『マイレージ、マイライフ』

2013-11-18 08:19:00 | 読書ログ

今日はジョージクルーニーの『Up in the Air』を見ました。邦題 『マイレージ、マイライフ』

マイレージ、マイライフ [DVD]

いつも思うのですが、邦題、何とかなりませんかねぇ…。

up in the air というのは、宙ぶらりん、というのと、飛行中、というのを掛詞にしています。

主人公は一年の大半を出張で過ごすビジネスマン。だから飛行中。

独身を貫き家庭を持たない主義なのは、人生身軽な方がよい主義だから。だから、縛られておらず、軽い。

しかし、その軽さは、宙ぶらりん、とも受け取れるわけですね。コミットメント無し。

ジョージ・クルーニーが渋くてかっこよかったです!ジョージクルーニーファンに、とってもおススメ☆

■ 忠誠心の話です

しかし、この映画の感想をアマゾンでチェックしていましたが、みんなの感想に、この映画が提供している重要な視点が一つ抜けていると思ったので、この記事を書くことにしました。

それはロイヤリティについて。忠誠心です。日本人は大好きですよね、忠誠心。

で、この主人公の職業はリストラ屋なわけです。雇われて解雇通知をする。すると、「18年間も勤務したんだぞ」などと言われるわけですね。解雇される側からすると会社にこれだけ尽くしてきたのに!と言うわけです。

・リストラされる従業員たちの会社への忠誠心=報われない

映画の中では、新入社員が、恋愛も結婚もしない彼を責めます。つまり、彼女は愛や家族に価値を置いている。しかし、実際は聞いてみると、フラれて悲しい理由が「彼って三高だったし」で、要するに愛に価値をおいているつもりで、全然、愛とは何か自体を理解していないワケです。愛しているつもりで、愛しているのは彼氏のブランド。まぁこれが若さですね(笑)。

・男女の愛=本質が見えづらいもの

ところが、クルーニーの方は、家族愛にも恋愛にも期待していないのに、「家族も捨てたものではないな」という機会が巡ってきます。妹の結婚式です。

・家族=煩わしいが捨てることができないもの

が、妹の依頼で、苦労して全米各地で二人のために写真を撮るったのに、これも傑作で、海に落ちるという苦労までして写真を撮ったのに、その写真を持って行くとありがとうも言われずに、「you can put it there」と写真を見もせずに言われてしまいます(笑。かわいそう)。まぁいいなって言ってもコレです。

・兄弟愛を発揮してみたものの=報われない。(やっぱり・・・)

さらに主人公が全く価値を置いていない結婚にしても、現実はその通りで、姉は一時別居中。妹の花婿候補は結婚式当日にドタキャン。

・結婚への忠誠=リアリティ、バイツ(笑) 

ところが、報われる系列もあります。たとえば、男女の愛の中に真実の喜びも見つけます。旅先で見つけた恋人アレックス・・・ところが、コミットメントしてもいいかなと思わせるのですが、実はコミットメントできない。2人はお互いその場限りの関係です。

・アレックスとの大人の愛=コミットメントが許されない

それに、主人公がためていたマイレージ。これは報われるんです(笑)。それも思ってもいない失意のときに。

・マイレージ=報われる

ところが報われても彼にとってはすでにどうでもよくなっている。

整理します。

≪忠誠心が報われるかどうか≫
会社=市況次第
結婚=人の心は移ろいやすいもの
家族=通じ合えぬもの
恋愛=瞬間的真実
マイレージ=確実だけれど、だからなんなんだ?

私が思うにはペットを愛する人が多いのは、ペットは決して心変わりしないので心のよりどころになるから、ではないかと思うのですが(笑)

人間は弱い。心の拠り所を求めてしまうもの…その弱さは忠誠心へ向かう。けれども、たいていの場合、忠誠心は報われることはない。それでも、誰もがそれを求め、多かれ少なかれ、挫折を味わう。

多くの人は、それを蓄財、会社、家族や結婚、あるいは恋愛といった、そもそも不安定なものに求めるわけですが、そうしたものに安定を求めないという哲学で生きてきた彼もやっぱりマイレージを貯める行為で、エアラインに対して忠誠心を発揮していたわけですね。大なり小なり、同じ穴のムジナ。そのことの”同質性”に本人が気が付いてしまう。

次なる心の拠り所、忠誠心を発揮する対象が見つからない…心が、Up in the Air状態…それでも人生は続くよ、どこまでも・・・で映画が終わる…というわけです。

多くの人は心がup in the air 状態であることには耐えられないため、家族や会社や見た目上の幸福などに拠り所を求め、それを目指して生活しますが、結局はそれらは市況や相手の心の移ろい、など、自分のコントロールできない条件でほんろうされます。そういう環境の下で生きていかなくてはいけない人間生活。だからといって虚しいのではなく、そこには瞬間瞬間の真実があるんだなぁ・・・

安定性がないものに安定を求めてしまう、かといって確実なものを達成したところで報われない気持ちになる、ままならぬ人間の性というものを上手く表現した映画だと言えました。

これ、ジョージクルーニーの映画としては、そんなに存在感が大きくない映画のようですが、論理の破たんなく物語がまとまっているという点で、脳内ツッコミ回路が起動しないという点で安心して見れる、秀逸な作品です。

面白かったのでぜひおすすめ☆

 


バレエと登山の知識を得るマンガ

2013-10-07 18:05:47 | 読書ログ

■ドウダダンシン 終了

夏山にうつつを抜かしていたら、なんと『ドゥダダンシン』の13巻がとっくの昔に発売になっていました(汗)8/25・・・一か月以上前・・・

これ槇村さとるさんの絵のバレエのマンガで、絵がバレエ的なツボを押さえているという点では他のマンガに一線を画し、現代を舞台にしている点でも共感できるマンガです。(ちなみに昔のバレエマンガはロシアなどを舞台にしている)

しかし、最終巻とは知らず、あっけなく、前にも繰り返されたような優勝者候補の自滅というパターンで鯛ちゃん(主人公)が金賞って…なんとなく、消化不良に終わった終焉でした。なんかなー

…が何より悲しいのは、出るのを楽しみに待つマンガがこれでまた無くなったことです(涙)

■ 最近のMYマンガヒストリー

1)『岳』 いわずも知れた大ヒット登山マンガ。映画はしょぼ過ぎ。岳 18 (ビッグコミックス)

2)『昴』 男性誌に掲載されたバレエマンガ。映画は見れない(汗) MOON―昴 ソリチュード スタンディング― コミック 1-9巻 セット (ビッグコミックス)  

3)『テレプシコーラ』 雑誌ダヴィンチで掲載されたバレエマンガ。社会問題派。舞姫 1―テレプシコーラ (MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ)

4)『ドゥダダンシン』 少女漫画のバレエマンガ。現代版サクセスストーリー。Do Da Dancin'! 13 ヴェネチア国際編 (オフィスユーコミックス)

5)『のだめカンタービレ』 ピアノの天才のマンガ。のだめカンタービレ全25巻 完結セット (講談社コミックスキス)

6)『テルマエ・ロマエ』 ローマと日本の温泉マンガ。古代へワープ。テルマエ・ロマエVI (ビームコミックス)

   『女湯に浮かんでみれば』掘ミチヨ著と一緒に読むのがおススメ☆

7)『孤高の人』 現代版 加藤文太郎。 根暗クライマーのサクセスストーリー孤高の人 16 (ヤングジャンプコミックス)

   『単独行』 加藤文太郎著 と一緒に読むのがおススメ☆ ホントの文太郎はクライミングぎらい 

8)『とりぱん』 野鳥観察のマンガ。ほのぼの系。野鳥のことに詳しくなれる。とりぱん(14) (ワイドKCモーニング)

登山のマンガでは『神々の…』などもチラリと見ましたが絵が気に入らず、ダメ…

登山のマンガも終わってしまったし、バレエのマンガもみんな終わってしまい…のだめも終わったでしょう…なんだか色々終わってしまってとっても残念です。

■ 子供心

たかだかマンガといいますが、『岳』も『昴』も映画になったし、『のだめ』はTVドラマにさえなった。

マンガは間口が広いので、色々な人に情報を伝えることが出来る。

バレエはマンガを読んでいる人と読んでいない人ではやっぱり理解度が違うと思うんですが…『白鳥』が疲れるってこととか分かったり、面白いトレーニング法が出ていたり、まあもちろん、マンガは漫画家の視野を通しての話なので、他の本も読んでないとダメとは思いますが。

クライミングだって、『孤高の人』を読んでいれば、フラッシュやオンサイトがかっこいいってことくらいは分かる。

まぁ本当の新田次郎の『孤高の人』も読めば、なんとまぁ脚色されていること、と思うわけですが…さらに加藤文太郎が書いた『単独行』を読めば全然人物像が違うじゃん!と叫びたくなると思いますが(笑)

それにしても、なぁ…

マンガの発売って、数少ない子供心に戻ってワクワクできる瞬間だったんだけどなぁ… マンガでも調査がいらないような、くだらないのはキライなので、読めるマンガ少ないので、発掘も大変です。マンガの中での恋愛とかって全然興味ないし。

余談ですが、私が不思議なのはヨガのマンガがないことですが・・・ないんでしょうか? ヨガマンガ…マンガでアーサナの説明とかしてくれたらいいのにって思うのですが…

誰か高山植物のマンガも書いてくれたらうれしいです(笑) とりぱんがあるくらいだから、漫画家に高山植物オタクな人がいれば、書けるはずなんだけどな。

 


映画『ミス・ポター』を見ました

2013-04-21 19:39:26 | 読書ログ

今日は温かい家の中でだらだらとロープを結んだり、クライミングの本を見たり、飽きたら、ちょっと散歩したり… 穏やかな休日です。

ミス・ポター [DVD]

