『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

第24章 思(オモ)ひ奇(キ)や[二] (174)

2008年11月27日 00時26分00秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第四篇 天地転動

 南高山(ナンカウザン)の八王(ヤツワウ)大島別(オホシマワケ)は、
八王大神に拝顔せむと玉純彦(タマスミヒコ)を従へ、
玄関口に現はれたるに、ここには、春日姫(カスガヒメ)、
八島姫(ヤシマヒメ)の二女性が受付兼応接の役にあたりゐたりければ、
大島別は二女の姿を見て、呆然として立ちどまり、
みづから吾が頬(ホホ)をつねり、眉毛に唾(ツバキ)をつけ、
玄関の階段めがけて、

 『またもや白狐には非ざるか』

としきりに杖の先にて突き試みけり。

玉純彦は声を荒らげ、

 『八島(ヤシマ)の古狐またもや八島姫(ヤシマヒメ)と身を変じ、
  吾を誑(タブラ)かさむとするか。
  ここは立派なる玄関口と見せかけをるも、
  擬(マガ)ふかたなき泥田(ドロタ)の中、
  吾が天眼力(テンガンリキ)にてこれを看破せり。
  すみやかに正体を露(アラ)はし、尻尾を曲げ降伏するか。
  さなくば汝春日姫、八島姫と称する悪狐、目に物見せてくれむ』

と言ふより早く、腰の一刀を引きぬき、
頭上より梨割(ナシワ)りに斬りつけむとしたるに、
二女は驚きて体をかはし、そのまま奥殿に走りいり、
道彦(ミチヒコ)の前にいたりて救ひを乞ひぬ。

大島別、玉純彦は二女の後を追ひ杖を打ちふるひ、
長刀を閃(ヒラメ)かしながら乱入する。

 このとき常世姫(トコヨヒメ)以下数多の神司(カミガミ)は、
大いに驚き、各自得物をとりて、
前後左右より大島別および玉純彦に打つてかかりぬ。

大島別は老身のこととて、
たちまち取り押へられ縛(バク)されたり。

玉純彦はこれを見てますます怒り、獅子奮迅の勢(イキホヒ)をもちて、
当るを幸ひ前後左右に斬りまくる。

その勢に辟易したる常世姫以下は、
倉皇(サウクワウ)として蜘蛛(クモ)の子を散らすごとく逃げ散り、
姿をかくしたり。

後には八王大神高座(カウザ)に八重畳(ヤヘダタミ)を敷き悠然として、
この光景を見守りゐたり。

 玉純彦は八王大神にむかひ、

 『常世(トコヨ)の国(クニ)の邪神の変化(ヘンゲ)思ひ知れや』

と、またもや打つてかかれば、八王大神は少しも騒がず、
玉純彦の利(キ)き腕(ウデ)をぐつと握りしめたり。

玉純彦は強力(ガウリキ)の大神につかまれて、
その場に顔をしかめて平伏したりけり。

八王大神はただちに立ちて、大島別の縛(イマシメ)を解き、
慇懃(インギン)にその背をなでさすり、
四辺(シヘン)をはばかりながら小声になりて、
常世城(トコヨジヤウ)における一切の秘密を物語り、
かつ真正(シンセイ)の八王大神は急病のため今は九死一生、
命旦夕(タンセキ)に迫る旨を耳うちし、
自分は一旦聾唖痴呆となりゐたる大道別(オホミチワケ)にして、
春日姫は真の八王道貫彦(ミチツラヒコ)の娘なること、
および八島姫は真の大島別の娘にして、
南高山にある八島姫は白狐旭(アサヒ)の化身なることを詳細に物語り、
かつ今後の議場におけるすべての計画を打合せたり。

 大島別、玉純彦は、はじめて疑ひ晴れ、
かつ大道別の智謀絶倫なるを感嘆し、二神司(ニシン)は喜び勇みて、
その場を退場せむとする時、
物蔭より現はれ出でたる八十枉彦(ヤソマガヒコ)は、

 『聞く神なしと思ふは、汝(ナンヂ)ら愚者の不覚、
  この由常世姫に報告せむ』

と足早に走り出むとするを、玉純彦はうしろより飛びかかり、
長刀を抜き、背部よりただ一刀のもとに斬り付けたれば、
八十枉彦は七転八倒、手をもがき足を動かせ、
虚空(コクウ)をつかんで脆(モロ)くも絶命したりける。

 ここに八島姫、春日姫は赤き布をもつて八十枉彦の遺骸をつつみ、
その上をふたたび白布をもつておほひ、
玉純彦の背にしつかとくくりつけたり。

 玉純彦は素知(ソシ)らぬ顔にヤツコス気取りにて、
大島別の後にしたがひ、六方(ロクパウ)を踏みながら
足音高く城内を面白き歌を唄ひつつ退出したりける。

 玉純彦は背の荷物を夜陰にまぎれて、
草原の野井戸(ノイド)にひそかに投げ込み、
素知らぬ風を装(ヨソホ)ひゐたり。
このことは常世城の何人も知る者なかりしといふ。

 (大正十年十二月二十三日、旧十一月二十五日、桜井重雄録)

『音惚花活気好@kakky』的『第24章 思ひ奇*や[二] (174)』分解

2008年11月27日 00時25分09秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第四篇 天地転動

平成二十(2008)年十一月二十七日 旧十月三十日(木)

 南高山(ナンカウザン)の八王(ヤツワウ)大島別(オホシマワケ)は、
八王大神に拝顔せむと玉純彦(タマスミヒコ)を従へ、
玄関口に現はれたるに、ここには、春日姫(カスガヒメ)、
八島姫(ヤシマヒメ)の二女性が受付兼応接の役にあたりゐたりければ、
大島別は二女の姿を見て、呆然として立ちどまり、
みづから吾が頬(ホホ)をつねり、眉毛に唾(ツバキ)をつけ、
玄関の階段めがけて、

 『またもや白狐には非ざるか』

としきりに杖の先にて突き試みけり。

--------------------------------------------------------------

なんというか、男に生まれて来たからは、
美しい女の顔を見ると、ついつい惑わされてしまうことは、
これは致し方のないことだけれども、正直言ってこの反応は、
あまり現代的な反応ではない。
これはどちらかというと、戦前の日本とか、
女性が外出をする時には、必ずヴェールで顔を隠さなければならない、
アラブとかイスラム教圏の様に、女性の顔を、
あまり見る機会がない時代とか、世界でのことだと思うのだ。

戦前の日本なんかでも、召集令状が届いた青年に、
急遽嫁をやることになり、お互いまともに顔も見ないうちに、
とにかく結婚式だけ挙げて、出征するという様な時代には、
女と名がつけば、多少顔の配置がずれていたとしても、
みんな美人に見えた、という特殊な情態だったそうだ。

当時の男子は、今の男子の様に、
幼い頃から女子と接することなどほとんどなく、
男子は男子ばかりが集まり、女子は女子ばかりが集まって、
適齢期が来るまで、異性に指一つも触れたことがない人など、
全然珍しくもない時代だったそうだ。

家庭内であっても、娘が軽々しく父に近づくこともない、
という様な厳格な時代であったから、
ここでの大島別の様に、外で見かける女性が、
知人とうりふたつに見えてしまうことが
よくあったのでは無かろうか?

本当に、こんなことは、現代では考えられないことだが、
男女の交流に対する規制が、とてもとても厳しかったので、
こんな錯覚が起きてしまうこともあったのかもしれない。

筆者も、現代っ子ではあるけれど、
養父養母のもとで一人っ子として育てられたので、
小学校、中学校では男女共学だったとはいえ、
よそいきの顔でしか女子とは接したことがないので、
穴の開くほど女子を見る様なこともなかったせいか、
十八を過ぎてアルバイトをする様になってからは、
バイト先に、ちょっと目鼻立ちが揃った女の子がいると、
すぐに恋心が湧いてしまったものだ。

だからといって、誰かと見間違えたというわけではないが、
常世会議に出席する様な神々は、
律法にもある一夫一婦の定めをよく守る様な、
それはそれは厳格な神々であったろうから、
異性を見ると、日頃、会いたい思いをこらえている
娘の顔に見えてしまっても、無理は無かったのかもしれない。

そんな思いが禍いして、女と見ればみんな狐と決めつけて、
極端な拒否反応を示して自戒することになったのであろう。

そういえば、筆者も二十歳頃から、各種宗教を学んだせいで、
いわゆる女戒禁というものに随分と悩まされた。

実際、女と見ればみんな女狐と思うくらい、
極端な理性が働いたものだが、その一方で若い肉体は、
美しい女性を求めてやまないのだから、随分と苦しんだ。

この「霊界物語」を如意法珠くらいまで読み進んで行くと、
駆け出しの宣伝使達の多くが、恋に悩まされながら成長するので、
どうにかこうにか、この最大の難関を突破することが出来たのだ。

