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育英奨学金

2014-12-19 12:55:58 | 魂と心の成長

今年も育英会の奨学金の返還の時期が来た。

卒業して、何年になるだろう…私は両親から大学に出してもらうことは期待できないのに、3年先のことを考えもせず、普通高校に進んでしまった。学校は進学率100%で就職の道はなかった。進学せざるを得えなかった。実家は私学の高校生を二人抱えて期待できず、それで自力で夜学に行った。夜学は5年制なので、ストレートに卒業しても5年かかった。フルタイム勤務で働きながらだったので、常時時間に追われた。

3年目で休学して、2年間アメリカに渡った。2年、これで遅れたので、卒業はさらに遅れて、トータル7年かかった。小学校より長く、学校にいたことになる(笑)。帰国したら、学内に知っている人は、ほとんどいなくなっていた。教務課の人が、おかえりと言ってくれた。渡米は自力だった。

帰国後、教官に外国人の先生を選んだので、授業は英語での討論だし、卒論も手を抜けなかった。語学学部は出席率に厳しい。生活のための仕事にそんなに精を出せなかった。そんな調子だったから、卒業した時も帰国時と同じくすってんてんだった。卒業したタイミングも悪く、就職氷河期。

就職氷河期で、就職率は先輩たちで25%だった。同級生で、まともな就職ができた人は、外務省の一人と教職についた一人くらいだ。一般企業に行って、まともに就職できた人はいない。みな大学院に逃げ込むか、地元に帰って親元に身を寄せていた。どっちの選択肢もない同級生の一人は、バイトで入ったマツダの工場にそのまま勤め続けた。その後彼の訃報を聞かされた。自殺してしまったのだ。他の同級生は、何年もバイトでファーストフードの店長を務めたが、正社員には登用されず、失意のうちに親元に帰った。農家を継いだのだと思う。私も院をしきりに勧められた。が、卒論しながら、バイト生活は大変すぎて、これを続けるのは無理だと思った。学内には先輩がいっぱいいて、教授ポストは糞づまりだった。子供を3人抱えた助手がコマで教えていたが、妻の収入がないと生活が成り立たないと言っていた。

卒業時25歳だったので、一般社会では新人とは言えず、勤め先探しは難航した。たまたまバイトしていた先の人が目を掛けてくれて、なんとかひねりこませてもらった形だ。だから、入社直後から即戦力扱いだった。派遣社員のスキル採用だった。その頃、小・中・高と同じ学校の地元の大親友が、初出張で遊びに来てくれた。一緒に青春18切符する仲の人だ。一ツ橋を出て、製造業の営業部に入った。私と製造業で同じだが、私は開発部で向こうは営業にいた。

当時、派遣は今のように”ちょっと高級なバイト”というくらいの”誰でもできる雑用をコストダウンするために派遣に置き換える”常套手段のではなく、プロでないとできない仕事の外注、という位置づけだった。第二新卒という言葉はまだない。派遣で行く人には、最低でも2年間の該当実務の実務経験とマイクロソフト製品が、よどみなく使えるという、まぁ常識的なITスキルを求められたが、それさえできない人が既存社員の中には大勢いた。語学では、私は通訳経験があったけれど、単発なので経験値には換算されず、パソコンも同じだった。しかし、入ってみれば、私がワードやエクセルの使い方を教える側で、教わる側にいることはなかった。アクセスはゼロからデータベースを起こした。キーボードはブラインドタッチだった。中学生から学級新聞をワープロで作っているのだもの、当然か。家に帰るのは10時が普通だった。

仕事を初めて1年目、26歳の頃、弟が24歳で亡くなった。弟には彼女が3人もいたらしくてびっくりした。帰ったら、実家に弟の靴が150足もあって、それにも驚いた。私はまだ長屋に住んでいた。トイレは共同で風呂なし。

弟が死んでから、しばらくして、妹が自殺未遂でICUに入った。それで妹を大阪に引き取ることになった。妹は短大を出て、地元で親元に住み、親が就職斡旋した会社でOLをしていたが、妻子ある人を好きになり、捨てられたのだった。私は長屋から抜け出して、恋人と二人で、やっとトイレとお風呂がある、普通のマンションに入って、まだいくらも立っていないところだった。当時はまだ、よく友達が遊びに来てくれる家だった。大学の友達と週に一回クラブに通ったりしたけれど、アメ村のすごく安いところだ。一杯1000円くらい(笑)妹はすぐ元気になった。そして元気に宮古島に旅立っていった。

子供の頃、自分ができることが弟や妹にもできると思ってはいけない、と言われた。それはただ年長さんだからだ。

6歳の頃、両親が離婚した時、弟は4歳で母親が仕事のために出かけようとすると泣き叫んで嫌がった。この年齢の子供には普通だ。それで私が抱っこしている役目になった。妹も弟も母恋しくすごく泣いた。妹は母親と間違えて私の膝に攀じ登りたがった。でも私も6歳なのだった。

母が帰宅して、お茶を入れてあげると喜ぶので、自然に夕食を作り始めた。8歳の頃だ。でも、子供のことだから、味噌汁と卵焼き、ごはん、くらいのことだ。買い物にいく時間が母親にないので、私が買い物に行く。八百屋さんが重いだろうと言って、みかんやさつまいもは配達してくれるときがあった。弟は6歳、妹はまだ4歳だった。その習慣は私が15歳になるまで続いた。自宅に帰ると家事優先で、受験勉強をする時間は取れなかったので、自宅に帰らず友人の家で夜は勉強して、朝は6時からパン屋でバイトしていた。バイトは禁止の学校だったが、気にしている場合ではなかった。

24歳。私はアメリカでありとあらゆる手段で四苦八苦していた。同じ年齢で母は一人目の子供を産んだ。妹はICUに入っていた。

28歳の時、私は研究所所属になった。個人事業主契約だった。母は3人目の子供を産んだ。妹は宮古島に移住した。都会は体質に合わないのだそうだ。その後、海外に渡った。

祖母は45歳で、”おばあちゃん”になった。母は当時24歳で初産だ。私は40歳を超えたが、子供は授からなかった。今後授かることはないのではないだろうか?

母が人生のパートナーを失った28歳はまだ子供だ。そんな年齢で3人の子供を抱え、30歳の飲んだくれの亭主を持っていては、どうしてよいか分からなかったに違いないと思う。祖母は、その時50歳で老いを目前にし、女ひとり生きていく決断をするのは、壮絶だっただろうと思う。一方で、若年30歳の若者が、3人の子供と妻を捨てて、自分の夢を追っても、仕方がないのかもしれないし、まともな仕事がない地方で仕事が続かないと言っても仕方ないのかもしれない。それで生まれてしまった子供は一体どうしたらよかったのだろう?弟も妹も私も。そして母も。

育英会の奨学金の封筒は、いつも私にこうしたことを思い出させる。あと何年あるかな・・・

山をめぐる自立は、人生の自立や役割分担ととても似ている。

充分、能力が備わった人に役割が巡ってくるのではないのかもしれない。いつも背伸びをしなくてはならない人といつも誰かが面倒を見てくれる人がいるものだ。

そして、たいていがその事には長い時間、気付かれないものだ。相手の立場に立つことがないと気が付かない。

 


関係欲

2014-11-20 15:50:18 | 魂と心の成長

■「心の自立」

登山では、依存心の強い人は万年セカンド、という位置づけになりやすいので、依存的な心をどうやって自立心に導いて行くのか?ということに、興味が湧き、『心の自立』という本をたまたま読みました。

結論から言うと、この本はすごい本です!

しかし、私にとって新鮮だったのは、自立の項ではなく、「関係欲」という項目でした。

■関係欲で結婚すると結婚が苦痛になってしまう

もし結婚生活が上手く行かなくて悩んでいる人がいたら、この本の関係欲という項目は、必読です。

つまり、人間には「愛」と一見ソックリの「関係欲」という欲があるのです。

ある人と関係を持ちたい!という欲です。関係欲は、嵩じると嫌がる相手に無理やり交際を迫って、ストーカーまがいのことをしてしまう、というような心です。

それは相手のためを全く思っていないので、どこが愛なのか?ということになりますが、本人は好きだからと信じ込んでいるし、また周囲もそれを受け入れてしまうような土壌が日本にはありますね。熱烈ファン、というようなことで迷惑行為が許されてしまいます。

が、どう考えたって変ですよね。相手が嫌がっているのに押しかけるなんて。

この「関係欲」について知ると、「結婚は3年で飽きる」とか「男はみな浮気したがっている」「妻(夫)がいなくなって清々した」などの発言をしなくてはいけないような、結婚が、「愛情」ではなくて、「関係欲」に基づいて行動された結果だと分かります。

そうした場合、生活がすでに築かれていたり、子供がいたりすると、その「関係欲」に基づく「関係」は、より解消しづらくなると思いますが、基本的に愛に基づいていないのですから、本当は解消した方が良いのかもしれません。

・関係欲とは? 
 関係を持ちたいという欲
 相手が自分に応じてくれることを求める、自分のための要求

 関係欲      愛
飽きる      飽きない
疎ましく思う   思わない
一遍に覚める   続くもの
自分本位     相手本位
恨み・憎しみに転嫁する 転嫁しない
重荷となる    重荷とならない
嫉妬の対象   嫉妬の対象とならない
執着心      執着の対象とならない

愛:相手が何をしてくれるかにかかわらず、相手のためを思い差し出す心

・関係欲の場合は、自分が構ってもらえないとなると、一切の貢献の努力は失われる
・それどころか、関係を迫って危害を加えたりなどという、とんでもない行為に及んだりします。

例: 好きだから別れたくないと言って嫌がる相手を包丁を持って追いかけた。
   交際を断られた相手を誰かにとられるくらいならと思って、殺してしまった

■ 一歩進んで見分け方

モノゴトは、裏側からも見ることができます。ので、いつも思うのは、

 ・飽きてきたら、それは愛ではないのではないか?

 ・疎ましく思ったら、愛ではないのではないか?

 ・にくく思ったら、愛ではないのではないか?

 ・嫉妬したら、愛ではないのではないか?

 ・執着したら、愛ではないのではないか?

などの、”質問力”を常に使い、自分に問うことではないか?と思います。

そのような残念な結婚をしている人は、たいていは「結婚とはそのようなものだ」という自分にとっての真実を、あたかもすべての人にとっての真実、であるかのように語ると思いますが、そのようなことが真実であれば、人類の歴史の中で婚姻システムと言うのは壊れて締っているはずです。

そういう場合は、その人は単純に結婚した時点で、「愛」と「関係欲」が見分けられるほど、成熟していなかったということなのでしょう・・・

残念ですが、お気の毒という以外は、他人からは手の施しようがありませんね。


誕生日です

2014-09-08 14:40:07 | 魂と心の成長

今日は誕生日で、朝からFBで友人たちからメッセージをもらいました☆

大変ありがたいことです。ありがとうございます。

この歳になりますと、単純に喜ばしいわけではないよ、という穿った見方をしてしまいがちな誕生日ですが、そういうひねくれ心は、この際、胸にしまっておきましょう。

モノゴトには多面的な見方があるということを知っているのは、知能(IQ)がなせる業ですが、今は感情、エモーショナルEQを高めるべきときです(笑)

贈り物は送り手の真意を正しく受け取るのが大事です。みなさんのご厚意、深謝しております。

■ 飽き

私は老顔で、12歳で、すでにはたちと間違われている大人子供でした。

大人としての責任を取り始めた年齢も、一般的な年齢と比べ、若かったので、大人として生きた年数を数えると、すでに30年くらい続いているような気分です。

つまり、自分が一体何歳になったのか、よくよく数えないと、よく分からないような感覚を持っています(笑)。

つまり、少々飽きている。その”飽き”が、私のテーマです。

■何歳になっても中身は ”わたし”

高校生の頃、30歳はおばさん、だと思っていませんでしたか?

しかし、30歳になったとき、その中身は、まだ17歳の私と同じでした。みなさんもそうではありませんでしたか?

そこから想像すると、50歳、60歳、いや70歳や80歳になっても、中身の自分は、あの17歳の自分のままだと気がつきませんか?

そう気が付くと、やおら、空恐ろしい気もしてきます…。まさか、この”自分”と、あと、ん十年付き合っていかなくてはならないのですよ・・・(汗)

話を戻しますと、ヨガが輪廻転生を教えるとき、この、何歳になっても中身の自分は変わっていないこと、が根拠です。

つまり、肉体の経年、つまり年齢を重ねることはあっても、中身が変わっていないのですから、いつかは、この肉体が経年劣化しすぎたときは、肉体を脱ぎ捨てるはずだ、というのです。

どうです?肌感覚として納得しませんか?

■ 自分を脱ぎかえる

いや17歳どころか、3歳の自分と同じですよね。

でも17歳としたのは、幼児は自分で”ジブン”が、難しく言えば、自我が、分かっていないからです。

人はどうやって自分らしさを作っていくのでしょうか? お母さんから、良い子にしなさいと言われたら、良い子になるのでしょうか?

芸術家などの分野では、先天的な才能の有無と後天的な努力のコンビネーションが決定的ですが、芸術家でなくても、それぞれの”ジブン”は、素養があった上に、後天的に花開いたもの、とするのが一般的かもしれません。

タネがあるところに水を撒かなくてはならない、ということですね。

タネがそもそもなければ、水を撒いても花は開きません。

種を持っているか、いないかは、どうしたらわかるでしょう?