図書館から借りてきた『ミス・ポター』…”ピーター・ラビット”の作者のベアトリクス・ポターの半生を描いた映画でしたが、今たまたま読んでいる、ローズ・ワイルダー・レイン(『大草原の小さな家』の作者ローラ・インガルス・ワイルダーの娘…ジャーナリスト)と重なりました。

いつの時代も、女性は「結婚しろ」「子供を生め」という圧力との戦いなんだなぁ…(笑)。

それ以外の生き方が許されない度合いは昔の方が大変だったでしょうな・・・ 18世紀のイギリスなんて現代とは比較にならないほどの圧力だったであろうと映画に描かれる以上の肩身の狭さだったのではないかと思います。

そんな中で裕福な階級に生まれたとはいえ、印税で生活できるほどの財を築き、湖水地方の美しい農村風景を守るために次々と農場をオークションで競り落とし、最後は国に寄付をしたというのは本当に素晴らしい生き方だと思いました。 あまりレビューでは触れられていませんが、父親の存在感が良かった。父親はちらりと触れてあるくらいですが、絵の道をあきらめて法律の道に進んだ、法律家でした。

偉大なる芸術家の背景にはそれを後押しした存在がある・・・ベアトリクスの場合、父親や出版社で最初に才能を見出してくれ、恋人でもあったノーマン、そして、その兄弟でベアトリクスの親友ミリー。ローラ・インガルス・ワイルダーの場合は、娘のローズ。

ただイギリス文学は、封建的な社会との葛藤を描いたものが多いです。独立独歩の精神と開拓者魂…パイオニアライフにおける自然との闘いが根底にあるアメリカ文学の精神性と比べ、自然というより社会との戦い。

それがとても日本の社会と似ていて、げんなりしてくるので、あまりイギリスの女流文学にはそそられず、あんまり詳しくありません。階級主義も鼻に着くんですよね・・・イギリス文学って。アメリカにも近いのはありますけど、WASP文化は。 

封建的な社会との戦いってめんどくさいというか、すごく疲れる・・・絶対に私とは価値観合わないなって感じで(笑)。でも、この映画は自分の愛したものに愛情を注ぎ続けて、経済的独立を勝ち取り、社会の押し付けてくる価値観ではなく、自分自身の価値観を生きた女性の話でしたから、これを機会に少しイギリス文学に触れてもいいかなぁと思ったりしました。

親に結婚を反対されて3か月待たされるのですが、その間に婚約者の男性・・・ベアトリスの才能が世に認められるのを最初に手助けしたノーマンが結婚を待たず亡くなってしまう下りでは泣けました。死に目にも会えず、恋人は去ってしまった…

それにしてもイギリスの湖水地方は本当に美しいですね。いつか行ってみたいです。

イギリス文学で描かれるカントリーライフは、厳しい自然に立ち向かう人間たちのつましくも、たくましい姿というよりは、家畜たちがのんびり草をはむ、牧歌的な農村風景を描く、という感じ…が、とても貴族的です。アメリカのパイオニアライフとは全く違う自然観。むしろ、日本寄りかなぁ…。

思ったのは、アメリカの画家、オキーフの人生との差・・・ジョージア・オキーフは、アメリカの画家ですが、手つかずの荒野を愛し、ニューメキシコに移住したのです。

同じ自然の景色でも箱庭的なイギリス…

実は、私は日本の田舎の情景を美しく描いた児童文学を探しているのですが…なかなか見つかりません。

図書館の司書に相談しても、『遠野物語』止まり…

海外の文学には、たくさんの自然の情景が織り込まれているのになぁ…それも好ましいものとして…日本の文学には日本の圧倒的な自然の素晴らしさを描いたものがそんなにないような気がするのは、単に私が日本文学に疎いからなのかもしれませんが…

日本では自然というものが圧倒的過ぎて、あまりにも生産量が豊かで、当たり前すぎて、その良さをわざわざ愛情込めて語ることがなかったのではなかろうか…と思ったりするのです。

特に山を歩いていると… アラスカなんかまで行かなくても、日本のいま、そこにある自然もとても美しく、素晴らしいもので、守られる価値があるものだと思うんだけどなぁ・・・

なんだか金にならない行為はやらないっていう精神がはびこっているようでときどき悲しくなる現状なんですよね・・・


人間が死を恐れなくて良い理由

2013-04-02 18:40:07 | 読書ログ

ひょんなことから面白い記述にぶつかりました。

人間の脳の話です。 男性と女性では、ものごとの感じ方が違う、というのは、改めて脳科学者が言わなくても、普段、実感するところだと思います。むろん、性差より個人差も大きいのですが。

人間の脳は、年を取ると、赤ちゃんの頃と同じように、思念空間が狭くなるのだそうです。自分の身近な家の中と家の中にいる相手とぐらいしか知覚できなくなるのだそうです。それがボケという風に若い人には見える。

したがって、死という概念も遠くなり、最後の最後は麻薬中枢が活躍して痛みも恐怖も感じなくなるのだそうです。

『キレる女 懲りない男』  キレる女 懲りない男: 男と女の脳科学 (ちくま新書)

■ 50代半ばが一番賢い?!

人の脳は、50代半ばに連想記憶力という力がピークに達するのだそうです。

連想記憶力というのは、経験によって培われた知識ベースを使い、素早く的確な出力をする脳の力。

人の脳は50代に洗練を極め、ものごとの本質が見えるようになり、人の道のありように気づく。

「ああ、このために生きてきたんだな」とわかるようになるのだそうです。へぇ~!

15才~28歳 がむしゃらな入力装置の頃

30代 脳は失敗したがっている
40代 物忘れは進化である
50代 本質的になる。ただし気を付けておきたいのは、自分の人生しか見えなくなること。
    他者に依存して生きてきた人は「愚痴と堂々巡り」の達人となり、無難に生きてきた人は
    「心配と依存」の達人となり、自分の足で歩いてきた人は「発見と発想」の達人となり、

    エリート街道を順調に歩いてきた人は「知識の踏襲と選別」の達人となる
    50台を過ぎた脳はもう直せない。

60代 知を楽しむ年代 

振り返ってみると自分もそうしてきたかもしれないと思い当たりますね~。

人間の脳の性差、は、胎内にいるときにできるのだそうです。ヒトはすべて女性で、胎内で男性ホルモンが形成されることで、脳梁が細くなり、それが男性の男性らしさを形作るのだそうです。

アダムとイブの話では、アダムの肋骨からイブが出てきたことになるのですが、実は反対ですね。

ゲイの人はなんらかの拍子に脳幹が細くなりきらないまま(男性になりきらないまま)生まれてしまったのだそうです。脳が女性的なのだとか。だからやっぱりゲイ差別は良くない。

脳の機能的に見ると、女性脳は目先のことに集中し推察力洞察力がある。つまり子育てに適した脳。

男性脳は、女性脳よりとらえられる時間や空間の領域が広く、ものすごく先の未来や構想に向かって努力することができる脳なのだそうです。

ただこれらの言説の根拠となっているのが、男性は狩りに出て獲物を、女性は木の実を摘んで…なので、なんとなく根拠としては微妙に固定観念に縛られている気がしますが(^^;)。

ただ脳の性差がもたらす軋轢については思い当たる節が多かったので、知識として、男性脳、女性脳には違いがあるものだという概念を知っておくと、男性も女性もお互いに相手を許しやすくなるかもしれません(笑)。

女性脳 

・感情を垂れ流しにする
・実体験とその時の感情が付随していない情報(うんちくなど)には反応しない

男性脳

・目の前のことには疎い。自らの感覚を絶って、客観的な判断をしたり、遠くの未来を見たりする。

 

 

 

 


読了 『私はリトルアインシュタインをこうして育てた』

2012-11-07 13:53:57 | 読書ログ
知人のサイト構築、引き渡すのにも結構色々な知識が必要なもんで、今日は朝の散歩で考えあぐねてしまいました。 というのも教えないとデータのやり取りも効率的でないし…

パソコンというのは知っていれば単純なことが知らないがゆえに複雑怪奇化します。テキストファイルでサクサク作業したいのに、フツーの人にとっては、文章を書くといえばワード。完全にマイクロソフトの思う壺ですね…

クラウドコンピューティングと言うのは、結局は自分のPCに依存せず、ネットに依存するという意味なのですが、
ネット環境がまたリテラシー格差が大きいですよね・・・ 日本ではなかなかフリーのネット環境が実現しません。

以前ドイツ人を家に泊めたとき、来てすぐ彼は我が家のLANのネットワークアドレスをほしがったのですがそりゃ
そうだろうなぁ…。メルボルンの大学に行ったときにまず一日目にやるのはネットワークに接続することでした。
これをやらないと何の情報も得られないのだから…

ところが、日本では知の殿堂、図書館でさえネットに閉鎖的です。あまり学ぶことに積極的でないんですよね。
特に大都会を外れるほどそうです。だからどこかの個人でやっているカフェとかそういうところがネット環境を提供していればそれなりに使いたい人はいると思うのですが…。

自分はどうやって分かるようになったのか考えると実はほとんど独学なんですよね。とくにコンピュータの基本的に仕組みに関しては。 ネットワークもそうですし… 本は一杯読みました。基本的なことに関しては変わらないので、今からでも仕組みについて理解しておくと後々の利便性が高いと思うんですが。

私は、英語、コンピュータリテラシー、趣味の登山やバレエ、ヨガまで、ほぼ独学でした。

つまりは教わったことが無いので教え方がわからないんですよね…(汗)

独学ということを考えると現代ほど知識が一般大衆に開かれた時代はないですね。

■ネットを味方につける

そして、その中でもネットを使いこなせるというのは、たとえ登山というようなまったくコンピュータとは
関係が無い知識を学ぶのでも、使いこなせるとこなせないのでは、学習のスピードに雲泥の差がある
ということを、
世間では、”情報のハイウェイ化”なんて呼んだりします。梅田望夫さんが書いていたと思いますが、本当にちょっと調べるだけで驚くほど大量の情報に接することができます。

例えば、昨日書いたプラサーダ料理についての解説は、現在日本語ではネット上にありませんでした。英語の
サイトを読んでから書いたのです。「ヨガ行者のお食事ってどんなものかしら?」程度の素朴な疑問でさえ
ネットに打ち込んで概要が分かる時代なのです。 もちろん、食べてみたものでなければ、その具体的な
ものは分からないわけなのですが…それでもまったく分からないのとは雲泥の差です。

■機会の平等=意欲の差

Googleの野心は世界中の情報をビットにしてしまうことだそうです。実際、それは具現化しつつありますね。

基本的にすべての情報がすべての人にオープンになる…と、それは教育の機会の差が限りなく小さくなる、ということですね。

この世の不平等というのは機会の差に大きく依存していたということを考えると、機会の差がなくなるということは
どちらかというと持たざる者であると自認するものにとって有利な状況のはずです。

独学は、先生につくのよりも難しいことですが、それでも機会の差が小さくなることを突き詰めれば、何で結局のところ、差がつくのか?

