『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

『音惚花活気好@kakky』的『第31章 万波洋々(231)』分解 別解釈

2010年03月25日 00時49分16秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神

平成二十二(2010)年三月二十五日 旧二月十日(木)

第31章 万波洋々(バンパヤウヤウ) (231)

 阿修羅王(アシユラワウ)のごとく
閻羅王(エンラワウ)のごとき形相(ギヤウサウ)すさまじき神人(カミ)は、
巨眼を開き、船中の神人(カミガミ)らを睨(ネ)めつけながら、

 『神人らよ、余が宣示を耳をさらへてよく承(ウケタマハ)れよ』

と頭上より浴びせかけるやうにどなりつけた。
これは牛雲別(ウシクモワケ)である。

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…なんというか?

何故か、先週と同じ章を、また分解してしまったので、
せっかくだから、今週も同じ章の、もう一つの解釈という事で、
掲載させていただくすることにする。

たぶんこれで、筆者の寿命が一週間分伸びた格好になるとも思うが、
これも惟神(カムナガラ)の事であろうと、有難く拝受させて頂きたい。

…さて…

筆者が二十代から四十代中盤くらいまでに好く働いた職場には、
おっかない顔つきの荒っぽい男共がたくさんいたけれど、
筆者は、そういう仁王さんみたいな顔を見て怖いと思った事がない。

何故か?…というと、皆、目つきが優しいので、
そちらの方ばかりを慕うので、そんな怖い顔した皆さんが、
揃って優しくしてくれたからである。

かえって、いわゆるイケメンとか、青瓢箪というか、一見弱そうな、
静かな連中の方が、底無しの闇を抱えている様にみえて、
近づきたくない殺気を感じたものだ。

極道さん達と親しい知人に云わせると、覚醒剤でもやっている様な、
人殺しの目、というのは、青白い闇に漂う幽気を発しているもので、
こういうのと向き合う時は、先手必勝で相手を殺すくらいの気構えでないと、
本当にこちらの命が危ないから、とにかく近寄らないに限るのだ。

それと、にっこり笑って人を斬るタイプ…

命の取り合いをゲームだと思っている奴には近づかない方がいい。

志があって、命を大事にしなければならないのならば、特に、…だ。

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 こちらの宣伝使は例の祝部神(ハフリベノカミ)である。
彼は無雑作にうち笑ひながら、

 『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
  百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)のものも
  天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
  洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし
  海の底にも光(ヒカリ)あり
  山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
  光りに光る今の世を
  なんと思ふか盲神
  盲の杖(ツエ)を失ふた
  苦しき報(ムク)いは目のあたり
  あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
  辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
  四足神の哀(アハ)れさよ
  角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
  身の果こそは哀(アハ)れなり
  身の果こそは哀れなり』

と又もや手をふり足ふみならして、
あたり構はず傍若無人の挙動の大胆さに、
いづれも呆れて祝部神の全身に目をそそいだ。

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『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
  百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)』

これを『天(アメ)の数歌(カズウタ)』という。

天地万有の順序を整える言靈で、誠意を込めてこの言靈を発射していれば、
自ずから心身の姿勢が正されるものである。

『天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
 洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし』

なんと光明に溢れた雄大な言靈であろうか?

『海の底にも光(ヒカリ)あり
 山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
 光りに光る今の世を
 なんと思ふか盲神』

真に神気に触れた身魂は、この光明に浴さぬ者は無い。

『盲の杖(ツエ)を失ふた
 苦しき報(ムク)いは目のあたり
 あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
 辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
 四足神の哀(アハ)れさよ』

祝部神の宣伝歌も、前半は高尚だったけれども、
後半は相手に喧嘩を売ってしまっているので、
この辺は、筆者も愛したい気質ではあるけれども、
大いに反省するべき部分であろうかと思うのである。

『角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
 身の果こそは哀(アハ)れなり
 身の果こそは哀れなり』

判るけれども、これを言ったら、宣戦布告だから、
相手を改心させるどころか、火に油を注ぐ結果になるのは否めない。

もっとも、こういう一本木な気質は、決して憎む様なものではない。

しかし、これを愛嬌と取るか?挑戦と取るか?

その辺の分別も必要なのかもしれない…

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 牛雲別は、アーメニヤの野に、
螢火(ホタルビ)のごとき光を現はすウラル彦の命により、
宣伝使としてここに現はれたのであつた。

彼は強烈なる酒を大口ひらいてがぶがぶと牛飲(ギウイン)しながら、
あまたの神人(カミガミ)らに見せつけ、

 『酒は百薬の長(チヤウ)といふ
  命(イノチ)の水を飲まざるか
  飲めば心は面白(オモシロ)い
  寿命長久(ジユミヤウチヤウキウ)千秋万歳楽(センシウバンザイラク)のこの薬(クスリ)
  飲まぬは天下の大馬鹿者(オオバカモノ)よ

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筆者も、お酒をたしなむのは嫌いではないが、
飲まねば何も語れない、というのは、十代の頃から嫌いである。

しかし、熱く語り出すと、自然に自己陶酔して来る。
アドレナリンとかいう脳内麻薬が発生して、
自然な覚醒作用をもたらすのだそうだ。

そういう情態に水をかけて、冷静に物事を判断できる様にするのが、
誠の道なのであろうと筆者は思うし、それが安心できる実力であろう…

火事場のクソ力というのは、普段はなかなか出ないものだ。

そういう突発的な奇跡に頼らなくても、常識的に善悪を判断したければ、
逆に酒など飲んでいる場合ではないのではなかろうか?

一働きして、さあこれから遊ぼう…という時ならばよいけれども…

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  たはけた面(ツラ)してぶるぶると
  ふるひ苦しむ青瓢箪(アヲフクベ)
  酒を飲んだら顔の色
  朝日の豊栄昇(トヨサカノボ)るごと
  輝(カガヤ)きわたる血色清(イロスガ)し

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酒を飲まないと顔が青い…ということは、血液が粘っているのだ。
つまり不健康に寿命を縮める方向に進んでいるわけであるから、
酒を飲む前から血色が好い顔色になる様にしないといけない。

それには『皇道経済』の実施による社会不安の根絶と、
『霊界物語』の拝読と、天津祝詞の奏上であろうと、
筆者は確信するのだ。

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  空にかがやく月の夜に
  心さはやか気はさらり
  さらりさらりと物事は
  酒でなければ運ばない
  酒は命(イノチ)の親神(オヤガミ)ぞ
  親を知らない子があろか
  親を知らぬは鬼子(オニゴ)ぞや
  鬼を殺すはこの酒ぞ

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酒が命の親だという身魂は、酒に溺れて死ぬしかなかろう…

命の親は素神である。

この牛雲別等が鬼と呼んでいる相手は、実は救いの神々なのだ。

アル中患者にしてみれば、酒を取り上げる医者は鬼に見えるであろう…

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  酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
  神の舌(シタ)をば引き抜いて
  作(ツク)りなますにしてくらへ
  暗いくらいと吐(ヌ)かす奴(ヤツ)
  酒を飲んで見よ赤くなる
  赤い心は神心(カミゴコロ)
  赤い心は神心

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『酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
 神の舌(シタ)をば引き抜いて
 作(ツク)りなますにしてくらへ』

筆者は、こんな恐ろしいことを言う者こそ夜叉か鬼だと思うのだが…

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  暗い心の祝部(ハフリベ)が
  真赤(マツカ)な虚言(ウソ)を月読(ツキヨミ)の
  月夜(ツキヨ)に釜(カマ)をぬかれたる
  あきれ顔して目(マ)のあたり
  吠面(ホエヅラ)かはくが面白い
  これを肴(サカナ)に皆(ミナ)の奴(ヤツ)
  おれが今出(イマダ)すこの酒を
  遠慮会釈も梨地(ナシヂ)の盃(ツキ)に
  盛(モ)つて飲めのめ飲んだら酔へよ
  酔ふたら管(クダ)まけ管(クダ)まきや機(ハタ)が
  織(オ)れるか織(オ)れぬかおりや知らぬ
  知らぬが仏(ホトケ)ほつとけ捨(ス)てとけ
  一寸(イツスン)さきは暗(ヤミ)よ
  暗の後(アト)には月が出る

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赤い心が神心だと言ってみたり、
真赤な虚言と言ってみたり、
まったく一貫性が無い話だが、
赤は血の色で命の色であるというのは本当であろう。

しかし何故『真っ赤なウソ』などという言葉があるのだろうか?

人をだました時に、アカンベーをやって、
赤い舌と眼の肉をさらすからだろうか?

月は闇夜にしか出ないか?…といえば、そうでもない。

真昼間の青空の下にでも白い月が出る事はあるし、
漆黒の闇の後には、どちらかというと朝日が昇るのが、
本当だと思うのだが…?

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  あまり無聊(ムレウ)にほととぎす
  声はすれども姿は見せぬ
  見せぬ姿(スガタ)は鬼か魔か
  鬼の念仏わしや鬼来(キライ)
  きらひな奴(ヤツ)に目もくれな
  好きなお酒に酔ひつぶれ
  宵(ヨヒ)に企(タク)んだ梟(フクロドリ)
  袋(フクロ)の底をたたいて見たら
  たれの心も同じこと
  酒の嫌ひな神なかろ

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お神酒を神棚に捧げた時に、神様はその酒を飲むのではなく、
そこに精気を満たしてくださるのである。

それを御神酒分けして、参列した皆と分け合って頂くのが、
正しい作法である。

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  すまし顔して負(マ)け惜(ヲ)しみ
  えらそな面(ツラ)して力むより
  すこしは顔の紐(ヒモ)ほどけ
  仏(ホトケ)に地獄で会ふたよな
  この甘酒(ウマザケ)の味を知れ
  酔ふてよふて酔ひつぶれ
  酔ふたらよいぢやないか
  よいよいよいのよいのさつさ
  酒酒(サツサ)、酒酒(サツサ)』

としきりに祝部神の宣示にたいして防禦線をはり、
座席の傍(カタハラ)より二樽の強き酒をだし、
あまたの盃(サカヅキ)を船中にふりまいた。

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筆者はサラサラ血なので、本当にアルコール摂取量は少しで充分だ。

限界に挑戦する時は、友達と馬鹿騒ぎをやる時だけである。

何かをごまかすために飲むわけではない。

お祭り騒ぎの景気づけで互いに酒を煽るのだ。

だがしかし、二日酔いするほど飲んで、翌日にこたえるのは、
あまり好きではない。

だが言っても聞かない連中に、禁酒を薦める趣味はあまりない。

そういう意味では祝部神は親切で勇敢な神様だと思うのである。

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 神人らは猫に鼠を見せたごとく喉(ノド)をごろごろ鳴らし、
唇に唾(ツバキ)をため、羨(ウラヤ)ましげに酒樽に目をそそいだ。
中には狐が油揚(アブラアゲ)を見せつけられたやうな心地となつて、
牛雲別の樽の鏡をひらくを待たず、
飢虎(キコ)のごとく樽を目がけて飛びつく上戸(ジヨウゴ)の神人(カミ)も現はれた。

