今日、明日は、土日なので、法事がいろいろ入っています。
法事の合間に、本堂の花を替えていたら、一人の青年が入ってきました。
「こんにちは。お参りですか?」と聞きました。
青年は、尾張徳川家、なかでも特に尾張二代目の光友公について調べているとのことでした。
青巖寺も、光友公とは関係が深いです。というか、本堂を建ててくれたのが、光友公です。
青年は、名古屋から来たそうです。ちょうどこちらの方へ来る予定があったので、せっかくなので寄せていただいたとのことでした。
「どうして、ここに(尾張から遠く離れた地に)、光友公が(お寺を)建てられたんですか?」
「光友公の息子、義昌公が生まれるときに、こちらで出産のお世話をしたので、そのお礼に、だそうです」
「なぜ、こちらで産むことになったのですか?」
「義昌公は、実は長男だったそうです(系図では三男にされています)。でも、光友公の正室として、将軍家光の娘が嫁いでたので、はばかって遠くで産むことになったんでしょうね」
「その時からだと、本堂が建った元禄5年までずいぶん時間がありますよね」
「そうですね、義昌公が成人されてからと聞いていますし、建て始めてからもかなり時間がかかっていると思います。欄間や木鼻などの彫刻もずいぶん手が込んでますし」
「彫刻などで、特色とかはあるんですか?」
「専門家の話では、日光東照宮とかで使われている技法と聞いたことがあります。実際、使っている木材も、建てる職人も、尾張から運んだり、連れてきたそうです」
などなど、このあとも、いろいろお話ししました。北畠の血筋であること、藤堂家とも縁組みしていること、安国寺恵瓊と長束正家の禁制が関ヶ原の合戦の時に出されていて今も残っていることなど。
歴史を分かっている人でしたので、いろいろ話が弾み、おもしろかったです。