忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

琵琶湖の旅-瀬田の唐橋

2014年01月25日 | 琵琶湖の旅

                 瀬 田 の 唐 橋

日本三古橋の一つに数えられる橋である。
名のとおり瀬田川にかかる橋で、その起源は景行天皇の時代にまで遡るといわ
れる。

   

瀬田川は118もの一級河川が流入する琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。
現在はコンクリート橋であるが、1979年(昭和47年)にかけ替えられるまでは木
橋であった。
現在の橋も昔の姿が生かされており、欄干の擬宝珠はそのまま使われている。
唐橋の名はその擬宝珠の形に因む。

日本三名橋の一つともされており姿はなかな優美である。

  

瀬田川は淀川の滋賀県域での呼び名で、京都府域に入ると宇治川、そして鴨川、
桂川との合流地点から本来の名である淀川と呼称される。
淀川水系の要となる水の供給源である。

大橋、小橋にわかれていて合わせるとかなり長い。

   

大橋の欄干に立ち上流側を見ると北方に比良の峰を望む。

  

京の七口の一つである粟田口と東海道、東山道を結ぶ要の橋で、古くから数々
の合戦の舞台となった。
源平の争乱の時の合戦が良く知られているが、古くは壬申の乱で大伴の皇子と
大海人皇子の戦いの最後の舞台となったのもこの橋であるし、奈良時代の藤原
仲麻呂(恵美押勝)の乱では、近江へ逃れようとする仲麻呂を孝謙天皇軍が先回
りをし、この橋を焼き払ってこれを阻んだ。

  

やむなく仲麻呂は愛発関越えで越前を目ざすが、天皇軍に阻止され、高島郡の
三尾崎に陣をはった。
しかし、衆寡敵せずして敗れ去り、一族もろ共に首を打たれた。

立身栄華を絵で描いたような仲麻呂の59年の生涯は、また「策士策に溺れ、
才子才に倒れる」の喩えどおりの生涯でもあった。

三尾崎は琵琶湖北湖の静かな御崎である。

   


      にほの海や霞みてくるる春の日に
                  渡るも遠し瀬田の唐橋

                                 (藤原為家 新後撰和歌集)


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