忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

春を待つ嵯峨野(2)

2012年02月06日 | 京都嵯峨野

春を待つ嵯峨野(2)
(嵐電で行く嵯峨野)

強い寒波で日本列島はさながら冷蔵庫の中である。そこへ厳しい節分寒波が追いうちをかけ、各地で記録的な大雪をもたらした。京都北部にも大雪の警報が出た。
もしかすると雪の嵯峨野を見ることが出来るかも知れない。
そう思って節分の朝、私は京都へと向かった。
前回は渡月橋を渡って南から北へと嵯峨野に入ったが、今回は京都市の中心部から西に向かい嵐電に乗って嵯峨へ入る。
嵐電、正しくは京福電気鉄道嵐山本線は四条大宮から出る。
この電車、市電が廃止された京都では路面を走る唯一の電車となった。四条大宮駅を出て電車が三条通へと入ったあたりから路面を走り出す。やがてまた専用軌道に戻るのだが暫くの間は路面電車の風情が楽しめる。
 
太秦駅を出ると電車は大きなお寺の門の前を通過する。太秦広隆寺である。推古天皇11年(603)に秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊に建立した蜂岡寺が起源とされ、京都最古の寺である。数々の国宝を有する古寺であるが、中でも宝冠弥勒菩薩半伽思惟蔵像(国宝)は有名で、広隆寺の名を知らなくても右手を頬にかすかな微笑みを浮かべながら半伽趺座で思惟する魅惑的な弥勒菩薩像を知らない人はないであろう。
太秦の映画村は広隆寺のすぐ近くである。
ところで、枕草子162段に「野は嵯峨野、さらなり…」とあるが、嵯峨野とはどこからどこまでを指すのか。
日本歴史地名体系第27巻「京都市の地名」(平凡社)によると、嵯峨野とは「東は太秦、西は小倉山、北は上嵯峨の山麓、南は大堰川(桂川)を境とする平坦な野」とあり、他の書物も概ね御室川を境にその西の小倉山に至るまでの広い地域を嵯峨野としているようである。
これによると太秦はもう嵯峨野の中と言うことになる。
しかし、一般には太秦や次回に歩く予定の鳴滝あたりをあえて嵯峨野と認識する人は少ないようだ。
嵐電の終点は嵐山駅。渡月橋を渡って北に延びる嵯峨街道を挟んで天竜寺と斜向かいの辺りに着く。
嵐山駅の一つ手前の駅が嵐電嵯峨で、この駅の北方約250メール程のところにJR山陰本線の嵯峨嵐山駅がある。
 
この嵯峨嵐山駅のすぐ手前にトロッコ電車の嵯峨駅がある。厳冬期の1月、2月は営業運転を止めており、駅は閉鎖されている。
この嵯峨嵐山駅から北西へ約20分ほど歩くと五台山清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ着く。
 
左が仁王門、右が本堂であるが、本堂の左の木立の背後に雪をいただいた愛宕山の姿が確認できるであろうか。愛宕山は京都では比叡山と並び立つ信仰の山で、その標高は大比叡峰り約76メートル高い。
この清涼寺のあった辺りは、かつて源融(みなもとのとおる)の山荘「棲霞観」のあった所と伝えられる。
愛宕山の山麓のこの地に寛和2年(986年)に宋から帰朝した東大寺の僧、奝然(ちょうねん)が、中国の五台山をなぞらえて日本の五大山の建立を思い立ったが果たすことができないまま没し、その弟子の盛算がその遺志を継いで釈迦堂を建立し、ここに奝然が宋から持ち帰った釈迦如来像を安置し、五大山清涼寺とした。嵯峨野の中心部に壮大な伽藍を構える大寺である。本堂奥の庭園は雪が残り中々の趣がある。
庫裡の西半分は写経堂になっており、そこから見渡す庭は枯山水で庭の隅に据えられた手水石の水は氷が張っていた。
 
清涼寺を出て、宝筐院へと足を運んだが、残念ながら閉門されていて中へは入れなかった。
宝筐院は白河天皇が建立した寺といわれ、美しい枯山水の庭園がある。
 
平日で気象条件が悪いため門を閉ざしている寺は他にもあり、写真の右は壇林寺で、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(壇林皇后)が建立したという有名な尼寺(門跡寺院)であるが、やはり門が閉ざされていて入れなかった。
そこで、前回は時間の都合で寄れなかった滝口寺へ寄ることにした。妓王寺の脇の石段をさらに登るとその奥にひっそりとあるのがその寺である。
 
 
この地は、かつて往生院のあった所で、今は前回立ち寄った妓王寺と、この滝口寺だけがその跡地に残る。
滝口入道は小松大納言平重盛に仕えていた斉藤時頼という滝口の侍で、ある時、建礼門院の雑司女をしていた横笛を見染め、二人は愛し合ったが、これを知った父の茂頼から「…由なき者を思いそめて…」と強く叱責され、時頼は「…浮き世をいとい、眞の道に入りなん…」と19歳で髪を切って嵯峨の往生院で出家した。それを知った横笛は「…我をこそ捨てめ、様をこそ変えけん事の恨めしさよ…」と、出家した時頼に一目会って恨み事の一つも言いたいと尋ねて行ったが時頼は会わなかったという。
横笛もその後髪を下ろし、それを知った時頼こと、滝口入道は、
   そるまでは恨みしかども梓弓まことの道に入るぞうれしき
と詠んで送り、横笛は、 
      そるとても何か恨みん梓弓ひきとどむべき心ならねば
と返歌したという。
平家物語巻十「横笛の事」に出てくる物語である。高山樗牛の作品で名を知る人も多いだろう。
雪を踏みしめてお堂の周りを巡ってみたが、明治に入ってからの再建という割にはもう朽ち始めてきている。堂内の正面には滝口入道と横笛の木造が安置されている。
滝口寺を出てさらに北に歩く。道路の筋交いにある八体の地蔵に出会う。
         
これより西に歩くと、そこはもう鳥居本である。
先ずは化野(あだしの)念仏寺へ寄る。
 
  
徒然草の第七段に「あだしのの露消ゆる時なく、鳥辺野の煙たち去らでみ住みはつるならひならでは…」とあるように、化野(あだしの)は東の鳥辺野、さらに北の蓮台野と併せて平安京の三大風葬の地、つまり死体捨て場であった土地である。
鳥辺野、蓮台野がそうであるように、どの範囲の土地が化野と呼ばれた地であったのかは定かではない。
境内にはこの地で眠っていた無数の石塔や石仏類がが集められ供養されているが、石塔もなければ石仏に加護されることもなく、牛馬六畜と同じようにただ野ざらしとされ、鳥や獣の餌に供された無縁の骸の数はそれこそ浜の砂の数にも喩えられるであろう。
化野念仏寺を出てさらに西へと歩く。
このあたりは「嵯峨鳥居本伝統的建造物保存地区」に指定されていて、古い町並みが良く保存されている。昔ながらの構えの料理茶屋があるかと思うと、色鮮やかな趣味の小物を並べた店などがあり、昔と現在が不思議な調和で解け合う、そこはかとなくゆかしさを覚える町並である。
 
軒並が途切れたところに愛宕神社の一の鳥居がある。
         
愛宕神社への参道の入り口である。愛宕神社は愛宕山の頂にあり、また清滝から高雄まで歩くにしても、かなりの道のりで、ぶらりの旅のついでにちょいと、という訳にはいかない。
そこで今日の旅はここまでとした。