それは、難しく考えなくてもいいのです。何をしていて、楽しいか?と考えると、それがタネ、自分、自分らしさ、です。

楽しいこと、が、自分の タネ です。言い換えれば、自分らしさ、です。 

ヨガが心を羅針盤にしろ、というのはこのためです。 

(ちなみに ヨガでなくても、たいていの自己啓発本には、そう書いてあります。)

そして、水を撒くことが、自分がこの人生でやるべきことです。

■耽溺しない

凡人、小人の持つ、ギャンブルをしていても楽しい、キャバクラで女性にモテていたら楽しい、お酒を飲んでいたら楽しい、宴会していたら楽しい、ショッピングしていたら楽しい、などなど…から、過去の時代の暴君のような、放蕩していたら楽しい、大量殺戮していたら楽しい、など、”楽しさ”にも、色々ありますが…

ちなみに、身を滅ぼす楽しさは、後で虚無感になって襲ってくるものです。

そういう楽しさは、最初が一番楽しく、後になるほど、むなしくなり、もっと強い刺激を欲しがるようになります。

これはアーサナ(ヨガ)でも、山でも同じです。より難しいアーサナへ、より難しい山へ、と駆り立てられ、そのキリがないのは、ギャンブルや飲酒と同じく、耽溺です。

仕事もいうなれば同じです。クライミングでも同じです。スポーツは向上心という免罪符を持って、耽溺を許容しているので、要注意です。

病気や怪我や事故がその予兆を知らせてくれます。ので、怪我をしたら、耽溺を疑いましょう。

心に充足感をもたらすものは、次から次へ…とならないものなのです。

なぜなら、満たされるからです。

それが、第二の見分け方です。

■満たされた人々は成功を求めない

世の中の満たされた人々は、すでに満たされているので、人に与えることを考えるようになります。

どの時点で満たされたと考えるか?は、人それぞれです。100円持っていても満たされる人もいるし、100億円あっても満たされない人もいます。

億万長者など大抵の目立つ”成功者”は、ハングリー精神が旺盛です。現状の社会システムでは、そうでないと、企業経営などできないからです。

巨万の富を築いた後、慈善事業の基金などを設立して、新たな”与える””分かち合う”というミッションを見出します。最近の有名な人では、ビルゲイツ財団とかですね。

そういう意味では、大きな成功(知名度や富)を収めないと満たされたと感じられない人々は、より少ない物質で満たされたと感じられる人より、精神的成熟度が低いと言えますよね。

平たく言えば、ある人は100万円与えられただけで分かち合おうとし、ある人は100億円与えられないと分かち合おうと発想できない、そういうことになります。

どちらがより成熟しているでしょうか?

無名の人々、巨万の富を持たなくとも、分かち合おうとする人々こそが、真の賢者であると言えます。

ジーザス・クライストは、奇跡により、聖なるパンとワインを作り出し、人々を満たした、とされていますが、史実的真実は、少ないパンを大勢で分け合ったため、皆の心が満たされた、というものです。

■ 人間の器

お皿は子供に割られても、笑って済ませられるだけのものを使いなさい…それがあなたの器です…と言われますが、同じことが ”分かち合い”にも適用できます。

お金を貸してほしいと言われたら、貸さずに、差し上げても苦にならない金額を差し上げる。

どれだけ分かち合えるか?は、分かりやすく言えば、その人の人間の器次第です。

差し上げたあと、あるいは分かち合ったあと、嫌な気持ちになったならば、それはそうするべきでなく、自分で自分の幸福のバケツを満たしているべきだと言う意味です。

まずは自分で自分の幸福のバケツを満たし、あふれ出た分を分かち合いましょう。

多くの人は、人に自分の幸福のバケツを満たしてもらうのではなく、自分で満たすことをまず覚える必要があります。

■親切のし過ぎに注意

分かち合いをしていると、こんな人に対して分かち合って損した、という気分にさせられることが良くあります。

世の中には、もらっても、もらっても、もらい足りない人もいます。そういう人につかまってはいけません。なぜなら、他の人に与えることができなくなるからです。

ただ幸福はゼロサムゲームではありません。戦後50年の競争社会は、幸福がゼロサムゲームだという幻想を生み出したので、間違って理解している人も多いです。誰かの不幸がなければ、自分の幸福がないというわけではありません。

たとえば、先進国の豊かさは、第三世界の貧しさに立脚しているとみなすこともできますが、第三世界の産業が栄え、各国が豊かになることが、先進国のさらなる豊かさをもたらす、と考えることもできます。

■ ねぎらいを求める

誰だってありがとうのねぎらいの無い親切には疲れ切ってしまうものです…それはローマ教皇や、ダライラマだってそうでしょう。ただ彼らは、そのような羽目には、なかなか遭遇しないモノと思われます。

市井の人々は、ダライラマのように無条件の尊敬を得れるわけではありませんから、これも市井の賢者たちのほうが、権威の衣をまとった賢人たちより、より困難な状況での試練を受けていると言えます。

市井の賢者の皆さん、自信を持ってください。

というわけで、今日は、名もなき天使たちへの応援でした☆


ひと夏の反省

2014-08-19 22:57:58 | 魂と心の成長

■ 夏の終わり

お盆が終わると、もう残暑と言われます。今日はとっても暑くて、エアコンなしではやって行けない感じですが、それでも残暑。

そして、夏の終わりの気分は、というと、反省会です。いつも”何を成し遂げ、何を成し遂げなかったか?”を自分に問います…。

What have I achieved this summer? 

そう、夏はアクションを問われる季節です。さらに言えば、アクションの結果を問われる季節ですね。 が、私にとっては最も行動を起こしづらい季節なんですよね。

というわけで、毎年夏の終わりは、毎年、少々挫折感を感じる、という巡りあわせになっています…(^^;)

■チャンスをつかめなかったワタシ

今年のお盆は、複雑な心境での旅でした。体調がイマイチなのは、プライマリーな理由ではなく、私に知人伝いで、ある求人の話が舞い込んだのです。

ところが、私はクオリフィケーション的に、その求人には、ちょっとミスマッチでした・・・。3つある条件のうち、一つを満たしていなかったのです。たった一つだけ…。それは英語を教えた経験、です。

これは、キャリア方面は、すっかりお留守にして、安心しきっている私に神様が、キャリア方面でも、爪とぎを忘れてはならぬ、と、警告してくれているのかもしれません。

■ 女性と社会貢献

就職したい…というのは、正直な所、正確な表現ではないかもしれません。

就職というより、自分の持って生まれた能力を気持ちよく生かす場を持ちたい、という気持ちかもしれません。

登山にハマった理由は、まさしく登山で私の才能が生かせるから、に他なりません。

結婚して家庭を持っても、持たなくても、働くかOR働くか、しかの選択肢がない男性諸氏にとっては、ある意味、女性は羨ましい存在かもしれません。

女性には、働くか働かないかの選択肢があるように見えるからです。が、それが選択肢であるのは、自由で豊かな労働市場においてのみです。私の職業は、主に本社機能に属すものだったので、いわゆる本社が、そもそもないような土地に来てしまうと、自動的に失職します・・・が、仕事のために、夫を残して大阪に残る、という選択肢はないわけで・・・。男性が優先権を持つ、ということでやはり女性は適応することしか選択肢はありません。適応の結果が専業主婦ということです。

逆に 夫は私がニュージーランドでヘッドハンティングを受けても、やっぱりついては来れない(つまり適応はできない上、主夫にもなれない)ので、私が夫に合わせるしか選択肢はありません。

ヨガの教えでは、女性には夫を通じて与えられる、という運命もある、と説いています。

その女性がもっとも社会に貢献できる道が、家庭経営を通じてであれば、それは、その女性に与えられた仕事です。居心地のよい家庭を運営すること、子を産み、育てることは、生涯を掛けてやるに値する仕事です。

逆にもし、社会が親に時間を与えず、その結果、親から十分に時間を与えられなかったことによって、十分な愛情を受け取ることができなかった子供を増やすと、それは、ある意味、社会の害悪でさえあるかもしれません。

子供の頃に、十分に自尊心が満たされていないと、そのことは、生涯その子供を苦しめるばかりか、周囲の人々の苦労の種になってしまいます。たとえば、犯罪者には注目を惹きたい、認められたいがために、犯行に及んでしまう人が少なからずいますし、アルコールやタバコ、買い物などの依存症の人も大抵がそうです。

そこまで行かなくても、常に賞賛や承認を求める人になってしまいますよね。逆に、親から十分、時間と愛情を注がれた子供は、大人になって、他の人の時間やエネルギーを消費する人にはなりません。

今の日本社会を見渡すと、愛情と時間の代わりに、金銭を注がれた子供はいても、十分に親の愛を受けた、自己肯定感の強い人は少ないのではないでしょうか…。

だから、常に人と比べ、人と同じことがしたくなり、人が持っているものが欲しくなる。

経済的に主婦の経済効果を推し量ったデータなどもありますが、そんなことより何より、主婦がやりがいがあり、必要とされる職業であるという真実を如実に示すのは、私のかつての上司たちの家庭がほぼ専業主婦、ということです。かつての私の同僚たちも、妻が家庭にいるか、家庭に主軸を起き、フルタイムでは働いていない家庭の人がほとんどで、男性並みに働くフルタイムの妻を持っている男性は、日銀に努めている女性のおひとりだけでした。つまり、社会で働くということは、ハンデの無い男性でさえも、妻の支えを必要とする、というのが真実でした。

私も本音は妻が欲しい… 快適な家庭と温かい食事、清潔なベッドと衣類…安心できる場所が常にスタンバっている状態。

現代は男女平等が発展途上の、男性中心の社会ですから、仕事において、ハンデがあるのはむしろ、女性で、妻が必要なのは、女性です(笑)。 ハンデがあるのに、男性と同じ成果を求められつつ、労働の対価である賃金は男性に譲り、そして、家庭でも手を抜けない…のが、私が知っている女性たちの働く姿現実でした。自分も含め。

大概の男性は、家に帰るとスイッチが自動的にOFFになりますが、女性はOFFにはできない。帰宅して、お茶を入れるのは私です…疲れた~と家に帰ってからも、仕事が待っているのが女性。

まぁそんなわけで、私自身は、女性が外に仕事を持たなくても、安定した家庭を作っているだけで、十分素晴らしい社会貢献をしている、と思います。社会の平和は家庭の平和から、は真実ですし。

社会に貢献している夫を支える、という貢献です。 私も、夫は、私などには到底できない高度な仕事をしていると思うので、彼が仕事をしやすい環境を整えることが、結果的には、私の社会貢献であろう、と時に思います。

ただ、一方で、私は家事の才能豊かな方ではないのは明らかな上、子供もいないので、家庭を切り盛りすることが、私の社会的貢献のすべてだと言い切るのも、たぶん、ちょっと違うような気がします。家事は私にとっては出来るけど、出来るだけのことです。学生時代は家庭科は5でした。が理科も5だったし、国語も5だったんですよね。私が最も強みを発揮できるのは論文です。

しかし、私の持っている得意やスキルは、使い道を発見するのが難しいコンビネーションらしく、常に頭を抱えています。

ので、余っている時間と労力の有意義な使い道を常に模索しています。簡単な言葉でいうと、”やりがい”のあることですね。

■ やりがい

やりがいがあること、と言うと、やはり、第一に人間が考えるべきなのは、他の人の役に立つ、と言うことです。

私はその場合、たくさんの人に役立ちたい人と、少数の人の役に立ちたい人に傾向として分かれると思います。

誰もが他人からありがとうと言われるとうれしいものですが、多くの人の役に立つことがより大きな喜びとなる人は、名声を求め、間接的な”ありがとう”を多く受け取る人です。

逆に少数の人の”ありがとう”が心に響く人は、一体一のコミュニケーションに長けた人です。私はこちらです。ヨガを教えていると、一人の人が成長し、変化するのを見るとこの上ない、充実感を感じます。一対多のコミュニケーションは、むしろ苦手です。コンサルティングはできるけど、大教室での黒板での講義は苦手です。

私はこのブログを書くときでも、大抵は、誰の役に立つか?ある一人の人を思い浮かべながら、書きます。それは自分であるときも、もちろんあるのですが。ともあれ、読者を想定することは重要です。

■ 学びと後悔

ただ、すべからく人は、究極的には、自分自身の学びのために、今世を生きています。私自身、なんらかの”学び”があって、すべての時間を過ごしているわけです。

人生は有限で、しかるべき時にしかるべきことをやっておかないと、のちのち後悔の時間を過ごすことになってしまいます。

後悔の有無が人生の成否の指標となるくらいです。

私は、この仕事を受けることができそうにないので、英語を教えるという経験を少しでも、積んでおくべきだったと今感じています。

ということは、今からするべきことは、英語を教える経験を少しでもいいから積む、ということかもしれません。

ということは、登山という活動を通じての学びは、一つの区切りにあるのかもしれません。

≪登山で学んだこと≫

・変わることを恐れないこと
・適応すること
・10の力があれば、8の力で山に登るべきなこと
・「勇気ある撤退」と言うように、ある時は手放すこと
・「山は自己責任」の”自己責任”は、単独とは限らないこと
・”個の自立”から、夫との”相互補完・相互依存”へ。生かし生かされる関係へ
・今、何ができるか?と常に問うこと
・常に前を見ること
・観察と経験から常に学ぼうとすること

と言うわけで、少し考える時間が必要です。

まぁ人から見れば、常に考えてばかりいるような感じの私ではありますが…

 


登山を通して理解したこと

2014-07-16 09:06:33 | 魂と心の成長

ここ数日、甲府は大変暑いです。今年甲府は7月11日から夏日に入りました。

そして私は、その夏日初日にクライミングウォールでノースリーブのタンクトップで壁に張り付いていて、肩をうっかり日焼けし、今もう皮がむけてきています。人工壁で壁にへばりついていたのは、ほんの10分程度だと思うのですが、湿度を含んだ空気を通った紫外線の威力は侮れないみたいです。完全に焼けすぎになっています。日焼けしやすい私は、この週末のクライミングで日焼けし、すっかり”夏休みの子供状態”です。つまり幸せいっぱい!ということですね。

■ 私の山

私は夏は暑いので、涼を求めて沢を歩きたいと思っていました。もうそろそろ涼が欲しくなる季節になりましたが、今年は、北岳バットレスという課題が浮上しました。北岳バットレスは、私という登山者の身の丈以上での山であり、全エネルギーを集中投下しないと実現しない。そのため、今は沢はお預け感が少しあります。

