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河川の「落語:壺算」的考察

2006-08-12 19:54:50 | 旅・鉄道・グルメ…

 

河川の「落語:壺算」的考察  

 本日のお話は、‘ややこしい’。気がオカシクなること請け合い。暑さが倍加することも間違いなし。だから、そのような目に遭いたくない方は、お読みならない方が無難です。老爺心ながら申し添えます。

 落語に「おまえさん・・と云っても、これは‘ワタシのお前さん’だよ、‘ワタシのお前さん’が、‘お前のお前さん’に・・」ってワケが分からなくなる条がある。確か「壺算の冒頭だったかと思う。 注:壺算参照

 これは落語の世界だけでなく、現実にも存在する。河川の名称がそうなのだ。一例を示すと・・

①「隅田川と云っても、これは荒川なのだ・・と云っても、本当は入間川なのだ。この入間川の荒川の隅田川は、大川であり宮戸川なのだ」ということになる。

 未だある…

②「江戸川と云っても、これは神田川の江戸川ではなく、利根川の江戸川なのだ…と云っても、本当は渡良瀬川なのだ。この渡良瀬川の利根川の、神田川の江戸川ではない江戸川は…」と、サッパリ意味が通じなくなってしまう。 


 しかし、①も②もギャグではなく、全部事実河川史そのものなのだ。説明は面倒だから省略させていただく。原因は、河川が人工的要因或いは自然の力で、頻繁に流路を変えたことにある。        

     


隅田川の歴史

 水神大橋から東京湾側は緩いカーブ で東京湾(中央区)に流れを注ぐが、北側の上流部は 大きく蛇行しており、この川も かつては広い河原を持つ 大きな川だったと思われます。
 実は 江戸時代より前は、ここは 利根川だった。 隅田川は 利根川の下流 ということを知っていましたか?

 ↑ 昔の隅田川の流れ(クリックすると拡大します)

 現在 利根川は、 関東平野を西から東に流れて、銚子で直接太平洋(鹿島灘)に流れ出ているが、徳川家康が江戸にやってきた頃の利根川は 途中から南に流れ、現在の隅田川のルートを通って 東京湾に注いでいました。家康の江戸入府(1590)から 60年以上かけて, いわゆる「利根川東遷」の大工事を行い, 4代将軍家綱の時代になって ようやく現在のような 利根川・荒川・隅田川の形が完成しました。

 この大規模な河川工事は、江戸を利根川の水害から守り、 関東南部に新田を開発し、更には 外洋を通らない舟運を内陸に確保して 東北と関東との交通・輸送の体系を整えることにあったという。

 江戸時代以前の隅田川は 利根川の下流だった。 「利根川東遷」の大事業が行われ、利根川が向きを変え太平洋に直接流れるようになった後は、隅田川は 元荒川や綾瀬川の水を集めて「荒川」 と呼ばれるようになった。
 それなら 現在 荒川 と呼ばれている川はどうだったかと言うと,、「現在の荒川は 当時は存在しなかった」のです。現在の荒川は ご存知のように、大正~昭和にかけて 人工的に開削された川です。

 荒川は明治43年 関東南部の大雨によって 大洪水が発生し、 隅田川とその上流は 数十ヵ所で堤防が決壊し、東京の下町の大半が水没するという 莫大な被害をもたらした。 (人口の少なかった当時、150万人が被災した。 )

 この反省から 隅田川の東側に 新しい川を掘ることが計画され、 20年の歳月をかけて 昭和6年に 新荒川が完成し、「荒川放水路」と呼ばれ・・・昭和43年に河川法が改正され「荒川」の名称で流域の人々に親しまれ 憩い場となっています。

 お年寄りには、未だに浅草辺りの隅田川を「荒川」と呼ぶ方がいる。大正の末期までは、荒川だったからだ(河川ではないが、上方の年輩者が、阪急・京都線を未だに「
京阪」と呼ぶのと似ている)。

 河川は複雑だ。荒川、元荒川、荒川放水路。利根川、綾瀬川、古利根川、古綾瀬川。江戸川、旧江戸川、さらに江戸川放水路。中川、旧中川、新中川・・・

 いかがですか? 読まない方が、ヨカッタでしょう? だから、ヨマナイホウガイイトイッタンダ・・・

06.08.13

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