にはかに船中は春めきわたり、酔のまはるにつれて、
神人らは平手をもちて舷(フナバタ)をたたき、拍子をとり舞ひはじめた。

 『来るか来るかと浜へ出てみれば
  浜の松風(マツカゼ)音(オト)もせぬ
  音に聞えた竜宮海(リユウグウカイ)の
  乙姫(オトヒメ)さまでも呼んできて
  酌(シヤク)をさしたら面白(オモシロ)からう
  癪(シヤク)にさはるは祝部神(ハフリベノカミ)よ
  癪にさはるは祝部神よ
  杓(シヤク)で頭を砕(クダ)いてやろか』

 ポンポンポンと舷をたたき、
つひには両手で自分の額を無性矢鱈(ムシヤウヤタラ)にたたいて踊り狂ふた。

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要するに素盞嗚尊の八岐大蛇退治の詳細の一部が、
ここに記されているのであろう…

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 祝部神は元来酒が好きである。
喉から手のでるやうにその盃がとりたくなつた。
喉のあたりに腹の虫がこみ上つて、ぐうぐうと吐(ヌ)かすのである。
祝部神はこれこそ神の試みとわれとわが心を制し、思はず知らず指をくはへ、
つひには激昂してわれとわが指を喰ひきり、はじめて気がつき、
またもや声張り上げて、

「三千世界一度に開(ヒラ)く云々」

の歌をうたひはじめた。

 (大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、加藤明子録)

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何故だか判らないが、今週は先週と同じ章をまた分解してしまった。

しかし、これも惟神(カムナガラ)の事であろうと思うので、
筆者は時間を無駄にしないためにも、もう一つの分解として、
そのまま投稿することにした。

冒頭に記した通り、これで寿命が一週間伸びた気分である。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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ALL TO A MASH & THE ELEMENTS Dangerous C...

2010年03月20日 22時03分17秒 | Weblog
ALL TO A MASH & THE ELEMENTS Dangerous Condition 【危険状態】.wmv



1991年に作ったなんちゃってMPVをPCで加工してリメイクしてみました。
当時は今の様にPCの環境が整って無かったので、元の映像はアナログで
見づらいですが自画自賛的に気に入ってます。
音源はMTRを使って10年くらい前に録音したものを使用してみました。
みんなで観てくれると嬉しいです。^0^

第31章 万波洋々(バンパヤウヤウ) (231)

2010年03月17日 20時07分49秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神

 阿修羅王(アシユラワウ)のごとく
閻羅王(エンラワウ)のごとき形相(ギヤウサウ)すさまじき神人(カミ)は、
巨眼を開き、船中の神人(カミガミ)らを睨(ネ)めつけながら、

 『神人らよ、余が宣示を耳をさらへてよく承(ウケタマハ)れよ』

と頭上より浴びせかけるやうにどなりつけた。
これは牛雲別(ウシクモワケ)である。

 こちらの宣伝使は例の祝部神(ハフリベノカミ)である。
彼は無雑作にうち笑ひながら、

 『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
  百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)のものも
  天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
  洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし
  海の底にも光(ヒカリ)あり
  山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
  光りに光る今の世を
  なんと思ふか盲神
  盲の杖(ツエ)を失ふた
  苦しき報(ムク)いは目のあたり
  あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
  辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
  四足神の哀(アハ)れさよ
  角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
  身の果こそは哀(アハ)れなり
  身の果こそは哀れなり』

と又もや手をふり足ふみならして、
あたり構はず傍若無人の挙動の大胆さに、
いづれも呆れて祝部神の全身に目をそそいだ。

 牛雲別は、アーメニヤの野に、
螢火(ホタルビ)のごとき光を現はすウラル彦の命により、
宣伝使としてここに現はれたのであつた。

彼は強烈なる酒を大口ひらいてがぶがぶと牛飲(ギウイン)しながら、
あまたの神人(カミガミ)らに見せつけ、

 『酒は百薬の長(チヤウ)といふ
  命(イノチ)の水を飲まざるか
  飲めば心は面白(オモシロ)い
  寿命長久(ジユミヤウチヤウキウ)千秋万歳楽(センシウバンザイラク)のこの薬(クスリ)
  飲まぬは天下の大馬鹿者(オオバカモノ)よ
  たはけた面(ツラ)してぶるぶると
  ふるひ苦しむ青瓢箪(アヲフクベ)
  酒を飲んだら顔の色
  朝日の豊栄昇(トヨサカノボ)るごと
  輝(カガヤ)きわたる血色清(イロスガ)し
  空にかがやく月の夜に
  心さはやか気はさらり
  さらりさらりと物事は
  酒でなければ運ばない
  酒は命(イノチ)の親神(オヤガミ)ぞ
  親を知らない子があろか
  親を知らぬは鬼子(オニゴ)ぞや
  鬼を殺すはこの酒ぞ
  酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
  神の舌(シタ)をば引き抜いて
  作(ツク)りなますにしてくらへ
  暗いくらいと吐(ヌ)かす奴(ヤツ)
  酒を飲んで見よ赤くなる
  赤い心は神心(カミゴコロ)
  赤い心は神心
  暗い心の祝部(ハフリベ)が
  真赤(マツカ)な虚言(ウソ)を月読(ツキヨミ)の
  月夜(ツキヨ)に釜(カマ)をぬかれたる
  あきれ顔して目(マ)のあたり
  吠面(ホエヅラ)かはくが面白い
  これを肴(サカナ)に皆(ミナ)の奴(ヤツ)
  おれが今出(イマダ)すこの酒を
  遠慮会釈も梨地(ナシヂ)の盃(ツキ)に
  盛(モ)つて飲めのめ飲んだら酔へよ
  酔ふたら管(クダ)まけ管(クダ)まきや機(ハタ)が
  織(オ)れるか織(オ)れぬかおりや知らぬ
  知らぬが仏(ホトケ)ほつとけ捨(ス)てとけ
  一寸(イツスン)さきは暗(ヤミ)よ
  暗の後(アト)には月が出る
  あまり無聊(ムレウ)にほととぎす
  声はすれども姿は見せぬ
  見せぬ姿(スガタ)は鬼か魔か
  鬼の念仏わしや鬼来(キライ)
  きらひな奴(ヤツ)に目もくれな
  好きなお酒に酔ひつぶれ
  宵(ヨヒ)に企(タク)んだ梟(フクロドリ)
  袋(フクロ)の底をたたいて見たら
  たれの心も同じこと
  酒の嫌ひな神なかろ
  すまし顔して負(マ)け惜(ヲ)しみ
  えらそな面(ツラ)して力むより
  すこしは顔の紐(ヒモ)ほどけ
  仏(ホトケ)に地獄で会ふたよな
  この甘酒(ウマザケ)の味を知れ
  酔ふてよふて酔ひつぶれ
  酔ふたらよいぢやないか
  よいよいよいのよいのさつさ
  酒酒(サツサ)、酒酒(サツサ)』

としきりに祝部神の宣示にたいして防禦線をはり、
座席の傍(カタハラ)より二樽の強き酒をだし、
あまたの盃(サカヅキ)を船中にふりまいた。

 神人らは猫に鼠を見せたごとく喉(ノド)をごろごろ鳴らし、
唇に唾(ツバキ)をため、羨(ウラヤ)ましげに酒樽に目をそそいだ。
中には狐が油揚(アブラアゲ)を見せつけられたやうな心地となつて、
牛雲別の樽の鏡をひらくを待たず、
飢虎(キコ)のごとく樽を目がけて飛びつく上戸(ジヨウゴ)の神人(カミ)も現はれた。

にはかに船中は春めきわたり、酔のまはるにつれて、
神人らは平手をもちて舷(フナバタ)をたたき、拍子をとり舞ひはじめた。

 『来るか来るかと浜へ出てみれば
  浜の松風(マツカゼ)音(オト)もせぬ
  音に聞えた竜宮海(リユウグウカイ)の
  乙姫(オトヒメ)さまでも呼んできて
  酌(シヤク)をさしたら面白(オモシロ)からう
  癪(シヤク)にさはるは祝部神(ハフリベノカミ)よ
  癪にさはるは祝部神よ
  杓(シヤク)で頭を砕(クダ)いてやろか』

 ポンポンポンと舷をたたき、
つひには両手で自分の額を無性矢鱈(ムシヤウヤタラ)にたたいて踊り狂ふた。

 祝部神は元来酒が好きである。
喉から手のでるやうにその盃がとりたくなつた。
喉のあたりに腹の虫がこみ上つて、ぐうぐうと吐(ヌ)かすのである。
祝部神はこれこそ神の試みとわれとわが心を制し、思はず知らず指をくはへ、
つひには激昂してわれとわが指を喰ひきり、はじめて気がつき、
またもや声張り上げて、

「三千世界一度に開(ヒラ)く云々」

の歌をうたひはじめた。

 (大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、加藤明子録)

『音惚花活気好@kakky』的『第31章 万波洋々(231)』分解

2010年03月17日 20時07分18秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神

平成二十二(2010)年三月十七日 旧二月二日(水)

 阿修羅王(アシユラワウ)のごとく閻羅王(エンラワウ)のごとき
形相(ギヤウサウ)すさまじき神人(カミ)は、
巨眼を開き、船中の神人(カミガミ)らを睨(ネ)めつけながら、

 『神人らよ、余が宣示を耳をさらへてよく承(ウケタマハ)れよ』

と頭上より浴びせかけるやうにどなりつけた。
これは牛雲別(ウシクモワケ)である。

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昔の時代劇では、お侍様というのは本当に偉そうで、
こんな風に大上段に高飛車口調で平民を土下座させる様な場面が、
本当に当たり前に、ごく自然に描かれていた。

平民以下の大衆も、何一つためらわずに地に伏して土下座して、
大名行列の両脇にずらっと道を開けて並ぶシーンがあったけれど、
最近の時代劇では、逆にこんなシーンは、
滅多に観られなくなった様な気がする。

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 こちらの宣伝使は例の祝部神(ハフリベノカミ)である。
彼は無雑作にうち笑ひながら、

