忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

洛北大原-寂光院(2)

2013年02月26日 | 洛北大原

   寂 光 院 (2)

   祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹の花の色
   盛者必衰の理をあらわす
   奢れる者久しからず
   たゞ春の夜の夢の如し
                         (平家物語)

落飾した建禮門院徳子が、寂光院へ入ったのは文治元年(1185
年)9月のことである。


  
 

徳子は院の境内の片隅に方丈の草庵を結び、そこで壇ノ浦に散
った一門の将士の菩提を弔うための念仏の日々で残りの生涯を
終えたと伝えられる。


  


寂光院の境内の傍らにその草庵の跡が遺る。

 
  


徳子に会うため後白河法皇が寂光院へ行幸したのは翌文治2年
のことである。
法皇の輿は大原への近道である若狭路を避け、法住寺殿を出る
と、まず鞍馬へと向かった。
そして山越えで薬王坂を下り、静原から江文峠を越えて大原へ入
った。


  


法皇の輿が若狭路を避けたのは、当時、頼朝が大原の喉首で
ある川尻橋の袂、花尻の森のあたりに建礼門院を監視するため
の兵を常駐させていたからである。


  


奇しくもその場所は、平治元年、平家に破れた源義朝ら一行が
落ち延びる途中、馬睡りした13歳の頼朝が落馬し、父義朝とは
ぐれ、捕らえられた因縁の場所であった。

草庵で墨染の衣を纏う徳子と再会した法皇は、自らが猶子として
入内させ、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んで国母とあがめ
られ、七殿五舎のあまたの黒髪にかしづかれていた、かつての徳
子の、あまりにも変り果てた墨染めの姿に、濡れ止まぬ袖の涙を
絞ったと伝えられる。


壇ノ浦で入水して果てた平資盛のかつての恋人、建礼門院右京
大夫も旧主である建礼門院に逢うため、寂光院を尋ねている。


  

 
見違えるばかりのその姿を見て、右京大夫は、
 「むせぶ涙におぼほれて、すべて言も続けられず…」
と涙し、和歌を詠んだ。

 今や昔 昔や夢とまよはれて
       いかに思へどうつつとぞなき
              (建礼門院右京大夫集)
 

平家物語にある徳子の和歌

 いざさらば涙くらべんほととぎす
        われも憂き世に音をのみぞ鳴く

徳子が寂光院の草庵でその生涯を閉じたのは、建久2年(1191
年)2月中旬であると平家物語は伝える。
しかし、その没年を健保元年(1213年)とする書もある。

その遺骨は建礼門院徳子大原西稜に眠る。


  


稜は寂光院の伽藍を見下ろす焼杉山の麓である。


  


建礼門院と行を共にした阿波内侍、大納言佐局ら5名の侍女の五輪塔は、


   

 
渓流一つを隔てた翠黛山の山懐に、


  


建礼門院徳子稜と谿一つを隔て、向かい合うようにして
祀られている。


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