それは学習しようと言う意欲の差ではないでしょうか? つまり情報が開かれている世界と言うのは、意欲がある人に開かれている世界、になりますね。

それはむしろ世界を好ましい方向に向けるのではないかと私などは思ったりするのですが…。

子供がネットゲームに熱中するからと言ってネットを毛嫌いする人の気がしれません…
ネットをゲームに使うのも自由であれば、古典の名作を読むのに使ってもいいわけなんですから。道具が悪いのではなく道具をどのような目的に用いるのか?そこが人間性に左右されるというだけのような?

■ 読了 『私はリトルアインシュタインをこうして育てた』

私はリトル・アインシュタインをこう育てた

この本は9歳で大学に入学した日本人と韓国人のハーフでアメリカ人の男の子の母親の手記です。

決して天才児を育てようと教育ママになったわけではない、平凡な母親の非凡な努力が描かれています。

この本は大人で自己肯定感が低い人にもとても良いのではないかと思いました。おそらく人は世の中を生きていくのに、誰か1人自分を心から肯定してくれる人がいればよいのではないかと思います。

それは多分、子供の頃には親、長じてからは配偶者ということになるのでしょう。情緒の安定性の源というのは、どんなことがあっても相手にとって自分が最も重要な相手だという認識ですね。運悪く、配偶者がいない、ということであれば友人が、それでも誰もいなければ自分自身がそのようなとりでになるしかありません。

くじけない心を作るには誰かにはいつもわかってもらっているという安心感が必要です。その誰かが…私にとってはスーパーソウルなんですよね。今バクティ・ヨガのお坊様から文書をもらって一人納得しています。

《備忘録 引用》
・子供の半歩だけ先に立って教え、子供の能力を過小評価しないようにする
・心を安らかにし、学ぼうという姿勢で生活し、無農薬のものを食べ、旅行をし、いつも対話する。
・自信を失わせる言葉をいわない
・「子供は私達の所有物ではない。私達にしっかり面倒をみるようにと、神様からしばらくの間、
  預けられるのだから、子供がこの世で、幸せで実りある人生を遅れるように、愛し、尊敬しながら、
  祈りとともに育てていこう」
・どんな悪いことをしたのかしっかり分からせてから叱る
・体罰は与えない
・子供が理解し同意する範囲で規律を設け、守らせる
・父親として必ず実行すること
 独立して生きていけるよう勇気付ける
 今していることを賢く賢明に続けていけるよう手を貸す
 父親も失敗の多い人間であることを認めて、いつでも相談できる父でいる
 ポジティブな考え方を身につける
 神様が私達に与えてくれた恵みを大切にすることを教える。体を適切に管理して、金銭を有効に使い
 持っている才能と時間を有効に使うことを教える
・0~3歳までに旅行に連れて行く
・テレビを見せない
・母親は父親の、父親は母親の権威を害しない
・読み聞かせ 本を1日10冊
・音楽と美術教育を重視する

この本を読んで自分の子ども時代を振り返りました…私はぜんぜん天才ではありませんけれども、どちらかというと優秀な生徒の部類にあまり苦労せず入った部類です。弟がかなり勉強では苦労する割りに私は苦労しなかったので
なぜかなと考えると、自分でも小さい頃から読書好きだったことを思い出します。

でも一日10冊も読んだかな? 

幼児向けの絵本などはほとんど覚えていませんが、グリム童話全集あたりで貪るように字に飢えて、食品のパッケージまで丹念に読んでいたのを思い出します。

小学校の頃は、よく百科事典で課題を解いていました。 今、百科事典はネットになり…20年前に海外からもって
帰ってきたエンサイコロペディアとか、アメリカンヒストリーの本とかほとんど押し花の重し以外の用途を
持っていないような有様です(汗) いいかげん、なんとかしたほうがいいですよねぇ?

ネットで便利になってよかったなぁと思うものの、情報を得ることに対し、忍耐力が下ってこういう本を読む我慢強さに不足することを感じます…うーん?反省すべし?





読了 『死なないカラダ、死なない心』

2012-10-21 22:06:19 | 読書ログ
■読了 『死なないカラダ、死なない心 宇宙のエネルギーで身体をつくりかえる』

死なないカラダ、死なない心 宇宙のエネルギーで身体をつくりかえる (講談社BIZ)

この本は日本人でハタヨガを極めた人が書いているので、とても参考になりました。

インド哲学…が現代人をひきつけるのは、それが”体験知”をベースにするからですね。

実体験として”知っていること”。例えば、前世を見たことが無ければ信じるのは難しいですが、見たことがあれば、信じることが出来ます。

ヨガにおける解脱は、カルマから抜け、輪廻転生を繰り反えなさいことなので、生きている間にはありえない、という部分がなるほどと思いました。解脱を目差すヨガ行者としてのヨガはあくまで来世に生まれないためですね。

この本で一番参考になったのはプラーナの説明です。プラーナは一般的には気と訳されていますが、気だと意味が小さすぎる。気というより、エネルギーそのもの、生命力そのものだそうです。

宇宙もプラーナだし、気もプラーナだし、物質の分子もプラーナ… 

ヨガで体とプラーナを自在にコントロールできるようになれば、空中浮遊とか心臓を止めるとかできるのだそうです。鼓動や基礎代謝もコントロールできるならば…仮死状態にも入れるわけで、それで長寿が可能になるとか…

でも仮死状態で長寿に入っても…その間生きていることの楽しみはないわけで、長寿のためのヨガというのはなんとなく意味が無いような気がしたのですが…(汗)

■ 観察眼

ヨガをやっていて思うのは、ヨガというのは体の観察眼を養うこと、という点です。体の感覚、快不快、力がどこに入ったか、筋肉の使い方などに敏感になる。

繊細な観察眼を肉体について向けます。

論理思考と言うのは、そういう観察眼を思考に向けますよね。

で、最近自然栽培の勉強会に出て思ったのですが、農業はそれを畑に向ける。

山では安全に帰ると言うことに対して向けます。

繊細な観察眼を
 体に向ける → ヨガ
 思考に向ける → 論理思考
 心に向ける  → 心理学・瞑想
 畑に向ける → 自然栽培
 安全に向ける → 登山

というわけで、どれも細かな観察眼を利用するのは変わりないのですね。

そういう意味では、鈍感な人よりも、繊細で神経質な人のほうが観察眼的にはすぐれていますね。

読了 『ソウルリーディング』

2012-10-11 16:06:21 | 読書ログ
運命の流れを知るソウル・リーディング―才能と天職を発見し、居心地よい心で生きる

この本は、職業と言うよりも、人生の羅針盤、というような感じです。

どうすればいいのか?分からなくなったときどうします? そのとき、親や友達に相談しても、占いに相談しても、結局は自分で決めなくてはいけません。

自分で決めなければならない…そのとき、自分の心をどういう風に観る、か?

