亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

またまた邪義を垂れ流している

2017年08月15日 09時49分31秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義孝誌に坊主らは(P.31~34)日寛上人御教示について、と題して次の如く記してあります。

たま、日寛上人の『文底秘沈抄』には、本門戒壇を事・義に分かたれ、本門の本尊所住のところは義理が事の戒壇にあたるが故に、一般的に「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」(聖典849㌻)とせられ、さらに事の戒壇については、「正しく事の戒壇とは、一閻浮堤の人、懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して蹋みたもうべき戒壇なり」(聖典849㌻)として、根源の意を含ませつつも、次下に、『三大秘法抄』の広布の事相における戒壇の御文を、事の戒壇の文証として挙げられている。」について

当たり前ではありませんか! 何度も言うように、日寛上人は戒壇の大御本尊がおわします所を「義の戒壇」とせられ、正しく「事の戒壇」とは、広宣流布の暁の本門寺の戒壇を三大秘法抄の御文を引かれて「事の戒壇」と定義づけられているのであります。

亦「根源の意を含ませつつも、次下に、『三大秘法抄』の広布の事相における戒壇の御文を、事の戒壇の文証として挙げられている」との指摘は、贅言の典型であります。この先、こうした余計な拙文にお付き合いしなければならないと思うと気が重くなります。

しかしながら、この御教示とて、広布の事相における事の戒壇の根源には三秘総在の大御本尊がましますのであり、その三秘総在の大御本尊の所住、さらにいえば当体そのものが根源の事の戒壇であることと、何ら矛盾するものではない。「ただ、日寛上人の『六巻抄』における教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」について

坊主らの記述には贅言が過ぎます。その上矛盾撞着支離滅裂です。云く「しかしながら、この御教示とて、広布の事相における事の戒壇の根源には三秘総在の大御本尊がましますのであり、その三秘総在の大御本尊の所住、さらにいえば当体そのものが根源の事の戒壇であることと、何ら矛盾するものではない。」等と記していますが、この文章はいったい何を言わんとしているのか、なんど読んでも言語明瞭意味不明にして、同じ文言を並べ立てて得意満面のご様子ですが、さすがに謗法が過ぎるとこうした頭破七分の姿を曝け出して平然と構えることが出来るのでしょうか、謗法は真に怖いですね。

坊主らが偉そうに指摘するように、「『六巻抄』における教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」等としていますが、坊主ら何を学び、六巻抄の何処に目を通せばそんな事が書けるのでしょうか! 

此処で浅井昭衛氏が六巻抄の講義禄を発刊するにあたって、巻頭に述べられた一節を引用し、日寛上人が六巻抄を著わされた時代的背景とその目的並びに教学上の位置づけを確認し、特に、文底秘沈抄の中で仰せられた「義の戒壇」並びに「事の戒壇」の違いを詳らかにされた背景を見る事にします。

云く「申すまでもなく、日寛上人は日蓮正宗総本山大石寺第二十六世の御法主、そして不世出の大学匠であられる。いま上人の御出現の意義を思うに、上人は大聖人御入滅後三百八十余年に御出現、この時代は既に不相伝家における邪義が出尽くした時であった。ここに上人は、本迹迷乱の安国日講、種脱迷乱の広蔵日辰・癡山日饒等、国中の諸学者の邪義の根を断ち切り、日興上人以来の正嫡相伝の奥義を以て、御本仏日蓮大聖人の三大秘法の正義を余すところなく顕示され、後世に誤りなからしめ給うたのである。

まさしく日寛上人こそ、未来事の広宣流布に備えて、教学上の完璧なる御用意を遊ばすために出現された超凡絶倫の聖者と拝すべきである。そもそも大聖人御弘通の三大秘法は、寿量文底の秘法、最大深秘の正法、久遠元初唯密の正法であれば、たとえ御書を拝すとも、凡夫の誰人がその甚深の聖意を窺い得よう。ここに末弟の我等は、ただ日寛上人の智目を通して、始めて三大秘法の御法門を正しく信解し得るのである。」と仰せられています。

亦、日寛上人は本門戒壇の御本尊について「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。」(観心本尊抄文段)と仰せられています。

