摧破異流義考(P.52~54)に戒壇「建立の意味について」と題して、これが日蓮正宗の僧侶のいう言葉かと思うと、まさに世の中は「末法濁悪の未来」と仰せられた感を深くするのであります。邪義も屁理屈もここまでくると落胆を通り越して褒めてやりたいような気分になります。特に赤文字で示したところは、袈裟をまとった天下一品の詐話師のいう矛盾に満ちたウソと屁理屈であります。今回はこれら坊主の欺瞞と屁理屈に反論を加え、反省なき坊主が垂れ流す邪義を破折したいと思います。
坊主云く「なお、浅井は、正本堂建立に関して『未だ広宣流布の時至らざる以前に、究極の建物だけは建ててよい、という文証・道理があったら出してみよ。大聖人は広布の時を待てと仰せなれば、建物を先に建ててしまうことは御金言違背である』等々いっている。これも、たま一文一句に拘泥して、大聖人が、『本門寺の戒壇を建立』と仰せられた『建立』の二字を、ともかく『建築する』という狭い意味にのみ限定して思い込むからいけない。そもそも、『建立』という語の元意は、はじめて現れる、確立するの意であり、その用い方によって、さまざまな意味を表すのである。
たとえば『百六箇抄』の『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』(御書1699㌻)との御文における『建立』とは、建築することではなく、御本尊を安置するという意であるし、その他にも、御本尊の御図顕や、一国に仏法が広宣流布することを『建立』と表現された御文等、例を挙げれば枚挙に暇がない。について
坊主は偉そうに建立の意味について「安置する」「はじめて現われる」「確立する」の意などと偉そうに妙なご高説を垂れていますが、之が第一の間違いであります。大聖人様が百六箇抄での中で、「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」と仰せられている御文の意は、広宣流布の暁に最終的に建てられる本門寺の戒壇、即ち国立戒壇の建立に係わる事柄に限定遊ばされて「建立」と仰せられているのであります。それを平然と「安置」という軽い言葉に置き換えて本門寺の戒壇を軽賤するばかりか、偽戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇として建て「仏教三千年史上空前の偉業」などとバカ騒ぎしておきながら、その重大な誤りを単なる言葉の問題にすり替えて、仏法上の大罪を逃れようとすること事態狂喜の沙汰であります。今日の日蓮正宗の坊主の狡さをここに見るこ思いであります。
此処で坊主のいう「安置」という語彙には、軽賤した薄っぺらな意味しかありません。それに比べて「建立」と仰せられる語彙には、荘厳(そうごん)、厳か(おごそか)、重層(じゅうそう)、等の重みのある意味を含んでいます。日本語の語彙すら理解していない坊主だから偽戒壇正本堂を建てて、これを称して御遺命の本門寺の戒壇の本堂と詐称していたのであります。
参考までに日本国語辞典と広辞苑を開いて見ましたが、「建立」とは、1 「寺院や堂・塔などを建てること」「寺を建立する」2 「心の中である物事をつくり上げること」例えば、(兄さんは神でも仏でも…権威のあるものを―するのが嫌いなのです)等と記されていますように「建立」の意味を「安置」「はじめて現われる」「確立する」などと解釈して、いまだに大謗法を犯しながら、したり顔しているのは日蓮正宗の坊主くらいのものなのです。
序でに一言つけ加えれば、「『建立』の意を「安置」「はじめて現れる」「確立する」と表現された御文等、例を挙げれば枚挙に暇がない」等と知ったかぶりを鼻にかけていますが、それほど多くの例文があるなら、例文の一つでも示して貰いたいものであります。
つづけて坊主云く「しからば、御遺命の『本門寺の戒壇を建立』という場合はいかん、というに、その主たる意味は、建築物を建てること自体の重要性を示されたものではなく、まさしく、公布の時至って、一閻浮提の人々が大御本尊まします本寺に詣でるならば、事の戒法の大功徳がはじめて全世界に光被する、という本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存するのである。」について
ここで坊主の邪義を一瞥すると、広宣流布の暁に本門寺の戒壇を建立する国家的最大事を「建築物を建てること自体の重要性を示されたものではなく」等と、とんでもない勝手な断定を下していますが、頭破七分の坊主には本門寺の戒壇を建てて、根源の御本尊様を日本国の柱として尊崇申し上げる意義がまったく理解できていないのであります。本門寺の戒壇とは、尊極無上の戒壇の御本尊様が末法万年の尽未来歳まで永遠にお住まいになられる住居のことであります。そんな大事が理解できないで坊主の何処に、ただ飯を食らって富士門流の袈裟を着する資格があるというのでしょうか!