北岳バットレスは、私らしい山か?というと、たぶんそうではないと思いますが、北岳バットレスに行きたくない登山者はいません。登山者なら誰もが行きたい山です。ただ行けるとは思わないから行かないだけで。私自身、まさか北岳バットレスに行くという可能性が、ほんの指先の先っぽだけでも浮上してくるとは思ってもいませんでした。

それは、鹿島槍鎌尾根や西穂高沢、あるいは屋根岩2峰や小川山レイバックにしても同じです。まさかこのような山に行ける日が自分に来るとは思っていなかったのです。どの山も名前さえまったく聞いたことのなかった山でした。

考えてみると、これらの山は日ごろの読書や苦手である人工壁でのクライミングを続けているというような、日常傾けている地味な努力に対しての、ご褒美というような感じですが、実際のところ、これらの山が可能になった事情の半分は、私自身の努力の結果ではなく、ベテランたちにとっても、山の同行者を得るのが難しいという山岳業界の事情によるものではないか?と思います。

同行者ってそれほど得るのが難しいんですね。 自分の行きたい山に一緒に行ってくれる人がいないって意味です。

まぁ、私は単独大好き派で、ロープのイラナイ山に夫以外の人と行きたいと思ったことはないので、いつでも誰かと行きたい、という気持ちはあまり分かりません。

■ パートナーを育てる

パートナーを見つけるのが難しいので、パートナーを育てる人もいます。 

その場合のメリットは、自分好みの登山者に仕上げることができる、ということです。 

ハイキングにも行ったことがなくてバリエーションに登っている人もいるらしいので、不思議におもったら、そういうことでした。

私にとっては、登山は経験ゼロから積み上げる、発見のプロセスを愉しむものなので、そのような、いきなり感のある成長の仕方もあるということにビックリしました。 

『華絵山に行く』という本を前に読んだときにもそう思いました。一人では高尾山にも行けないのに、冬の穂高とか行っちゃった女の子の話です。クライミングジムにヘルメットを持って行って笑われるんですよね。

私がそれ以上に驚いたのは、育てる人の側です。 

ハイキングレベルの登山経験もゼロの人を、バリエーションが登れるまでに育てるのは、一言でいえば、すごく困難なことだと思います。体力やクライミング力は、一朝一夕にはつかないので、時間もかかるでしょうし、行き先の選定から、安全配慮まで全部自分持ち、つまりガイド状態です。相手は何も知らない、知っているはずがないのですから、仕方ありません。それを分かっていてやらないといけない。相手にモチベーションを与え続けなくてはなりません。

ガイド以上の、まるでサリバン先生か、専属トレーナーのような負担を全部を受け入れてまで、パートナーを育てるなんて、私にはとてもできそうにありません。何しろ自分がしてきた苦労の果実をぜんぶパートナーに注ぎ込む、ということになるからです。

たとえば、去年、ハイキングレベルの登山者をアイスクライミングに誘い、クライミングを楽しんでもらったことがありましたが、ハードシェルも冬靴もヘルメットもハーネスもクランポンも私が貸出しでした。その上、ビレイはさせられない、というかしてもらえないのです。つまり連れて行くと自分は登れず相手を登らせてあげるだけです。さらに言えば、もしガイドに頼めば、2万円近くの出費になるということも、初心者なので当然知っているはずがなく、ありがとう、という一言でさえも期待はできません。逆に危険な目に合わせてひどい、と言われないか、びくびくしないといけません。その上、ビレイしてもらえるようになってもらおうとおもったら、練習用のジム代も自分持ちです。

具体的に言えば、そのような負担があるんです。私がそのような負担を背負ってまで一緒に行きたいのは正直、恋人である夫だけです。

私の師匠は、若き日の自分が注ぎ込んだ登山の情熱と苦労の価値を理解でき、ありがたいと思ってくれる人にだけ、分け与えたいとおもっているのではないか?と思います。

勉強熱心な初心者が愛される理由は、そこです。熟達者の苦労と価値が分かるということです。

しかし、一般に、一般登山者がそこを理解できるか?というとそれは非常に難しいです。

これを書いている私自身、いまだ想像の域を出ません。

■ 現在地

そういうわけで、私は、一般登山者以上クライマー未満、というような段階にいます。

平たく言えば、初心者です。しかし、一般登山道で言えば、もう一般登山道はどこでも歩けます。

しかし、2年前は、観光客以上一般登山者未満、というような段階にいました。


■ ポジティブな変化

私は正直、かつて仕事に傾けていたのと同じ情熱を、趣味の登山に傾けていると思います。ボスがいないだけです。逆に言えば、ボス不要の自律性を身に着けたからこそ、そのスキルを使って趣味を推進させていると思います。私が仕事で身に着けたスキル・能力は、全部登山に向けて活用されています。

私の現在の職業はヨガのインストラクターなので、ヨガのようにそのような情熱を傾けるべきだという心の声も聞こえてこないわけではありませんが、ヨガは都会のもので山梨の地の利を生かした活動ではありませんし、また私自身が置かれた現在の状況的にも、追い風とは言い難く、総合的に判断すると、今、取るべき戦略とは思えません。

改めて、趣味の成功とは何か?と言うことを考えると、これは職業上の成功(おそらくほとんどの人にとって金銭的成功でしょう)とはまた別の尺度で、図られるべきであろうと思います。

もちろん趣味ですから、楽しく充実感がないと続けること自体が困難であると思います。それはあたりまえとして、何が趣味の成否を決めるのか?ということになりますが、これは日常生活が、その趣味をもたなかった場合より、円滑に流れていく、ということが一つの傍証ではないか?と思います。

私の現在の生活はすごくシンプルで、献立に悩まされたり、行き届いていない掃除に罪悪感を感じたり、退屈しのぎにファッションに資金を投じたり、あるいは、ステータスを表現するためのバッグや指輪などの有力なサポートが必要だったりしません。

私は私のありのままで問題なく存在できます。そうしたことは、精神的に充足してこそだと思います。

私は仕事においても、そうした精神的充足を求めてきましたが、仕事では登山と同じように取り組んでいても、同じような充足を得ることができなかったのですが、それは、私自身に原因があるのではなく、社会の側にあったのだろう、ということが登山を通して理解できるようになりました。

仕事においては、私はスーツで身を固め、パスポートにある出国数スタンプの競争に参加し、名刺にある名前ではなく会社名で存在を認識されなければなりませんでした。

日本は女性に対してクローズドな社会です。が、成人するまでのプロセスを通じて、私はそれを学びそこねたようで、さらに20代の早い時代に自立を勝ち取り、アメリカに渡って、性差ではなく能力で判断させる社会を経験したせいでしょうか…、また学生時代を通じて男性と比べ、自分が劣ると思える事態は起らなかったため、社会に出た私は、自分が男性並みに能力があると言うことが、なぜ受け入れられないのかということを理解するのに長い時間を費やした気がします。

それは私の側の問題ではなく、社会の側の問題であったのだ、ということが最近登山を通じて理解できました。

要するに私が敗北だと思っていたことは敗北ではなかったのです…

そうしたことが理解できただけでも、登山はやる価値があった活動だと思います。

 

 

 

 

 


自分の”好き”を発見する 10のリスト

2014-06-08 06:34:28 | 魂と心の成長

1) 時間を作っているか?

2)ちょっとした抵抗に屈しないでいるか?
3)恐怖に負けないか?
4)他の人に影響されないか?
5)実践的なノウハウを良く学べているか?
6)よく本を読んでいるか?
7)フィードバックをよく聞いているか?
8)好奇心が楽に維持できているか?
9)個人的な動機、ストーリーを持っているか?
10)お金をもらえなくてもやりたいか?

■ 成功へはよく自分を知ることが一歩

最近、気が付いたのですが、私はうまく行くことはすべて独学しています。

逆に言うと、独学できないようなことは、好きなことではないのかもしれませんよね?

というのは、人間は意外と自分の本心、真の願いをよく知りません。人がやっているからやりたい、というのは、自分がやりたいことではなく、人がやりたいことです。しかし、自分がやりたいのだ、と勘違いしてしまう人は多いようです。お金が欲しいからやりたい、というのも、本心からやりたいことではありません。

大事なのは、”自分”を見分けること。自分を観察する必要があります。

■ 自分を発見する

たとえば、何かができないワケを「時間がないから」にしていたら、逆に言うと、言い訳をして、時間を作ろうとしていない自分がいる、ということです。

むしろ逆に、「これはお金がかかっても、時間がかかってもやりたいことか?」と問うと、本当にやりたいことかどうかの試金石になりますよね?

人は好きなことをするためには時間を作ろうとし、休みにその時間を充てても疲弊しません。むしろ、リフレッシュするくらい。

好きなことをやっていれば疲れ知らず。逆に言えば、何をしても疲れるという人は、ひとつも好きなことをやっていないということです。

つまり他者褒章で生き、自己褒章で生きていません。

易しい言葉に直すと、褒めてもらえるから、とかお金がもらえるから、とか、みんながやっているから、という理由のためにやっていて、自分のためにはやっていません。

■ ネガティブは試金石と考える

たとえば私の左手の握力は18kgしかありません。クライミングは体重を両手で支える活動なので、まぁ有利な条件か?というと当然不利です。

ただ好きなこと、やるべきことをやっている時は、そうしたちょっとしたネガティブなことや欠点は問題になりません。欠点は進行を妨げる壁ではなく、所与の条件にしかなりません。

〇〇だから××できない、というのはありえません。〇〇だから、どうやって××するか?になります。握力が18kgしかないから、どうやって18kgで登ろうか?という問いになり、18kgしかないからできない、にはなりません。

たとえば、家が貧しいから大学に進学できない、というのは進学したくない、という意味です。家が貧しくても進学する方法を考えるようになったとき、それが真にやるべきことになった、ということです。

困難は、単純にただの試金石なのです。神様がホントにそれしたいことなの?と聞いてくれている、と考えましょう。

自分は本当にこれが好きなのか?ヤル気があるのか?というのは、そういう小さな否定的な出来事が大きく心に影響しない、ことから観察できます。

ちょっと誰かから批判されただけで、嫌になり、辞めてしまうようなことは、その人が本心から好きなことではありません。たとえば親の反対などですね。

好きなことをやっている場合、ちょっとした批判を受けると、それが逆にバネになるはずです。ばねにならないときは、好きなことをやっていない。

■ 興味が持てる

好奇心の維持に困難を感じたら、それも自分が好きなことではありません。

興味があるかないか?も自分で良く分からなくなるのはよくあることです。たとえば、仕事でやっていると習慣的にニュースを読みますよね?それって興味があるからですか?ではないでしょう。

なので、皆がやるからやる、こと、単なる習慣だからやること、と興味があるからやることは違います。

興味が持続しなくなったら、適性がないことです。たとえば、私は金融系の新聞を読んでいましたが、今で全く読みません。

代わりにRock&Snowを読みたいくらいです(笑)

時間は有限なので、何かをマスターしたかったら他の何かを切り捨てなくてはいけません。

私は今のところウォールストリートジャーナルを切り捨て、岳人とかRock&Snowを取っています。選択と集中が必要なのは当然ですから、何かを切り捨てる気持ちが起きないときは、やりたいことではありません。欲が勝るということです。

興味があることは、どうしても先に目がいくので、だんだん他のことには無欲になって行きます。選択と集中が自然におきますが、自ら選択し集中しだすと、進化が加速します。

■ 実践に興味がある

興味があれば、小さなコツのようなもの、実践的なノウハウなどが自然に耳に入り、頭に入ります。

興味があるので、ノウハウを得るのに無理がない。同じことで、周囲もよくアドバイスやフィードバックをくれるようになります。周囲がちょっとした手助けをしてくれるのは、その人に情熱が見えるからです。

ですから、逆に言うと、周囲からのサポートが得れないときは、その人はやりたいことややるべきことをやっていないときです。

■ 確固とした気持ち

好きなことにはたぶん迷いがありません。 やるからやるの、という気持ちがあるということが、好きなことの意味です。

たとえば、登山が好きといいつつ、ほんの少しの雨で、山に行くのをやめるようなら、それはあんまり登山が好きでないという意味です。

英語ではDeterminationと言います。 もう決まっていること、という感じです。

これをやる、と決めたら、後はやるだけなので、迷いがない、というのも、一つの傍証になります。

自分の中に確固とした気持ちが歩かないか?人は良く分からないもののようです。

たとえば、Aさんと結婚すべきかBさんと結婚すべきか、悩んでいたら、どちらとも結婚すべきではないです。
悩んでいること自体が、どちらも好きでないという意味です。

本当に結婚すべき相手が現れたら、その相手とうまく行くような結婚の形を作っていく、という気になります。

自分に相手が合うか?ではなく、自分が相手のために変化することを受け入れるようになります。

そうでない場合は関係は早期に破たんしツラくなるだけです。

というわけで、自分自身をよく知る、ということは意外に簡単です。ただ人は瞑想をしないのでそれが良く分からないのです。

皆がやっているからやりたい人にはずくが出ません。
美しいパンフレットや美辞麗句で盛り上げられないとやりたくならないなら、好きではありません。
ずくを出すより、お金を出したいなら好きなことではありません。

 


アダルトチルドレンの若者へ

2014-04-16 07:53:19 | 魂と心の成長

■ 読了 『愛情という名の支配』

この手の本は私は大概読まなくても主張も内容もよく分かっているので、たいていが素通りなのですが、この本はなぜかあっという間に読み終わりました。

愛情という名の支配

私は子供の頃、小さな大人でした。親の親をしていたのです… つまり、親よりもしっかりしている子供でした。アダルトチルドレンです。

日本では親孝行というのは、8割方、愛情という名の支配です。 

そうとよく知っていて、またそれが世間的に理解されないのも知っているので、そういう世間の事情は受け入れ済みで、特に私にとっては問題になっておらず、過去にすでに置いてきたものです。

が、問題は、今現在、私がある、壊れた家庭を知っていて、そこの若い19歳の男性のことをいたく心配している、ということです。この本はその心配が招いた本に違いありません。私は若き日の自分をこの若者に見てしまうのです。

