■ 自分自身が楽しんでいないことは教えられない
お客様に伝えるヨガ・・・最近ふと、私はお客様に何を伝えたらいいか考えて悩んでしまいます。
痩せたい、肩こりを治したい、腰痛をよくしたい、キレイになりたい・・・ 正直、私それらみんな興味がないんです・・・(ゴメン!)
まったく興味がないかというとウソですが、正直にいうと、全然切実な問題じゃないんです。
うーん、そういう問題をクリアしてしまったとはいえませんが、肩は使えば凝るのが当然だし、筋肉痛は酷使の証。
当然。
だから、凝ったらほぐせばいいや、というくらいのことなんですね。
■ あなたはあなたのままでいい
キレイを目指すってのも・・・うーん。 そもそも、女の人ってみんな何もしなくても何かしらキレイですよね?
私は特別キレイでもないし、特別痩せてもおらず、お腹の肉はいまだにプリンとしていますし(^^;)、肩こりや腰痛とこれから先、一生無縁っていう自信はないし・・・ 誰かが目標にしてくれるようなものは何も持ち合わせていないのですが・・・(笑)
先生になる人は美しくなければならないという強迫観念がありますが、美しく鍛えられた肢体とか、健康って、目指して手に入れるものではなく、アーサナを含めたヨガを積み重ねた結果に過ぎません。
誰か目標にするという心理構造では、イントラではなくて、アイドルです。 偶像崇拝に近いものになってしまいます。
先生というのは、別にアサナが特別出来たり、人より美しかったりしなくて良いと思うのですよね。もちろん、教えるからには知識は確かでないといけないとおもいますけれど・・・。
■ 私のバレエ=動的瞑想
じゃ、私は何のためにヨガをやっているのでしょう?
ヨガというかバレエですが、運動を始めた動機は、やっぱり運動不足の解消でした。
でも、バレエをやっていく中で、そんなことはどうでも良くなり・・・(笑)バレエそのもののおもしろさにのめり込み・・・
まるで推理小説でも読んでいるかのように、本を読むようにおもしろかったのです。
そう私はただバレエそのものが好きで、バーこそが私が存在すべき場所(笑)というくらいに感じていたのです(笑)!!
今レッスン曲をかけながら書いているのですが、曲が聞こえた途端、立ち上がってカンブレしてしまいました・・・(汗)。ああ、バレエっていいですね。
バレエの何がそんなにも私をひきつけるのか?
私は、バレエをしていく中でいつしかレッスン曲にあわせて、動的瞑想をするようになってしまったのです。
バレエは決まりばっかり。その決まりの中で自己の静けさに挑戦する、という自分の中での戦いに私は挑んでいて、
そして・・・、中毒になっていたのでした。瞑想は中毒性がありますね(笑)。
最近はバレエをやっていません。私はバレエを捨ててしまったのか?
うーん、そうではないんです、多分。 いつかバレエにも回帰すると思います。でも、今バレエじゃない。
ヨガを放置してバレエに戻れない。
そんなことを考えていたせいか、自分のために出たレッスンで、先生が瞑想セッションをやってくれました。
シャバーサナでの深い瞑想。 まるで心を見透かされているようです。
私はバレエの場合も、一人の先生につく、というより、数多くのバレエの先生達に習ってきました。バレエの先生たちとは、どのレッスンに出ても、学ぶことがあり、先生との特別な絆が築けていると感じてきました。
しかし、ヨガの先生とはバレエの先生との間で感じる絆がないんですよね。 先生達はヨガの何がおもしろいんだろう?
私は今まで習ってきたヨガの先生達からヨガのおもしろさをまだ伝授されていないのかもしれません・・・???
■ ダーラナ?
バレエの漫画のセリフですが(^^;)、「空美ちゃんの中には空美ちゃんしかいない!」というのがありました。
そういう状況に入るのがバレエでは重要です。入っていないと何というか”板につかない”。
(断っておきますが、バレエは大人の初心者で、上級者ではありません。ピルエット3回とか出来ませんから~!)