つづけて云く「問う、文底深秘の大法その体如何。即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御事なり、乃至、此の本尊は広布の根源なり」と御教示でありますように、根源の本門戒壇の大御本尊を明確にお示しであります。したがって、広宣流布の暁には、この戒壇の大御本尊様が根源の事の戒壇堂にお出ましになられるのは、いま更云うまでもありません。

あるいは亦、義の戒壇について「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊存する上は其の所住は戒壇なり」(寿量品談義)と仰せられ、これが義の戒壇であると明確に定義なされているのであります。

それにも拘わらず、坊主らは何を以って「教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」などと偉そうに、機会があれば余計な注釈を加えたいのか、隙を窺うような記述が見られますが、どうしたらこうした思い上がった屁理屈が書けるのでのでしょうか、坊主らの謗法による頭破七分に犯された文章に触れる度に、謗法は真に空恐ろしい罪障をつくるものだと改めて身にしみる思いであります。

先ず第一に、弘安二年の大御本尊は、唯授一人において相伝せられ、大石寺の奥深く秘蔵厳護されて広布の時を待っておられたのであるが、当時の富士門流の布教は徳川幕府の圧政に妨げられ、内拝の信徒もごく少数に限られていた。こうした状況にあっては、広布の時もほど遠いと思われ、富士門流としては、大御本尊はまだまだ秘蔵中の秘蔵の扱いをもって、未来の時を待たねばならなかった。したがって、日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず、「一大秘法」「本門の本尊」等の抽象的表現と、『三大秘法抄』等の御書の面に顕われている文証とをもって、三大秘法の開合、本門の本尊と戒壇との関係、戒壇の事・義の立て分け等々を示されたのである。「しかしながら、その奥に、日寛上人が弘安二年の大御本尊を拝され、大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とせられていたことは、『依義判文抄』の「本門戒壇の本尊を亦三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(聖典863㌻)との仰せ、また日相上人の御代まで伝承されてきた『大貳阿闍梨御講』中の御指南によって明らかであろう。」について

ここで坊ずらの記述を読み直しても、サッパリ判らない。坊主が言っている内容については、所々断片的には理解できるものの、全体を通して読むほどに、言語明瞭・意味不明の一語に尽きています。いったい彼等はなにが言いたいのでしょうか?。

日寛上人が未だお若い時、大貳阿闍梨号を名乗られていた頃、大勢の信徒を前にして御講を開かれた席で三大秘法に係わる開合について次のように仰せになられました。その時の御講聞書を後年、第四十三世日相上人が科段に分けて記されたお書き物の中には、三大秘法を六大秘法に開いた場合の御本尊の相貌を次の如く明確にお示しであります。即ち本門の本尊について人本尊は「日蓮大聖人」とせられ、法本尊は「事の一念三千の御本尊」と定義せられ、本門の題目については「信受智妙」と「口唱行妙」に分かたれ、戒壇については「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」とせられ「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒也」と明確に峻別されておられたのであります。

こうした時系列から拝見ますと、今日坊主が指摘するような「広布の時もほど遠いと思われ、富士門流としては、大御本尊はまだまだ秘蔵中の秘蔵の扱いをもって、未来の時を待たねばならなかった。したがって、日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず」などとした指摘は大きな間違いである事が分かります。

序でに申し上げれば、日寛上人が「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒也」と仰せられた富士山とは、死臭が漂う土葬の墓地を掘り起こしてニセ戒壇正本堂を建てた、現在の大石寺の穢れた場所を指しているのではありません。それは、広宣流布の暁に建立される「霊山浄土に似たらん最勝の地」と大聖人様が「富士山に」と仰せられた、富士山天母ヶ原の御事を指しているのであります。

また坊主がが物知り顔に「当時の富士門流の布教は徳川幕府の圧政に妨げられ(中略)日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず、「一大秘法」「本門の本尊」等の抽象的表現と、『三大秘法抄』等の御書の面に顕われている文証とをもって、三大秘法の開合、本門の本尊と戒壇との関係、戒壇の事・義の立て分け等々を示されたのである」等の記述は、余計な贅言を並べたものであることが分かります。日寛上人は大貳阿闍梨号を名乗られていた頃から対他に対して、富士門流の大石寺には、弘安二年の本門戒壇大御本尊の存在を敢然と明らかにされ、「義の戒壇」及び「事の戒壇」の違いについて明確に峻別されていたのであります。