 『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
  百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)のものも
  天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
  洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし
  海の底にも光(ヒカリ)あり
  山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
  光りに光る今の世を
  なんと思ふか盲神
  盲の杖(ツエ)を失ふた
  苦しき報(ムク)いは目のあたり
  あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
  辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
  四足神の哀(アハ)れさよ
  角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
  身の果こそは哀(アハ)れなり
  身の果こそは哀れなり』

と又もや手をふり足ふみならして、
あたり構はず傍若無人の挙動の大胆さに、
いづれも呆れて祝部神の全身に目をそそいだ。

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つまり祝部神は、天使の身分もお構いなしの無礼講で、
民主主義の実行をやっているわけだ。

牛雲別等は、階級差別や格差社会が大好きな、
バラモン系の曲津神だと思うのだが、
確かこの頃はまだバラモン教というのは出現してはいない筈…

インドのカースト社会というのは凄まじいものだった様だが、
天国の歴然とした階級社会とは違い、上が下を苛める様な、
ケチな階級社会であることが問題なのだと筆者は思う。

天国の181階級の制度は、
上は下を慈しみ、下は上を敬うという美しいものだと思うが、
上下の間では簡単に交流が出来ない様になっている。

祝部神は天使として働く霊国の身魂であるから、
一切上下の隔てなく、
この様に真の民主主義的行いをする事が出来るのだ。

しかし曲津の社会では、われよし、つよいものがち、であるから、
下から上への不満の想いが満ち溢れ、世は乱れに乱れる地獄と化す。

そんな地獄にでも。祝部神クラスの天使になると、
こんな風に悠々と降りて来て差別の無い救いの活動をする事が出来得る。

しかし、救われて天国に昇る身魂は、
上下左右の外国には一切干渉しない身魂相応の天国に暮らすのである。

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 牛雲別は、アーメニヤの野に、
螢火(ホタルビ)のごとき光を現はすウラル彦の命により、
宣伝使としてここに現はれたのであつた。

彼は強烈なる酒を大口ひらいてがぶがぶと牛飲(ギウイン)しながら、
あまたの神人(カミガミ)らに見せつけ、

 『酒は百薬の長(チヤウ)といふ
  命(イノチ)の水を飲まざるか
  飲めば心は面白(オモシロ)い
  寿命長久(ジユミヤウチヤウキウ)千秋万歳楽(センシウバンザイラク)のこの薬(クスリ)
  飲まぬは天下の大馬鹿者(オオバカモノ)よ

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酒は飲んでも飲まれるな…というわけだが、
こんなにガブガブ牛飲しては、まともな神経が麻痺してしまう。

これは、また聞きした話だけれども、昔は暖房が無いので、
寒くなると酒を暖房の代わりにしたのだそうで、
それで酒が無いと身体が冷えるというほど、
血液が粘り汚れてしまうのだから、
その為に寿命も短くなる。

寿命が短くなれば、自暴自棄的に欲望を貪欲に追及する事になる。
そのためには弱者をどんどん虐げ、挙句の果て、その血と肉をくらう、
地獄社会を演出せざるを得なくなる。

さて、このウラル彦というのは、常世彦二世の改名で、
ウラル教の教主となり、
やがてバラモン教の教主に迎えられる事になるわけだから、
われよしとつよいものがちの権化の様な曲津であることは間違いない。

そんな教主の教えを宣伝する牛雲別の宣伝歌だから、
一見陽気に見えるその内容をよく吟味して、
呑み込まれない様に注意するのが肝要であろうと思う。

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  たはけた面(ツラ)してぶるぶると
  ふるひ苦しむ青瓢箪(アヲフクベ)
  酒を飲んだら顔の色
  朝日の豊栄昇(トヨサカノボ)るごと
  輝(カガヤ)きわたる血色清(イロスガ)し
  空にかがやく月の夜に
  心さはやか気はさらり
  さらりさらりと物事は
  酒でなければ運ばない
  酒は命(イノチ)の親神(オヤガミ)ぞ

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確かに酒は神素盞嗚大神が、米を噛んで醸造したのが始まりだが、
最初はほんの少したしなむ程度であったものが、人工的に大量生産されて、
酒より尊い身魂の値打ちや、誠の言霊の偉大さをほったらかして
酒を命の親神だなどと思う様になってはもう本末転倒である。

それで、酒とお神酒(ミキ)という区別が生まれて来るのだ。

神の酒が本物で、お酒は偽物という風に考えればよいだろう。

ウラル教の教主ウラル彦は常世彦二世であるわけだが、
その親である常世彦は元は大自在天神に属する大国彦命だった。

これがおそらく本物のフリーメーソンのルーツではないか?
…と筆者は考えるのだが、この大自在天神にも偽物が出て来る様に、
フリーメーソンにも偽物が出て来る様だ。

まあ、どんな組織でもそうだけれども、商売の為の人脈欲しさに、
宗教団体に加入して、その宗教団体の広告塔として働くことで、
仕事を得ている様な芸能人やアーチストなどもごまんといる御時世だから、
こういうことは特別詳しく説明しなくても、よく判るであろうと思う。

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  親を知らない子があろか
  親を知らぬは鬼子(オニゴ)ぞや
  鬼を殺すはこの酒ぞ
  酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
  神の舌(シタ)をば引き抜いて
  作(ツク)りなますにしてくらへ
  暗いくらいと吐(ヌ)かす奴(ヤツ)
  酒を飲んで見よ赤くなる

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結局、こういう宣伝歌を歌っていた曲津達は、モーセやイエス、
出口王仁三郎聖師や筆者の様な、生みの親知らずのヒルコの鬼子に、
どんどんと言向け和されていくことになるわけだ。

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  赤い心は神心(カミゴコロ)
  赤い心は神心
  暗い心の祝部(ハフリベ)が
  真赤(マツカ)な虚言(ウソ)を月読(ツキヨミ)の
  月夜(ツキヨ)に釜(カマ)をぬかれたる
  あきれ顔して目(マ)のあたり
  吠面(ホエヅラ)かはくが面白い
  これを肴(サカナ)に皆(ミナ)の奴(ヤツ)
  おれが今出(イマダ)すこの酒を
  遠慮会釈も梨地(ナシヂ)の盃(ツキ)に
  盛(モ)つて飲めのめ飲んだら酔へよ
  酔ふたら管(クダ)まけ管(クダ)まきや機(ハタ)が
  織(オ)れるか織(オ)れぬかおりや知らぬ
  知らぬが仏(ホトケ)ほつとけ捨(ス)てとけ

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『赤い心は神心(カミゴコロ) 赤い心は神心』

とあるのを観て先ずは思い出すのは、日本の国旗の日の丸である。

しかし『霊界物語』では、十二の国魂の物語の時に、
台湾の新高山に青色の国魂を治める物語が第一番に記されている事からも、
赤は第二番目の色であるという事がわかるのである。

青が一番なのだ。

試しに、赤い服を着た時と、青い服を着た時の、
動物達の反応の仕方を見比べてみるとよい。

明らかに赤い服には警戒態勢を取り、
青い服には歓迎の意を表すのが判る筈だ。

赤は即ち攻撃色で、青は平和の色なのだ。

台湾は本来、日本と夫婦一対であるべき神国であるが、
先の敗戦で、神の夫婦は二つに引き裂かれた形になっている。

それで日本も、本来、ヒノモトであるべき神洲としての働きが出来ず、
二番目を意味するニホンを名乗る事になっているのだ。

まったく言靈というものは不思議なものである。

ニホンがヒノモトとして世界統一の働きをする時には、
必ず青色の国魂が鎮まる台湾と一対になっておらねばならぬので、
そうして赤と青が結ばれた桃の身魂が鬼退治をすることになる様だ。

これを寓話的に伝えているのが「桃太郎」だということが出来るだろう。

テレビ時代劇の「桃太郎侍」というのは全くよくつけたものだと思う。

素盞嗚尊が上陸した朝鮮は本来、白色の玉なのだが、
大韓民国が白と青と赤の国旗を用いているのも神の御経綸としては、
とても意味のある事であろうと、筆者は感じているのである。

この三色を全部混ぜ合せると薄赤紫色になる。

日本の国旗も勿論、白地に赤なので、混ぜ合わせれば桃色になる。

台湾の国旗の色も白地に青と赤なので混ぜ合わせると薄赤紫になる。

筆者はこの三つの国が桃の身魂なのではなかろうか?
…とも考えることがあるのである。

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  一寸(イツスン)さきは暗(ヤミ)よ
  暗の後(アト)には月が出る
  あまり無聊(ムレウ)にほととぎす
  声はすれども姿は見せぬ
  見せぬ姿(スガタ)は鬼か魔か
  鬼の念仏わしや鬼来(キライ)

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『暗の後(アト)には月が出る』

実際、このウラル教の後に、
月の光といもいえる三五(アナナヒ)教が出て来て、
世界の救済活動をすることになるので、
これはこれで予言にはなっているのだが、
だからといってウラル教やバラモン教を信じるわけにはいかない。

全て月が出る前の闇の教えであるのだから…

『鬼の念仏わしや鬼来(キライ)』

筆者は筆者で「きらい」に「機来」とか「気来」の文字を当てて、

「嫌いな客は嫌えば嫌うほど来るから逆に愛してやれば自然に遠のいて行く」

という一種の信念を持っているのだが、なんとなくそれに近いものを感じる。

落語の『饅頭嫌い』だとか、都都逸だかの「嫌い嫌いも好きのうち」
とやらいうことを現していると思ってよいかもしれない。

これはちょっと大人の話だが、
恋心というのは嫌われるほど燃え上がったりする事もある。
それはたぶん征服欲に火をつけてしまうからだと思うので、
本当に嫌いならば、逆の意思表示をした方がよい場合も、
あるかもしれない…と思う事もあるのである。

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  きらひな奴(ヤツ)に目もくれな
  好きなお酒に酔ひつぶれ
  宵(ヨヒ)に企(タク)んだ梟(フクロドリ)
  袋(フクロ)の底をたたいて見たら
  たれの心も同じこと
  酒の嫌ひな神なかろ

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『酒の嫌ひな神なかろ』

嫌いではないが、がっつくほどのものでもない。

…という気持ちになれれば、こんな理屈は屁でもなくなる。

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  すまし顔して負(マ)け惜(ヲ)しみ
  えらそな面(ツラ)して力むより
  すこしは顔の紐(ヒモ)ほどけ
  仏(ホトケ)に地獄で会ふたよな
  この甘酒(ウマザケ)の味を知れ
  酔ふてよふて酔ひつぶれ
  酔ふたらよいぢやないか
  よいよいよいのよいのさつさ
  酒酒(サツサ)、酒酒(サツサ)』