御本尊様と吾々凡夫を同列に並べて論ずるは不見識の誹りを免れませんが、迷いの凡夫に取っても、吾々が生きていく上に於いて、食・衣・住といわれる三大要素の一つである住居は、決して欠くことのできない大切な要素の一つであります。坊主らは出家した時からただ飯を食いながらまじめに勉強することもせず、寺に無償で住み着いているからその大事が理解できず、戒壇の大御本尊様のお住まいは、何処でも構わないくらいに考えている性か、偽戒壇正本堂に戒壇の御本尊様を押し込め奉って、平然として暴言が吐けるのであります。是れを称して軽賤謗法というのであります。
それでいて「一閻浮提の人々が大御本尊まします本寺に詣でるならば、事の戒法の大功徳がはじめて全世界に光被する、という本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存するのである」とは呆れましたね。ここで言う「大御本尊まします本寺」とは、何を意味するものでしょうか? 国立戒壇を建てて戒壇の大御本尊様を国家を挙げて尊崇せずして「事の戒法の大功徳が全世界に光被する」なんて絶対に有り得ない話であります。それでいて「本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存する」なんてバカげた話であります。そもそも「本門寺の戒壇」とは私的な戒壇ではなく、国家的に建立する国立戒壇のことであります。
大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇に目を剥いて反対している坊主には、四十九院申状で仰せられる「夫れ仏法は王法の崇尊によって威を増し、王法は仏法の擁護によって長久す」の意味がまったく理解できていないのであります。
さらに坊主云く「しかるを、建物を先に建てるか、後に建てるか、などという論議に固執する浅井は、本宗信仰の根本がまったく身に染まっていなかったか、あるいは勝他の念から何かと難癖をつけんとする修羅の境涯に住しているのか、いずれにせよ幼稚この上ない人間ではある。」について
坊主が今頃になって「建物を先に建てるか、後に建てるか、などという論議に固執する浅井」とは、おかしな話であります。彼らは広宣流布の兆しもないうちから偽戒壇正本堂なる化け物のような建物を建てて、広宣流布は達成したなどと酒宴を張って大騒ぎをして喜んでいたのであります。そんな坊主が浅井氏をやり玉に挙げて「本宗信仰の根本がまったく身に染まっていなかった」とか「勝他の念から何かと難癖をつけんとする修羅の境涯に住している」などと言えた柄ではありません。妙信講の浅井昭衛氏こそ、曲がり行く富士門流の姿を憂いて一人身を捨てて諫暁に立たれたのであります。その人に対して「幼稚この上ない人間」などと眼を三角にして誹謗していますが、幼稚で能なしなのは袈裟を着た坊主の方なのです。
坊主云く「また、かくえいば、浅井は、『戒壇建立の手続きたる「勅宣並びに御教書」はどうした、国家意思の表明なくして戒壇は建たぬ』 等というのであろうが、幾度も述べているように本門寺戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄なのであり、また、その時に重要なのは、広宣流布の達成という厳たる事実であって、それが自ずから国家意思を表すことに通じていくともいえよう。」について
またまた、坊主は今頃になって「本門寺戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄」とか「広宣流布の達成という厳たる事実」等と解ったような台詞を並べていますが、本門寺の戒壇の顕現は広宣流布が達成された時に初めて実現するのであります。そんな分かりきった事をねじ曲げて広宣流布は達成したとして大騒ぎをしていた坊主が、「今頃になって本門寺の戒壇の顕現は、未だ将来に属する事柄」とは驚きを通りこして開いた口がふさがりません。
思い出したくもありませんが坊主らは、舎衛の三億、つまり日本の総人口の三分の一が信心することで広宣流布は達成だとして、広宣流布の定義を改変したのは悪僧日達管長だったのですが、坊主らはそれ以前から偽戒壇正本堂を事の戒壇の顕現等と称して、信徒を騙し国家をだまし大宣伝していたのであります。その者たちが今頃になって「自ずから国家意思を表すことに通じていくともいえよう」などと分かったようなご高説を垂れていますが、厚顔無恥もここまで来れば立派なものであります。たったの三分の一の人たちの入信で「国家意思を表すことに通じていく」といえるのでしょうか、いったい坊主のオツムはどうなっているのでしょうか!
また坊主云く「大切なのは、勅宣を出すために天皇制を復活させることでもなければ、幕政下における御教書を今日の国会の決議であるなどとこじつけることでもなく、まず一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立することである。また、『時を待つべきのみ』の御金言のままに、かかる状態が確立するときの早からんことを待望して、折伏弘教に挺身し続けている我が日蓮正宗は、浅井ごときに時代錯誤の守文の徒から、御遺命破壊などと誹謗されるべき謂われは何ひとつとしてないのである。」について
坊主らは大聖人様が三大秘法抄で仰せられる「勅宣並びに御教書」を捉えて「勅宣を出すために天皇制を復活させることでもなければ、幕政下における御教書を今日の国会の決議であるなどとこじつけることでもない」等とバカげたことを書き連ねていていますが、それは完全な思い違いであります。今日の民主政体においても、天皇陛下の勅宣(みことのり)は、厳然と発せられているのであります。
