『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

第3章 臭黄(クサキ)の鼻(ハナ) (203)

2009年08月26日 19時22分03秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第一篇 動天驚地

 いよいよ橄欖山(カンランザン)の神殿には、
エデンの園より奉持し参りたる神璽(シンジ)を恭(ウヤウヤ)しく鎮祭された。
この神殿は隔日に鳴動するのが例となつた。
これを日毎(ヒゴト)轟(トドロ)きの宮(ミヤ)といふ。

この神霊は誠の神の御霊(オンレイ)ではなくして、
八頭八尾(ヤツガシラヤツヲ)の悪竜の霊であつた。

 これより聖地エルサレム宮殿は、日夜に怪事のみ続発し、
暗雲につつまれた。

八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)はやや良心に省みるところあつて、
ひそかに国祖大神(コクソオホカミ)の神霊をひと知れず鎮祭し、
昼夜その罪を謝しつつあつた。

大神の怒りやや解けたりけむ、久し振りにて東天に
太陽のおぼろげなる御影(ミカゲ)を見ることを得た。
したがつて月の影が昇りそめた。

八王大神は夜ひそかに庭園に出で、
月神(ゲツシン)にむかつて感謝の涙にくれた。
されどその本守護神は、悪霊の憑依(ヒヨウイ)せる副守護神のために
根底より改心することは出来なかつた。

 玉春姫(タマハルヒメ)は塩光彦(シホミツヒコ)と手を携(タヅサ)へ、
父母両親の目をくぐりて、エデンの大河をわたり、
エデンの楽園にいたり、園の東北隅の枝葉繁茂せる大樹の下に
ひそかに暮してゐた。

盤古大神(バンコダイジン)は塩光彦の影を失ひしに驚き、
昼夜禊身(ミソギ)をなし、断食(ダンジキ)をおこなひ、
天地の神明を祈つた。

時しも園の東北にあたつて紫の雲たち昇り、
雲中に塩光彦ほか一人の女性の姿を見た。

盤古大神はただちに従者に命じ、
その方面を隈(クマ)なく捜さしめた。

塩光彦、玉春姫は、神人(カミガミ)らの近づく足音に驚き、
もつとも茂れる木の枝高く登つて姿を隠した。

この木は麗しき木の実あまた実つて、
いつまで上つてゐても食物には充分であつた。

神人らは園内隈なく捜索した。
されど二人の姿は何日経(タ)つても見当らなかつた。

盤古大神はこれを聞いて大いに悲しんだ。
しかして自ら園内を捜しまはつた。

 枝葉の茂つた果樹の片隅より一々仰ぎ見つつあつた。
樹上の塩光彦は父の樹下に来ることを夢にも知らず、
平気になつて大地にむかつて、
木の葉の薄き所より臀引(シリヒ)きまくりて、
穢(キタナ)き物(モノ)を落した。

盤古大神は怪しき物音と仰向くとたんに、
臭き物は鼻と口の上に落ちてきた。
驚いて声を立て侍者を呼んだ。
されど一柱(ヒトハシラ)も近くには侍者の影は見えなかつた。

やむを得ず細き渓川(タニガハ)に下りて洗ひ落し、
ふたたび上を眺むれば、豈(アニ)はからむや、
天人にも見まがふばかりの美女を擁(ヨウ)し、
樹上にわが子塩光彦がとまつてゐた。

盤古大神はおほいに怒り、
はやくこの木を下(クダ)れと叫んだ。
二人は相擁し父の声はすこしも耳に入らない様子であつた。

盤古大神は声をからして呼んだ。
されど樹上の二人の耳には、どうしても入らない。

如何(イカン)とならば、この木の果物を食ふときは、
眼は疎(ウト)く、耳遠くなるからである。
ゆゑにこの木を耳無(ミミナ)しの木(キ)といふ。
その実は目無(メナ)しの実(ミ)といふ。

今の世に「ありのみ」といひ、
梨(ナシ)の実(ミ)といふのはこれより転訛(テンクワ)したものである。

 盤古大神は宮殿に馳(ハ)せ帰り、
神々を集めこの木に駈(カ)け上らしめ、
無理に二人を引ずりおろし、殿内に連れ帰つた。

見れば二人とも目うすく耳は
すつかり聾者となつてゐたのである。

ここに塩長姫(シホナガヒメ)は二人のこの姿を見ておほいに憐れみ、
かつ嘆き、庭先に咲き乱れたる匂ひ麗しき草花を折りきたりて、
二人の髪の毛に挿(サ)した。

これより二人の耳は聞えるやうになつた。
ゆゑにこの花を菊(キク)の花(ハナ)と名づけた。
これが後世頭に花簪(ハナカンザシ)を挿す濫觴である。

 一方聖地エルサレムにおいては、
玉春姫の何時(イツ)となく踪跡を晦(クラマ)したるに驚き、
両親は部下の神人(カミガミ)らをして、
山の尾、河の瀬、海の果まで残るくまなく捜さしめた。
されど何の便りもなかつた。

常世彦(トコヨヒコ)はひそかに国祖の神霊に祈り、
夢になりとも愛児の行方を知らさせたまへと祈願しつつあつた。

ある夜の夢に何処(イヅコ)ともなく「エデンの園」といふ声が聞えた。

八王大神はただちにエデンの宮殿にいたり、盤古大神に願ひ、
エデンの園を隈なく捜索せむことを使者をして乞はしめた。

盤古大神は信書を認め、使者をして持ち帰らしめた。

常世彦は恭(ウヤウヤ)しく押しいただきこれを披見して、
かつ喜び、かつ驚きぬ。

 (大正十一年一月四日、旧大正十年十二月七日、吉見清子録)

『音惚花活気好@kakky』的『第3章 臭黄の鼻(203)』分解

2009年08月26日 19時21分01秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第一篇 動天驚地

平成二十一(2009)年八月二十六日 旧七月七日(水)

 いよいよ橄欖山(カンランザン)の神殿には、
エデンの園より奉持し参りたる神璽(シンジ)を恭(ウヤウヤ)しく鎮祭された。
この神殿は隔日に鳴動するのが例となつた。
これを日毎(ヒゴト)轟(トドロ)きの宮(ミヤ)といふ。

この神霊は誠の神の御霊(オンレイ)ではなくして、
八頭八尾(ヤツガシラヤツヲ)の悪竜の霊であつた。

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早速、前章、最後の疑問の回答が記されている。

さて、こんな風にホラーチックに、
一種の恐怖に似た感情にうったえる様な心霊現象は、
天国系統の心霊ではなく、主に地獄系統の心霊である、
という風に分類しておいた方がよいと思う。

英語でいうと『ポルターガイスト』ということになり、
いわゆる凶霊の類ということになると思う。

天国寄りの神霊が関わって来る場合は、
心地よくなる様な音響とか、雰囲気を伴って現れるので、
神殿が隔日に鳴動するなどという、ちょっと恐い作用は、
悪い心霊が、民衆を脅かして従わそうとしているのであるから、
人々を徳によって悦服させるだけの高貴さは
持ち合わせていないのだ。

そういうところで見分けることが出来る様になると、
強いと思う。

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 これより聖地エルサレム宮殿は、日夜に怪事のみ続発し、
暗雲につつまれた。

八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)はやや良心に省みるところあつて、
ひそかに国祖大神(コクソオホカミ)の神霊をひと知れず鎮祭し、
昼夜その罪を謝しつつあつた。

大神の怒りやや解けたりけむ、久し振りにて東天に
太陽のおぼろげなる御影(ミカゲ)を見ることを得た。
したがつて月の影が昇りそめた。

八王大神は夜ひそかに庭園に出で、
月神(ゲツシン)にむかつて感謝の涙にくれた。
されどその本守護神は、悪霊の憑依(ヒヨウイ)せる副守護神のために
根底より改心することは出来なかつた。

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八王大神常世彦が、少しだけ改心が出来たのは、
その身魂に、少しだけ善なる霊が混ざっているからだろう。

しかし、ここに記されている様に、神殿が隔日で轟くという、
怪現象に感じて反省し、密かに国祖を鎮祭する、という、
かなり消極的な、よい言い方をすれば謙虚な態度であるのが、
問題なのだ。

真の意味での謙譲の美徳ではなく、悪神に脅かされたから、
表面改心してみせているだけなので、満点ではないのだろう。

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 玉春姫(タマハルヒメ)は塩光彦(シホミツヒコ)と手を携(タヅサ)へ、
父母両親の目をくぐりて、エデンの大河をわたり、
エデンの楽園にいたり、園の東北隅の枝葉繁茂せる大樹の下に
ひそかに暮してゐた。

盤古大神(バンコダイジン)は塩光彦の影を失ひしに驚き、
昼夜禊身(ミソギ)をなし、断食(ダンジキ)をおこなひ、
天地の神明を祈つた。

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霊界物語の中盤で、正義の神々の代表になる、
杢助と初稚姫の親子を例に取ると、
この親子は互いに信仰が徹底していることを認め合っているので、
例え、仮にどちらかが一時的に行方不明になっても、
ここでの盤古大神の様に、狼狽え騒いで、昼夜禊身断食をして、
天地の神明に祈る、という様な意気地の無いことはしない。

筆者の知る所によると、流石の出口直大本開祖でも、
一番の頼みの綱であった息子 清吉の生死問題についてだけは、
どうしても心が曇って、真相を見分けることが出来なかった様で、
艮の金神に、何度も清吉の無事を問い合わせて、
国祖の御心を煩わせたのだそうだ。

艮の金神は、その都度、

「死んでおらぬ」

と答えたそうであるが、その意味を正確につかめない開祖は、
何度も何度も同じ問いかけをしたのだそうである。

一方、この件については、出口王仁三郎聖師は、
神眼で見抜いていた様で、蒙古入りの時に、この確認をして、
出口清吉の忘れ形見である「ラ・リョウ」という娘と、
奇跡の対面を果たしている。

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時しも園の東北にあたつて紫の雲たち昇り、
雲中に塩光彦ほか一人の女性の姿を見た。

盤古大神はただちに従者に命じ、
その方面を隈(クマ)なく捜さしめた。

塩光彦、玉春姫は、神人(カミガミ)らの近づく足音に驚き、
もつとも茂れる木の枝高く登つて姿を隠した。

この木は麗しき木の実あまた実つて、
いつまで上つてゐても食物には充分であつた。

神人らは園内隈なく捜索した。
されど二人の姿は何日経(タ)つても見当らなかつた。

盤古大神はこれを聞いて大いに悲しんだ。
しかして自ら園内を捜しまはつた。

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なんとなく、エデンの園で、善悪を知る木の実を食べた、
というアダムとエバを彷彿とさせる様な内容なので、
ちょっと気になるところだ…

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 枝葉の茂つた果樹の片隅より一々仰ぎ見つつあつた。
樹上の塩光彦は父の樹下に来ることを夢にも知らず、
平気になつて大地にむかつて、
木の葉の薄き所より臀引(シリヒ)きまくりて、
穢(キタナ)き物(モノ)を落した。

盤古大神は怪しき物音と仰向くとたんに、
臭き物は鼻と口の上に落ちてきた。
驚いて声を立て侍者を呼んだ。
されど一柱(ヒトハシラ)も近くには侍者の影は見えなかつた。

やむを得ず細き渓川(タニガハ)に下りて洗ひ落し、
ふたたび上を眺むれば、豈(アニ)はからむや、
天人にも見まがふばかりの美女を擁(ヨウ)し、
樹上にわが子塩光彦がとまつてゐた。

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つまりこの時、塩光彦は樹上の猿の様な、
畜生の精神情態に堕落していたというわけである。

その理由は、以下に記されている。

外見上は天人にも見まがふばかりの美女を擁していても、
樹上で平気で尻をまくって糞をたれるのであるから、
こんなちぐはぐな話はない。

それこそ、大も小もしない、という所まで、
身が清まっているのならわかるのだけれど、
喰った木の実を尻から出すというのでは、
木と大地と一体である畜生類となんら変わらない。

飛行機だって、宇宙船だって、中のトイレで用を済ませて、
それなりにちゃんと処分する様になっているから、
上空を飛んでいても気にならないが、
樹上や電信柱の烏じゃあるまいに、
地上に対して気兼ね無く、糞尿を垂れる様になっては、
もうその心は人の心ではない。

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盤古大神はおほいに怒り、
はやくこの木を下(クダ)れと叫んだ。
二人は相擁し父の声はすこしも耳に入らない様子であつた。

盤古大神は声をからして呼んだ。
されど樹上の二人の耳には、どうしても入らない。

如何(イカン)とならば、この木の果物を食ふときは、
眼は疎(ウト)く、耳遠くなるからである。
ゆゑにこの木を耳無(ミミナ)しの木(キ)といふ。
その実は目無(メナ)しの実(ミ)といふ。

今の世に「ありのみ」といひ、
梨(ナシ)の実(ミ)といふのはこれより転訛(テンクワ)したものである。

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それにしても、どんな美人を抱擁していても、
肝心のお目眼が疎くなり、甘い言葉もろくに聞こえないのでは、
何も面白くないのではないだろうか?

それとも恋する二人の間だけ、
以心伝心に思いを伝え合うことが出来るのだろうか?