以下は、その19歳の少年のように、「母親が愛という名の支配をしている」家庭に育った子、心優しくそれゆえに、親のために人生を考えているような子、のため の知識です。

≪正常な家庭ではないサイン≫
・両親が愛し合っているか? どちらかが片方を「愛」で縛っている → 正常な家庭ではない
・正常な家庭かどうか見分ける方法は、「愛」の代わりに「支配」という言葉を入れても、しっくりくること=正常でない
・夫婦の結びつきより、母子の結びつきの方が強い
・親のどちらかが、暴力、アルコール、仕事、その他のものに依存している
・その依存を残りの親は促進するような形になっている(共依存
・男親の存在感が希薄である
親が自分の人生を歩んでいない
・かつ、それを子供や環境のせいにしている
・子供が親よりしっかりしている

≪その場合、子供はどうしたらよいか?≫
一刻も早く自立し、親から離れる
・親を助ける必要は子供にはありません。子供の自立と幸福こそが親孝行です。
・親を助ける必要は子供にはありません。子供は5歳までですでに全生涯分の親孝行を済ませています。
・共依存は、親から子へと継承されます。つまり、自分も親と同じく子供をACにしてしまう親になるということです。
・暴力は治らない。
・暴力を受けた子供は暴力をふるう親になる → 自分が受けたことがあれば要注意です。目撃だけでもです。
・何かに対する依存症(酒、たばこ、恋愛、ギャンブル、女性、仕事)は、付き合ってくれる人がいなくなると治る

■ 親は子供を思ったより愛していない

私が確実に分かっていることは

親が子を愛す愛より、子が親を愛す愛の方が強い

ということです。 子はそれを知ると失望しますが、その必要はありません。

これまでの人生は、子を強くこそすれ、弱くはしなかったはずです。また

・子は自己犠牲しようとするが、そうしては決してならない

です。親ができる、もっともまっとうなことは、その子がいくら「僕が働いて家にお金を入れるよ」などとと言ったとしても、断固として自分のために生きるように言ってあげることです。

長期的に見て、このような親孝行は決して良い結果を生みません。自己犠牲は、大抵はする方にとっては大きく、受け取るほうにとっては小さいものです。たとえば、私は28の時、妹の生活の面倒を見ていますが感謝されたことはありません。受け取るほうにとっては、あまり大きなことでないように感じられるのです。特に家族間ではそうです。自己犠牲をする側はそうしたことを理解したうえで行う必要があります。

そして絶対的な真理は

人は自分の生き方を自分でするべきである

です。多くの人は良い子の生き方をしようとしますが、それは誰の生き方なのでしょう?

■ 親からもらった贈り物に感謝する

アダルトチルドレンの人は大抵が大変心優しい人で、その心の優しさを相手はよく分かってて、「愛情」という名の支配をします。

いくら「愛情」から出たことであっても、受け取る側が「苦痛だ」と感じていれば、それは愛情ではなく「支配」なのです。

選択肢Aも選択肢Bも選択肢Cも与えず、結局出口をふさいでおいて、ここしか道がない、という風に選ばせられるのは、要するに愛情という名の支配です。

ただこれは、日本社会では普通に起こることです。

たとえば、私は社会学的に分類すると大卒女子です。一般に大卒女子は、総合職など男性並みの仕事をすれば、「男の仕事を奪う」と言われ、かといって、一般職に行くと「この仕事はあなたには易しすぎる」と言われ、ならば家庭に入ればどうなるかというと「三食昼寝付でいいわね(暗に働け)」と言われます。何をどうしても「世間」を喜ばせることは基本的に決してできません。結局、男並みに馬車馬のように働きながら、男性以下の賃金しか要求せず、子供も産んで、なおかつ家庭を一切男性の協力なしで切り盛りするというスーパーウーマンしか存在を許されていないのが日本社会の現実です。(が、そんな人は世の中にいるわけがないので、燃え尽きてしまう人、多数です。私も30代はそうでした。)

こういう訳なので、世間から求めれる生き方をするのではなく、最初は非難や反対を受けても、最初から、親の経済事情とは関係なく、自分の生き方を生きるに限ります。

しかし、親の苦労を見て育った子は、親の苦労を軽減するにはどうしたらよいか?を最優先して考えるので、
・自分の本当にやりたいこと、
・本当に生きたい生き方、

などが分からなくなっている可能性があります。

なので、出来るだけ若い間に自分の生きたい生き方を生きることを開始するのが大事です。

そうした中で、親からもらった贈り物も実感するはずです。

≪私が親からもらった贈り物≫
1)親が何でもわかっているわけではないのだと8歳にして直感で理解できたこと
2)そのため、自分で考える習慣が付いたこと
3)人の魂は何歳になっても同じだと気が付いたこと 
4)美術館に展示の度に行って、一流の絵画に触れ、一流を見る目が養われたこと
5)本を読む習慣 (読書は若い日々には逃避だったと思いますが)
6)コーヒーが好きなこと
7)アメリカに対する愛 (母は団塊の世代です、チェゲバラのレコードを持つような)
8)凝ったお弁当を作らない、人の目を気にしない主義
9)服のセンスが良いこと (良いものを長く着る)
10)品の良い家庭環境 (母方・父方とも没落した地方の名士の家の出です)
11)教育に対する愛情

母は黄色いフリージアや黄色のバラが好きだったので、私もフリージアを買うなら黄色を選び、バラを買うなら黄色を選びます。

また母がビートルズ好きで子供のころから自宅ではビートルズですので洋楽派ですし、絵画については一般以上の知識があります。たいていの人は、アンセル・アダムスと言っても知らないし、ジョージア・オキーフって誰?でしょう。

バレエやクラシック音楽についての愛は、おそらく品の良い家庭に育ち、ほとんどテレビを見なかったからでしょう。私は「八時だよ全員集合」が暴力的で大嫌いで、自室に帰ってしまう子でした。バラエティ番組は全部嫌いなのです。その代りNHKの特集とかが好きと言う変わった子供でした。

そういう親からもらった贈り物を自分のアイデンティティの一部として愛着を感じられるようになったということは、、アダルトチルドレンとしての苦悩の期間が終わり、自分らしい人生を歩むことが、たとえベビーステップでもできるようになった、という傍証でもあります。

しかし、ここへ来るまでの道のりは、大変厳しいものだったということは付け加えておきましょう。

仮にもし、自分が親である方がいるならば、ぜひ、子供から手を放してあげてください。

親は家族をチームのように考え、成人した子供を他の子供を育てる戦力とみなしていると思いますが、それはあなたの仕事であって彼の仕事ではありません。

人は誰かの人生の手段として生きるべきではなく、自分の時間、人生を自分の人生を実現する手段とすべきです。

 

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夫婦の愛の考察

2014-04-15 08:07:11 | 魂と心の成長

引き続き、夫婦の愛を考えたいと思います。

夫婦の愛って最も近いものを考えると”愛着”に近いものではないでしょうか…

「いつもそばにいる」という存在。

そこに居てくれているのが普通であり、当然であり、いないと、なんとなくおかしいな~、という感じがするもの。

『星の王子様』では、最初一本のバラに感動します。その後、世界には多くのバラがあることを知り、落胆します。最初に見つけた一本のバラが特別でもなんでもなかったということが分かるからです。そして、その後、「やっぱり僕のバラは世界には一本しかないのだ」と納得します。世界中にバラはたくさんあるけれど、”僕の”バラは一つしかないのだと。

夫婦もそのような関係のような気がします。一緒に過ごした時間が尊くなる。

つまり、尊くなるような時間の過ごし方をしないといけません。そして、一緒に過ごすこと自体に価値を見出さなくてはなりません。

■ 愛着の育て方

これを書くと単なるノロケになるので、ずっと悩んでいましたが最近、夫は目覚ましい進歩が!

というのは行ってきますのハグです。 私は結婚生活では

・おはようのハグとキス
・行ってきますのハグとキス
・お帰りのハグとキス
・お休みのハグとキス

は、習慣にしたいと最初から考えていました。絶対に正解だったと思います。

結婚して最初の頃は、出張に行く夫を新大阪まで送りにゆき、送りがてらにハグしようとすると、夫に断られる始末でしたが、今では彼も平気です。

それどころか、私が寝坊して寝ていると、行ってきますをしに来てくれます。これには感動!

私が思うには、習慣こそが愛着を育てるのです。習慣というのはやらないと気持ちが悪いもの、です。

そこまでくれば、もう日常生活を過ごすだけで、愛着が深まること請け合いです。

ただここまで来るのに、恋人時代を入れて、苦節15年!

私たちも夫婦仲が冷え込んだ時期がありました。それは私が流産して夫が心無い言葉を吐いたからです。

それでしばらく家庭内別居をしていました。私は夫に構わず一人暮らしの生活をし、夫もそうでしたが、
夫の生活のクオリティは著しく下がり、毎晩コンビニ弁当を食べていたようです。

一般に、たとえ収入が低くても、女性の方が質の良い生活をしているのではないでしょうか?「喰わせてやる」と思っている男性は、実は収入があるだけで生活そのものをよくすることはできないのかもしれない。

やはり、女性と暮らす生活と言うのは生活の質そのものが高くなります。男子クラスだとやっぱりがさつだけど、男女共学だとそこそこきれいになりますよね。それと同じかと…。ただ、一緒に暮らしてやっている、という傲慢さが引っ込んで、一緒にいるからこそ、こういう暮らしができるんだと男性も女性も感じられることが大事だと思います。


特に子供がいない夫婦は二人で作り上げているものが、生活そのもの、時間の質そのものだ、という認識を共通認識にするまでが大変な道のりなのかも…

■ 着 

しかし愛着は、着と言う字がついているように、執着でもあります。習慣は一度獲得すると、捨てるのが難しいものです。

また恋人から恋人へホッピングする人もいます。恋愛もアルコールと同じく中毒性があるようです。

溺愛、という言葉もあるようですし… 溺愛と言えば、子供やペットを溺愛してしまう人が多いようです。溺愛の対象が物言わぬペットや自立していない子供であることを考えると、溺愛とは一方通行のもので、一方通行であるがゆえに溺れるものであるようです。相手の都合、無視の愛。

夫婦の愛は、長年連れ添っているという意味で習慣性があり、となると中毒性があると言えると思います。

つまり失った時のインパクト(喪失感)が大きいがゆえに、失うことを恐れるようになる…

それが最大の弱点ですね。

煩悩の定義は、煩悩を何も持たないことではなくて、煩悩に自分が支配されない、ということです。

この定義から、失うことを恐れることは仕方がないことですね。ただ失うのではないかという不安に支配されないようにしないといけない。

これは貯金マニアとも似ています。貯金好きの人は、生活の安定が失われるかもしれないと言う不安から行動しています。でも一般に言って生活の安定なんて失うのは誰だって怖いです。ただ不安に支配されて行動するかしないかの違いがあるだけです。余談ですが生活は大雑把にいって一年分くらいのゆとりがあれば大人にはそれ以上の保証は要りません。何年続くか分からない老後を確実にしようとすると、何億円ものお金が要りますが、そのために人生の8割の時間が費やされてしまったら何のための人生でしょう?

ちょっと話が逸れましたが、夫婦の愛というものは、

・お互いに一緒にいる時間や空間を質の高いものにしようと努力する
・けれども、固執しない

ということが大事なようです。

しかし、考えてみれば人生そのものだって同じことですね。


無条件の愛について

2014-04-14 18:21:26 | 魂と心の成長

■ アンコンディショナルラブ

UnconditionalLove…無条件の愛について、昔から時折、考えます。

以前考えていたのは、そのような愛はありえるのだろうか?ということです。

私が知っている無条件の愛は、子が親を愛す愛、のみです。

子供は、親が悪人だろうと、自分を虐待しようと、なんだろうと、親(というより庇護者)を愛しています。というか、生存がそこ一点にかかっているから、幼い子供には、相手を愛すという選択肢以外、生存可能性を高める方法がない。それは愛と言っていいのだろうか?

■ 親が子を愛す愛

親が子を愛す愛は、”条件付き”です。

「いい子にしていたら」「おねえちゃんでしょ」「我慢しなさい」

これは私が覚えている内容です。私は3人兄弟の長女として母子家庭に育ったので、一般の人より特殊環境かもしれない… 私が親からもらった基本的なメッセージは「役に立たなければ愛されない」というものかもしれない。私はつい、自分がどう役に立てるかを考えてしまう癖があります。相手にとって価値があるかどうか?です。

妹は「可愛くなければ愛されない」と親から受け取ったようで、ファッションやお化粧などに費やす努力は目を見張るものがありました。

一般的に言って親は子供を愛の対象というより責任の対象と、とらえているのではないでしょうか?

■ 友達の愛

一般的に、その次に人が知ることになるのは、友達の愛、つまり友情ではないでしょうか?

私には、少数のとても親しい友人=親友が、学生時代に時期を全く重ねず、ふたりいました。

最初の大親友は、サー君でした。お互いに中学生になってから知り合いました。相手が9割勝っているパワーバランスでのライバル関係(笑)にあり、基本的には、互いの実力への敬意、というのがベースにあったような気がします。もう学校で話題になるほど熱愛?でした。お互いに目立つ生徒だったので、そういう生徒が臆面もなく、友情に花を咲かせていると大体周囲は冷やかすので…年齢も初恋を知るころですし…。

でも、まだ男女の愛は知らない頃なので、基本的に相手をもっとよく知りたいという思いよりも、「凄い奴が現れた!」という感じで互いに思いあっていたと思います。ほとんどの時間、討論していたような?