「勅宣」を現代的に約せば、天皇陛下の発せられる「詔勅」のことであり、平易に申し上げれば天皇が発せられる「御言葉」を文書化したものを「勅宣」あるいは「詔勅」と云うのであります。次に「御教書」とは当時でいえば、幕府の発する「命令書」のことであります。専制下においては、幕府の発する命令書によって国の意思決定が為されていました。ところが現代では国家としての国家意思の表明は、国の最高の決議機関であるところの国会で決められているのでありますが、坊主はそれを「こじつけ」などと非難しているのであります。議会制民主主義国家において、国会の議決以外の方法で国家意思の表明を顕わす手段があるとしたら、その方法を具体的に示すべきであります。バカ坊主もここまで来れば救いようがありません。
未だ三分の一以上の入信では「一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立すること」などできないのであります。結句は残るところの三分の二を折伏して、広宣流布を実現しなければ「確たる状態を確立する」には至らないのでありますが、悪僧日達と坊主らの主張は、池田大作流の舎衛の三億説に与同して、三分の二を折伏する必要はなく、「三分の一の折伏で広宣流布は達成、確たる状態の確立が成る」と言っているのであります。
坊主云く「自らの偏狭さを省みることも能わず、とんでもない言いがかりをつけるのはたいがにするがよかろう。しかも、こうした恐るべき増上慢の上から、さらに邪推に邪推を重ねた浅井は、『日達上人が御遺命を破壊して正本堂を建立したのは学会の権力への諂いであり、公布の解釈をごまかしておいて、公布でもないのに昭和六十五年に大石寺を本門寺に改称せん、との大陰謀が今なお宗門ぐるみで進められている』等、甚だ勝手な憶測に基づく筋書きを作り出している。」そして、『顕正会が日蓮正宗にあるかぎり、このような誑惑の完結は断じて許さない』等と、優宗護法の士を気取って激をとばしているのである。」について
坊主が指摘していますように、悪僧日達は似非信徒の池田大作に諂い、大聖人様の御遺命たる国立戒壇を永久放棄して広宣流布を誤魔化し、まったく功徳のない無気力な宗門にならしめたのは事実であります。そのうえ三分の一の折伏も達成しないうちから、昭和六十五年には大石寺の寺号を富士山本門寺へと改称すべく、着々と準備を整え、その下地を作ったのは他ならぬ悪僧日達だったのであります。その証拠を示します。
日達云く「日本国の全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、その時こそ日本一国は広宣流布したと申し上げるべきであると、思うのであります。その時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります」(大日蓮 昭和50年1月号)と。
それを受けて日顕云く「御法主上人猊下には、昨年十一月十七日の創価学会の本部総会において、広宣流布は近きにありと高唱あそばされ、日本全国民衆の三分の一が純真かつ確実な信心を持った時は広宣流布であり、またその僧俗の関係首脳協議の上で本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南遊ばされました。----吾々正宗の僧俗は、本仏大聖人の御遺命たる一期弘法抄の『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』の金文が、七百年後の今日、現実にどのような形で実現されるものであるかを待ち望んでおりました。----このたびの大指針こそ、あらゆる点から考えて世界公布の一大基盤としての日本広布に関する、本仏大聖人の大慈悲に尤も適合し奉るものと拝するのであります。また大聖人の御遺命・御金言を、現実の広布の上に指南遊ばされる唯一人の御方こそ、血脈付法の法主上人にあられます。----国中の三分の一に満ちたとき、他の宗教や政治に対する圧力は微塵もなく----常楽をかなでる幸福な社会が顕われる事を確信いたします。また全信徒の指導者たる法華講総講頭・池田大作先生も至極お元気で、----猊下と宗門を常にお守りくださっておられます。この僧俗一致の姿こそ大本門寺建立につながる広布の基盤であります。吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、----邁進致そうではありませんか」(大日蓮 昭和50年1月号)と。
上記に見るように本門寺改称の大陰謀は、日達と日顕の諛言にあるとおりであります。池田に対するゴマすり三昧の日顯は悪僧日達が示した大指針に則って、現在の大石寺の寺号を本門寺へと改称すべく、池田と二人三脚でその実現を目指して、死に物狂いの奔走がここから始まるのであります。
この頃の池田大作の慢心は頂点に達し「昭和五十二年路線」といわれる教義逸脱問題を引き起こしてその責任を追及され、池田は会長職を辞任せざる得ない状況にまで追い込まれるのであります。当時池田の大謗法は、板御本尊の模刻事件にはじまり、南妙法蓮華経の商標登録、会長本仏論の出来等々これらの問題が次々と明るみにでて表面化してきたのであります。そこで坊主らは今こそ池田を追い落とす絶好のチャンスとして捉え、池田に反旗を翻す坊主が結集して檀徒会(後の正信会)を結成するに至るのであります。
そうしたところ、傲慢な池田は悪僧日達に詫びを入れて、昭和53年11月17日には、代表幹部二千名を率いてお詫び登山をしたのでありますが、問題はくすぶり続け、翌年の昭和54年4月24には創価学会の会長職と法華講総講頭を辞任せざるを得なくなり、第四代会長に北条 浩氏を選任し、名誉会長という職に退かざるを得ない状況に追い込まれています。
一方悪僧日達管長は、大聖人様の唯一の御本願たる国立戒壇を永久放棄し、富士門流七百年来の根幹教義を徹底して破壊するという、取り返しの付かない大罪を犯した咎で仏罰を被り、昭和54年7月22日の未明、入院中のフジヤマ病院で心臓病と腸不全を引き起こし、七転八倒の苦しみの中に壮絶な最期を遂げているのであります。猊座にあった者と雖もこんな非業の死を余儀なくされるとは、やはり謗法は怖いものです。