それにしても、せっかくの美人を、よく観ることが出来ないのでは、
やはり、まるきりつまらないと思う。

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 盤古大神は宮殿に馳(ハ)せ帰り、
神々を集めこの木に駈(カ)け上らしめ、
無理に二人を引ずりおろし、殿内に連れ帰つた。

見れば二人とも目うすく耳は
すつかり聾者となつてゐたのである。

ここに塩長姫(シホナガヒメ)は二人のこの姿を見ておほいに憐れみ、
かつ嘆き、庭先に咲き乱れたる匂ひ麗しき草花を折りきたりて、
二人の髪の毛に挿(サ)した。

これより二人の耳は聞えるやうになつた。
ゆゑにこの花を菊(キク)の花(ハナ)と名づけた。
これが後世頭に花簪(ハナカンザシ)を挿す濫觴である。

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菊の花飾りは、聞こえない耳が聞こえる様になるおまじない、
ということだろうか?

菊の御紋とは、何の関係もない話なのだろうか?

それにしても、うすくなった目の治療は、どうなったのだろう…

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 一方聖地エルサレムにおいては、
玉春姫の何時(イツ)となく踪跡を晦(クラマ)したるに驚き、
両親は部下の神人(カミガミ)らをして、
山の尾、河の瀬、海の果まで残るくまなく捜さしめた。
されど何の便りもなかつた。

常世彦(トコヨヒコ)はひそかに国祖の神霊に祈り、
夢になりとも愛児の行方を知らさせたまへと祈願しつつあつた。

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出口直 大本開祖も、上田喜三郎先生との『火水の戦い』の時は、
未顕真実的悪の御用も時々代役していた、ということだが、
この常世彦の行いによく似たことを、出口直 大本開祖もやっていた、
と思われる様なことが『大地の母』には記されている。

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ある夜の夢に何処(イヅコ)ともなく「エデンの園」といふ声が聞えた。

八王大神はただちにエデンの宮殿にいたり、盤古大神に願ひ、
エデンの園を隈なく捜索せむことを使者をして乞はしめた。

盤古大神は信書を認め、使者をして持ち帰らしめた。

常世彦は恭(ウヤウヤ)しく押しいただきこれを披見して、
かつ喜び、かつ驚きぬ。

 (大正十一年一月四日、旧大正十年十二月七日、吉見清子録)

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「いのちのひびき【ほんとの神】」に、
筆者の体験談を例にして記してあるが、
恋愛や、親子の情愛などで思い詰めていると、
御先祖様や友達、または信ずる神の理想像や、
宇宙人の姿などを借りて、自身の守護神が神示の様な形で、
この様なメッセージを与えてくれることは本当にあるのだ。

心霊の世界の究極は、神人合一自他一体なので、
あらゆる物が一体化した情報源になって、
この様に知りたいことを見つけだすことが出来るのだ。

計算中のパソコンが、しばらくフリーズした様になって、
膨大な計算をして、得たい情報を弾き出す様な感じで、
この大宇宙に充満している無限の情報の中から、
必要な時間をかけて検出した情報を、
この天声の様な形で伝えて来る場合もあるわけである。

…というわけで、今回は、国祖の神霊に祈願していたのだから、
その行為に対する回答の様に検出結果を表示した方が、
祈願した本人が、最も感動する道理である。

こういう時の反応は、それこそ神がかり的になるから、
問題を奇跡的に解決してしまうことにもにもなる。

これも一種の恋愛に属する力である。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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第2章 松竹梅 (202)

2009年08月17日 18時44分55秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第一篇 動天驚地

 八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)は
表面盤古大神(バンコダイジン)を奉戴し、神政総攬の権を握つてゐた。

されど温厚篤実にして威風備はり、
かつ至誠至実の盤古大神の奥殿に坐(マ)しますは、
なんとなく気がねであつた。

 そこで八王大神は盤古大神にたいし敬遠主義を取ることになり、
エデンの園に宮殿を造り、これに転居を乞ひ、
神務神政のことに関しては表面指揮を仰ぐことにした。

されど八王大神としては、
もはや盤古大神夫婦は眼中になかりしのみならず、
かへつて迷惑に感じたくらゐである。

盤古大神は常世彦の心中を洞察し、
何事も見ざる、言はざる、聞かざるの
三猿主義(サンエンシユギ)を取つてゐた。

 橄欖山(カンランザン)の頂に
新たに建てられたる神殿に奉斎すべき大神の神璽(シンジ)を、
盤古大神に下附されむことを奉願するため、
八王大神は常治彦(トコハルヒコ)を遣(ツカ)はして、
エデンの宮殿に到ることを命じた。

常治彦は額(ヒタヒ)の角を恥ぢて、この使者を峻拒した。

八王大神はやむを得ず涙を流して常治彦の心情を察知し、
あまり厳しく追求せなかつた。

ここに常世姫(トコヨヒメ)とはかり、妹玉春姫(タマハルヒメ)を使者とし、
春日姫(カスガヒメ)、八島姫(ヤシマヒメ)を従へエデンの城にいたり、
盤古大神に神璽の下附を奉願せしめたのである。

このエデンの園は種々のうるはしき花咲き乱れ、
四季ともに果実みのり、
東北西(ヒガシキタキシ)に青垣山(アヲガキヤマ)をめぐらし、
寒風に曝(サラ)さるることなく、南方の陽気をうけ、
実に四時相応の地とも称すべき安楽郷である。

南には広きエデンの大河、東南より流れきたり、
西北に洋々として流れ去る、いかなる悪鬼邪神も
この楽園のみは侵(ヲカ)すことが出来ない安全地帯であつた。

盤古大神部下の神人(カミガミ)は、
この楽郷に昼夜の区別なく天地の殊恩を楽しみつつあつた。

 あるとき盤古大神の宮殿の奥の間の床下より、
床をおしあげ突き抜き、ふとき筍(タケノコ)が二本生えだした。

見るみるうちに諸所(シヨシヨ)に筍は床を持ちあげ、
瞬(マタタ)くうちに棟を突きぬき、屋内屋上に枝葉を生じ、
ほとんど竹籔(タケヤブ)と化してしまつた。

盤古大神はこの光景をみて
国祖国治立命(コクソクニハルタチノミコト)の怨霊の祟(タタ)りならむとし、
おほいに怒り、長刀を引抜き、
大竹を片つ端より切りすて門戸に立てた。

これが今の世にいたるまで
正月の門に削(ソ)ぎ竹(ダケ)を飾る濫觴となつた。

 玉春姫は八王大神の命により、
神璽の下附を乞はむと侍者にともなはれ奥殿に進むをりしも、
盤古大神が奥殿に簇生(ゾクセイ)したる諸竹を
切り放ちゐたる際なれば、進みかねて、この光景を見入つた。

この竹は大江山(タイカウザン)の鬼武彦(オニタケヒコ)の仕業であつた。

八頭八尾(ヤツガシラヤツヲ)の大蛇(ヲロチ)も、
この時のみは鬼武彦の権威に辟易して、
何の妨害も復讎もすることができなかつた。

八島姫は忽然として姿が消ゆると見るや、
奥殿には十抱(トカカ)へもあらむかと思ふばかりの
常磐(トキハ)の松がにはかに生えた。

これがため盤古大神の居室はすつかり塞(フサ)がつた。

盤古大神はおほいに怒り、
これかならず妖怪変化(ヘンゲ)の仕業ならむと、
いふより大鋸(オホノコギリ)を取りだし、
侍者に命じ枝を伐り幹を伐り、
しばらくにしてこれを取り除けた。

しかしてこの切り放した根無(ネナ)し松を門戸に飾り、
妖怪退治の記念として立てておいた。

ゆゑに太古は正月松(マツ)の内(ウチ)は一本松を立てて、
艮(ウシトラ)の金神(コンジン)以下の悪魔退治の記念として
門松(カドマツ)を立てたのである。
それが中古にいたり二本立てることになつた。

このとき春日姫は幾抱へとも知れぬ梅の木となり、
エデンの城一ぱいに枝を瞬(マタタ)くうちに張(ハ)り、
傘のごとき花を咲かせた。
園内は一株の梅にて塞がるるばかりであつた。

盤古大神はまたもや鉞(マサカリ)、鋸等の道具をもつて、
神人(カミガミ)に命じ枝葉を切らしめ、
つひに幹(ミキ)までも切り捨てさせた。

盤古大神は、
大地の艮(ウシトラ)に引退せられし国祖の怨霊の祟りとなし、
調伏のために又もや梅の枝を立てて武勇を誇つた。

後世年の始めに松竹梅(シヨウチクバイ)を伐り、
砂盛(スナモリ)をして門戸に飾るはこれよりはじまつたのである。

 玉春姫はこの奇怪なる出来事に胆(キモ)を潰(ツブ)し、
茫然として空ゆく雲を眺めつつありしが、
つひに過つて庭前の深き井戸に顛落した。

盤古大神の長子塩光彦(シホミツヒコ)は、
これを見るより丸裸体(マルハダカ)となり井戸に飛び入り、
玉春姫を漸くにして救ひあげた。
これより塩光彦と玉春姫とのあひだに怪しき糸がからまれた。

 盤古大神は神霊を玉箱(タマバコ)に奉安し、
玉春姫に下げ渡し、聖地エルサレムに帰らしめた。

八島姫、春日姫は何処(イヅコ)よりともなく現はれきたり、
玉春姫に依然として扈従(コジユウ)してゐた。

塩光彦は、
姫のエデンの大河を船に乗りて渡りゆく姿を打ちながめ、
矢も楯もたまらなくなつた。

盤古大神のとどむる声も空吹く風と聞き流し、
たちまち大蛇(ヲロチ)と身を変じ、河を横ぎり南岸に着いた。

ここに再びうるはしき男子となり、
聖地エルサレムを指して玉春姫のあとを追ひかけた。

この神璽は空虚であつた。

何ゆゑか盤古大神の熱心なる祈祷も寸効なく、
いかにしても神霊の鎮まらなかつたのは奇怪のいたりである。

しかるにエデンの大河を渡るや、
この神璽の玉箱はにはかに重量加はり数十柱の神人(カミガミ)が
汗を垂らして輿(コシ)に乗せ奉持して帰つた。

 (大正十一年一月四日、旧大正十年十二月七日、加藤明子録)

『音惚花活気好@kakky』的『第2章 松竹梅 (202)』分解

2009年08月17日 18時43分42秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第一篇 動天驚地

平成二十一(2009)年八月十七日 旧六月二十七日(月)

 八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)は
表面盤古大神(バンコダイジン)を奉戴し、神政総攬の権を握つてゐた。

されど温厚篤実にして威風備はり、
かつ至誠至実の盤古大神の奥殿に坐(マ)しますは、
なんとなく気がねであつた。

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組織の管理職にある皆さんの上下間の御心情というものは、
いつも、この様なことが渦巻いているのだろうなあ…と、
筆者の様な個人プレー型の人間にも、
何となく察することが出来るのだが、
そういう皆様は、そういう気風によく馴染むように、
入念に鍛え上げられているのだから、
筆者の様な部外者が、外から批判がましく言ってみても、
きっと痛くも痒くもないことであるに違いない。

とりあえず、九分九厘の世の中というのは、
こんな風に、常に競り合っている様で、
なんだか、豊臣秀吉と徳川家康とかの駆け引きを見るような、
そういうことなのであろう…と思えば、
それはそれでよいのだと思う。

これが天地の交わる地上神界の常識である、
という風に思っておけば、それでよいのではなかろうか?

いやならさっさと肉体の一生を終えて、天国でも地獄でも、
好きな方に行って、本性丸出しの生活をする以外にはない、
ということを学ぶには、この『霊界物語』は、
もってこいの教材なのではなかろうか?
…と、筆者は思う。

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 そこで八王大神は盤古大神にたいし敬遠主義を取ることになり、
エデンの園に宮殿を造り、これに転居を乞ひ、
神務神政のことに関しては表面指揮を仰ぐことにした。

されど八王大神としては、
もはや盤古大神夫婦は眼中になかりしのみならず、
かへつて迷惑に感じたくらゐである。

盤古大神は常世彦の心中を洞察し、
何事も見ざる、言はざる、聞かざるの
三猿主義(サンエンシユギ)を取つてゐた。

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本当に心底、主君に対して忠義心を抱いて仕えている侍と、
常に一国一城の主たらんとして精進している武将とでは、
どうしても、こんな風に仕え方の違いが認められても、
それはそれで仕方があるまい。

こういう権力争いが好きで好きでしょうがない皆さんと、
筆者の様に、どうしても心底付き合う気になれないタイプと、
二大別されるということが起きても、
これはしょうがないのかもしれない。

さて、この温厚な態度を取る盤古大神にしても、
国祖の後を襲って、現在の地位にあるわけだから、
その因縁を背負って、下からの突き上げに対して、
この様な配慮をしなければならないのも、
因縁因果の法則に適ったことなので、
どうにもなるものではない。

筆者などでも、何の縁か、この様に『霊界物語』を神授して、
また、インターネット基地も頂いて、
自己流の分解を神許されてはいるけれど、
聖地問題に関わるのは、これは出口家のことであろうから、
如何に筆者も、出口王に三郎聖師とは、
実家の後藤から遡れば、御先祖様が北家藤原で繋がるという、
有り難い御縁があるとはいっても、
綾部や亀岡の聖地に入って、実権を握るべきは、
やはり、出口直系の血筋であるべきであろう、と思うので、
筆者自身としては、今の様に外野にあって、
「おとぼけカッキー」流だとか、垣内政治流とか、
七四十一大神流とかいって、
好き勝手にやらして頂ける方が、とても有り難い。

大体、今では『霊界物語の掲示板』という所であっても、
もう自由に自己主張することが難しくなっている現状であるから、
当の昔から、こんな風に、宗教思想とは無関係の天国を頂いて、
既に『霊界物語』の分解を第五巻まで着手出来ている、
という事実に感謝するばかりである。

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 橄欖山(カンランザン)の頂に
新たに建てられたる神殿に奉斎すべき大神の神璽(シンジ)を、
盤古大神に下附されむことを奉願するため、
八王大神は常治彦(トコハルヒコ)を遣(ツカ)はして、
エデンの宮殿に到ることを命じた。

常治彦は額(ヒタヒ)の角を恥ぢて、この使者を峻拒した。

八王大神はやむを得ず涙を流して常治彦の心情を察知し、
あまり厳しく追求せなかつた。

ここに常世姫(トコヨヒメ)とはかり、妹玉春姫(タマハルヒメ)を使者とし、
春日姫(カスガヒメ)、八島姫(ヤシマヒメ)を従へエデンの城にいたり、
盤古大神に神璽の下附を奉願せしめたのである。

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常治彦の額にあった角というのは、一本だったのだろうか?
それともよくある鬼の様に二本だったのだろうか?