第二に、『六巻抄』の理論体系は、当時の他門流の不相伝家なる故に邪義に対し、これを破折するため、御書の文証を基準として組み立てられた。そのため、事の戒壇についての御教示においても、広布の事相における戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、ただちに事の戒壇の文証とせられ、弘安二年の大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とする表現を避けられたのである。以上のような日寛上人の、当時の時代性に応じた法門の表現と、対他のために著述された『六巻抄』の性質をよく弁え、その御真意を誤りなく拝すべきであろう。」について

同じ事の繰り返しになりますが、坊主らが展開する記述はまことに解りづらい。彼等が指摘する「事の戒壇についての御教示においても、広布の事相における戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、ただちに事の戒壇の文証とせられ」とは、いったい何を言っているのか見当も付きません。日寛上人は三大秘法抄のいずれの御文を以って「ただちに事の戒壇の文証とせられ」たのでょうか、坊主はその説明もないまま、いい加減な意味不明な抽象論に終始しています。

つづいて「弘安二年の大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とする表現を避けられたのである」等としていますが、当たり前ではありませんか。日寛上人は六巻抄を上梓される以前、即ち大貳阿闍梨号を名乗られていた頃から、本門戒壇の大御本尊のおわします所は「義の戒壇」と定義せられ、「広宣流布の暁に事相として建てられる本門寺戒壇を事の戒壇」と仰せられていたのであって、邪義に染められた坊主が自慢げに垂れ流す言辞には呆れるばかりであります。何度も申し上げますが日寛上人は、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊の当体及び所住は、どこまでも根源の義の戒壇と定義されているのであります。

なお、また、日寛上人以降の御歴代におかれても、こうした『六巻抄』の理論体系を基として、戒壇についての御教示を展開あそばされた故に、あたかも、広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住を(義理が事の戒壇に当たる故に)義の戒壇とするやの表現が拝せられる。しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない。」について

正系門家富士門流の教学上の確定的な化儀は、寛尊の六巻抄の中にすべて収まりこれに尽きるのであります。ところが坊主らは「しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない」等として、あたかも日寛上人が未完の法門書を残された如く、くどくどと知ったか振りを決め込んでいますが、日寛上人は後に貫主職に就かれた二十八世日詳上人に六巻抄を託されて、云く「此の六巻の書の獅子王ある時は、国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず、尤も秘蔵すべし、秘蔵すべし」と仰せられ、つづけて「此れは是れ偏に広宣流布の為なり」と訓戒を加えられ、さらに「公場に非ざるよりは、妄りに之を宣ぶること莫れ」と、重誡の御言葉さえ遺されて全てを終えられておられるのであります。

此処で寛尊が仰せられる国中の諸宗の狐兎とは、禅宗、念仏宗、真言宗等の既成仏教の邪教の面々を指し、諸門の狐兎とは、身延、池上、中山等の不相伝家の邪宗日蓮宗を含む、南無妙法蓮華経を唱える新興の邪宗日蓮宗の連中を指して狐兎と仰せられているのであります。

ただ、ここで一つ言える事は、宗門が悪僧日達管長以来、富士門流の宗旨の要ともいえる国立戒壇を放擲したが故に、諸宗・諸門の狐兎と揶揄された一連の謗法者達が総本山めがけて一党して襲来し、国立戒壇の宗旨に論難を加え攻撃される恐れは全く無くなってしまいました。日寛上人は、まさか、御自分の亡き後、わずか三百余年後に富士門流大石寺が国立戒壇を放擲するなんて努々想像だにしなかったに違いありません。是れを以って顧みるに、大聖人様の唯一の嫡流たる日蓮正宗大石寺が、創価学会の政治選挙の為に、世間に諂い国立戒壇を永久放棄したことが、如何に間違っていたかという事が良く分かります。

