『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

第7章 旭光照波(キヨククワウセウハ) (257)

2010年11月29日 14時59分01秒 | Weblog
霊界物語 第六巻 霊主体従 巳の巻 第一篇 山陰の雪

 鬼大蛇(オニヲロチ)虎狼(トラオホカミ)や曲霊(マガツヒ)の
 醜女探女(シコメサグメ)の訪(オトナ)ひは
 峰(ミネ)の嵐(アラシ)か鬼城山(キジヤウザン)
 落ちゆく滝のナイヤガラ
 水音(ミナオト)高き雄健(ヲタケ)びの
 中(ナカ)に落(オ)ちあふ四柱(ヨハシラ)は
 神の御国(ミクニ)を立てむとて
 鬼(オニ)の棲家(スミカ)を竜館(タツヤカタ)
 荒(アラ)ぶる神の訪(オトナ)ひも
 松吹(マツフ)く風(カゼ)と変(カハ)る世(ヨ)の
 汚れを流す河水(カハミヅ)に
 禊(ミソ)ぐ身魂(ミタマ)ぞうるはしき
 花の顔(カンバセ)月の眉(マユ)
 焦眉(セウビ)の急を救はむと
 神の教(ヲシ)へのいや深き
 谷に落(オ)ちあふ宣伝使(センデンシ)
 右に左に名残(ナゴリ)を惜(ヲ)しみ
 別れの涙拭(ナミダヌグ)ひつつ
 東と西に立雲(タツクモ)の
 雲路(クモヂ)を分けて月照彦(ツキテルヒコ)の
 神の司(ツカサ)や足真彦(ダルマヒコ)
 春立(ハルタ)ち初(ソ)めし春日姫(カスガヒメ)
 木々の梢(コズエ)は青々(アヲアヲ)と
 綻(ホコロ)び初(ソ)めし春姫(ハルヒメ)の
 長閑(ノド)けき胸も夢の間の
 儚(ハカ)なき別れ暁(アカツキ)の
 鐘(カネ)の響(ヒビ)きに撞(ツ)き出され
 歩(アユ)みも慣(ナ)れぬ旅(タビ)の空(ソラ)
 岩根(イハネ)に躓(ツマヅ)き転(マロ)びつつ
 何処(ドコ)をあてとも長(ナガ)の旅(タビ)
 常世(トコヨ)の国(クニ)の常闇(トコヤミ)の
 荒野(アレノ)さまよふ痛(イタ)ましさ
 ここに四人の宣伝使(センデンシ)
 神(カミ)の御言(ミコト)を畏(カシコ)みて
 各(オノ)も各(オノ)もが独(ヒト)り旅(タビ)
 折角遇(セツカクア)ひし四柱(ヨハシラ)の
 厳(イヅ)の司(ツカサ)の生(イ)き別(ワカ)れ
 くつろぐ暇(ヒマ)もナイヤガラ
 滝のごとくに流れ行く
 淋(サビ)しき山野(サンヤ)を辿(タド)りつつ
 心の駒(コマ)ははやれども
 疲(ツカ)れはてたる膝栗毛(ヒザクリゲ)
 歩(アユ)みになやむ姫御前(ヒメゴゼ)の
 心の空(ソラ)はかき曇(クモ)り
 浪風荒(ナミカゼアラ)き現世(ウツシヨ)の
 救(スク)ひの船(フネ)と現(アラ)はれて
 雲(クモ)か霞(カスミ)か春日姫(カスガヒメ)
 花(ハナ)の姿(スガタ)をさらしつつ
 春とはいへどまだ寒き
 霜の晨(アシタ)や雪の空(ソラ)
 月(ツキ)をいただき星(ホシ)を踏(フ)み
 天涯万里(テンガイバンリ)の果(ハテ)しなき
 心淋(ココロサビ)しき独(ヒト)り旅(タビ)
 草(クサ)を褥(シトネ)に木葉(コノハ)を屋根(ヤネ)に
 やうやう浜辺(ハマベ)に着(ツ)きにけり。

 ここに四人の宣伝使がゆくりなくも、
鬼城山(キジヤウザン)の虎穴に入りて目出度く対面を遂げたるは、
全く大神(オホカミ)の経綸(シグミ)の糸に操(アヤツ)られたるなるべし。

