2007年3月号(通巻423号):この人に



斉藤とも子さん(女優)

インタビュー・執筆
編集委員 大道寺峰子


——斉藤さんといえば、学園ドラマの優等生役の印象が強いのですが、ご自身は当時、それがとても嫌だったそうですね。

 そもそも私が女優を目指したのは、小学6年で母をがんで亡くし、同じような境遇のドラマに励まされたのがきっかけでした。
 でも、高校生で芸能界に入って、運よく仕事に恵まれたものの、忙しくて自分自身がすり減っていくような毎日。しかも、人からは演じた役のイメージで見られて、本当の自分とのギャップに悩みました。「優等生」というレッテルへの抵抗もあったのですが、女優をするのに、なぜ勉強しないといけないのかわからなかったので、高校を中退しました。

——その後、結婚、子育てなどを経験され、なぜ改めて大学で学び直そうと思われたのですか?

 95年、結婚して神戸に住んでいた時、阪神大震災を経験しました。私も家族も、大きな被害はなかったのですが、生まれ育った神戸の変わりようにとてもショックを受けました。
 たまたまその直後に、「タイランド・陽光の子供たち」というドキュメンタリー番組の仕事で、タイのスラムで生活する人びとや山岳民族を訪ねることになりました。経済的には貧しいけれど、懸命に生きている彼らの生活を見て、自分は何のために生きているのか考えさせられました。私は何をやってきたのだろうと。
 そんな壁にぶつかったとき気づいたのが、芸能界というある意味、特殊な世界で生きてきたことで、いろんなことを経験してこなかった自分の存在でした。
 何かを学びなおしたいと思って、女性の職業に関する本などを読んでいるうち、社会福祉士の仕事に興味を持ちました。私は母を亡くしてから、友達のお母さんにお弁当を作ってもらったり、いろいろ助けられました。仕事をはじめてからも、巡業先で出会ったおじいちゃんやおばあちゃんたちに大変お世話になりました。そんなこともあり、社会福祉士なら自分が助けてもらったことを返していけるかもしれないと思ったのです。

——そして、大学入学直後にもう一つ大きな転機があったそうですね。

 やっと大学の入学が決まった矢先に、井上ひさし先生の戯曲「父と暮せば」で、被爆した娘役のお話をいただきました。学業を優先するつもりでしたが、以前この舞台を見て深く印象に残ったこともあり、「この仕事だけはやりたい」と思いました。この役を通して何か大切なものが得られる、という直感のようなものがあったのです。
 とはいえ、原爆について無知の自分にそんな役が演じられるのかという不安もあり、せめて広島という街の空気を肌で感じてみようと、広島へ向かいました。そして、ふと入ったお好み焼き屋で声をかけられたのが、4歳で被爆し孤児になったという女性でした。とても苦労されたはずなのに、「こんな明るい被爆者もおるんよ」と笑うようなおばちゃん。被爆者というと、何となく暗くて、重いイメージを描いていた私は、正直、「こんなふうにも生きられるんだ」と驚きました。
 さらに、18歳で被爆した女性のお話もうかがうことができました。その方は、被爆した日の夕方、焼けただれた親友を看取られたのです。すでに70歳を超え、色白で柔和な雰囲気をたたえたその方は「原爆のことは思い出しとうないから、話したこともないんよ。もう50年以上も前のことじゃから、覚えとるかどうか…」と言いながら、ぽつぽつとかみ締めるように語って下さいました。その情景があまりにも鮮明で、それをとどめておられた心の傷の深さを思いました。
 そして、「原爆で死んだ人たちのことを思うとどんな苦労も苦労とは言えない」という優しさ、たくましさ……。こうして、実際に50年あまりを生き抜いた人に出会えたおかげで、被爆者を演じる勇気をもらいました。

——その後も広島に通い、彼女たちと交流を重ねたそうですね。

 先ほども話しましたが、私は大学へ入る前、33歳にして生きていくことへの不安を感じていました。だから、どうしたら彼女たちのように人生を生き抜いていけるのか、私自身とても知りたかったんです。
 最終的に彼女たちの話を「被爆、そして生きる〜被爆を乗り越えた女性たちの生活史」という卒論にまとめました。でも、彼女たちの人生に深く立ち入ることになり、「私がこんなことやっていいのか」と悩んだこともありました。その後、私は大学院に進学。同じゼミの先輩に、医療ソーシャルワーカーとして広島で被爆者の相談活動を続けてこられた村上須賀子さん(現在は県立広島大学教授)を紹介されました。この村上さんとの出会いが、原爆小頭症患者の親子の会「きのこ会」との出会いにつながっていくのですが、神様が「もう少し広島のことをやっていいよ」と言ってくれているように思えました。