そうしたところ日達の急死を奇貨として、日顕を名乗る悪坊主が「考えて見たら昨年の4月15日に日達上人から唯受一人の相承を受けていたことを思い出した」等といって、自己申告の形で次期管長職に就いてしまったのでありす。さあ~それからが大変です。「日達管長~日顕への唯受一人の血脈相承の授受が無かったのではないか」という疑いから本山に在勤の坊主と、全国末寺の坊主らが一斉に騒ぎ出したのですが、日顕は此の騒ぎに乗じた坊主らの頸を片っ端から切りまくり、擯斥処分という最も重い処分を下して宗門追放に打って出たのです。その数200人を超したと言われています。
そうして昭和59年1月2日には、池田大作の55歳の誕生日を選んで、彼を再び法華講総講頭に任命し、日達が示した本門寺改称の条件である「僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ」の「信徒の指導者」を復活させているのであります。池田は偽戒壇が建設された年から7年後の昭和54年、いわゆる七つの鐘の年辺りから本門寺改称への陰謀を実現すべく、昭和65年に狙いを定めてこんな発言をしています。
池田云く「昭和54年(七つの鐘の年)から、もう十一年目までのばしてみると、その十一年目が正応十月十二日、いまの日蓮正宗総本山大石寺が創立されてから、ちょうど七百年目にあたります。----その年は、また不思議に昭和六十五年、1990年、創価学会創立六十周年、戸田先生の三十三回忌、またその年は、私は会長に就任して満三十年目です。これを目指して、まあー五十周年とかさ、七つの鐘の終りとか、七百遠忌とかあるが、そんなものはバーッと通り越して、それ一点に大きい焦点を内証に秘めて、再び創価学会の万年の完璧な礎を、そこに焦点として、築いて進みたい。----私の今の熱烈たる、真剣勝負はそこにあります」(昭和51年 学会本部総会)と。
その後、日顕は平成二年(昭和65年)の春、次のようにうちわばなしを得意になって披瀝しています。
日顕云く「九月に総講頭・池田先生の発願によりまして、まだこれは内定でありますが、だいたい判っていおることは、大文化祭をちょうど広くなったこの客殿の前の広場で行うことになっております。これにはずいぶん大勢の人達もみえることになっておりまして、池田先生の構想においては、下種の意味においてはできるだけ世界の著名人も聖域に参加させ、この盛儀を見せたいというようなこともあるようでありまして----」(大日蓮 平成2年2月号)と。
顕正会の浅井会長はそれを受けて、平成2年7月8日横浜アリーナにおいて本門寺改称の陰謀を粉砕するとして、二万人を結集して大総会を開きました。その時の浅井会長は「もし池田が本門寺改称を強行するならば、そのとき全顕正会員はこぞって大石寺に総登山して、二十万顕正会の全員が戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋め尽くし、信心の力を以て本門寺改称の陰謀を断固粉砕しようではないか、顕正会が日蓮正宗にある限り、このような、誑惑は断じて許さない。いや、大聖人がお許しあそばすわけがない。このような大それた悪事をなす者はまさに、『大謗法者』といわざるを得ない」と。叫んだのであります。
しかし坊主が指摘していますように浅井会長がこの時「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような、誑惑は断じて許さない」などと発言したことは大きな間違いだったことは認めざるを得ません。顕正会の浅井会長はこの時すでに、妙信講員との固い約束を反故にして、内の妙信講の名誉ある名を捨てて、勝手に外へ飛び出して宗門とは完全に縁を切り、顕正会へと名を変えて、坊さんが一人も居ない新興の在家教団へと変身していたのであります。
それは置くとして平成二年十月十二日、総本山に於いて大石寺開創七百年慶讃大法要が行われ、その席で池田は一世一代の夢であった現在の大石寺を「富士山本門寺」へと改称すべく、手に汗握り胸を躍らせ、登壇の機会を今やおそしと待っていました。池田の登壇の前に日顯は内陣の中央に進み出て、厳かに次のような訓示を垂れて、一世一代の池田の夢をぶち壊してしまったのであります。
日顕云く「宗祖大聖人は一期弘法抄に云く『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法と云ふは是れなり』と。この深意を拝孝するに、仏意の明鑑に基づく名実共なる大本門寺の寺号公称は、事の戒法の本義更に未来に於いて一天四海に光被せらるべき妙法流布の力作因縁に依るべし。然れば吾等淳善の仏子として、この開創七百年を機とし、一層の正法流布に邁進せんことを誓い奉る者なり」と。
さすがの悪僧日顕も、三分の一の折伏も成就しない段階で広宣流布を確定し、大石寺の寺号を富士山本門寺へと寺号の改変は、大聖人様への叛逆につながることを恐れたか、日顕らしい真にわかりにくい言葉の言い回しで池田の一世一代の夢の実現はこのとき絶たれ、頂点に上りつめた池田は見事に梯子を外されてしまったのであります。
この時行われた大石寺開創七百年慶讃大法要が失敗に終わったことが元で、宗門と創価学会が袂を分かつこととなり、修羅と悪龍の合戦、両者食うか、食われるか、の凄絶な戦いが始ったのは皆様のよく知るところであります。
坊主云く「しかし、門外漢の浅井昭衛よ、つまらぬ心配は無用である。すでに述べてきたように、宗祖御遺命は何ら破壊などされておらぬし、また、本宗に戒壇の大御本尊を血脈嗣法の御法主上人ましますかぎり、浅井のいうような〝昭和六十五年に本門寺への改称という大陰謀と誑惑の完結〟などの事態もありえぬのだから。そんな余計な心配より、異流義と成り果てた、自らの後生を、深刻に心配する方が急務であろう」等と記しています。
