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風琴抄

ふうきんしょう…オルガンや聖歌、庭、日々の出来事

誕生と洗礼

2015-01-16 | 思い出+
今日は長男じゃんの22歳の誕生日、
ということで、じゃんの生まれたころのことを思い出しています。

いつだったか、古巣神父様のお話の中で、
「その教会に勢いがあるかどうかは、成人洗礼の数で決まるように言う人がいるがそれは違う。
 幼児洗礼の数こそ大切。信仰が伝えられている証拠だから」とおっしゃっていました。
 (注:成人洗礼を否定したり、幼児洗礼のほうが良いという意味ではありませんのであしからず)

カトリック信者であっても、子どもに幼児洗礼を受けさせない親が増えています。
結婚相手は未信者という場合がほとんどだし、親自身が教会から離れていることも少なくないのでしょう。
ありがたいことに、私たちはお互いが幼児洗礼者同士で結婚の秘跡に与ったので、
何の障壁もなく、当然のように子どもたちには洗礼を受けさせました。
でも、洗礼を受けていない甥姪も何人もいます(配偶者が未信者の場合しかたない面があるかも)。

「子どもには自分で(信仰を)選ばせたい」と言う人もいます。
もっともらしく聞こえますが、どこか無責任さが見え隠れしていると思うのは私だけでしょうか。
授かった子どもに(次世代に)信仰を伝え、信仰を素朴に生きていく、
キリスト教はそうやって2000年間続いてきた宗教だと思っています。
日本のキリシタンたちも。

私たちは、初めて授かったじゃんが重症の先天性心臓病で、
何度も手術が必要、最初の手術で助かる確率は半々と言われました。
手術用に、せめて自分たちも献血をと願い出ましたが、
身内の血液は拒絶反応が出たら致命的なので輸血にはまず使えないと言われ、
親がしてやれることなんて本当に何もない、できるのは洗礼を受けさせることくらいだと痛感しました。
いや、もし洗礼を受けられずに逝ってしまったら…(洗礼前に帰天する乳幼児のすくいを信じてはいても)
今すぐにでも保育器の中にいるじゃんに緊急洗礼を授けようと夫に言ったくらいです。
(緊急の場合は司祭でなくても洗礼を授けることができます)
じゃんは生後33日目に手術を受けましたが、その前に神父様から洗礼を受けることができました。

「あのね、もし生まれたばかりの赤ちゃんの命が危ないって言われたらどうする?
 信仰は自分で選ばせたいとか、かっこいいこと言ってる場合じゃないよ」…というのが、偽らざる気持ち。

洗礼の恵みを受けた子どもが、たとえ成長の過程で教会を離れることがあっても、
神様の祝福を受けて育った記憶は、その人のどこかに脈々と生きていて、
生きる糧となってその人の中で働いていることを、信じたいと思います。

私のきょうだいたちも、いろいろな理由であまり教会へは行かない日々が長かったけれど、
父の臨終の前後や葬儀を通して「カトリックの血」が生き生きと脈打ち始める姿を目の当たりにしました。
実際、あのときもただ祈ることしかできなかったし、
「めでたし聖寵みちみてるマリア…」幼いころから慣れ親しんだ祈りは、忘れられることはないのだと。

崖っぷちに立って初めて、ほんとうに大切なものは見えてくるのかもしれません。
もし、幼児洗礼を受けさせるかどうか迷っている若いお父さんお母さんがいらっしゃったら、
いちばん大切なものを与えてあげられるのは親だけですよとお伝えしたいです。


・・・の娘

2014-05-05 | 思い出+
幼いころ、神父様=ベルギー人だと、本気で思っていました。
広島で、日本人の神父様(教区司祭)に会ったとき、本物かしらと疑ったくらいです(笑)

先日、赴任されたばかりの神父様とお話ししてて、こんなことを言われました。
「貴女は【淳心会の娘】なんですね」
当時ふるさとの教会を司牧していたベルギーの宣教会「淳心会」の、
その霊性の中で育った、というような意味でしょうか。

人懐こく、おおらかで、何よりもミサを大切にしていたベルギーの神父様方。
難しい教義や聖書、祈りの言葉は理解できなくても、
いつも聞かされていた「ミサが一番大事」ということだけは、よく覚えています。