としきりに祝部神の宣示にたいして防禦線をはり、
座席の傍(カタハラ)より二樽の強き酒をだし、
あまたの盃(サカヅキ)を船中にふりまいた。

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…なんというか、敵同士というのは、
互いに相手をやりこめようとすればするほど、
こんな風に意地になって対立するものだし、
牛雲別は酒をがぶ飲みしているのだから、
その勢いはさらに強烈になっていても不思議ではない。

筆者も飲むのは嫌いではないが、飲まなければいられない、
というほどのものでもない。

二十歳そこそこの頃は、物は試しで限界に挑戦しようとしたが、
飲み過ぎて胃袋がひっくりかえりそうになるのが嫌で、
幼馴染に誘われない限りはそんなに好んで飲まなかった。

そのうち幼馴染達が社会に巣立っていったので、
飲む機会もとんと減ったが、
歌いながら缶チューハイを一本飲むくらいが一番楽しい。

カラオケパブで働いていた頃は、女の子と話したいお客さんに飲まされ、
歌わされたりして大騒ぎしていたが、歌うと発散できるので、
それで酔いつぶれた覚えはない。

要はお客さんが女の子と二人きりなりたくて追い払われただけなのだが、
筆者的には、楽しくタダ酒が飲める、好きな歌が歌える、給料はもらえるで、
こんなバブリーで好都合なことは無かったのだが、誠の神の道を伝える、
という志とは真逆な展開だったし、祝部神や牛雲別の様に、
何かの教えを宣伝しようなどという立場ではなかったので、
あの頃はそれでよかったと思う。

好い酒でも楽しく飲めるが、
掲示板などで論戦をやっていても自己陶酔出来てしまう。

こちらの方は脳内麻薬効果だし、酒代もかからなくて済むが、
やはりあまりいい状況ではないと思う。

宣伝使には勢いが必要だから、法悦というか、
そういう自己陶酔情態というものは、ある程度は必要だが、
あまり鼻が高くなると、必ず凹むように出来ているから、
自分で自分の頭を冷やす術を心得ている方がよいとも思うのである。

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 神人らは猫に鼠を見せたごとく喉(ノド)をごろごろ鳴らし、
唇に唾(ツバキ)をため、羨(ウラヤ)ましげに酒樽に目をそそいだ。

中には狐が油揚(アブラアゲ)を見せつけられたやうな心地となつて、
牛雲別の樽の鏡をひらくを待たず、
飢虎(キコ)のごとく樽を目がけて飛びつく
上戸(ジヨウゴ)の神人(カミ)も現はれた。

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冷静になれば滑稽な話だし、己が凡人だと思えば、
これくらいのことで大騒ぎすることはない。

余裕のある間は、好きなだけ呆けてみればよいと思う。

しかしどんなことでもいつかは飽きるものだ。

飽きてもまた、生命力が盛んになれば、
自然に精力も欲望も増すものだ。

そんなことも特別大騒ぎするほどの事でもないと思う。

よく学び、よく働き、よく遊び、よく飲食し、よく寝る。

そういうことを爽やかに朗々と無邪気にやっている分には、
どうこういう様な事でもないと筆者は思うのだ。

ただし、それなりの地位と責任が与えられた時には、
こういう事に現を抜かしている場合ではないであろう…
と責めれらても仕方がない。

世の中には出世欲旺盛な連中がうじゃうじゃいるのだから、
後続は常に突き上げ、上を追い払いたいのだ…

地位を保ちたければ、
それなりストイックにもならざろるを得ないだろう。

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にはかに船中は春めきわたり、酔のまはるにつれて、
神人らは平手をもちて舷(フナバタ)をたたき、拍子をとり舞ひはじめた。

 『来るか来るかと浜へ出てみれば
  浜の松風(マツカゼ)音(オト)もせぬ
  音に聞えた竜宮海(リユウグウカイ)の
  乙姫(オトヒメ)さまでも呼んできて
  酌(シヤク)をさしたら面白(オモシロ)からう
  癪(シヤク)にさはるは祝部神(ハフリベノカミ)よ
  癪にさはるは祝部神よ
  杓(シヤク)で頭を砕(クダ)いてやろか』

 ポンポンポンと舷をたたき、
つひには両手で自分の額を無性矢鱈(ムシヤウヤタラ)にたたいて踊り狂ふた。

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「浪速名物パチパチパンチや~~~!」

…というギャグが昔あったが、それに近いものがあるかも…?

こんな時、祝部神も少しは一緒に飲みながら、
誠の神の道を説けばよいのにな~~~と思いながら、
ずっと前に、こういう宴の席に、誘われるままに参加して、
美味しい所だけサクサクと頂いて、用がすんだらさっさと帰城した
大八洲彦命のことを思い出した。

勿論、宣伝使としてなどかけらも働かず、
ただその場を立ち去ったのみである。

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 祝部神は元来酒が好きである。
喉から手のでるやうにその盃がとりたくなつた。
喉のあたりに腹の虫がこみ上つて、ぐうぐうと吐(ヌ)かすのである。

祝部神はこれこそ神の試みとわれとわが心を制し、
思はず知らず指をくはへ、つひには激昂してわれとわが指を喰ひきり、
はじめて気がつき、またもや声張り上げて、

「三千世界一度に開(ヒラ)く云々」

の歌をうたひはじめた。

 (大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、加藤明子録)

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祝部神は、宣伝の使命を果たさねばという心が強過ぎて、
こんな状況に追い詰められたといえるのではなかろうか?

後の世になると、場馴れした宣伝使などは、
こうした光景を遠巻きから見送りながら、
頃合いを見計らって闇の中から宣伝歌を歌い出し、
関心を持った身魂に対してのみ奥深い事を伝えて、
あとはそれを機に改心した身魂に次への宣伝を任せてしまう。

そんなリレー宣伝の様なことをやって行く様になると記憶するのだが、
この頃の祝部神は、その心根は筆者も大好きだけれども、
やはりまだまだ宣伝使としては若い…ということなのかもしれない。

皆、宣伝しながら、いろんな場面から学びつつ成長して行くのであろう。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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第30章 真帆片帆(マホカタホ) (230)

2010年03月10日 23時51分45秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神

 さしも暗澹たりし天地の光景はここに一変して、
空には燦然たる天津日(アマツヒ)の影うららかに下界を照らし、
地は東風(トウフウ)おもむろに吹いて紺碧の海面に漣(サザナミ)を立て、
これに日光映射して波のきらめく有様は、
あたかも鯛魚(タイギヨ)の鱗を敷き詰めたるがごとき地中海の渡船場に、
息急(セ)ききつて現はれた宣伝使があつた。
今や船は静かな風に真帆(マホ)をうちあげ、
西南に向つて出帆せむとする時である。

 ここに現はれた宣伝使は、
太き竹に教示を記したるを甲斐々々しく
左肩(サケン)より右の腋下(ワキシタ)に斜交(ハスカヒ)に背負ひながら、
紫の紐もて乳房のあたりに確と結び、
片手に杖をつきながら、
紫の被面布(ヒメンプ)を被り、
ときどき左の手をもつてこの被面布を額(ヒタイ)のあたりまでめくり上げ、
右の手にて鼻柱をこぢあげ、
そのまま右の眼瞼(マブタ)より左の目尻にかけてつるりとなで、
鼻の下を手の甲にてこすり、
左の手にてふたたび被面布を顔に覆ひながら乗船を迫つた。

 あまたの船客は、
この異様な扮装(イデタチ)に怪訝(ケゲン)の眼をみはつた。
船戸神(フナドノカミ)は快(ココロヨ)く右手(メテ)を揚げてさしまねき、
早く乗れよとの暗示を与へた。

宣伝使はつかつかと乗場に近づき、
船を目がけて飛びこんだ。

その響に船は激動して、
畳のごとき海面に時ならぬ波の皺(シワ)を描いた。

海辺の長き太き樹(キ)は海底にむかつて倒(サカシ)まにその影を沈め、
波につれて竜の天に昇るがごとく、
樹木の幹は左右に蜿蜒(エンエン)として、
地上目がけて上りくるのであつた。

 空には一点の雲なくまた風もなき海面は、
あたかも玻璃鏡(ハリキヤウ)を渡るがごとく、
帆は痩(ヤ)せしをれ、
船脚(フナアシ)遅々として進まず、
この海上に漂(タダヨ)ふこと数日に及んだのである。
神々(カミガミ)らは四方山(ヨモヤマ)の無駄話に時を費し、
無聊(ムレウ)を慰めつつあつた。

 日は西山に没し、
海上を飛びかふ諸鳥(モロドリ)は塒(ネグラ)を求めておのおの巣に帰り行く。
半弦の月は西天に懸り、
利鎌(トガマ)のごとき光を海上に投げた。
空は一面に天書のひかり梨地色(ナシヂイロ)に輝き、
月は天(アマ)の河(カハ)を流れて海の涯(ハテ)に沈むの感があつた。

 海の底には一面の星光(セイクワウ)かがやき、
天にも銀河横たはり、
海底にもまた燦爛たる銀河流れ、
河(カハ)二つ月二つ、
実に蓮華の台(ウテナ)に身を托したるごとき爽快の念に打たれつつ、
静かに船は西南にむかつて進んでゐる。

 船は渡る海底の空を、
棹(サヲ)は穿(ウガ)つ海底の星を、
海月(クラゲ)の幾十百ともなく波にただよふ有様は、
にはかに天上の月幾十ともなく降り来りて、
船を支へまもるの感じがしたのである。

 昨日の惨澹たる天地の光景に引換え、
今日のこの静けさは、
夕立の後の快晴か、
嵐の後の静けさか、
天地寂(セキ)として声なく、
蚯蚓(ミミズ)のささやく声さへ耳に通ふやうであつた。

 連日の航海に船中の神人は何れも無聊に苦しみ、
船の四隅には、

 『アーアー』

と大口を開けて欠伸(アクビ)をする神人が現はれた。

何れもこの欠伸に感染して、
一斉に両手の拳(コブシ)を握り頭上高く延長しながら、
大口を開けて、

 『アーアー』

といひながら、
欠伸を吾劣らずと始めかけた。

一時ばかりはあたかも欠伸の競争場のごとき感があつた。

もはや欠伸の種もつき、
船の一隅には辺りをはばかりてか、
小声に鼻唄さへうたふ神人(カミ)が現はれた。

これに感染されてか、
またもや小声に何事をか小唄をうたひはじめた。

つひには狎(ナ)れて大声をあげ、
遠慮会釈もなく船中に立ち上り、
両手を頬(ホホ)にあてながら、

 『飲(ノ)めよ騒(サワ)げーよ一寸先(イツスンサキ)あー闇(ヤミ)ーよー
  闇のーあとーにはー月がーでるー
  船がー浮くならー心もー浮かせー
  心沈(ココロシヅ)めばー船沈むー
  さあさ浮いたり浮いたり浮いたりなー
  浮いたー浮世(ウキヨ)はどうなろとままよー
  儘(ママ)にならぬが浮世といへどー
  わしはー時節(ジセツ)で浮いてーゐる
  時鳥(ホトトギス)声は聞けどもー姿は見せぬ
  見せぬ姿は魔か鬼か
  もしも鬼奴(オニメ)が出て来たら
  手足を縛(シバ)りー角(ツノ)を折り
  叩(タタ)いて炙(アブ)つて食(ク)てしまへ
  たとへ牛虎(ウシトラ)狼(オオカミ)獅子(シシ)も
  力のーよわき山羊(ヤマヒツジ)
  猿の千疋(センビキ)ー万疋(マンビキ)もー
  掻(カ)いて集めて引き縛(シバ)り
  西の海へとさらりとほかせ
  さらりとーほかせー
  よいよいーよいとさのーよいとさつさ』