四人の神司(カミガミ)は仁慈の鞭をふるひ、
美山彦一派の邪悪を言向(コトム)け和(ヤハ)し、
意気揚々として谷間を下り、
音に名高きナイヤガラの大瀑布(ダイバクフ)に禊(ミソギ)を修し、
ホツと一息つく間もなくなく涙の袖(ソデ)の生別れ、
吾が天職を重んじて、
東西南北に袂(タモト)を別ちたるなり。

すべて大神の宣伝に従事するものはあくまでも同行者あるべからず。
他人を杖(ツエ)につくごときことは、
到底宣伝使の資格無きものなり。

山野河海を跋渉し、
寒さと戦ひ、
飢を忍び、
あらゆる艱難辛苦を嘗(ナ)め、
吾が身魂(ミタマ)を錬磨し、
浮世の困苦を自ら嘗め、
あるひは蛇の室屋(ムロヤ)に、
あるひは蜂の室屋に出入して、
神明の依さしたまへる天職を喜びて尽すべきものなり。

宣伝使に下したまへる裏(ウラ)の神諭(シンユ)にいふ。

『汝(ナンジ)ら神の福音(フクイン)を宣(ノ)べ伝ふ時、
 前途に当つて深き谷間あり。
 後(アト)より、
 虎、
 狼、
 獅子などの猛獣襲ひ来り、
 汝を呑(ノ)まむとすることあるも、
 少しも恐るることなかれ。
 神を力に誠を杖(ツエ)に、
 寄せくる悪魔を言向けやはせ。
 一人の旅とて恐るる勿(ナカ)れ。
 誠の神は誠ある汝を守り、
 汝の背後に付き添ひて太(フト)き功(イサヲ)を立てさせむ。
 厳霊(イヅノミタマ)を元帥に、
 瑞霊(ミヅノミタマ)を指揮官に、
 直日(ナホヒ)の御魂(ミタマ)を楯となし、
 荒魂(アラミタマ)の勇みを揮ひ、
 和魂(ニギミタマ)の親みをもつて、
 大砲小砲(オホヅツコヅツ)となし、
 奇魂(クシミタマ)の覚りと、
 幸魂(サチミタマ)の愛を、
 砲弾または銃丸(ジユウグワン)となし、
 よく忍びよく戦へ。
 神は汝と共にあり』

 神人ここに合一して、
神と人との真釣合(マツリアヒ)、
神の勅(ミコト)を身に受けて、
いよいよ高天原(タカアマハラ)を伊都能売魂(イヅノメミタマ)の神(カミ)の命(ミコト)、
荒磯の浪も鎮まる長閑(ノドカ)さよ。

春日姫(カスガヒメ)は尊き神の守護の下に、
夜に日をつぎて北東へ北東へと進みつつ、
常世国(トコヨノクニ)の東岸に現はれける。

 天青く山清く、
浪静かに紺碧の海面は大小無数の島嶼(タウシヨ)を浮べ、
眼界遠く見わたす東(アヅマ)の海面に、
金色(コンジキ)の一字形(イチジガタ)の光は横に長く靉(タナビ)き、
雲か浪かと疑ふばかり、
その麗しきこと言語の尽す限りにあらず。

ややありて浮び出でたるごとく、
金色の太陽は浪を破り、
雲を排し分け悠々と清き姿を現はしたまひ、
その光は静かなる海面をサーチライトのごとく照破して、
金色の漣(サザナミ)は広き海面に漂(タダヨ)ふ。

こなたを目がけて純白の真帆(マホ)を揚げ、
静かに寄せくる一艘の船あり。

見れば紫の被面布(ヒメンプ)をかけたる宣伝使は、
船の舳(ヘサキ)に直立し、
白扇(ハクセン)を高くさしあげて、
何事か謡(ウタ)ひつつ船は岸辺に刻々と近寄り来たりぬ。

 (大正十一年一月十七日、旧大正十年十二月二十日、加藤明子録)

『音惚花活気好@kakky』的『第7章 旭光照波 (257)』分解(一)

2010年11月29日 14時57分16秒 | Weblog
霊界物語 第六巻 霊主体従 巳の巻 第一篇 山陰の雪

平成二十二(2010)年十一月二十九日 旧十月二十四日(月)