集中。そしてカラダからのフィードバックを受け取る。集中のことをヨガではダーラナと言います。 バレエは集中しつつ意識を拡大化させる感じがありますよね。特にバーや、難しい技の場合。
バレエのレッスンの中には、このニュアンスをやらせたいからこの足の組み合わせ(コンビネーション)にした、というのがあります。
例えば、分かりやすいのでいくと、フォンデュ。ふわりととろける様な動き。それは、筋肉の伸びで表現できるのですが同じ動かすでもピキー!と行ってしまったら、もうフォンデュではない。そのとろける表現、ニュアンスってのがミソなのですが、
そのミソのところが筋肉的な事情ではどうやったら実現するか?というと、足を回旋しながら上から下に向かって伸ばしていくとできるわけです。で、回っているかどうかは見た目には分かりません(見る人が見れば分かる)。個人の内的な問いかけと筋肉からのフィードバッグでやる。
この”モード”に入る。それがおもしろかったんですよね。
昔から、瞑想は私にはとってもおもしろいのです。それは私が現れたイメージを楽しむからです。
子供の頃、朝起きる時、一度起きて、また目を閉じて、寝てもいないけれど、起きてもいない、という状態に入るのが好きでした。 すごくおもしろい夢を見るからです。 失敗して寝ちゃうこともあるんですけど・・・。
瞑想していると様々なイメージが浮かびます。 それを私は「面白いなぁ・・・」と思いながら見るのが好きなんですね。
■ アサナをすることとヨガをすることは違う
私は、別に難しいアサナをマスターしたいわけでもないし、ヘッドスタンドできなくても、肩立ちで十分効果があるといわれれば、じゃあ肩立ちでいいんじゃないか?とおもったりします(笑)
アサナはあくまでも手段であって目的でない。 何かを目指して頑張るという次元には今私はいないのだ、と思います。
難しいアサナができるほうが人間として優れているわけではなく(例えば勉強ができるからって人格が優れているわけではないでしょう)、ヨガの8つのステップ(八支則)と言われるステップの上にいるわけではありません。
ヨガの目標であるサマーディには、アサナだけやっていても決して近づけません。
結局のところ、悟る(サマーディ)というのはどういうことなのか? それはおそらく、今の自分の肉体も心も味わい尽くしている、ということかなぁと最近思います。 自分自身を愛さないで一体誰が愛せるでしょう???
じゃアサナ・・・うーん。私はアサナの何がおもしろいのかしら? 私はヨガはおもしろいのですが、アサナ単体のおもしろさには別に目覚めていないかもしれません。 基本的なアサナはとてもカンタンなものばかりなので・・・。
■ 疲れないカラダを手に入れたい
なんで私がヨガをしているかというと、ブログを書き続けたいからです(笑) だって一日座っているとカラダが凝るんです。
私はずっとヨーガスートラとか読んでいたいから、アサナやっているのです(汗)
これじゃだめ(笑)?
実は、そもそも、アサナはどういう理由で生まれたかというと、実はむかーしむかーしのインドの修行僧がずっと座禅を組んでいたい、けれどずっと組むにはカラダが凝って仕方がない、なんとかできないか?ということで始まったのです。
だから、24時間働けますか?な企業戦士と発想は同じです。ただ、たどり着いたのが、現代では栄養ドリンクですが、古代インドでは、アサナと節食だったのです。
疲れないカラダが欲しい現代人はアサナをやってみるのは栄養ドリンクより良いですよ。
■ 完全な健康はない
実はずっとアトピー持ちなのですが、真剣に治したいってのがなくて、ずーっと付き合っています。
というのも、アトピーって生死に関わる病気じゃないんです。たしかに肌は痛々しい時もありますけど、基本的に死なないし、アトピーが出るっていうのも、実は”生きている証”ですよね。
私としてはアトピーとはうまく付き合えているので、特に根治療法をしようという気がないんですよね。
先日通りがかりのおばちゃんが色々とアトピーのアドバイスくれましたが、治さなきゃいけない!という脅迫観念がないので、”・・・”(笑)。もうすっかり色々試した後だし。おばちゃんの気持ちはありがたいのですが。
ヨガの肩こりが治るポーズとか、私も聞かれるので教えますけど、アトピーアドバイスと似ているものかもしれません・・・。
■ カラダに感謝を!