なんでもギリシャだかローマの古いモーセの像の額にも、
二本の角があるものがいくつかあるとか、モーセを描いた書画にも、
その額から角の様な光が二本出ているものが、見受けられるそうで、
ロマン派の中には、これは宇宙人と交信する為のアンテナである、
とか、その様な説を唱える人もある、実に興味深いことなのだが、
さて、常治彦の額にあった角は、自らそれを恥じるくらいであるから、
きっと、交信用に脱着出来るようなアンテナでは無いということは、
容易に察することが出来る。

なんだか「ドラゴンボール」とか「 Xメン」の様な話しだが、
太古に於ける、未だ人間の姿が神定されていなかった頃には、
この様な容姿の者も、多くいたのであろう…

エドガー・ケイシーのリーディングによる
アトランティスについての記録には、この様な人種のことも、
多く記されているということなので、
やはり、大洪水以前の地球上は、
なかなかバラエティーに富んでいた様である。

一方、盤古大神や、八王大神は、
既に現代人類の様な容姿になっていた様で、
額に角のある常治彦を憐れむ様子からも、
それを察することが出来るのだ。

『霊界物語』には、こういうことが、本当にサラッと書いてあるので、
うっかり読み過ごしてしまうと、実にもったいないのである。

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このエデンの園は種々のうるはしき花咲き乱れ、
四季ともに果実みのり、
東北西(ヒガシキタキシ)に青垣山(アヲガキヤマ)をめぐらし、
寒風に曝(サラ)さるることなく、南方の陽気をうけ、
実に四時相応の地とも称すべき安楽郷である。

南には広きエデンの大河、東南より流れきたり、
西北に洋々として流れ去る、いかなる悪鬼邪神も
この楽園のみは侵(ヲカ)すことが出来ない安全地帯であつた。

盤古大神部下の神人(カミガミ)は、
この楽郷に昼夜の区別なく天地の殊恩を楽しみつつあつた。

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前にも一度書いたけれど、旧約聖書には、
まるで人類創世の最初から、世界の中心だったかの様に記された、
この『エデンの園』というものが、実は大洪水前の国祖御退隠後に、
いわゆる『なんちゃって正神』である、
これらの神々の活動の初舞台だったということが、
『霊界物語』のこの部分の記述からも読みとることが出来る。

そういうつもりで、あらためて旧約聖書の創世記を読み直してみれば、
なるほど、失楽園前のエデンの園は、天地創造の遥か未来に、
アダムとエバの舞台になったのだな…
ということがわかる様に書いてあるのが理解できるのだ。

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 あるとき盤古大神の宮殿の奥の間の床下より、
床をおしあげ突き抜き、ふとき筍(タケノコ)が二本生えだした。

見るみるうちに諸所(シヨシヨ)に筍は床を持ちあげ、
瞬(マタタ)くうちに棟を突きぬき、屋内屋上に枝葉を生じ、
ほとんど竹籔(タケヤブ)と化してしまつた。

盤古大神はこの光景をみて
国祖国治立命(コクソクニハルタチノミコト)の怨霊の祟(タタ)りならむとし、
おほいに怒り、長刀を引抜き、
大竹を片つ端より切りすて門戸に立てた。

これが今の世にいたるまで
正月の門に削(ソ)ぎ竹(ダケ)を飾る濫觴となつた。

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この文脈から察するに、
盤古大神は、実に勘違いをしているのであって、
この筍と竹薮の因縁は、実は常治彦の無念が怨霊になったものだ、
という風に、筆者には読み取れるのである。

そうでなければ、わざわざ常治彦のことを書く理由が無いと思う。

しかし、盤古大神の社会では、艮の金神を祟り神として、
鬼門に封じてしまっている様だが、これも結局、
ここでの盤古大神の勘違いに端を発している、
ということになるのだと思う。

御退隠なされた国祖は、自ら進んで、閻魔様になられたのであって、
決して怨念を地上に残すことは無かったと、筆者は思うのだ。

ところが、今でもそうだけれども、艮の金神を信奉する、
いわゆる大本信者の多くが、艮の金神の仇討ちをする様な、
必要以上に勇ましい心を持ち続けている様で、
これらの皆さんと関わり合いになると、
どうしても不穏にならざる得ない現実があるのを、
筆者も否応なく体験させられたので、
ここでの筆者のこの読みは、ほぼ間違いないであろうと思う。

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 玉春姫は八王大神の命により、
神璽の下附を乞はむと侍者にともなはれ奥殿に進むをりしも、
盤古大神が奥殿に簇生(ゾクセイ)したる諸竹を
切り放ちゐたる際なれば、進みかねて、この光景を見入つた。

この竹は大江山(タイカウザン)の鬼武彦(オニタケヒコ)の仕業であつた。

八頭八尾(ヤツガシラヤツヲ)の大蛇(ヲロチ)も、
この時のみは鬼武彦の権威に辟易して、
何の妨害も復讎もすることができなかつた。

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常治彦の無念の怨霊が、大江山の鬼武彦に憑依して、
この様なことをさせたと、筆者は考えるのだ。

そして、そこにはもう一つ、八王大神の謀略から、
神爾を守ろうとする大地の神々の作用もある様に思う。

いずれにしても国祖の怨霊ではないことは、間違いないと思う。

そうでなければ、強大な力を持つ筈の八頭八尾の大蛇が、
その勢いに辟易するということは無いであろうから。

そうして、もう一つの解釈として、この竹の一件は、
大本事件の時に、大本が竹槍何千本を隠しもって、
国家に謀反を試みようとしているという嫌疑をかけられたことや、
第二次世界大戦の時に、竹槍部隊が組織されたことの、
因縁というか、予言の様な形になっているのではないだろうか?

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八島姫は忽然として姿が消ゆると見るや、
奥殿には十抱(トカカ)へもあらむかと思ふばかりの
常磐(トキハ)の松がにはかに生えた。

これがため盤古大神の居室はすつかり塞(フサ)がつた。

盤古大神はおほいに怒り、
これかならず妖怪変化(ヘンゲ)の仕業ならむと、
いふより大鋸(オホノコギリ)を取りだし、
侍者に命じ枝を伐り幹を伐り、
しばらくにしてこれを取り除けた。

しかしてこの切り放した根無(ネナ)し松を門戸に飾り、
妖怪退治の記念として立てておいた。

ゆゑに太古は正月松(マツ)の内(ウチ)は一本松を立てて、
艮(ウシトラ)の金神(コンジン)以下の悪魔退治の記念として
門松(カドマツ)を立てたのである。
それが中古にいたり二本立てることになつた。

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次に生えた常磐の松も、
おそらく八王大神から神爾を守ろうとする警告の様なものだが、
第二次大本事件の時に、天皇を守ろうとする出口王仁三郎聖師と、
大本の全てを疑い、その施設を徹底的に破壊したことの因縁でもあり、
また第二次世界大戦時に、大東亜戦争で猛威を振るう関東軍を、
盤古大神をうとましく思う八王大神の様に、
米軍が日本の本土を叩くことで撤退させた因縁と予言の様なもの、
なのかもしれない…

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このとき春日姫は幾抱へとも知れぬ梅の木となり、
エデンの城一ぱいに枝を瞬(マタタ)くうちに張(ハ)り、
傘のごとき花を咲かせた。
園内は一株の梅にて塞がるるばかりであつた。

盤古大神はまたもや鉞(マサカリ)、鋸等の道具をもつて、
神人(カミガミ)に命じ枝葉を切らしめ、
つひに幹(ミキ)までも切り捨てさせた。

盤古大神は、
大地の艮(ウシトラ)に引退せられし国祖の怨霊の祟りとなし、
調伏のために又もや梅の枝を立てて武勇を誇つた。

後世年の始めに松竹梅(シヨウチクバイ)を伐り、
砂盛(スナモリ)をして門戸に飾るはこれよりはじまつたのである。

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春日姫というのも、日本国の象徴ではなかろうか?

梅の花というのは、艮の金神の大獅子句のことにも通じるし、
梅の花に例えられる出口王仁三郎聖師をも意味している筈だ。

つまり、…ということは、国祖が艮の金神である、という、
大本神話の根幹までが、ここで翻されているのではなかろうか?

出口王仁三郎聖師は、普通は坤の金神として扱われているけれど、
それは開祖出口直に対してのありようで、
実際、世界や日本国に対しては、出口王仁三郎聖師自身が、
艮の金神の役割を担っていたのであろう…

この読み方は、筆者の見解なので、これが現在の大本教や、
再興愛善苑の教義ではないことを念押ししておく。

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 玉春姫はこの奇怪なる出来事に胆(キモ)を潰(ツブ)し、
茫然として空ゆく雲を眺めつつありしが、
つひに過つて庭前の深き井戸に顛落した。

盤古大神の長子塩光彦(シホミツヒコ)は、
これを見るより丸裸体(マルハダカ)となり井戸に飛び入り、
玉春姫を漸くにして救ひあげた。
これより塩光彦と玉春姫とのあひだに怪しき糸がからまれた。

 盤古大神は神霊を玉箱(タマバコ)に奉安し、
玉春姫に下げ渡し、聖地エルサレムに帰らしめた。

八島姫、春日姫は何処(イヅコ)よりともなく現はれきたり、
玉春姫に依然として扈従(コジユウ)してゐた。

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八島姫は常磐の松に化け、春日姫は梅の花の木に化けた、
というのであるが、この二姫は狐の化身だろうか?

…ということで、
第二次世界大戦も、大東亜戦争も、太平洋戦争も、
第二次大本事件も、これらは全て悪と悪との戦いで、
正神は一切係りが無い、ということを示しているのかもしれない。

八王大神の使いである玉春姫は肝を潰して井戸に落ち、
盤古大神の長子がこれを救い、互いに恋仲になる、というのだが、
これは戦後の日米が、安保条約を結んで、
いろいろと共同作業をすることの因縁というか、
予言になっている様だ。

筆者がここでいう日本というのは盤古大神のことであって、
真の日本のことではない。

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塩光彦は、
姫のエデンの大河を船に乗りて渡りゆく姿を打ちながめ、
矢も楯もたまらなくなつた。

盤古大神のとどむる声も空吹く風と聞き流し、
たちまち大蛇(ヲロチ)と身を変じ、河を横ぎり南岸に着いた。

ここに再びうるはしき男子となり、
聖地エルサレムを指して玉春姫のあとを追ひかけた。

この神璽は空虚であつた。

何ゆゑか盤古大神の熱心なる祈祷も寸効なく、
いかにしても神霊の鎮まらなかつたのは奇怪のいたりである。

しかるにエデンの大河を渡るや、
この神璽の玉箱はにはかに重量加はり数十柱の神人(カミガミ)が
汗を垂らして輿(コシ)に乗せ奉持して帰つた。

 (大正十一年一月四日、旧大正十年十二月七日、加藤明子録)

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何となく、現在の日本の天皇家が盤古大神の系統で、
一応、儀式としての神事を型として継承してはいるが、
その神事に神は感応せず、何処の神社の神々も、
これらの神事に感応することは、ほとんど全くなく、
戦後の日本国は、日米安保条約のおかげで、
米国の軍事力、政治力に守られているからこそ、
世界の経済大国として、存続していられる、
という現状によく通じる様な、因縁というか予言が、
ここには記されている様な気がするのだ。

そうして、この実は空だった神爾は、
エデンの大河に例えられる太平洋を渡った途端に、
突然重たくなって、これら八王大神傘下の神々が、
数十柱も集まって、汗を垂らして輿に乗せて奉持する必要があった、
というわけだが、その重量の原因については次章で明らかになるので、
先を知りたい方は、どうぞ各自で霊界物語を入手して、
読み進んで頂きたい。