御本仏大聖人様の唯一嫡流を誇っていた富士門流の日蓮正宗の僧侶が、斯くも白々しいウソと邪義を並べ、未だにヌケヌケと一分の反省の色を見せない為体を見ると、まさに世は末世、末法濁悪の感を深くせざるを得ません。
昨今の世相を指摘するまでもなく、災害は年を経るごとに多発し、政治は腐敗して官僚は国民に平然と是れ又ウソをつく、道徳は乱れて凶悪犯罪は目を覆うばかりの惨状を呈しています。世の中のすべての悪の根源は、正宗坊主の教義歪曲にあることを今こそ味識すべきであります。そうした現実には我れ関ぜず、何処吹く風かを決め込み、年々再々やってくる大災害に多くの人々が命を落とし、家族を奪われ郷土を破壊されようとも、心を痛める僧侶は皆無となっているのであります。
立正安国論に大集経を引いて云く「仏法実に隠没せば、鬚髪爪(しゅほっそう)皆長く、諸法も亦忘失せん」と。
正しい仏法が一国社会から隠没すれば、人々の鬚(ひげ)、髪(かみ)、爪(つめ)、はだらしなく伸び、貪・瞋・痴(むさぼり)・(いかり)・(ぐち)の三毒は強盛となり、世間の道徳や国法も乱れると仰せであります。
また、御妙判に云く「仏法ようやく転動しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間は影のごとし、体曲がれば影ななめなり」と。
坊主云く「なお、浅井は、正本堂建立に関して『未だ広宣流布の時至らざる以前に、究極の建物だけは建ててよい、という文証・道理があったら出してみよ。大聖人は広布の時を待てと仰せなれば、建物を先に建ててしまうことは御金言違背である』等々いっている。これも、たま一文一句に拘泥して、大聖人が、『本門寺の戒壇を建立』と仰せられた『建立』の二字を、ともかく『建築する』という狭い意味にのみ限定して思い込むからいけない。そもそも、『建立』という語の元意は、はじめて現れる、確立するの意であり、その用い方によって、さまざまな意味を表すのである。
たとえば『百六箇抄』の『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』(御書1699㌻)との御文における『建立』とは、建築することではなく、御本尊を安置するという意であるし、その他にも、御本尊の御図顕や、一国に仏法が広宣流布することを『建立』と表現された御文等、例を挙げれば枚挙に暇がない。について
坊主は偉そうに建立の意味について「安置する」「はじめて現われる」「確立する」の意などと偉そうに妙なご高説を垂れていますが、之が第一の間違いであります。大聖人様が百六箇抄での中で、「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」と仰せられている御文の意は、広宣流布の暁に最終的に建てられる本門寺の戒壇、即ち国立戒壇の建立に係わる事柄に限定遊ばされて「建立」と仰せられているのであります。それを平然と「安置」という軽い言葉に置き換えて本門寺の戒壇を軽賤するばかりか、偽戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇として建て「仏教三千年史上空前の偉業」などとバカ騒ぎしておきながら、その重大な誤りを単なる言葉の問題にすり替えて、仏法上の大罪を逃れようとすること事態狂喜の沙汰であります。今日の日蓮正宗の坊主の狡さをここに見るこ思いであります。
此処で坊主のいう「安置」という語彙には、軽賤した薄っぺらな意味しかありません。それに比べて「建立」と仰せられる語彙には、荘厳(そうごん)、厳か(おごそか)、重層(じゅうそう)、等の重みのある意味を含んでいます。日本語の語彙すら理解していない坊主だから偽戒壇正本堂を建てて、これを称して御遺命の本門寺の戒壇の本堂と詐称していたのであります。
参考までに日本国語辞典と広辞苑を開いて見ましたが、「建立」とは、1 「寺院や堂・塔などを建てること」「寺を建立する」2 「心の中である物事をつくり上げること」例えば、(兄さんは神でも仏でも…権威のあるものを―するのが嫌いなのです)等と記されていますように「建立」の意味を「安置」「はじめて現われる」「確立する」などと解釈して、いまだに大謗法を犯しながら、したり顔しているのは日蓮正宗の坊主くらいのものなのです。
序でに一言つけ加えれば、「『建立』の意を「安置」「はじめて現れる」「確立する」と表現された御文等、例を挙げれば枚挙に暇がない」等と知ったかぶりを鼻にかけていますが、それほど多くの例文があるなら、例文の一つでも示して貰いたいものであります。
つづけて坊主云く「しからば、御遺命の『本門寺の戒壇を建立』という場合はいかん、というに、その主たる意味は、建築物を建てること自体の重要性を示されたものではなく、まさしく、公布の時至って、一閻浮提の人々が大御本尊まします本寺に詣でるならば、事の戒法の大功徳がはじめて全世界に光被する、という本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存するのである。」について
ここで坊主の邪義を一瞥すると、広宣流布の暁に本門寺の戒壇を建立する国家的最大事を「建築物を建てること自体の重要性を示されたものではなく」等と、とんでもない勝手な断定を下していますが、頭破七分の坊主には本門寺の戒壇を建てて、根源の御本尊様を日本国の柱として尊崇申し上げる意義がまったく理解できていないのであります。本門寺の戒壇とは、尊極無上の戒壇の御本尊様が末法万年の尽未来歳まで永遠にお住まいになられる住居のことであります。そんな大事が理解できないで坊主の何処に、ただ飯を食らって富士門流の袈裟を着する資格があるというのでしょうか!