討論やサッカーなどして一緒に過ごした中高時代、大学時代の始めを通して、なぜ彼があの大学を選んだのか、私がなぜこの大学を選んだのか、そうした個人的な必然性を互いに理解しあえる、青春時代を一緒に過ごした友達です。

この彼とは、切磋琢磨する仲間。ライバル心で、「彼が模試で〇位なら、私だって」という感じで、お互いに高め合って、いい仲でした。おかげで、すごくよく勉強しました。プライドが支える仲間でした。

■ 友達の愛2

サー君の次に大親友になったのは、さおりちゃんです。 すごく美人で、同性でも見惚れるような人でした。私はあまり、女性らしさには興味関心が薄いタイプの女性に育っていたので、まったく正反対のタイプのさおりちゃんとは女性らしさで競争する必要がなく、サー君と同じで、相手への敬意がベースにありました。

すごい美人ながら、理系的な頭脳を持った女性でした。私は家庭が不安定だったので、高校時代はさおりちゃんの家に入り浸って過ごしました。自分の家で過ごした時間より、さおりちゃんちで過ごした時間が長かったかも?

私とさおりちゃんはあまりに深くお互いを必要とし合っていたので、私たちってこのまま行ったらレズビアンになってしまうのではないかしら?と不安になったくらいです。高校時代の友達は彼女だけです。しかし大学に進学して疎遠になってしまいました。

が、サー君のこともさおりちゃんのことも素晴らしい人生の経験として記憶しています。

無償の愛と言えたかもしれない。

■ 男女の愛

私は恋愛時代の若いころ、あんまり男性にモテるタイプでありませんでした。

ので、いわゆる高校、大学の頃の「付き合った、付き合わない」という、パーマやさんにある週刊誌みたいな恋愛は、全く経験がなく…全然、ワカラナイ(汗)

意中の男性に、バレンタインデーのチョコを渡そうとドキドキしたこともないし…告白するとかしないとか・・・逆もないような? (ああ、悲しい…)

正直、全然モテない人です。

ただそういう恋愛面の地味な生徒?は、変態オジサンや痴漢の格好の餌食になるらしく、10代から20代前半に掛けては、痴漢にあったり、弟が上で寝ている二段ベッドの下で寝ていたら、誰かがお腹を触っていたり(えっ?!)、下着泥棒にあったり、電車では露出狂にあったり、「月2回で15万でどう?」とよく分からないセリフを聞かされたり、もう勘弁してくれ的感覚です。男性不信になっていないのは奇跡ではないでしょうか?!

最初の恋人はアメリカ人のデイビッドですが、デイビットとも生い立ちが似ていたり、趣味が美術館に行ったり、自然散策だったり、と感性が似ていて、限りなく親友に近い恋人でした。ただ、親友と違うのはデイビットとは結婚したいと思っていました。デイビッドにメキシカンレストランで祝ってもらった21歳の誕生パーティは、人生でもっとも幸福な瞬間として忘れられない思い出です。

国際結婚は私のひとつの夢でした。アメリカに住むと言うことが夢だったのです。私がアメリカに住むという決断さえできれば、実現したことでしたが、私は大学があと2年残っていたので帰国し、その後、彼はアルコール中毒になり、人生を狂わせ、二人の関係はそれきり復活することはありませんでした。以後、十数年来の付き合いをしましたが、それも去年終ってしまいました。

デイビットと私の間の愛情は、無償の愛ではありませんでした。デイビッドが最初に取引しようとしたのです…「〇〇してくれるなら、××してあげる」という関係です。それはつまり、私が日本の大学卒業資格をあきらめるなら、アメリカ人としてのグリーンカードをあげる(彼と結婚することで)ということでした。

若い私にとって、”大卒”というのは、どれくらい人生において価値があるものなのか?分かりませんでしたが、当時私にとって大問題だったのは、経済的自立でした。大学に通いつづければ、大学ローンの返済を卒業まで先送りにできる。私は全部自腹で大学に行ったので、大学に行かずに生計を立てる目途が立たなかったのです。大学に行かずにデイビッドと結婚してアメリカに残るということは、100%デイビッドに経済的に依存しなくてはならないということでした。それまでの大学ローンの返済もです。

なので私は経済的自立を投げ出して夢をとる、あるいはデイビッドをとることができなかったのです。

振り返って、日本人としても社会人経験がない、つまりまだ一人前でない人が、移民一世として生きることは、当時の私にはとても困難だったのではないか?と思います。子供を産んでしまえば、子供が子供を産んだという事態になったでしょう。

そして、やっぱり、デイビッドと私の間柄は、無償の愛、ではなかったと思います。デイビッドは誠意ある男性だったので、生涯の伴侶とするのに不足がある人ではなかったと思いますが…ただ、私の方がまだ子供すぎたのです。経済的自立を成し得た後で出会っていれば違ったと思います。

私は夫と婚約した時、デイビッドに会ってそれを告げるため、わざわざサンフランシスコまで行きました。

■ 夫との関係

私と夫は、人間のタイプとしてはだいぶ違います。

これまでの私の親友は、主にライバル関係にありつつ、相手への敬意がある、という関係でしたので、人間のタイプとしては、大体似たり寄ったりの相似形の人が多かったのです。

夫とはまったくライバル関係にはありません。私が一方的に夫に甘えている関係です。私は普段の私を脱ぐことができるので、夫と居ると楽で、とても心地よいのです。夫の方はどうか分かりませんが。

最近、愛について良く考えるとき、それは夫との愛についてです。

夫とはただ一緒に居たいという種類の愛かもしれない。 

知識という面で、私は夫についてどれくらい知っているだろうか?というと、大親友時代を過ごした、サー君を取り巻く家庭環境や、さおりちゃんの苦悩や、デイビッドが優秀すぎる父親と自分を比較して苦しんだことなど、彼らの困難さや人生の課題を深く知っていることに比べ、夫ついては、そのようなことはほとんど無知と言ってよいかもしれません。何しろ、彼はそういう話をしないタイプなのです。

でも、私はたとえば、夫がどんな食べ物が好きか?とか、いつもどこに座っているか?とか、私が帰りが遅いときは何を食べているかとか、そういう生活上の、彼の習慣については誰より知っているかもしれません。彼について良く知っていることが愛の一形式だと思うようになりました。彼はヨーグルトが好きなので買い物に行くとフルーツヨーグルトや風呂上がり用のジュースを買っておきます。

私は夫と温かいベッドで毎日寝るということ以外は、特に彼には何も求めてはいません。というか、それだけですごく満足なのです。それは恋人時代からずっとそうです。一緒に登山に行きたいと思っていましたがそれも最近手放しました。

私が残念なのは、私が子供を産んであげられなかったことですが、夫は、のんびりした性格なので、それもそんなに堪えている感じではありません。

お互いに相手への要求が強くない。そのような穏やかな関係ですが、無償の愛かと言うと、そうなのかどうかはよく分かりません。夫とは依存関係にないので、別れようと思えばすぐに清算できてしまい、それは、女性によっては不安に思うかもしれません。彼が私を捨てようと思ったら、それは簡単に成し得ることだと思います。

ただ私は彼を縛り付けようとは思っていないし、彼の方もそのようです。私と夫は絆が浅いようにかんじられるかもしれませんが、恋人を縛り付けることはそもそも可能なのでしょうか…? 縛り付けないと残ってくれないような恋人なら、もしかしたら、最初から自分のモノではなかったのかもしれないし、そもそも、恋人が自分のモノというのはどのような意味なのでしょう…愛とは、意思とは無関係なもの、のような気がします。

相手への礼儀として浮気をしないことは重要ですが、心が誰かに魅かれていくのは、停止しようがないことで、心を含めたら、一生他の誰も好きにならないと言うことはありえないのではないでしょうか? 好きにも色々ありますし。

私は弟と妹がいたので、親を独占してはいけない、と思うのと同じことで、誰かを独占したい!という思いは、あまり感じないタイプで、私自身が比較的、あまり嫉妬深いタイプでない、というのがあるかもしれませんが、人が人を独占することは、そもそも不可能だという思いが根底にあります。

私は誰のモノでもなく、最近は自分自身のものでさえないような気がしています。

■ 神への愛

そうこう考えると、私が知っている無償の愛は、結局、子が親を愛す時の愛のみかもしれない。

愛とはまた違う感性かもしれませんが、私は自然発生的に祈る習慣がありました。7歳くらいの時からです。膝まづいて祈っていました。

何も悪いことをしていないのに叱られた、という思いが私を祈る習慣に向かわせたような気がします。

あとは子供なのでどうしようもないですよね、祈る以外に方策がない。

神様さえ私が誠実であることを知っていればいい、という考え方です。

見る人は見ている、とも思います。実際それは本当です。影の努力はかならず見ている人がいます。

神という言葉は大げさで、無神論が主体の日本では違和感があると思いますが、それは、自分で自分を偽ることはできない、と言った時の”自分”と同じ意味です。

内在神というのは、自分のことであり、いわゆる世間のことでもあるのです。

そういう意味で、内在神に対する愛、というか信頼は、小さいころから心にあります。それは心のアンカーのようなものです。

ただそういう意味の内在神を愛しているか?というと愛していると言うより、信頼している、に近いかもしれません。

それは、岩登りと少し似ています。経験を通して、作る信頼です。私は最初支点と言うのはあんまり信頼できませんでした。

が、今ではハンガーボルトの支点は2点取れば、ハンギングビレイも平気です(笑)

一度に全部信頼することは難しいですが、こういう風にすれば、こうなる、という信頼を作っていくのは神への信頼に似ている気がします。

たとえば、祈りは大抵聞き届けられます。

私は、自立を願い、通常では考えられない苦境で自立を勝ち取りました。仕事でも、私はコンピュータ関連につきたいと思ったのですが、文系卒でありながら理系職種につきました。その他、色々な願いが聞き届けられてきました。今では願いがもうそんなにないくらいです。神の意図のまま使われるよう祈っています。

無償の愛、という愛を知りたいと願えば、憎まれている人を愛さなくてはならないでしょう・・・それが神の教え方です。

愛すべき人愛らしい人ではなく、自分を苦しめる人をも愛す、愛という意味では、やはり親を愛す愛が一番私の中では近い体験かもしれません。

 

 


ミッションの見つけ方についての最近の発見

2014-03-27 10:47:35 | 魂と心の成長

■ ミッションの発見

しばらく考えている命題のひとつに、

 ミッションの発見

というものがあります。

ミッション = 使命 = その人にとっての生きる意味 = その人らしい生き方 です。

薄めると、”生きがい”ともいいますが、日本語の”生きがい”は、やたらめったら安売りされて、意味のない言葉になってしまいました。

ヨガの用語では、ダルマといいます。(達磨さんのダルマと一緒です。ダーマ&グレッグのダーマも一緒です)

人が、ミッション(使命・ダルマ)を生きると

・得意なことで社会貢献でき、
・やっていることが楽しいので全く苦労と感じず、
・次から次に実績が積み上がり、
・気がつけば、いつの間にかその分野での権威や大家になっていたり、と、難なく”成功”を手にする
・幸せオーラがその人から発せられる
・そのオーラがさらに人を引きつける

というようなことになります。 なぜか運がいい、という感じですね。私は自分のことをわらしべ長者とずっと思っていました(笑) 

ヨガを教えていて思うのは、自分らしく生きていない人が多いという事です。そのために、ストレス社会になっています。

ただこのブログをもしかして読んでくれているかもしれない読者に19歳の少年がいますので、自分らしく生きることを間違ってしまうリスクについて、断っておきます。若いときは間違えやすいです。

≪自分らしく生きることへの良くある誤解≫
・自分らしく生きても嫌なことは起こる。違いは問題が小さく見えること。
・野球選手になる、パティシェになる、みたいな夢(自分以外の別のモノになろうとする)を追いかけることだけが自分らしく生きることではない。
・幸せでいる状態をキープしようとすること自体が重要。”でいる”がポイント。”になる”ではない。
・生活のために働くことを否定してはならない。だたダルマに沿って働いていたら大抵はそれで生活が成り立つようになる。そうでない場合は何かを否定している。

≪親になることについての注意点≫
・自分らしく生きる前(人間的に成熟する前)に、結婚したり子供を産んだりすると男女とも後悔が多い。
・この場合、後悔が失敗の傍証ともいえる。
・特に野心家の男性は成功してから家庭を持つべき。そのために男性の生殖可能期間は長く設定されているに違いない。
・女性は産み育てることをダルマの一部とできるが、母子密着からの脱依存ができないと逆にカルマとなる。
・親になることは単純に成長の機会であり、生きがいではない。孫も同じ。

・親になって親業を否定する人はカルマを増やしてしまう。親になったら親としての自分を十分生きなくてはいけない。それができない場合は親になるべきでない段階で親になってしまったという意味。

※カルマというのはダルマの反対で、繰り返し失敗し学ぶ教訓です。その人の人生課題。

■ ミッションの発見

ミッションは見つけるのが難しいのですが、実は”すでにやっていたり”します。

≪ミッションが良く隠れている場所≫
・自分がやっていて楽しいこと
・次から次に飽きずにやれること
・”祝福”がある分野
・子供の頃得意だったこと
・青春時代を何に費やしたか?