今では、インターネットでも『霊界物語』を無料で読めるサイトを
すぐに検索することが出来るので、そこで読んで予習するもよし。

ここの日記に頼っていると、一週間後の楽しみになるので、
それでもよい皆さんは、また来週のお楽しみ、ということで…
…ここはしばしのおいとまを…

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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第1章 栄華の夢 (201)

2009年08月11日 02時13分52秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第一篇 動天驚地

 国祖国治立命(コクソクニハルタチノミコト)、豊国姫命(トヨクニヒメノミコト)、
大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)、その他聖地における
錚々(サウサウ)たる神人(カミガミ)は、全部各地に退隠されてより、
八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)の聖地における神務は
まつたく破滅され、天地の神を信ずるものなく、
聖地の宮殿はまつたく八王大神の居館(ヤカタ)となり、
申訳(マウシワケ)的に小さき宮を橄欖山(カンランザン)の頂上に建設し、
ただ一年に一回の祭典を行ふのみであつた。

神殿の柱は風雨に曝(サラ)され、自然の荒廃にまかせ屋根は漏(モ)り、
蜘蛛(クモ)の巣は四方に引廻し、至聖至厳なるべき神殿は、
つひに野鼠(ヤソ)の棲処(スミカ)となつてしまつたのである。

 一方竜宮城の三重(ミヘ)の金殿は、
その最下層の間は常世姫(トコヨヒメ)の遊楽の場所と定められた。

されど顕国(ウツシクニ)の御玉(ミタマ)を祭りたる最高段に上ることは、
いかに常世彦といへども、
神威に畏(オソ)れて敢行することが出来なかつた。

 常世彦、常世姫二人の間に常治彦(トコハルヒコ)が生れた。
つぎに玉春姫(タマハルヒメ)といふ妹が生れた。
父母両親はこれを掌中の玉として愛育してゐた。
愛児常治彦は長ずるにおよんで前頭部に牛のごとき角が二本生えた。

神人(カミガミ)らはこれを常治彦といはず
鬼治彦(オニハルヒコ)と密かに綽名(アダナ)してゐた。

聖地の八王大神にして、かくのごとく律法を無視し、神を涜(ケガ)し、
放縦不軌の神政をおこなひ、悪逆日々に増長して、
聖地は昼夜の区別なく奇怪なることのみ続出した。

「上の為(ナ)す所、下これに倣(ナラ)ふ」

の諺(コトワザ)のごとく、各山各地の八王八頭は、
邪鬼、悪狐、悪竜の霊に憑依(ヒヨウイ)されて神命を無視し、
暴逆無道の神政を行ふにいたつた。

聖地はすでに神霊を宮殿より分離し、
橄欖山に形ばかりの神殿を建てたるにならひ、
各地の八王八頭もその宮殿より国魂(クニタマ)を分離して、
山上または渓間(タニマ)に形ばかりの神殿を造り、
祭祀(サイシ)の道を怠(ヲコタ)つた。

 天上には三個の太陽一度に現はれ、月また中天(チユウテン)、
東天(トウテン)、西天(セイテン)に一度に三個の月球現はるるにいたつた。

しかして太陽の色は、一は赤く、一は青赤(アヲアカ)く、
一は青白(アヲジロ)く、月また青く赤く白く、
おのおの色を異にしてゐた。

天上の星は間断なく、東西南北に大音響を立てて飛び散り、
巨大なる彗星は、一は東天(トウテン)より、一は南天(ナンテン)より、
一は西天(セイテン)より現はれ、三個は地の上空に合して衝突し、
火花を散らすこと大花火のごとくであつた。

八王大神はじめ八王八頭はこの光景を見て、
頑迷不霊の国祖国治立命退隠ありてより、
天の大神はおほいに歓びたまひ、
太陽はかくのごとく三体現はれ、月また三体現はるるは、
天下泰平の瑞祥(ズイシヤウ)なりとして、各自に喜び勇んだ。

 また彗星の衝突して地上に火花を落下したるは、天の三体の大神、
盤古大神(バンコダイジン)の神政を祝したまふ瑞祥(ズイシヤウ)なりと謳つて、
ますます和光同塵的神政を遂行した。

 春の花は秋に咲き、秋咲く花は春に咲き、
夏大雪降り、冬は蒸し暑く、気候はまつたく変換した。

大地の主脳神たる国祖国治立命の精霊の脱出したる天地は、
日夜に大変調をきたし、妖気は天に漲(ミナギ)り、
青葉は黒く、あるひは茶褐色となり、
紅き花は黒く咲き、白き花は青く咲き、かかる宇宙の大変調を見て、
八王大神以下の神人(カミガミ)は、少しも国祖大神の御威霊なきがために、
かく天地の不順不祥をきたしたりとは夢にも知らず、
至善、至美、至楽の神政成就の先駆の象徴として、
この光景を祝賀したのである。
すべての神人は神業を放擲し、昼夜の区別なく踊り狂ひまはつた。

 霧は天地六合(リクガフ)をこめて、次第に太陽は光を曇らし、
月また出でざること数年におよんだ。

この間かの円満なる太陽の形を見ることなく、
昼夜の区別はほとんどつかなかつた。
されど地上の神人は、その暗黒に苦しむほどでもなかつた。
あたかも大地は朧月夜(オボロヅキヨ)のごとき光景である。

 八王大神はわが宮殿の奥に当り、怪しき声のしきりに聞ゆるに驚き、
急ぎわが居間を出で走り行きみれば、こはそもいかに、
常治彦は妹を引捕へ、その腕(カイナ)をむしり、血の流るるまま、
長き舌をだして美味(ウマ)さうに喰つてゐる。

 常世彦(トコヨヒコ)はおほいに驚き、長刀を引抜き常治彦を目がけて、

 『わが子の仇敵(カタキ)、思ひ知れよ』

といひつつ真向上段より斬りつくるそのとたん、
常治彦の姿も、妹の姿も白雲となつて消え失せ、
ただわが頭上にげらげらと笑ふ声がするのみであつた。

怪しみて奥殿くまなく探せども、何の異変もなかつた。
ただ怪しきは、長三角形の率塔婆(ソトバ)のごときもの五六本、
常世彦の前にツンツンツンと音を立て、
目鼻口のみムケムケさせながら、
上下、前後、左右より常世彦に突つかかつてきた。

 常世彦は、長三角形の尖端に面部その他の全体を突き刺された。
これまつたく神明を無視し、神殿を橄欖山に移したるがため、
大神(オホカミ)の激怒に触れたるならむと、橄欖山にかけ上り、
ほとんど朽(ク)ち果てたる神殿の前に、
息も絶えだえになつてその罪を謝した。

たちまち神殿鳴動して無数の金色(コンジキ)の鳩現はれ、
常世彦の頭上目がけて幾十回ともなく、
鋭利な嘴(クチバシ)についばんだ。
常世彦は鮮血滝のごとく、やうやく正気に復した。

 見れば、身はエルサレムの大宮殿の中に、
寝汗(ネアセ)を瀑布(タキ)のごとく流して夢を見てゐたのである。

常世彦は、この恐ろしき夢より醒めて、少しは前非を悔い、
聖地の従臣に命じて橄欖山の神殿を改造せしめた。

また各山各地の八王(ヤツワウ)にたいして、神殿をあらたに建築し、
大神の神慮を和(ナゴ)めたてまつることを伝達したりける。

 (大正十一年一月四日、旧大正十年十二月七日、外山豊二録)

『音惚花活気好@kakky』的『第1章 栄華の夢 (201)』分解

2009年08月11日 02時12分07秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第一篇 動天驚地

平成二十一(2009)年八月十一日 旧六月二十一日(火)

 国祖国治立命(コクソクニハルタチノミコト)、豊国姫命(トヨクニヒメノミコト)、
大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)、その他聖地における
錚々(サウサウ)たる神人(カミガミ)は、全部各地に退隠されてより、
八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)の聖地における神務は
まつたく破滅され、天地の神を信ずるものなく、
聖地の宮殿はまつたく八王大神の居館(ヤカタ)となり、
申訳(マウシワケ)的に小さき宮を橄欖山(カンランザン)の頂上に建設し、
ただ一年に一回の祭典を行ふのみであつた。

神殿の柱は風雨に曝(サラ)され、自然の荒廃にまかせ屋根は漏(モ)り、
蜘蛛(クモ)の巣は四方に引廻し、至聖至厳なるべき神殿は、
つひに野鼠(ヤソ)の棲処(スミカ)となつてしまつたのである。

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筆者は二十歳の時に『みんなしあわせになれ』を神示的に授かり、
その後、神霊治療体験を経て『世界平和の祈り』の五井先生の法話を、
毎日安むのも惜しんで読む様になった頃から、

「日本は自民党が治めていれば間違いない」

という五井先生のお説に従い、
これまでずうっと自民党を指示して来た。

しかしながら、その一方で、日本が、
日本としての祭政一致の国政というものを、
世界に広く示す日が実現する日が来ることを、
心にずうっと企画して来たのである。

その時には、自民党だとか、民主党だとか、社会党だとか、
その他諸々の政党などの様な、西洋かぶれのやり方は全て廃棄され、
神国日本の真姿を現し、天皇陛下と皇室が、厳かな神事を行い、
農業を社会の頂点に置いた万民勇楽、相和する大家族社会の中心として、
世界中の尊敬の的になる日が実現するものだと確信しているのである。

そういう意味で、ここに記されている、
国祖一党と八王大神一派との離反は、
何となく現代の日本の政情に通ずるものを感じるのだが、
例えば、今、『霊界物語の掲示板』という所から、
筆者が追い出されたり、割り込んだり、再び出入りしなくなったり、
ということを繰り返していることとも、何か関わりがある様な、
そんな気分がして来てしまうのも、やはり、筆者の中に、
まだ『大本型神業』への憧れの様なものが残っているから、
なのかもしれないのだが、実際、筆者が『霊界物語の掲示板』で、
にこやかな書き込みを繰り広げていた日々に比べて、
管理人を通じて、出入り禁止にされてからの、
世の気候の乱れぶりを見ると、
王仁三郎聖師の大本五十年の型神業は終わったけれども、
何か、その様な在り方が今も、未来も受け継がれて行く様な、
そんな気がして来るのを否定できないでいるのである。

さて、こんな世相であるが、もし今の総理が、8/15頃に、
靖国神社参拝でなく、何処か、他の由緒正しい神社に参拝しても、
きっとまた朝鮮半島や、中国辺りから、強烈な批判をくらい、
政敵である民主党から、矢の攻撃を受けるのだろうな…と思うと、
どうしても、選挙に基づく民主政治の限界を感じずにはいられない、
今の筆者なのであった…

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 一方竜宮城の三重(ミヘ)の金殿は、
その最下層の間は常世姫(トコヨヒメ)の遊楽の場所と定められた。

されど顕国(ウツシクニ)の御玉(ミタマ)を祭りたる最高段に上ることは、
いかに常世彦といへども、
神威に畏(オソ)れて敢行することが出来なかつた。

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第四巻の終わりにあった『宇宙真相』の『神示の宇宙』の中では、
この顕国の御玉とは、我々の太陽系銀河宇宙のことであることが、
ハッキリと記されていた。

つまり、現代アメリカ政府が、宇宙問題に関わるにも、
国内の財政問題を復活させることの方が最優先されている様な具合で、
とても現在の国際社会には、この顕国の御玉たる宇宙に乗り出すだけの、
準備も無ければ、その資格も無い様な状況に追い込まれているのに、
これはよく似ているのではないか?…と思う。

おそらくその最大の原因は、新約聖書の『ヨハネの黙示録』の様な、
地上人類の生活にとっては、まったく有り難くない予言書にある、
と筆者は睨んでいるのである。

『ヨハネの黙示録』は肉体離脱後の霊魂にとっての審判書である、
ということが理解出来ない西洋人達にとっては、
それを現実のものとして、地上で実現させなければならない、
という、予言迷信に陥ってるのではないか?
…と、筆者は考えているのである。

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 常世彦、常世姫二人の間に常治彦(トコハルヒコ)が生れた。
つぎに玉春姫(タマハルヒメ)といふ妹が生れた。
父母両親はこれを掌中の玉として愛育してゐた。
愛児常治彦は長ずるにおよんで前頭部に牛のごとき角が二本生えた。

神人(カミガミ)らはこれを常治彦といはず
鬼治彦(オニハルヒコ)と密かに綽名(アダナ)してゐた。

聖地の八王大神にして、かくのごとく律法を無視し、神を涜(ケガ)し、
放縦不軌の神政をおこなひ、悪逆日々に増長して、
聖地は昼夜の区別なく奇怪なることのみ続出した。

「上の為(ナ)す所、下これに倣(ナラ)ふ」

の諺(コトワザ)のごとく、各山各地の八王八頭は、
邪鬼、悪狐、悪竜の霊に憑依(ヒヨウイ)されて神命を無視し、
暴逆無道の神政を行ふにいたつた。

聖地はすでに神霊を宮殿より分離し、
橄欖山に形ばかりの神殿を建てたるにならひ、
各地の八王八頭もその宮殿より国魂(クニタマ)を分離して、
山上または渓間(タニマ)に形ばかりの神殿を造り、
祭祀(サイシ)の道を怠(ヲコタ)つた。