つまり、男が恋に悩むのは当たり前で、
ここまで極端に拒む必要もないということだ。

前回も書いたけれど、本物であれ、偽者であれ、
美人を見たら、目尻でも下げて、素直に喜んでいればよいのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

玉純彦は声を荒らげ、

 『八島(ヤシマ)の古狐またもや八島姫(ヤシマヒメ)と身を変じ、
  吾を誑(タブラ)かさむとするか。
  ここは立派なる玄関口と見せかけをるも、
  擬(マガ)ふかたなき泥田(ドロタ)の中、
  吾が天眼力(テンガンリキ)にてこれを看破せり。
  すみやかに正体を露(アラ)はし、尻尾を曲げ降伏するか。
  さなくば汝春日姫、八島姫と称する悪狐、目に物見せてくれむ』

と言ふより早く、腰の一刀を引きぬき、
頭上より梨割(ナシワ)りに斬りつけむとしたるに、
二女は驚きて体をかはし、そのまま奥殿に走りいり、
道彦(ミチヒコ)の前にいたりて救ひを乞ひぬ。

大島別、玉純彦は二女の後を追ひ杖を打ちふるひ、
長刀を閃(ヒラメ)かしながら乱入する。

--------------------------------------------------------------

女の一人や二人を見たくらいで、こんなに殺気立つ必要はない。
まったく、時代遅れの描写といえるであろう。
ある意味、国祖が主宰した頃というのは、
不憫な時代だったのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 このとき常世姫(トコヨヒメ)以下数多の神司(カミガミ)は、
大いに驚き、各自得物をとりて、
前後左右より大島別および玉純彦に打つてかかりぬ。

大島別は老身のこととて、
たちまち取り押へられ縛(バク)されたり。

玉純彦はこれを見てますます怒り、獅子奮迅の勢(イキホヒ)をもちて、
当るを幸ひ前後左右に斬りまくる。

その勢に辟易したる常世姫以下は、
倉皇(サウクワウ)として蜘蛛(クモ)の子を散らすごとく逃げ散り、
姿をかくしたり。

後には八王大神高座(カウザ)に八重畳(ヤヘダタミ)を敷き悠然として、
この光景を見守りゐたり。

--------------------------------------------------------------

要するに、始めに入り口で大島別が二姫神達に驚かなければ、
こんな騒ぎは起きていないわけだ。

おかげで斬られた雑兵者こそ、哀れ至極な次第というものだ。

こんな具合で、大昔から、世間知らずの支配者や政治家が、
無意味な疑心暗鬼にかられた結果行われた頓珍漢な政策のために、
名も無き国民、市民達が、どれほど苦しまされて来たことだろう。

この大島別の有り様を見て、今後の支配者、政治家達は、
よくよく軽率な判断や行動を謹んで頂きたいものである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 玉純彦は八王大神にむかひ、

 『常世(トコヨ)の国(クニ)の邪神の変化(ヘンゲ)思ひ知れや』

と、またもや打つてかかれば、八王大神は少しも騒がず、
玉純彦の利(キ)き腕(ウデ)をぐつと握りしめたり。

玉純彦は強力(ガウリキ)の大神につかまれて、
その場に顔をしかめて平伏したりけり。

--------------------------------------------------------------

この八王大神は、道彦演ずる偽者であるけれど、
この冷静さ、そして強力さは、なかなか頼もしいものだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

八王大神はただちに立ちて、大島別の縛(イマシメ)を解き、
慇懃(インギン)にその背をなでさすり、
四辺(シヘン)をはばかりながら小声になりて、
常世城(トコヨジヤウ)における一切の秘密を物語り、
かつ真正(シンセイ)の八王大神は急病のため今は九死一生、
命旦夕(タンセキ)に迫る旨を耳うちし、
自分は一旦聾唖痴呆となりゐたる大道別(オホミチワケ)にして、
春日姫は真の八王道貫彦(ミチツラヒコ)の娘なること、
および八島姫は真の大島別の娘にして、
南高山にある八島姫は白狐旭(アサヒ)の化身なることを詳細に物語り、
かつ今後の議場におけるすべての計画を打合せたり。

--------------------------------------------------------------

ことの真相は、以上の通りであるけれども、
要するに、大道別等の行動が浅見であることが問題なのだ。

何かの策があっての演技ならば格好がつくけれども、
本気なのだから、その愚かさが尚哀れになるのだ。

正しい神の道にある者は、いついかなる時にも、
他者に対して軽々しく、
武力を用いる様なことがあってはならないのだ。

何処までも、自身の徳を磨いて、その徳でもって、
一切を安心させ、親しませる様な器量がなくてはならない。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 大島別、玉純彦は、はじめて疑ひ晴れ、
かつ大道別の智謀絶倫なるを感嘆し、二神司(ニシン)は喜び勇みて、
その場を退場せむとする時、
物蔭より現はれ出でたる八十枉彦(ヤソマガヒコ)は、

 『聞く神なしと思ふは、汝(ナンヂ)ら愚者の不覚、
  この由常世姫に報告せむ』

と足早に走り出むとするを、玉純彦はうしろより飛びかかり、
長刀を抜き、背部よりただ一刀のもとに斬り付けたれば、
八十枉彦は七転八倒、手をもがき足を動かせ、
虚空(コクウ)をつかんで脆(モロ)くも絶命したりける。

--------------------------------------------------------------

せめて峰打ちくらいにとどめて、
命くらいは救ってやればよいものを、
玉純彦は短慮浅見な神であると筆者は思う。

しかも、卑怯にも、武器も持たずに逃げる者を、
背後からバッサリと斬って捨てるとは、
日本の武士だったら、一生の笑い物になる様な愚行である。

御先祖様に申し訳ないから腹を斬れ!
と責められても仕方が無い行為である。

自身の命を狙って襲いかかった玉純彦の腕をねじ上げ、
背中をさすりながら事の次第を諄々と解き諭した、
道彦からの教訓が、何一つ身についていなかったのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 ここに八島姫、春日姫は赤き布をもつて八十枉彦の遺骸をつつみ、
その上をふたたび白布をもつておほひ、
玉純彦の背にしつかとくくりつけたり。

--------------------------------------------------------------

死者に対して無礼な行い。
こんなこと、よくあっさりと出来たものである。

こんな神が正義の神々だというのなら、
大洪水で大掃除されても、何一つ無理の無い話しといえるだろう。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 玉純彦は素知(ソシ)らぬ顔にヤツコス気取りにて、
大島別の後にしたがひ、六方(ロクパウ)を踏みながら
足音高く城内を面白き歌を唄ひつつ退出したりける。

--------------------------------------------------------------

勝ち誇るというのも、ここまで来るとまさに狂気だ。
勝てば官軍、何でもあり、つよいものがちの見本を、
国祖の神の配下自らがやっているのだから、
なんとも始末におえない話しである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 玉純彦は背の荷物を夜陰にまぎれて、
草原の野井戸(ノイド)にひそかに投げ込み、
素知らぬ風を装(ヨソホ)ひゐたり。
このことは常世城の何人も知る者なかりしといふ。

 (大正十年十二月二十三日、旧十一月二十五日、桜井重雄録)

--------------------------------------------------------------

玉純彦が、もし正しいことをしているというのならば、
大神の御加護を信じて、堂々と斬った者の首でも取って、
常世姫等の前に勝ち名乗りを上げればよいものを、
それすらせずに、まともな弔いもせずに、
草原の野井戸に死骸を投げ込むなど、
もっての他の悪行といわねばなるまい。

これでは、国祖が責任をとって、
地上主宰を辞任させられるのも無理はない。

神素盞嗚尊の神退いの真相も、尊の正しきを誇り、
奢り高ぶった五十猛の神々の乱暴狼藉の罪を、
素尊が一身に背負ったことによるのだが、
玉純彦のこの行いを見て、よくよく反省材料にして、
これからの国造りの糧としたいものである。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

第23章 思(オモ)ひ奇(キ)や[一] (173)

2008年11月17日 23時13分06秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第四篇 天地転動