日寛上人が六巻抄を日詳上人へ託されるに当たって「国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず」と仰せられた意味は、富士門流日蓮正宗の宗旨はどこまでも国立戒壇であるから、この旗を高々と掲げて、広宣流布を成し遂げなさいと云う意味で仰せられているのであります。ところがその肝心要となる国立戒壇を永久放棄して叫ばなくなってしまったならば、日寛上人が「国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来す」と仰せられた予言は大虚妄となり、その心配は完全になくなってしまうのであります。また、国中の諸宗・諸門の狐兎の立場からしますと、国立戒壇という大目的を永久放棄した日蓮正宗の本山に襲来して、国立戒壇に轟々たる非難を浴びせて攻撃を仕掛けて来る理由も完全になくなったという事であります。

しかし大聖人様は、国立戒壇の大事を前以って富木殿御返事の中で「設い日蓮生死不定たりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無きものか、伝教大師、御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定・慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕わす、事相たる故に一重の大難之有るか」と仰せられいます。ここで仰せられる「事相たる故に一重の大難之有るか」との意味は、申すまでもなく、富士門流の日蓮正宗が国立戒壇の建立を叫び、事実の相として国立戒壇を建てる為に広宣流布を闘う宗旨であるが故に「事相たる故に一重の大難之有るか」と仰せられているのであります。それを捨ててしまったのでは、何のかんばせがあろうか、大聖人様をはじめ代々の上人方の御苦衷を忍び参らせれば、合わせる顔がなくなるというものです。

また、大聖人様が如説修行抄で仰せられる「念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる。或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり、法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし、法華折伏・破権門理の金言なれば終に権経権門の輩を一人もなく・せめおとして法王の家人となし」云々と仰せられる熾烈にして果敢な折伏戦は、国立戒壇を捨てたが故に雲散霧消してしまいました。また折伏戦に対する熾烈な軍が巻き起こる理由も道理も完全になくなってしまいました。

それを象徴するかのように、今日の宗門の唯一の機関紙といわれる大白法の平成29年8月1日号には「異流義破折」と題した顕正会に対する破折文によれば「浅井は、正系門家・富士大石寺は、日興上人・日目上人以来七百年、ただ一筋に日蓮大聖人の出世の本懐たる『本門戒壇の大御本尊』を護持し奉り、御遺命たる『国立戒壇』を、唯一の宿願としてきたのです。(顕正新聞 平成29年4月25日)と、あたかも大聖人が「国立戒壇」の名称を示して御遺命されたかのように話を進めているが、実際は御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない。大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。時期を鑑み本宗では一切使用しなくなった「国立戒壇」の名称に拘泥する様は、まさに大聖人の御意に背いた姿なのである」等と、驚くべき支離滅裂な邪義を展開しているのでありますが、之を逆信の邪僧と言わずしては、自らが与道罪を被るのであります。

坊主らがいう「大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。」とした記述は全くそのとおりで、正しいのであります。本門寺の戒壇とは国立戒壇のことなのであります。

そうした正論と合わせて坊主らが主張する「御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない」とする邪義は、池田大作のサル真似以外に何物でもありません。

池田大作はかつて次のような邪義をのべていました。云く「戸田先生もわれわれも、いちじ『国立戒壇』といってきました。しかしどこを探しても、御書には『国立戒壇』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです」(聖教新聞 昭和40年9月22日)と。

つづけて「国立戒壇ということばは、大聖人の御書には一つもありません。あくまでも、民衆の力によって、できあがる本門戒壇の建立が、大聖人の御遺命であります」(大白蓮華 昭和41年7月号)と。

それをどうですか、いま坊主らは国立戒壇を否定する為に「実際は御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない。大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。」などと、大聖人様が御教示下された「一期弘法付嘱書」の御文と、池田大作が作り出した「御書に国立戒壇ということばはないのです」と言い放った邪義を一括りにして、国立戒壇を否定する記事を大白法紙に載せて顕正会を誹謗していますが、是れこそが頭破七分の見本ともいうべき、良き事例であります。

いま宗門にはこうした邪義を垂れ流し、袈裟の権威を笠に着て肩で風切る坊主ばかりが幅をきかせ、のうのうとただ飯を食らって、僧道を渡世の道具にしている者で溢れかえっていますが、宗門が再び国立戒壇の正義を取り戻して、富士の清流が蘇る兆しが出てきた時には、邪義を垂れ流す坊主らは、一人残らず擯斥処分に付して宗門から彼等をいち早く追い払わなければなりません。