それが書いてあります。

■ 誤解の多い天職

天職というと、看護婦、とか、インテリアアドバイザーとか、音楽家、とか、○○と名前がついた職業を選びがちです。

そこが現代のほとんどすべての人が 職業会社員、で、括られる世界とかけ離れすぎているため、誤解を生みがちです。みんな自分だって、”天職”があると思ってしまう。つまり華やかな職業です。しかし、天職とは華やかな名前がついた仕事を得ることではなく、”自分がこの世に生まれてきて、やるべきこと”というようなものです。

そこには深い充足感があるのです。例えば、私にはこのブログはとても充足感をもたらします。もし世の中にブログライターと言う職業があれば、それが私のすべきことですね(笑) 食べてはいけないですが、この書くということこそ、私が突き詰めて行けることです。私は職業人生で色々やってきた中で、秘書役や女房役はお金をずいぶんもらってもまだもらい足りない気分が抜けません(笑)なぜなら、それはスキルがあるけれども、やりたいことではないからです。私がそのスキルを持つに至ったのは仕方なくなのです…(笑)

”天職の意味”を”適職診断”と誤解していると、この本の良さが分かりづらいかもしれません。「あなたに向いている職業はこれです」というような適職診断や、自己の強みの発見などを期待すると、この本はガッカリします。反対に、会社勤めでも、自分の適性と離れていないことをやっていれば天職だと納得できます。

その”状態”に近づくために、どう考えたらいいのかを分かりたい人におススメ。 一般的には”なんとなくぼうっと分かっていること”を”クリアに言葉にしている”感じです。

以下、要約抜粋です。

■ 要約抜粋
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天職とは何か?
・自分にとっては当たり前 他人にとってはたいしたもの
自分のそろばんとは関係がないもの
・ボランティアでも趣味でも、自分を表現できて、人を喜ばせるもの
・才能とは、他人のためのもの、自分にではなく、世の中に属するもの
・はっきり見えるから歩くのではなく、流れとともに歩くから果てまでいけそうな気がする
・無限にアイディアが沸いてくるということがあるか
・特にそうしようと思わないのになってしまうこと
・つい目が行くもの
・人に良く尋ねられる

天職を見つけるヒント
・やっていると時を忘れる
・気持ちがまとまる
・楽しい気分と終わった後の達成感
人は意図すると結果が得られない。

岐路に立ったときの選択の仕方
・人の言葉ではなく、エネルギーを信じる
・その人の無意識を見る
・岐路に立ったら、選択肢がなければそれが道
・楽なほうを選ばず、難しいほうを選ぶ

自分を知ることが発見
・鳥の目か虫の目か? 思考が演繹型か帰納型か
・集中型か受け止め形? ツッコミかボケか

才能を発見する方法
・ちょっとした毎日の生活上の課題を工夫して解決し、それを喜び、積み上げる
・他人の基準ではなく、自分ひとりの全体=魂・心・体のバランスこそ大事
・才能には、喜びの表現と拍手する観客がいる
・才能の根には他人への愛がある
・才能は世界と言う恋人への愛の花束
・才能と趣味の分かれ目は、喜んでいる相手がイメージできること
・才能とは努力なしでついやってしまうもの
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気に入ったのは、”天職とは自分で見つけるもの” 人に教えてもらおうというような”横着な心”がある限り、見つかりませんと言い切っているところ(笑)。

読了 『スピリチュアル・マネージャー』

2012-10-06 15:34:38 | 読書ログ
■ 読了 『スピリチュアル・マネージャー』

スピリチュアル・マネジャー

この本は大変良い本でした。でも、最初のほうの話の展開がまどろっこしくて
イライラさせられたのは、この本の主人公であるスティーブが演じる典型的合理思考型マネージャの物分りの悪い発言にイライラさせられるからでした。

成功したビジネスマンが、どうやって人生とダンスをするかを分かり始めるあたり(読み始めて4分の1ほど)から後はサクサク読むことが出来ました。

■ 人生は力で押し通せない

少年よ大志を抱け、と最初に私達は教えられます。

そして、目標(夢)については、それをブレークダウンし、それに向かってコツコツと努力を積み重ねていく…というのが典型的な私達のあるべき人生像だと刷り込ます。

それは夢ではなく現実を生き初めてからもずっとついて回る誤解の最たるものです。

例えば、100名山に登りたいとしましょう…まずは近くの山、ロープウェーの山から行って、毎週1日登れば、一年は52週だから、2年か冬の間は登らないことにしても、3年で登れるでしょう。そしてそのためには毎日筋肉トレーニングをして・・・

それが私達が学校教育でインプットされている成功哲学です。力で押し切る。

そして登った100の山に達成感を感じる・・・予定通り登れたら、いわゆる”成功”の姿です。早く登れたら”大成功”。他の人にできないことが出来たら”すごい”
100登れなければ、”失敗”
あるいは3年以上掛かれば ”遅延”
毎日のトレーニングをサボれば ”怠惰”
辞めてしまえば”挫折”

これが努力の姿だ、そして、人間は努力をするべきだ、と教えられているせいで、ほとんどの人はただ自分の普通の人間性に従っただけで、心のうちに挫折を感じてしまいます。成功以外のほかの選択肢はすべてネガティブです。

世の中の成功本はそういう風に人生を積み重ねてきた人の”成功秘話”であふれています。

典型的なのは、憧れ → 挫折 → ハングリー精神や負けず嫌いなどの強い思い → 抵抗 → 更なる努力 → 成功 です。

男性的な成功哲学ですね。そのために手帳をスケジュールで一杯にしている人もたくさんいます。ところがスケジュールが埋まれば埋まるほど、やらなければならないことばかりになり、人生が空転をし始めます…。

では、どういう風に人生が人に語りかけてくるか・・・それを平易な物語で表したのがスピリチュアル・マネージャーでした。

■ 内なる声と外にある声の両方を聞く

依然出たインドの高僧が来日してのお話会である男性が質問しました。

「瞑想するけれども心の声が聞こえません」

この方は実はちゃんと心の声が聞こえているのです…でも、その声は彼が期待した形で聞こえてくるのではないだけなのです。 

その高僧は親切な方なので「集中の仕方が違うのかもしれません」と答えられていました。

心の声は 全部、自分の中に既にあります。

その声は聞き方を知れば、そんなに難しいことはなく聞けます。理性の声なのです。

すべての出来事、出合うすべての人が先生になれます。 例えば、先日電車に乗ったとき一杯空いている席なのにわざわざ隣に座ったサラリーマンはある意味リーダーシップとは何かについて私に教える先生です。

ちょっとした嫌な出来事などは、特に深く考える機会となります。良いこともなぜ良いことが起こったのか考えれば、どう生きるべきか?を聞く機会になります。

そうやって学んでいくと、大体において重要なことはそんなに数がありません。

毎日コツコツと積み上げる努力や、逆境に負けない強い心も時には大事ですが、それは、イケイケ押せ押せの体育会系のトレーニングが成長期の体にはあっていても、成長を終えた大人の体に同じメソッドを用いては、体が強くなるより先に消耗してしまうのと同じことで、別の方法もあるのです。

それは押すのではなく、引くという方法論です。

頑張るのではなく、頑張らない、という方法論です。

頑張らないのであれば、どうするのか?というと、自分のコントロールを手放して、運命にお任せする、ということです。

運命にお任せすると言っても、全部をお任せして自分は何もしないのではなく、半分自分でも努力するという感じです。運命と自助努力のコラボです。
(というか感覚としては自助努力をしていれば運命がついてきます)

例えば、私がヨガの先生になろう!と思ったとき、ちょうどよいスタジオを探してくるのは運命の仕事、その勉強をちゃんと身につけるのは自分の仕事です。半々な感じ。

山に行きたい!というのは、内から沸いてきた内なる声でした。けれども、山に行くためにはどんな計画を立てるべきか、服は、食事は、どの山から登るか、そういうことを考えるのは理性の役割です。そして私の山の成功は、100個をいつまでに登ったというような計量化できる目標に縛られていません。計測することは、自分自身の進歩が自分でわからない、あるいは基準を作りたいというようなときには有効な手段ですが、自分で何が成功で何がそうでないか分かっているときにはむしろジャマなのです。囚われてしまいますから。

内なる声と理性の声、どちらをもが調和を保って、やっと内なる声をガイドとした生き方が出来るのです。

そのガイドされて生きた感じがリアルに伝わってきた良書でした。特に企業に勤めていると分かりづらい応用法が分かって良いと思いました。



読了 『いちばん大切な私』

2012-10-01 19:56:03 | 読書ログ
■ 読了 『いちばん大切な私』フィリップ・マグロー

いちばん大切な私 あなたらしく生きるための「5つの出会い」「7つの選択」

この本は、自分らしさを見つけるための方法論が興味深いです。

このやり方で合う人には限りないメリットがあるだろうと思いました。

例えば大人になる過程で自分以外の人の期待に答えるような人生を選んでしまうのは良くあることです。また社会的あるいは教育的刷り込みもあります。

自分らしく生きるためにはどうしようか? そこでこの本では

①セルフイメージを確認するため、イメージを形作った要因を特定する (10の決定的瞬間)(7つの重大な選択)(5人の重要人物)

②その刷り込みを外す (自分で自分に下したレッテルを外す)
③新しい自分らしい生き方を選ぶ (具体的には好きな台本を書く)

を薦めています。私は実はこれと同じことを中学でやった気がするのですが…そのときは人生の棚卸しと呼んでいました…が、こうした作業は実は、各ステージごとにやらないといけないのかもですね。

この本のやり方を端的に紹介すると・・・

10の決定的瞬間 の一つ
 ・中学で生理の日にプールに入らない署名運動をした →信頼していた先生に否定された → 出る杭は打たれるという知覚になった

7つの選択
 ・家を出ると家族から裏切り者と言うレッテルを貼られる →それでも出た
  → リスクを受け入れる強い自分の確立

5人の重要人物
 ・祖母。「なにもしない」という選択の結果を見せてくれた → 何もしないのかするのか選ぶのは自分だということ。何もしないという選択肢の代償。何もしない人生への恐怖。

この10、7、5という数にはこだわる必要は無いんではないかと思いますが、
要は

徹底的に自分が何に反応してきたかを知る、です。

私が最初にやったのは、優等生&おねえちゃん(世話を焼く)という役割を捨て、劣等生(何しろ高校では500人しかいないのに487番でした!笑)&自分のことをする、を選んだのですが…大学が終わると今度は(自立した女性)を選んだのです…しかし、また生活が変わって、今は(生活を楽しむ女性)を選ぶことになりました。

また先に行けば、違う台本を演じないといけないのかもしれませんね。

■ ノーメイクと言う特権

今の生活で気に入っていることは、何しろお化粧がイラナイことです。ヨガの先生であるとお化粧がなしで許される…(笑)これはなんともいえないメリットです。

というのも私は肌が弱いのです。 

で、お化粧するでしょう。そこまでは良くても落とすのがNGです。

何しろ、落とせば必要な皮脂まで落としすぎてしまいます。人間の皮脂に近いものを顔に塗らねば、ならないのです…お肌に優しいというのはそういう意味ですから。人類が技術の粋をかけて追求しているメイクアップと言うのは、ほとんど素肌に見えることなのです…じゃあ最初から素肌そのものであればいいのに…