御本尊様と吾々凡夫を同列に並べて論ずるは不見識の誹りを免れませんが、迷いの凡夫に取っても、吾々が生きていく上に於いて、食・衣・住といわれる三大要素の一つである住居は、決して欠くことのできない大切な要素の一つであります。坊主らは出家した時からただ飯を食いながらまじめに勉強することもせず、寺に無償で住み着いているからその大事が理解できず、戒壇の大御本尊様のお住まいは、何処でも構わないくらいに考えている性か、偽戒壇正本堂に戒壇の御本尊様を押し込め奉って、平然として暴言が吐けるのであります。是れを称して軽賤謗法というのであります。
それでいて「一閻浮提の人々が大御本尊まします本寺に詣でるならば、事の戒法の大功徳がはじめて全世界に光被する、という本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存するのである」とは呆れましたね。ここで言う「大御本尊まします本寺」とは、何を意味するものでしょうか? 国立戒壇を建てて戒壇の大御本尊様を国家を挙げて尊崇せずして「事の戒法の大功徳が全世界に光被する」なんて絶対に有り得ない話であります。それでいて「本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存する」なんてバカげた話であります。そもそも「本門寺の戒壇」とは私的な戒壇ではなく、国家的に建立する国立戒壇のことであります。
大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇に目を剥いて反対している坊主には、四十九院申状で仰せられる「夫れ仏法は王法の崇尊によって威を増し、王法は仏法の擁護によって長久す」の意味がまったく理解できていないのであります。
さらに坊主云く「しかるを、建物を先に建てるか、後に建てるか、などという論議に固執する浅井は、本宗信仰の根本がまったく身に染まっていなかったか、あるいは勝他の念から何かと難癖をつけんとする修羅の境涯に住しているのか、いずれにせよ幼稚この上ない人間ではある。」について
坊主が今頃になって「建物を先に建てるか、後に建てるか、などという論議に固執する浅井」とは、おかしな話であります。彼らは広宣流布の兆しもないうちから偽戒壇正本堂なる化け物のような建物を建てて、広宣流布は達成したなどと酒宴を張って大騒ぎをして喜んでいたのであります。そんな坊主が浅井氏をやり玉に挙げて「本宗信仰の根本がまったく身に染まっていなかった」とか「勝他の念から何かと難癖をつけんとする修羅の境涯に住している」などと言えた柄ではありません。妙信講の浅井昭衛氏こそ、曲がり行く富士門流の姿を憂いて一人身を捨てて諫暁に立たれたのであります。その人に対して「幼稚この上ない人間」などと眼を三角にして誹謗していますが、幼稚で能なしなのは袈裟を着た坊主の方なのです。
坊主云く「また、かくえいば、浅井は、『戒壇建立の手続きたる「勅宣並びに御教書」はどうした、国家意思の表明なくして戒壇は建たぬ』 等というのであろうが、幾度も述べているように本門寺戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄なのであり、また、その時に重要なのは、広宣流布の達成という厳たる事実であって、それが自ずから国家意思を表すことに通じていくともいえよう。」について
またまた、坊主は今頃になって「本門寺戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄」とか「広宣流布の達成という厳たる事実」等と解ったような台詞を並べていますが、本門寺の戒壇の顕現は広宣流布が達成された時に初めて実現するのであります。そんな分かりきった事をねじ曲げて広宣流布は達成したとして大騒ぎをしていた坊主が、「今頃になって本門寺の戒壇の顕現は、未だ将来に属する事柄」とは驚きを通りこして開いた口がふさがりません。
思い出したくもありませんが坊主らは、舎衛の三億、つまり日本の総人口の三分の一が信心することで広宣流布は達成だとして、広宣流布の定義を改変したのは悪僧日達管長だったのですが、坊主らはそれ以前から偽戒壇正本堂を事の戒壇の顕現等と称して、信徒を騙し国家をだまし大宣伝していたのであります。その者たちが今頃になって「自ずから国家意思を表すことに通じていくともいえよう」などと分かったようなご高説を垂れていますが、厚顔無恥もここまで来れば立派なものであります。たったの三分の一の人たちの入信で「国家意思を表すことに通じていく」といえるのでしょうか、いったい坊主のオツムはどうなっているのでしょうか!
また坊主云く「大切なのは、勅宣を出すために天皇制を復活させることでもなければ、幕政下における御教書を今日の国会の決議であるなどとこじつけることでもなく、まず一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立することである。また、『時を待つべきのみ』の御金言のままに、かかる状態が確立するときの早からんことを待望して、折伏弘教に挺身し続けている我が日蓮正宗は、浅井ごときに時代錯誤の守文の徒から、御遺命破壊などと誹謗されるべき謂われは何ひとつとしてないのである。」について
坊主らは大聖人様が三大秘法抄で仰せられる「勅宣並びに御教書」を捉えて「勅宣を出すために天皇制を復活させることでもなければ、幕政下における御教書を今日の国会の決議であるなどとこじつけることでもない」等とバカげたことを書き連ねていていますが、それは完全な思い違いであります。今日の民主政体においても、天皇陛下の勅宣(みことのり)は、厳然と発せられているのであります。
「勅宣」を現代的に約せば、天皇陛下の発せられる「詔勅」のことであり、平易に申し上げれば天皇が発せられる「御言葉」を文書化したものを「勅宣」あるいは「詔勅」と云うのであります。次に「御教書」とは当時でいえば、幕府の発する「命令書」のことであります。専制下においては、幕府の発する命令書によって国の意思決定が為されていました。ところが現代では国家としての国家意思の表明は、国の最高の決議機関であるところの国会で決められているのでありますが、坊主はそれを「こじつけ」などと非難しているのであります。議会制民主主義国家において、国会の議決以外の方法で国家意思の表明を顕わす手段があるとしたら、その方法を具体的に示すべきであります。バカ坊主もここまで来れば救いようがありません。