 鬼大蛇(オニヲロチ)虎狼(トラオホカミ)や曲霊(マガツヒ)の
 醜女探女(シコメサグメ)の訪(オトナ)ひは
 峰(ミネ)の嵐(アラシ)か鬼城山(キジヤウザン)
 落ちゆく滝のナイヤガラ
 水音(ミナオト)高き雄健(ヲタケ)びの
 中(ナカ)に落(オ)ちあふ四柱(ヨハシラ)は
 神の御国(ミクニ)を立てむとて
 鬼(オニ)の棲家(スミカ)を竜館(タツヤカタ)
 荒(アラ)ぶる神の訪(オトナ)ひも
 松吹(マツフ)く風(カゼ)と変(カハ)る世(ヨ)の
 汚れを流す河水(カハミヅ)に
 禊(ミソ)ぐ身魂(ミタマ)ぞうるはしき

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「住めば都」とは云うけれども、
「霊界物語」を読んで、いろんな事が判って来ると、
人間が集まる所に出向くのが、
矢鱈怖くてしょうがなくなる時期がある。

それこそ、

「他人を見たら曲津と思え。」

…という様な気分になる方が多いのではなかろうか?

それで木の花姫の命の宣伝神達は、天教山で各自、被面布を頂き、
里の神々の正体が観えない様にして、宣伝をしたわけだが、
吾々、凡夫達は、この被面布を頂いていないのだから、
本当は見えてもいないのに、すれ違う人達全てが、
鬼大蛇、虎狼や、曲霊の醜女探女に見えてしまい、
自分だけは清らかなので、
ちょっと外気に触れただけでも汚れてしまうと、
必要以上にピリピリと神経質になる様な、
そんな気分になってしまう事があると思う。

最近、地下鉄に乗ろうとすると、
通勤時間には女性専用になる車両があるのをよく見かける。

あれなども、筆者としては、ああやって本当は痴漢などする筈もない、
善良な男性達を、欲求不満で無実の男性を痴漢にしてしまう事態から、
保護してあげている様な気がするのである。

勿論、正真正銘、本物の痴漢もいるわけだが、
一度も痴漢被害に遭った事もないストレス満々の女性に巻き込まれ、
無実の男性が痴漢にされてしまう事が絶対にないとは言い切れない気がする。

当然、女性だって九割九分九厘は、
そんな変なヒステリーを持っていないとは思うのだが、
こんな世の中だから、出会う男性の全てが痴漢に見えてしまう女性が、
絶対にいないとは云い切れないと思うのだが、
そういう現象と対比すると、もしかしたら判り易いかもしれない。

正直言って筆者も、若い頃は、
ホモ系の同性に近寄られた事が二~三度あったせいで、
ある時期、知らない男性をまともに見れずに警戒した時期があった。

特に菊門を守るという事ばかりだけでなく、
知らない同性に気安く触られるだけで違和感というか、
恐怖に感じた時期もあったので、
これが女性だったら、もっと酷い警戒心を抱くのだろうな…と、
同情的に且つ妄想チックに想像を逞しくするのだ。

そういうお馬鹿な妄想だけでなく、
若い頃は見知らぬ他人が全て敵に見えたりするわけで、
要するにそれは被害妄想なのだが、
常に目つきが悪くなって、いつ誰に襲われても反撃できる様な、
そういう不要な危機意識でいっぱいになるヤンチャな時期もあると思うので、
そういう事と対比させて想像してみるのもよいかもしれない。

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 花の顔(カンバセ)月の眉(マユ)
 焦眉(セウビ)の急を救はむと
 神の教(ヲシ)へのいや深き
 谷に落(オ)ちあふ宣伝使(センデンシ)
 右に左に名残(ナゴリ)を惜(ヲ)しみ
 別れの涙拭(ナミダヌグ)ひつつ
 東と西に立雲(タツクモ)の
 雲路(クモヂ)を分けて月照彦(ツキテルヒコ)の
 神の司(ツカサ)や足真彦(ダルマヒコ)
 春立(ハルタ)ち初(ソ)めし春日姫(カスガヒメ)