“自分探し”というような言葉が流行ったこともありましたが、自分は外の探すより、中に探す方が良いのです。まぁ当然ですが。

ただ、旅行に出ることは良いと思います。旅行に出てみると、周囲から期待される”役割”を脱ぐことができるからですね。

たとえば、私はお姉ちゃんですが、親や兄弟がいると、それは脱ぐことができませんね。役割で一生を終えないようにしないといけません。役割は仮面です。たとえば、親戚の葬式などで、いい大人が「〇〇坊」などと呼ばれていてびっくりしたことはありませんか?それはその人を狭い枠に押し込むもので、人の成長ということに敬意を欠いています。

たとえば、父や夫である前に一人の人間に立ち返りたかったら、やはり家族から離れて一泊でもいいから旅に出る必要があります。これは、妻や母もです。むしろ女性の方が家庭に拘束されるので、その必要が強いと思います。この場合、友達などと連れ立ってはいけません(笑)。

≪自分発見方法≫
・一人旅に出る
・瞑想する
・人生録を付ける
・今までやってみたくて、やっていないことを行う。 例:ヨガを習う、バンジージャンプをする、ピアノを習う
・今までと180度異なる世界に接する
・子供の頃の感性を復活させる
・マッサージ(アビヤンガ)を受ける
・直観力を磨く(夜はろうそくをつけ瞑想します。そのための音楽を掛けます)

おススメNo1は書くことです。 書くことは自分を強烈に客観視させます。書くことを怠ると、狭い視野の中のヒロインにしかなれません(笑)。ナルシシズムですね。そういう人は若い人の目には”痛い大人”にうつります。若い人の目、とくに子供の目は、ヨガでいうところの第3の目が開いており、真実を見通す目だからです。大人より子供の方が直観力が優れていますよね? 「王様はハダカだ!」と分かるのは子供です(笑)。

■ 何もできないくてもOK

私にはある人のミッションが見える。何をすべきか?も見える。

のに、当人には見えず、ミッションをいつまでたっても遂行する生き方を始めない場合、どうしたらよいでしょうか。

その人は愚痴の塊であり、〇〇だからあれができないこれができないと言い訳ばかりを山積させています。

その言い訳は、私から見たら取るに足らないモノばかりです。

このような状況に陥った人に何をしてやれるのか? は、ある意味、私の人生に再三出てくる人生課題で、この人で3人目です。

私が最近出した結論は何をしてあげることもできない、です。

私自身のコミュニケーションスキルが未熟なためか?と一時はコミュニケーションに工夫もしてみましたが、それも違うようです。

すべての解決策に、出来ない言い訳をすることは明白です。

たとえば、

・一人旅に出る → そんな時間ありません
・人生録をつける → 私にはそんな文才はありません
・今までやってみたくて、やっていないことを行う。→そんなお金はありません

などです。

一人旅なんて、小一時間カフェに出かけて、スケジュール帳を調整するだけでもいいのです。

あるいは登山が好きなら一人で山に出かけるだけでも良いわけです。

言い訳が先に立つとき、その人は拒絶を示しています。 助けを拒絶する人を助けられないのは自明のことです。

これは、実際、同じような落とし穴に陥った友人がいて、助けを拒絶しない人なら助けられたからです。

■ 追い込まれていないのかもしれませんね

溺れる者は藁をもつかむと言います。

ので、助けを数々の”できない言い訳で”拒絶するとき、その人はまだ本当の意味で”困っていない”のかもしれません。

困れば人間何が何でも解決しようとします。

あるいは、自分らしく生きることよりも何らかの他のモノ・コトを優先している場合があります。自分の評判(往々にして”いい人”という評判)や、プライド、世間体、しがらみなどと言ったものです。

過去の成功体験にしがみついている人は、その成功体験がもたらしてくれた他人からの賞賛に依存しています。人は20年も30年も前の成功をほめたたえ続けてくれますが、きつい言い方をすれば「もう終わった人」とみなしているという意味です。それはもう評価されません。

多くの場合、人はもう一度成功しようと言う場合、過去の成功体験を参照します。それは普通ですが、問題は参照の仕方です。同じことをして褒めてもらおうとするのはしがみつくやり方です。やるなら、誰かに認められるためではなく、自分で自分を認めるために行わなくてはいけません。他人の目を気にしている限りうまく行かないのです。

つまり、自分らしく幸福に生きるためには、他人は鬼門なのが分かるでしょうか・・・他人の目を気にしなくなったとき、人はその人らしくなれるのです。

”自分らしい人生を生きる”という問題への解決の情熱が足りないとき…それはどういう事が言えるのか…?

それは、ある意味、生きることそのものをあきらめた…とも言えるのかもしれません。

生きながら屍となる道を選ぶ人がいることに残念さを感じずにはいられません。

 


依存者を助けることはできないこと

2014-03-26 11:34:31 | 魂と心の成長

最近、人間関係で大きな転換点がありました。

学んだこと。

・主体者は依存者を助けることはできない 

・「見捨てるという事柄」ということもこの世に存在しない

■ 主体者と依存者

依存者というのは、「自分以外の周りのモノ、コト、ヒトのせいで、〇〇できない」と思っている人のことです。

たとえば、私の母は子供が3人いるせいで自分の生き方ができないと思っていました。

しかし、結婚したのも子供を3人生んだのも離婚したのもその人の選択であり、決断であって、そうすれば、どうなるか?くらいは大人ならだれでも想像できる範囲内のことですがね。

つまり、”自分で自分の人生に責任を持とうとしていない”=依存者です。

もっと一般的なものもあります。

・お国が〇〇してくれない
・年齢が高いから就職先がない
・上司が俺をわかってくれない
・お金がないから起業できない
・体が柔らかくないからヨガできない
・大学に行かなかったから、登用されない
・俺だって〇〇なら、××できたのに…

「〇〇がないから××できない」と誰かが言う時、用心して聞かねばなりません。大体99%は、自分に不誠実な、したがって、耳を傾ける価値の無い愚痴です。不満と不安は時間の無駄。

私が声を上げて、今回主張したいのは(笑)…このような人を依存状態から救うことは、

人の一人の仕事ではない、

ということです。

10代で学んだことを20代でまた学び、また40代で学びなおしています…何度やったら気が済むんだ(笑)?!

■ 依存することは気持ちが良い

人は色々なものに依存します。アルコール、ギャンブル、タバコ、恋愛、自己憐憫… ポジティブなものでは仕事、人助け、子育て、いい人な俺、など。

それらはみんな、「大事なことから目をそらすための言い訳」です。

大事なこと、とは? それは自分自身を幸せにするために必要なこと、やらねばならないこと、ですね。

一人一人は皆違うので、それが具体的に何なのか?は、各自がはっきりさせるしかありません。

■ 指摘されると怒るのが依存者の特徴

依存者とそうでない普通の悩みの見分け方は、真実を指摘した時の反応です。

本当のことをズバリ指摘する。…と

1)そうよね~それができないんだけど、どうしたらできるかしら?となる → 主体者
2)怒り出す&無口になる → 依存者

です。

これは実験済みです。本当のことを指摘されて怒り出すのは、なぜでしょう?

それはそれに依存していたことを指摘されたのと同じになるからです。弱さを指摘された気持ちになる。愚痴大会を続けられなくなります。問題が無くなると、自分の努力の結果にかかってくるので、結局は自分の能力がなかったのだ、ということに直面するのが怖いのかもしれません。

冷たいと言って怒り出す人もいます。

依存していなければ、指摘はただの事実の発見にすぎません。あら?そうね!くらいの話になります。主体者は悩みが解消されなくとも、糸口くらいは見つけて、気分が明るくなってくれるようです。1)です。

ですから、怒り出したり、無口になったりすれば、解決する気がなく、したがって成功する気もない、と言うことです。時間の無駄です。

■ 人間が作り出したことには人間が解決案を作り出せる

私が思うには、ほとんどの事柄には、具体的な解決方法があります。

出口がない、と思っているのは本人だけです。出口がないのではなく、それに至る代償を支払いたくないってだけです。

代償の典型的なものは、努力、世間体、などです。

代償を払って手に入れるかどうか?その意味で選択ですが、依存者は選択ではなく、無理強いされた結果だと基本的に主張します。

たとえば、私の母は30代で子供3人を抱え離婚しました。貧しい生活をしましたが、それを自分のせいとは思っていなかったと思います。

一方、私は親から自立して1年の18歳の頃、同じような先輩に大学で会いました。子供を施設に預け、昼は働きながら夜学に通っていました。別に特別感もなく、悲壮感もなく、悲劇のヒロインを気取ってもいませんでした。30代だから体力があり、平気なようでしたし、子供も別にぐれていませんでした。着ているものも別に普通です。

思うに母は、兄弟をバラバラにするのは良くない、親と離れて子供が暮らすのは良くない、自分は働くのではなく母親業がしたい、人並みの贅沢くらいはしたい(母の人並みは世間のお金持ちでした…お嬢様育ち)などと、色々人生に条件を付けていたと思います。このように条件を付ける人には人生は微笑みません。

このことは何度強調しても強調しすぎることはないと思います。成功に条件を付けると人生は微笑まない。

英語で、Picky girl on the cornerと言ったりします。求婚者の男性を選びすぎて、オールドミスになるって話です(笑)

同じですね。人生に与えられた武器は、

 ・偏見の無い心、
 ・問題に対して創造的に解決策を考える知性、
 ・何でも受け入れる勇気

です。

■ 一発逆転はない 

しかし、この3つの武器を、いくら与えようと思っても、依存者は受け取ることができません。

依存者の人が求めているのはそれらではないのです。

求めているのは、一発逆転の大幸運です。

・突然、大富豪から求婚されて子供ごと引き取ってもらえる
・突然、大金が入手される
・突然、雑誌から取材依頼がバンバン来るようになる
・突然、お客があふれかえる
・突然、子供が親に恩返しだと言って家を買ってくれる

などなど…  基本、楽して儲け! を求めています。 

世の中の成功者たちはみな、楽してラッキーでたまたま成功したのだ、おれだって運があれば出来る、と思っています。日の当たる部分しか見ず、日陰の努力は見ないからですね。

成功者は確かに幸運です。しかし、幸運に値する努力もしています。また幸運を理解する知性も持っています。

依存者は幸運が来ても前を素通りします…ラッキーをつかめないのです。

逆に、自分の手で主体的に人生を生きるためのツールをいくら与えようとしても、本人が欲しがっていない贈り物なので、いくら、善意であっても、贈ることができません。

それは、アルコール依存症の人からアルコールを取り上げることにも似ています。本人にとって”良いこと”をいくら周りがしようとしても、当人には”ありがた迷惑”でしかないのです。

■ 人生をサボらない 

努力というのは、いわゆる、爪の垢に火をともすようなものではありません。

ただ、自分がしなくてはならないことを毎日する、というだけのことです。

自分がしたいことを実現するのに、一体何をしなくていけないのか?それはその当人には明らかなはずです。

人生をサボっていたか、いないか、それはその本人だけが分かることです。

■ 崇拝者は依存者 

というわけで、主体者が依存者を助けることはどんなに頑張ってもできません。

依存者の人たちが欲しいのは主体者が持っているように見える表面的な楽しさや成功していそうに見える点など、なのです。

見分け方ですが、依存者は崇拝者化します。 主体者同志は崇拝者ではなく、同盟者になります。

■ 見捨てる?

私は、実家を出て主体者への道を歩み始めた時、家族に「どうしてママを見捨てるの」と言われました。

こういうのは呪いの言葉です。気にする必要はありませんよ。 

人が人を見捨てる見捨てないなんて関係はこの世に存在しません。縁を切っても切れないのが縁です。

人が人を救うことができないのと同じように見捨てる、も存在しないのです。

出来るのは、関係を断つことです。

関係を断つことを世間では見捨てる、というのだよ~、と思ったと思いますが(笑)、関係を断つことが、相手に取って善である場合、それは見捨てたと言えるでしょうか?

言えませんね。可愛い子には旅させよと同じです。相手を想って行う行為はみんな”見捨てる”ではなく、”見拾う(笑)”です。

そして、依存者にとって、最大の善は主体者への依存を辞めることです。

やってくれる人がいるから依存する、という図式は、やってくれる人が存在し続ける限り改まりません。さらに言えば、懲りない依存者は、別の人を見つけ同じように依存しはじめます。ですから、その意味でも気にすることはありません。

たとえば、私の母は私に依存していましたが、私の次は弟、弟が死んでからは妹に依存しました。結局、子供全員に距離を置かれています。

■ まとめ

・主体者は依存者を助けようと思ったところで時間の無駄だと知るべし

・依存者は悩みを解決しようとすると怒りだす

・依存者は崇拝者になりたがり、同盟者にはなりたがらない

・依存者は崇拝者を欲しがり、同盟者を欲しがらない

・関係を断つことは見捨てることではないため、悪く思う必要はない

・人生に条件を付けると幸運の女神は微笑まない

・人は自分にとって良いこと、が基本的に分からない (瞑想を薦めます)

・人は人を見捨てることはできないかわり、助けることもできない (カルマにおいて人は平等)

 

 

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自分サイズの人生を生きる

2014-03-10 15:24:36 | 魂と心の成長

■依存者と主体者

山登りは自己責任と言われます。単独で登っていると自己責任も何も、自分しかいないので問題にはならないのですが、パーティで登るとなると、

 ・主体者が集まったパーティ
 ・依存者で成り立つパーティ

があります。 以前、「山は自己責任」と言っているリーダー自身が「俺に全部任せておけば大丈夫なんだよ」と言っていて「???」となったことがありました(笑) 任せていたらどこが自己責任(笑)?

一般に 依存者の集団と主体者の集団の特徴は、以下のようになるそうです。

≪依存者の集団の特徴≫
・仲間づくりが上手
・一致団結し、何かやらないための言い訳や正当化の根拠を考えることに意識とエネルギーを集中する
・抜け駆けを極端に嫌う
・仲間が主体者への道を選び始めるとその人を裏切り者とみなす
・敵意、あせり、嫉妬というマイナスのモチベーションから、その人を徹底的にたたき始める
・陰口、誹謗中傷、意地悪、無視などを通じて足を引っ張る

≪主体者の集団の特徴≫
・仲間が高いレベルへと上がっていくと、さらに頑張ろう!という意識に上がっていく
・意識とモチベーションがアップする好循環となる

この特徴を見る限り、日本のいわゆる”世間”は依存者の集団かもしれないですねぇ…(^^;)

■ 自信のつけ方

私はよく「自信に溢れている」と言われますが…別に何か特別優れた部分があるわけではないような?