パウロの娘、
淳心会の娘、

亡くなった父や、お世話になった神父様方から伝えられたことを、
自分は子どもたちにどれだけ伝えているでしょうか…。



人には宿る言葉があります。
宿った言葉を転がしながら人は生きていきます。
それは教えられたことではなく、存在が伝えたことです。
こうして親の心に秘めた思いが、子の思いとなっていくのです。
      Fr.古巣馨(カトリック生活2010年6月号より)

昭和の受験生

2014-01-26 | 思い出+
「ポーラ、何点取れましたか?大丈夫そうですか?」
共通一次の自己採点が出たその日、
助任司祭で学生会担当のD神父様からお電話がありました。
単刀直入だなぁ~と苦笑しつつ、点数を答えた覚えが。
(D神父様は私をいつもファーストネームもしくは洗礼名でポーラと呼んでました)

合格発表の日、今度は主任司祭S神父様がさっそく我が家に来られて、
「○○ちゃんおめでとう!日曜学校を手伝ってくれるね!」とにこやかな笑顔で握手。
これじゃ、お断りできませんよね(笑)

教会に育まれ見守られて大きくなった私たち。
大きな教会だったので神父様がたくさんおられて、カテキスタも。
神父様は、信者の家庭を気軽に訪問されることもしばしばで、
まるで親戚か近所の人のように近しい存在でした。

昭和は遠くなりにけり、です。

パウロの娘

2014-01-03 | 思い出+
我が家(=実家)で初めて洗礼を受けたのは父です。
結核で入院中に、キリスト教に出会ったそうです。
病院にはいろいろな宗教が宣教、伝道にやってきていたそうですが、
当時、父のいた病院に限って言えば、
重症患者が入院している病棟にまで来てくれたのは、
カトリックの司祭(神父)とカテキスタ(伝道師)だけだったそうです。

これは私の勝手な想像ですが、
貧しく病んだ二十代の若者だった父は、
たぶん、聖書のことばに惹かれたというよりも、
まず彼らの行いに、後姿に、惹かれたのでしょう。
ほどなく父は、カテキスタから公教要理を学びはじめ、
淳心会のベルギー人神父様から洗礼を受けました。
洗礼名はパウロ。
第二バチカン公会議前のことです。

「口より体を動かせ」というのは父の口癖ですが、
それは信仰生活においても、そうかもしれません。

「パウロの娘なのでパウラにしましょう」
当時の主任司祭の意見で、私は幼児洗礼を受けてパウラになりました。

毛糸

2013-12-09 | 思い出+
姉のところに毛糸を送りました。
3歳上の姉は、小学4年生くらいから編み物をはじめて、
洋裁、レース編み、パッチワーク、刺繍、彫金…白魚のような手でなんでもこなす器用人間です。
(歯科医なので器用で当たり前なのですが)
姉が器用な分(父も母も妹も器用)、私はいつも不器用不器用と言われて、
子ども時代はかなり引け目感じてましたが(~_~;)
その後、自分と弟は世間並なのだと気が付きました。(実家の器用レベル高すぎっ)

編み物は、中学生のころ始めて、
当時は自分のマフラーとか、神父様方へのクリスマスプレゼントに、
マットやマフラーを編んで差し上げたりしてました。
大学では(講義室の後ろのほうで?)セーターを編むのが流行ってて、
(バブル全盛期だというのに地方の女子大生はなんと地味だったのでしょう)
自分の寸法やゲージに合わせてPCでオリジナル編み図を作ってくれる毛糸屋さんも
あったりして、友だちと競うようにして編んだものです。
手芸や裁縫全般苦手だったのに、編み物だけはやり直しがきくところが好きで、
基礎編みのテキストとPC編み図を頼りに編んでました。
(姉は聞けば何でも教えてくれましたがかなりスパルタ式・泣)
就職して最初の3年はJR通勤だったこともあり、
電車の中で自分のやぱうろ君のセーター、カーディガンをせっせと編んでました。
夏でもサマーセーターとか。
最後に編み物をしたのはたぶん長男じゃんの産休に入ったころ。
小さな帽子やチョッキを編んで以来、編み物から遠ざかってしまって、
これからも当分はできそうにありません。
毛糸は大きな段ボール1箱分もあったので、いくらでも毛糸が欲しい姉に引き取ってもらうことにしました。
竹の編み棒だけは、いつか再開できることを願って手元に置いておくことにします。



幼き者のクレド

2013-11-24 | 思い出+
信仰年が終わりました。
途中で教皇様が交代するという予想だにしなかった展開に
一時は信仰年がかき消されそうになりながらも、
フランシスコ新教皇様の登場によって、
現代におけるカトリック教会のありかたについて考えるきっかけを
いただいているようにも思います。
信仰年は終わっても、クレド・ドミネ(主よ、信じます)は終わらないのだから、
これからも淡々と歩んでいきたいものです。