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これら兇党界の心霊の存在を認知することは必要なことだが、
これに惑わされて、自身の人生を失う様なことでは、
人が人としての主体性を失ってしまったも同然である。

これらの霊的事件の後に興った、各宗教の真の目的は、
こうした様々な神々に支配されない為の、自己確立、自己実現こそが、
最大の主眼だったのである。

無限絶対無始無終の主神と、絶対的な救世主神と、各自の間には、
受動的な絆が保たれているのであるが、それ以外の神々は、
人類と平等の位置にあるのであって、
若い人がそんな神々からも学ぶことがあると同時に、
我々、肉体を持った人間達が、そんな神々に教えるべきことも、
たくさんあるのが本当なのである。

現世の暮らしを知らない神々に対して、
現世のルールと楽しみを教えてやるのが、我々の真の立場なのだ。

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 天上には三個の太陽一度に現はれ、月また中天(チユウテン)、
東天(トウテン)、西天(セイテン)に一度に三個の月球現はるるにいたつた。

しかして太陽の色は、一は赤く、一は青赤(アヲアカ)く、
一は青白(アヲジロ)く、月また青く赤く白く、
おのおの色を異にしてゐた。

天上の星は間断なく、東西南北に大音響を立てて飛び散り、
巨大なる彗星は、一は東天(トウテン)より、一は南天(ナンテン)より、
一は西天(セイテン)より現はれ、三個は地の上空に合して衝突し、
火花を散らすこと大花火のごとくであつた。

八王大神はじめ八王八頭はこの光景を見て、
頑迷不霊の国祖国治立命退隠ありてより、
天の大神はおほいに歓びたまひ、
太陽はかくのごとく三体現はれ、月また三体現はるるは、
天下泰平の瑞祥(ズイシヤウ)なりとして、各自に喜び勇んだ。

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こういう現象はハリウッドやイギリスの映画の世界では、
頻繁に起きている様な気がするのだが、どうだろう?

実際にこんなことが起こるとすれば、
地球が大流星群に襲われているのであって、
こういうことは西洋天文学の中では充分に起こり得る現象だが、
出口王仁三郎聖師の宇宙論では、絶対に有り得ないことだと、
筆者は思う。

果たしてハリウッド映画の世界が本物であるとすれば、
国祖の出番は二度と再び無いということになるのだが、
天上に青い太陽や、青い月が出るなんてことがあるとしたら、
それこそ、八王大神を戒めるためにやって来た、
銀河連邦の大宇宙船ということになってもいいと筆者は思う。

本物の太陽と月に混ざって、惑星並の巨大母船が姿を現す、
という大スペクタルなら、宇宙人工的な話なので、
『神示の宇宙』を否定する様な出来事にはならないと思う。

それとも、これらの太陽や月も兇党界の生物、
ということになるのだろうか?

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 また彗星の衝突して地上に火花を落下したるは、天の三体の大神、
盤古大神(バンコダイジン)の神政を祝したまふ瑞祥(ズイシヤウ)なりと謳つて、
ますます和光同塵的神政を遂行した。

 春の花は秋に咲き、秋咲く花は春に咲き、
夏大雪降り、冬は蒸し暑く、気候はまつたく変換した。

大地の主脳神たる国祖国治立命の精霊の脱出したる天地は、
日夜に大変調をきたし、妖気は天に漲(ミナギ)り、
青葉は黒く、あるひは茶褐色となり、
紅き花は黒く咲き、白き花は青く咲き、かかる宇宙の大変調を見て、
八王大神以下の神人(カミガミ)は、少しも国祖大神の御威霊なきがために、
かく天地の不順不祥をきたしたりとは夢にも知らず、
至善、至美、至楽の神政成就の先駆の象徴として、
この光景を祝賀したのである。
すべての神人は神業を放擲し、昼夜の区別なく踊り狂ひまはつた。

 霧は天地六合(リクガフ)をこめて、次第に太陽は光を曇らし、
月また出でざること数年におよんだ。

この間かの円満なる太陽の形を見ることなく、
昼夜の区別はほとんどつかなかつた。
されど地上の神人は、その暗黒に苦しむほどでもなかつた。
あたかも大地は朧月夜(オボロヅキヨ)のごとき光景である。

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何処となく環境問題にぶち当たっている現代を彷彿とさせる光景だ。

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 八王大神はわが宮殿の奥に当り、怪しき声のしきりに聞ゆるに驚き、
急ぎわが居間を出で走り行きみれば、こはそもいかに、
常治彦は妹を引捕へ、その腕(カイナ)をむしり、血の流るるまま、
長き舌をだして美味(ウマ)さうに喰つてゐる。

 常世彦(トコヨヒコ)はおほいに驚き、長刀を引抜き常治彦を目がけて、

 『わが子の仇敵(カタキ)、思ひ知れよ』

といひつつ真向上段より斬りつくるそのとたん、
常治彦の姿も、妹の姿も白雲となつて消え失せ、
ただわが頭上にげらげらと笑ふ声がするのみであつた。

怪しみて奥殿くまなく探せども、何の異変もなかつた。
ただ怪しきは、長三角形の率塔婆(ソトバ)のごときもの五六本、
常世彦の前にツンツンツンと音を立て、
目鼻口のみムケムケさせながら、
上下、前後、左右より常世彦に突つかかつてきた。

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ゲゲゲの鬼太郎の一反木綿の様なのが五、六本も出て来た、
ということなのだろうか?

国祖がいないことを幸いに、そうした妖怪変化が封印を解かれて、
現世に出てきてしまっている、という事の様だ。

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 常世彦は、長三角形の尖端に面部その他の全体を突き刺された。
これまつたく神明を無視し、神殿を橄欖山に移したるがため、
大神(オホカミ)の激怒に触れたるならむと、橄欖山にかけ上り、
ほとんど朽(ク)ち果てたる神殿の前に、
息も絶えだえになつてその罪を謝した。

たちまち神殿鳴動して無数の金色(コンジキ)の鳩現はれ、
常世彦の頭上目がけて幾十回ともなく、
鋭利な嘴(クチバシ)についばんだ。
常世彦は鮮血滝のごとく、やうやく正気に復した。

 見れば、身はエルサレムの大宮殿の中に、
寝汗(ネアセ)を瀑布(タキ)のごとく流して夢を見てゐたのである。

常世彦は、この恐ろしき夢より醒めて、少しは前非を悔い、
聖地の従臣に命じて橄欖山の神殿を改造せしめた。

また各山各地の八王(ヤツワウ)にたいして、神殿をあらたに建築し、
大神の神慮を和(ナゴ)めたてまつることを伝達したりける。

 (大正十一年一月四日、旧大正十年十二月七日、外山豊二録)


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夢ともいうし、妄想ともいうし、シネマ的な幻想による教示、
ということになるのだろうか?

つまり、こんなけったいなことは、この世界には起こるものではい、
ということの一つの証拠の様にも思える。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 総説 嵐の跡

2009年08月04日 19時25分14秒 | Weblog
 畏(カシコ)くも国祖(コクソ)国治立命(クニハルタチノミコト)は、
逆神常世彦(トコヨヒコ)以下の不従を征するにも、天地の律法を厳守し、
仁慈の矛(ホコ)を振ひて奇策神謀を用ひたまはず、
後世湯王(タウワウ)の桀(ケツ)を放ち、
武王(ブワウ)の紂(チウ)を征誅するごとき殺伐の兵法をもつて、
乱虐を鎮定することを好みたまはなかつた。

 これに反し常世彦らは、邪神に使役され、
後世いはゆる八門遁甲(ハチモントンカフ)の陣を張り、
国祖をして弁疏(ベンソ)するの余地なからしめ、
つひに御隠退のやむなきに至らしめた。

 狼獺(ラウダツ)の不仁なるも、
また時としては神恩を感謝して獣魚を供へ、天神を祀(マツ)り、
雛鴉(スウア)の悪食(アクジキ)なるもなほ反哺(ハンポ)の孝あり、
しかるに永年国祖大神の仁慈に浴し、
殊恩を蒙(カウム)りたる諸神人(シヨシン)の神恩を捨て、
邪神の六韜三略(リクタウサンリヤク)の奸計に乗せられ、
旗色の可なる方にむかつて怒濤のごとく流れ従ひ、
国祖をして所謂(イハユル)

「独神而隠身也(スニナリマシテスミキリナリ)」

の悲境に陥らしめた。

 常世城(トコヨジヤウ)の会議における森鷹彦(モリタカヒコ)に変装せる
大江山(タイカウザン)の鬼武彦(オニタケヒコ)をはじめ、
大道別(オホミチワケ)、行成彦(ユキナリヒコ)および高倉(タカクラ)、旭(アサヒ)の奇策を弄し、
邪神の奸策を根底より覆(クツガ)へしたるごとき変現出没自在の活動は、
決して国祖の関知したまふところに非ずして、
聖地の神人(カミガミ)の敵にたいする臨機応変的妙案奇策にして、
よくその功を奏したりといへども、
天地の律法には「欺(アザム)く勿(ナカ)れ」の厳戒あり、
神聖至厳なる神人(カミ)の用ふべからざる行為なれば、
その責はひいて国祖大神の御位置と神格を傷つけた。

現に大道別(オホミチワケ)、森鷹彦(モリタカヒコ)、
鬼武彦(オニタケヒコ)らの神策鬼謀は、国祖の直命にあらず、
国祖は至仁至直の言霊(コトタマ)をもつて邪神らを悔い改めしめ、
言向和(コトムケヤハ)さむとの御聖意よりほかなかつた。

しかるに血気に逸(ハヤ)り、忠義に厚き聖地の神人(カミガミ)は、
律法の如何(イカン)を顧みるにいとまなく、
暴に対するに暴を以てし、逆に対するに逆を以てし、
不知不識(シラズシラズ)のあひだに各自の神格をそこなひ、
国祖の大御心を忖度(ソンタク)し得なかつたためである。

アヽされど、国祖の仁愛無限にして責任観念の強大なる、
部下諸神人(シヨシン)の罪悪を一身に引受け、
一言半句の弁解がましきことをなし給はず、
雄々(ヲヲ)しくも自ら顕要の地位を捨て、
隠退せられたるは、実に尊さのかぎりである。

吾人は国祖の大御心を平素奉戴して、ある人々の言行の不穏と誤解の結果、
吾が身の災厄に遭遇することしばしばである。

されど、心は常に洋々として海のごとく、毅然として山のごとく、
動かず騒がず、すべての罪責を一身に引受け、
もつて本懐としてゐるのである。

すべて人に将たるものは、よく人を知り、人を信じ、人に任じ、
その正邪と賢愚を推知して、各自その処を得せしめねばならぬのである。

しかるに部下の選任を余儀なくして、誤らしめられたるは、
自己の無知識と薄志弱行の欠点たるを省み、一言もつぶやかず、
大神の仁慈の鞭(シモト)として感謝する次第である。

 アヽ尊きかな、千座(チクラ)の置戸(オキド)を負ひ、
十字架の贖罪的犠牲の行動においてをや。

吾人はつねに惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)を口唱す。

無明暗黒の現代を救ふの愉快なる神業においてをやである。

天下に二難事あり、その一は天に昇ること、
その二は人を求むることである。

アヽ国祖大神の天国を地上に建設したまはむとして艱難辛苦をつくされ、
神人(シンジン)を得むとして、
その棟梁に最適任の神人(カミ)を得たまはざりしごとく、
吾人(ゴジン)またその例に洩(モ)れないのである。

国祖大神は、聖地に清き高き美はしき宮殿を造り、至治太平の神政を樹立し、
天下八百万(ヤホヨロヅ)の神人(シンジン)の安住する祥代(シヤウダイ)をながめて、
歓喜に充せたまふたのも僅(ワヅ)か数百年、
つひに善神人(ゼンシン)も年と共に悪化して邪神の容器となり、
国祖が最初の大目的を破滅せしめたるは、
たとへば小高き山上に美(ウル)はしき家をたて、
その座敷から四方の風景を眺めて、
その雄大にして雅趣に富めるを歓びつつありしを、
家屋の周辺に樹木のすくなく、風あたりの激しきを防がむために、
種々の必要なる木を植ゑつけたるに、
一時は木も短くして、風景の眺望に少しも障害なかりしもの、
年を経(ヘ)るにしたがひ、おひおひと成長して枝葉繁茂し、
何時しか遠景の目に入らぬやうになつたのみならず、
つひにはその大木に風をふくんで、その木は屋上に倒れ、家を壊し、
主人までも傷つけたやうなものである。

世の成功者といはるる人々にも、
これに酷似した事実は沢山にあらうと思ふ。

現に吾人は、家の周囲に植ゑつけられた種々の樹木のために、
遠望を妨げられ、暗黒につつまれ、
つひにはその家もろともに倒されて
重傷を負ふたやうな夢を見たのである。