最初からお化粧しなければ、皮脂も落ちないのだから、メイクリムーバーで必要な皮脂まで落とさなければ、いいんじゃないか? それが私が出した結論です。
あるとき、帝国ホテルのエステルームの人がスッピンだったので非常に励まされました。

肌がきれいならファンデーションはいらない…もともとファンデーション嫌いなのです。だって毛穴がつぶれて肌呼吸できなさそう・・・

そもそも塗らなければ落とす必要もないわけですから、ファンデーションからの開放はほとんど昔の女性解放運動の人たちが女性束縛のシンボルとしていたガーターベルトからの開放くらい自由でしたね。

私が嫌いなもの…パンスト、ファンデーション、ガードル、ブラジャー…うーん、
なんか締め付けるものばかりだぞ?? というかこういうのでバッチリ固めた人で
あまり友達になりたいなって人はいません…

最近は山ではサポートタイツが流行っていますが…あれも嫌いですっていうか履いていない。筋力が少ない細い足をしていればいいけど、私は結構ガッチリしているので、むしろ血行不良に陥りそうです…。登りでは一切不要ですね。
はくなら下山のみですね。下山でエキセントリック運動になるわけなので。

と話がそれましたが、アメリカやヨーロッパの女性はメイクしない人が多いですが、今でも日本社会ではしないと会社に行けません。メイクしたくないから会社に行かないということは物事のバランス感としてありえないので、日本に住むならメイクは必要悪です…(汗)。

昔ドイツに住んでいた友人が、「なんで日本の会社ではジーンズがNGなの!」って吠えていましたが…やっぱりドレスコードとかそういうのは社会の普通を受け入れるしかないのです。 変人扱いされたくなければ、ですが。

私は最初のうちはそれなりにしていますが、だんだんと変人を出していくことにしています。 

というわけで、都会ではない今この生活で楽しめることのひとつがノーメイクです♪



BigFish 留守がちな父をやっている人必見の映画 

2012-09-24 09:06:53 | 読書ログ
■ 映画『Big Fish』

先日、ビッグフィッシュという映画を見ました。 

ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション [DVD]

これは家を留守にしがちなお父さんにおススメ。

男性と言うものは、どうして愛する者たちを一番後回しにしてしまうのでしょう…? 

ブッダも家族を捨てて出家したことは知られていますが、世界(の見知らぬ人)を救うことが家族を愛することだと言われても、省みられていない家族には、なかなか納得しがたいことでしょう…。

そこにある矛盾…家族を省みない個人的理由がなんであれ、結果として出来上がる誤解は”不良債権”ですので、死ぬ前にどこかで一括返済すべきですね。

この映画の父は、行商のサラリーマンです。なので家は留守勝ち。社交的で話が面白く、その話には大概が尾ひれがついています。罪の無い大法螺ってわけですね。

息子はそういう父に多少辟易しています、そりゃそうでしょう、花嫁・花婿が主役のための結婚式で、自分が主役を乗っ取ってしまっては…同情しました。私も自分の結婚式おばあちゃんに乗っ取られました(><)

さらに痛いのは乗っ取られた結婚式を誰も慰めてくれないこと…私なんて今その結婚式の場で使っているバッグ、無心されましたからね。それでも夫など幸せにボーっとしてしまってどんなに私が傷ついているか、ぜんぜん気がつかなかったのです…

ま、この映画の主人公、息子はそういう状況にいます。周囲は「あんな面白いお父さんっていいね」と言う。息子は「でも家にいないし、帰ってきたらきたで、大法螺話しかしないし」つまり彼からは、父の人格が見えないのですね。 

周囲の父への評価と自分の父への評価が違う。 まぁ仕方ないでしょう。

子供であれば、誰だって、自分と時間を過ごそうとしてくれる人=一番愛してくれる人、なのです。

教訓1: 子供とは出来るだけ時間を共有すべし。

■ 一目ぼれ 

男性の人生でいつも不思議だな~と思うのが運命の人の見つけ方。男性は一目ぼれが多いのかな?
このお話でも、父は母に一目ぼれしたことになっています。それもサーカスの会場が引けるときに遠目に見ただけ…

私には、あまりにも精神的にかけ離れすぎて理解できない一目ぼれ… 相手の中身も知らずに容姿、それもチラッと見たというくらいで一生涯愛することができるのでしょうか???私は容姿とかではなく人間の中身を好きになるので、とてもなぞです。

で、その女性をゲットするまでの苦労はすごいのですが、問題はゲットした後…放置プレイ…(汗)。

うーん、その一目ぼれされた妻も帰ってこない夫を待つ生活になる…しつこく(笑)求婚されて結婚したのに、結婚したと単に留守ばかり?! 釣った魚に餌はやらない?! 

好きなのに帰ってこないというのは…女性の身からすると本当にすきなのでしょうか?と不安になりますね。

その帰ってこない理由がまた…夫が方々で人助けに奔走中で、未亡人の家の修理までやっているとは…これもまた皮肉なめぐり合わせですね。

夫が人助けに出かけていること自体=自分が未亡人状態… そりゃ、たまには皮肉の一つも言いたくなるわな。

他所の未亡人を助けて自分とこ未亡人化…うーん? この矛盾状態に気がつかないのは、なかなか面白い。

教訓2: 足元を良く見よう。

■ 心の真実

というわけで、この映画の中では、妻はよく出来た妻だったので、特に「あなた浮気しているんじゃないでしょうね?」とかなじることなく、結婚生活は円満で人生の閉幕を迎えるのですが、息子はちょっと父には納得がいっていない。

「父には別の家庭がもう一つあったんではないか?」なんて想像もシテイマス・・・

最後の納得が欲しい。

が、父に死が訪れる…とそのとき、父が息子に頼むのは「オレの死に方の話をしてくれ」。

子供の頃に魔女の目の中で見た自分の死に様を息子に話してほしいと頼む…けど息子はその話は聞いていない。

ので、適当に話を作ります。 急場ですからね。 

その話に納得して目を閉じる父。 結局、ホラか真実か、ということよりも、お話を作る動機が肝心、そこのところに着地して、父と息子は和解…

最後に息子は父親並みのストーリーテリングをしてあげるって話です。息子から父への思いやりは父から受け継がれたスキルで。

教訓3: 心の真実は字面どおりでなくて良い。


■ 余禄: 日本でも海外でも逃げた魚は大きい

日本でも「逃げた魚は大きい」といいますが…英語でも同じのようです。

逃げた魚は大きい式に話が大げさになっていき膨らむことをTallTaleというそうです。

良くあるのは逃げた魚が巨大で自分の背丈ほどもあったとか、森であった熊…通り過ぎたのに激闘の末熊が負けたとか…まぁ他愛ない無邪気な作り話のことですね。

Fishyといえば、”怪しい”という意味。なので、FishTaleは”怪しい話”。嘘っぱち可(笑)。

それでも心の真実が含まれていれば価値あるお話なのだということでした。

でも、やっぱりパパは家族を愛しているから留守なんだということをしっかり家族には伝えておいたほうがいいでしょう…(^^) 

子供は動物と同じで見えた事実からしか判断しないので。いつか分かってくれる、というのは手抜きですからね。




読了 『動物の命は人間より軽いのか』

2012-09-13 17:56:58 | 読書ログ
■ 読了 『動物の命は人間より軽いのか?』

これは非常に考えされられる本です。
動物の命は人間より軽いのか - 世界最先端の動物保護思想

オオカナダガン…本人はどう感じているでしょうねぇ…。

基本的に生息域ではない日本の地に放され、適応。人間だって引越ししたら嫌でしょう。動物だって嫌だよね…

そして、その嫌々来た土地で自立(野生化)し、成功したら(繁殖したら)、なんと理由も無く迷惑だから、と言われ、首輪を付けられ、場合によっては、捕殺される。それも、もともといた日本の固有種と交雑(婚姻関係)になったら困ると言うせいで。

人間に例えると、日本人がアメリカに連れて行かれ、慣れない地で何とか自立し、家庭を持ち子供を育てるまでになったら、なんだか知らないが、”係りの者”が善意の顔をしてやってきて、迷惑だからと言われて、拇印をとられた上で、これ以上子孫を残すことは許されず、アメリカ人との婚姻は認められず、それが行われた場合は死刑です…と告げられる…。

どうです?

うーん、コレがもし人間界であれば、小説が一本かけそうですね。あわれ、オオカナダガンの生涯。ものすごい文学的傑作になりそうです。なぜなら理不尽の塊だから。

それも最初は”かわいいから”という見世物にする予定で連れてこられたってのですから。

オオカナダガンから見たら、自分に番号を付けに来るボランティアの人は味方でしょうか?

いや怪しいですね? 人間に置き換えたら、どこかの保護観察官気取りの人がやってきて、親切そうにしながらも、拇印を取られ、「君たちは監視下に置かれることになった」と言う…言われた側は意味わかんないですよねぇ?

オオカナダガンにとっての”この世の不条理”…これを思うと、”人間にとってのこの世の不条理”も、人間を取り巻くより上位の存在によって、自分勝手に引き起こされたのかもしれませんね?

■ 捕食動物の再導入?