 道彦(ミチヒコ)は神人(カミガミ)の推薦によりて、
八王大神(ヤツワウダイジン)の衣冠束帯を着用し、
ここに偽常世彦(ニセトコヨヒコ)となりすましたり。

常世姫(トコヨヒメ)の意見によりて、立派なる別殿を与へられ、
殿中にあまたの従者をしたがへて収(ヲサ)まりかへりゐたり。

奸黠(カンキツ)なる常世姫は、思ふところありて八王(ヤツワウ)、
八頭(ヤツガシラ)にたいし八王大神に面会することを許したり。

 春日姫(カスガヒメ)、八島姫(ヤシマヒメ)は、
玄関の間に盛装をこらして、八王の病気伺(ウカガ)ひにたいし、
応接の役にあたりゐたりしが、
ここにモスコーの城主道貫彦(ミチツラヒコ)は
病気を見舞ふべく別殿を訪ひたるに、
玄関には娘の春日姫が、花のごとき姿を現はし
あふるるばかりの愛嬌をたたへて控へをるにぞ、
道貫彦は思はず知らず大声を発し、

 『また出よつたなア』

と叫びながら、春日姫の顔を穴のあくほど見つめゐたり。

春日姫は言葉静かに、

 『父上様、おなつかしう存じます』

と叮嚀に頭(カシラ)を下げたるが、
その顔には悲喜交々(コモゴモ)まじり、
両眼からは涙さへ滲(ニジ)み出ゐたり。

姫は立ちてその手をとり、奥殿に案内せむとするや、
道貫彦は驚いてその手を振りはなち、眼を刮(クワツ)と見ひらき、

 『油断のならぬ大化物、その手は喰はぬぞ』

と一喝したるに、春日姫は強ひてその手をとり、
親切に奥へ導かむとするを、
右手(メテ)に持てる杖(ツエ)にて
春日姫の面上を力かぎりに打据ゑたり。

姫は悲鳴をあげてその場に打仆(ウチタフ)れける。

 道貫彦は杖の先にて姫の全身を衝(ツ)いたり、
叩(タタ)いたりしながら、

 『コン畜生、何時(イツ)までも馬鹿にしてやがる』

と怒り狂ひつつ姫には目もくれず、
悠々として杖を曳(ヒ)きながら、奥殿に進み入りぬ。

奥殿には八王大神端然として
神人(カミガミ)に取りまかれ控へゐたり。

 道貫彦は叮嚀に敬礼しながら、ふと見上げるとたんに、
八王大神の下顎(シタアゴ)の裏の黒子(ホクロ)に気がつき、
合点ゆかじと目を円くして見つめてゐたるが、
道貫彦は思はず、

 『汝(ナンヂ)は八王大神とは真赤な偽(イツハ)り、
  先年吾に仕へたる大道別(オホミチワケ)に非ずや。
  汝不届にもこの常世(トコヨ)の国(クニ)に渡り、
  神変不思議の魔術をつかひ、畏(オソ)れ多くも
  稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)の第三女常世姫を籠絡し、
  八王大神と僣越にも自称して、
  反逆無道の慾望を貫徹せむとし、世界の八王をはじめ、
  有力なる国魂(クニタマ)をここに参集せしめたる、
  その伎倆や感ずるにあまりあり。
  されど邪は正に敵しがたく、
  開会以来の議場の怪を見よ。
  これ全く国祖大神の御神慮に反し、
  神明の罰をうけ汝が目的の大望も九分九厘にて
  幾回ともなく打(ウ)ち覆(カヤ)され、
  つひには諸神環視の壇上にて急病を発し、
  大失態を演じたるに非ずや。
  かくのごとく覿面(テキメン)なる神罰を蒙(カウ)むりながら、
  なほ未だ目ざめず、あくまで反逆心を貫徹せむとし、
  ふたたび議場に現はれむとするか。
  われは開会の当日より
  汝の面体を熟視して疑団晴れざりしが、
  いま汝に接近してその化けの皮を感知せり。
  あらそはれぬ証拠は汝が下顎下(カガクカ)の黒子を見よ。
  他神人(タシン)はいざ知らず、
  われは汝を宰相として永く使用したれば、
  如何(イカ)に隠すとも隠されまじ。
  また春日姫なるものは汝が魔術によつて
  現はれたる悪狐の化身なり。
  われいま玄関口において彼女を打仆(ウチタフ)しおきたり。
  さぞ今ごろは彼女が正体を現はし、
  身体一面に毛を生じ仆れをるならむ。
  汝もまた或ひはその狐なるやもはかりがたし、
  化の皮を現はしてくれむ』

といふより早く、
携(タヅサ)へたる杖にて面上目がけて打据ゑむとするや、
この時数多(アマタ)の従臣は、

 『乱暴者』

と云ひながら、前後左右よりとりまき、
その杖をもぎとりにけり。

八王大神は目をもつて、
神司(カミガミ)らに何か合図をなしければ、
常世姫はじめ従者は一柱(ヒトハシラ)も残らず席を避けたり。

 あとには八王大神と道貫彦とただ二柱(フタハシラ)のみ。
ここに八王大神は座を立つて下座に降り、
一別以来の挨拶を声低に述べをはり、
かつ常世城の一切の秘密および春日姫が、
命(ミコト)の真の娘なることを打明け、
固く口外せざることを約しける。

道貫彦は始めて実の娘なることを悟り、
心も心ならず、急ぎこの場を立ちて玄関に出たり。

 春日姫は少しく面部に負傷しながら、
依然として玄関に控へゐる。

道貫彦は真の吾が娘なることを覚り、
飛びつきて抱へたき心持したれど、
大事の前の小事と動く心をみづから制し、
目に物言はせながら素知(ソシ)らぬ顔に、
この場を立去りにける。

 (大正十年十二月二十三日、旧十一月二十五日、外山豊二録)

『音惚花活気好@kakky』的『第23章 思ひ奇や[一] (173)』分解

2008年11月17日 23時11分57秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第四篇 天地転動

平成二十(2008)年十一月十七日 旧十月二十日(月)

 道彦(ミチヒコ)は神人(カミガミ)の推薦によりて、
八王大神(ヤツワウダイジン)の衣冠束帯を着用し、
ここに偽常世彦(ニセトコヨヒコ)となりすましたり。

常世姫(トコヨヒメ)の意見によりて、立派なる別殿を与へられ、
殿中にあまたの従者をしたがへて収(ヲサ)まりかへりゐたり。

奸黠(カンキツ)なる常世姫は、思ふところありて八王(ヤツワウ)、
八頭(ヤツガシラ)にたいし八王大神に面会することを許したり。

--------------------------------------------------------------

道彦は八王大神常世彦の替玉として登場するわけだが、
20世紀の後半には、世界中の中心人物達に替玉説が存在した。

ローマ法皇パウロ二世以前の歴代法皇達、
北朝鮮の父ともいえるキム・ウィルソン、
明治天皇、近くはサダム・フセイン等々。

サダム・フセインについては、どこかの国の俳優であるとか、
そんな話しまであった。

この様に替玉説が盛んになった頃は、
写真技術もまだまだ未熟だったし、
指紋鑑定などという技術も無かったから、
ちょっと似た顔をしていれば、
簡単に替玉として使うことが出来た。

日本の戦国時代の影武者の様なものだ。

現代だって、果たしてテレビでよく見るお偉いさん達が、
本物であるなどとは、もしかしたら言い切れないかもしれない。

とはいえ、疑ってばかりいても無駄に行数が増えるだけなので、
次に進むとしよう。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 春日姫(カスガヒメ)、八島姫(ヤシマヒメ)は、
玄関の間に盛装をこらして、八王の病気伺(ウカガ)ひにたいし、
応接の役にあたりゐたりしが、
ここにモスコーの城主道貫彦(ミチツラヒコ)は
病気を見舞ふべく別殿を訪ひたるに、
玄関には娘の春日姫が、花のごとき姿を現はし
あふるるばかりの愛嬌をたたへて控へをるにぞ、
道貫彦は思はず知らず大声を発し、

 『また出よつたなア』

と叫びながら、春日姫の顔を穴のあくほど見つめゐたり。

--------------------------------------------------------------

感動的な親子の再会というわけではなく、
父親からの一方的な懐疑の念に満ちた再会だ。

物事は疑いだしたらキリが無い。

「知らぬが仏」とかいう様に、
地獄の惨状などというものには気づかない方が幸せだ。

いわゆる「臭いものに蓋をする」やり方である。

世の中、馬鹿ほど気楽なものはない。

下手に利口が出ると、地獄さながらの人生になる。

同じ利口でも、社会から絶賛される様な、
飛び抜けた利口にならなければ、
幸福な人生をつかみとることは出来ない。

相手が娘とかどうとかいうのは棚に上げておいて、
偽物なら偽者で、目の保養になる美人をみかけたのだから、
阿呆になって、目尻を下げてよだれでも垂らしていれば、
気楽で愉快な気分を楽しむことが出来るというもの。

疑念でくもった心で、相手をどんなに穴のあくほどみつめても、
本当のことが見えて来るものではない。

見ようとしなくても、普通にしていれば、
相手が偽者ならば、必ず「あれっ?」と思う部分に気づくものだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