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純粋な志を抱いて、熱心に誠心誠意を尽くして、
世の為人の為の言動を誰彼かまわずしていると、
周囲から敬愛を通り越した感情などを持たれてしまい、
いわゆる恋愛感情的なものではなく、地上天国実現、
ミロクの世の神業という高尚な目的の為の色恋抜きの活動なのだから、
そちら方面に迷わないでほしい…という様な、
やはりモテ過ぎるのも辛い…などという独りよがりな妄想に、
悪酔いしてしまう時期もあると思う。

どんな人間でも、自分はカッコイイ、モテテいる。
…と思えた方が威勢がつくし、実際フットワークも軽くなるので、
こういう事が悪い事だとは筆者もいうつもりはないのだが、
宗教的道徳観としては、それは不謹慎な事の様に思えるわけだ。

筆者も妄想好きの部類であるから、やはり、
自分がチヤホヤされていると勘違いしているだけでも、
悪い気分ではなかったりするということを随分経験したので、
そういう自分を恥じたくないならば、自分は表舞台から退いて、
ただただ「霊界物語」そのものや、王仁三郎文献そのものを、
陳列に並べて、皆様、ご自由にご覧ください。
…と、一筆添えて、あとはほったらかしにしておくのが一番よい。
…という様な気分になるのである。

本当は人づてに、体温を感じながら真理を伝える方がよいのだが、
同性同士ならばまだかろうじてよいけれど、
異性同志の場合は、どうしても色情、恋愛沙汰、遂には妊娠騒動と、
それはそれは大騒ぎになってしまう可能性もあると思うので、
そうなると頭でっかちに真理だけを追求するというのが困難になる筈だ。

こういう葛藤を抜きにして、この地上での天使の活動も有り得ない事だろう…

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 木々の梢(コズエ)は青々(アヲアヲ)と
 綻(ホコロ)び初(ソ)めし春姫(ハルヒメ)の
 長閑(ノド)けき胸も夢の間の
 儚(ハカ)なき別れ暁(アカツキ)の
 鐘(カネ)の響(ヒビ)きに撞(ツ)き出され
 歩(アユ)みも慣(ナ)れぬ旅(タビ)の空(ソラ)
 岩根(イハネ)に躓(ツマヅ)き転(マロ)びつつ
 何処(ドコ)をあてとも長(ナガ)の旅(タビ)

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やれ宣伝神だ、やれ何処そこの高貴な血筋の神々だ…と云ってみても、
権威の外に出て流浪の身ともなれば、だいたいこんなもので、
岩根に躓いて転んだりしながら、心淋しい旅になったりするが、
そんな事を当たり前に感じて暮らしてい名も無い平民凡夫にとっては、
何一つ騒ぐ事もない当たり前の事で、
そんな境遇でも屁をこいて笑ってられる様な逞しさが自然に備わっている。

筆者もバブル崩壊以後、住む家も失い、愛車を移動家屋にして、
ギターと携帯電話を頼りになんとか食いつないだ時期もあったが、
流石にこれら神々の様な、雨や寒さを凌ぐものさえない流浪の旅までは、
まったく経験した事がないので、そんな境遇に放り出されたら、
はたして生きていけるかどうか自信は無いし、例え家を失っても、
愛車という移動家屋が残っていたのは神様の有難い御加護だと強く感じた。

しかもギターを弾いて歌うという芸が残っていたので、
そんな流浪の旅にも威勢をつける事が出来たし、
何よりまだまだ体力と気力が充分に余っていたから、
怖いもの知らず的に誠の神の実在を信じて身を投げ出す勇気もあったが、
頼りの移動家屋だった愛車を車検にも出せずにエンジンが焼きついて、
縁者の援助を受けて廃車費用を借りて廃車処分して、
貧しいながらも住む所が見つかり、態勢を整えつつも、.
その援助の御恩に頭が上がらないみじめな境遇からなんとか抜け出し、
今の様なコジンマリとしてはいても五分の魂くらいは保っていられる所まで、
なんとか這い上がってやってこれただけでも、
これらの神々の苦労に比べれば随分と楽な修行をさせて頂いたなあ…
…としみじみと思えて来て、誠の神様と御縁の皆様への感謝に溢れるばかりだ。

