ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

2007年02月26日 17時30分06秒 | 読んだ本
岡崎京子は1996年5月に交通事故にあって、すべての活動を休止した。
これは、その岡崎京子が事故直前まで「PR誌ちくま」に連載してた唯一の物語集
物語集は、短編で、とってもすいすいと読めるけど
すいすいと読みながら、心の中にぐさぐさと棘がたまっていく

岡崎京子の痛さって透明すぎて棘になる

ただ、読み進めてて思ったのは。それは、やはり、1980年代の空気だった
マンガにおいてトコトン深間までいっちまってた彼女だけど
その骨子にあるのは、どうしようもなく1680年代の、あの、「空気」

その空気がなんなのかと問われても、説明は今は不能だ。
もしくは説明しようとすれば、ものすごく長くなってしまう
あの頃。あの時。あのファッション。あの時代的な。。。
バブルなんてものが始まる、多分、少し以前に
一瞬、時代はピンとトンガッタ。

最後の連作的な「チルチルミチル」の冒険譚に、特にその想いは強かった。
うん。敢えて言うなら、橋本治に似てるよ。

ミチルは風に飛ばされて、チルチルは船着場に取り残された。

もしかして、あたしも、あの時代に今も取り残されているんだろうかと、ふと思う。
岡崎京子は時を取り戻してくださるだろうか。。。



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さくらん。。。を、読む

2007年02月24日 19時20分28秒 | 読んだ本
安野モヨコを、読んでこなかった。
存在だけは、とても以前から知っていた。岡崎京子の足をやっていたことも知っていた。
ついでにいえばエヴァンゲリオンの庵野ナニガシの妻であることも知っていた。

だから。。。というわけでもないが。
何が「だから」なのかも分からないが。

とにかく、安野モヨコを避けていた。

椎名林檎が久しぶりに椎名林檎の名前でテーマを歌い
亜米利加が70%は勝った顔のハーフのやんちゃ娘、土屋アンナが花魁をやり
蜷川幸雄の姪だったかなんだったかが監督をやる、その映画の

原作者が、安野モヨコだった。

テレビスポットや映画館の予告を見るたびに、
ど~~~~~見ても西洋顔の勝った土屋アンナが江戸期の花魁をやるということが
己の中で完全に咀嚼しきれず
装丁の美しさに、つい惹かれて買って読んでみたら
あたしの中で、土屋アンナは、漫画「さくらん」の主人公と化した。。。。。。。。。映画「さくらん」のではない、今のところは

女が江戸の禁じられた女の町を描くと、こういう話になるんだなァ。。。
と、ゆうのが。正直な感想だったりはする
しかし、それはありがちな
「売られた悲しみ」とか「女同士の妍の競い合い」
とかというのを越えて。。。
ある意味、女であるから描ける本音のような。。。

ここまで自我のはっきりした江戸の女というのもすごい話だが
案外、女というのは、実は自我の塊でああったろうよ、太古の昔から
それが吉原という町の中では、リアルとなり得る。
目の付け所、確かだと思う。

第一部終わりとあるからには、続編もあるということか。
何かを見切って無理から決着つけた女の、今後の修羅を読みたいと思う

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パレスチナ・ナウ。。。。。。中東の昨日今日明日

2007年02月24日 18時52分03秒 | 読んだ本
我々は、あまりにも「その地域」のことを知らない。
そして、我々は、あまりにも「その国」のことを、その国も歴史のことを、知らない。

今なお、イスラエルとレバノンは戦火の中にあり
事ここに至ってなお、亜米利加はイラク派兵の撤退を決めかね、日本もそれに準じようとする。
すべての火種は、どこにあるのか。
すべては、何から始まったのか。
そして、そこにある者たちは、何故自らの身を挺してまで、無辜の多くの民を巻き添えにしてまで
死をもって抗議するしか術を持たないのか
もしくは死をもって報復の手段とするのか

我々は、あまりにも、すべてに疎い。疎すぎるほどに。

四方田犬彦は中東の大学に自ら籍を置き、その目で、その耳で、
その地域に起きていること。起きてきたこと。起ころうとしている事をとらえる
四方田犬彦という男を、あたしたちは「映画評論家」として認識しており
そして、本著で彼は、映画評論家として、その国の映画を、映画人をあげて
その国の全体像に迫ろうとするかのように思える。

あたしは、この本を主にバスや電車の移動の際に読み進めていた。
そこに書かれた、その国の現実や人々の現実にたまらずふと目をあげると
目の前では観光地に向かう〈というのも、多く嵐山に向かう電車の中で読んでいたからだが〉
ワクワクした亜細亜の老若男女の姿が、常にあった。
それを責めるものではない。
あたしとて、人から見れば平和の中で鼻の下延ばして頬をたるませている
人々の内心にまで、瞬時には立ち入れやしない
しかし、目の前の平和と、書物の中の「その地域」との乖離のありようは。。。
あたしを。。。
群衆の中で居場所のない迷子にさせるに十分だった。
本から目を上げるたび、あたしは「この国」の中で居場所を一瞬見失っていた。

かといって、では、あたしに何が出来るのだろうか。
本を閉じたら、そこには、あたしの日々がある。
誰かが昔、少し流行らせた「終わりなき日常」という言葉そのままの日々が横たわる。
その昔、テルアビブや北朝鮮に旅立った若者たちと、あたしの地平は遠く隔たり
あたしは肉親やえにしの絆でガンジガラメにされてるのをイイコトに、遠い国に対して開きかけた目を再び閉じる。。。

かの国の映画事情を
かの国を遠く離れて、それでもかの国に関わる映画を撮ろうとしている映画人を
そうした映画人に対して複雑な想いを持つ残されたものたちを
我々は。。。少なくとも、あたしは。。。
知らないでいた。

でも。今、あたしは少なくとも、知ってしまった

ずるい言い方をするが。。。
あたしは、この国にとどまる。
とどまって、へばりついて、この沈みかけた国の行く末を見届ける。

しかし、この本を読んで
中東へと旅立ち、その地で何らかのアクションを起こすものがいるならば
あたしは、そのものを非難はしない。多分、どこかで。。。。。。。
祝福する。。。。。。。。。。。。



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