されどふたたび悪夢は醒めて、
さらに立派な家屋を平地に建てなほす機会の
到来することを確信するものである。

国祖大神の時節を待つて再臨されしごとく、
たとへ三度や五度失敗を重ぬるとも、機会を逸するとも、七転八起は、
神または人たるものの通常わたるべき道程であるから、
幾たび失敗したつて決して機会を逸したとは思はない。

至誠神明に祈願し、天下国家のために最善の努力をつくすまでである。

現代の人々は、吾が身の失敗をことごとく棚の上に祭りこみ、
惟神(カムナガラ)だとか、
社会組織の欠陥そのものの然らしむる自然の結果なり、
と思ふなどの詭弁に依帰してしまつて、
自己の責任については、少しも反省し自覚するものがない。

宗教家の中には

「御国を来らせたまへ」

とか

「神国成就(シンコクジヤウジユ)五六七神政(ミロクシンセイ)」

とかいふことを、地上に立派な形体完備せる天国をたてることだとのみ
考へてゐるものが多い。

そして地上の天国は、各人がまづ自己の霊魂を研き、
水晶の魂(ミタマ)に立替(タテカ)へるといふことを知らぬものが沢山にある。

各自の霊魂中に天国を建て、
天国の住民として愧(ハ)づかしからぬ清き、正しき、
雄々しき人間ばかりとならねば、
地上に立派な霊体一致の完全な天国は樹立せないのである。

 アヽされど一方より考ふれば、
これまた神界の御経綸(ケイリン)の一端とも考へられる。

暗黒もまた清明光輝にむかふの径路である。

雛鳥(ヒナドリ)に歌を教へるには、暗き箱の中に入れておき、
外面より声のうるはしき親鳥の歌ふ声を聞かしめると同様に、
一時、大本(オホモト)の経綸も、雛鳥を暗き箱に入れて、
外より親鳥のうるはしき声を聞かしむる大神(オホカミ)の御仕組(オシグミ)かとも
思はれぬこともないのである。

ゆゑに吾人は大逆境におちいつて暗黒のうちにある思ひをするとき、
かならず前途の光明を認め得るのは、
まつたく神の尊き御仁慈であると思ふ。

いかなる苦痛も、困窮も、
勇んで神明の聖慮仁恵の鞭(シモト)として甘受するときは、
神霊ここに活気凛々(リンリン)として吾にきたり、
苦痛も困窮も、かへつて神の恩寵となつてしまふ。

たとへば籠の中に入れられてゐる鳥でも、平気で歌つてゐる鳥は、
最早とらはれてゐるのではない。
暢気(ノンキ)に天国楽園に春を迎へたやうなものである。

これに反して、天地を自由に翔(カウシヤウ)する百鳥も、
日々の餌食(エジキ)に苦しみ、
かつ敵の襲来にたいして寸時も油断することができないのは、
籠の鳥の、人に飼はれて食を求むるの心労なく、
敵の襲来に備ふる苦心なきは、
苦中楽あり楽中苦ありてふ苦楽不二の真理である。

牢獄の囚人の苦痛に比して、
自由人のかへつて是に数倍せる苦痛あるも、
みな執着心の強きに因(ヨ)るのである。

名誉に、財産に、地位情慾等に執着して、
修羅の争闘に日夜鎬(シノギ)をけづる人間の境遇も、
神の公平なる眼より視たまへば、実に憐れなものである。

 神諭(シンユ)にも、

 『人は心の持ちやう一つで、
  その日からどんな苦しいことでも、喜び勇んで暮される』

と示されたのは、じつに至言であると思ふ。

一点の心燈(シントウ)暗ければ、天地万有一さい暗く、
心天明らけく真如の日月輝くときは、宇宙万有一切清明である。

吾人は平素、心天の光明に照らされ、行くとして歌あらざるはない。

吾人の心魂(シンコン)神恩を謳ふとき、万物みなうたひ、
あたかも天国浄土の思ひに楽しむ。

アヽ「天国は近づけり、悔い改めよ」の聖者の教示、
今さらのごとく、さながら基督(キリスト)の肉身に接侍するがごとく、
崇敬畏愛の念に堪へない。

 アヽ末世澆季(ゲウキ)の今日、
オレゴン星座より現はれきたるキリストは、
今やいづこに出現せむとするか。

その再誕再臨の聖地は、はたして何処(イヅコ)に定められしぞ。

左右の掌指(シヤウシ)の節々に、釘(クギ)の跡を印(シル)し、
背部にオレゴン星座の移写的(イシヤテキ)印点(インテン)を有して降誕したる
救世主の出現して、衆生に安息を与ふる日は、はたして何れの日ぞ。

金剛石も汚穢(ヲワイ)の身体を有する
蟇蛙(ヒキガヘル)の頭部より出づることあり、
金銀いかに尊貴なりとて、糞尿の植物を肥すに及ばむや。

高山の頂(イタダキ)かならずしも良材なく、渓間低く暗きところ、
かへつて良材を産するものである。

平地軟土に成長したる大樹、またいかに合抱長直なりといへども、
少しの風に撓(タワ)みやすく、折れやすし。

宇宙間の万物一として苦闘によらずして、
尊貴の位置に進むものはない。

しかるに、天地経綸の大司宰たる天職を天地に負へる人間にして、
けつして例外たることを得ない。

アヽ人生における、すべての美(ウル)はしきもの、尊きものは、
千辛万苦、至善のために苦闘して得なくてはならぬと思ふ。

 神諭(シンユ)に曰(イ)ふ、

 『苦労の塊(カタマリ)の花の咲く大本(オホモト)であるぞよ、
  苦労なしには真正(マコト)の花は咲かぬから、
  苦労いたすほど、尊いことはないぞよ云々』

 吾人はこの神諭を拝するごとに、
国祖が永年の御艱苦に省(カヘリ)み、慙愧の情に堪へないのである。

 ここに八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)は、
多年の宿望成就して、天津神(アマツカミ)の命を受け、
盤古大神塩長彦(バンコダイジンシホナガヒコ)を奉じて、
地上神界の総統神と仰ぎ、みづからは八王大神として、
地上の神人を指揮することになつた。

しかるに聖地エルサレムは、
新たに自己の神政を布(シ)くについては、
種々の困難なる事情あるを慮(オモンパカ)り、
常世姫(トコヨヒメ)をして竜宮城の主管者として守らしめ、
聖地を捨て、アーメニヤに神都を遷し、
天下の諸神人(シヨシン)を率ゐて世を治めむとした。

一方常世城(トコヨジヤウ)を守れる大鷹別(オホタカワケ)は、
大自在天大国彦(ダイジザイテンオホクニヒコ)を奉じて総統神となし、
アーメニヤの神都にたいして反抗をこころみ、
またもや地上の神界は混乱に混乱をかさね、
邪神の横行はなはだしく、やむを得ず、
諾冊(ナギナミ)二神の自転倒嶋(オノコロジマ)に降りたまひて、
海月(クラゲ)如(ナ)す漂(タダヨ)へる国を修理固成せむとして、
国生(クニウ)み、嶋生(シマウ)み、
神生(カミウ)みの神業(ミワザ)を始めたまひし神代(カミヨ)の物語は、
本巻によつて明らかになることと思ふ。

 神(カム)ながら宇宙の外(ソト)に身をおきて
    日に夜に月(ツキ)ぬ物語する

 王仁は、第一巻において天地剖判(バウハン)の章にいたり、
金や銀の棒が表現して云々と述べたるにたいし、
人を馬鹿にするといつて、
コンナ馬鹿な説は聞くだけの価値なきものだと、
一笑に附して顧(カヘリ)みないのみならず、
他人の研究までも中止せしめむとしてゐる立派な学者があるさうだ。

 神諭(シンユ)にも、

 『図抜(ヅヌ)けた学者でないと、途中の鼻高には、
  神の申すことはお気に入らぬぞよ云々』

と示されてある。宇宙間の森羅万象、一として形体を具ふるもの、
金、銀、銅、鉄等の鉱物を包含せないものはない。

人間をはじめ、動植物といへども、
剛体(ガウタイ)すなはち玉留魂(タマツメムスビ)の守護によらぬはない。

金銀等の金気(キンキ)の大徳によつて現出したる宇宙間の森羅万象は、
悉皆(シツカイ)、鉱物玉留魂の神力(シンリキ)を保持してゐるのであるから、
金の棒や銀の棒から天地万物が発生し凝固したといつたとて、
別に非科学的でも何でもない。

神の言には俗人のごとき七面倒くさきことは仰せられぬ。
すべて抽象的、表徴的で、
一二言にて宇宙の真理を漏(モ)らされるものである。

 それで神諭(シンユ)にも、

 『一を聞いて十百を悟る身魂(ミタマ)でないと、
  誠の神の御用は勤まらぬぞよ』

と示されてある。

半可通(ハンカツウ)的学者の鈍才浅智をもつて、
無限絶対無始無終の神界の事柄にたいして喃々(ナンナン)するは、
竿をもつて蒼空(アヲゾラ)の星を
らち落さむとするやうなものである。

洪大無限の神の力に比べては、
虱(シラミ)の眉毛に巣くふ虫、
その虫のまた眉毛に巣くふ虫、
そのまた虫の眉毛に巣くふ虫の放(ヒ)つた糞に生(ワ)いた虫が、
またその放(ヒ)つた糞に生(ワ)いた虫の、
またその虫の放(ヒ)つた糞に生(ワ)いた虫の糞の中の虫よりも、
小さいものである。

 ソンナ比較にもならぬ虫の分際として、
洪大無辺の神界の大経綸(ケイリン)が判つてたまるものでない。

それでも人間は万物の長であつて、
天地経綸の司宰者だとは、どこで勘定が合ふであらうか。

されど、神の容器たるべき活動力を有する万物の長たる人間が、
宇宙間に絶無とは神は仰(オホ)せられぬのは、
いはゆる神界にては無形(ムケイ)に視、
無声(ムセイ)に聴き、無算(ムサン)に数へたまふてふ、
道(ミチ)の大原(タイゲン)の聖句によるのであらうと思ふ。

 蚤虱(ノミシラミ)蚊(カ)にもひとしき人の身の
    神の為(ナ)すわざ争(アラソ)ひ得(エ)めや

 大正十一年一月三日、旧十年十二月六日

『音惚花活気好@kakky』的『総説 嵐の跡』分解(一)

2009年08月04日 19時22分36秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 序文

平成二十一(2009)年八月四日 旧六月十四日(火)

 畏(カシコ)くも国祖(コクソ)国治立命(クニハルタチノミコト)は、
逆神常世彦(トコヨヒコ)以下の不従を征するにも、天地の律法を厳守し、
仁慈の矛(ホコ)を振ひて奇策神謀を用ひたまはず、
後世湯王(タウワウ)の桀(ケツ)を放ち、
武王(ブワウ)の紂(チウ)を征誅するごとき殺伐の兵法をもつて、
乱虐を鎮定することを好みたまはなかつた。

 これに反し常世彦らは、邪神に使役され、
後世いはゆる八門遁甲(ハチモントンカフ)の陣を張り、
国祖をして弁疏(ベンソ)するの余地なからしめ、
つひに御隠退のやむなきに至らしめた。

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簡単にいうと、正直者の国祖に対し、
狡賢い常世彦達は、人気票を獲得して、
多数決と村八分戦略の両方を用いて、
正直一筋の国祖を、表面、正義を装って追いつめたわけだ。

不器用な国祖を、口達者な常世彦等が、
自ら退く様に仕向けたわけである。

学校の教師が、悪さばかりする生徒を、
人道をもって正しく叱りつけたら、
それを親に告げ口されて、怒った親が、
PTAの圧力によってその教師を転勤させる、という様な、
何とも情けないことが起きたわけである。

神界ですら、こんなことが起こるのであるから、
地上世界が乱れないわけがない。

御上からして見本を示しているのである。

かくて世の中は、強い者勝ちの世の中へと堕落して行く…

国祖は、日本でいうとアイヌの様な気性だった様で、
常世彦等は、政治的に狡猾な大和民族の様なやり方をしたわけだ。

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 狼獺(ラウダツ)の不仁なるも、
また時としては神恩を感謝して獣魚を供へ、天神を祀(マツ)り、
雛鴉(スウア)の悪食(アクジキ)なるもなほ反哺(ハンポ)の孝あり、
しかるに永年国祖大神の仁慈に浴し、
殊恩を蒙(カウム)りたる諸神人(シヨシン)の神恩を捨て、
邪神の六韜三略(リクタウサンリヤク)の奸計に乗せられ、
旗色の可なる方にむかつて怒濤のごとく流れ従ひ、
国祖をして所謂(イハユル)

「独神而隠身也(スニナリマシテスミキリナリ)」

の悲境に陥らしめた。

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今の筆者も、ちょうど『霊界物語の掲示板』で、
そんな目に遭わされた様な錯覚もしかねない内容なのだが、
それはちょっと違う。

何故なら『霊界物語の掲示板』を作ったのは筆者ではなく、
管理人さんである。

その管理人さんの方針で、筆者が再び『霊界物語の掲示板』に、
出入り禁止になったのであるから、
筆者は別に国祖の様な目に遭わされたわけではない。

それが証拠に、こうやってこの『霊界物語学の日記』を、
盛んに書き込んでいるのであるから、どちらかというと、
反対者ばかりが集まって来る、地獄の様な場所で、
管理人さんに気を使って、
嫌いな連中とのやりとりを続けている暇があったら、
ここで本来の自由自在性を取り戻して、
やっている方が効率がよいわけである。