肩こりのないカラダ、腰痛のないカラダ、痩せたい部分がないカラダ、老いないカラダ、一切の不健康がないカラダ・・・
これは現代版青い鳥ではないかと思うのです。
求めても得られないもの、という意味で。また、既に持っているものという意味でも。
多分、人々が思い描いているような”完全なる健康”というのはどこにもないのです。
多分健康というのは、病気でないという否定形によって定義されるものなのです。
それより、何より、もっと重要なのは、カラダがあるから、どこかが凝るのであり、カラダあるから、アトピーにもなるということです。
カラダに感謝を!
ありもしない”肩こりという欠陥”を”解決”するより、使えば凝るという体の仕組みを受け入れて、ちゃんとカラダをメンテしながら使う。
カラダというのは使えば凝るのが当然だと受け入れて、”カラダ操縦法”を学ぶほうが、ここがダメ、あそこがダメとダメを数えて減点法で自分の体を評価するより建設的です。
パソコンするなら、たまにダウンドッグしてヨガする。 長時間フライトで倦怠感に満たされているなら、太陽礼拝でシャキッとする。 風邪を引いたら、体内から熱を作る。 寒いなら呼吸法でカラダを温める。暑いなら冷やす。
よく考えたら普通のことですよね。 カラダ操縦法としてのヨガ・・・じゃじゃ馬慣らし、に似ています(笑)
お客様に伝えるヨガ・・・最近ふと、私はお客様に何を伝えたらいいか考えて悩んでしまいます。
痩せたい、肩こりを治したい、腰痛をよくしたい、キレイになりたい・・・ 正直、私それらみんな興味がないんです・・・(ゴメン!)
まったく興味がないかというとウソですが、正直にいうと、全然切実な問題じゃないんです。
うーん、そういう問題をクリアしてしまったとはいえませんが、肩は使えば凝るのが当然だし、筋肉痛は酷使の証。
当然。
だから、凝ったらほぐせばいいや、というくらいのことなんですね。
■ あなたはあなたのままでいい
キレイを目指すってのも・・・うーん。 そもそも、女の人ってみんな何もしなくても何かしらキレイですよね?
私は特別キレイでもないし、特別痩せてもおらず、お腹の肉はいまだにプリンとしていますし(^^;)、肩こりや腰痛とこれから先、一生無縁っていう自信はないし・・・ 誰かが目標にしてくれるようなものは何も持ち合わせていないのですが・・・(笑)
先生になる人は美しくなければならないという強迫観念がありますが、美しく鍛えられた肢体とか、健康って、目指して手に入れるものではなく、アーサナを含めたヨガを積み重ねた結果に過ぎません。
誰か目標にするという心理構造では、イントラではなくて、アイドルです。 偶像崇拝に近いものになってしまいます。
先生というのは、別にアサナが特別出来たり、人より美しかったりしなくて良いと思うのですよね。もちろん、教えるからには知識は確かでないといけないとおもいますけれど・・・。
■ 私のバレエ=動的瞑想
じゃ、私は何のためにヨガをやっているのでしょう?