今、筆者は王仁三郎聖師が遺した「皇道経済」の意味を自分なりに理解して、
「みんなしあわせになれプロジェクト日記」時代に発案した
「グローバルメーソン計画」と融合させて、

『世界万民に対して、一人生れると10億円の生涯定期預金を皇道政府から給付し、
 皇道国際銀行で毎月発生する200万円の銀行利息で、
 事業を興し円滑な生活が出来る様にしてしまう。』

…という様な事をツイッターで定期的につぶやいているのだが、
もし資本主義社会でこれまでとんとん拍子でやって来れていたなら、
きっとこんな発想には、思いも至らなかったのだろうな…と、
自分なりに苦労させられて来た事への意味を、自分なりに覚り、
更に出口王仁三郎聖師と誠の神様と御縁の皆様の御加護に対する感謝が、
益々深まるばかりである。

嗚呼、惟神霊幸倍坐世。

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 常世(トコヨ)の国(クニ)の常闇(トコヤミ)の
 荒野(アレノ)さまよふ痛(イタ)ましさ
 ここに四人の宣伝使(センデンシ)
 神(カミ)の御言(ミコト)を畏(カシコ)みて
 各(オノ)も各(オノ)もが独(ヒト)り旅(タビ)
 折角遇(セツカクア)ひし四柱(ヨハシラ)の
 厳(イヅ)の司(ツカサ)の生(イ)き別(ワカ)れ

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この宣伝使の一人旅というのは、どうしようもない定めである様だが、
いつも完全に一人旅というわけではなく、
しばらくは師匠と弟子の様な関係になり、
家族か兄弟の様に仲良く、三蔵法師と孫悟空達の様な旅をする事もある。

旅の途中にお互いに誤解が生じて葛藤したりしながら磨かれて、
やがて各自に自立出来るところまで成長するわけだが、
そういう観方をするならば、実は結婚生活も、就職も、
この宣伝使の旅と根本的には似通った構造を持っているものだと筆者は思うのだ。

先ず親子。

互いに尊敬し合う理想的な親子もあれば、
まったく反対に常に憎しみ合うほどの確執を抱えた地獄的親子もある。

夫婦もまた然りであるわけだが、親子の場合は年功序列的に、
一般的には親の方が先に死んでくれるので、
特に地獄的な関係にある親子の場合は、
その生涯の別れが修行の終わりの様になる。

一方、互いに尊敬し合っていた理想的な親子にしてみれば、
どちらが先に死んでも、生涯の知己を失った悲しみに襲われて、
もうこの世に生きている希望も無いという様な絶望感に、
倒れ伏してしまう場合もあるかもしれない。

そうなると、その死別を境に、
奈落の底に突き落とされた様な地獄を味わう場合もあろう。

繰り返すが、これは夫婦でも同じだし、仲間でもライバルでも同じだと思う。

どんな結びつきでも、肉体を持った関係は、
必ずいつか一人ほっちにされる時が来るわけだ。

「宣伝使は一人旅」

という厳しい決まりがあるのは、
いつでも一人ぼっちで堂々と宣伝活動が出来る様な、
心構えを培っておけば、こういう事態にも、
あまり動揺せずに済む可能性が高くなるからに違いない。

…とはいえ、当の出口王仁三郎聖師は、
地上での唯一の神業理解者であった出口直大本開祖が御昇天された折には、
なりふり構わず泣き叫んだそうである。

この辺のところが出口王仁三郎聖師の人間的魅力なのではなかろうか?
…と筆者には思えるのであるけれども…

正直言って筆者は、そこまでして今生の別れを悲しむほどの神業理解者に、
まだ出会った事が無いので、育ての母が他界した時にも、
茫然として三日三晩寝もせずにいたけれど、まだ一滴も涙をこぼした事がない。

逆に、

「不自由な身体を、やっと脱ぎ捨てて、
 自由の霊魂になる事が出来てよかったな…
 今度生まれて来る時は、もっとよい境遇の所に生まれて来て、
 人並みに、娘らしく、女として生まれた喜びを、
 存分に味わえる様な人生を送っておくれ。
 おかあちゃんの人生は立派だったけれど、
 辛い事ばかりの割に合わん人生だったんだから…」

