『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

『音惚花活気好@kakky』的『第5章 抔盤狼藉(255)』分解(二)

2010年11月13日 23時44分48秒 | Weblog
乙 『ウン、その宣伝使か、それや今夜出てきをつた。
   奥の間に鯱(シヤチ)こ張(バ)つて大きな目玉をむいて、
   生命(イノチ)のもはや尽(ツ)きとる彦(ヒコ)とか月照(ツキテル)とかいふ奴と、
   腹がすいて、ひだる彦(ヒコ)とかいふ奴が、美山彦の計略にかかつて、
   今はほとんど籠(カゴ)の鳥、あれさへやつてしまへば、
   雨も止むだらうし、地響も止まるだらう。
   縁起糞(ゲンクソ)の悪いことをふれ廻るものだから、
   天気がダンダン悪くなるばかり、俺(オ)りや、
   彼奴(アイツ)たちの囀(サヘヅ)る歌を聞くと妙に頭がガンガンぬかして、
   胸を竹槍で突かれるやうな気がするのだよ』

戊 『そこが美山彦は偉いのだ。
   お前たちがその宣伝歌とやらを聞いて
   苦しむのを助けてやらうといふ大慈悲心から、
   その宣伝使をこの館に甘(ウマ)く引つ張り込んで、
   今夜は荒料理することとなつてをるのだ。
   マアそれでも肴(サカナ)に、
   寛(ユツ)くり酒を呑んで夜明かしでもしようぢやないか』

といづれの奴も皆へべれけに酔ひつぶれ、
碌(ロク)に腰の立つものもなき有様なりける。

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これはある意味言霊の活用法というのを考えた場合、
当たっている様な事の様にも思えてしまうので、少し考えてみよう。

出口王仁三郎聖師に見込まれて霊界物語の筆録者を務めた谷口正治氏も、
後に光明思想系の「生長の家」を興したわけで、
筆者はその弟子に当たる五井昌久先生が興した白光真宏会の
「世界平和の祈り」を実践しながら、先生の御法話集を愛読しつつ、
いろんな神秘学を雑学的に学習して最終的に「霊界物語」に辿りついた。

その「世界平和の祈り」に出会う何カ月か前に「みんなしあわせになれ」
を一生歌い続ける事を決意したわけだが、そこに至るまでの筆者は、
今でもエアガンの愛好家である様に、かなり過激なタカ派だった。

勧善懲悪だったので、自分なりに、自分が実践できる武術を研究したし、
武器に対する知識も、それなりに身に付けた。

そんな体験の中で、その気になればタオル一枚あれば人は殺せるとか、
そんなダークな事を、かなり本気に考えていた時期があった。

だが、その様な暗黒時代の筆者は、いつもあちこちに腫れものが出来たり、
ショッチュウ風邪気味で苦しんだりと、実際いい事は無かったので、
「みんなしあわせになれ」から始まった光明思想への道は、
本当に有難い希望の光であった。

ところがようやく求めに求めた「霊界物語」に辿り着いた時、
そこには人間のみならず神々の醜態が赤裸々に綴られていて、
実際、戸惑わなかったわけではないのだが、
そこに至るまでに十年間、人間は理想論そのままの美しい生き方など、
そんなに簡単に出来るものではない。
…という事も思い知っていたので、
「霊界物語」に登場する神々のお粗末さが、この上ない救いになったのだ。

理想論を貫徹するのは本当に苦行と言っても差支えないほどの忍耐が必要だ。

筆者は自慢するわけではないけれども誘惑に弱い。

そんな誘惑に弱い筆者が御神業などとんでもないと思っていたが、
どうしてもこの道に関わらずにはおれない様な運命に巻き込まれて、
今日まであれよあれよという感じで、その流れに立ち向かいつつ、
「霊界物語」という救いの船に乗って、この荒浪を乗り越えて来たのだと思う。

だから、ここでくだまいている木っ端共の気持ちもよく判る。

判るからこそ、このままではいけないと思うので、
こうした問題を根本的に解決するのは皇道経済の実施以外には無いと確信するのだ。

ある程度経済的に満たされている時には光明思想以外には無いと思えるのだが、
社会に接して怨みたくなくても恨みが蓄積されると、
大峠予言的な事をやって社会に警鐘を鳴らし、
憂さ晴らしをしたくなるのも人情だと思う。

筆者も基本的には「日月神示」などのタイプの預言とか神示は、
暗黒思想的で嫌いだが、そうしたものが世に湧き出して来て、
それが支持される社会の持つ矛盾も見逃すわけにはいかない。

理想論を追求する忍耐強い上根の身魂の皆様には聞き苦しい事かもしれないが、
やはりこうした現世ならではの問題を根本的に解決するのは、
皇道経済の実施であると、筆者はその確信をいよいよ深めるばかりである。

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 奥の一間には、美山彦、春日姫は今日をかぎりと盛装を凝らし、
結婚の式を挙げつつあり、
そして容色うるはしき春姫(ハルヒメ)が酌を勤めつつありたり。

