忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

北信飯山~正受庵

2012年08月15日 | 歴史を歩く

    北信飯山~正受庵

江戸の至道庵、犬山の輝東庵と並び天下の三庵と呼ばれ、臨済
禅の聖地と崇められた庵が北信飯山の里はずれにある。
江戸時代の禅僧、道鏡慧端が娶らず、貪らず、三衣一鉢、晴耕雨
禅の求禅の生活を送った禅庵である。
慧端は松代城主真田信之が側室に産ませた子で、飯山城主に
預けられて育った。長じて城主に随伴して出府した際、江戸の至
道庵の門を叩いた。
至道無難は大応、大塔、寒山の流を汲む愚堂東寔の嗣法で、破
庵に住し、乞食一飯を糧とし、莚に臥し菰を衾とする純禅の生涯
を送った希な禅僧である。
慧端は至道庵に参禅し、無難から印可を受けたが、江戸に留ま
ることをせず、郷里の飯山に戻って小庵に住し、栄耀を遠ざけ名
利をすて、自ら耕し足らざれば乞食をする一雲水の生涯を送った。
自ら正受と称し、世間から正受老人と敬愛された。

山門の石踏の坂は俗に「白隠蹴落としの坂」と呼ばれている。
白隠慧鶴(臨済宗再興の祖といわれる江戸時代の禅僧)は正受
老人を師と崇めた。

石柱のみの山門を入り、参道の石踏坂を上がると、
右手に茶室と鐘楼がある。

 

そして左手には茅葺きの粗末な小庵が建つ。
これが本堂、つまり正受庵である。
寺の多い飯山でも目立って粗庵である。
本堂は弘化4年の善光寺地震で倒壊し、ほぼ忠実に復元再建さ
れ、昭和、平成にも修復の手が加えられている。

 

再三にわたる城主からの堂塔建立、寺領寄進を断り続け、
その代わりとして拝領したととされる水石が今も境内に置かれて
ある。賽銭箱には真田家の旗印6文銭の紋が印されている。

 

大名の側室の子として生れ落ち、息苦しい身分社会で周囲のそ
ねみ、ねたみに晒されながら育ったその半生を思えば、藩主から
の寄進の申出を固持し貧に徹する、その生き方は、ともすれば、
世すね、ひねくれと受け取られ兼ねないが、そんな俗な心で、こ
の雪深い飯山の破れ庵での死を枕としての乞食生活を全うする
ことはとうてい出来ない。
そこには驀直に見性と向いあう己の魂の内なるすさまじい渇きが
有っての上と理解するほかない。


正受庵はもともと施主、寺領をもたぬ禅修行のための庵であった
ため、慧端の死後は廃れていき、明治初め、一度は廃庵とされた
が、その後、妙心寺の末として再興され、堂塔も次第に整えられ
現在の姿となった。

 

本堂の裏の墓所に慧端(栽松塔)と母の李雪尼が眠る。

 

正受老人の「一日暮らし」の文は有名で、これに感銘を受けた作
家の水上勉は自らも「一日暮らし」なる書を著している(角川書
店ISBN4-04-883450-9 C0095)。
私の座右の書の一つである。

ちなみに、道鏡慧端の遺偈は下のとおりである。

       坐 死
     末 期  一 句
     死 急 難 道   
            言 無 言 言
     不 道 不 道


読み方は様々であろう。


座死するに当たっての末期の一句
死はにわかにして道(い)い難し
言無き言を言とし
道(い)わず道(い)わず


と読んでみた。

 


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