山登りだってそんなにすごい実績ないよな~ まぁよく山ネタでこれだけブログ書けますね、とは自分でも思いますが…(^^;)

私が思うには、私の自信の根拠は、つまり自分との約束を守ってきたところにあるのかな?と思います。立てた目標は達成しています。

私は山登り、自分なりの自信がありますが、それは、初心者の頃からステップを省かず、下からコツコツ積み上げたからなのではないかと思います。

登山道でさえない遊歩道からスタート(笑)マイペースを守る。

ですから、自信がない方には、自分で自分の目標を決め、それを急がず、焦らず、達成する、という体験を積みあげるのをおススメします。

■ 正しいプロセスで成果を上げる体験をする

私が思うには、「依存者」を「主体者」に変えるには、

 正しいプロセスで成果を作り出す体験

の重要です。正しいプロセスとは

 ・楽して得するというタナボタ的な偶然による成果ではない(不正なプロセスでの成果)
 ・偶然ではなく、自らの努力により手にした必然の成果であること

指導者と言われる人たちは、指導される側に自らの努力によって手にした必然の成果を得る、という体験を培うことを常に心にとめておいてもらいたいものかもしれませんね。

■ 成果を生み出す10のコツ

1)まず何をしたいのか決める
2)自分にふさわしい目標を持つ
3)積極的な自己開示
4)援助者を得る
5)恐れを克服する
6)今に集中する
7)変化に柔軟に対応する
8)自分との約束を守る
9)いい人を辞める
10)強い意思で決めたことを貫く

■ 1)まず何をしたいのか決める

何かを達成するには、”〇〇できない言い訳”ばかりを探すのではなく、”〇〇するにはどうしたらよいか?”という”手段を模索する発想”が不可欠です。

その発想をするには、自分が心から何をしたいのか?まず決めなくてはなりません。決めること=選択すること、です。 

たとえば、誰もに分かりやすい例ですと、今の成績から考えて受かりそうな大学に行く発想ではダメです。そうではなく、〇〇大学に行くには、どう勉強したらよいか?と考える。そうすると、手段が見つかります。手段があれば、達成もできます。

その根底にあるのは、まず行くと”決める”ということです。

私は高校生の頃、大学に行く資金もないのに、大学に行きました。大学に行くことはすでに決定事項でしたので、そのためにはどうしたらよいか?ということを現実的に考えて、高校生活で自分が何をしなくてはならないか?を決めました。答えはバイトでした。(それも校則で禁止でしたけど!笑) 一般常識で”高校生である自分が何をしなくてはならないか”(それも進学校で!笑)を計っていたら、お金がなければ、塾にも行けないし、模試も受けれないし、ないないづくしで、大学に行くことができない理由以外は見つけられなかったでしょう。

道が開けるのは、”まず決めて”、”そのために何をしなくてはならないか?”とWhatを考えたときです。できない理由を考えているときではありません。 

逆の生き方が、”開ける道を歩いているだけ”の生き方です。

If you don't know where your going, any road will taky you there.

開けた道を歩くという生き方をしていると、気が付いたらとんでもないところにいます。行き当たりばったりということですね。

親が選んだ大学に行き、親が選んだ結婚をし、親が出してくれたお金で家を建てる…と言えば、自分は違うと思う人が多いと思いますが、自分が主体的に選んだことではなく、「頼まれればやる」という”来る者拒まず去る者追わず”の生き方も、主体性の無さと言う意味では同じで、成り行き任せ。これを続けていくと、あきらめや妥協の人生を送ることになります。

たとえば、私は夫の転勤で不本意ながら今の土地に引っ越してきたのですが、今の生活の中心を山に据える、と”決めて”います。

決めた瞬間から、主体的な生活となります。このように”決める”ことで他の不本意なことを無視することができるようになり、それは自信につながります。

まずは、何かを選び(選択し)、そして意識をそれに集中する(選択と集中)。そうしないとあてがいぶちの人生になります。あてがわれたものがなんであれ、不平不満がでるのは主体性がないことの裏返しです。

人生に主体性を失うと、人生をコントロールしているという感覚が無くなり、あれもこれも、あれのせいでできなかった、と不利な点やできないことばかり(言い訳や愚痴)を数える生き方に陥ります。

これはハーフエンプティのグラスの不足した半分を嘆く生き方であり、ハーフフル、満たされた半分に感謝して生きる生き方ではありません。無い物ねだりの生き方をしたい人がいるでしょうか、いませんよね。

■ 2)自分にふさわしい目標を持つ

決めたら、次は目標を持つのが大切です。

自分の背丈に会った目標を持つ。自分とあまりにかけ離れた目標を持つのは、自分を痛めつけることです。たとえば、漠然と有名人になりたいなどという目標ですね。多くの人は自分の愛し方を知りません。手段がない目標はストレス源になります。逆にいうと、目標がストレスになっていたら、その目標はふさわしくないということです。目標の方を調整すべし。

自分が本心から望む、自分らしい目標であれば苦になりません。たとえば、私はブログを毎日書くのをしばらく前は目標にしていました。今は第二の天性と言うくらいラクラク達成です。

他の目標として、山梨では山をする、というのがありますが、だからと言って、エベレストなんて目標は持っていません(笑)

山登り⇒成功⇒エベレストみたいな発想は、とても愛らしいと言うか、子供っぽく感じます(笑)が、そうではなくて、たとえば、冬の滝谷を登りたいだとか、冬の黒部横断を・・・みたいな玄人チックな目標を仮に私が持ったとしても、それは自分を不幸に陥れる目標となるでしょう。

それは私が心から望む山ではないからです。ここは自分に見栄を張らず素直になることが大事です。

私は夫との生活を心から楽しむ生活をしたいので、同じ登山であっても、

 ・高所恐怖症の夫を安全に赤岳に連れていってあげることができるスキルを持つ、

というのは私の一つの目標です。その道はまだまだ長そうではありますが、大体の道筋は見えてきました。

身の丈に合った目標であれば、目標達成のプロセス自体も私自身の人生の喜びに直接直結し、そして到底実現不可能な目標とは言えないので、この目標を持つことは私にとって健全でヘルシーなことです。

悪い目標は持っていることで、愚痴、後悔、出来ない言い訳、妬み、嫉妬などのマイナスの感情を呼び起こし、ストレスの源になります。

■ 3)積極的な自己開示

自分が何を実現しようと頑張っているのか、表現して伝えることは重要です。

そうすると、その点において協力や助言をしてくれる人が見つかるものですし、また目標から逸れたときも分かります。

もちろん、誰にでも彼にでも体重を今より10キロ減らしたいと言って回る必要はありません(笑)そうではなくて、周囲に理解者を増やしておくのです。

助けてあげたいという人は世の中にいっぱいいます。私だってそうです。自分の持っているスキルが埋もれるよりも、誰かに生かしてもらえたほうがいい、というのは誰しもが考えることです。が、助けられる側の本人が、何をしたいのか分かっていなければ、助ける側もどうしようもありません。

ちなみに、助けてほしいことを言葉ではなく、態度で表す人がいます。言わないでもわかってほしいというものですね。言葉ではなく、大げさに困っているフリをしてみたりなどで周囲の気を引こうとする人です。こういう人の多くは、ウジウジしていれば誰かが助けてくれた、という体験を持っています。親が手を差し伸べてくれたり、大人になってからは女性や妻が手をさしのべてくれたりです。しかし、このような援助で当面が切り抜けられても、最終的に物事がうまく行くことはまずありません。当座しのぎだからです。

また、自分の欠点や弱みも隠さず開示するのが重要です。たとえば、私は山登りでは、岩が弱みです。分からないことは分からないと率直に開示するのが重要ですね。指導する側も相手がどんな段階にいるのか分からなければ発想のしようがありません。

■ 4)援助者を得る

私は短いですが、営業経験があります。どこに行っても可愛がってもらえる人とそうでない人がいます。

可愛がってもらえない人は返事が可愛くない(笑)。

こないだ、山友達と下山後、温泉に入っていました。下山すると筋肉痛で足が痛いと彼女が言うので、「筋肉痛には温冷交代浴が良く効くよ。乳酸が取れるから」と教えてあげました。返事は「私、冷たいのキライ」。あっそう…私はちゃんと山仲間としての義理は果たしたもんね~と心の中で思いました。

こういう人には次回から助言する人はいなくなりそうですね。

逆に、餌をくれる人間ならば誰でも構わないという犬のように、損得勘定で計算し八方美人を繰り返している人も、最終的には誰からも信頼されなくなります。自分を応援している人を敵に回すだけならまだしも、自分自身の墓穴を掘ることになり、墓穴を掘る人を助けようとしても、堂々巡りになるだけで、どこへもたどり着きません。こういう人には助力をしても徒労に終わることは明らかですので、援助者がいなくなります。

こういう人を見ていると、自分を認めない人には媚びを売って取り入ろうとし、自分を認めてくれる人には自分を高く売りつけようとしています。やるべきことは逆です。

私が観察した、いわゆる「できる人」たちは、意外に地味で単純なことを大切にしている人たちでした。

今自分にできること、しなくてはならないことを粛々とこなす。

これにはタイムマネジメントのスキルが不可欠です。また物事に優先順位をつけ、人生において大切なこと、短期的利益をとって長期的利益を犠牲にしてしまわない、という視野の広さも重要です。

■ 5)恐れを克服する

誰だって失敗したくないし、恥はかきたくない。

成功を望んでも、その成功には、努力や痛みや犠牲が伴います。そしてつい惰性で痛みがないほうを選んでしまいがちになります。

楽な方、楽な方と流れていくと、その終着点に成功があるはずがないのは当然のことですよね。

多くの人は、チャンスが来たら、時期が来たら、もう少し経験を積んでから、と条件を付けたがる人がいます。これを繰り返すと、成果は1)と同じく”環境次第”となってしまい、主体性が失われます。

短期の苦は長期の楽を意味することは誰もが知っています。出来ない言い訳を並べ、目の前に事に追われるだけの生活を続けているとき、その人は逃避しています。これでは精神的自立は無理です。

逃避の代表的なものは、正当化、被害者妄想、責任転嫁、アルコール、タバコ、過食、仮病、病気、同情を求める、すり替えなど・・・。 

勉強や仕事など一見ポジティブに見える事柄が逃避の対象であることもあります。

人はおそらく、20年後には何かをして失敗したことよりも、行動を起こさなかったことを悔やむことになります。

失敗よりも、もっと恐ろしいのはしなかったことを悔やんで過ごす20年後の後悔の日々です。

■ 6)今に集中する

今自分がすべきことをする。それだけですね。

何をすべきか分からない、というのは、本当に分からない場合とそうでない場合の二つがあります。本当に分からない場合は解決案を考え出す創造性の欠如が問題です。

後者の場合は、甘えの問題です。まだ誰かが自分の代わりにやってくれるだろうという甘えがある場合の言い訳です。どちらなのかたいていの人は分かっていると思います。

今やるべきことをやらないと、出来上がるべき未来(自分が設定した目標、ゴール)は出来上がりません。

撒かない種に芽は生えない。

種を撒き、水をやり、草を刈り、というプロセスを経ないと収穫はやってきません。収穫を望む人は等しく、タネを撒かなくてはいけません。

登山であれば、行きたい山を考え、計画し、仲間を募らなくては、山に行くことはできません。

■ 7)変化に柔軟に対応する

変化に柔軟に対応すること。機転と機知を働かせること。やり方に固執するのではなく、やり方を変えていくことが必要になる。

過去に正しかったやり方が、今も正しいやり方とは限らない。過去に間違っていたやり方が、今も間違っているとは限らない。

ロープワークなどの山の技術と一緒ですね(笑)

■ 8)自分との約束を守る

自分が何をやっていて何をやっていないのか…一番よく知っているのは自分ですね。

人の目は欺けても自分の目は欺けません。自分との約束は、人との約束より重要です。自分との約束を守らないと自信は一生つかないです。

自分との約束を破り続けると、低い自己評価、自信の無い自分を作り出します。

この点で完璧主義は弊害です。完璧なんて絶対無理なんですから、完璧な自分を求めるのはやめましょう。自分との約束は、6~7割を達成を合格ラインとするのがコツです。高すぎる自己目標で自分を痛めつけている人を時々見かけますが、優秀な人に多いと思います。

■ 9)いい人を辞める

いい人や、いい人を演じている人は、自分との約束を軽視します。

自分が後回しになる人は、そうしていれば、いつか誰かが自分の世話を自分の代わりに焼いてくれることを期待していますが、それは本人だけがもつ幻想です。人生において、自己責任に反することはまず起こりません。

こういう人たちは、人のよさに付け込まれ、ただ便利屋のように利用されてしまい、成果を作り出せません。

本当に自分の人生に大切なことは何か?を考えて優先順位を付け直す必要があります。

さらに問題なのは、付け込まれることに自己愛を見出している場合です。人の好さに付け込まれ、利用されることが自己愛の源となりますから、ますます、自分自身との約束からは遠ざかり、何かを達成する、ということはできなくなります。

たとえば、子供のために自己実現できなかったと嘆く親は多いです。親になるという道は自分が選んだものなのに、子供がいなければ〇〇になれた、と考えることで自分自身が努力をしなかったこと、あるいは成功そのものを恐れていたことを子供の存在に責任転嫁するものです。

敗北は潔く受け入れましょう。なれたかもしれない自分を悔やんで過ごすのは人生の無駄です。それよりもセカンドベターであっても、自分の夢を実現する人生の方が何倍も輝かしいものです。

■ 10)成功するまで続ければ、失敗は存在しない
 
人は失敗することを恐れて行動を起こさない生き物です。

「何でもやる、何度でもやる、出来るまでやる」

そういう意思が自然と生まれない場合、その目標はその人の真の願いを反映したものではないのかもしれません。

まず決める。決めなくては、何も始まることができません。

決めてしまえば、そのために何をしなくてはいけないのか?出来ることを一つ一つつぶしていくだけです。

そういう時には、逆境も大した挫折には感じられないものです。逆境が必要以上の大きさでのしかかってくるなら、それは逆に言えば、正しい道を歩いていない、自分らしい生き方を選んでいない、という傍証かもしれません。

たとえば私が身の程知らずな目標を持つと、たとえば、名アルパインクライマーと自分を並べようとするなど…その目標は私をみじめにさせ、自分をちっぽけな存在に思わせるでしょう。そして乗り越えるべき課題が、一つのルートがありえないほど大きな壁に感じられ、立ちすくんでしまうでしょう。それはすべて自分に対する期待が大きすぎるからです。

そしてもしかしたら、立ちすくんでしまうほどの大きな期待をしているのは、自分ではなく、他の人の期待に応えようとしているからかもしれません。たとえば親が与えた期待に応えようとしてしまう人は多いです。
二世の議員や二世の医者、二世の社長などには成功者は少ないものです。それは自ら課した課題ではなく、他の人の期待に応える人生を選んでしまうからです。

人生は一度限りのもの、自分らしい課題を生きることこそが人生の喜びの源泉です。幸せは、”になる”ものでなく、幸せ”でいる”ものです。

幸せでいれないとき、それはなんらかのふさわしくない自己への期待がそこにあるからかもしれません。

 

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弱さもまた強み

2014-03-06 08:54:50 | 魂と心の成長

今日はものすごく風が強い日です。朝からバンバン吹いています。風の音で目を覚ましたくらいです。

■ 垣間見る人生

大人になると、人の人生を至近距離で見るということはあまりない、と思います。

その人の人生に、どんな選択肢が何があったのか?その時、どのように決断し、何を選び、何を捨てたのか?

