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世界遺産 日光大紀行

織内将男のブログ; 世界遺産の日光寺社を中心に、大地域の日光を巡ります

世界遺産 日光大紀行(52)日光の歴史 「日光の東照権現」

2013-01-24 13:25:32 | 日光の歴史、
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世界遺産 日光大紀行(52)日光の歴史 「日光の東照権現」





家康の権号、「東照神君・東照権現

二代将軍秀忠により、久能山に造営された権現造の極彩色で社殿は、荘厳な雰囲気で見る者を圧倒するという。 

本殿、拝殿等の社殿は権現造、総漆塗り、極彩色に彫刻、模様、組物は桃山風の技法を施し、江戸初期の代表的建造物として国宝に指定されている。


家康公は後に「東照神君・東照権現」となり、平和、開運、学問、厄除の神として崇められ、全国東照宮の根本大社として幅広い崇敬を受けている。

祭神は「正一位 徳川家康公」、相殿に「正一位 豊臣秀吉公」「正一位 織田信長公」を祀る。 

正一位とは平安期、律令制における官位のことで、いずれも天皇から授かる。
一から五位まで正と従があり、正一位は最高官位である。



そして、その20年の後に、三代将軍家光によって、御霊[みたま]は日光東照宮へ移された。
 


ご存知、三者を現した句に、

『 啼かぬなら 殺してしまえ 不如帰 』  信長
『 啼かぬなら 啼かせてみよう ホトトギス
 』  秀吉
『 啼かぬなら 啼くまで待とう ほととぎす 』   家康




天下統一を果たし、270年にも及んだ江戸幕府を開いた家康は1542年、当時、松平氏として岡崎で生誕している。

幼少時分は苦労の連続で今川氏の駿府城下、家康は今川家の人質として19歳までの12年間を過ごしている。

不自由な生活に耐えることで忍耐強い性格がここで形成される。



1603年、江戸に幕府を開き徳川政権下、征夷大将軍になったが、わずか2年で秀忠に将軍職を譲り、駿府に戻って大御所と呼ばれるようになった。

晩年になって、天下統一を果たした家康は、忍従と波乱に満ちたの一生であったといえる。


次回、日光の歴史 「家康公の遺訓


世界遺産 日光大紀行(51)日光の歴史 「日光の近世」

2013-01-23 10:47:18 | 日光の歴史、
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世界遺産 日光大紀行(51)日光の歴史 「日光の近世」




日光の近世(江戸期)

日光の歴史の中で最大の画期的なことは、言うまでもなく元和3年(1617)の「東照大権現」の鎮座である。

徳川家康の死後、その霊柩が久能山から日光へ遷座され、東照社(後に東照宮に昇格)が創建されたことで、日光は一気に徳川家の祖廟を祀る霊地となり、江戸幕府の権威を支える重要な拠点となった。


戦国期が終わって、やがて徳川家康の時代を迎えることで、さらに新たな転換期を迎えることになる。

豊臣秀吉没後、関が原の戦い、更に大阪の陣を経て、慶長8年(1603)家康が江戸に幕府を開く。



長かった戦国の世がここに終止符を打つが、日光は未だ暗闇の中にあった。
そして転機は、慶長18年(1613)天海僧正が日光山53代管主として迎えられたことによる。


元和2年(1616)徳川家康が没し久能山に埋葬されたが、翌年家康の遺言「1周期の後、日光に小さき堂を建てよ」により、国家平安の祈りをこめて、江戸の北に位置する聖地・日光に神霊を遷座することになる。

天海の先導で久能山より1ヶ月をかけて遷座が行われた。
これが東照宮の祭礼・千人行列の始まりという。




徳川家康は1616年、73歳で駿府城で死去している。
遺言によりこの地、久能山東照宮に遺骸が埋葬された。
久能山は、「あたかも桶を伏せたるが如く」といわれるような、断崖に囲まれた天然の要害の地である。

武田氏が滅びて駿河の国一帯が徳川氏の領有することになるが、家康は死の真際に望んで、西の諸大名が異心を抱き、謀反など発起させぬよう、睨みを効かす為に険峻高地の久能山に菩提寺を選び、亡骸を西側に向かせて葬るように、と遺言したという。


次回、日光の歴史 「日光の東照権現






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世界遺産 日光大紀行(50)日光の歴史 「日光の中世期・2」

2013-01-22 09:57:52 | 日光の歴史、
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世界遺産 日光大紀行(50)日光の歴史 「日光の中世期・2」



さらに、承元4年(1210)には第24世座主として、源実朝の護持僧・弁覚法印が補任され、日光山の信仰形態は大きく変わることになる。

彼は熊野修験の法を導入し、日光修験のための大法八大法規(厳重な定め)を補い、三山形態を確立した。


これまでの二神信仰が神仏習合と合わせて、次のような三神信仰に変わった。

 
三山三仏 三所三神三社
女峰山 阿弥陀如来 女体権現田心姫命 滝尾
男体山 千手観音 男体権現大巳貴命 新宮
太郎山 馬頭観音 太郎大明神※味耜高彦根命 本宮
※ アヂスキタカヒコネ(大巳貴命=大国主命と田心姫命=宗像三女神の一柱の子神) 