富士門流の日蓮正宗が国立戒壇の大目的を永久放棄した後の今日、総本山めがけて、諸宗・諸門の狐兎が、一党して宗門に襲来する事なんて、夢のような話になってしまいました。それどころか、日達管長の死後、突如として六十七代を継いだと称する悪僧阿部日顕管長に至っては、平成7年6月6日、邪宗日蓮宗身延山の次期管長職に就任する田中日淳なる邪僧一行を積極的に自ら総本山に招き入れ、自慢げに本山の公布坊、客殿、大講堂、五重塔などの主だった伽藍を案内した後、能化の高野日海師に命じて、蓮葉庵で昼間から酒宴を張って饗応ならしめ、日頃の創価学会に対する鬱憤を晴さんと、悪徳弁護士山崎正友を使って、学会攻撃を仕向けているのでありますが、信心が腐ってくるとこうした醜態をさらす事になるのであります。

それは置くとして、邪義にまみれた不勉強の坊主らは「広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住を(義理が事の戒壇に当たる故に)義の戒壇とするやの表現が拝せられる。しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない。」とは恐れ入りましたね。これではまるで、日寛上人は未完の法門書を六巻抄と名付けて日詳上人へ託されたこととなり、悪僧日達管長の出現によって、初めて富士門流の教学上の化儀が完璧に整ったことになってしまいます。そんなバカことがあるものか! これでは悪僧日達管長は、超凡絶倫の聖者を超えた存在となってしまいます。

憚りながら日寛上人は、学頭職を務められていた時に六巻抄の全ての草案を完成されていたものを、御遷化の前年に再治を加えられ、大聖人様の御本懐のすべてを収められているのであります。その時の仰せに云く「正徳第三癸巳(みずのと み)、予四十九歳の秋、時々御堂に於いて開目抄を講ず。而して文底秘沈の句に至る、其の義甚深にして其の意難解なり。所以に文に三段を分かち、義に十門を開く。草案已(すで)に畢(おわ)りて清書未だ成らず、虚しく笈中(きゅうちゅう)に蔵(おさ)めて之を披(ひら)く遑(いとま)あらず。而して後、享保第十乙巳、(きのと み)予六十一歳春、逅邂(たまさか)之を閲するに疎略稍(そりゃくやや)多し、故に粗添削(ほぼてんさく)を加うるのみ。敢えて未治の本を留むることなかれ。然るに此の抄の中に多く大事を示す、此れは是れ偏に法をして久住せしめんが為なり。末弟等深く吾が意を察せよ云々」と御指南であられます。

そして日寛上人は御遷化の年の二月江戸において観心本尊抄を講じ終えられた時、一座の大衆にたわむれのごとく仰せられて、次のような有名な御言葉を残されておられます。即ち自身が三大秘法の化法・化儀を解説された六巻の書に一分の間違いの無いことの証明として、羅什三蔵の故事を引かれてその裏付けとされたのであります。

云く「法華経を漢訳した羅什三蔵は、自身の訳経の誤りなき事の証明として、大衆に向かって〝我が身死して火葬に付する時、身は灰となるとも舌ばかりは焼けず〟と語っていたところ、果たせるかなその通りになった。ゆえに羅什三蔵の訳経は随一と云われ、後世に信じられたのである。いま日寛たとえ富桜那の弁を得、目連の通を現ずるとも、云うこと当たらざれば誰人が信ずることが出来ようか。自分も羅什の故事にちなみ、いま日寛も一つ言い残すことがある。すなわち日頃好むところのソバを、臨終の時に食して、唱題のうちに臨終することにした。若し日寛の言うところ当たらざれば信ずるに足らず。もし違わざる時は、日寛の所説は大聖人の御意に寸分も違わざると信ずべし」(取意)と。

臨終が近づいたその日の夕べ、日寛上人は大好きなソバそ食された後、最後臨終にのぞまれて辞世の一句を詠まれました。「本有の水風凡聖常に同じ、境智互いに薫じ朗然として終わりに臨む」と謳われ、最後に「ああ面白しきかな寂光の都は」と仰せになられて、朗らかにスキップするようなお気持ちで寂光土に旅立たれているのであります。

