亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

坊主には謗法厳禁という制戒は通用しなかった

2014年10月05日 17時53分53秒 | 亡国の坂道 
本項は、『続・摧破異流義考』で坊主らが①~⑧まで述べている(P.124~125)中に記された「キリスト教神父に拘る盲説と虚偽」と題した、⑦の部分でありますが、坊主らは、まるで重箱の隅を突くようなくだらない誹謗記事を並べています。

⑦云く「浅井等は、キリスト教神父の件についても、見苦しい言い逃れを並べて、『続・摧破異流義考』で『バチカン外交官が着ていたのはスータンと呼ばれる外出着であって、法服ではない』と述べたことに対しても、なんと、『世界百科事典』を頼りに、『スータンは聖職者の通常服。外出着に限らず、ミサ執行時にも着用されるから法服である』と反論している。まったく、詳細な調査・確認もしないで、百科事典を開いて下調べを済ませているから、掛かる誤りを犯すことになる」などと。

つづけて「外出着であって、法服ではない」という詳細をいえば、スータンはあくまでも通常服・外出着であって法服ではなく、スータンの上にアルバ、そしてゴシック祭服等の法服を着用するのである。こんなことは、少し調べれば誰にでもわかることであるから、横着せずに確認してみるとよい。なお、『続・摧破異流義考』では、当時の一、二枚の不鮮明な写真により、これを『スータン』であろうと判断したが、その後の専門家の指摘・確認により、これは『スータン』ですらなく、単なるローマン・カラーに背広を着用した姿であることが判明したので、付言しておく」等と。

また「この件についてもう一つ、浅井等は、『細井管長は五十一年八月十八日の行学講習会で「キリスト教神父を正本堂完工式に招いて何が悪い」との暴言を吐いたが、決して『バチカン市国大使を呼んで何が悪い』とは云っていない』などと喚いているが、白々しい嘘もたいがいにすべきである。行学講習会における日達上人御指南では、『キリスト教にかぎらず何宗の人が来ているのか、(こちらでは)わからないのであるから、それを直ちに謗法だと騒ぐのはいけない』と仰せられ、完工式の招待者については、あくまでも、その信仰上の立場を離れた社会的立場・資格において列席を認めた旨、御示しではないか、この御指南が、前のごとく読めるとしたら、それはもう完全な精神異常者である」等と。

確かに正本堂の完工式には坊主らが言うように「あくまでも、その信仰上の立場を離れた社会的立場・資格において列席」した多くの方々の立場は、一応一般論としていえる事であります。そういうことからすれば、完工式に列席した者達は、正本堂建設関係者や金融機関、あるいは地元富士宮市の市長や、市の職員等の参加者で占められていたのであれば、日達の云い訳は、必ずしも間違いではないのであります。

したがって、ここで日達の言う台詞は一見尤もらしく聞こえるのでありますが、是れが日達と邪義坊主らの一流のお惚けなのであります。云く「キリスト教にかぎらず何宗の人が来ているのか、(こちらでは)わからないのであるから、それを直ちに謗法だと騒ぐのはいけない」とは、余りにも謗法厳禁の峻厳な精神に悖る、不純にして、腐敗堕落したこの上ない言い逃れであります。

そもそもバチカン市国やアメリカ合衆国から、ニセ戒壇正本堂の完工式に派遣されるキリスト教の神父たちは、夫々の国を代表して派遣された者たちで、失礼があってはならない大事なお客様だと歓待したいのは、創価学会が勝手にきめた彼らの思いでありましょう。さような次第であれば、創価学会からの呼びかけで、事前に宗門との間で連絡会議が開かれ、両者間で綿密な協議が重ねられた上で丁重に歓待するよう宗門に要請があった筈であります。それ故に完工式の最前列には特別な席がしつらえられ、神父たちのために特設の優待席が設けられていたのであります。それを「何宗の人が来ているのか、(こちらでは)わからないのであるから、それを直ちに謗法だと騒ぐのはいけない」とは恐れ入りましたね。

日達や宗門の坊主らには、既にこの時、謗法禁断という禁制の精神が完全に失われていたのであります。尤も池田大作が、バチカン市国やアメリカ合衆国から多数のキリスト教の神父を正本堂の完工式に招待した魂胆は、来たるべき将来に向けて、ノーベル平和賞の栄誉に与かるために、巧妙な布石を打っての名利心から出た奸計だったのであります。

御開山日興上人は二十六箇条の遺誡置文に「謗法と同座すべからず、与同罪を畏るべき事」と制誡為されているのであります。若し、日達に一分の謗法厳禁の信心が爪の垢ほどでもあったなら、外道のキリスト教ごときを、教義の上から相容れない関係に在るのであるから、池田大作の卑しい奸計を大所高所から厳しく説諭して、外道のキリスト教神父なんどの清浄の霊地への立ち入りは、敢然と阻止すべきだったのであります。

それを坊主らは今頃になって「これを『スータン』であろうと判断したが、その後の専門家の指摘・確認により、これは『スータン』ですらなく、単なるローマン・カラーに背広を着用した姿であることが判明したので、付言しておく」等と、凡そ日蓮正宗の僧侶にあるまじき、ニヤケタ屁理屈を垂れ流し、外道の謗法者を聖域に招き入れて、戒壇の大御本尊様に対し奉る許しがたい辱めと冒涜を犯した大謗法を棚に上げて、物知り顔して自慢しているのであります。

正系門家の謗法化と腐敗と堕落はまことに深く、悲しいことに、富士の清流への回帰は完全不能の域に達し、愈々深刻な状況に陥って参りました。この目も当てられない濁りきった現実を、清浄の富士の清らかな源流に回帰せしめるには、三大秘法抄に御示しのとおり「有徳王・覚徳比丘其の乃往」とある如く、今日の濁れる正系門家・日蓮正宗の中に、清浄な上人の御出現を待つ以外にはなく、その時の一刻も早からんことを心底願って止まないものであります。



1 コメント

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あなた、、 (おれ)
2014-10-07 08:38:54
顕正会員?
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