——いわゆる社会福祉ということから考えると、原爆、被爆者というテーマはやや違和感がありますが……。

 卒論のテーマとしてはどうかとおっしゃる先生もいましたが、最終的に私の恩師、大友信勝教授(現在は龍谷大学教授)が「平和は福祉に欠かせない、とても重要なこと」と背中を押してくださいました。
 大学での学びと、被爆者の方がたとの出会いを通じ、平和とは、戦争がない状態だけを指すのではないと思うようになりました。世の中って人と人、それに政治、経済、自然、科学…いろんなことが絡み合って、つながっている。でも、どうしても、社会のシステムからはじきだされてしまう人も出てくる。そういう人たちに出会い、何か感じた時、社会福祉うんぬんという前に、まず人としてどう動くかが大切だと思います。
 村上さんに出会った時、手渡されたのが「ヒロシマから、ヒロシマへ」という、きのこ会を設立当初から支援し続けた大牟田稔さんの遺稿集でした。その本を読んで、人と人との支え合う姿に、心を動かされました。
 もう1人、元中国放送の記者で、初めて原爆小頭症の問題を取材した秋信利彦さんという方がいらしゃるのですが、ある母親に「あなた方は本を出してしまえば、それで終わりでしょう。しかし、わたしたち親子は、これからは世間の目にさらされて生き続けなければならないのです。その責任はどうしてくれるんですか」と言われたそうです。そして、秋信さんが相談した女性作家、山代巴さんは「まず集まることよ」と言います。それをきっかけに、被爆から20年もの間、「自分だけの苦しみ」と人目を忍んで生きてきた人たちが、初めて共に集い、つながり、きのこ会が生まれたのです。
 きのこ会を支えた大牟田さんも、秋信さんもジャーナリストで、福祉の専門家ではありませんが、まさに社会福祉士のような役割を果たしておられました。原爆小頭症という重い事実ですが、きのこ会を支えた人たちはみんな役職を超え、1人の人間として行動されていました。

——「意識を持って自分自身をみつめること。同じ想いで、自分以外の人をみつめること。そこからきっと、なにかが生まれる。(中略)人と人とが、どこで、どう出会うかは、誰にもわからない。だが、人が窮地に立たされた時、救いとなるのは人との出会いしかないのではないか」。斉藤さんが本のエピローグで書かれていた言葉が胸にしみます。

 私はきのこ会とそれを支えた人たちのことを初めて知った時、今の世の中にこういう尊い人がいることに衝撃を受けました。亡くなられてしまった方も多かったのですが、お会いする機会が残されている方には、とにかく「会いたい」と思った。でも、すぐにお会いできたわけではなく、村上さんの仲立ちによって、自分の思いを手紙に書き、電話をかけ、ようやくのことでした。
 実際にお会いできて思うのは、生きる意味を失いかけていた私自身が救われたということ。原爆小頭症の弟を、母代わりになって育て上げたお姉さんに「軽やかな頭で生きにゃいけんよ」と言われたことがあるのですが、壮絶なご苦労や差別を経た末のお言葉だけに、その重みと愛を感じます。そのまんまの自分で飛び込んでいくと、しっかりと受けとめてくださる方たちです。私は、私の人生をあきらめずに生ききることでしか、話を聴かせてくれた人に返すことができません。
 あきらめないことはとても大切だと思います。自分1人が動いたって何も変わらないと思うのではなく、小さな1歩でいいから動くこと。今日はだめでも明日がある。自分の力を信じて行動に移さない限り、何も始まりません。でも、あきらめないことと固執とは違う。目標を持って、やれるところまでやりきったら、たとえそのことがうまくいかなかったとしても、必ず新しい道が開けると思うのです。
 世の中に起きてることを、他人ごとと思うとそこで終わっちゃうけど、実は全部つながっていて、自分とも深くかかわっている。私は大学での学びや、人との出会いによって、そのことを教わりました。机の上だけの勉強が学びではなく、日常のどんなことからも学べることも実感しました。
 女優という仕事に対しても、以前はいつも自信がなくておびえていたのですが、自分の世界が広がったことで、演じることの深さと楽しさを感じられるようになりました。
 結局は、どう生きたいのか、自分の思い方が大切なのだと思います。私自身のために、被爆者の方たちとも、きのこ会とも、これからもずっとかかわり続けていきたい。ようやく、自分が捨てたものではないと思えてきました。


* 原爆小頭症は、母親の胎内で被爆したために、知的障害と発育障害を伴った原爆後障害。脳が作られる妊娠早期(2〜4カ月)の近距離被爆に多くみられた。特徴として、出生時から頭囲が小さいことから名づけられた。貧血やてんかん、骨や皮膚の腫瘍などの病気を抱えていることも多い。ただ、障害の程度は人によってかなり違い、ひとまとめに語れない。厚生労働省は「近距離早期胎内被爆症候群」として認定している。

●プロフィール●
1961年神戸市生まれ。76年にNHKドラマ「明日への追跡」で女優デビュー。その後、ドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」「それゆけ!レッドビッキーズ」や、映画「ひめゆりの塔」などに出演した。2児の子育てをしながら、34歳で大学入試資格検定に合格。3浪の末、99年に東洋大学社会学部社会福祉学科に入学した。03年に社会福祉士の資格を取得し、東洋大学大学院にも進学。修士論文をもとに『きのこ雲の下から、明日へ』を、60年目の終戦記念日だった05年8月15日に出版した。この本は日本ジャーナリスト会議市民メディア賞、第11回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞した。

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コメント
 
 
 
これがやさしさなんだな。 (koba)
2010-06-29 23:26:57
この記事を読むまで、「青春ど真ん中!」の宮本さんのイメージが強かったが、現在の斎藤さんを垣間見る記事を読んでますます好きになりました。
 しかし自分の目標のために大検→ 大学→大学院簡単にはできないことだと思いました。
 
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