云く「こうした経緯など誰も知らぬであろうくらいに思って『勝手に記事にされた』などの図々しい嘘はやめてほしいものである。そのうえ、『当時の状況など、その時二十才そこそこだったチンピラのかけだしに何がわかるか』などと息巻くのもよろしいが、この悪文の著者ということになっている海老原秀夫君自信が、当時わずか十才そこそこの稚児であったこをと忘れてもらっては困る。もし海老原君が本当に著者であるなら、同君は、よほどの馬鹿という他ないが・・・・なおまた、浅井等は、元僧侶の浜中和道も『法華ジャーナル』の取材に応じたとして、『浜中を監督していた細井管長は何故黙っていたのか。細井管長こそ謗法与同』などと、日達上人に対し言い掛かりをつけているが、御法主が、いちいち全教師の行動を視ておられるわけがなかろう。宗門の規模と御法主及び教師の立場を知らぬにも程がある。また、浜中が、真に御法主に信伏随従しきれていたならば、後に破門されることもなかったわけで、いかに浜中の粗捜しをしたところで、それが日達上人の非になど結びつかぬと知るべきである」等と。
ここで坊主らが指摘しているごとく「勝手に記事にされた」とか「当時の状況など、その時二十才そこそこだったチンピラのかけだしに何がわかるか」等と顕正会が反論した文面は「浅井昭衛氏が海老原秀夫氏の名前を語って書いた俗悪文」などとしているのでありますが、それも不可解な話であります。当時、妙信講から発刊されていた書籍は「顕正新聞」と「月刊誌・冨士」の二種類でありますが、浅井氏が一人で全ての執筆を引き受けていたのではなく、顕正新聞も冨士も、それぞれ大勢の執筆者が持ち場持ち場で、それぞれが手分けして、顕正新聞と冨士の執筆に当たっていたのであって、坊主が言い掛かりを付けているような事実は、全く存在しないのであります。
ここに出て来る海老原秀夫とか浜中和道、あるいは細井日達らは皆様おなじみの一応名の知れた面々でありますが、夫々が途中で挫折し道を誤った連中であります。
拙者が知る限りの海老原秀夫氏は、顕正会男子部のナンバーⅡと云われるほどの頭脳明晰の実力派として、名を馳せた人物であります。ところが、ある時彼はまことに不穏当な発言をした事が災いしたか、それから間もなくして、姿を消してしまったような記憶があります。
その不穏当な発言とは、彼云く「七百年の伝統ある正系門家の宗門が信徒団体創価学会・池田大作の圧力で、大聖人一期の御遺命である国立戒壇を永久に放棄してしまった。その間違いを一人糺されたのが他ならぬ浅井先生なのであります。まさにこの闘いは、戦艦にイカダで立ち向かうような闘いだったのであります。正しくこの闘いを振り返る時、先生の闘いは青天の霹靂であります」(趣意)と。
頭脳明晰の実力派と謳われた海老原秀夫氏にしては、真にお粗末というか、非常識というか「青天の霹靂」という言葉の使い方を完全に誤ってしまったのであります。それが彼の脱会の引き金なったか、どうかは与り知らぬところでありますが、いずれにしても残念な事象でありました。
次に浜中和道でありますが、学会に反旗を翻して、学会壊滅の急先鋒と云われた弁護士の山崎正友と正信会に寝返りを打った浜中和道は、ともにタッグを組んで学会潰しに奔走していたのでありますが、学会擁護の日達の不興を買って、日達から破門処分を受けているのであります。
後に浜中和道の妻と山崎の男女関係が発覚し、浜中は山崎と犬猿の仲となって、袂を別つことになるのでありますが、浜中の人生は愛する女房に逃げられ、不幸の見本のような人生で、踏んだり蹴ったりでありました。一方、山崎も若い頃から腎臓病を患い入退院を繰り返していましたが、それが元で73歳で黄泉の国へ旅立つのであります。山崎が逝去した時、喪主となってその死に水を取ったのは、かつての浜中和道の女房だったその人であります。
次は細井日達でありますが、昭和三十四年十一月十六日丑寅の刻に、先代の日淳上人から唯授一人の血脈相承を受け、第六十六世の法灯を継ぐのであります。登座直後は、御本仏大聖人様の弟子として、日淳上人同様、堂々と広宣流布の暁の本門戒壇=国立戒壇を次の如く叫んでいたのであります。
云く「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。
つづけて「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。
ところが、池田大作に対する諂いが高じて来ると「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」(昭和45年5月3日 創価学会33回総会)等と、今までとはまるで真逆なことを言い出したのであります。
亦云く「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 201号)と。
日達が言うようにニセ戒壇正本堂なる建物が出来た時が広宣流布だとは矛盾の極みであります。このようなこじつけをして、三大秘法を根こそぎ破壊するよな邪義を展開すが故に、取り返しのつかない大罰を被り、恥を末代に晒す結果を招くことになるのであります。
この悪坊主は昭和54年7月22日の払暁、入院中のフジヤマ病院で誰に看取られることもなく、突然襲い掛かってきた心臓の痛みと激烈な腹痛に見舞われ、七転八倒の末、あえなく黄泉の国へ旅立つ羽目に追いやられるのであります。是れ現罰・仏罰であります。
さらに坊主らは「笑うべき浅井等の感覚」と題して
云く「以上、八項目にわたって述べてきたが、浅井等の悪文のうち、かろうじて反論の体をなしている箇処すら、かくのごとく嘘で塗り固められており、このうえ、さらに口汚い悪口雑言を全編にわたって並べ立てられているものだから、『一読して、その低俗さに吐き気をもよおした』との感想を語る人が多いのもうなづける。かかる俗悪文をもって『粉砕した』などと称し、無知な会員を欺いて、ついに法義論争から逃避を決め込んでしまった浅井等の腰抜けぶり、大いに笑うべきである(その後、この俗悪文の筆者とされた海老原君は、顕正会を脱会してしまったという)。いずれにせよ、浅井昭衛との法義論争については、誰の目にも決着が明らかになったものと確信する故、ここに浅井一派の敗北確定を宣言し、擱筆する」として本項を終えていますが、
坊主らが書き記した文面に目を通しますと「かくのごとく嘘で塗り固められており、このうえ、さらに口汚い悪口雑言を全編にわたって並べ立てられているものだから『一読して、その低俗さに吐き気をもよおした』との感想を語る人が多いのもうなづける」等とする文面は、そっくり坊主らにお返ししたくなるような、低俗にして野卑な言葉で綴られています。これが今日の日蓮正宗の坊主の実態であります。
これ等の坊主らには、もはや広宣流布へ向けての止み難い情熱の一欠けらも持ち合わせていない事を感じさせるばかりか、富士門流だけに伝わってきた、大聖人様の三大秘法を清く正しく令法久住し、命懸けで仏法を聊かも汚してはならないという、峻厳な犯し難い気迫も、清楚な気品すらも感じられないのであります。
今後彼らは仏法を何処へ持って行こうとしているのでしょうか、あるいは亦、どこまで汚せば気が済むというのでしょうか。一刻を争って富士の清流を取り戻さない限り、宗門ばかりか、このままでは、早晩国家が危うくなるのであります。
神国王御書に云く「王法の曲るは小波小風のごとし、大国と大人をば失いがたし、仏法の曲るは大風大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるること疑いなし」と。