そうしたことを見る機会が訪れると、その人の価値観が分かる。その人を何が支配しているのか分かる。

■ ヘッドスタンド

ヨガでは様々なアサナが心理的なメタファーになっています。胸を開くポーズ=心を開く、前屈=内省というような。

ヘッドスタンドは上級アサナですが、このメタファーは、「物事の見方の反転」です。悲しみは喜びの種、人間万事塞翁が馬ということです。物事に一喜一憂する必要はないということを理解したり、今まで問題の種だと思っていたことが、実は財産だった、ということを理解するためのアサナです。

アップサイドダウン…”逆さま”にしてみたらどうか?ということに人生のヒントを得なさい、ということですね。

■ アップサイドダウンにモノを考える

自分の支援者をないがしろにし、敵にへつらう。そうすると、どうなるかと言うと、やっぱり人生はうまく回りませんね。

しかし、そうしてしまう原因は何か?というと、人間的弱さ、なのだと思います。

たとえば、支援者の第一人者である、配偶者には大抵は甘えが出ます。甘えだけでなく、当てこすりや愛情に胡坐をかく、という傲慢さ、も出るかもしれません。相手の愛情を当たり前だと思って、わがままにふるまうのは子供によくある行為ですよね。

自分を利用していることが明らかな相手にへつらってしまうのは、自分も相手を利用したいと思っているからかもしれませんね。利用と協力は似て非なるもの、その違いが分からないと協力関係を作ろうと思って、お互いに利用し合う関係を作ってしまうかもしれません。使命や価値観に共通点を見出しているかどうかが違いです。利用し合う関係は一時的で部分的な関係、協力し合う関係は全体的で継続的なものです。

・協力者へは、言わなくても分かってほしいという甘え

・愛情に胡坐をかくと言う傲慢

・ストレートに努力せず、棚からボタモチ的に何かを得たいというちゃっかり精神

こうしたものは、人間的弱さの証。しかし、人間は弱いもの。こうしたことは誰しもが、多かれ少なかれ持っており、それに自覚的であるかそうでないか?あるいはそれをコントロールしているかいないか?で、人間的成熟度が異なるものの、誰もが持っている、という点では普遍的です。

私も自分自身のうちにそれらがあるから、相手のうちにある弱さを見出すことができるわけですね。

違いはヨガをしているせいで、それを客観視できるか?それとも弱さに支配されるか?の差だけです。

■ 弱さは魅力

人々の共感を呼び起こすのは、弱さに対してであり、強さに対してではありません。

ので、裏を返すと(アップサイドダウン)、弱さとは人間的魅力の裏返しであり、弱い人は人たらし。愛される人であります。

が、もちろん、”尊敬される人”ではないかもしれません。 尊敬を呼び起こすのは、”強さ”なのです。

■ 手に入らないモノを望むのが人の常

人は手に入らないものを望むもの。愛される人は、愛よりも、尊敬を望みます。しかし、尊敬を人の心に呼び起こすのは、弱さではなく、強さなのです。

・目的(ゴール)に向かって困難にもくじけず、歩みは遅くとも少しではあっても歩み続ける。
・今やらねばならないことをきちんとやり続ける。

そうしたもの…強さやゴールに対する一貫性…が、感動を呼ぶから人はオリンピック選手から感動をもらうわけでしょう。

逆に言えば
・少しの困難に負け、苦手とあれば、しなくてはならないことから逃げてしまう
・やらねばならないことを後伸ばしにし続ける

ならば、感動は起らない。代わりに、愛されていれば心配され、愛されていなければ呆れられる。

最初は励ましたり、手助けをしていた人たちも、あまりに愛情の試練にさらされると、遅かれ早かれ去らざるを得なくなります。

 人生は自分の足で歩くしかない。

からですね。ですから、支援者が現れたら、支援者の愛情や忍耐強さを試すようなことはしてはいけませんね。素直に支援を受け、成長することこそが支援者への恩返しです。

そうした人の人生は、本人が考える形での”成功”という名の何かには、たとえ到着しなくても、それ故に本人の視点からは人生の満足度が低いものであっても…それはそれで、人間的魅力にあふれ、人々から愛された、その人らしい人生、と言えるのだと思います。まぁ寅さんみたいなものですね。

そして、本人は分からなくても、無意識下であっても、本人が真に求めたものは、いわゆる”成功した人生”ではなく、”愛された人生”なのではないでしょうか?

”しゃーないな、アイツ…また…”と、思われつつも人に尻拭いをしてもらう…それは喜びでこそあれ、悲しみではないはずです。

弱さは人間的魅力。弱さもまた、その人の強みであるのです。

ま、その弱さを一番愛しているのが本人だということは指摘されないと気が付けないものかもしれません。人生は自分が招き入れた形に成り立っている、ということは真実なのです。

≪人生の学び≫

・弱さは人間的魅力であり、人たらしはそれを知って、その力を使う

・強さは敬意を勝ち得ることができるが、共感者を得ることは難しい。

・支援者への恩返しは成功すること

・人は多くの場合、真の望みを知らない

・行動こそが真の望みを表現し、客がこないだとか、お金が足りないだとか、俺だって成功できたのにと言うような愚痴は単なる世間体への憧れだけにとどまり、真の願いではないものである。

・したがって、心配したり援助したりするには値しないかもしれない。


変化を受け入れる人になる

2014-03-05 23:11:40 | 魂と心の成長

■ 今日の晩御飯は吉田うどん

今日は晩御飯に吉田うどんを食べてみました。 

実は、やまなしの郷土料理には、ほうとうにしろ、吉田うどんにしろ抵抗を感じていました…のは、生まれ故郷の実家熊本の郷土料理も知らないし、18年も暮らした大阪の郷土料理も大して知らない・・・のに、転勤できただけの山梨の郷土料理になにも詳しくならなくたって・・・と思ったから(笑) 

別に山梨に義理があるわけじゃ・・・なわけですが、私は大阪時代と違い、今は暇なのでお料理に精を出すのは間違ってはいませんので・・・まぁ、今あるものを生かす、ということも間違っている方向でもないし・・・

・今できることをする

・環境を生かす

というわけで・・・吉田うどんの晩御飯・・

■ 吉田うどんの特徴

この本によると吉田うどんの特徴は

やまなしのおかず―郷土の食材と料理

・いりこのダシ

・にんじんとキャベツ

・みそ仕立て

・馬肉入り

のようです。 もちろん、ベジタリアンなので肉は入れないのですが。 

■ ブーランジェリータケウチ

大阪ではパン屋激戦区の中央区に住んでいたので、おいしいパンに事欠くことなく、また価格も安かったのですが、こちらはパンゲットの敷居が高いです。 パンのために車で一時間とか困っちゃいます・・・

それなら、いっそ自分で作った方が早い。 ので、この本を愛用しています。

ブランジュリ タケウチ どこにもないホームベーカリーレシピ

大阪でもぴか一のパン屋ブーランジェリータケウチが出しているHBの本。

  

今日もおいしそうにできた☆ バターと食べるシンプルなパンが一番好きだけど、そういうハード系のは、小麦粉の質を選びます。

国産小麦でないと出ない味がある・・・ シンプルなものほど素材を選びますねぇ・・ 

この本のレシピはそういうレシピばかりで材料の収集がハードルです。

     昔                      今 

インターナショナルなクッキングの人 ⇒ 郷土料理クッキングな人

パンはパン屋で買う人         ⇒ パンは手作りな人

文系でインドアな人            ⇒ 文系だけどアウトドアな人

ワードローブは黒中心          ⇒ワードローブはアウトドアウエア中心=カラフル

とまぁ、大変貌を遂げている途中です☆

 


ヨガは不正義をどう教えているか?

2014-03-03 11:37:10 | 魂と心の成長

ヨガは不正義をどう教えているか?

ヨガでは、世界の不正や不正義について、達観した見方を教えています。

世界にはなぜ不正や、不公平、不正義が無くならないのか?

善人が損をし、悪人が得をする世界は一向になくなる気配がありません。

それでも、善を実行し、善を後押ししなくてはならないのか?

答えはYESです。しかし、他の人の不正を糾弾し、不正義をただすヒーローになる必要はありません。

■ 世界は不公平

世界は不公平です。

たとえば、貧乏人の家の子は、熟にも通えず、受験社会でけり落とされ、高学歴のエリート社会には入れません。

でも、そもそも、エリート社会に入りたいんだったっけ? 

大抵の親たちは、”テストの点の良い子”になってほしいと願っているわけではなく、”知恵のある子”に育って欲しいと思っているはずです。

じゃあ、塾に行けなくてもいいじゃんね? むしろ知恵をつけるのには塾は百害あって一利なしかもしれません。

大抵の親たちは、”子供の幸せ”を願っているのであって、高学歴でありさえすればつけるらしい、”いい仕事”(?(笑)楽して高給取りな仕事?)について欲しいと願っているわけではありませんよね?

じゃ、楽して高給取りな仕事につけなくてもいいじゃんね? それってそもそもあったっけ?ないなー 

まあ痛風におびえながら子供にも妻にも会えず毎晩フォアグラのように飲まされる生活をしたければ、ですが(私がみたことがある年収1500万の上司)

親たちは躍起になって子供を上の学校に入れようとし、出来るだけ大きなチャンスを、と願います。

それは自然なことですが、親が頑張ったからと言って、子供の将来が開けるわけではなく、子供が頑張らないと仕方ありません。

ヨガの世界観によると、世の中の不正や、不公平、不正義はなくなりません。それは、実はそれでいいから無くならないらしいのです。

たとえば、私の子供の頃のクラスメートですが、歯科医の家の子がいました。良く考えたら、近所で超がつくお金持ちの子だったんだけど…家は3階建てでお部屋はお姫様のようでした…が…

家庭内は大変みたいで、親のプレッシャーで兄二人は医学部に進むも自殺するし、母親はいつも物憂げだし、同級生のその子は末っ子だから甘やかされて育ったせいでしょう、クラスではのけ者だし…

いくらお金があっても幸せな人生とは思えませんよね。 それは私がだいぶ後になって大人になって思ったことですが。私は彼女の唯一に近い友達だったのです。

田舎に住むと、都会との価値観の違いに驚かされます。人々の精神的成熟度は都会と比較して大きく後退していると言わなくてはならないのは、おそらく多様性がないからでしょう。みなが同じような生活をしていて、同じような生活をせざるを得ないと信じているから、足の引っ張り合いになるのです。

そういう社会では、多くの人は、人の見た目で、この人はエリートのようだから、少しぐらい吹っかけても良い、とか、この人はいい人そうだから少し安くしてあげよう、とか色々と考えます。相手によって値段が違う(笑)

でも、その人がどんな人生を生き、どんな試練を受け、どんな苦しい生活をしているか?は、外からは見えないものなのです。努力は見えず、華やかな見た目だけを追うのは、ティーンネイジャーのモノの見方です。それを50才になっても60歳になってもやっている人が多いのは、人生から教えられていないからかもしれません。

逆に幸せそうにしていると、周囲の人が妬み、意地悪をされるので、わざわざ不幸ぶっている人がこうした世界では8割です。そういう人は不幸ぶって同情してもらいたがりますが、実際のところ、非常に恵まれた人だったりします。それがバレると、奪われると恐れているから、不幸ぶってかくしているのです。

世の中は広く、世間と言えば、こうしたものだ、と思い込んでいる人に朗報です、違う世界もたくさんあります、ぜひヨギーの世界に来てみてください。

世の中、誰が得して、誰が損しているか?そういう表面だけのことを考えなくなると… 正義や不正義はどうでもよくなります。

不幸や不正義、不公平は、すべて、その逆の幸福、正義、公平を際立たせるためにあります。闇がなければ光が見えないのが人間なのです。それは人間が弱いからです・・・仕方ないですね。

ですから、不幸の数が多く見えるのであれば、それだけ多くの幸福があるのだ、と安心することです。

■ 身の回りの幸福を増やすだけで良い

大事なことは、自分に判断が託されるときが来た時に、正しい正義の決断をする、ということです。その強さを与えられるように常に祈ることです。

世の中のニュースを嘆き、国を責め、政治家を責めるより先にやらなければならないことが一杯。

 ・身近な誰かが傷ついていたら慰める
 ・いじめられていたら、助ける
 ・困っていたら、助ける
 ・飢えていたら、食事を与える
 ・知らないことがあって、困っていたら教える

それが大事なことです。目の前の決断を大事にする。その積み重ねの上にしか、大きな決断をする役目が廻ってくることはないのではないか?

もし政治家に不服な人がいれば、あるいは、県知事に不服な人がいれば、自分は政治家になるための様々な代償を支払っても政治家になりたいのか?県知事になりたいのか?をまずは自分に問うべきでしょう。そして、その地位についたら、正しい決断ができたかどうかを自分に真摯に問うべきでしょう。

そうすれば、やむを得ないことが分かると思います。楽をしている人はいない・・・

人それぞれのカルマにおいて万人は平等なのです。