春日姫は言葉静かに、

 『父上様、おなつかしう存じます』

と叮嚀に頭(カシラ)を下げたるが、
その顔には悲喜交々(コモゴモ)まじり、
両眼からは涙さへ滲(ニジ)み出ゐたり。

姫は立ちてその手をとり、奥殿に案内せむとするや、
道貫彦は驚いてその手を振りはなち、眼を刮(クワツ)と見ひらき、

 『油断のならぬ大化物、その手は喰はぬぞ』

と一喝したるに、春日姫は強ひてその手をとり、
親切に奥へ導かむとするを、
右手(メテ)に持てる杖(ツエ)にて
春日姫の面上を力かぎりに打据ゑたり。

姫は悲鳴をあげてその場に打仆(ウチタフ)れける。

--------------------------------------------------------------

大洪水後に起こる三五教(アナナヒキョウ)は無抵抗主義である。

どんなことがあっても、
相手を殴る様なことは決してしない。

しかし、まだこの頃は、三五教が出現する以前のことだから、
正神といえども、こんな具合に暴力的なのだ。

三五教の宣伝使達の武器は舌の剣である。

言い向け和(ヤワ)しの矛(ホコ)を用いるのだ。

つまり相手にわかるように丁寧に語り合うことで、
神の子本来の素直さを復活させて頂くのだ。

何があっても、ここでの道貫彦の様に、
暴力を用いることはしないのである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 道貫彦は杖の先にて姫の全身を衝(ツ)いたり、
叩(タタ)いたりしながら、

 『コン畜生、何時(イツ)までも馬鹿にしてやがる』

と怒り狂ひつつ姫には目もくれず、
悠々として杖を曳(ヒ)きながら、奥殿に進み入りぬ。

奥殿には八王大神端然として
神人(カミガミ)に取りまかれ控へゐたり。

--------------------------------------------------------------

例え相手が、狐でも狸でも、犬でも猫でも、
可愛い大切な生き物である。

畜生でも何でも、
滅多やたらになぶりものにするものではない。

肉体保存の必要があって、
ごく少量の肉をいただくのみで充分なのだ。

そうした神聖な理由無しには、
相手がどんな種類の生き物であろうと、
こんな風に乱暴に扱ってはならないのである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 道貫彦は叮嚀に敬礼しながら、ふと見上げるとたんに、
八王大神の下顎(シタアゴ)の裏の黒子(ホクロ)に気がつき、
合点ゆかじと目を円くして見つめてゐたるが、
道貫彦は思はず、

 『汝(ナンヂ)は八王大神とは真赤な偽(イツハ)り、
  先年吾に仕へたる大道別(オホミチワケ)に非ずや。
  汝不届にもこの常世(トコヨ)の国(クニ)に渡り、
  神変不思議の魔術をつかひ、畏(オソ)れ多くも
  稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)の第三女常世姫を籠絡し、
  八王大神と僣越にも自称して、
  反逆無道の慾望を貫徹せむとし、世界の八王をはじめ、
  有力なる国魂(クニタマ)をここに参集せしめたる、
  その伎倆や感ずるにあまりあり。

--------------------------------------------------------------

これは道貫彦の一人勝手な思い違いである。
何故なら、道彦の変装は、常世姫の提案によるからだ。

こんな具合に、道貫彦は、
相手の下顎の裏の黒子に気づいたことで、
若干、慢心してしまい、
自分勝手な解釈をすることになったのだ。

少しのことで逆上し、ところかまわず、
すぐに暴力をふるう様な短気さが、
ここでは仇になっているのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

  されど邪は正に敵しがたく、
  開会以来の議場の怪を見よ。
  これ全く国祖大神の御神慮に反し、
  神明の罰をうけ汝が目的の大望も九分九厘にて
  幾回ともなく打(ウ)ち覆(カヤ)され、
  つひには諸神環視の壇上にて急病を発し、
  大失態を演じたるに非ずや。
  かくのごとく覿面(テキメン)なる神罰を蒙(カウ)むりながら、
  なほ未だ目ざめず、あくまで反逆心を貫徹せむとし、
  ふたたび議場に現はれむとするか。

--------------------------------------------------------------

この部分だけ見れば、至極尤もなご意見なのだが、
初っぱなからの解釈が一つ違うだけで、
せっかくの洞察力も、頭を冷やせば間抜けな誤解、
ということになってしまうのである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

  われは開会の当日より
  汝の面体を熟視して疑団晴れざりしが、
  いま汝に接近してその化けの皮を感知せり。
  あらそはれぬ証拠は汝が下顎下(カガクカ)の黒子を見よ。
  他神人(タシン)はいざ知らず、
  われは汝を宰相として永く使用したれば、
  如何(イカ)に隠すとも隠されまじ。
  また春日姫なるものは汝が魔術によつて
  現はれたる悪狐の化身なり。
  われいま玄関口において彼女を打仆(ウチタフ)しおきたり。
  さぞ今ごろは彼女が正体を現はし、
  身体一面に毛を生じ仆れをるならむ。
  汝もまた或ひはその狐なるやもはかりがたし、
  化の皮を現はしてくれむ』

といふより早く、
携(タヅサ)へたる杖にて面上目がけて打据ゑむとするや、
この時数多(アマタ)の従臣は、

 『乱暴者』

と云ひながら、前後左右よりとりまき、
その杖をもぎとりにけり。

八王大神は目をもつて、
神司(カミガミ)らに何か合図をなしければ、
常世姫はじめ従者は一柱(ヒトハシラ)も残らず席を避けたり。

--------------------------------------------------------------

道貫彦の心情は察するにあまりあるけれども、
「邪は正に勝たず」ということが徹底していれば、
こんな風に乱暴者扱いされずに済むのだ。

道貫彦は確かに地の高天原の正神であるけれども、
その様な立場に選ばれたということに、
隠し難い慢心が芽生えていたからこそ、
これくらいのことで逆上して、
すぐに暴力にうったえようとしてしまったのだ。

こういうことでは、
例え、常世姫等が替玉を用いて嘘をついているとはいえども、
いかなる時にも、
誠の道の模範を示さねばならぬ立場にありながら、
こういうことをやっていては、
かえってしっぺ返しを食らうのは当然のことだ。

定年退職直前の評判の警察官が、
たった一度、魔が差して下着泥棒を未遂しただけで、
それまで積み上げた好い評判を、
一気に失ってしまったという実例も、
ついこの間、耳にしたばかりだが、
つまり、ここでの道貫彦の振る舞いというのは、
それ同様の愚かな行為であったわけである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 あとには八王大神と道貫彦とただ二柱(フタハシラ)のみ。
ここに八王大神は座を立つて下座に降り、
一別以来の挨拶を声低に述べをはり、
かつ常世城の一切の秘密および春日姫が、
命(ミコト)の真の娘なることを打明け、
固く口外せざることを約しける。

道貫彦は始めて実の娘なることを悟り、
心も心ならず、急ぎこの場を立ちて玄関に出たり。

--------------------------------------------------------------

例え偽者とはいえ、ここでの偽八王大神道彦は、
すぐに取り乱して乱暴を働いた、
かつての上司である道貫彦よりも格が上といえるだろう。

邪神の計略に大人しく従って、忠義を尽くした上で、
この様に、偽りの職とはいえ、八王大神の権威を用いて、
道貫彦の誤解を解いたというのは、
実に思慮深い態度である。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 春日姫は少しく面部に負傷しながら、
依然として玄関に控へゐる。

道貫彦は真の吾が娘なることを覚り、
飛びつきて抱へたき心持したれど、
大事の前の小事と動く心をみづから制し、
目に物言はせながら素知(ソシ)らぬ顔に、
この場を立去りにける。

 (大正十年十二月二十三日、旧十一月二十五日、外山豊二録)

--------------------------------------------------------------

ここから学ぶべきことは、
いろいろ心に感ずることがあっても、
一人勝手に決めつけず、よくよく事情を深く確認してから、
思慮分別のある行動を心がけるべきだということだ。

例え、縁者が敵方にある様なことがあっても、
何か事情があるに違いないと、相手の誠意を信じて、
落ちついて行動していれば、誠の道に適うのであって、
もしどちらかに邪心があれば、
その瞬間に誠の道から外れてボロが出て、
誤った分だけ、痛い眼を見て気づかされるのだ。

そういうことがあっても、慢心が無く、
反省する心が強ければ、決して萎えるものではない。

すぐに立ち直って、新たな心で進展することが出来るのだ。
これが本当の楽天主義となり、
常に清潔で統一された本道を歩むことになるのである。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

第22章 窮策の替玉(カヘダマ) (172)