…という思いの方が強く残っているからだ。

筆者にとっては育ての母にさえ、貧困ゆえの悔しさを感じるのであるから、
そうした悔しさを一切知らずにのほほんと死んで行く皆さんの事を思って、
悲しい別れの涙など一滴も出る道理がないのも無理は無いと、
その事だけでも理解してくれる読者の方がおられたら、
それだけでも筆者にとっては充分に慰めと救いになると感じるのである。

筆者としては世界中に皇道経済が実施されるまでは、とてもとても、
遠慮会釈も無く、なりふりかまわず泣き乱れる様な気分になれないのだ。

出口王仁三郎聖師の様に、
そうした神業を徹底的に理解してくれている真実の知己との別れでもなければ…

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 くつろぐ暇(ヒマ)もナイヤガラ
 滝のごとくに流れ行く
 淋(サビ)しき山野(サンヤ)を辿(タド)りつつ
 心の駒(コマ)ははやれども
 疲(ツカ)れはてたる膝栗毛(ヒザクリゲ)
 歩(アユ)みになやむ姫御前(ヒメゴゼ)の
 心の空(ソラ)はかき曇(クモ)り
 浪風荒(ナミカゼアラ)き現世(ウツシヨ)の
 救(スク)ひの船(フネ)と現(アラ)はれて
 雲(クモ)か霞(カスミ)か春日姫(カスガヒメ)
 花(ハナ)の姿(スガタ)をさらしつつ
 春とはいへどまだ寒き
 霜の晨(アシタ)や雪の空(ソラ)
 月(ツキ)をいただき星(ホシ)を踏(フ)み
 天涯万里(テンガイバンリ)の果(ハテ)しなき
 心淋(ココロサビ)しき独(ヒト)り旅(タビ)
 草(クサ)を褥(シトネ)に木葉(コノハ)を屋根(ヤネ)に
 やうやう浜辺(ハマベ)に着(ツ)きにけり。

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上記の様な筆者であるから、ここでの春日姫の淋しさなど、
なんとも平和な贅沢なものの様で、微笑ましくさえも思えてしまうのだ。

究極、貧苦に悩む世の中が終わり、地上天国が実現すれば、
せいぜいこれくらいの事が悲劇中の悲劇になるのであろう…
…と思えば、彼女と二人で恋愛映画や昼のメロドラマ、
夜のトレンディードラマ、韓流ドラマとかをみて、
デレデレもしていられるに違いない。

恋の痛手に身を焦がし…淋しき流浪の旅に出る。

…なんてロマンチックな事だろう。

または、世界救済の使命を受けて、勇ましく一人旅に出るなんて、
まるで坂本龍馬の脱藩旅行みたいで、なんとも希望に満ちた旅立ちではないか?

花も嵐も踏み越えて、嶮しい孤独の旅もなんのその。

…である。

「みんなしあわせになれ_第三十五回横浜市南区文化祭区民ステージ」


筆者はこの映像での様に、公の場で、
日本古来の言霊思想に基づいた「みんなしあわせになれ」を、
こんなミスボラシイ演出で歌う事が出来るだけでもアドレナリンが噴出するし、

「MAGNUM FORCE(歌詞付き)~ 全世界のTOY GUN 愛好家たちに捧ぐ ~」


この映像の様に、世界中の愛好家の皆さんが愛する玩具のピストルで、
一緒になって優雅に遊んでいられるだけで、
逆に世界平和へのメッセージを発信出来る現代文明の進歩と恩恵に、
酔いしれ、また心を熱くすることが出来るのである。

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『音惚花活気好@kakky』的『第7章 旭光照波 (257)』分解(二)

2010年11月29日 14時18分49秒 | Weblog
 ここに四人の宣伝使がゆくりなくも、
鬼城山(キジヤウザン)の虎穴に入りて目出度く対面を遂げたるは、
全く大神(オホカミ)の経綸(シグミ)の糸に操(アヤツ)られたるなるべし。

四人の神司(カミガミ)は仁慈の鞭をふるひ、
美山彦一派の邪悪を言向(コトム)け和(ヤハ)し、
意気揚々として谷間を下り、
音に名高きナイヤガラの大瀑布(ダイバクフ)に禊(ミソギ)を修し、
ホツと一息つく間もなくなく涙の袖(ソデ)の生別れ、
吾が天職を重んじて、
東西南北に袂(タモト)を別ちたるなり。

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ちょうど今、北朝鮮が韓国領土の島に砲撃をして、
民間人に犠牲が出たのをきっかけに、
日韓米中が政治的な繋がりを再確認して、
東アジアの平和の為に心を一つにせざるを得ない状況に追い込まれ、
そうなれば自然にこの流れにロシアだって同調せざるを得なくなる。

…という事が起きているのと類似した事の様に思うのだが、
はたしてどうだろか?