ヨガというかバレエですが、運動を始めた動機は、やっぱり運動不足の解消でした。
でも、バレエをやっていく中で、そんなことはどうでも良くなり・・・(笑)バレエそのもののおもしろさにのめり込み・・・
まるで推理小説でも読んでいるかのように、本を読むようにおもしろかったのです。
そう私はただバレエそのものが好きで、バーこそが私が存在すべき場所(笑)というくらいに感じていたのです(笑)!!
今レッスン曲をかけながら書いているのですが、曲が聞こえた途端、立ち上がってカンブレしてしまいました・・・(汗)。ああ、バレエっていいですね。
バレエの何がそんなにも私をひきつけるのか?
私は、バレエをしていく中でいつしかレッスン曲にあわせて、動的瞑想をするようになってしまったのです。
バレエは決まりばっかり。その決まりの中で自己の静けさに挑戦する、という自分の中での戦いに私は挑んでいて、
そして・・・、中毒になっていたのでした。瞑想は中毒性がありますね(笑)。
最近はバレエをやっていません。私はバレエを捨ててしまったのか?
うーん、そうではないんです、多分。 いつかバレエにも回帰すると思います。でも、今バレエじゃない。
ヨガを放置してバレエに戻れない。
そんなことを考えていたせいか、自分のために出たレッスンで、先生が瞑想セッションをやってくれました。
シャバーサナでの深い瞑想。 まるで心を見透かされているようです。
私はバレエの場合も、一人の先生につく、というより、数多くのバレエの先生達に習ってきました。バレエの先生たちとは、どのレッスンに出ても、学ぶことがあり、先生との特別な絆が築けていると感じてきました。
しかし、ヨガの先生とはバレエの先生との間で感じる絆がないんですよね。 先生達はヨガの何がおもしろいんだろう?
私は今まで習ってきたヨガの先生達からヨガのおもしろさをまだ伝授されていないのかもしれません・・・???
■ ダーラナ?
バレエの漫画のセリフですが(^^;)、「空美ちゃんの中には空美ちゃんしかいない!」というのがありました。
そういう状況に入るのがバレエでは重要です。入っていないと何というか”板につかない”。
(断っておきますが、バレエは大人の初心者で、上級者ではありません。ピルエット3回とか出来ませんから~!)
集中。そしてカラダからのフィードバックを受け取る。集中のことをヨガではダーラナと言います。 バレエは集中しつつ意識を拡大化させる感じがありますよね。特にバーや、難しい技の場合。
バレエのレッスンの中には、このニュアンスをやらせたいからこの足の組み合わせ(コンビネーション)にした、というのがあります。
例えば、分かりやすいのでいくと、フォンデュ。ふわりととろける様な動き。それは、筋肉の伸びで表現できるのですが同じ動かすでもピキー!と行ってしまったら、もうフォンデュではない。そのとろける表現、ニュアンスってのがミソなのですが、
そのミソのところが筋肉的な事情ではどうやったら実現するか?というと、足を回旋しながら上から下に向かって伸ばしていくとできるわけです。で、回っているかどうかは見た目には分かりません(見る人が見れば分かる)。個人の内的な問いかけと筋肉からのフィードバッグでやる。
この”モード”に入る。それがおもしろかったんですよね。
昔から、瞑想は私にはとってもおもしろいのです。それは私が現れたイメージを楽しむからです。
子供の頃、朝起きる時、一度起きて、また目を閉じて、寝てもいないけれど、起きてもいない、という状態に入るのが好きでした。 すごくおもしろい夢を見るからです。 失敗して寝ちゃうこともあるんですけど・・・。
瞑想していると様々なイメージが浮かびます。 それを私は「面白いなぁ・・・」と思いながら見るのが好きなんですね。
■ アサナをすることとヨガをすることは違う
私は、別に難しいアサナをマスターしたいわけでもないし、ヘッドスタンドできなくても、肩立ちで十分効果があるといわれれば、じゃあ肩立ちでいいんじゃないか?とおもったりします(笑)
アサナはあくまでも手段であって目的でない。 何かを目指して頑張るという次元には今私はいないのだ、と思います。
難しいアサナができるほうが人間として優れているわけではなく(例えば勉強ができるからって人格が優れているわけではないでしょう)、ヨガの8つのステップ(八支則)と言われるステップの上にいるわけではありません。
ヨガの目標であるサマーディには、アサナだけやっていても決して近づけません。
結局のところ、悟る(サマーディ)というのはどういうことなのか? それはおそらく、今の自分の肉体も心も味わい尽くしている、ということかなぁと最近思います。 自分自身を愛さないで一体誰が愛せるでしょう???