2008年11月11日 02時50分42秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第三篇 正邪混交

 いかなる美事善事といへども、
天地根本の大神(オホカミ)の御許容なきときは、
完全に何の事業といへども、成功すること不可能なり。

世界の一切はすべて神の意志のままにして、
神は宇宙一切をして至美至善の境界に転回せしめむとするが
第一の理想にして、かつ生命なり。

ゆゑに如何(イカ)なる善なる事業といへども、
第一に神明を祭り、神明の許諾を得て着手せざれば、
その善も神をして悦ばしむることを得ず。

つまり神の眼よりは、自由行動の所為(シヨイ)と見られ、
かつ宇宙の大本たる神明の尊厳を犯(ヲカ)すものとなるがゆゑなり。

いはんや、心中大なる野心を包蔵し、
天下の神人を籠絡したる八王大神(ヤツワウダイジン)および
大自在天(ダイジザイテン)一派の今回の常世(トコヨ)会議における、
紛糾混乱怪事百出するなどは、
国祖の神の大御心にかなはざりし確なる証拠なるべし。

これを思へば人間はいかなる善事をなすも、
まづ神の許しをうけて、
至誠至実の心をもつて熱心にとりかからざるべからざるものなり。

 ある信徒の中には、抜けがけの功名を夢み、神のため道のため、
非常なる努力をはらひ九分九厘の域に達したるとき、
その誠意は貫徹せずしてガラリとはづれることあり。

その時にいふ。

吾々は神のため、道のため、最善の努力をつくすにもかかはらず、
神はこれを保護したまはず。

神ははたしてこの世にありや、
一歩をゆづりて神が果してありとせば、
無力無能理義を解せざるものと嘲罵(テウバ)し、
あるひは恨(ウラ)み、つひには信仰より離るる者多し。
しかしそれこそ大なる誤解慢心と云ふべし。

神が人間をこの世に下したまへる目的は、何事も神の命のまにまに、
天地の経綸(ケイリン)に当らしめむが為なり。

もし、神にして善事ならば自由行動をなしても差支なしとする時は、
ここに宇宙一切の秩序を破壊するの端を開くことを
忌(イ)みたまふが故なり。

ゆゑに、一旦神に祈願し着手したることは、
たとへその事が万一失敗に終るとも、ふたたび芽を吹き出し、
立派に花咲き実る時期あるものなり。

これに反して自己の意志よりはじめて失敗したることは、
決して回復の時期はなきのみならず、神の怒りに触れて、
つひには身を亡ぼす結果をきたすものなり。

 八王大神はじめ、常世姫(トコヨヒメ)らの連日の献身的大活動も、
最初に神の認可を得ず、
加ふるに胸中に大野心を包蔵しての開催なれば、
成功せざるは当然の理なり。

しかして八王大神の壇上にて病気突発したるは、
大江山(タイカウザン)の鬼武彦(オニタケヒコ)が、国祖の神命によりて、
邪神の陰謀を根本的に破壊せむとしたる結果なり。

八王大神の急病によりて、常世城の大奥は非常なる混雑をきはめ、
そのためせつかくの会議も、
一週間停会するのやむなきに立ちいたりぬ。

八王八頭(ヤツワウヤツガシラ)をはじめ、今回会議に集ひたる神人(カミ)は、
代るがはる八王大神の病気を伺(ウカガ)ふべく、
夜を日についで訪問したりしが、常世姫は代りてこれに応接し、
一柱(ヒトハシラ)の神人もその病床に入ることを許さざりける。

八王大神は、日に夜に幾回となく激烈なる吐瀉(トシヤ)をはじめ、
胸部、腹部の疼痛はげしく、苦悶の声は室外に漏(モ)れ聞えたり。

かかる苦悶のうちにも、今回の大会議の成功せむことを
夢寐(ムビ)にも忘れぬ執着心を持ちゐたるなり。

大神の病は時々刻々に重るばかりにして、肉は落ち骨は立ち、
ちようど田舎(イナカ)の荒家(アバラヤ)のごとく骨の壁下地現はれ、
バツチヨウ笠のごとく、骨と皮とに痩(ヤ)せきり仕舞ひけり。

 常世姫は、重なる神人(カミガミ)を
八王大神の枕頭に集めて協議を凝らしたり。

常世姫はいかに雄弁なりといへども、
この大会議をして目的を達せしむるには、
少しく物足りなく、不安の感あり。

どうしても八王大神の顔が議場に現はれねば、
たうてい進行しがたき議場の形勢なりける。

 ここに謀議の結果、八王大神と容貌、骨格、身長、態度、
分厘(フンリン)の差もなき道彦(ミチヒコ)に、
八王大神の冠(カンムリ)を戴かせ、正服を着用せしめて、
身代りとすることの苦策を企てける。

道彦は招かれて八王大神の病室に入りければ、
常世姫は前述の結果を手真似で道彦に伝へけるに、
道彦は嬉々として、ウーと一声、
首を二三度も縦に振りて応諾の意を表しければ、
神人(カミガミ)らは道彦に衣冠束帯を着用せしめて見たるに、
妻の常世姫さへも、そのあまりによく酷似せるに驚きにける。

 (大正十年十二月二十三日、旧十一月二十五日、加藤明子録)

『音惚花活気好@kakky』的『第22章 窮策の替玉(172)』分解

2008年11月11日 02時49分20秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第三篇 正邪混交

平成二十(2008)年十一月十一日 旧十月十四日(火)

 いかなる美事善事といへども、
天地根本の大神(オホカミ)の御許容なきときは、
完全に何の事業といへども、成功すること不可能なり。

世界の一切はすべて神の意志のままにして、
神は宇宙一切をして至美至善の境界に転回せしめむとするが
第一の理想にして、かつ生命なり。

ゆゑに如何(イカ)なる善なる事業といへども、
第一に神明を祭り、神明の許諾を得て着手せざれば、
その善も神をして悦ばしむることを得ず。

--------------------------------------------------------------

人の願いと、天地根本の大神の見定めというものには、
とかく、大きな開きがあるものだ。

やろうやろうと焦ってみても、
どうしたってうまくいかないことはうまくいかず、
やろうやろうという力みが消えて、
ほとんどすっかり忘れていると、
いつの間にかキッチリ準備されていて、
あれよあれよという間に、
何もかもトントン拍子で進んでしまう。

人間の欲が絡んで、仕組みが汚れると、
どんなによい企画でも自然消滅してしまうものである。

消え去ってしまった企画には、
いつまでもこだわらないがよい。

その企画の種は、土に植えられたから消えたのだ。

その後は、しばらく忘れていたらよいのだ。

必ず、時を得て芽を吹いて来ることになる。

その種を植えた処に、四六時中つききりでいることなど、
まったくもって時間の無駄である。

土とにらめっこしている時間に、
他にやれることがたくさんある。

それに力を注いでいれば、忘れた頃に、
種が神の時を得て、自然に芽吹くのである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

つまり神の眼よりは、自由行動の所為(シヨイ)と見られ、
かつ宇宙の大本たる神明の尊厳を犯(ヲカ)すものとなるがゆゑなり。

いはんや、心中大なる野心を包蔵し、
天下の神人を籠絡したる八王大神(ヤツワウダイジン)および
大自在天(ダイジザイテン)一派の今回の常世(トコヨ)会議における、
紛糾混乱怪事百出するなどは、
国祖の神の大御心にかなはざりし確なる証拠なるべし。

これを思へば人間はいかなる善事をなすも、
まづ神の許しをうけて、
至誠至実の心をもつて熱心にとりかからざるべからざるものなり。

--------------------------------------------------------------

人為でもって実現しないことは、
いつまでも執拗に追い続けたりせずに、
神様の御心の方に、すっかり投げ返してしまえばよい。

そうはいっても、一般企業の経営者や管理職にとっては、
こんな無責任なことは無いと、きっと思えるに違いない。

だから、人為でこれらの事業は強行されるわけだが、
後になれば必ず、歪みが露見して、問題を引き起こすものだ。

一時的には成功したかの様に見えても、後でボロが出れば、
それは成功を治めたとはいえない。

悔いを残す失敗をしたということになるのである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 ある信徒の中には、抜けがけの功名を夢み、神のため道のため、
非常なる努力をはらひ九分九厘の域に達したるとき、
その誠意は貫徹せずしてガラリとはづれることあり。

その時にいふ。

吾々は神のため、道のため、最善の努力をつくすにもかかはらず、
神はこれを保護したまはず。

神ははたしてこの世にありや、
一歩をゆづりて神が果してありとせば、
無力無能理義を解せざるものと嘲罵(テウバ)し、
あるひは恨(ウラ)み、つひには信仰より離るる者多し。
しかしそれこそ大なる誤解慢心と云ふべし。

