今日は長男じゃんの22歳の誕生日、
ということで、じゃんの生まれたころのことを思い出しています。
いつだったか、古巣神父様のお話の中で、
「その教会に勢いがあるかどうかは、成人洗礼の数で決まるように言う人がいるがそれは違う。
幼児洗礼の数こそ大切。信仰が伝えられている証拠だから」とおっしゃっていました。
(注:成人洗礼を否定したり、幼児洗礼のほうが良いという意味ではありませんのであしからず)
カトリック信者であっても、子どもに幼児洗礼を受けさせない親が増えています。
結婚相手は未信者という場合がほとんどだし、親自身が教会から離れていることも少なくないのでしょう。
ありがたいことに、私たちはお互いが幼児洗礼者同士で結婚の秘跡に与ったので、
何の障壁もなく、当然のように子どもたちには洗礼を受けさせました。
でも、洗礼を受けていない甥姪も何人もいます(配偶者が未信者の場合しかたない面があるかも)。
「子どもには自分で(信仰を)選ばせたい」と言う人もいます。
もっともらしく聞こえますが、どこか無責任さが見え隠れしていると思うのは私だけでしょうか。
授かった子どもに(次世代に)信仰を伝え、信仰を素朴に生きていく、
キリスト教はそうやって2000年間続いてきた宗教だと思っています。
日本のキリシタンたちも。
私たちは、初めて授かったじゃんが重症の先天性心臓病で、
何度も手術が必要、最初の手術で助かる確率は半々と言われました。
手術用に、せめて自分たちも献血をと願い出ましたが、
身内の血液は拒絶反応が出たら致命的なので輸血にはまず使えないと言われ、
親がしてやれることなんて本当に何もない、できるのは洗礼を受けさせることくらいだと痛感しました。
いや、もし洗礼を受けられずに逝ってしまったら…(洗礼前に帰天する乳幼児のすくいを信じてはいても)
今すぐにでも保育器の中にいるじゃんに緊急洗礼を授けようと夫に言ったくらいです。
(緊急の場合は司祭でなくても洗礼を授けることができます)
じゃんは生後33日目に手術を受けましたが、その前に神父様から洗礼を受けることができました。
「あのね、もし生まれたばかりの赤ちゃんの命が危ないって言われたらどうする?
信仰は自分で選ばせたいとか、かっこいいこと言ってる場合じゃないよ」…というのが、偽らざる気持ち。
洗礼の恵みを受けた子どもが、たとえ成長の過程で教会を離れることがあっても、
神様の祝福を受けて育った記憶は、その人のどこかに脈々と生きていて、
生きる糧となってその人の中で働いていることを、信じたいと思います。
私のきょうだいたちも、いろいろな理由であまり教会へは行かない日々が長かったけれど、
父の臨終の前後や葬儀を通して「カトリックの血」が生き生きと脈打ち始める姿を目の当たりにしました。
実際、あのときもただ祈ることしかできなかったし、
「めでたし聖寵みちみてるマリア…」幼いころから慣れ親しんだ祈りは、忘れられることはないのだと。
崖っぷちに立って初めて、ほんとうに大切なものは見えてくるのかもしれません。
もし、幼児洗礼を受けさせるかどうか迷っている若いお父さんお母さんがいらっしゃったら、
いちばん大切なものを与えてあげられるのは親だけですよとお伝えしたいです。
ということで、じゃんの生まれたころのことを思い出しています。
いつだったか、古巣神父様のお話の中で、
「その教会に勢いがあるかどうかは、成人洗礼の数で決まるように言う人がいるがそれは違う。
幼児洗礼の数こそ大切。信仰が伝えられている証拠だから」とおっしゃっていました。
(注:成人洗礼を否定したり、幼児洗礼のほうが良いという意味ではありませんのであしからず)
カトリック信者であっても、子どもに幼児洗礼を受けさせない親が増えています。
結婚相手は未信者という場合がほとんどだし、親自身が教会から離れていることも少なくないのでしょう。
ありがたいことに、私たちはお互いが幼児洗礼者同士で結婚の秘跡に与ったので、
何の障壁もなく、当然のように子どもたちには洗礼を受けさせました。
でも、洗礼を受けていない甥姪も何人もいます(配偶者が未信者の場合しかたない面があるかも)。
「子どもには自分で(信仰を)選ばせたい」と言う人もいます。
もっともらしく聞こえますが、どこか無責任さが見え隠れしていると思うのは私だけでしょうか。
授かった子どもに(次世代に)信仰を伝え、信仰を素朴に生きていく、
キリスト教はそうやって2000年間続いてきた宗教だと思っています。
日本のキリシタンたちも。
私たちは、初めて授かったじゃんが重症の先天性心臓病で、
何度も手術が必要、最初の手術で助かる確率は半々と言われました。
手術用に、せめて自分たちも献血をと願い出ましたが、
身内の血液は拒絶反応が出たら致命的なので輸血にはまず使えないと言われ、
親がしてやれることなんて本当に何もない、できるのは洗礼を受けさせることくらいだと痛感しました。
いや、もし洗礼を受けられずに逝ってしまったら…(洗礼前に帰天する乳幼児のすくいを信じてはいても)
今すぐにでも保育器の中にいるじゃんに緊急洗礼を授けようと夫に言ったくらいです。
(緊急の場合は司祭でなくても洗礼を授けることができます)
じゃんは生後33日目に手術を受けましたが、その前に神父様から洗礼を受けることができました。
「あのね、もし生まれたばかりの赤ちゃんの命が危ないって言われたらどうする?
信仰は自分で選ばせたいとか、かっこいいこと言ってる場合じゃないよ」…というのが、偽らざる気持ち。
洗礼の恵みを受けた子どもが、たとえ成長の過程で教会を離れることがあっても、
神様の祝福を受けて育った記憶は、その人のどこかに脈々と生きていて、
生きる糧となってその人の中で働いていることを、信じたいと思います。
私のきょうだいたちも、いろいろな理由であまり教会へは行かない日々が長かったけれど、
父の臨終の前後や葬儀を通して「カトリックの血」が生き生きと脈打ち始める姿を目の当たりにしました。
実際、あのときもただ祈ることしかできなかったし、
「めでたし聖寵みちみてるマリア…」幼いころから慣れ親しんだ祈りは、忘れられることはないのだと。
崖っぷちに立って初めて、ほんとうに大切なものは見えてくるのかもしれません。
もし、幼児洗礼を受けさせるかどうか迷っている若いお父さんお母さんがいらっしゃったら、
いちばん大切なものを与えてあげられるのは親だけですよとお伝えしたいです。