じゃアサナ・・・うーん。私はアサナの何がおもしろいのかしら? 私はヨガはおもしろいのですが、アサナ単体のおもしろさには別に目覚めていないかもしれません。 基本的なアサナはとてもカンタンなものばかりなので・・・。
■ 疲れないカラダを手に入れたい
なんで私がヨガをしているかというと、ブログを書き続けたいからです(笑) だって一日座っているとカラダが凝るんです。
私はずっとヨーガスートラとか読んでいたいから、アサナやっているのです(汗)
これじゃだめ(笑)?
実は、そもそも、アサナはどういう理由で生まれたかというと、実はむかーしむかーしのインドの修行僧がずっと座禅を組んでいたい、けれどずっと組むにはカラダが凝って仕方がない、なんとかできないか?ということで始まったのです。
だから、24時間働けますか?な企業戦士と発想は同じです。ただ、たどり着いたのが、現代では栄養ドリンクですが、古代インドでは、アサナと節食だったのです。
疲れないカラダが欲しい現代人はアサナをやってみるのは栄養ドリンクより良いですよ。
■ 完全な健康はない
実はずっとアトピー持ちなのですが、真剣に治したいってのがなくて、ずーっと付き合っています。
というのも、アトピーって生死に関わる病気じゃないんです。たしかに肌は痛々しい時もありますけど、基本的に死なないし、アトピーが出るっていうのも、実は”生きている証”ですよね。
私としてはアトピーとはうまく付き合えているので、特に根治療法をしようという気がないんですよね。
先日通りがかりのおばちゃんが色々とアトピーのアドバイスくれましたが、治さなきゃいけない!という脅迫観念がないので、”・・・”(笑)。もうすっかり色々試した後だし。おばちゃんの気持ちはありがたいのですが。
ヨガの肩こりが治るポーズとか、私も聞かれるので教えますけど、アトピーアドバイスと似ているものかもしれません・・・。
■ カラダに感謝を!
肩こりのないカラダ、腰痛のないカラダ、痩せたい部分がないカラダ、老いないカラダ、一切の不健康がないカラダ・・・
これは現代版青い鳥ではないかと思うのです。
求めても得られないもの、という意味で。また、既に持っているものという意味でも。
多分、人々が思い描いているような”完全なる健康”というのはどこにもないのです。
多分健康というのは、病気でないという否定形によって定義されるものなのです。
それより、何より、もっと重要なのは、カラダがあるから、どこかが凝るのであり、カラダあるから、アトピーにもなるということです。
カラダに感謝を!
ありもしない”肩こりという欠陥”を”解決”するより、使えば凝るという体の仕組みを受け入れて、ちゃんとカラダをメンテしながら使う。
カラダというのは使えば凝るのが当然だと受け入れて、”カラダ操縦法”を学ぶほうが、ここがダメ、あそこがダメとダメを数えて減点法で自分の体を評価するより建設的です。
パソコンするなら、たまにダウンドッグしてヨガする。 長時間フライトで倦怠感に満たされているなら、太陽礼拝でシャキッとする。 風邪を引いたら、体内から熱を作る。 寒いなら呼吸法でカラダを温める。暑いなら冷やす。
よく考えたら普通のことですよね。 カラダ操縦法としてのヨガ・・・じゃじゃ馬慣らし、に似ています(笑)