--------------------------------------------------------------

「かむながら」というのは、実に難しいものだ。

何が何でも実現せねばならぬと決心して、断行せねばならないし、
その努力を、己一人の行いとして考えるわけにはいかぬ。

ある時点から、完全に、
天地根本の大神の道具になりきならねばならぬ。

そういう生き方は、利益重視の会社組織や、
それに準ずる各組織には、ほとんど不可能なことであろう。

筆者の場合、特に、どこかの組織にやってもらいたいこと、
というのは無いので、やろうやろうと思わなくても、
とにかく続いている、この『霊界物語学の日記』が、
おそらく御神許を得てやらせて頂いていることなのだ、
と、思うのである。

あと、今年の中頃から復帰した、
『霊界物語の掲示板』への書き込みなども、
何か、時を得て、天地根本の神様から許されたことなのだろうと、
虚心坦懐に受けとめさして頂いている昨今である。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

神が人間をこの世に下したまへる目的は、何事も神の命のまにまに、
天地の経綸(ケイリン)に当らしめむが為なり。

もし、神にして善事ならば自由行動をなしても差支なしとする時は、
ここに宇宙一切の秩序を破壊するの端を開くことを
忌(イ)みたまふが故なり。

ゆゑに、一旦神に祈願し着手したることは、
たとへその事が万一失敗に終るとも、ふたたび芽を吹き出し、
立派に花咲き実る時期あるものなり。

これに反して自己の意志よりはじめて失敗したることは、
決して回復の時期はなきのみならず、神の怒りに触れて、
つひには身を亡ぼす結果をきたすものなり。

--------------------------------------------------------------

こういうことも、筆者は自身の体験としてよく知っている。

神離れしてしまっている方々のことは論外として、
一端、神と共なる道を進み出した以上は、
自分の思いだけでは、どうしても物事が成り立たなくなって来る。

世間一般の常識というものも、まるで通用しなくなる。

自身としては不本意と思える損な役回りでも、
とことん、神の大儀に殉ずる覚悟で、貫徹するよりないのだ。

周囲の期待とか、そういうものに答えて利益を得ようという、
人間くさいビジネスとは、相反する常識外の言動や生活をせねば
ならなくなってしまうようだ。

特に奇をてらっているわけではないけれども、
社会から誉められるための生き方とは、
時と場合によっては縁を切らねば、
天道に適った歩みが出来ぬということも多々ある。

というのも、この世のほとんどは、天地根本の大神の御心に沿わぬ、
九分九厘の産物であるから、ということになるのだが、
どういうことになっても、一端、誠の神様を信じたからは、
どんな結果になろうとも、従い進む以外はない。

それ以外には、己の生きる道は無いと覚悟していると、
よくもまあ、無事だった、ということになるものである。

下手に利口を出して先手を打とうとすると、
失敗することの方が多い。

機に応じて攻め、機に応じて待つ。

これもなかなか、度胸がいるものなのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 八王大神はじめ、常世姫(トコヨヒメ)らの連日の献身的大活動も、
最初に神の認可を得ず、
加ふるに胸中に大野心を包蔵しての開催なれば、
成功せざるは当然の理なり。

しかして八王大神の壇上にて病気突発したるは、
大江山(タイカウザン)の鬼武彦(オニタケヒコ)が、国祖の神命によりて、
邪神の陰謀を根本的に破壊せむとしたる結果なり。

八王大神の急病によりて、常世城の大奥は非常なる混雑をきはめ、
そのためせつかくの会議も、
一週間停会するのやむなきに立ちいたりぬ。

八王八頭(ヤツワウヤツガシラ)をはじめ、今回会議に集ひたる神人(カミ)は、
代るがはる八王大神の病気を伺(ウカガ)ふべく、
夜を日についで訪問したりしが、常世姫は代りてこれに応接し、
一柱(ヒトハシラ)の神人もその病床に入ることを許さざりける。

--------------------------------------------------------------

『大江山』と書いて『たいこうざん』と読む時は、正神の本拠で、
『おおえやま』と読む時には、邪神の本拠になるんだそうだ。

ということは、正神側の鬼武彦が、国祖の神命によりて、
邪神の陰謀を根本的に破壊せむと、八王大神を発病させた、
ということになるわけだ。

一見、よいことの様だけれども、こんなことをしていたのでは、
後に国祖の御退隠を招くことになっても、無理からぬことだな、
ということになりそうだ。

国祖自ら、天罰を受ける様な陰湿で狡猾なことをしている、
ということになってしまう。

とても、誠一つの正々堂々たる神様のやり方とは言えそうもない。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

八王大神は、日に夜に幾回となく激烈なる吐瀉(トシヤ)をはじめ、
胸部、腹部の疼痛はげしく、苦悶の声は室外に漏(モ)れ聞えたり。

かかる苦悶のうちにも、今回の大会議の成功せむことを
夢寐(ムビ)にも忘れぬ執着心を持ちゐたるなり。

大神の病は時々刻々に重るばかりにして、肉は落ち骨は立ち、
ちようど田舎(イナカ)の荒家(アバラヤ)のごとく骨の壁下地現はれ、
バツチヨウ笠のごとく、骨と皮とに痩(ヤ)せきり仕舞ひけり。

--------------------------------------------------------------

自ら病を招く様なことをやって、こんなことになっているのなら、
国祖がやって来て、汝、いかがした?とかいって、
救うのもさまになるけれども、鬼武彦の働きで、
ということになると、やっぱり、
一度は八王大神に天下を採らせる様にした、
天祖の御心も見えて来る。

誠の道には、まったくもって依怙贔屓というものがない、
畏るべきものである。

筆者には、とてもとても、貫き通せるものでもないから、
瑞霊真如のお救いに、ただただすがるより無さそうである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 常世姫は、重なる神人(カミガミ)を
八王大神の枕頭に集めて協議を凝らしたり。

常世姫はいかに雄弁なりといへども、
この大会議をして目的を達せしむるには、
少しく物足りなく、不安の感あり。

どうしても八王大神の顔が議場に現はれねば、
たうてい進行しがたき議場の形勢なりける。

--------------------------------------------------------------

浅はかなことだけれども、天祖の眼からは、
八王大神にも常世彦にも、同情すべき点あり、
ということにしてしまうようなことを、
国祖が影からしてしまったわけである。

しかし、国祖本人は、まだ、
自分が正しいことをしていると信じているのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 ここに謀議の結果、八王大神と容貌、骨格、身長、態度、
分厘(フンリン)の差もなき道彦(ミチヒコ)に、
八王大神の冠(カンムリ)を戴かせ、正服を着用せしめて、
身代りとすることの苦策を企てける。

道彦は招かれて八王大神の病室に入りければ、
常世姫は前述の結果を手真似で道彦に伝へけるに、
道彦は嬉々として、ウーと一声、
首を二三度も縦に振りて応諾の意を表しければ、
神人(カミガミ)らは道彦に衣冠束帯を着用せしめて見たるに、
妻の常世姫さへも、そのあまりによく酷似せるに驚きにける。

 (大正十年十二月二十三日、旧十一月二十五日、加藤明子録)

--------------------------------------------------------------

常世姫の謀略は、元々、邪神の悪事であるから、
罪としては常習性があるが、役どころとしては自然なことだが、
誠の道を貫徹すべき立場にある正神側が、
影でこそこそ謀略を用いるというのは、
今風にいうとスキャンダルであって、問題になるのだ。

罪人が善事を行うインパクトよりも、
善人が悪事を行う方が、数倍インパクトもあり、話題性もある。

勿論、替え玉がよくないことは、言うまでもない。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

第21章 敵本主義(テキホンシユギ) (171)

2008年11月03日 23時57分10秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第三篇 正邪混交

 八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)の堂々として毫末も抜目なき、
真綿で首を締めつくるごとき手痛き雄弁に列座の諸神司(シヨシン)、
ことに直接の関係ある八王は、吾身の境遇と、その責任に省みて、
鷺(サギ)を烏(カラス)といひくるめたる巧妙なる言論にたいし、
抗弁反駁の余地なく、
たがひに顔を見あはせ当惑至極の体(テイ)にて青息吐息、
五色の息を一時にホツと吐き、
さすが雄弁の行成彦(ユキナリヒコ)も猿田姫(サダヒメ)、出雲姫(イヅモヒメ)、
斎代彦(トキヨヒコ)その他の神司(カミガミ)も悄気(シヨゲ)かへりて、