この本では山の世界でもよく話題に登るオオカミの再導入にも疑問を呈しています。

疑問1 再導入されるオオカミは、もともとそこにいたオオカミではない。
疑問2 再導入されるオオカミの福祉(無理やり異なる環境に連れてこられるストレス)
疑問3 人間に育てられた一代目の動物の野生化にかかるストレス
疑問4 野生化した後、再度人間に脅威となり害獣されるストレス

動物の立場に立ってみると、小メイワクな話ですよね。絶滅させといて、増えすぎた被食動物をどうにも出来ないからと言って、試験管ベイビーされ、囲いの中で育てられた上、生きていくための準備もなしに、一か八かで厳しい環境に放り込まれ、ひいひい言いながらやっと適応したら、もともと自分達にこの運命を与えたものから敵視される…

わっけ分かんない!と叫んでますね、私なら。一体何が目的よ!と(笑)

で、仮に「鹿増えすぎたんです」という返事が来ようものなら、「自業自得でしょ、オオカミの知ったことじゃないわ」とでも言い返すでしょう(笑)

鹿の目から見ても、「なんだオオカミと人間はグルなのか?」と疑心暗鬼に(笑)

どれもこれも、”人間が神を気取っている”ために引き起こされた出来事です。

そこのところ、一番重要なポイント。 

 あ~なんで河口湖なんだよ~やってらんねー!by オオカナダガン(笑)

■ 結局、人間の神気取りの後始末なのだ!

動物界の異変も、自然界の異変も、あるいは何世代にもわたる家畜化のために形質異常(そう家畜はみんな異常なのです!)に陥っている牛、豚、鶏などの家畜、犬、猫などのペットがもたらす人間界への”不都合”…つまり、狂牛病や鶏インフルエンザ、人を嚙む犬や、機嫌の悪い猫、すべては人間の傲慢の結末なのです。

何世紀にもわたって、人間が自然界への、動物界への態度を変えなかったから。

ふと思うのは…、今、欝病で死につつある多くの人びと…のこと。

実は人間界が自然界と動物界に対してやってきたことが、そのまま自分達人間界のもっとも繊細な人たちに対して、相似形で起こっているのかもしれませんよね。

■ 命の重さ

個々の事情はどうであれ、尊厳を踏みにじられた自然界における命、動物界における命、人間の死は重くて、動物の死は軽い。 自分の死は重くて、相手の死は軽い。

実際、宗教が教えるのは、死の軽さです。死は恐ろしいものではなくて、内なる意識は肉体を離れるだけのことです。 

しかし、だからと言って殺してよいとは教えません…なぜなら死が重いのではなくて…たぶん、命が重いのです。死は軽い。死は必然。でも生は偶然なのです。

死はどこのだれにとっても、地球上のすべての生物にとって軽い。死は何万回と繰り返されたプロセスの一瞬に過ぎない。地球誕生の歴史において死は数え切れないほどありましたよね。死は生の入り口でもありますし。

一方で、死の対極にある”生”がこれは計りようも無く重いのです。

なぜなら、たぶん、生はこの上もなくユニークだからです。世界中に私と同じ人はまったく1人としていないのは不思議なことですね!!

ま、そういうことでオオカナダガンもちぇ!と舌打ちしつつ、北米で生きるはずだったんだがなぁ…なんで河口湖やねん!とぶつくさ言いながら河口湖ライフをエンジョイする…そのエンジョイの部分が素晴らしいことなのです。

以上おわり☆




飴と鞭・・・アメを自分に与えよう! 動物感覚3

2012-09-03 09:20:32 | 読書ログ
今読んでいる『動物感覚』では、馬の調教師の話が出てきます。

馬の調教は歴史ある職業ですが…動物の生態学の専門家の著者は、罰(鞭)による調教を薦めていません。

どんなタイプの馬にもベストの結果は残さない、という意見です。

一方、罰を使用して馬を調教するタイプの調教師たちはもちろん成功した例もたくさんあるから、そのやり方を変えないのですが… そうした成功例に入る馬達は、すべて、
・気性がおっとりしていて、
・体の作りもずんぐりむっくりとした、
・骨太(文字通り)
・額が狭い
なのだそうです。打たれ強い馬という訳ですが、面白いのは著者がこうした調教に”耐え抜く”という馬にとって障害であるという断定した表現をしていることです。こうした馬にとって、スパルタ式調教は耐え抜けるがベストではない。

逆に、華奢で足が速い馬は、賢く、神経質です。こうした馬は、手荒な調教には精神異常となり、外的心傷を負って
その傷は生涯治らない。耐え抜けずにイジケタ馬になってしまうのだそうです。

■ 日本の学校

考えてみると、私の小・中学校は、ヒドイ学校でした(笑) 完全スパルタ式でした。いや~私も良く”耐え抜いた”ものです。自分に拍手!

私自身があまり頑丈でも骨太でもなく、むしろインドア派で頭脳労働のほうが体育なんかより得意だということを
考えると、感動さえ覚えます(いいすぎか…)

私の実家のアタリでは、私の学校に限ったことではなさそうですが、子供を暴れ馬のように”矯正しなければならない対象”と考えていそうでした。まるで、性悪説…学校はまるで刑務所であるかのように、監視され、1ミリでも列を外れると小突かれる世界でした。(実際、竹刀とビンタは日常でした…汗)

これは誇張ではなく、私が子供の目で見た小学校はまさ刑務所でした…1、2年のときは女性の新任の先生だったのですが、毎朝のハンカチ、ティッシュ、爪きりチェックで、私の指は深爪を嫌う指なのに深爪にされ、年中血がにじんでいました…ので鉛筆を強く握ら(れ)ない癖がつきました。今でもキーボードが好きです。握力ないんですよね。

学校はなぜか冬でも半そで、半ズボンを強制しており、セーターを着るには親が書いたものを見せるか、先生の承認が必要でした。そして、はだし…一年中はだし…(汗) 水泳は教えるものではなく、竹刀を持った先生が怖くて、逃げるために対岸にたどり着くものでした…。私は文字通り逃げ出すために何度もトイレへ(笑)。

私は生徒会や色々な役職についていましたが…それはこうした一般の生徒を虐待するシステムから、多少なりとも例外扱いされるという特権が、私には好都合だからでした。生徒会をやるような有名な生徒であれば、行進中に見せしめのために竹刀でぶたれるというより、一番前で旗の四隅の一端を持ってゆとりで歩けるわけです(笑) 

ああ~なんてつらい子供時代だったのでしょう(笑)

実は、アメリカでベビーシッターをしていたときに送り迎えで見た、子供達の自由な学校生活は私には衝撃でした。授業中って立って歩いていいの?!みたいな…

思うに私の子供の頃のような種類の学校生活は、あまり物事を深く考えない、おおらかで元気な、骨太な子供には
合うのでしょうが、どうでしょうか…私の時代でさえ、そんな子供はむしろ少数派で、普通の子は先生=恐怖というストレスに縮こまっていたのではないかという気がします。

だから当時は『積み木崩し』なんていう本も出たり、不良やグレた若者が社会問題になっていました。窓ガラスを割り、バイクで廊下をぶっ飛ばした生徒は、実は厳しすぎるスパルタ教育が作り出したモンスターだったのではないかと…。

先生に対する暴力も結構ありましたが、それは、そもそも、暴力を学校が生徒に教え、暴力で圧倒することで優位に立てると理解した生徒は、黒サングラスに竹刀を持った男の先生ではなくて、新任の女性の先生を最初に狙う、なぜなら一番弱い獲物だから、とただそれだけだったような気がします…今となれば信じられないような世界ですが・・・私はラッキーにも小学校も中学校の年配の男の先生でした。だからあまり暴力経験はないのです。

むしろ、動物であれ、人間であれ、罰よりも、褒賞、飴のほうが学習効果が高いとこの著者は言っています。

私の子供時代には、子供を褒めて育てるという発想の大人は非常に少数派だったと思います。

一体これはなぜなのでしょうか…悪名高いスポック博士の育児書の影響?かどうかは分かりませんが、才能をつぶし、みんなと一緒であることに躍起になる教育よりも、個性を伸ばし、才能の息吹を見落とさない教育が大事であると、動物の行動学の本を読みながら思いました…

■ 自分で自分に飴を与えよう!

今大人である人たちがもしこのような教育を子供時代に受けていたら、才能はまったく発掘されなかったどころか
抑圧されている可能性があります。思い当たる人は今から自分の開花していない才能に、飴を与えてみましょう!

例えば、私はクラスで一番か二番に絵がうまく、入選は常、だったのに…勉強が出来ると言う理由で絵を描くのは
後回しに…

ホント勉強が出来た人は損をシテイマス…出来なかった人のほうが実はうんと幸せなのかもしれません。
なにより自分の適性を生かせたわけですから。

山だって、私は今こんなに山好きなのに、基本的にスパルタ方式の根性で何もかもを解決するような世界が
キライだ=体育会系はキライだ=山は体育会系、よってキライだ、という式により、キライとなっていました。

大人になるってああ、すばらしい! (笑)

ところで、私が見たところ、何千人もの社員が一つの工場、あるいは事業所で働くような日本の大企業の職場環境は アメリカの食肉工場の牛の扱われ方よりも悪いです…(汗) どうりで、性にあわないハズです。

こうした環境に”耐えられるのは”、集団を作る大型の被食動物…牛とか…だけなのだそうです(笑) 


『動物感覚』2

2012-09-02 13:40:55 | 読書ログ
■『動物感覚』2

動物感覚―アニマル・マインドを読み解く

『動物感覚』は、そんじょそこらの心理学の本よりも役に立ちます。

動物の過剰な攻撃性、人間を襲ったりする…はどのようなメカニズムで起こるのか?その恐怖と攻撃性の話のあたりを読んでいます。

動物の過剰な攻撃性を抑制することはできるのか?