所属教会では、信仰年については今一つ盛り上がらず、
正直ちょっと物足りなかったのですが、
共同司牧のお隣の教会は、小さな共同体にもかかわらず、
ささやかであっても地に足の着いた取り組みをなされていたように思われました。
司牧者だけの責任ではなく、結局は信徒の自覚の問題なのだなと反省しています。

実は、春ごろまでは(復活祭が終わったら少し楽になるので)
「こんな取組ができたらいいな」という漠然としたイメージを持って、
今年度の教会役員ぱうろ君に相談をしたり資料を集めたりしてたのですが、
自分の体調不良やじゃんの入院で、ストップしてしまいました。

どんなことをしたかったのかというと…

戦後のキリスト教ブームで受洗した親たち世代。
その子どもである私たちは生後まもなく幼児洗礼を受け、
長崎以外で「二世信者」が急増した時代に幼少期を過ごしています。
でも今、あんなにたくさんいたはずの幼児洗礼信者は
ほとんど教会から離れてしまっています。
では、なぜ私たちは今も教会から離れない(戻ってきた)のか?
同じ家に育っても、教会から離れているきょうだいのほうが多いです。
そこにはきっと理由があるはず。

今、教会に来ている幼児洗礼信者たちは、
家庭で、あるいは教会で、どのような信仰教育、信仰継承を受けてきたか、
どのような青春をすごし、何と出会い、あるいはどんな人と出会ってきたのか?
影響を受けた司祭、修道者たちはいたのか?
どんな本を読んだのか?
そのことを検証し、分かち合うことで、
これからの信仰教育のありかた、教会活動のありかたについて考えるための
ヒントになるような気がするのです。
アンケートとか、座談会とか、パネルディスカッションとか、
それを探るような取り組みができたら面白いだろうなと思ってました。
結局出来ず終いでしたが。
(ほんとはこういうことは、地区や教区レベルで考えてくれるといいのになぁとも思います)

そういうわけで、信仰年は終わりましたが、
子どものころの教会や家庭での出来事を振り返っておきたいと思います。
本州の(長崎等ではなく)、小学校でも信者は我が家だけみたいな土地柄の、
厳格でもなく敬虔でもない、仏壇や神棚も置いてある、ゆるカトリックな家で、
あるいはベルギー人宣教師や日本人外国人のシスターたちのたくさんいる教会で、
私たちはどんな風に育てられたのか。
思い出して書き留めていきたいです。
未消化に終わった信仰年の、自分なりの「続き」として。

夫にしても、教会で仲良しの信者さんに聞いても、
ひとつだけ共通することがあります。
それは「子どもの頃、教会はとにかく楽しかった」ということです。
ミサは意味わからなくてつまらなくても、
教会には楽しいことがたくさんあった、と口を揃えて言います。

「教会は楽しい」は、
幼ない者たちにとっての、クレド・ドミネなのかもしれません。



マイブーム

2013-03-08 | 思い出+
ふだんクルマの中やウォークマンで聴く音楽は、
その折々の典礼暦に沿った聖歌やオルガンが多いのだけれど、
突如として舞い降りてくるマイブームがあって、
最近のブームはリードオルガンと、アンサンブル・エクレジア等古楽系。
なかでも、楽譜や本などの資料集めもしてるリードオルガンが一番濃いかも。
小聖堂のリードオルガンをきちんと弾きたいという願望が根っこにあるのですが、
その他にもこの楽器にこだわってる理由が、なんとなく見えてきました。
(深く考えず勘で行動しながら自分なりに納得していくところがあるもので)

まずは、幼いころに近所に住んでた牧師夫人からリードオルガンを習ったのが
自分の鍵盤事始めだったこと。

それと、唱歌を弾いて歌う、歌わせることが仕事(本職)だったから。
文部省唱歌&リードオルガンという組み合わせは、
聖歌・賛美歌&リードオルガンと同じくらいベストだと思っております。
(ピアノではあの趣は出せない…)
当時はしょっちゅう、鳴らなくなった鍵盤のリードを道具(リード抜き)で引っぱり出し、
ごみ(たいていはゴキブリの○○)をとって、内部をきれいにしてたものです。