 『八王大神め、よくも吐(ヌカ)したり』

と心中に驚異しつつ形勢いかになり行かむかと、とつおいつ、
諸行無常(シヨギヤウムジヤウ)是生滅法(ゼシヤウメツパウ)の因果を
つらつら思はざるを得ざりける。

 連日の諸神司が至誠一貫全力を傾注して、
神界のために舌端火花を散らして
奮闘したるその熱誠と猛烈なる大々的攻撃も、
沖の鴎(カモメ)の諸声(モロゴエ)と聞き流したる八王大神が、
敵の武器をもつて敵を制するてふ甚深なる計略と、
その表面的雅量とによりて、国祖の聖慮を云為(ウンイ)し、
敵の弱点を捕へ、鼠を袋に入れて堅く口を締めたるごとく、
咽元(ノドモト)に短刀を突付けたるがごとき、辛辣なる手腕に、
いづれも敬服するのやむなきにいたらしめ、
満座の諸神人(シヨシン)を小児のごとく、
内心に見くびりさげしみながら、
綽々(シヤクシヤク)として無限の余裕を示したるその威容は、
常世城(トコヨジヤウ)の大会議における
檜舞台(ヒノキブタイ)の千両役者としての価値、
十分に備はりにける。

 幸か不幸か、八王大神はいま一息にして、
その目的を達せむとする折しも、突然として発病したれば、
彼我(ヒガ)の諸神人は周章狼狽し、懇切に介抱しつつありき。

常世城の従臣、春日姫(カスガヒメ)、八島姫(ヤシマヒメ)は驚きながら、
城中奥深く八王大神の病躯を扶(タス)けて、
その艶姿を議場より没したりける。

 この突然の出来事に、城内は上を下へと、
大騒ぎの真最中、突然登壇したる神人(カミ)は、
大自在天(ダイジザイテン)の重臣たる大鷹別(オホタカワケ)なりき。

 『アヽ満場の諸神人(シヨシン)よ、
  本会議の主管者たる八王大神は、
  御承知のとほり急病のため
  退席のやむなきに立到られましたことは、
  相互に遺憾のいたりであります。しかしながら、
  吾々はこの大切なる会議を、
  中止することは出来なからうと思ふのであります。
  吾々は八王大神のあまりに天下の平和について、
  造次にも顛沛(テンパイ)にも忘れたまはざる、
  至誠の心魂(シンコン)ここに凝(コ)つて、
  つひに病を発したまふたのではあるまいかと、
  推察する次第でありますが、
  諸神人はいかがの御感想を保持したまふや。
  思ふに吾々はじめお互ひに、
  八王大神の御熱誠なる訓戒的お宣示にたいして、
  一言の辞(コトバ)なきを思ひ、
  実に、汗顔の至りにたへませぬ。
  直接の関係者たる八王各位においても、
  腹の底をたたけば何れも同じ穴の狐、
  疵(キズ)もつ足の仲間といはれても、
  答弁の辞(ジ)はなからうと思ひます。
  いづれも神定の天職を全うされた神司(カミガミ)らは、
  あまり沢山には、この席に列なる方々には、
  失敬ながらあるまいと断言してはばからないのであります。
  諸神司のあひだには斯(カ)くのごとき重大なる会議は、
  国祖(コクソ)の御許容を得て、
  神定の聖地エルサレム城において、開催するが至当である、
  いたづらに常世城において会議を開くことをもつて、
  自由行動、天則違反のはなはだしきものと
  主張さるる神司らもありましたが、
  諸神人、胸に手をあてて、
  冷静に御熟考をしていただきたいのであります。
  万々一、前日来のごとき
  紛乱の議会を聖地において開いたとすれば、
  第一、大神の聖地を汚し神慮を悩ませたてまつり、
  吾々は天地の神明にたいして謝するの辞がありますまい。
  賢明卓識の八王大神は、
  今日の結末を事前に感知してやむを得ず、
  この地において会議を開き、聖地を汚さざらしめむと、
  苦心されたる、その敬神の御心と天眼力(テンガンリキ)は、
  吾々凡夫の企及すべからざるところであります。
  諸神人は八王大神の理義明白なる御主張にたいし、
  すみやかに御賛成あらむことを希望いたします』

と述ぶるや、末席の方より、

 『ヒヤヒヤ』

 『ノウノウ』

の声湧(ワ)き起り、中には

「ヒヤヒヤ冷やかなノウノウの能弁者」

と叫ぶものもあり。

 この時、緊急動議ありとて、
登壇したるは例の斎代彦(トキヨヒコ)なり。

斎代彦は、例のごとく右手をもつて鼻をこぢ上げ、
両眼をなで、洟(ミヅバナ)を手の甲(カフ)にて拭ひ、
その手を右側の着衣にてぬぐひながら、

 『今日は、八王大神の御急病なればこれにて解散いたし、
  明日あらためて開会せばいかん。
  諸神人の御意見を承(ウケタマハ)りたし』

と大声に呼ばはりければ、満座の諸神人(シヨシン)は、
八九分まで手を拍つて賛成したり。

 ここに、当日の会議もまた不得要領のうちに幕を閉ぢられたり。

 アヽ今後の八王大神の病気および、
会議の結果は如何(イカ)に展開するならむか。

 (大正十年十二月二十二日、旧十一月二十四日、出口瑞月)
 (第二〇章~第二一章、昭和十年一月二十一日、
                於八代駅長室、王仁校正)

『音惚花活気好@kakky』的『第21章 敵本主義(171)』分解

2008年11月03日 23時55分50秒 | Weblog
霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻 第三篇 正邪混交

平成二十(2008)年十一月三日 旧十月六日(月)

 八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)の堂々として毫末も抜目なき、
真綿で首を締めつくるごとき手痛き雄弁に列座の諸神司(シヨシン)、
ことに直接の関係ある八王は、吾身の境遇と、その責任に省みて、
鷺(サギ)を烏(カラス)といひくるめたる巧妙なる言論にたいし、
抗弁反駁の余地なく、
たがひに顔を見あはせ当惑至極の体(テイ)にて青息吐息、
五色の息を一時にホツと吐き、
さすが雄弁の行成彦(ユキナリヒコ)も猿田姫(サダヒメ)、出雲姫(イヅモヒメ)、
斎代彦(トキヨヒコ)その他の神司(カミガミ)も悄気(シヨゲ)かへりて、

 『八王大神め、よくも吐(ヌカ)したり』

と心中に驚異しつつ形勢いかになり行かむかと、とつおいつ、
諸行無常(シヨギヤウムジヤウ)是生滅法(ゼシヤウメツパウ)の因果を
つらつら思はざるを得ざりける。

--------------------------------------------------------------

『霊界物語』が説く『霊主体従』とは、
『霊五体五』の比率でありながら、霊を主として体を従わせるのだ。

しかし、今、ここで八王大神常世彦が、鷺を烏といいくるめる様に、
巧妙に言論したことは、つまり霊的方面のみを重視した理想論を、
美言を並べて雄弁に語り尽くしたに過ぎないのだ。

体的方面の理想を無視して、天の理想、霊的理想のみを持ち出して、
地上には既に天から定められた国祖が在り、
その国祖が定めた八王八頭の神々が在るにも関わらず、
この順序を飛び越えて、世界を乗っ取ろうと躍起になっているのだ。

ちょうど今、地球上が、欧米的自由文明を謳歌しながら、
どんどん環境破壊されて行き、
自由競争という名のもとに激しい格差社会が生まれ、
皆が寄って集って強い者勝ちの頂点を極めようとしたその反動で、
魚が水から陸に上がって死んでしまう様な状況を招こうとしているのだ。

人が羽根も無いのに、ビルの屋上から手をばたつかせて墜落する様な、
そんな事態を招いているのである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 連日の諸神司が至誠一貫全力を傾注して、
神界のために舌端火花を散らして
奮闘したるその熱誠と猛烈なる大々的攻撃も、
沖の鴎(カモメ)の諸声(モロゴエ)と聞き流したる八王大神が、
敵の武器をもつて敵を制するてふ甚深なる計略と、
その表面的雅量とによりて、国祖の聖慮を云為(ウンイ)し、
敵の弱点を捕へ、鼠を袋に入れて堅く口を締めたるごとく、
咽元(ノドモト)に短刀を突付けたるがごとき、辛辣なる手腕に、
いづれも敬服するのやむなきにいたらしめ、
満座の諸神人(シヨシン)を小児のごとく、
内心に見くびりさげしみながら、
綽々(シヤクシヤク)として無限の余裕を示したるその威容は、
常世城(トコヨジヤウ)の大会議における
檜舞台(ヒノキブタイ)の千両役者としての価値、
十分に備はりにける。