ポイントは、その動物が、

・捕食動物か
・被食動物か

・集団行動か
・単独行動か

です。

大型の被食動物が集団行動をするのは、大量の餌が要るので広い草原に住まねばならないにもかかわらず、外的から身を守る手段が無いからです。大量の餌を必要としない小型動物であれば、小さな巣穴にもぐっているのが一番安全です。馬や牛などの大型の被食動物が群れるのは、防衛のため。

このような集団で過ごすことが自然である被食動物を、1人きりで育てると…本来必要な社会性を学ばないため、ちょっとしたことで不安に陥り、恐怖から手を付けられない暴れ馬や暴れ牛になるのだそうです。

単独では、馬も牛も、自分が何者であるかが学べないらしいのです。馬には馬の、牛には牛の社会的序列があることや、馬は人間とは違うこと…それを学べない。単独で飼われ、人間しか生涯見ていない馬は自分が人間だと錯覚している…犬も同じです。あるとき、子供を見ると…自分より小さいため、優位に経ってよいと感じるのだそうです… 

このような社会性が発達した動物…特にオスは攻撃性を抑制する手段としては、性成熟前の去勢とかあるのですが、一旦凶暴性が開花した後では矯正はほとんど不可能なのだそうです。一番効果があるのは年長のオスの存在なのだとか。群れの中に年長のオスがいるだけで、となりのオスとけんかを始めるなど、あたり構わぬ態度は取れなくなるのだそう。

うーん、昨今のイジメは、過剰に攻撃性の発達した男の子の、過剰な攻撃行動を教師の威厳が抑制できない、ともいえるのかも知れませんね。動物と比してみた場合。

動物は動物と突き合せなければ付き合い方を学ばない。子供にも赤ちゃんにも突き合せなければ、付き合い方を学ばない。 

みなしごのオスは凶暴な怪物になるのだそうです。草食動物は支配関係の体系に組み込まれてこそ幸せに暮らせるのです。

犬は捕食動物でも被食動物でもありますが、犬は社会性が発達した動物なので、アルファ(首位者)でなくて、ベータ(セカンド)でないと飼い主を飼う犬になってしまいます。情に流されやすい人間がこうしたモンスターを作ってしまう。だから日本の犬は危ないんですね~やっぱり思ったとおり。

犬が本来必要としている序列を無視し、かわいそうだからと構ってしまう飼い主は自分がキングだと思っている、モンスターを育ててしまう。

そして面白い発見は…好奇心は恐怖の裏返しだと言うことです。好奇心が強さは恐怖心の強さでも表せ、恐怖が強いほど、その恐怖の正体を知ろう、という動機が好奇心になるのだそうです。そして好奇心の強さは知性の高さに通じる。なぜなら、それだけ経験と刺激、学習の数が増えるからなのだそうです。

一般に大型の草食動物より、小型の動物のほうが好奇心が強いのは、大型の動物にとってちょっとしたことは脅威にはならないが、小型の動物の場合ちょっとしたことが脅威になるため、脅威に対して敏感になるということで、結局大型の動物より、小型の動物のほうがより賢さを磨くチャンスが多い、ということになる。

もう一つ面白かったのは、不安が強い動物は生き残るチャンスが、勇敢な動物より大きいがゆえに寿命が長いということでした。不安を避けるから、不安に感じるようなことはせずに安全領域から踏み出さないわけですね。

…これは日本人の世界最高の長寿の理由の一端のような気がしました…素晴らしい医療制度でも栄養でもなく、不安から、引きこもっているから長寿?かどうかは憶測ですが・・・(笑)

■ 狩りは本能か?

狩りというのは、捕食動物には必要な能力なので、猫であれば誰でも狩ができる。

ところが面白いのは、何を狩るべきで、どのくらい狩るべきで、と言った情報は後天的に先輩から学ばないといけないのだそうです。

例えば家猫は、小鳥を捕まえてもそれが食べれるものだ、と知らないわけ。他の猫が食べている状態を見て、やっと、あ、食べ物なのね、と分かるのだそうです。

普通捕食動物は、一度に食べれる以上の動物は狩らないのですが、それも教えてもらえないと本能の赴くままに殺戮を繰り返し、食べないで放置してしまう。

それが人間の目には、愉快犯のように見える…のは、この個体がそんなに狩りつくしては後々の食い扶持にあぶれる、ということを理解していないからだそうです。
自然界では狩りつくしてしまえば自分が飢えます…ところが人に飼われた動物は、食べものは人が持ってくるもの、と関連付けされていますから、動くものを狩りたい!という本能だけが生きていて、他に野生動物として学ぶべきことをかけているために殺戮モンスターとなるのだそうです。

これもなかなか面白い示唆です。足るを知ること…は教えられなければ、見につかない、ということなのです。

今生存に必要としている以上に何かを渇望してしまう…金であれ、地位であれ、モノであれ・・・は、自然界の掟を学び損ね、本能が赴くままに、突進している人間の哀れな姿なのかもしれませんね…

動物感覚

2012-08-19 19:50:33 | 読書ログ
今日も今日はお家で寛いで過ごしました。風はカラッとしていてさわやかで…お昼寝が最高でした! 山の装備の専用収納エリアを作ったりしてインドアライフ満喫です。

一瞬、夏の硫黄岳のものすごい強風を味わいに行きたい…と思ったものの…、一旦出不精になるとトコトン、ということで(笑)

夏の終わりのさわやかな一日でした。夏って終わると少し寂しいですね。
ああ~早く冬にならないかしら!!

今日は、そういう風に家事をしながら…読書三昧をしています。読書に疲れたら家事(笑)

■ 『動物感覚』テンプル・グランディン

まだ読み終えていない本ですが、この本は超おススメです!
 
動物感覚―アニマル・マインドを読み解く

「かわいい」と「かわいそう」で片付ける花鳥風月的な思考停止の動物愛護観から、

「実際のところ、動物の視線からは世界はどんな風に見えるだろうか?」

と人間が「自分から見てどう見えるか?」&感傷ではなく、きちんと人間が人間であるところの”大脳新皮質”を使って(笑)つまりちゃんと論理的に考えて書いています。批判に耐える、きちんと内容が検証されている本です。学術的なので読むのは手ごたえがある本ですが超おススメ。

かなり内容が濃い本なので、数回に分けて要約を書きます。もう付箋だらけで大変です(^^;)。

■ 備忘録 … 思索のヒント

・動物行動は「オペラント条件付け」(飴とムチ)で説明できると長い間信じられてきたが既にこの考えは古い。
・環境を動物の目で見ることが大事。動物は世界認識を人間が思うより多く、視覚環境に依存している。
・ストレスを受けた個体はそうでない個体より成長ホルモンのレベルが低い。
・ストレスは動物の成長を脅かす。だから動物の気持ちに無頓着な食肉工場経営者でも、動物に突き棒を使おうとしない。

★視力
・動物はたいていの場合、人間より視力そのものは悪い。
・たいていの動物は視野が広い。真後ろ以外は360度見える。
・被食動物は暗いところに隠れると安全だと感じる。
・動物は明るいところから急に暗いところに移動するのが大嫌いだ。コントラストを嫌う。
・人間は言語で思考する。一方、動物は視覚で考えるので、見えている細かいことに執着する。
・動物は暗視能力に優れているので、明暗の対比を強烈に感じるが、色彩は識別しづらい。
・そのため、例えば動物は床の上の強い対比を穴だと認識してしまい、先に進まなくなる。

・鳥は4色(紫外線、青、緑、赤)
・霊長類3色(青、緑、赤)
・哺乳類2色(青、緑)

・黄色はほとんどの動物にとって飛び出して見える。

★音
・動物はとぎれとぎれの音には定位反応(動物が生まれながらにもっている反応。生まれて初めて聞いたり見たりするものには自動的に興味を示すこと)を示す。突然聞こえる音や予期していない音には耳を澄ます。

★人間の脳と動物の脳の違い
・もっとも古い脳=爬虫類脳、古い脳=新哺乳類脳、人間の脳=大脳新皮質
進化は充分に機能しているものを捨てない。保存と言う。進化は古い家を壊して新しい家を作るのではなく、建て増しするのに似ている。
人間は絵の全体像にとらわれる。
人間は注意して、見なければどんなものも見ない。
・人間は見ると予測しているものを見る。
動物は一般化を行わない。
・人間は嗅覚を代償に視覚(色彩)を手に入れた。
・進化は「使うか失うか」が原則。

★遺伝子操作
・単一形質繁殖:ひとつの形質を変えると結果的に他の形質も変えてしまう。思わぬ結果を招く。
・悪いものが当たり前になる例:変化がゆっくり生じると悪いものが当たり前になる。
・人間は無意識に思わぬ淘汰圧を動物にかけている。
・白い動物には器質異常がある。精神異常など。青い目の犬は問題がある。アルビノは異常が多い。
・人間の黒人と白人には当てはまらない。白人は”白くない”。
・ホルスタインは大量の餌を食べるように人間が改良してきたため、行動が極端で何でも口に入れ弄ぶ。
犬は狼の幼獣である。犬は狼を人間が家畜化して幼形成熟させた動物。
・哺乳動物と鳥には人間と同じ「深層感情」がある。
人間には心の葛藤があるが動物にはない
・動物には「防衛機制」はない。否認、投影、抑圧、置き換えなどの心理状況はない。

★4つの情動
 動物の4つの深層情動:1.怒り、2.獲物を追う衝動、3.恐怖、4.好奇心/関心/期待
 4つの社会的情動:1.性的誘引と性欲、2.分離不安(母親と赤子)、3.社会的愛着、4.遊びと大はしゃぎ