弁覚法印は、頽廃していた堂塔を修営し、光明院を建立、これを本寺として衆徒36坊、小坊300余坊へと発展させた。
これを光明院時代といい、彼を日光山中興の師とも称している。



室町期は、郷国・足利氏や隣国の上野国の新田氏が中央に進出するに及んで、日光山は足利幕府、豪族、修験者の信仰に支えられて、更に隆盛をみる。
この頃(16世紀)の日光山は、僧坊500余、寺領も18万石と称された。


永禄年間・戦国の世は織田信長の出現を見、桶狭間の戦いから本能寺の変と戦国乱世の世、日光山でも、地方豪族の争いに巻き込まれて僧兵が各所に出向くこともあり、緊張状態を強いられる。


豊臣時代の後半、小田原攻略においては日光山の惣政所・壬生氏が僧兵と共に北条方に付き小田原城へ入ったとも記録に残っている。

この時、北条氏は豊臣秀吉によって滅亡するが、戦後秀吉は、日光山が小田原に組したことを怒り、日光山領66郷、18万石を没収、足尾郷800石と鉢石町(現、日光中心部)のみを残すのみとなり、これにより日光は衰退の時期を迎えることになる。
 


次回、日光の歴史 「日光の近世





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世界遺産 日光大紀行(49)日光の歴史 「日光の中世期」

2013-01-21 10:38:35 | 日光の歴史、
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世界遺産 日光大紀行(49)日光の歴史 「日光の中世期」



中世期(鎌倉、室町期)

日光史の第二の時期は、初めて関東が政治の中心となる鎌倉幕府が関与した時期であろう。

勝道上人が、遠くに聳える「補陀落山」(二荒山:男体山)に観音浄土を描いた当初から、次第に山岳信仰の拠点として整備されてきた日光は、山岳信仰の上に神仏習合の信仰が加わって、「補陀落山」(仏の観音浄土)から「二荒山」(神が宿る山)へ、更には、「日光山」(仏が護る山)の双方の名称を併用しながらその基盤を固めていったといえる。

特に中世に入ると、男体-女峰-太郎の三山に、それぞれ神(男体権現-女体権現-太郎権現)と仏(千手観音-阿弥陀如来-馬頭観音)が宿るという日光三所権現信仰が新たに広まった。

そして、そのような民間の信仰の支えとして日光山は隆盛期を迎えることになるが、当時の日本における他の大寺社勢力の例にもれず、広範囲の寺社領を領有し、多数の僧侶が在院する大寺院(大神社)の様相を呈していくのである。



日光の「往古社領六十六郷」といわれる寺社領は、現在の日光・足尾・今市・藤原・栗山・鹿沼・粟野・宇都宮の各域に及ぶもので、大きな寺社勢力となった日光の経営を支える地域であったとされている。
 
又、建久3年(1192)源頼朝は征夷大将軍にとなり鎌倉に幕府を開く。
鎌倉時代は政事の中心が鎌倉の関東圏に及び、早速ながら日光は源頼朝をはじめとする源氏の信仰を集めるようになり、関東における護(まもり)としての位置を築いていたようである。


その頃から既に、日光の御神体が「日光権現」と呼ばれていたらしく、それは、日光山別当が、鎌倉の源氏にとって特別な意味のあった勝長寿院(鎌倉において、源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために建立した寺院で、当時は大御堂とも呼ばれ、現在は御堂跡のみであるが、その名が地名として現在に残っている)の別当と兼務していた時代が二百年に及んでいたという事実もあった。


次回、日光の歴史 「日光の中世期・2





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世界遺産 日光大紀行(48)日光の歴史 「日光の古代」

2013-01-17 11:47:00 | 日光の歴史、
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世界遺産 日光大紀行(48)日光の歴史 「日光の古代」





日光の古代(奈良、平安期)


古代の日光は、第一は勝道上人による日光の開山時期であろう。

このような時期に併せるように、いよいよ日光黎明期の歴史が開かれてゆくのである。
奈良期の天平年間(神護2年・766)、勝道上人(下野芳賀郡高岡の出身)が霊峰・男体山の登頂を志し、大谷川を渡って四本竜寺を創建した時に始まるといわれている。

上人は、男体山中腹の湖畔に神宮寺を創建、後にそれが中禅寺として繁栄、以後、山麓の四本竜寺付近と共に、日光は山岳信仰の拠点として、近郷のみならず広く関東全域からの信仰を得て多くの修験者や僧が入山し、堂社も各所に整備されるようになったという。
 

それに伴い高僧の来山も伝えられ、中でも弘法大師空海の滝尾神社創建の伝説や、慈覚大師円仁の日光来山の伝説は、勝道上人の開山伝説に象徴されるような山岳信仰の霊場というだけでなく、平安期の二大宗派である真言・天台の二つの密教に裏付けられた正統な霊場としての日光の位置を確保し、古代における日光の信仰基盤の重厚さや深淵を高めることとなった。
 
もちろん、山岳信仰を核とする日光の歴史において、勝道上人の偉業を最重要な拠り所としていたことはいうまでもなく、上人以後、日光山の最高責任者の別当は上人の高弟が継承したことを伝えている。


こうした伝説的な勝道上人やその弟子達の時代を経た後、古代(平安期)末期の近隣の地方豪族の伸長に伴って、豪族出身の僧侶が別当に就く時代を迎えるのである。



次回、日光の歴史 「日光の中世期






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