 神人(カミガミ)らは異口同音に声を合して、
節面白く手を拍つてうたひはじめた。

 宣伝使は黙然としてこの騒ぎを心なげに、
見るともなしに眺めてゐた。

しばらくあつて神人らは疲労を感じたと見え、
さしも騒がしかりし波の上も、
水を打つたる如くたちまち静粛に帰し、
風の音さへも聞えぬ閑寂の気にうたるるばかりになつた。

 宣伝使はやをら身を起し、
船中の小高(コダカ)き所に立ち現はれ、
涼(スズ)しき声を張りあげて、

 『高い山からー谷底見れば
  憂(ウ)しや奈落(ナラク)の泥(ドロ)の海
  三千世界一度に開(ヒラ)く梅の花
  開いて散りて実(ミ)を結ぶ
  月日(ツキヒ)と土(ツチ)の恩(オン)を知(シ)れ
  この世を救ふ生神(イキガミ)は
  天教山(テンケウサン)に現はれる
  この世を教ふる生神(イキガミ)は
  地教(チケウ)の山(ヤマ)にあらはれた
  朝日(アサヒ)は照(テ)るとも曇(クモ)るとも
  月(ツキ)は盈(ミ)つとも虧(カ)くるとも
  たとへ大地は沈むとも
  誠(マコト)の力は世を救ふ
  誠の力は世を救ふ』

と手を拍ち足踏(アシフ)みとどろかし舞ひ狂ふ。

 神人らはこの声に釣り出さるる心地して、
一斉に立ち上がり、
手を拍ち足踏み轟(トドロ)かし、
一心不乱に興に乗りて踊り狂ふ。

 このとき船中の一隅より、
苦々(ニガニガ)しき面構(ツラガマヘ)の巨大なる神人(シンジン)は、
すつくと立ち上り、
宣伝使をはつたと睨(ネ)めつけた。

その光景は、
あたかも閻羅王(エンラワウ)の怒髪(ドハツ)天を衝(ツ)いて
立ち現はれたごとくであつた。

 あゝこの神人(カミ)は何物ならむか。

 (大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、井上留五郎録)

『音惚花活気好@kakky』的『第30章 真帆片帆(230)』分解

2010年03月10日 23時51分11秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神

平成二十二(2010)年三月十日 旧一月二十五日(水)

 さしも暗澹たりし天地の光景はここに一変して、
空には燦然たる天津日(アマツヒ)の影うららかに下界を照らし、
地は東風(トウフウ)おもむろに吹いて紺碧の海面に漣(サザナミ)を立て、
これに日光映射して波のきらめく有様は、
あたかも鯛魚(タイギヨ)の鱗を敷き詰めたるがごとき地中海の渡船場に、
息急(セ)ききつて現はれた宣伝使があつた。
今や船は静かな風に真帆(マホ)をうちあげ、
西南に向つて出帆せむとする時である。

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『地中海の渡船場』とあるのを観て、瀬戸内海を連想するのは、
熱狂的な『型の大本』信者であるに違いない。

しかし、ここは素直に、書いてある様に読んで、
想像を膨らませるべきだろうと筆者は思う。

今、ちょうどハリウッド映画「十戒」のDVDを日本語吹き替え版で観ながら、
この分解をやっているのだが、やはり地中海というと、
どちらかといえばギリシャ神話なのだろうか?

しかし、キリスト教が生まれたというレバノン辺りも、
この地中海沿岸地域という事になるらしいから、
たぶん、この辺が『鳴戸の仕組』の経綸がなされている場所であろう事は、
容易に想像がつくのである。

王仁三郎聖師は、大陸のアラル海が世界の鳴戸であるという様なことを、
ハッキリと言い残しておられるので、そういう事であるならば、
この地中海という所は、アラル海に対する二段目の型、
という事になるのかもしれない。

地中海沿岸地域には勿論、カソリックの聖地ローマもある。
イスラエル、シリア、ギリシャ、フランス、スペイン、ポルトガル、
エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ…

流石に現代はアメリカが船頭を切る世の中ということになっているが、
中世の人類文明の進化を引率したのは、明らかにこの地中海地域であろう…

これが中世から近代にかけての鳴戸であると考えても、あまり不自然ではない。

一方、富士の仕組といえば、東洋という事になるだろうし、
その実地になっているヒマラヤの地教山を中心にした社会という事になろう…

東洋が富士の仕組の実地で、西洋が鳴戸の仕組の実地、
と考えることも出来るのだが、現代に於いては、それらも既に過去なので、
型であると考える方が自然だ。

しかし、この物語は今、地中海を舞台にしている。


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 ここに現はれた宣伝使は、
太き竹に教示を記したるを甲斐々々しく
左肩(サケン)より右の腋下(ワキシタ)に斜交(ハスカヒ)に背負ひながら、
紫の紐もて乳房のあたりに確と結び、
片手に杖をつきながら、
紫の被面布(ヒメンプ)を被り、
ときどき左の手をもつてこの被面布を額(ヒタイ)のあたりまでめくり上げ、
右の手にて鼻柱をこぢあげ、
そのまま右の眼瞼(マブタ)より左の目尻にかけてつるりとなで、
鼻の下を手の甲にてこすり、
左の手にてふたたび被面布を顔に覆ひながら乗船を迫つた。

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『太き竹に教示を記したるを』

こういう姿を支那の映画で観た記憶があるのだが、なんだったろうか?

海陸のシルクロードを伝って、宣伝使がやって来たというわけか?

昔読んだ本の中に、ギリシャの哲人達が釈迦の弟子だったことを
記しているものがあった。

確か摩訶迦葉とソクラテスが同一人物であるとかどうとか、
そういう内容のものだったと思うが、筆者も以前は特別着目したと思うが、
今はどちらでもよい様な気分になっているのだけれども、
参考として書き残しておくことにする。

…たぶん、今、こういう事がどちらでもよい様な気分になっているのは、
こうした過去の賢哲達に影響されない所まで、
筆者自身の身魂が成長したからだと思うのだが、
以前の様にスッキリと思いだせないのは、少しだけ寂しい様な気もする。

ただ、こんなこと知らなくてもよいくらい、
現代人は幸福なポジションにいる、ということなのではないか?
…とも、今の筆者は思う事が出来るのだが、
また、こういう事ばかりに専門的に時間をかけられる時が来たら、
おもいきりこだわってみるのも一興であろうとは思うのだ。

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 あまたの船客は、
この異様な扮装(イデタチ)に怪訝(ケゲン)の眼をみはつた。
船戸神(フナドノカミ)は快(ココロヨ)く右手(メテ)を揚げてさしまねき、
早く乗れよとの暗示を与へた。

宣伝使はつかつかと乗場に近づき、
船を目がけて飛びこんだ。

その響に船は激動して、
畳のごとき海面に時ならぬ波の皺(シワ)を描いた。

海辺の長き太き樹(キ)は海底にむかつて倒(サカシ)まにその影を沈め、
波につれて竜の天に昇るがごとく、
樹木の幹は左右に蜿蜒(エンエン)として、
地上目がけて上りくるのであつた。

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神人というのは、えらく重量があるらしい…

神が動かぬといったら梃子でも棒でもいかないというのは、
かつて小さな貧しい老婆である大本(オホモト)開祖出口直を、
鍛えぬいた警察官五人がかりでも持ち上げられなかった、
という伝説が残っているくらいだから、この異様な波立ちも、
特別不思議なことではないのかもしれない。

日本を代表する宮崎アニメの『崖の上のポニョ』で、
ポニョが眼がある数多の波の上を駆けながら、
コースケに会いに行く場面とかを連想してみるのもいいかもしれない。

筆者が子供の頃のアニメ作品は、
…特にスポコン物などの大袈裟な感情描写の背景に、
怒涛逆巻く波などが描かれることがよくあったが…
あれは確か『巨人の星』だったと思うが…

最近ならば『ドラゴンボール改』などで戦士達の気が自然界に影響して、
大騒ぎになるシーンなどがよくあるが、そういう事の『霊界物語』版、
…という風に考えてもよいのかもしれない…?

実際、神人の背後には、自然霊などが眷属になって、
大きな自然現象を起こす場合がある様だし、
筆者も、よくこんな体験をした気がするので、
こういう描写には割合肯定的な気分になれる。

ただし、こういう荒神を鎮魂する様にならないと本物ではないらしいから、
その辺は勘違いしない方がよいに違いない。

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 空には一点の雲なくまた風もなき海面は、
あたかも玻璃鏡(ハリキヤウ)を渡るがごとく、
帆は痩(ヤ)せしをれ、
船脚(フナアシ)遅々として進まず、
この海上に漂(タダヨ)ふこと数日に及んだのである。

神々(カミガミ)らは四方山(ヨモヤマ)の無駄話に時を費し、
無聊(ムレウ)を慰めつつあつた。

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つまり、一旦ひと荒れした後は、完全に鎮まってしまって、
舟を動かす動力である波も風も起こらなくなってしまった。
…ということらしい…

それはそれで困ってしまう。

自然エネルギーに頼りっぱなしの技術というのも困ったものだが、
この船には櫓櫂も無いのだろうか?

帆に風受けなければ進まぬ舟というのも、
こういう場合はなかなか不都合だ。

『人事を尽くして天命を待つ』

というのではなくて、完全に神様におんぶにだっこで任せきりで、
積極的に前進しようという心も無かったというわけだろうか?

そういうことを教示しているのであれば、
人類がこの地上にあることの意味もハッキリとして来る。

人類はただ生かされているのではない。

地上、海上に、天国の活き活きとした実相を実体化する為に、
積極的に働かねばならぬ、というわけだ。

時節を待つだけではなく、
こちらの方から時間を短縮するべく積極的に努力せねば、
この穏やかな水上を舟一つ進めることも出来ない。

動かしたければ自ら動かすべし。

そんなメッセージが込められているのかもしれない。

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 日は西山に没し、
海上を飛びかふ諸鳥(モロドリ)は塒(ネグラ)を求めておのおの巣に帰り行く。

半弦の月は西天に懸り、
利鎌(トガマ)のごとき光を海上に投げた。

空は一面に天書のひかり梨地色(ナシヂイロ)に輝き、
月は天(アマ)の河(カハ)を流れて海の涯(ハテ)に沈むの感があつた。

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もっとも急ぐ旅では無い、というのならば、
これはこれでよいのかもしれない。

潮の流れをよく読んで、潮流に乗るまで漕ぐもよし、漕がぬもよし、
というおおらかな心の持ち主ばかりである。…というわけだろうか?

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 海の底には一面の星光(セイクワウ)かがやき、
天にも銀河横たはり、
海底にもまた燦爛たる銀河流れ、
河(カハ)二つ月二つ、
実に蓮華の台(ウテナ)に身を托したるごとき爽快の念に打たれつつ、
静かに船は西南にむかつて進んでゐる。

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のんびりとだけれども、それでも船は進んでいる。

…というのだから、大騒ぎしてもしょうがないかもしれない。

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 船は渡る海底の空を、
棹(サヲ)は穿(ウガ)つ海底の星を、
海月(クラゲ)の幾十百ともなく波にただよふ有様は、
にはかに天上の月幾十ともなく降り来りて、
船を支へまもるの感じがしたのである。

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こういう状況に退屈を感じるか?
覚り澄まして、いたずらに時を浪費するか?
そんなことにまったく頓着せずに空境を満喫するか?

まったく生命というものは、不思議な存在である。

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 昨日の惨澹たる天地の光景に引換え、
今日のこの静けさは、
夕立の後の快晴か、
嵐の後の静けさか、
天地寂(セキ)として声なく、
蚯蚓(ミミズ)のささやく声さへ耳に通ふやうであつた。

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筆者も、遂、昨日、地元の横浜に降った雪の中、
ちょっとした冒険気分で自転車を走らせ、
全身に雪が積もり、顔に雪つぶてを浴びるのを楽しんだのが、
まるで夢幻だった様な晴天に恵まれた今日、
ふいに室内に現れたテントウムシに驚いてみたりして、
風雪一過という様な体験をしたばかりなので、
この体験を共有しあえる読者の皆さんと共に、
この『霊界物語』を疑似体験させられている様な事態を、
感謝して観るのもよいような気分でもある。

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 連日の航海に船中の神人は何れも無聊に苦しみ、
船の四隅には、

 『アーアー』

と大口を開けて欠伸(アクビ)をする神人が現はれた。

何れもこの欠伸に感染して、
一斉に両手の拳(コブシ)を握り頭上高く延長しながら、
大口を開けて、

 『アーアー』

といひながら、
欠伸を吾劣らずと始めかけた。

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乱世の時には平和を望み、泰平の世では革命を望む。

まったくアマノジャクな連中には困ったものだが、
これもまた天地自然の摂理なのかもしれない…。

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一時ばかりはあたかも欠伸の競争場のごとき感があつた。

もはや欠伸の種もつき、
船の一隅には辺りをはばかりてか、
小声に鼻唄さへうたふ神人(カミ)が現はれた。

これに感染されてか、
またもや小声に何事をか小唄をうたひはじめた。

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筆者が今、自己のブログで盛んに宣伝している『皇道経済』も、
こんな心理を活用した神策だと確信しているのであるが、
人の善性を炙り出すのには、仕事をさせずに十万苑(150万円)を与えて、
とことん遊ばせるに限る、というわけだ。

他人様の為とか、社会国家、公の為に働かなくてもいいから、
悪人はただ遊んでいろ、と、強制的に命令されると、
なんだか段々ボランティア精神が湧いて来て、
他人様が喜んでくれることのために、
どんな小さなことでいいから何かしたくなる。

つまり自然に奉仕の心を湧き立たせる為の最善の神策こそ、
『皇道経済』の実施以外には無い。

…という筆者が思い至った結論に対する援護射撃を、
この章がしてくれているような気もしないわけではないのである。

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つひには狎(ナ)れて大声をあげ、
遠慮会釈もなく船中に立ち上り、
両手を頬(ホホ)にあてながら、

 『飲(ノ)めよ騒(サワ)げーよ一寸先(イツスンサキ)あー闇(ヤミ)ーよー
  闇のーあとーにはー月がーでるー
  船がー浮くならー心もー浮かせー
  心沈(ココロシヅ)めばー船沈むー
  さあさ浮いたり浮いたり浮いたりなー
  浮いたー浮世(ウキヨ)はどうなろとままよー
  儘(ママ)にならぬが浮世といへどー
  わしはー時節(ジセツ)で浮いてーゐる
  時鳥(ホトトギス)声は聞けどもー姿は見せぬ
  見せぬ姿は魔か鬼か
  もしも鬼奴(オニメ)が出て来たら
  手足を縛(シバ)りー角(ツノ)を折り
  叩(タタ)いて炙(アブ)つて食(ク)てしまへ
  たとへ牛虎(ウシトラ)狼(オオカミ)獅子(シシ)も
  力のーよわき山羊(ヤマヒツジ)
  猿の千疋(センビキ)ー万疋(マンビキ)もー
  掻(カ)いて集めて引き縛(シバ)り
  西の海へとさらりとほかせ
  さらりとーほかせー
  よいよいーよいとさのーよいとさつさ』

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この船がやがて多人数で漕ぐ様なものになるのも、
こうした退屈を紛らわすには持って来いの構造だったかもしれない。

しかし、実際、こんな風にただ飲んで歌って騒いでいるだけでは、
船の速力は増すことはない。

かえって何時海が荒れて遭難するかもしれない危険状態を、
長引かせるだけでもあるわけだ。

松だけではよくない。竹ということも必要だ。

…ということを、この章は神示しているのかもしれない。

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 神人(カミガミ)らは異口同音に声を合して、
節面白く手を拍つてうたひはじめた。

 宣伝使は黙然としてこの騒ぎを心なげに、
見るともなしに眺めてゐた。

しばらくあつて神人らは疲労を感じたと見え、
さしも騒がしかりし波の上も、
水を打つたる如くたちまち静粛に帰し、
風の音さへも聞えぬ閑寂の気にうたるるばかりになつた。

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無駄な体力を浪費している愚民の嘆き…

待ってるだけでは何も変わらない…

やるべきことをやって、初めて待つことの深みが現れる。

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 宣伝使はやをら身を起し、
船中の小高(コダカ)き所に立ち現はれ、
涼(スズ)しき声を張りあげて、

 『高い山からー谷底見れば
  憂(ウ)しや奈落(ナラク)の泥(ドロ)の海
  三千世界一度に開(ヒラ)く梅の花
  開いて散りて実(ミ)を結ぶ
  月日(ツキヒ)と土(ツチ)の恩(オン)を知(シ)れ
  この世を救ふ生神(イキガミ)は
  天教山(テンケウサン)に現はれる
  この世を教ふる生神(イキガミ)は
  地教(チケウ)の山(ヤマ)にあらはれた
  朝日(アサヒ)は照(テ)るとも曇(クモ)るとも
  月(ツキ)は盈(ミ)つとも虧(カ)くるとも
  たとへ大地は沈むとも
  誠(マコト)の力は世を救ふ
  誠の力は世を救ふ』

と手を拍ち足踏(アシフ)みとどろかし舞ひ狂ふ。

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この世を救う神が天教山に現れたのなら、待っていないで会いに行け。

この世を教える神が地教山に現れたのなら、待っていないで会いに行け。

…という底の底の心の叫びが、筆者には聞こえる様な気がするのだ。

今の筆者を中心に考えるならば、
『皇道経済』も、誰かがやってくれるのを待っているのでは駄目だ。

『皇道経済』の本当の意味を知ったなら、その実現に向けて、
出来るだけの宣伝をするべきだ。

そしてそれがやがて波紋を起こし、大きなウネリとなって、
世界全体を動かすことになる、ということなのではなかろうか?

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 神人らはこの声に釣り出さるる心地して、
一斉に立ち上がり、
手を拍ち足踏み轟(トドロ)かし、
一心不乱に興に乗りて踊り狂ふ。

 このとき船中の一隅より、
苦々(ニガニガ)しき面構(ツラガマヘ)の巨大なる神人(シンジン)は、
すつくと立ち上り、
宣伝使をはつたと睨(ネ)めつけた。

その光景は、
あたかも閻羅王(エンラワウ)の怒髪(ドハツ)天を衝(ツ)いて
立ち現はれたごとくであつた。

 あゝこの神人(カミ)は何物ならむか。

 (大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、井上留五郎録)

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船中・船上の神々が、皆肉体を持っているのならば、
歌って踊っているだけでは、無駄に腹を空かせ、
蓄えた兵糧が底をつくのを待つばかりである。

貴様等、他にやることがあるだろう?

…と憤って出て来た神人ならばよいのだが、
はたしてその結末や如何に?

先を急いで知りたい方は、自分で『霊界物語』を入手するなり、
ウェブ上にある無料配布の霊界物語のページを開いて、
自ら積極的に拝読すればよいと思う。

つまりはそういうことを教示してくれているのが、
この章である、という様な気が、筆者にはしてならないのである。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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第29章 神慮洪遠(シンリヨコウエン) (229)

2010年03月03日 22時59分00秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神

 天道別命(アマヂワケノミコト)、
月照彦神(ツキテルヒコノカミ)以下の宣伝使選定され、
各地に配置されてより、
今まで天空を廻転しゐたる金銀銅の天橋(テンケウ)の光は、
忽然として虹(ニジ)のごとく消え失せ、ふたたび元の蒼天(サウテン)に復し、
銀河を中心に大小無数の星は燦然たる光輝を放射し出した。

 時しも東北の天にあたつて
十六個の光芒つよき大星(タイセイ)一所に輝きはじめた。
その光色はあたかも黄金のごとくであつた。
又もや西南の天にあたつて十六個の星光(セイクワウ)が一所に現はれた。
その光色は純銀のごとくであつた。

地上の神人(シンジン)は、
この変異にたいして或ひは五六七(ミロク)聖政の瑞祥(ズイシヤウ)と祝し、
あるひは大地震の兆候(シルシ)となして怖れ、あるひは凶年の表徴となし、
その観察は区々(マチマチ)にして一定の判断を与ふるものがなかつた。

 忽(タチマ)ちにして蒼天墨を流せしごとく暗黒となり、
また忽ちにして満天血を流せしごとく真紅(シンク)の色と変じ、
あるひは灰色の天と化し、黄色と化し、時々刻々に雲の色の変りゆく様は、
実に無常迅速の感を地上の神人に与へたのである。

地は又たちまちに暴風吹き荒(スサ)み、
樹木を倒し、岩石を飛ばし、神人を傷つけ、
妖気地上を鎖(トザ)すと見るまに、
たちまち光熱強き太陽は東西南北に現出し、
暑熱はなはだしく、地上の草木、
神人その他の動物はほとんど枯死(コシ)せむとするかと思へば、
寒風にはかに吹ききたり、雹(ヒヨウ)を降らし、雷鳴満天にとどろき、
轟然(ガウゼン)たる音響は各所に起り、遠近(ヲチコチ)の火山は爆発し、
地震、海嘯(ツナミ)ついで起り、不安の念にかられざるものはなかつた。

 「かなはぬ時の神頼み」とでもいふのか、今まで神を無視し、
天地の恩を忘却しゐたる地上の神人は、
天を仰いで合掌し、地に伏して歎願し、
その窮状は実に名状すべからざる有様であつた。

烈風の吹きかよふ音は、
あたかも猛獣の咆哮(ホウコウ)するがごとく、
浪の音は万雷の一斉にとどろくがごとく、
何時(イツ)天地は崩壊せむも計りがたき光景となつて来たのである。

 かくのごとき天地の変態は、七十五日を要した。
このとき地上の神人は、神を畏れて救ひを求むるものあれば、
妻子、眷属(ケンゾク)、財産を失ひて神を呪(ノロ)ふものも現はれた。

中には自暴自棄となり、ウラル彦の作成したる宣伝歌を高唱し、

 『呑(ノ)めよ騒(サワ)げよ一寸先(イツスンサキ)や暗(ヤミ)よ
  暗(ヤミ)の後(アト)には月(ツキ)が出る
  月には村雲(ムラクモ)花(ハナ)には嵐(アラシ)/嵐過ぐれば春が来る
  ヨイトサ、ヨイトサ、ヨイトサノサツサ』

と自棄糞(ヤケクソ)になつて踊り狂ふ人も大多数に現はれた。

 そもそも七十五日間の天災地妖のありしは、
野立彦神(ノダチヒコノカミ)、野立姫神(ノダチヒメノカミ)をはじめ、
日(ヒ)の大神(オホカミ)、月(ツキ)の大神(オホカミ)の地上神人(シンジン)の身魂(ミタマ)を
試したまふ御経綸(ケイリン)であつたのである。

このとき真の月日の恩を知り、大地の徳を感得したる誠の神人は、
千中の一にも如(シ)かざる形勢であつた。

 大国治立尊(オホクニハルタチノミコト)は、
この光景を見ておほいに悲歎の涙にくれたまふた。

 『アヽわが数十億年の艱難辛苦の結果成れる地上の世界は、
  かくも汚れ、かつ曇りたるか。
  いかにして此の地上を修祓(シウバツ)し、払拭し、
  最初のわが理想たりし神国浄土に改造せむや』

と一夜悲歎の涙にくれたまふた。

大神(オホカミ)の吐息を吐きたまふ時は、
その息は暴風となつて天地を吹きまくり、
森羅万象を倒壊せしむるのである。

大神の悲歎にくれ落涙したまふときは、
たちまち強雨となりて地上に降りそそぎ、
各地に氾濫の災害を来すことになるのである。

 大神はこの惨状を見たまひて、泣くにも泣かれず、涙を体内に流し、
吐息を体内にもらして、地上の災害を少しにても軽減ならしめむと、
隠忍したまふこと幾十万年の久しきに亘(ワタ)つたのである。

大国治立尊の堪忍袋(カンニンブクロ)は、もはや吐息と涙もて充(ミタ)され、
いつ破裂して体外に勃発せむも計りがたき状態となつた。

 されど至仁至愛の大神は、宇宙万有を憐れみたまふ至情より、
身の苦しさを抑(オサ)へ、よく堪へ、よく忍び、
もつて地上神人の根本的に革正するの時機を待たせ給ふのである。

されど御腹(ミハラ)の内に充み満ちたる神の涙と慨歎の吐息は、
もはや包むに由なく、
少しの感激にも一時に勃発破裂の危機に瀕しつつあつた。
アヽ宇宙の天地間は、実に危機一髪のさかひに時々刻々に迫りつつある。

 大神の多年の忍耐に忍耐を重ねたまひしより、
その御煩慮の息は、鼻口(ビコウ)よりかすかに洩(モ)れて大彗星となり、
無限の大宇宙間に放出されたのである。

一息ごとに一個の大彗星となつて現はれ、
瞬(マタタ)くうちに宇宙間に数十万の彗星は、
宇宙の各所に現はれ、漸次その光は稀薄となつて宇宙に消滅した。

 されどその邪気なる瓦斯体(ガスタイ)は、宇宙間に飛散し、
つひには鬱積して大宇宙に妖邪の空気を充満し、
一切の生物はその健康を害し、
生命を知らず識らずのあひだに短縮することとなつた。

ゆゑに古来の神人(シンジン)は、短くとも数千年の天寿を保ち、
長きは数十万年の寿命を保ちしもの、
漸次短縮して今は天地経綸の司宰者たる最高動物の人間さへも、
僅(ワヅ)かに百年の寿命を保し難き惨状を来すことになつた。

 アヽ無量寿(ムリヤウジユ)を保ち、
無限に至治泰平を楽しむ五六七(ミロク)出現の聖代は、
いつの日か来るであらう。

吾人(ゴジン)は霊界における大神の御神慮と、
その仁恵を洞察し奉(タテマツ)るときは、
実に万斛(バンコク)の涙のただよふを感ぜざるを得ない。

 神諭(シンユ)に、

 『恋し恋しと松世(マツヨ)は来(コ)いで、
  末法(マツパフ)の世(ヨ)が来(キ)て門(カド)に立つ』

と述懐されたる大国治立尊の御聖慮を深く考へねばならぬ。

 (大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、外山豊二録

『音惚花活気好@kakky』的『第29章 神慮洪遠(229)』分解

2010年03月03日 22時58分31秒 | Weblog
『音惚花活気好@kakky』的『第29章 神慮洪遠(229)』分解
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神

平成二十二(2010)年三月三日 旧一月十八日(水)

 天道別命(アマヂワケノミコト)、
月照彦神(ツキテルヒコノカミ)以下の宣伝使選定され、
各地に配置されてより、
今まで天空を廻転しゐたる金銀銅の天橋(テンケウ)の光は、
忽然として虹(ニジ)のごとく消え失せ、ふたたび元の蒼天(サウテン)に復し、
銀河を中心に大小無数の星は燦然たる光輝を放射し出した。

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金銀銅の天橋は、
地上に大洪水などの天災が発生するほどに邪気が蟠っているので、
緊急避難措置として設けられた神の救いの鉤であるから、
その邪気の発生源である地上の神々や、人類の心のケアをする為の宣伝神達が、
いわゆる宗教家として地上各地に派遣されれば、不用になる代物である。
…という事なのだと思う。

地上の生物は足を地につけて生活するのが本道であるから、
緊急避難措置として金銀銅の天橋の上に登っていても、
地上天国建設の神業が遅れるばかりになるわけだ。

ちょうどつい先日、バンクーバー冬季五輪が終わったばかりだから、
例え易いのだが、選ばれた代表選手達が、競い合った結果、
金銀銅のメダルをもらい晴れの表彰台に立つわけであるけれど、
そのポジションは、ちょっと油断すれば、すぐに引きずり降ろされ、
選手が入れ替わってしまう厳格なポジションでもある。

まさに金銀銅の天教そのもののポジションだ。

また、これも何の巡り合せか、チリの大震災によって発生した津波警報に対し、
警報を受けてすぐに高台に避難した賢い皆さんも、いつまでもそこにいては、
本当に地に足が着いた生活が出来なくなってしまうから、
津波警報さえ解除されれば、また平地の住居に戻って、
日々の暮らしを繰り返すことになるわけである。

つまり、アジア・アメリカのアーメニヤの大洪水も、
全てが地上の神々・人民の心から発した邪気の蓄積が招いた結果であるから、
その浄化法を各自が学び、実践しさえすれば、
その様な天災が繰り返されることはないわけだから、
その方法を伝達に、宣伝神達が各地に配置されれば、
自然に金銀銅の天橋が消失するのも道理、というわけである。

火事が治まれば消防車は消防署に帰る。
事件が治まればパトカーも警察署に帰る。
天地滅亡の危機が去れば金銀銅の天橋も消失する、ということであろう。

具体的には、天津祝詞を原点とする、各宗教の祭礼儀式などがこの方法である、
ということになるのだと思う。

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 時しも東北の天にあたつて
十六個の光芒つよき大星(タイセイ)一所に輝きはじめた。
その光色はあたかも黄金のごとくであつた。
又もや西南の天にあたつて十六個の星光(セイクワウ)が一所に現はれた。
その光色は純銀のごとくであつた。

地上の神人(シンジン)は、
この変異にたいして或ひは五六七(ミロク)聖政の瑞祥(ズイシヤウ)と祝し、
あるひは大地震の兆候(シルシ)となして怖れ、あるひは凶年の表徴となし、
その観察は区々(マチマチ)にして一定の判断を与ふるものがなかつた。

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大自然の原則として、綺麗な花には棘がある。

美しい自然現象は遠くから眺めているから安全なのであって、
小さな人間がその中に入ると、
とんでもない嵐や渦巻に巻き込まれる事になるそうだから、
こういう時は要注意である。

花火も遠くから観ているから綺麗なのであって、
打ち上げる方は死の危険と闘いながら命がけで花火を打ち上げているし、
あの花火の爆発をまともに受けたら、それは爆弾と一緒なのだ、
…ということを意識出来れば、
こういう事があった時の心構えも出来るに違いない。

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 忽(タチマ)ちにして蒼天墨を流せしごとく暗黒となり、
また忽ちにして満天血を流せしごとく真紅(シンク)の色と変じ、
あるひは灰色の天と化し、黄色と化し、時々刻々に雲の色の変りゆく様は、
実に無常迅速の感を地上の神人に与へたのである。

地は又たちまちに暴風吹き荒(スサ)み、
樹木を倒し、岩石を飛ばし、神人を傷つけ、
妖気地上を鎖(トザ)すと見るまに、
たちまち光熱強き太陽は東西南北に現出し、
暑熱はなはだしく、地上の草木、
神人その他の動物はほとんど枯死(コシ)せむとするかと思へば、
寒風にはかに吹ききたり、雹(ヒヨウ)を降らし、雷鳴満天にとどろき、
轟然(ガウゼン)たる音響は各所に起り、遠近(ヲチコチ)の火山は爆発し、
地震、海嘯(ツナミ)ついで起り、不安の念にかられざるものはなかつた。