それに比べて悪僧日達管長は臨終思うようにならず、入院中、付き添いも誰も居ないところで、昭和54年7月22日の未明、七転八倒の苦しみの中に、黄泉の国へ旅立つ以外に方法はなかったのでありますが、これは猊座に在った者が取り返しのつかない邪義を始めた罰によって、大聖人様からまたとない命を召し取られたとしか言い様がないのでありますが、これぞ天地雲泥の差、一切は現証に如かずとはこの事であります。

先例として、本宗で方便・寿量の二品のみを読誦する深義についても、途中までは全く体系的に明示されることがなかったが、他門流から我見の議論や批判が出るに及んで、方便品読誦について日興上人、寿量品読誦については日寛上人の代から、初めて、その全てが説き明かされた。同様に、戒壇の本義については、今日、浅井昭衛の妄説出来を待って、第六十六世日達上人が、甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである。」について

ここでも坊主らはいい加減な嘘ばかりを垂れ流しています。「本宗で方便・寿量の二品のみを読誦する深義についても、途中までは全く体系的に明示されることがなかったが、他門流から我見の議論や批判が出るに及んで、方便品読誦について日興上人、寿量品読誦については日寛上人の代から、初めて、その全てが説き明かされた。」等としていますが、方便品・寿量品の読誦については、大聖人様の御在世当時から唱えられていたのであります。

大聖人様は斯く仰せであります。「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを」云々と仰せられ、寿量品を欠くことのできない大事に言及されておられます。

また松野殿御返事の一文の中に、松野殿が入信後間もなくして、大聖人様に凡夫の我々が唱えるお題目の功徳と、聖人が唱えるお題目の功徳の違いについて質問された時のお手紙の中に「此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱え申し候なり」とありますのがそれであります。松野殿は入信当初から方便品の十如是と寿量品の自我偈とお題目を唱えていたのであります。

亦曽谷入道殿御返事の中でも「方便品の長行書き進らせ候。先に進らせ候ひし自我偈に相副へて読みたまふべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり」と御教示され、勤行の際には必ず寿量品を読誦するよう指導されています。

さらに月水御書には「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ候へ。乃至寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」と御教示のとおり、方便品は迹門の肝心であり、寿量品は本門の肝心であれば、坊主らの指摘はウソだという事が歴然とします。

また新尼抄には「今此の御本尊は・・・・宝塔品より事おこりて、寿量品に説き顕わし、神力品・属累に事極まりて候」とありますように、本門寿量品に来て初めて説き明かされた三大秘法の御本尊を拝み参らせながら、方便品だけを読誦して、肝心の寿量品を読誦しないなんて事は絶対にあり得ないのであります。

また坊主のいう事が奮っていますね。「戒壇の本義については、今日、浅井昭衛の妄説出来を待って、第六十六世日達上人が、甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである。」とは恐れ入りましたね。

何度も申し上げて来たとおり、日達管長は三大秘法の戒壇義については「いつでも、何処でも『事の戒壇』」という邪義を始めた張本人なのであります。それを日達管長の邪義に染められた坊主らは「甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである」等ととんでもない邪義を垂れ流しているのであります。

坊主云く「ここに至って、日寛上人が、三秘中、本尊と題目についてのみ示され、戒壇については残されてあった、「事」の二重の意義が顕然となり、また、戒壇御本尊と他の御本尊との関係による事・義の立て分けの真義が明瞭となった。浅井らは、ともかく、御歴代のどながた仰せである、ゆえに宗門古来からの定義である等と強弁するのみで、法門の道理よりも、単なる「言った、言わない」論に終始しているが、じつに低次元きわまりない、文字どおりの淺い教学ではないか。」について

坊主らは再び此処へ来て、日寛上人の文底秘沈抄の中には本尊と題目に、二重の意義があることを示されたているとする邪義と、日寛上人も説き明かされなかった戒壇にも、二重の意義がある事を日達管長が初めて説き明かされたと称する邪義を吹聴しています。

それと、先頃国立戒壇を叫ばれていた第五十九世日亨上人、第六十四世日昇上人、第六十五世日淳上人、第六十六世日達上人等の四上人を指して「言った、言わない」論に終始しているが、じつに低次元きわまりない、文字どおりの淺い教学ではないか」等と非難しているのでありますが、これこそ、立正安国論の御精神を踏みにじり、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる御本仏の金文を破壊せんとする逆賊ともいうべき恐るべき非法の衆なのであります。