未だ三分の一以上の入信では「一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立すること」などできないのであります。結句は残るところの三分の二を折伏して、広宣流布を実現しなければ「確たる状態を確立する」には至らないのでありますが、悪僧日達と坊主らの主張は、池田大作流の舎衛の三億説に与同して、三分の二を折伏する必要はなく、「三分の一の折伏で広宣流布は達成、確たる状態の確立が成る」と言っているのであります。
坊主云く「自らの偏狭さを省みることも能わず、とんでもない言いがかりをつけるのはたいがにするがよかろう。しかも、こうした恐るべき増上慢の上から、さらに邪推に邪推を重ねた浅井は、『日達上人が御遺命を破壊して正本堂を建立したのは学会の権力への諂いであり、公布の解釈をごまかしておいて、公布でもないのに昭和六十五年に大石寺を本門寺に改称せん、との大陰謀が今なお宗門ぐるみで進められている』等、甚だ勝手な憶測に基づく筋書きを作り出している。」そして、『顕正会が日蓮正宗にあるかぎり、このような誑惑の完結は断じて許さない』等と、優宗護法の士を気取って激をとばしているのである。」について
坊主が指摘していますように、悪僧日達は似非信徒の池田大作に諂い、大聖人様の御遺命たる国立戒壇を永久放棄して広宣流布を誤魔化し、まったく功徳のない無気力な宗門にならしめたのは事実であります。そのうえ三分の一の折伏も達成しないうちから、昭和六十五年には大石寺の寺号を富士山本門寺へと改称すべく、着々と準備を整え、その下地を作ったのは他ならぬ悪僧日達だったのであります。その証拠を示します。
日達云く「日本国の全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、その時こそ日本一国は広宣流布したと申し上げるべきであると、思うのであります。その時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります」(大日蓮 昭和50年1月号)と。
それを受けて日顕云く「御法主上人猊下には、昨年十一月十七日の創価学会の本部総会において、広宣流布は近きにありと高唱あそばされ、日本全国民衆の三分の一が純真かつ確実な信心を持った時は広宣流布であり、またその僧俗の関係首脳協議の上で本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南遊ばされました。----吾々正宗の僧俗は、本仏大聖人の御遺命たる一期弘法抄の『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』の金文が、七百年後の今日、現実にどのような形で実現されるものであるかを待ち望んでおりました。----このたびの大指針こそ、あらゆる点から考えて世界公布の一大基盤としての日本広布に関する、本仏大聖人の大慈悲に尤も適合し奉るものと拝するのであります。また大聖人の御遺命・御金言を、現実の広布の上に指南遊ばされる唯一人の御方こそ、血脈付法の法主上人にあられます。----国中の三分の一に満ちたとき、他の宗教や政治に対する圧力は微塵もなく----常楽をかなでる幸福な社会が顕われる事を確信いたします。また全信徒の指導者たる法華講総講頭・池田大作先生も至極お元気で、----猊下と宗門を常にお守りくださっておられます。この僧俗一致の姿こそ大本門寺建立につながる広布の基盤であります。吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、----邁進致そうではありませんか」(大日蓮 昭和50年1月号)と。
上記に見るように本門寺改称の大陰謀は、日達と日顕の諛言にあるとおりであります。池田に対するゴマすり三昧の日顯は悪僧日達が示した大指針に則って、現在の大石寺の寺号を本門寺へと改称すべく、池田と二人三脚でその実現を目指して、死に物狂いの奔走がここから始まるのであります。
この頃の池田大作の慢心は頂点に達し「昭和五十二年路線」といわれる教義逸脱問題を引き起こしてその責任を追及され、池田は会長職を辞任せざる得ない状況にまで追い込まれるのであります。当時池田の大謗法は、板御本尊の模刻事件にはじまり、南妙法蓮華経の商標登録、会長本仏論の出来等々これらの問題が次々と明るみにでて表面化してきたのであります。そこで坊主らは今こそ池田を追い落とす絶好のチャンスとして捉え、池田に反旗を翻す坊主が結集して檀徒会(後の正信会)を結成するに至るのであります。
そうしたところ、傲慢な池田は悪僧日達に詫びを入れて、昭和53年11月17日には、代表幹部二千名を率いてお詫び登山をしたのでありますが、問題はくすぶり続け、翌年の昭和54年4月24には創価学会の会長職と法華講総講頭を辞任せざるを得なくなり、第四代会長に北条 浩氏を選任し、名誉会長という職に退かざるを得ない状況に追い込まれています。
一方悪僧日達管長は、大聖人様の唯一の御本願たる国立戒壇を永久放棄し、富士門流七百年来の根幹教義を徹底して破壊するという、取り返しの付かない大罪を犯した咎で仏罰を被り、昭和54年7月22日の未明、入院中のフジヤマ病院で心臓病と腸不全を引き起こし、七転八倒の苦しみの中に壮絶な最期を遂げているのであります。猊座にあった者と雖もこんな非業の死を余儀なくされるとは、やはり謗法は怖いものです。
そうしたところ日達の急死を奇貨として、日顕を名乗る悪坊主が「考えて見たら昨年の4月15日に日達上人から唯受一人の相承を受けていたことを思い出した」等といって、自己申告の形で次期管長職に就いてしまったのでありす。さあ~それからが大変です。「日達管長~日顕への唯受一人の血脈相承の授受が無かったのではないか」という疑いから本山に在勤の坊主と、全国末寺の坊主らが一斉に騒ぎ出したのですが、日顕は此の騒ぎに乗じた坊主らの頸を片っ端から切りまくり、擯斥処分という最も重い処分を下して宗門追放に打って出たのです。その数200人を超したと言われています。