春日姫は力かぎり媚(コビ)を呈して美山彦に無理やりに、
面白き歌を謡ひながら酒を勧むる。

美山彦は春日姫の勧むるままに酒杯を重ね、
つひには酩酊の極、頭が痛み眩暈(メマヒ)するといひつつその場にドツと倒れ、
雷のごとき鼾声(カンセイ)をあげて正体もなく寝入りてしまひたり。

春姫は立ち上るとたんに長き高き酒樽に衝突し、
樽は転げて美山彦の頭上に、酒を滝のごとく濺(ソソ)ぎたり。

美山彦は両手にて虚空を探るごとき手つきして寝返りをうち、
苦しげに唸(ウナ)りゐる。

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先週も筆者は主張したけれども、春日姫のこういうやり方はよくないと思う。

しかし三年間受けた屈辱を考えたら、
これくらいの事はまだ生易しいのかもしれない。

だが、そんな考え方は宗教的な理想からみれば、恐ろしく醜いのだ。

現代の死刑問題にしても、
宗教的モラルに照らしてみたら死刑は絶廃するべきだと思うが、
何も遺族への同情ばかりではなく、生き物の本能的感情として、
人命を軽々しく奪う奴など死刑にするのが当たり前だとも感ずるわけだ。

だが理性があるので、それは言ってはいけない事だとセーブするのである。

春日姫のやっている事は正しくはないけれども、
悪い事だとは言い切れないものがある。

この辺が実に難しい問題だ。

一方、この美山彦という奴は、
シラフでかかったらとても女が一人で太刀打ちできない様な、
そんな野蛮な腕力の持ち主だったのだろうが、
それでも力で捩じ伏せずに、
春日姫を逃げられない所に囲って、ねちっこく口説き続けただけで、
強姦するところまでいかなかったわけだから、
それを考えれば、実に中途半端な悪党でもあり、
ある意味、救いようのある良心も隠している、
わけありの悪党なんだな…という、些か甘い判断もする事が出来る。

また春日姫も、単身逃げ出す事も可能だったのかもしれないが、
そんな事をすれば忽ち囚われの身の月照彦が殺されてしまうかもしれないし、
そんな風に思えば実にもどかしい屈辱的な三年間を耐えて来たのだろうし、
それが足真彦が来て味方の男が一人増えたのが励みになって、
やっとのことで、この策略の実行に及んだということになるのかもしれない。

正しくはないことだけれども、情状酌量の余地があると、
いえないこともないことだ。

実に女の操を守り通すというのは難しいものだ。

今の様にフリーセックスを笑って言える時代とは違って、
肉体の貞操が重視される宗教的モラル全盛の社会では、
実に実に扱いがデリケートな問題だし、
そんな観点から観れば、この春日姫の戦略は、
実に天晴れという事になるかもしれない。

もし、前回筆者が指摘した様に、
後世で春日姫と美山彦が結婚する様な因果になったとしても、
本来、善悪も、敵味方も無い筈のミロクの世での事ならば、
そんな事でこの正しからざる事の罪が償われるのならば、
それはそれでよいことなのかもしれないし…。

「愛と許し」が最優先である救いの世界では、それが正しい事になる筈なのだ。

善悪の価値判断を何処に置くかで、その評価も全く逆転する場合もある。

詳しくは知らないが、それはおそらく、
民衆キリスト教と過激イスラム教くらいに違うのではなかろうか?

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 春日姫は春姫をともなひ奥殿に進みいり、
月照彦天使(ツキテルヒコノカミ)に委細を物語り、
春姫をして一室に控へたる足真彦(ダルマヒコ)を招かしめ、
男女四柱(ヨハシラ)はここに緊急会議を開きける。

 アヽこの会議の結果や如何(イカン)。

 (大正十一年一月十六日、旧大正十年十二月十九日、加藤明子録)


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今でも野性の猿・熊・猪が、人里に出没して農作物を荒らしたり、
民家に侵入したり、老人などを襲ったりした結果、
捕獲されたり、銃殺されたりしているわけだけれども、
動物愛護の視点から観れば「何も殺す事はないだろう」
という事になるのも判るし、人語の通ずる相手ではない野獣を、
迂闊に開放すれば人里が危険に晒される事になる。
…というのも判らないこともでもないと思う。

現状、筆者が住んでいる神奈川県横浜市南区辺りには、
こんな問題は起こりそうもないので、
半分興味本位に「もののけ姫」の様に思えてしまったり、
大本神諭にある様に、その時になれば神も神代のままの姿を現わして、
お手伝いする事になるという事の具現化の一つなのではないか?
…とも言いたくなってしまうのだが、現地の皆さんにとっては、
きっとそれどころではない問題だろうと思う。

手負いの野獣は凶暴になるらしいからトドメを刺す方がいいだろうし、
檻に捕獲して、人間を襲わない様に教育して、人里大使的に開放する。
…という理想的な方法を採る事も出来るだろう。

どちらを選ぶかは地域の行政予算が大きな影響を与えるらしいが、
こんな問題の根本的な解決にも、皇道経済の実施が必要不可欠なのだと、
筆者はますます、その思いを深くするばかりである。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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