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すべて大神の宣伝に従事するものはあくまでも同行者あるべからず。
他人を杖(ツエ)につくごときことは、
到底宣伝使の資格無きものなり。

山野河海を跋渉し、
寒さと戦ひ、
飢を忍び、
あらゆる艱難辛苦を嘗(ナ)め、
吾が身魂(ミタマ)を錬磨し、
浮世の困苦を自ら嘗め、
あるひは蛇の室屋(ムロヤ)に、
あるひは蜂の室屋に出入して、
神明の依さしたまへる天職を喜びて尽すべきものなり。

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要するに社会に不安要素が無くなれば、
北朝鮮を鎮める為に手を結んだ各国家も、
そうした不安を忘れて、各国の利益と繁栄だけの事を考えて、
のびのびと独自の幸福を追求する事が出来る様になるわけで、
この文章は、一人旅というものが一見淋しく不幸な事の様に描かれているが、
実は一人旅くらい気楽でのびのびとした自由な天国はないんだよ。
…と教えてくださっている様な気もしないでもない筆者なのである。

そうして傍に理想通りの異性でもいた日には、
食事もトイレも忘れて抱きしめて抱きしめて抱きしめ抜いて…

…という具合に、世間様に何一つ憚る事も無く、
この世の春を満喫出来るわけだ。

宣伝使が勇むのは、この世に、ほんの小さな悲しみがあれば、
月光仮面の様にそこに飛んで行き、その悲しみを慰めて、
笑顔を取り戻させてやりたいという、熱い思いばかりであろう。

それが出来ない時にこそ、宣伝使は自己嫌悪の深い闇に堕ち込み、
苦悩するのであろうから、
そんな宣伝使の一人旅にとって、ただ一つ頼みになるのは、
誠の神様への信仰と、その道を守ろうとする強い意志だけであり、
他にどんな友の慰めがあっても、なかなか救われるものではない。

…という、実をいえば、物凄く贅沢な苦労なのである。

どちらにしてもやってみなければ、
想像だけではなかなか判らない事ではあると思うのだけれども…?

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宣伝使に下したまへる裏(ウラ)の神諭(シンユ)にいふ。

『汝(ナンジ)ら神の福音(フクイン)を宣(ノ)べ伝ふ時、
 前途に当つて深き谷間あり。
 後(アト)より、
 虎、
 狼、
 獅子などの猛獣襲ひ来り、
 汝を呑(ノ)まむとすることあるも、
 少しも恐るることなかれ。
 神を力に誠を杖(ツエ)に、
 寄せくる悪魔を言向けやはせ。
 一人の旅とて恐るる勿(ナカ)れ。
 誠の神は誠ある汝を守り、
 汝の背後に付き添ひて太(フト)き功(イサヲ)を立てさせむ。

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こういう事は、まだ一歩も踏み出していない身魂に対して云う事で、
入社したての社員が先輩や上司から頂く激励の様なものだ。

一歩、危険な社会に放りだされれば、
人の中に眠っていた自己防衛本能がテキパキと動き出し、
野性の勘を発揮して、あらゆる困難をスリルくらいに感じて、
勇んでチャレンジして行く様な情態になって行くものだ。

どんな道でも、はじめの一歩を踏み出せるかどうかにかかっている。

そんな風に筆者は思うのだが、違うだろうか?