そうして昭和59年1月2日には、池田大作の55歳の誕生日を選んで、彼を再び法華講総講頭に任命し、日達が示した本門寺改称の条件である「僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ」の「信徒の指導者」を復活させているのであります。池田は偽戒壇が建設された年から7年後の昭和54年、いわゆる七つの鐘の年辺りから本門寺改称への陰謀を実現すべく、昭和65年に狙いを定めてこんな発言をしています。
池田云く「昭和54年(七つの鐘の年)から、もう十一年目までのばしてみると、その十一年目が正応十月十二日、いまの日蓮正宗総本山大石寺が創立されてから、ちょうど七百年目にあたります。----その年は、また不思議に昭和六十五年、1990年、創価学会創立六十周年、戸田先生の三十三回忌、またその年は、私は会長に就任して満三十年目です。これを目指して、まあー五十周年とかさ、七つの鐘の終りとか、七百遠忌とかあるが、そんなものはバーッと通り越して、それ一点に大きい焦点を内証に秘めて、再び創価学会の万年の完璧な礎を、そこに焦点として、築いて進みたい。----私の今の熱烈たる、真剣勝負はそこにあります」(昭和51年 学会本部総会)と。
その後、日顕は平成二年(昭和65年)の春、次のようにうちわばなしを得意になって披瀝しています。
日顕云く「九月に総講頭・池田先生の発願によりまして、まだこれは内定でありますが、だいたい判っていおることは、大文化祭をちょうど広くなったこの客殿の前の広場で行うことになっております。これにはずいぶん大勢の人達もみえることになっておりまして、池田先生の構想においては、下種の意味においてはできるだけ世界の著名人も聖域に参加させ、この盛儀を見せたいというようなこともあるようでありまして----」(大日蓮 平成2年2月号)と。
顕正会の浅井会長はそれを受けて、平成2年7月8日横浜アリーナにおいて本門寺改称の陰謀を粉砕するとして、二万人を結集して大総会を開きました。その時の浅井会長は「もし池田が本門寺改称を強行するならば、そのとき全顕正会員はこぞって大石寺に総登山して、二十万顕正会の全員が戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋め尽くし、信心の力を以て本門寺改称の陰謀を断固粉砕しようではないか、顕正会が日蓮正宗にある限り、このような、誑惑は断じて許さない。いや、大聖人がお許しあそばすわけがない。このような大それた悪事をなす者はまさに、『大謗法者』といわざるを得ない」と。叫んだのであります。
しかし坊主が指摘していますように浅井会長がこの時「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような、誑惑は断じて許さない」などと発言したことは大きな間違いだったことは認めざるを得ません。顕正会の浅井会長はこの時すでに、妙信講員との固い約束を反故にして、内の妙信講の名誉ある名を捨てて、勝手に外へ飛び出して宗門とは完全に縁を切り、顕正会へと名を変えて、坊さんが一人も居ない新興の在家教団へと変身していたのであります。
それは置くとして平成二年十月十二日、総本山に於いて大石寺開創七百年慶讃大法要が行われ、その席で池田は一世一代の夢であった現在の大石寺を「富士山本門寺」へと改称すべく、手に汗握り胸を躍らせ、登壇の機会を今やおそしと待っていました。池田の登壇の前に日顯は内陣の中央に進み出て、厳かに次のような訓示を垂れて、一世一代の池田の夢をぶち壊してしまったのであります。
日顕云く「宗祖大聖人は一期弘法抄に云く『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法と云ふは是れなり』と。この深意を拝孝するに、仏意の明鑑に基づく名実共なる大本門寺の寺号公称は、事の戒法の本義更に未来に於いて一天四海に光被せらるべき妙法流布の力作因縁に依るべし。然れば吾等淳善の仏子として、この開創七百年を機とし、一層の正法流布に邁進せんことを誓い奉る者なり」と。
さすがの悪僧日顕も、三分の一の折伏も成就しない段階で広宣流布を確定し、大石寺の寺号を富士山本門寺へと寺号の改変は、大聖人様への叛逆につながることを恐れたか、日顕らしい真にわかりにくい言葉の言い回しで池田の一世一代の夢の実現はこのとき絶たれ、頂点に上りつめた池田は見事に梯子を外されてしまったのであります。
この時行われた大石寺開創七百年慶讃大法要が失敗に終わったことが元で、宗門と創価学会が袂を分かつこととなり、修羅と悪龍の合戦、両者食うか、食われるか、の凄絶な戦いが始ったのは皆様のよく知るところであります。
坊主云く「しかし、門外漢の浅井昭衛よ、つまらぬ心配は無用である。すでに述べてきたように、宗祖御遺命は何ら破壊などされておらぬし、また、本宗に戒壇の大御本尊を血脈嗣法の御法主上人ましますかぎり、浅井のいうような〝昭和六十五年に本門寺への改称という大陰謀と誑惑の完結〟などの事態もありえぬのだから。そんな余計な心配より、異流義と成り果てた、自らの後生を、深刻に心配する方が急務であろう」等と記しています。
御本仏大聖人様の唯一嫡流を誇っていた富士門流の日蓮正宗の僧侶が、斯くも白々しいウソと邪義を並べ、未だにヌケヌケと一分の反省の色を見せない為体を見ると、まさに世は末世、末法濁悪の感を深くせざるを得ません。
昨今の世相を指摘するまでもなく、災害は年を経るごとに多発し、政治は腐敗して官僚は国民に平然と是れ又ウソをつく、道徳は乱れて凶悪犯罪は目を覆うばかりの惨状を呈しています。世の中のすべての悪の根源は、正宗坊主の教義歪曲にあることを今こそ味識すべきであります。そうした現実には我れ関ぜず、何処吹く風かを決め込み、年々再々やってくる大災害に多くの人々が命を落とし、家族を奪われ郷土を破壊されようとも、心を痛める僧侶は皆無となっているのであります。
立正安国論に大集経を引いて云く「仏法実に隠没せば、鬚髪爪(しゅほっそう)皆長く、諸法も亦忘失せん」と。
正しい仏法が一国社会から隠没すれば、人々の鬚(ひげ)、髪(かみ)、爪(つめ)、はだらしなく伸び、貪・瞋・痴(むさぼり)・(いかり)・(ぐち)の三毒は強盛となり、世間の道徳や国法も乱れると仰せであります。
また、御妙判に云く「仏法ようやく転動しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間は影のごとし、体曲がれば影ななめなり」と。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます