霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第五篇 宇宙精神
平成二十二(2010)年三月二十五日 旧二月十日(木)
第31章 万波洋々(バンパヤウヤウ) (231)
阿修羅王(アシユラワウ)のごとく
閻羅王(エンラワウ)のごとき形相(ギヤウサウ)すさまじき神人(カミ)は、
巨眼を開き、船中の神人(カミガミ)らを睨(ネ)めつけながら、
『神人らよ、余が宣示を耳をさらへてよく承(ウケタマハ)れよ』
と頭上より浴びせかけるやうにどなりつけた。
これは牛雲別(ウシクモワケ)である。
--------------------------------------------------------------
…なんというか?
何故か、先週と同じ章を、また分解してしまったので、
せっかくだから、今週も同じ章の、もう一つの解釈という事で、
掲載させていただくすることにする。
たぶんこれで、筆者の寿命が一週間分伸びた格好になるとも思うが、
これも惟神(カムナガラ)の事であろうと、有難く拝受させて頂きたい。
…さて…
筆者が二十代から四十代中盤くらいまでに好く働いた職場には、
おっかない顔つきの荒っぽい男共がたくさんいたけれど、
筆者は、そういう仁王さんみたいな顔を見て怖いと思った事がない。
何故か?…というと、皆、目つきが優しいので、
そちらの方ばかりを慕うので、そんな怖い顔した皆さんが、
揃って優しくしてくれたからである。
かえって、いわゆるイケメンとか、青瓢箪というか、一見弱そうな、
静かな連中の方が、底無しの闇を抱えている様にみえて、
近づきたくない殺気を感じたものだ。
極道さん達と親しい知人に云わせると、覚醒剤でもやっている様な、
人殺しの目、というのは、青白い闇に漂う幽気を発しているもので、
こういうのと向き合う時は、先手必勝で相手を殺すくらいの気構えでないと、
本当にこちらの命が危ないから、とにかく近寄らないに限るのだ。
それと、にっこり笑って人を斬るタイプ…
命の取り合いをゲームだと思っている奴には近づかない方がいい。
志があって、命を大事にしなければならないのならば、特に、…だ。
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
こちらの宣伝使は例の祝部神(ハフリベノカミ)である。
彼は無雑作にうち笑ひながら、
『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)のものも
天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし
海の底にも光(ヒカリ)あり
山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
光りに光る今の世を
なんと思ふか盲神
盲の杖(ツエ)を失ふた
苦しき報(ムク)いは目のあたり
あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
四足神の哀(アハ)れさよ
角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
身の果こそは哀(アハ)れなり
身の果こそは哀れなり』
と又もや手をふり足ふみならして、
あたり構はず傍若無人の挙動の大胆さに、
いづれも呆れて祝部神の全身に目をそそいだ。
--------------------------------------------------------------
『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)』
これを『天(アメ)の数歌(カズウタ)』という。
天地万有の順序を整える言靈で、誠意を込めてこの言靈を発射していれば、
自ずから心身の姿勢が正されるものである。
『天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし』
なんと光明に溢れた雄大な言靈であろうか?
『海の底にも光(ヒカリ)あり
山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
光りに光る今の世を
なんと思ふか盲神』
真に神気に触れた身魂は、この光明に浴さぬ者は無い。
『盲の杖(ツエ)を失ふた
苦しき報(ムク)いは目のあたり
あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
四足神の哀(アハ)れさよ』
祝部神の宣伝歌も、前半は高尚だったけれども、
後半は相手に喧嘩を売ってしまっているので、
この辺は、筆者も愛したい気質ではあるけれども、
大いに反省するべき部分であろうかと思うのである。
『角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
身の果こそは哀(アハ)れなり
身の果こそは哀れなり』
判るけれども、これを言ったら、宣戦布告だから、
相手を改心させるどころか、火に油を注ぐ結果になるのは否めない。
もっとも、こういう一本木な気質は、決して憎む様なものではない。
しかし、これを愛嬌と取るか?挑戦と取るか?
その辺の分別も必要なのかもしれない…
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
牛雲別は、アーメニヤの野に、
螢火(ホタルビ)のごとき光を現はすウラル彦の命により、
宣伝使としてここに現はれたのであつた。
彼は強烈なる酒を大口ひらいてがぶがぶと牛飲(ギウイン)しながら、
あまたの神人(カミガミ)らに見せつけ、
『酒は百薬の長(チヤウ)といふ
命(イノチ)の水を飲まざるか
飲めば心は面白(オモシロ)い
寿命長久(ジユミヤウチヤウキウ)千秋万歳楽(センシウバンザイラク)のこの薬(クスリ)
飲まぬは天下の大馬鹿者(オオバカモノ)よ
--------------------------------------------------------------
筆者も、お酒をたしなむのは嫌いではないが、
飲まねば何も語れない、というのは、十代の頃から嫌いである。
しかし、熱く語り出すと、自然に自己陶酔して来る。
アドレナリンとかいう脳内麻薬が発生して、
自然な覚醒作用をもたらすのだそうだ。
そういう情態に水をかけて、冷静に物事を判断できる様にするのが、
誠の道なのであろうと筆者は思うし、それが安心できる実力であろう…
火事場のクソ力というのは、普段はなかなか出ないものだ。
そういう突発的な奇跡に頼らなくても、常識的に善悪を判断したければ、
逆に酒など飲んでいる場合ではないのではなかろうか?
一働きして、さあこれから遊ぼう…という時ならばよいけれども…
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
たはけた面(ツラ)してぶるぶると
ふるひ苦しむ青瓢箪(アヲフクベ)
酒を飲んだら顔の色
朝日の豊栄昇(トヨサカノボ)るごと
輝(カガヤ)きわたる血色清(イロスガ)し
--------------------------------------------------------------
酒を飲まないと顔が青い…ということは、血液が粘っているのだ。
つまり不健康に寿命を縮める方向に進んでいるわけであるから、
酒を飲む前から血色が好い顔色になる様にしないといけない。
それには『皇道経済』の実施による社会不安の根絶と、
『霊界物語』の拝読と、天津祝詞の奏上であろうと、
筆者は確信するのだ。
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空にかがやく月の夜に
心さはやか気はさらり
さらりさらりと物事は
酒でなければ運ばない
酒は命(イノチ)の親神(オヤガミ)ぞ
親を知らない子があろか
親を知らぬは鬼子(オニゴ)ぞや
鬼を殺すはこの酒ぞ
--------------------------------------------------------------
酒が命の親だという身魂は、酒に溺れて死ぬしかなかろう…
命の親は素神である。
この牛雲別等が鬼と呼んでいる相手は、実は救いの神々なのだ。
アル中患者にしてみれば、酒を取り上げる医者は鬼に見えるであろう…
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
神の舌(シタ)をば引き抜いて
作(ツク)りなますにしてくらへ
暗いくらいと吐(ヌ)かす奴(ヤツ)
酒を飲んで見よ赤くなる
赤い心は神心(カミゴコロ)
赤い心は神心
--------------------------------------------------------------
『酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
神の舌(シタ)をば引き抜いて
作(ツク)りなますにしてくらへ』
筆者は、こんな恐ろしいことを言う者こそ夜叉か鬼だと思うのだが…
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暗い心の祝部(ハフリベ)が
真赤(マツカ)な虚言(ウソ)を月読(ツキヨミ)の
月夜(ツキヨ)に釜(カマ)をぬかれたる
あきれ顔して目(マ)のあたり
吠面(ホエヅラ)かはくが面白い
これを肴(サカナ)に皆(ミナ)の奴(ヤツ)
おれが今出(イマダ)すこの酒を
遠慮会釈も梨地(ナシヂ)の盃(ツキ)に
盛(モ)つて飲めのめ飲んだら酔へよ
酔ふたら管(クダ)まけ管(クダ)まきや機(ハタ)が
織(オ)れるか織(オ)れぬかおりや知らぬ
知らぬが仏(ホトケ)ほつとけ捨(ス)てとけ
一寸(イツスン)さきは暗(ヤミ)よ
暗の後(アト)には月が出る
--------------------------------------------------------------
赤い心が神心だと言ってみたり、
真赤な虚言と言ってみたり、
まったく一貫性が無い話だが、
赤は血の色で命の色であるというのは本当であろう。
しかし何故『真っ赤なウソ』などという言葉があるのだろうか?
人をだました時に、アカンベーをやって、
赤い舌と眼の肉をさらすからだろうか?
月は闇夜にしか出ないか?…といえば、そうでもない。
真昼間の青空の下にでも白い月が出る事はあるし、
漆黒の闇の後には、どちらかというと朝日が昇るのが、
本当だと思うのだが…?
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
あまり無聊(ムレウ)にほととぎす
声はすれども姿は見せぬ
見せぬ姿(スガタ)は鬼か魔か
鬼の念仏わしや鬼来(キライ)
きらひな奴(ヤツ)に目もくれな
好きなお酒に酔ひつぶれ
宵(ヨヒ)に企(タク)んだ梟(フクロドリ)
袋(フクロ)の底をたたいて見たら
たれの心も同じこと
酒の嫌ひな神なかろ
--------------------------------------------------------------
お神酒を神棚に捧げた時に、神様はその酒を飲むのではなく、
そこに精気を満たしてくださるのである。
それを御神酒分けして、参列した皆と分け合って頂くのが、
正しい作法である。
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--------------------------------------------------------------
すまし顔して負(マ)け惜(ヲ)しみ
えらそな面(ツラ)して力むより
すこしは顔の紐(ヒモ)ほどけ
仏(ホトケ)に地獄で会ふたよな
この甘酒(ウマザケ)の味を知れ
酔ふてよふて酔ひつぶれ
酔ふたらよいぢやないか
よいよいよいのよいのさつさ
酒酒(サツサ)、酒酒(サツサ)』
としきりに祝部神の宣示にたいして防禦線をはり、
座席の傍(カタハラ)より二樽の強き酒をだし、
あまたの盃(サカヅキ)を船中にふりまいた。
--------------------------------------------------------------
筆者はサラサラ血なので、本当にアルコール摂取量は少しで充分だ。
限界に挑戦する時は、友達と馬鹿騒ぎをやる時だけである。
何かをごまかすために飲むわけではない。
お祭り騒ぎの景気づけで互いに酒を煽るのだ。
だがしかし、二日酔いするほど飲んで、翌日にこたえるのは、
あまり好きではない。
だが言っても聞かない連中に、禁酒を薦める趣味はあまりない。
そういう意味では祝部神は親切で勇敢な神様だと思うのである。
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
神人らは猫に鼠を見せたごとく喉(ノド)をごろごろ鳴らし、
唇に唾(ツバキ)をため、羨(ウラヤ)ましげに酒樽に目をそそいだ。
中には狐が油揚(アブラアゲ)を見せつけられたやうな心地となつて、
牛雲別の樽の鏡をひらくを待たず、
飢虎(キコ)のごとく樽を目がけて飛びつく上戸(ジヨウゴ)の神人(カミ)も現はれた。
にはかに船中は春めきわたり、酔のまはるにつれて、
神人らは平手をもちて舷(フナバタ)をたたき、拍子をとり舞ひはじめた。
『来るか来るかと浜へ出てみれば
浜の松風(マツカゼ)音(オト)もせぬ
音に聞えた竜宮海(リユウグウカイ)の
乙姫(オトヒメ)さまでも呼んできて
酌(シヤク)をさしたら面白(オモシロ)からう
癪(シヤク)にさはるは祝部神(ハフリベノカミ)よ
癪にさはるは祝部神よ
杓(シヤク)で頭を砕(クダ)いてやろか』
ポンポンポンと舷をたたき、
つひには両手で自分の額を無性矢鱈(ムシヤウヤタラ)にたたいて踊り狂ふた。
--------------------------------------------------------------
要するに素盞嗚尊の八岐大蛇退治の詳細の一部が、
ここに記されているのであろう…
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
祝部神は元来酒が好きである。
喉から手のでるやうにその盃がとりたくなつた。
喉のあたりに腹の虫がこみ上つて、ぐうぐうと吐(ヌ)かすのである。
祝部神はこれこそ神の試みとわれとわが心を制し、思はず知らず指をくはへ、
つひには激昂してわれとわが指を喰ひきり、はじめて気がつき、
またもや声張り上げて、
「三千世界一度に開(ヒラ)く云々」
の歌をうたひはじめた。
(大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、加藤明子録)
--------------------------------------------------------------
何故だか判らないが、今週は先週と同じ章をまた分解してしまった。
しかし、これも惟神(カムナガラ)の事であろうと思うので、
筆者は時間を無駄にしないためにも、もう一つの分解として、
そのまま投稿することにした。
冒頭に記した通り、これで寿命が一週間伸びた気分である。
嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)
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平成二十二(2010)年三月二十五日 旧二月十日(木)
第31章 万波洋々(バンパヤウヤウ) (231)
阿修羅王(アシユラワウ)のごとく
閻羅王(エンラワウ)のごとき形相(ギヤウサウ)すさまじき神人(カミ)は、
巨眼を開き、船中の神人(カミガミ)らを睨(ネ)めつけながら、
『神人らよ、余が宣示を耳をさらへてよく承(ウケタマハ)れよ』
と頭上より浴びせかけるやうにどなりつけた。
これは牛雲別(ウシクモワケ)である。
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…なんというか?
何故か、先週と同じ章を、また分解してしまったので、
せっかくだから、今週も同じ章の、もう一つの解釈という事で、
掲載させていただくすることにする。
たぶんこれで、筆者の寿命が一週間分伸びた格好になるとも思うが、
これも惟神(カムナガラ)の事であろうと、有難く拝受させて頂きたい。
…さて…
筆者が二十代から四十代中盤くらいまでに好く働いた職場には、
おっかない顔つきの荒っぽい男共がたくさんいたけれど、
筆者は、そういう仁王さんみたいな顔を見て怖いと思った事がない。
何故か?…というと、皆、目つきが優しいので、
そちらの方ばかりを慕うので、そんな怖い顔した皆さんが、
揃って優しくしてくれたからである。
かえって、いわゆるイケメンとか、青瓢箪というか、一見弱そうな、
静かな連中の方が、底無しの闇を抱えている様にみえて、
近づきたくない殺気を感じたものだ。
極道さん達と親しい知人に云わせると、覚醒剤でもやっている様な、
人殺しの目、というのは、青白い闇に漂う幽気を発しているもので、
こういうのと向き合う時は、先手必勝で相手を殺すくらいの気構えでないと、
本当にこちらの命が危ないから、とにかく近寄らないに限るのだ。
それと、にっこり笑って人を斬るタイプ…
命の取り合いをゲームだと思っている奴には近づかない方がいい。
志があって、命を大事にしなければならないのならば、特に、…だ。
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こちらの宣伝使は例の祝部神(ハフリベノカミ)である。
彼は無雑作にうち笑ひながら、
『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)のものも
天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし
海の底にも光(ヒカリ)あり
山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
光りに光る今の世を
なんと思ふか盲神
盲の杖(ツエ)を失ふた
苦しき報(ムク)いは目のあたり
あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
四足神の哀(アハ)れさよ
角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
身の果こそは哀(アハ)れなり
身の果こそは哀れなり』
と又もや手をふり足ふみならして、
あたり構はず傍若無人の挙動の大胆さに、
いづれも呆れて祝部神の全身に目をそそいだ。
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『一二三四五六七八九十百千万(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリモモチヨロヅ)
百(モモ)の千種(チグサ)も万(ヨロヅ)』
これを『天(アメ)の数歌(カズウタ)』という。
天地万有の順序を整える言靈で、誠意を込めてこの言靈を発射していれば、
自ずから心身の姿勢が正されるものである。
『天地(テンチ)の神(カミ)の御恵(ミメグミ)に
洩(モ)れたるものは塵(チリ)ほどもなし』
なんと光明に溢れた雄大な言靈であろうか?
『海の底にも光(ヒカリ)あり
山(ヤマ)の尾上(ヲノヘ)も河(カハ)の瀬(セ)も
光りに光る今の世を
なんと思ふか盲神』
真に神気に触れた身魂は、この光明に浴さぬ者は無い。
『盲の杖(ツエ)を失ふた
苦しき報(ムク)いは目のあたり
あたるは罰(バチ)と河豚(フグ)の肉(ニク)
辺(アタ)りかまはず吠(ホ)え猛(タケ)る
四足神の哀(アハ)れさよ』
祝部神の宣伝歌も、前半は高尚だったけれども、
後半は相手に喧嘩を売ってしまっているので、
この辺は、筆者も愛したい気質ではあるけれども、
大いに反省するべき部分であろうかと思うのである。
『角の生えたる牛雲別(ウシクモワケ)の
身の果こそは哀(アハ)れなり
身の果こそは哀れなり』
判るけれども、これを言ったら、宣戦布告だから、
相手を改心させるどころか、火に油を注ぐ結果になるのは否めない。
もっとも、こういう一本木な気質は、決して憎む様なものではない。
しかし、これを愛嬌と取るか?挑戦と取るか?
その辺の分別も必要なのかもしれない…
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牛雲別は、アーメニヤの野に、
螢火(ホタルビ)のごとき光を現はすウラル彦の命により、
宣伝使としてここに現はれたのであつた。
彼は強烈なる酒を大口ひらいてがぶがぶと牛飲(ギウイン)しながら、
あまたの神人(カミガミ)らに見せつけ、
『酒は百薬の長(チヤウ)といふ
命(イノチ)の水を飲まざるか
飲めば心は面白(オモシロ)い
寿命長久(ジユミヤウチヤウキウ)千秋万歳楽(センシウバンザイラク)のこの薬(クスリ)
飲まぬは天下の大馬鹿者(オオバカモノ)よ
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筆者も、お酒をたしなむのは嫌いではないが、
飲まねば何も語れない、というのは、十代の頃から嫌いである。
しかし、熱く語り出すと、自然に自己陶酔して来る。
アドレナリンとかいう脳内麻薬が発生して、
自然な覚醒作用をもたらすのだそうだ。
そういう情態に水をかけて、冷静に物事を判断できる様にするのが、
誠の道なのであろうと筆者は思うし、それが安心できる実力であろう…
火事場のクソ力というのは、普段はなかなか出ないものだ。
そういう突発的な奇跡に頼らなくても、常識的に善悪を判断したければ、
逆に酒など飲んでいる場合ではないのではなかろうか?
一働きして、さあこれから遊ぼう…という時ならばよいけれども…
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たはけた面(ツラ)してぶるぶると
ふるひ苦しむ青瓢箪(アヲフクベ)
酒を飲んだら顔の色
朝日の豊栄昇(トヨサカノボ)るごと
輝(カガヤ)きわたる血色清(イロスガ)し
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酒を飲まないと顔が青い…ということは、血液が粘っているのだ。
つまり不健康に寿命を縮める方向に進んでいるわけであるから、
酒を飲む前から血色が好い顔色になる様にしないといけない。
それには『皇道経済』の実施による社会不安の根絶と、
『霊界物語』の拝読と、天津祝詞の奏上であろうと、
筆者は確信するのだ。
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空にかがやく月の夜に
心さはやか気はさらり
さらりさらりと物事は
酒でなければ運ばない
酒は命(イノチ)の親神(オヤガミ)ぞ
親を知らない子があろか
親を知らぬは鬼子(オニゴ)ぞや
鬼を殺すはこの酒ぞ
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酒が命の親だという身魂は、酒に溺れて死ぬしかなかろう…
命の親は素神である。
この牛雲別等が鬼と呼んでいる相手は、実は救いの神々なのだ。
アル中患者にしてみれば、酒を取り上げる医者は鬼に見えるであろう…
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酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
神の舌(シタ)をば引き抜いて
作(ツク)りなますにしてくらへ
暗いくらいと吐(ヌ)かす奴(ヤツ)
酒を飲んで見よ赤くなる
赤い心は神心(カミゴコロ)
赤い心は神心
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『酒の肴(サカナ)は祝部(ハフリベ)の
神の舌(シタ)をば引き抜いて
作(ツク)りなますにしてくらへ』
筆者は、こんな恐ろしいことを言う者こそ夜叉か鬼だと思うのだが…
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暗い心の祝部(ハフリベ)が
真赤(マツカ)な虚言(ウソ)を月読(ツキヨミ)の
月夜(ツキヨ)に釜(カマ)をぬかれたる
あきれ顔して目(マ)のあたり
吠面(ホエヅラ)かはくが面白い
これを肴(サカナ)に皆(ミナ)の奴(ヤツ)
おれが今出(イマダ)すこの酒を
遠慮会釈も梨地(ナシヂ)の盃(ツキ)に
盛(モ)つて飲めのめ飲んだら酔へよ
酔ふたら管(クダ)まけ管(クダ)まきや機(ハタ)が
織(オ)れるか織(オ)れぬかおりや知らぬ
知らぬが仏(ホトケ)ほつとけ捨(ス)てとけ
一寸(イツスン)さきは暗(ヤミ)よ
暗の後(アト)には月が出る
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赤い心が神心だと言ってみたり、
真赤な虚言と言ってみたり、
まったく一貫性が無い話だが、
赤は血の色で命の色であるというのは本当であろう。
しかし何故『真っ赤なウソ』などという言葉があるのだろうか?
人をだました時に、アカンベーをやって、
赤い舌と眼の肉をさらすからだろうか?
月は闇夜にしか出ないか?…といえば、そうでもない。
真昼間の青空の下にでも白い月が出る事はあるし、
漆黒の闇の後には、どちらかというと朝日が昇るのが、
本当だと思うのだが…?
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あまり無聊(ムレウ)にほととぎす
声はすれども姿は見せぬ
見せぬ姿(スガタ)は鬼か魔か
鬼の念仏わしや鬼来(キライ)
きらひな奴(ヤツ)に目もくれな
好きなお酒に酔ひつぶれ
宵(ヨヒ)に企(タク)んだ梟(フクロドリ)
袋(フクロ)の底をたたいて見たら
たれの心も同じこと
酒の嫌ひな神なかろ
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お神酒を神棚に捧げた時に、神様はその酒を飲むのではなく、
そこに精気を満たしてくださるのである。
それを御神酒分けして、参列した皆と分け合って頂くのが、
正しい作法である。
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すまし顔して負(マ)け惜(ヲ)しみ
えらそな面(ツラ)して力むより
すこしは顔の紐(ヒモ)ほどけ
仏(ホトケ)に地獄で会ふたよな
この甘酒(ウマザケ)の味を知れ
酔ふてよふて酔ひつぶれ
酔ふたらよいぢやないか
よいよいよいのよいのさつさ
酒酒(サツサ)、酒酒(サツサ)』
としきりに祝部神の宣示にたいして防禦線をはり、
座席の傍(カタハラ)より二樽の強き酒をだし、
あまたの盃(サカヅキ)を船中にふりまいた。
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筆者はサラサラ血なので、本当にアルコール摂取量は少しで充分だ。
限界に挑戦する時は、友達と馬鹿騒ぎをやる時だけである。
何かをごまかすために飲むわけではない。
お祭り騒ぎの景気づけで互いに酒を煽るのだ。
だがしかし、二日酔いするほど飲んで、翌日にこたえるのは、
あまり好きではない。
だが言っても聞かない連中に、禁酒を薦める趣味はあまりない。
そういう意味では祝部神は親切で勇敢な神様だと思うのである。
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神人らは猫に鼠を見せたごとく喉(ノド)をごろごろ鳴らし、
唇に唾(ツバキ)をため、羨(ウラヤ)ましげに酒樽に目をそそいだ。
中には狐が油揚(アブラアゲ)を見せつけられたやうな心地となつて、
牛雲別の樽の鏡をひらくを待たず、
飢虎(キコ)のごとく樽を目がけて飛びつく上戸(ジヨウゴ)の神人(カミ)も現はれた。
にはかに船中は春めきわたり、酔のまはるにつれて、
神人らは平手をもちて舷(フナバタ)をたたき、拍子をとり舞ひはじめた。
『来るか来るかと浜へ出てみれば
浜の松風(マツカゼ)音(オト)もせぬ
音に聞えた竜宮海(リユウグウカイ)の
乙姫(オトヒメ)さまでも呼んできて
酌(シヤク)をさしたら面白(オモシロ)からう
癪(シヤク)にさはるは祝部神(ハフリベノカミ)よ
癪にさはるは祝部神よ
杓(シヤク)で頭を砕(クダ)いてやろか』
ポンポンポンと舷をたたき、
つひには両手で自分の額を無性矢鱈(ムシヤウヤタラ)にたたいて踊り狂ふた。
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要するに素盞嗚尊の八岐大蛇退治の詳細の一部が、
ここに記されているのであろう…
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祝部神は元来酒が好きである。
喉から手のでるやうにその盃がとりたくなつた。
喉のあたりに腹の虫がこみ上つて、ぐうぐうと吐(ヌ)かすのである。
祝部神はこれこそ神の試みとわれとわが心を制し、思はず知らず指をくはへ、
つひには激昂してわれとわが指を喰ひきり、はじめて気がつき、
またもや声張り上げて、
「三千世界一度に開(ヒラ)く云々」
の歌をうたひはじめた。
(大正十一年一月十一日、旧大正十年十二月十四日、加藤明子録)
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何故だか判らないが、今週は先週と同じ章をまた分解してしまった。
しかし、これも惟神(カムナガラ)の事であろうと思うので、
筆者は時間を無駄にしないためにも、もう一つの分解として、
そのまま投稿することにした。
冒頭に記した通り、これで寿命が一週間伸びた気分である。
嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)
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