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普通、晴天の日中の空の色は空色と決まっているし、
夜空の色も漆黒であるとか、藍色であるとか、…だし、
夕方や暁には赤くなる…ということは決まっているわけだが、
こんな風にめまぐるしく空の色が変わるのは、上空の大気とか、
電磁波とか、プラズマなどが、通常の安定を破って乱れた結果、
地上に様々な変色光を投射することになるわけだから、
地上はいやが上にも、その異常の影響を受けることになるのだろう。

そしてそれは、天上の星の運行に関わる一大事が発生している、
…ということを気付かせてくれる現象だと思うのだ。

天の気が揺れれば、地の気も揺さぶられるわけだが、
東西南北に太陽が出現する、…という現象は、
ちょっと筆者の想像の及ぶ現象ではないのだが、
地球の周囲に巨大惑星が衝突寸前に接近した結果、
そういう事になるのだったら、
それは惑星同士が、互いに影響し合って、
こんな風に天変地異を起こしたとしても、
それは不思議なことではないだろう…

いよいよ、地球滅亡か?…と言いたいところだが、
それで終わっていれば、
また我々の歴史も存在しなかったであろうから、
あまり悲観論ばかりを並べてもしょうがない。

ちょうど水中から水上へ顔を出す瞬間の様な、
または胎児が母の胎内から出産する時の様な光の激変を味わう様なことが、
起きようとしているのかもしれない。

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 「かなはぬ時の神頼み」とでもいふのか、今まで神を無視し、
天地の恩を忘却しゐたる地上の神人は、
天を仰いで合掌し、地に伏して歎願し、
その窮状は実に名状すべからざる有様であつた。

烈風の吹きかよふ音は、
あたかも猛獣の咆哮(ホウコウ)するがごとく、
浪の音は万雷の一斉にとどろくがごとく、
何時(イツ)天地は崩壊せむも計りがたき光景となつて来たのである。

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冬が去り春が来る頃にも『春一番』という強風が吹き荒れて、
ちょっと荒療治的に冬を何処かへ追い払い、
穏やかな春を連れて来るわけだから、そこまで大悟徹底出来たら、
それはそれで強いかもしれない。

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 かくのごとき天地の変態は、七十五日を要した。
このとき地上の神人は、神を畏れて救ひを求むるものあれば、
妻子、眷属(ケンゾク)、財産を失ひて神を呪(ノロ)ふものも現はれた。

中には自暴自棄となり、ウラル彦の作成したる宣伝歌を高唱し、

 『呑(ノ)めよ騒(サワ)げよ一寸先(イツスンサキ)や暗(ヤミ)よ
  暗(ヤミ)の後(アト)には月(ツキ)が出る
  月には村雲(ムラクモ)花(ハナ)には嵐(アラシ)/嵐過ぐれば春が来る
  ヨイトサ、ヨイトサ、ヨイトサノサツサ』

と自棄糞(ヤケクソ)になつて踊り狂ふ人も大多数に現はれた。

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つまり二ヶ月半、こんな気象異常、天変地異が続いた、
…という計算になるわけだから、…まあ不安にかられて、
異常な行動に走る者が出て来るのも無理はないだろう。

偉そうな事を言っても、人類は大自然の驚異の前には、
あまりにも無力であるということであれば、
それ以上返す言葉もないことである。

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 そもそも七十五日間の天災地妖のありしは、
野立彦神(ノダチヒコノカミ)、野立姫神(ノダチヒメノカミ)をはじめ、
日(ヒ)の大神(オホカミ)、月(ツキ)の大神(オホカミ)の地上神人(シンジン)の身魂(ミタマ)を
試したまふ御経綸(ケイリン)であつたのである。

このとき真の月日の恩を知り、大地の徳を感得したる誠の神人は、
千中の一にも如(シ)かざる形勢であつた。

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つまり真の月日の恩を知り、大地の徳を感得したる誠の神人は、
今の筆者の様に、覚り澄ました様なことを平然と言ってのける様な、
みようによっては小憎らしい境地に達している、というわけである。

それにしても国祖(コクソ)大神夫婦は、
せっかく金銀銅の天橋が消失したのに、
なんだってまたしちくどくも、こんな試みを行ったのだろか?

筆者には天祖の御判断を疑っているのが、
国祖大神の様に思えてもしまうのだが…?

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 大国治立尊(オホクニハルタチノミコト)は、
この光景を見ておほいに悲歎の涙にくれたまふた。

 『アヽわが数十億年の艱難辛苦の結果成れる地上の世界は、
  かくも汚れ、かつ曇りたるか。
  いかにして此の地上を修祓(シウバツ)し、払拭し、
  最初のわが理想たりし神国浄土に改造せむや』

と一夜悲歎の涙にくれたまふた。

大神(オホカミ)の吐息を吐きたまふ時は、
その息は暴風となつて天地を吹きまくり、
森羅万象を倒壊せしむるのである。

大神の悲歎にくれ落涙したまふときは、
たちまち強雨となりて地上に降りそそぎ、
各地に氾濫の災害を来すことになるのである。

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そうは言っても、今の世の中を見ても判る様に、
大震災があろうと、津波があろうと、戦争で国が破壊されようと、
人類というやつはしぶといもので、生きてさえいれば、
またムクムクと再生して、人類文明の猛威を発揮して、
地上に天災の種をまき続けることになるのだから、
大神の御心ばかり考えていても、
これらの悪循環が是正されることはないに違いない。

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 大神はこの惨状を見たまひて、泣くにも泣かれず、涙を体内に流し、
吐息を体内にもらして、地上の災害を少しにても軽減ならしめむと、
隠忍したまふこと幾十万年の久しきに亘(ワタ)つたのである。

大国治立尊の堪忍袋(カンニンブクロ)は、もはや吐息と涙もて充(ミタ)され、
いつ破裂して体外に勃発せむも計りがたき状態となつた。

 されど至仁至愛の大神は、宇宙万有を憐れみたまふ至情より、
身の苦しさを抑(オサ)へ、よく堪へ、よく忍び、
もつて地上神人の根本的に革正するの時機を待たせ給ふのである。

されど御腹(ミハラ)の内に充み満ちたる神の涙と慨歎の吐息は、
もはや包むに由なく、
少しの感激にも一時に勃発破裂の危機に瀕しつつあつた。
アヽ宇宙の天地間は、実に危機一髪のさかひに時々刻々に迫りつつある。

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最近は、あまり激しく酒を飲む機会がなくなったのでほとんど無いが、
筆者も若いころは友達と飲み比べをして、三回くらい、
一度腹に収めたものを口から出すという勿体ない体験をした事があるが、
遊びベタな国祖(コクソ)大神は、きっとこんな風には感じられずに、
仕事の鬼なって癌治療を拒否する頑固者の様なことに、
なっているのかもしれない。

筆者は地震国日本に生まれたので、あまり長い間小さな地震も発生しない、
という時には、心配でしょうがなくなるので、大震災が発生する前に、
すかしっペの様な小さな地震を小出しに揺する様に祈るのだが、
たまりにたまったものを一気に吐き出すのは、吐き出す方はスッキリするが、
それを後片付けさせられる方にはたまったものではない。

うわ~~~、やめてくれ~~~…という感じである。

国祖(コクソ)の大神様、我慢強いのも好いですが、もう少しざっくばらんと、
日頃からストレスの発散をやりましょうよ…と言いたくなってしまうのだ。

そこへいくと神素盞嗚大神の御代になると、宣伝使達の中にも、
おかまいなしに屁をひって、狂歌を歌いっこして、
わずかな憂さも発散する様になるのだから、指導者が代われば、
やっぱり世も変る、ということなのではなかろうか?

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 大神の多年の忍耐に忍耐を重ねたまひしより、
その御煩慮の息は、鼻口(ビコウ)よりかすかに洩(モ)れて大彗星となり、
無限の大宇宙間に放出されたのである。

一息ごとに一個の大彗星となつて現はれ、
瞬(マタタ)くうちに宇宙間に数十万の彗星は、
宇宙の各所に現はれ、漸次その光は稀薄となつて宇宙に消滅した。

 されどその邪気なる瓦斯体(ガスタイ)は、宇宙間に飛散し、
つひには鬱積して大宇宙に妖邪の空気を充満し、
一切の生物はその健康を害し、
生命を知らず識らずのあひだに短縮することとなつた。

ゆゑに古来の神人(シンジン)は、短くとも数千年の天寿を保ち、
長きは数十万年の寿命を保ちしもの、
漸次短縮して今は天地経綸の司宰者たる最高動物の人間さへも、
僅(ワヅ)かに百年の寿命を保し難き惨状を来すことになつた。

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なんとなく、筆者が国祖(コクソ)の傍にいたら、腋の下でもくすぐるか、
酒でも飲もうと盃をすすめるか、タコ踊りでも踊るか、筆者がギターを弾き、
国祖(コクソ)にドラムでも叩かせ、他の神々にその他の楽器を担当させて、
バンド演奏をやってストレス発散しようとする気がするのだが、
こういう考え方は国祖(コクソ)の大神に対して不遜なことなのだろうか?

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 アヽ無量寿(ムリヤウジユ)を保ち、
無限に至治泰平を楽しむ五六七(ミロク)出現の聖代は、
いつの日か来るであらう。

吾人(ゴジン)は霊界における大神の御神慮と、
その仁恵を洞察し奉(タテマツ)るときは、
実に万斛(バンコク)の涙のただよふを感ぜざるを得ない。

 神諭(シンユ)に、

 『恋し恋しと松世(マツヨ)は来(コ)いで、
  末法(マツパフ)の世(ヨ)が来(キ)て門(カド)に立つ』

と述懐されたる大国治立尊の御聖慮を深く考へねばならぬ。

 (大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、外山豊二録)

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灰汁が蓄積して出来上がった大地から生まれた国津神達や、
共に食い合いながら生命力を盛んにする地上の各生命達に対して、
禁欲的な精神論ばかり持ち出してもしょうがない。

だから「飲めよ騒げよ一寸さきゃ闇よ云々」などと歌う曲神も、
出て来るのだろう。

真面目一本槍の国祖大神を、如何にしてくすぐって赤ん坊にするか?

ちょっと飛躍した考えかもしれないが、
これはやはり『皇道経済』を実践して、
地獄の鬼も思わず笑顔になる様な世の中にする以外には、
解決策は無い様な気がするのだ。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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