ふるさとの教会ではふだんパイプオルガンを弾いていたけど、
ハンセン病療養所内の巡回教会には小さなリードオルガンがあり、
そのオルガンを弾く(療養所の信徒さんと歌う)ことが喜びでした。

そしてもしかしたら、すでに生産が中止された楽器だからかもしれません。
(世界中でも、ただ1社しか生産してないのだとか)
小聖堂のオルガンも、飾り物ではなく「使う宝」としてしっかり歌わせてあげたいし、
修理しながら大切に使わなければ…
そのためにも、演奏も含めて少しずつ勉強していきたいな。

20年以上前の夏、蒸し風呂のような倉庫に山と積まれた足踏みオルガンを、
(ほとんど普及型デスクオルガンだったけどリードオルガンもあった)
事務から「とにかくできるだけ廃棄してください」と言われて、
同僚と2人で「廃棄」と書いた紙を貼っていった思い出が…
(もったいないなぁ)と思いながら、どうすることもできなくて。
高度経済成長や高級志向、電子楽器の普及等で、
日本中できっと数えきれないほどたくさんのリードオルガンや足踏みオルガンが
捨てられ壊されていったのでしょう。
電子楽器は壊れたり古くなると粗大ごみですが、リードオルガンはそうではない、
たとえ停電しても、人力だけで弾くことができます。
もう、捨てたくないですね…。

…そんないろんな思いを、リードオルガンは呼び覚ましてくれます。



レクイエム

2013-01-08 | 思い出+
今日は祖母の命日でした。
明治33年生まれの祖母は、亡くなる10日ほど前に
「洗礼を受ける、マリア様のおかげをいただく」
と自分から言って、病室で洗礼を受けました。
幼くして亡くした2人の娘の供養があるから(仏教を離れることはできない)と、
ずっと言っていたので、父も私も本当に驚きました。
貧しさ、奉公、戦争、空襲…
苦労続きの88年間は、あの一言に向かっていたのかもしれません。

源吉兆庵というシアワセ

2013-01-08 | 思い出+
今回の帰省で、妹が持たせてくれたお土産は源吉兆庵の和菓子。
我が家と、夫ぱうろ君実家の分と2つ。

岡山生まれで今や世界に進出してる源吉兆庵ですが、
まだ地元でもあまり注目されていなかったころ、
(T満屋デパートにも店舗がなかったころ←ここ重要)
いち早く目を付けて?MYお気に入り店に認定したのは
ちょっと自慢だったりします(笑)
白桃やマスカットなど岡山の果物を使った生菓子、
和風カステラ「舞の華」などの創作和菓子は、
見た目も美しくまた創意にあふれていて、
店舗ディスプレイも、枯山水に見立てた小石を配したり、
着物の半襟などもあしらったりしてて、
当時の岡山では、群を抜いてセンスが際立ってました。
その後も手土産と言えばひたすら源吉兆庵を持参したものですが、
ぱうろ君のお母様あんじぇらさんたってのご希望で、
披露宴の引き出物(引き菓子)にも源吉兆庵を使った覚えが。

久々に大きな源吉兆庵の箱を見て感激~(爆)
妹まぐ(←我が家の長女と同じ霊名)に感謝☆

サンタさんへ2

2012-12-25 | 思い出+
サンタクろースへ
サンタさんつかれたでしょう
ケーキたべてのみものもあるよ
まぐろざじゃんより

          
              by 長女まぐ(幼稚園年長の年)

クリスマスツリーの足元には、
サンタさんの為にミルクとお菓子とお手紙を置いていました。
朝になると、怪しい英語で返事が書かれていた年もあったり(爆)
我が家にサンタクロースが来てくれてたころのお話です。
   
 

白桃や

2012-08-02 | 思い出+
幼いころ、切り分けた白桃を父や私たちに食べさせ、
母は台所に立ったまま、種の近くを食べてました。

結婚して、実家から毎年白桃が送られてくるようになって、
いつのまにか、私も台所で立ったまま種のまわりにかぶりついてました。
記憶の中の、母と同じように。

今から十何年か前のこと、この情景をなんとか俳句にしようとしたのですが、
(当時、作った俳句がまぐれで新聞に載って、にわか俳句愛好者だった…苦笑)
どうもうまくゆかず…俳句の心得がある義母(ぱうろ君の母)に相談したら、
「種にかぶりつくじゃあ俳句にならないわよ」と爆笑され(←当たり前)
作ってくれたのがこの一句。
お義母さんありがとうございます(*v v)