まさに、これこそ御神慮である、
と有り難く受け取っておいた方がよいであろう。

これは最近気がついたのであるが、

『自由』というのは主なる霊に対して、
完全に『従』の心になった時に獲得出来るものなのだ。

だから『自由』と『従』は発音がよく似ているので、
言霊として通い合っているわけである。

『自由』と『従』は、まるで正反対の様であるが、
これは『Θ(ス)』の言霊と同じで、
無限小と無限大という相反する事象が一体になっている、
この大宇宙そのものと共通の真理を現しているのだ。

他人様のことはよくわからないけれども、
孤独であることも、仲間に囲まれていることも、
両方に自在に対応できることが大事だと思う。

人間は、生まれる時と、死ぬ時は、
絶対の孤独情態を通過するので、この世に生まれて来たら、
絶対の孤独という情態は有り得ない。

必ず、何らかの形で人様からの影響を受けているのである。

たくさん人が集まっていても、
例えば、異なる信仰を持つ者同志が夫婦になる、
という様なことは、本当に生き地獄であるから、
こういう場合は、よほどの事情が無い限り、
離婚して、互いに孤独になって、
互いによく馴染む方に分離して行った方が、
よいに決まっているのだ。

一個の人体でも、心臓になるべき細胞が、
心臓になるべき場所で髪の毛になってしまって、
とんでもなく困ったことになるわけで、
各々、その役割とポジションに見合った部所に行くのが、
最も天国的なことであるに決まっているのだ。

高天原というポジションにも、その生長に従って変化があるので、
その変化に合った身魂が、そこにあることが御安泰の基礎である、
と、思うのである。

同じ家であっても、一度、その家の権利が他人に渡ったら、
次からは勝手にその家に出入りすることは出来なくなる。

引っ越した先を住み易くするか、
改めてその家の権利を獲得するための努力をしないといけない。

はたして国祖に、それだけの気持ちがあったかどうかが、
この際、重要なのではないか?と思うのである。

実際、国祖の御退隠を決断したのは、国祖御自身の判断だった、
ということも忘れてはならないと思うのだ。

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 常世城(トコヨジヤウ)の会議における森鷹彦(モリタカヒコ)に変装せる
大江山(タイカウザン)の鬼武彦(オニタケヒコ)をはじめ、
大道別(オホミチワケ)、行成彦(ユキナリヒコ)および高倉(タカクラ)、旭(アサヒ)の奇策を弄し、
邪神の奸策を根底より覆(クツガ)へしたるごとき変現出没自在の活動は、
決して国祖の関知したまふところに非ずして、
聖地の神人(カミガミ)の敵にたいする臨機応変的妙案奇策にして、
よくその功を奏したりといへども、
天地の律法には「欺(アザム)く勿(ナカ)れ」の厳戒あり、
神聖至厳なる神人(カミ)の用ふべからざる行為なれば、
その責はひいて国祖大神の御位置と神格を傷つけた。

現に大道別(オホミチワケ)、森鷹彦(モリタカヒコ)、
鬼武彦(オニタケヒコ)らの神策鬼謀は、国祖の直命にあらず、
国祖は至仁至直の言霊(コトタマ)をもつて邪神らを悔い改めしめ、
言向和(コトムケヤハ)さむとの御聖意よりほかなかつた。

しかるに血気に逸(ハヤ)り、忠義に厚き聖地の神人(カミガミ)は、
律法の如何(イカン)を顧みるにいとまなく、
暴に対するに暴を以てし、逆に対するに逆を以てし、
不知不識(シラズシラズ)のあひだに各自の神格をそこなひ、
国祖の大御心を忖度(ソンタク)し得なかつたためである。

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そして、その責任を全て背負って御退隠したのが国祖であった、
ということになるわけであるから、悪いのはみなさん、ということを、
皆が自覚する以外はないのであろう。

「よかれと思ってやったのに。」

…と、思えることであっても、反省する以外には無いのだが、
これはなかなか難しいことであろうと思う。

おそらく自力では、コントロール不可能なことなのではなかろうか?

筆者は、これに二十歳の時に気づいた。

今から二十八年前のことである。

それからは、自身の小さな頭で、
事の善悪を判断することをやめてしまった。

全て、天地の主神の大御心にお任せすることにしてしまったので、
結果、地獄に落とされることになっても、
はたまた天国に上げられることになっても、
その御判断に対して、不平不満を言わぬことにしようと、
キッパリと決めてしまったから、もしかすると普通の皆さんからは、
ひどくクールでドライな人間だと思われることも多いかもしれない。

それに、先ず、第一に念頭に入れなければならないことは、
自分が国祖同様の悩みと責任を抱えることなど、全く必要無い、
という分かり切ったことをよく判っているのだから、
分に沿わないことを悩むより、もっと身近なことに対処していれば、
充分、大神様のお役に立っているのである、
ということが判ってしまえば、こんな気楽なことは本当に無いのだ。

他人様から無責任であると言われようとどうだろうと、
自分自身に他人様の責任を追うほどの器量があるとは
思えないのだからしょうがない。

筆者自身は空っぽなのだ。

あるのは只、今やっていることを真剣に楽しんでやる、という、
それだけの心である。

そのことだけに全責任を抱えている、
と言っても過言ではないかもしれない。

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アヽされど、国祖の仁愛無限にして責任観念の強大なる、
部下諸神人(シヨシン)の罪悪を一身に引受け、
一言半句の弁解がましきことをなし給はず、
雄々(ヲヲ)しくも自ら顕要の地位を捨て、
隠退せられたるは、実に尊さのかぎりである。

吾人は国祖の大御心を平素奉戴して、ある人々の言行の不穏と誤解の結果、
吾が身の災厄に遭遇することしばしばである。

されど、心は常に洋々として海のごとく、毅然として山のごとく、
動かず騒がず、すべての罪責を一身に引受け、
もつて本懐としてゐるのである。

すべて人に将たるものは、よく人を知り、人を信じ、人に任じ、
その正邪と賢愚を推知して、各自その処を得せしめねばならぬのである。

しかるに部下の選任を余儀なくして、誤らしめられたるは、
自己の無知識と薄志弱行の欠点たるを省み、一言もつぶやかず、
大神の仁慈の鞭(シモト)として感謝する次第である。

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どうもすみません。気がつきませんで…
わたしの様なふつつか者の罪まで背負って頂きまして、
何と御礼を申し上げたらよいのかわかりませんのに、
御礼などされてはかえって迷惑だとも申されますので、
益々困り果ててしまいます。

せめてせっかく国祖様に罪を取って頂いて浄められた私ですから、
自身に与えられた命を、存分に活躍させて頂くよう
努力させて頂きますので、どうぞ御笑覧あれ。

…としか、今の筆者には感謝の態度を示しようがないのである。

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 アヽ尊きかな、千座(チクラ)の置戸(オキド)を負ひ、
十字架の贖罪的犠牲の行動においてをや。

吾人はつねに惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)を口唱す。

無明暗黒の現代を救ふの愉快なる神業においてをやである。

天下に二難事あり、その一は天に昇ること、
その二は人を求むることである。

アヽ国祖大神の天国を地上に建設したまはむとして艱難辛苦をつくされ、
神人(シンジン)を得むとして、
その棟梁に最適任の神人(カミ)を得たまはざりしごとく、
吾人(ゴジン)またその例に洩(モ)れないのである。

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せめて、

『吾人はつねに惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)を口唱す』

とあるのを見習ってみたいとも思うのだが、
それでいい気になっていれば、
きっとカムナガラ中毒の”なんとか外道”
ということにされてしまうのであろうけれども、
そんなことを恐れて、感謝もしないようでは、
何のために身魂を浄めて頂いたのかわからないのだ。

ただただもったいない、ありがとうございます、
としか、心を現しようが無いのである。

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国祖大神は、聖地に清き高き美はしき宮殿を造り、至治太平の神政を樹立し、
天下八百万(ヤホヨロヅ)の神人(シンジン)の安住する祥代(シヤウダイ)をながめて、
歓喜に充せたまふたのも僅(ワヅ)か数百年、
つひに善神人(ゼンシン)も年と共に悪化して邪神の容器となり、
国祖が最初の大目的を破滅せしめたるは、
たとへば小高き山上に美(ウル)はしき家をたて、
その座敷から四方の風景を眺めて、
その雄大にして雅趣に富めるを歓びつつありしを、
家屋の周辺に樹木のすくなく、風あたりの激しきを防がむために、
種々の必要なる木を植ゑつけたるに、
一時は木も短くして、風景の眺望に少しも障害なかりしもの、
年を経(ヘ)るにしたがひ、おひおひと成長して枝葉繁茂し、
何時しか遠景の目に入らぬやうになつたのみならず、
つひにはその大木に風をふくんで、その木は屋上に倒れ、家を壊し、
主人までも傷つけたやうなものである。

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もっと簡単にいうと、爪を切っては爪が可哀想だと思って、
放っておいたら伸び過ぎた爪が刺さったり割れたりして、
かえって傷ついてしまった、ということであろう。

伸びた爪は切るか磨くかして適当な長さにしておく方が、
それはよいに決まっているのだ。

髪の毛や髭でも同じ事である。

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世の成功者といはるる人々にも、
これに酷似した事実は沢山にあらうと思ふ。

現に吾人は、家の周囲に植ゑつけられた種々の樹木のために、
遠望を妨げられ、暗黒につつまれ、
つひにはその家もろともに倒されて
重傷を負ふたやうな夢を見たのである。

されどふたたび悪夢は醒めて、
さらに立派な家屋を平地に建てなほす機会の
到来することを確信するものである。

国祖大神の時節を待つて再臨されしごとく、
たとへ三度や五度失敗を重ぬるとも、機会を逸するとも、七転八起は、
神または人たるものの通常わたるべき道程であるから、
幾たび失敗したつて決して機会を逸したとは思はない。

至誠神明に祈願し、天下国家のために最善の努力をつくすまでである。

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これはつまり第一次大本事件のことであろうと思うが、
人生には、こんなことはいくらでもある。

仕事を教えてやった後輩に、
寝首をかかれる様に地位や仕事を奪われるとか、
これに類したことは、この世の中には溢れかえっている。

例えばコップ。

綺麗に密封して、戸棚の中にでもしまっておけば、
それはいつまでも新品同様に保存されるかもしれないが、
飲料用に使えば使うほど、汚れるのが当然で、
むしろ汚れてナンボなのが、コップの役割である。

神だろうと、人だろうと、仏様だろうと、
この世に現れたからは汚れてナンボである。

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現代の人々は、吾が身の失敗をことごとく棚の上に祭りこみ、
惟神(カムナガラ)だとか、
社会組織の欠陥そのものの然らしむる自然の結果なり、
と思ふなどの詭弁に依帰してしまつて、
自己の責任については、少しも反省し自覚するものがない。

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自覚したら何が変わるか?

他者に対する慈悲心と一緒に、責任をもって指導する心、
というものもきっと芽生えて来るのだろう。

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宗教家の中には

「御国を来らせたまへ」

とか

「神国成就(シンコクジヤウジユ)五六七神政(ミロクシンセイ)」

とかいふことを、地上に立派な形体完備せる天国をたてることだとのみ
考へてゐるものが多い。

そして地上の天国は、各人がまづ自己の霊魂を研き、
水晶の魂(ミタマ)に立替(タテカ)へるといふことを知らぬものが沢山にある。

各自の霊魂中に天国を建て、
天国の住民として愧(ハ)づかしからぬ清き、正しき、
雄々しき人間ばかりとならねば、
地上に立派な霊体一致の完全な天国は樹立せないのである。

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はたしてこの通りの心がけの人達が集まっているのが、
宗教団体だということが真実だとしたら、
そんな素晴らしく清らかな所には、
筆者は十年に一度もお伺いさせて頂ければ、それで充分に、
もったいなくも有り難い話しだと思うのだが…

だからといって、汚れきった世の中に、
どっぷりとつかってしまうのも、これは筆者も御免である。

偉くもなく、清らかでもなく、卑しくもなく、ドロドロでもなく、
平ペイのペイ!の一人として、目立たず、構われないところで、
ああ、神様は有り難い、なんて懐かしい、
といって悦に入ってられれば、それで充分だと思うのだが…

天国には第二天国とか第一天国のみならず、
最奥天国というのあるらしいが、うまくいけば入れてもらえる、
という第三天国の下の方に置いてもらえるだけでも、
今すぐ死んでもいいくらい光栄な事なのではなかろうか…

…といっても、天国だから、もう肉体的には死んでるんですけれども…

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『音惚花活気好@kakky』的『総説 嵐の跡』分解(二)

2009年08月04日 19時21分17秒 | Weblog
 アヽされど一方より考ふれば、
これまた神界の御経綸(ケイリン)の一端とも考へられる。

暗黒もまた清明光輝にむかふの径路である。

雛鳥(ヒナドリ)に歌を教へるには、暗き箱の中に入れておき、
外面より声のうるはしき親鳥の歌ふ声を聞かしめると同様に、
一時、大本(オホモト)の経綸も、雛鳥を暗き箱に入れて、
外より親鳥のうるはしき声を聞かしむる大神(オホカミ)の御仕組(オシグミ)かとも
思はれぬこともないのである。