--------------------------------------------------------------

今も通じるかどうかはわからないけれど、
ちょっと前なら、男に強い無法者に脅しかけられたら、
オカマの真似をすれば、
何とかその場を逃げおおせることが出来た。

強い者に対して、いたずらに喧嘩を挑んでも無駄である。

肉体を持っている以上は、その肉体の限界を知り、
これを最大限に利用して弱く行くのだ。

心がどんなに強くても、肉体が追いつかない限界がある。

つまり、強い者に対しては、徹底的に弱者として接するのだ。

小判鮫か、犬や猫の体毛の中に生く蚤やシラミの様に、
強い者に対しては甘えるのである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 幸か不幸か、八王大神はいま一息にして、
その目的を達せむとする折しも、突然として発病したれば、
彼我(ヒガ)の諸神人は周章狼狽し、懇切に介抱しつつありき。

常世城の従臣、春日姫(カスガヒメ)、八島姫(ヤシマヒメ)は驚きながら、
城中奥深く八王大神の病躯を扶(タス)けて、
その艶姿を議場より没したりける。

--------------------------------------------------------------

大正時代の文芸人達は、理想ばかり追い過ぎた挙げ句に、
肉体を虐使したので、病弱だったり、
自殺したりして短命だった。

八王大神も、その器に合わない理想論ばかりを説いたから、
肉体の方が消化不良を起こして、倒れてしまったのだ。

筆者も若い頃は、理想論者であったから、
常に肉体のあちこちに歪みが出て、
得体の知れない悪寒に悩まされたものだが、
肉体の事情が判る様になり、
無闇に理想論を振りかざさなくなり、
霊五体五になる様になってからは、随分と健康になった。

ただし、耐え難い人間関係やルールの中にいると、
今でも喉をやられるデリケートさは残っているけれども…

王仁三郎聖師も、人は嫌な仕事をすると病気になる、
と仰っておられたが、八王大神も、心にも無い理想論を並べ、
言論したので、急に発病したのだろう。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 この突然の出来事に、城内は上を下へと、
大騒ぎの真最中、突然登壇したる神人(カミ)は、
大自在天(ダイジザイテン)の重臣たる大鷹別(オホタカワケ)なりき。

 『アヽ満場の諸神人(シヨシン)よ、
  本会議の主管者たる八王大神は、
  御承知のとほり急病のため
  退席のやむなきに立到られましたことは、
  相互に遺憾のいたりであります。しかしながら、
  吾々はこの大切なる会議を、
  中止することは出来なからうと思ふのであります。
  吾々は八王大神のあまりに天下の平和について、
  造次にも顛沛(テンパイ)にも忘れたまはざる、
  至誠の心魂(シンコン)ここに凝(コ)つて、
  つひに病を発したまふたのではあるまいかと、
  推察する次第でありますが、
  諸神人はいかがの御感想を保持したまふや。

--------------------------------------------------------------

正しいことをしているのなら、
活気凛々としてますます力が湧くものだ。

しかし、どんなに綺麗言を並べても、
本心に反して無理な言動をしていれば、
こんな風に倒れてしまうのである。

霊と体は五分五分の関係であるから、
霊が体の監視役であると同時に、
体は霊の監視役でもあるのだ。

故に霊が暴走していれば、
体が追いつけなくなって倒れてしまうのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

  思ふに吾々はじめお互ひに、
  八王大神の御熱誠なる訓戒的お宣示にたいして、
  一言の辞(コトバ)なきを思ひ、
  実に、汗顔の至りにたへませぬ。
  直接の関係者たる八王各位においても、
  腹の底をたたけば何れも同じ穴の狐、
  疵(キズ)もつ足の仲間といはれても、
  答弁の辞(ジ)はなからうと思ひます。
  いづれも神定の天職を全うされた神司(カミガミ)らは、
  あまり沢山には、この席に列なる方々には、
  失敬ながらあるまいと断言してはばからないのであります。

--------------------------------------------------------------

それでも、地位の上下が生まれるのは、
やはり、表面的な平等さからは見抜くことが出来ない、
何かの取り柄があって、そうなっているのである。

間違った処を選んで、どんなに努力しても報われぬ。

どんなに困難があったとしても、正しい処を選んで、
そこで懸命の努力をして初めて報われるのだ。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

  諸神司のあひだには斯(カ)くのごとき重大なる会議は、
  国祖(コクソ)の御許容を得て、
  神定の聖地エルサレム城において、開催するが至当である、
  いたづらに常世城において会議を開くことをもつて、
  自由行動、天則違反のはなはだしきものと
  主張さるる神司らもありましたが、
  諸神人、胸に手をあてて、
  冷静に御熟考をしていただきたいのであります。
  万々一、前日来のごとき
  紛乱の議会を聖地において開いたとすれば、
  第一、大神の聖地を汚し神慮を悩ませたてまつり、
  吾々は天地の神明にたいして謝するの辞がありますまい。

--------------------------------------------------------------

『類は友を呼ぶ』ではないけれども、
『類は集う場所を知る』という感じだろうか?

まさしく、泥田会議に相応しい身魂が、
その場所に集まっているのである。

プロレス好きはリングに集まり、相撲好きは土俵に集まる。
政戦好きは国会議事堂に集まり、野球好きは球場に集まる。
女好きは色町に集まり、
信心好きは寺社仏閣や教会・神社に集まる。

蝿は糞に集り、蜂や蝶々は花に集る。

それでも、刃物を研ぐには泥水を使うという様に、
こんな泥田で磨かれて、本来の輝きを取り戻したら、
納まるべき鞘にきちんと納まり、
名刀の本領を発揮するということもある。

糞も土に帰れば、そこから好い草が出て、
これを草食動物が食べて、めぐりめぐって人々の食卓を潤す。

常世の泥田会議が、必ずしも聖地エルサレム城の糧にならない、
という理由も、これまた無いのだから、
物事というものは、その場だけを観てもわかるものではない。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

  賢明卓識の八王大神は、
  今日の結末を事前に感知してやむを得ず、
  この地において会議を開き、聖地を汚さざらしめむと、
  苦心されたる、その敬神の御心と天眼力(テンガンリキ)は、
  吾々凡夫の企及すべからざるところであります。
  諸神人は八王大神の理義明白なる御主張にたいし、
  すみやかに御賛成あらむことを希望いたします』

と述ぶるや、末席の方より、

 『ヒヤヒヤ』

 『ノウノウ』

の声湧(ワ)き起り、中には

「ヒヤヒヤ冷やかなノウノウの能弁者」

と叫ぶものもあり。

--------------------------------------------------------------

『ヒヤヒヤ』というのは"Yeah, Yeah."
ということだろうか?

『ノウノウ』は"No,No." だな、
ということはすぐわかるのだが…

それにしても、

 『賢明卓識の八王大神は、
  今日の結末を事前に感知してやむを得ず、
  この地において会議を開き、聖地を汚さざらしめむと、
  苦心されたる、その敬神の御心と天眼力(テンガンリキ)は、
  吾々凡夫の企及すべからざるところであります。
  諸神人は八王大神の理義明白なる御主張にたいし、
  すみやかに御賛成あらむことを希望いたします』

とは、よくもまあ、とってつけた様なことを、
苦し紛れに言ったものである。

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

 この時、緊急動議ありとて、
登壇したるは例の斎代彦(トキヨヒコ)なり。

斎代彦は、例のごとく右手をもつて鼻をこぢ上げ、
両眼をなで、洟(ミヅバナ)を手の甲(カフ)にて拭ひ、
その手を右側の着衣にてぬぐひながら、

 『今日は、八王大神の御急病なればこれにて解散いたし、
  明日あらためて開会せばいかん。
  諸神人の御意見を承(ウケタマハ)りたし』

と大声に呼ばはりければ、満座の諸神人(シヨシン)は、
八九分まで手を拍つて賛成したり。

 ここに、当日の会議もまた不得要領のうちに幕を閉ぢられたり。

 アヽ今後の八王大神の病気および、
会議の結果は如何(イカ)に展開するならむか。

 (大正十年十二月二十二日、旧十一月二十四日、出口瑞月)
 (第二〇章~第二一章、昭和十年一月二十一日、
                於八代駅長室、王仁校正)

--------------------------------------------------------------

早い話し、こんなおかばなしは、
馬鹿らしくて聞いてられないから、
さっさとお開きにして解散、解散…ということだ。

…あ…、と言っても、
何も内閣解散ということを言っているのではないので、
悪しからず。

わが国の場合、病気で一時退席したのは与党の方ではないから、
一緒にすると笑い者になってしまう。

しかし、この泥田会議だけれども、
やればやるほどボロが出るのに、この八王大神も、
国祖御退隠後に一度は天下を採ることを許され、
自ら反省を促されることになるのだから、
天地の大神の御心は、まったく計り知れない。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------