白桃や美(うま)しところをまず子らに  


…で、今日もやっぱり、台所で種にかぶりついてたワタシ(笑)

同級生

2012-05-06 | 思い出+
小柄でがんばりやさんな彼女は、
普通は皆、管(ブラスバンド)か弦(弦楽合奏)、
合奏の授業はどちらかひとつを選んでいたのに、
パーカッションとチェロで両方に参加。もちろん合唱も。
大学の交響楽団でもチェロを弾き、卒業の実技はチェロ、
ピアノの腕前もなかなかのものでした。
私と同じく若年退職した彼女は、家でピアノを教えながら子育てにも手を掛けて、
チェロや合唱を楽しんでいる様子で、
数年前からオカリナに魅せられてると、年賀状を通して知ってはいましたが、
身近な場所でのコンサート活動を続け、
この度、オカリナのアンサンブルでCDを出したという嬉しいお知らせが。
相変わらずのがんばりやさんに、おめでとう♪

全然ちがうフィールドだけど、
私も私らしい音楽を、地道に続けていきたいな。

4月1日

2012-04-01 | 思い出+
学生時代のこと。
朝早くに、ある神父様からお電話があり、
「司教様が来られます。振袖を着て新幹線のホームにお迎えに行ってください」と。
当時、実家は新幹線の駅のすぐ近くにありまして、
妹と私は、すっかり本気にしてしまい…
家族でしばらく「どうしよどうしよ」と悩んだあげく、
「着物持ってないので洋服でもいいですか」って、
教会に折り返し電話して(←まだ気付いてない)、
もう1度、神父様からかかってきた電話でやっと気がついたのでした。
今でも毎年思い出して、笑ってしまいます(^v^;)

西坂にて

2012-02-05 | 思い出+
今から○○年前、長崎&五島に新婚旅行に行ったときのことです。
夫ぱうろ君の霊名が二十六聖人のひとり・パウロ三木ということもあって、
西坂の二十六聖人記念館は外せない、
で、寒風吹きすさぶ西坂に到着、レリーフを見上げながら
あれこれ話をしたり、写真を撮ったりしてたら、
どこからともなくスーツ姿のオジサンが…
「シャッター押しましょう」
「ここの角度が一番いいですよ」
えらく親切なのです。
で、しばらくすると
「○○○○店に行きましょう。
 質の良い○○○○を扱ってますからお土産に最適…」
なんとタクシーの準備まで。

とどめの台詞は、
「(記念館の)中に入っても悲惨なだけですよ、
 どうせ信者さんじゃないんでしょ?」
「…信者ですけど(きっぱり)」

○○○○屋さんの、当てが外れたような間抜けた表情を思い出すと、
今でも笑えてきます^m^

今日は日本二十六聖人の祝日。
昨日ちょうど「高山右近」を読み終えたこともあって、
ご聖体をいただきながら、
聖体の秘跡に与ることさえ難しかった迫害の時代を思いました。
日本の教会が、無数の殉教者の流した血と、
いつかパードレがやってくると信じて、
密かに信仰を守り通したきりしたんのオラショと悲しみの上に
築かれていることを忘れてはいけませんね。

星がさきだちベツレヘム

2012-01-15 | 思い出+
クリスマス・お正月に書きそびれていた、聖書カルタについて。
このカルタは、6才のクリスマスに私のところにきて、
今もカードと一緒に手元にあります。

実家の10軒ほど先には小さな教会があって(普通の民家でした)、
盲目の牧師さんと奥さん、幼い娘さんがひとりいたような気がします。
姉と私は、奥さんにオルガンでバイエルを習っていたのでした。
足踏みのリードオルガンは子どもの目にはとても大きく見え、
先生がガリ切り謄写版で練習頑張り表を作ってくれたこと、
聖書の話や日本の神話などについて、語り合ったことを覚えています。

このカルタの絵札、
今どきの子どもにはとてもうけそうにないくら~い絵ばかり(苦笑)
字札には、
「むすめよ起きなさい、タリタ・クミ」とか
「まいごのひつじがみつかった」
「たがいに足を洗いあいなさい」
等と書かれています。
福音館書店から発売されたもの。

肝心のオルガンは、そのうち練習がいやになってやめてしまい、
その後、ピアノを習うことになりますが、
12才でパイプオルガンと出会い、
紆余曲折を経て今またオルガンに戻ってくることになろうとは…
6才のクリスマスには思いもよらないことでした。
もしかしたら、私も星に導かれていたのかも☆