坊主らが云う二重の意義とは次のようなものでした。即ち本尊については「当流の意は事を事に顕わす」というもので、題目については「事を事に行ずるが故に事と言うなり」というものでした。しかしながら、それらの御言葉の中にどうしたら、本尊と題目に夫々二重の意義を認めることができるのでしょうか。さらに、戒壇については「いつでも、何処でも事の戒壇」とするもので、広宣流布した時には改めて、事の戒壇を大石寺の境内に建てるという邪義であります。

繰り返しますが、三大秘法の本尊、題目、戒壇にそれぞれ二重の意義が生ずるのは、三大秘法を開いた場合にのみ、二重の意義が生じて、はじめて六大秘法となるのであります。それ以外では三大秘法に二重の意義が生ずることは決してあり得ないのであります。

坊主云く「そもそも、広布の暁に建立されるという戒壇の建物と、大聖人出世の本懐たる大御本尊の当体及び所住と、いずれを事の戒の根本として法義を展開すべきか、寛尊の「一大秘法」「三秘総在」との御教示を拝すれば、筋道は明白である。したがって、日達上人が御相承の法門の上から、戒壇に事・義を立て分けられ、さらに根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである。」について

坊主の記述は何処まで行っても言語明瞭意味不明です。「戒壇の建物と、大御本尊の当体及び所住のいずれを事の戒の根本として法義を展開すべきか」とは、如何なる意味なのか、邪義が高じて頭破七分を患った者でないと、こうした文章は読む事が出来ません。

それに「日達上人が御相承の法門の上から、戒壇に事・義を立て分けられ、さらに根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである。」とは、仰天ビックリですね。

日達管長は、戒壇に事・義を立て分けることを真っ向から否定し、御本尊のおわします所は「いつでも、何処でも事の戒壇」として、義の戒壇は絶対に存在しないと言い張っていたのであります。それを今になって、「根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである」とは、狂人の戯言としか言いようがありません。日暮れて道なお遠しの感を深くするばかりであります。

まさに、「唯仏与仏。乃能究尽」の文を見るごとくであり、浅井ごとき一在家がこれに異議をさしはさむなど、増上慢の極み、狂気の沙汰と断ずる以外にない。もっとも、浅井の妄説出来が戒壇に関する大事の法義開示の機縁となったのであるから、「魔及び魔民なりとも皆仏法を護る」のいみにおいて、正法興隆の役に立ったと言えなくもない。その逆即是順の功徳によって、浅井は、千劫阿鼻地獄に堕ちた後、再び日蓮大聖人の正法に値遇することであろう。」について

それにしても大仰な表現ですね。取り返しのつかない邪義を吹聴した日達管長を「唯仏与仏。乃能究尽」の体現者ごときに称揚するとは、驚きを通り越して呆れてしまいます。その意味するところ、唯仏と仏のみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまえり。となりますが、これは、御本仏大聖人様と、末法万年の総貫主たる二祖日興上人との間で授受される、唯受一人の血脈相承の事を指すのであります。

それに対して、日達管長は富士門流七百年の間、些かの濁りも曲がる事なく、清く正しく、清浄に伝持されて来た三大秘法義を曲げて邪義を構え、宗門に壊滅的な打撃を与え、今日の体たらくをもたらした稀代の悪僧・邪僧ともいえるその根源であります。焦眉の急は、早く上代の富士の清流を取り戻さないかぎり、取り返しのつかない国家的な災いを招来する事になります。

立正安国論に云く「悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」と。

亦云く「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん、若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、その時何んが為んや」と。

つづけて云く「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」と。

此処で仰せらる「正道の侶」の元意は、本来御本仏大聖人様を指す御言葉でありますが、その御文をお借りして一言申し上げるならば、不幸にして悪僧日達管長の出現以来、今日の富士門流日蓮正宗には、正道の侶と呼ばれるに値する御僧侶は、残念ながら何処を探しても、一人として見当たらなくなりました。

一刻を争って、富士の清流を速やかに取り戻さなければなりません。