★感情
・動物にとって ”期待”の状態はとても楽しい。「積極的な好奇心」「真剣な関心」「熱い期待」
・脳のこの回路が活発になると、人間や動物はおそらく、好奇心/関心/期待の3つのすべてが状況に合わせ、ないまぜになった気持ちになるのだろう。
生き生きとして、活発になり、たちまち興奮してあたりを走り回り、においをかいだり、探検したり、あちこち引っ掻き回したりする。
これを「探索回路」と呼んでいる。動物と人間には、生活に必要なものを探し出そうとする強烈な基本的衝動がある。

★探索衝動
・動物は好奇心が強い。 好奇心は用心の裏返しだ。好奇心があるから周囲に危険がないか探検する衝動に駆られる。
・動物も新しいおもちゃが好き。新しいことそのものが意味を持つ。

昔は探索回路は「快楽中枢」と考えられ、ドーパミンと結び付けられていた。「報酬中枢」とも呼ばれる。現在はこの解釈は否定されており、基本的なレベルで、動物と人間は猟を楽しむように作られていると考えられている。

つまり探索そのものに快楽を覚えるのだ。 人間はそれぞれの性格や関心によって、さまざまなものを探して楽しむ。蚤の市で掘り出し物をあさり、インターネットで医学上の問題の答えを探索し、教会や哲学講座で人生の究極の意味を模索する。こうした活動はすべて、脳内の同じシステムで生じる。

・動物も人間も「確証バイアス」を持っている。一つ目の事柄と二つ目の事柄を結びつけて考える。 確証バイアスは迷信を作り上げる。

■ 発見

発見は、人間は全体像に囚われ、抽象思考に囚われているということです。 

一般化や概念化が、”足りない”のではなく、囚われているのか…。

思考停止は一般化や概念化の不足、だと感じていました。私にとっては一般化、概念化ができるまで思考錯誤が続く… 反証するような事例が出てくると、よりよく説明できる論説を考え付くことに懸命になる…これが永遠に繰り返されることで考えと人間的な成長が深まると思っていました。

ところが、一般化しようとすることそのものが人間的限界なのだそうです。これは一考に価しますね。

動物は視力そのものは人間の視力よりも劣っていますが、見えること=考えていること…人のように、黒い穴をアレはただの陰だ、とは解釈しないのだそうです。

見たまま。それは赤ん坊や子供と同じですね。一方で人間が聞こえないような音階や音波、嗅覚による匂いは嗅げるので、それが人にはまるでエスパーの能力のように感じられるのだそうです。 カイルxyもエスパーじゃなくて実は心臓の鼓動を聴力で聞けたりする能力の話でしたっけね。

そういえば、昨日夫と夕方の散歩を楽しんでいたら、夫はゆりの香りに気がつかず、
ゆりの香りがすると言って、数メートル離れた場所のゆりに連れて行ってあげたら
感心されました。 夫は「なんで分かるの!」なんていいますが、私は「なんでわからないの?!」と言う…(笑) 

人間と動物も似た関係にあるのかもしれませんね…




読了 『日本の山を殺すな!』

2012-08-07 08:28:20 | 読書ログ
日本の山を殺すな! (宝島社文庫)


この本は、雑誌『岳人』の連載の書籍化で、1999年上梓、2005年文庫化と少々古いのですが、都会人が知らない間に日本の大事な自然、秘境はこれほどまでに破壊されていたとは…と平易な記述で解説されています。。

程度はどうあれ、年末の道路工事と同じことが国中の山岳地帯で行われていたんだなぁ。

年末の道路工事は人目につくだけいいですが、山や源流となると人目につかない…

■ 公共工事のための公共工事

基本的な構図は、公共工事のための公共工事です。 

 川にダムを作る 
  ↓
 河口で堆積すべき砂が減り、河口部を波が洗って海岸線の浸食が進む
  ↓
 漁業に大打撃 
  ↓
 じゃあ…、ダム堆積した砂利を吐き出す
  ↓
 その砂利についたヘドロが河川を汚染
  ↓
 魚も住めない川になる
  ↓
 海の側に堤防を作る =(別の公共工事)

公共工事が公共工事を生む。公共工事をしている限り永遠に公共工事しつづけられる。

ここに地元の利害が入っていることもあれば入っていないこともあり、その濃淡で地元がどう開発を受け入れているか違ってきますが、基本的に大成功というよりは
こんなに立派なものを作ってどうすんの…(要らない…という含み)です。

■ 問題が問題を作る

ところで、この構図…どこかでみたぞ(笑)?

 ・まず肥満体になってそれから痩せようとする。→ そもそも太らなければ良いんじゃないの?
 ・家中が要らないものであふれているから捨てる → そもそも買わなければいいんじゃないの?
 ・ビールを飲んで それから薬を飲む → そもそも不摂生をしなければいいんじゃないの?

構図が似てますね… まず問題を作って、それから問題だ!と叫ぶ。

余談ですが、こういう人会社にいませんか?そもそも、やらなきゃいい余計な仕事を作って、なぜか音頭取りに収まり自分の功績にしてしまう人…(笑)そもそもやらなくて良い仕事だったのに…ってことを覚えているのは周囲だけ…本人は問題を解決して鼻高々で昇進までしてしまう。

痩せたい痩せなきゃ!といっている知人は、痩せたいのにランチでビール…(汗)
それをやめれば痩せれるよ?


■ 裕福の証

公共工事のための公共工事は何より、日本が豊かで、他に解決すべき問題が無かったんだなぁってことを思い起こさせます。

他に解決すべき課題が無いから、みんなで公共工事で食っていたのです。他に産業がないからという理由で必要も無く、山を壊しては工事をして食べたんですね。

今はいよいよそれでも食べれなくなってきた、という感じではないですかね?

現に作りすぎてしまった堰堤は放置されつつあるそうです。工事は難しいところから手放される。ちょっと自然保護団体が物申せば、やめてしまいたい工事は山にいっぱいあるのだそうです。

日本にお金がなくなってきたことは少なくとも自然環境にとっては素晴らしいことです。カネの切れ目が日本の環境保護。

必要な工事もされなくなるかわり、不必要な工事もされなくなる。

必要な工事がやってもらえなくなるじゃないか!という点も考えられますが、本当に必要な工事なんてたぶん本当はホンのちょっとなのです。

それはシカ柵の設置ボランティアなどに行って見て感じます。資材なんて数百万規模…山に登る登山者が一日を山に登る代わりに労働提供してくれれば、シカ柵なんて簡単に設置できました…。昔間伐のボランティアを伊賀のほうでしましたがそれも作業そのものは同じような単純で簡単なものでした。

1の真のニーズのため、99の無駄をしていたような話。なので本質的には100をやめてしまっても困るのは1なのです。困ってしまった1の部分は1の努力で小さく解決するほうが、99の無駄を寛容しつつ解決するより地味に見えても効率的です。

例えばこれは他所で聞いてきた話ですが、道路を作ったら森が分断されてヤマネが
通れなくなり、ヤマネ君は親戚と生き別れになってしまったそうです。ヤマネが
通れるように橋を架けるとその橋が一橋200万円もするんだと。
その道路、樹幹が閉じることが出来ないほど広い2車線道路なのです。最初から
2車線道路の幅で作る費用が無ければ要らなかったのです、ヤマネの橋。

人間というのは弱いので一番重要性の低い問題から取り掛かる…飢えでも病苦でもなく(社会保障)、環境破壊(公共工事)。

今まで公共工事に携わっていた人たちには今現に困っている介護問題の解決に回ってもらったらどうなんでしょうか(笑)

■ アクション!

数ある環境破壊のうち、登山者自身のアクションが可能なのは、特に次の3つでした。

その① 盗掘しない
 
  日本では山野草の伝統は山で採って来たものを愛でる、だそうです。ただこのやり方はどうせ
  植物は死にます。なぜなら環境が違うからです。 

  西洋のやり方は、
   1)専門化が栽培方法をまず確立させる 
   2)生産する 
   3)消費者が購入する
  で、下界の環境に植物を帰化させる作業が先にあります。そこに専門家の
  知恵が詰まっているというわけですね。
   
  園芸植物と自然植物は違う。それはペットと野生動物が違うことと同じだと理解すべきです。
  犬が好きだからって熊は都会で飼えないでしょう(笑)?

その② 稜線の小屋ではおしっこのみで

   山のし尿処理は 

    稜線部=ガレ場から地下浸透
    土がある場所:バイオトイレが可能 
    車道がある場所:汲み取り
  
  だそうです。土があるかないかで分解できるかできないかが分かれる。尿は無菌ですが
  大便は大腸菌などで山の環境からみると外から持ち込んだ生物、と言う要素になります。
  要するに稜線ではおしっこはOKだが大便はNGってことですね。

その③ 混んでいる時期に山には行かない

   立山や白神、屋久島、どこもオーバーユースが問題になっていますが、混んでいるのは
   年でもホンの数日ほど。 そういう時期に行かないことですね。

   行けばさらに欲に目がくらんだ人たちがさらに駐車場のキャパシティをあげてくれと
   陳情することになります。 これは東電が真夏の最大電力使用量を元に電源開発のニーズ
   を訴えてきたのと似ていますね。ホントにそれが要るのは、365日のうち2~3日かも
   しれないのです。けれども破壊された自然が回復するのは何百年の話。


■ 備忘録

北海道 夕張岳: お気楽道楽ー山野草文化の盗掘の温床に。
早池峰: 道路を作りすぎてオーバーユーズ
立山: 地元も疑問視する大規模観光開発
穂高: 涸沢のガレ場=巨大なし尿濾過装置
黒部: 破壊された川
北ア: 作りやすい順にどんどん砂防ができる 砂防作り放題
上高地: 永遠につづく浚渫
白神山地: 世界遺産に登録されたせいで地元民も入れない
屋久島: 世界遺産にむらがる利権争い
日高: 道路でまた環境破壊
朝日: 道路でまた環境破壊