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映画館で映画を観ようと思えば、館内を真っ暗闇にするのと同じ。

月夜や、星座を楽しもうと思えば、暗い夜が必要なのと同じ。

これを味わうのも、また天国なのだから、
暗闇も無ければつまらないという風にも、筆者は思う。

天国には秘密は無いけれども、恋人や友達に、
わざと秘密を作ってやきもきさせて楽しむ遊び、
というのも、無ければもしかしたら味気ないのかもしれない。

真っ暗な宇宙の果て、というのはミステリアスだからこそ、
その神秘を探りたいのであり、
綺麗で可愛いオベベを来ているからこそ、
脱がしてみたいような気にもなるのであって、
初めから丸裸だったら、スリルも何も無いものだ。

神様は、判らないことが多いから知りたいのである。

そういうことと同じだと思うと、一方に偏った考えというものほど、
損をした生き方は無いように思えて来るのである。

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ゆゑに吾人は大逆境におちいつて暗黒のうちにある思ひをするとき、
かならず前途の光明を認め得るのは、
まつたく神の尊き御仁慈であると思ふ。

いかなる苦痛も、困窮も、
勇んで神明の聖慮仁恵の鞭(シモト)として甘受するときは、
神霊ここに活気凛々(リンリン)として吾にきたり、
苦痛も困窮も、かへつて神の恩寵となつてしまふ。

たとへば籠の中に入れられてゐる鳥でも、平気で歌つてゐる鳥は、
最早とらはれてゐるのではない。
暢気(ノンキ)に天国楽園に春を迎へたやうなものである。

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寝る時に、目をつぶるのは、睡眠には暗闇が必要だからだ。

何もすることが無い自由というものは、全く苦痛なものである。

適度な束縛があるからこそ、それが要(カナメ)になって、
自由な活動に拍車がかかるのだ。

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これに反して、天地を自由に翔(カウシヤウ)する百鳥も、
日々の餌食(エジキ)に苦しみ、
かつ敵の襲来にたいして寸時も油断することができないのは、
籠の鳥の、人に飼はれて食を求むるの心労なく、
敵の襲来に備ふる苦心なきは、
苦中楽あり楽中苦ありてふ苦楽不二の真理である。

牢獄の囚人の苦痛に比して、
自由人のかへつて是に数倍せる苦痛あるも、
みな執着心の強きに因(ヨ)るのである。

名誉に、財産に、地位情慾等に執着して、
修羅の争闘に日夜鎬(シノギ)をけづる人間の境遇も、
神の公平なる眼より視たまへば、実に憐れなものである。

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哲学だなあ…と思うのだが、
こういう思考を楽しむことが出来るのが天国、
ということなのではなかろうか?

人生というものには、答えがあるようで無い。

そこまでわかったら、自発的に楽しみ方を見つけた奴が勝ち、
という単純な考え方をしてもよいような気がするのである。

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 神諭(シンユ)にも、

 『人は心の持ちやう一つで、
  その日からどんな苦しいことでも、喜び勇んで暮される』

と示されたのは、じつに至言であると思ふ。

一点の心燈(シントウ)暗ければ、天地万有一さい暗く、
心天明らけく真如の日月輝くときは、宇宙万有一切清明である。

吾人は平素、心天の光明に照らされ、行くとして歌あらざるはない。

吾人の心魂(シンコン)神恩を謳ふとき、万物みなうたひ、
あたかも天国浄土の思ひに楽しむ。

アヽ「天国は近づけり、悔い改めよ」の聖者の教示、
今さらのごとく、さながら基督(キリスト)の肉身に接侍するがごとく、
崇敬畏愛の念に堪へない。

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何処に行っても楽しみを見つけられる奴というのは得である。

ただ、世の中には、そういうことを極端に嫌う奴がいるから、
そういう奴には、たらしこむつもりで、殊勝ぶることが出来たら、
もう一流の天国人なのかもしれない…

それまでになるには、自分自身にやりたいことが、
一つも無くなっておく必要があるが、
筆者には、まだまだやりたいことがあるから、
ぶつかる前に無能者の如く逃げ去る方が性に合っている。

「霊界物語の掲示板」で行われた様な、
書き込みバトルの様なものは、各々檻に入れられた虎とライオンが、
互いに吠え合っている様なもので、
ある程度安全が確保されているから楽しいのである。

最近は、バトル観戦者の側にまわったから、
そういう楽しみ方を味わっているところでもある。

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 アヽ末世澆季(ゲウキ)の今日、
オレゴン星座より現はれきたるキリストは、
今やいづこに出現せむとするか。

その再誕再臨の聖地は、はたして何処(イヅコ)に定められしぞ。

左右の掌指(シヤウシ)の節々に、釘(クギ)の跡を印(シル)し、
背部にオレゴン星座の移写的(イシヤテキ)印点(インテン)を有して降誕したる
救世主の出現して、衆生に安息を与ふる日は、はたして何れの日ぞ。

金剛石も汚穢(ヲワイ)の身体を有する
蟇蛙(ヒキガヘル)の頭部より出づることあり、
金銀いかに尊貴なりとて、糞尿の植物を肥すに及ばむや。

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これは出口王仁三郎聖師のことである。

筆者の胸には北斗七星のホクロがあるけれど、
それがために救い人になるなどということは考えたことはないが、
珍しいので、話題にして楽しんで頂けたら、
そういう意味で、充分、癒し効果があるのではないか?
という期待はしているのである。

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高山の頂(イタダキ)かならずしも良材なく、渓間低く暗きところ、
かへつて良材を産するものである。

平地軟土に成長したる大樹、またいかに合抱長直なりといへども、
少しの風に撓(タワ)みやすく、折れやすし。

宇宙間の万物一として苦闘によらずして、
尊貴の位置に進むものはない。

しかるに、天地経綸の大司宰たる天職を天地に負へる人間にして、
けつして例外たることを得ない。

アヽ人生における、すべての美(ウル)はしきもの、尊きものは、
千辛万苦、至善のために苦闘して得なくてはならぬと思ふ。

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要するに恵まれた金持ちの家に生まれた者より、
貧困に苦しむような逆境の中で育って来た者の中からの方が、
一大傑物が出来上がる可能性が高い、ということであろう。

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 神諭(シンユ)に曰(イ)ふ、

 『苦労の塊(カタマリ)の花の咲く大本(オホモト)であるぞよ、
  苦労なしには真正(マコト)の花は咲かぬから、
  苦労いたすほど、尊いことはないぞよ云々』

 吾人はこの神諭を拝するごとに、
国祖が永年の御艱苦に省(カヘリ)み、慙愧の情に堪へないのである。

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筆者も、三十代くらいまでは、
苦労を賛美していた記憶があるが、
もうすぐ五十代に手が届こうという年頃になって来ると、
苦労のクの字も見たくない様に思えて来る。

苦労というのは若い頃にしておけば充分だと思う。

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 ここに八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)は、
多年の宿望成就して、天津神(アマツカミ)の命を受け、
盤古大神塩長彦(バンコダイジンシホナガヒコ)を奉じて、
地上神界の総統神と仰ぎ、みづからは八王大神として、
地上の神人を指揮することになつた。

しかるに聖地エルサレムは、
新たに自己の神政を布(シ)くについては、
種々の困難なる事情あるを慮(オモンパカ)り、
常世姫(トコヨヒメ)をして竜宮城の主管者として守らしめ、
聖地を捨て、アーメニヤに神都を遷し、
天下の諸神人(シヨシン)を率ゐて世を治めむとした。

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アーメニヤとは別名エデンとも称される土地柄である。

まあ、ユダヤ・キリスト・イスラム教圏にとって、
これらの土地は聖地として名高いかもしれないが、
筆者は、こんな所に行って席を取り合う様な真似はしたくない。

世界の戦争の噴火口みたいな所であるから、
どちらかというと、こんな所こそ、叩き壊してしまいたい気分だ。

尤も、そんなことをすれば、そこの土地の皆さんに、
恨まれるだけだろうから、
関わり合いにならないのが一番なのだろう…

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一方常世城(トコヨジヤウ)を守れる大鷹別(オホタカワケ)は、
大自在天大国彦(ダイジザイテンオホクニヒコ)を奉じて総統神となし、
アーメニヤの神都にたいして反抗をこころみ、
またもや地上の神界は混乱に混乱をかさね、
邪神の横行はなはだしく、やむを得ず、
諾冊(ナギナミ)二神の自転倒嶋(オノコロジマ)に降りたまひて、
海月(クラゲ)如(ナ)す漂(タダヨ)へる国を修理固成せむとして、
国生(クニウ)み、嶋生(シマウ)み、
神生(カミウ)みの神業(ミワザ)を始めたまひし神代(カミヨ)の物語は、
本巻によつて明らかになることと思ふ。

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つまり、エルサレムとか、エデンを基点にする文明圏とは、
この常世彦等の文化圏であって、ここに天から干渉して来たのが、
イザナギ・イザナミの夫婦神である、ということになるであろう。

国祖の時代が第一期だとすれば、
ナギナミの時代は第二期ということになるかもしれない。

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 神(カム)ながら宇宙の外(ソト)に身をおきて
    日に夜に月(ツキ)ぬ物語する

 王仁は、第一巻において天地剖判(バウハン)の章にいたり、
金や銀の棒が表現して云々と述べたるにたいし、
人を馬鹿にするといつて、
コンナ馬鹿な説は聞くだけの価値なきものだと、
一笑に附して顧(カヘリ)みないのみならず、
他人の研究までも中止せしめむとしてゐる立派な学者があるさうだ。

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金の柱、銀の柱、とあるのが、日本では神のことを一柱とか、
神柱という風に数える様になった原因らしい。

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 神諭(シンユ)にも、

 『図抜(ヅヌ)けた学者でないと、途中の鼻高には、
  神の申すことはお気に入らぬぞよ云々』

と示されてある。宇宙間の森羅万象、一として形体を具ふるもの、
金、銀、銅、鉄等の鉱物を包含せないものはない。

人間をはじめ、動植物といへども、
剛体(ガウタイ)すなはち玉留魂(タマツメムスビ)の守護によらぬはない。

金銀等の金気(キンキ)の大徳によつて現出したる宇宙間の森羅万象は、
悉皆(シツカイ)、鉱物玉留魂の神力(シンリキ)を保持してゐるのであるから、
金の棒や銀の棒から天地万物が発生し凝固したといつたとて、
別に非科学的でも何でもない。

神の言には俗人のごとき七面倒くさきことは仰せられぬ。
すべて抽象的、表徴的で、
一二言にて宇宙の真理を漏(モ)らされるものである。

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だから人間社会では、余計なことを言う正直者は嫌われるのだ。

みんな嘘ばかりで固めて、得をしようとしいるのだから…

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 それで神諭(シンユ)にも、

 『一を聞いて十百を悟る身魂(ミタマ)でないと、
  誠の神の御用は勤まらぬぞよ』

と示されてある。

半可通(ハンカツウ)的学者の鈍才浅智をもつて、
無限絶対無始無終の神界の事柄にたいして喃々(ナンナン)するは、
竿をもつて蒼空(アヲゾラ)の星を
らち落さむとするやうなものである。

洪大無限の神の力に比べては、
虱(シラミ)の眉毛に巣くふ虫、
その虫のまた眉毛に巣くふ虫、
そのまた虫の眉毛に巣くふ虫の放(ヒ)つた糞に生(ワ)いた虫が、
またその放(ヒ)つた糞に生(ワ)いた虫の、
またその虫の放(ヒ)つた糞に生(ワ)いた虫の糞の中の虫よりも、
小さいものである。

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 『一を聞いて十百を悟る身魂(ミタマ)でないと、
  誠の神の御用は勤まらぬぞよ』

というのは、俗社会ではあまり出さない方がよい。

かえって何もわからないバカでいる方が得をするものである。

ただし、神様からメッセージを受け取ろうと思ったら、
このことが簡単に出来ない様では無理である。

この処世術を身につけようと思ったら、
人生経験をたくさん積んでおいた方がよいと思う。

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 ソンナ比較にもならぬ虫の分際として、
洪大無辺の神界の大経綸(ケイリン)が判つてたまるものでない。

それでも人間は万物の長であつて、
天地経綸の司宰者だとは、どこで勘定が合ふであらうか。

されど、神の容器たるべき活動力を有する万物の長たる人間が、
宇宙間に絶無とは神は仰(オホ)せられぬのは、
いはゆる神界にては無形(ムケイ)に視、
無声(ムセイ)に聴き、無算(ムサン)に数へたまふてふ、
道(ミチ)の大原(タイゲン)の聖句によるのであらうと思ふ。

 蚤虱(ノミシラミ)蚊(カ)にもひとしき人の身の
    神の為(ナ)すわざ争(アラソ)ひ得(エ)めや

 大正十一年一月三日、旧十年十二月六日

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仰るとおりでございます!

…と、筆者はただただ頷くのみである。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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