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 厳霊(イヅノミタマ)を元帥に、
 瑞霊(ミヅノミタマ)を指揮官に、
 直日(ナホヒ)の御魂(ミタマ)を楯となし、
 荒魂(アラミタマ)の勇みを揮ひ、
 和魂(ニギミタマ)の親みをもつて、
 大砲小砲(オホヅツコヅツ)となし、
 奇魂(クシミタマ)の覚りと、
 幸魂(サチミタマ)の愛を、
 砲弾または銃丸(ジユウグワン)となし、
 よく忍びよく戦へ。
 神は汝と共にあり』

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こういう事も、ただこの字を読んで憧れているだけでは判らないと思う。

やってみてその深い意味も身にしみて来て、
何度もつまづいて立ちあがり乗り越えるうちに、
そりゃそうだ。面白いのう。

…という事になる様な気がするのである。

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 神人ここに合一して、
神と人との真釣合(マツリアヒ)、
神の勅(ミコト)を身に受けて、
いよいよ高天原(タカアマハラ)を伊都能売魂(イヅノメミタマ)の神(カミ)の命(ミコト)、
荒磯の浪も鎮まる長閑(ノドカ)さよ。

春日姫(カスガヒメ)は尊き神の守護の下に、
夜に日をつぎて北東へ北東へと進みつつ、
常世国(トコヨノクニ)の東岸に現はれける。

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筆者はこういう事をホイホイとやっているのが「ルパン三世」とか、
「未来少年コナン」の腕白な登場人物達である様な…
まあ、あれはアニメであるけれど、例えば筆者の、

「おとぼけハリー大作戦 第一話 鉄の城(紙芝居系)Part 1.wmv」


「おとぼけハリー大作戦 第一話 鉄の城(紙芝居系)Part 2.wmv」


「ALL TO A MASH / おとぼけハリー大作戦(紙芝居系)第二話 不思議な女」


の「おとぼけハリー」の様な感じなのではなかろうか?
…と感じるのだ。

ちょっとまだこの頃の「霊界物語」の表現は大袈裟な気がする。

実際、世の中の名も無き人々の中には、
こういう人はたくさん隠れている様にも感じるのである。

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 天青く山清く、
浪静かに紺碧の海面は大小無数の島嶼(タウシヨ)を浮べ、
眼界遠く見わたす東(アヅマ)の海面に、
金色(コンジキ)の一字形(イチジガタ)の光は横に長く靉(タナビ)き、
雲か浪かと疑ふばかり、
その麗しきこと言語の尽す限りにあらず。

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誰もが知っている吾々が住む地上の夕方の空にも、
時々こんな雲が現れる気がする。

それが飛行機雲のなれの果てだったりするとちょっとガッカリだが、
飛行機が無かった昔なら、きっとそんな雄大な景色を眺めて、
心純粋な神々は心を熱くし、勇気を出して一人ぼっちの宣伝の旅に、
自ら拍車をかける事が出来たのに違いない。

まだインターネットを使えなかった頃の筆者も、
よく似たようなロマンに浸った覚えがある。

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ややありて浮び出でたるごとく、
金色の太陽は浪を破り、
雲を排し分け悠々と清き姿を現はしたまひ、
その光は静かなる海面をサーチライトのごとく照破して、
金色の漣(サザナミ)は広き海面に漂(タダヨ)ふ。

こなたを目がけて純白の真帆(マホ)を揚げ、
静かに寄せくる一艘の船あり。

見れば紫の被面布(ヒメンプ)をかけたる宣伝使は、
船の舳(ヘサキ)に直立し、
白扇(ハクセン)を高くさしあげて、
何事か謡(ウタ)ひつつ船は岸辺に刻々と近寄り来たりぬ。

 (大正十一年一月十七日、旧大正十年十二月二十日、加藤明子録)

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ヒーロー登場!

…という感じで、颯爽とした雄姿を想像できる。

「タイタニック」では若い男女が船の舳先に立っていちゃついていたが、
男という奴は、船の舳先に一人でいると、
ついついと恰好つけて立ってみたくなるもので、
たぶんそれは、何も坂本龍馬だから恰好よく見えた。

…というものでもないのかもしれないと筆者は思うのだ。

潮風受けながら男が一人で堂々と構えて立っていれば、
ちょっとやそっとの間抜け面でも、なんだか恰好よく見えて来る。

船というやつは、なんとなくそんな不思議な効果がある乗り物だ。

だからノアの方舟などが、
救いの船に引き合いに出される事が多いのかもしれない。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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