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風琴抄

ふうきんしょう…オルガンや聖歌、庭、日々の出来事

源氏物語読書会

2024-03-15 | 思い出+

大河ドラマ「光る君へ」を見ていて、あちこち「源氏物語」へのオマージュ的なシーンが入っているのがちょっと面白く、
そして「あ、これは、あれね」とかピンときては、独り笑いしているのです。
「あさきゆめみし」世代なので当然といえばそうなのですが、、、

3日ほど前に、やっと思い出しました。
高校2年のとき、古典の先生が朝7時半~始業の8時20分まで、有志による「源氏物語読書会」を開催してました。
(岡山の県立高校でしたが、今はきっとこんなことしてないでしょうね)
その読書会には、卒業時に総代をつとめ文Ⅲに行ったKくんとか、才女の誉れ高いD女史とか、そうそうたる面々が集っていましたが、
なぜかワタクシも参加することになったのは、古典の先生が担任だったから。
「帚木」や「若紫」等を読んだ覚えがあります。
予習必須、学年末には文集を出したのですが、立派な方々の文章に混じって、お粗末な文章を書いて恥かきました。

そういえば高2の終わりに、大学生だった姉と2人で京都へ旅行しました。
下鴨神社、嵯峨野、野々宮神社、化野念仏寺等々、、、
「源氏物語」ツアー(今思えば聖地巡礼みたいな?)したところを思えば、かなりはまっていたんですね。
(京都旅行なんてと言われそうですが、当時は京都にカトリックの女子学生会館があって、旅行でも利用できたのです)

「光る君へ」は「あさきゆめみし」の実写版みたいだわと思いながら、楽しんでいます。

 

 


祖母の帰天日

2024-01-08 | 思い出+

同じ洗礼名を持つ、大好きだったおばあちゃん。
孫でいちばん可愛がってもらった(と思う)わたし。

夫はまだ彼氏だったころで、社会人1年目の離島暮らし。
毎週届く手紙を、冷やかされていました、おばあちゃんに(笑)
「○○の産むひ孫が見たい」と言ってました。
顔は見せられなかったけど、3人の子どもに恵まれて、
病気の子も元気な子も、なんとか育ちました。
おばあちゃんに天国で会えたら、ほめてもらえるかなぁ。


あん

2022-11-18 | 思い出+
少し前に、お友だちがすすめてくださった小説「あん」を読みました。
とびきり美味しいあんこを作る、ハンセン病元患者の女性をめぐるお話です。とても良い作品です。
読んでいると、学生時代のことを一気に思い出したので、分かち合いたいと思います。

岡山県邑久町(現・瀬戸内市)長島という島に、
長島愛生園、邑久光明園と2つの国立ハンセン病療養所がありました。
そのなかの愛生園にはロザリオ教会(岡山教会の巡回教会)があって、
カトリック信者さんも何人もいらっしゃいました。
園内には、小さな同じデザインの平屋の家が並んでいました。
普段の生活の場はそのおうちで、体調を崩したら病棟に入院されていたようです。
園内は「愛生ー〇〇」とかかれた特別なナンバープレートのついた自動車が走り、
免税でお酒が買える売店や、病気の歴史を展示した資料館、亡くなった方を祀る供養塔、、、
島は、別世界に思えました。

学生時代、春と秋にロザリオ教会の信者さん(元患者さん)と交流がありました。
小さなロザリオ教会は、入所者さんと学生で満員になり、
ミサをあげて、いっしょにお昼ご飯をいただいて、フォーク聖歌や唱歌を歌ったり、ゲームをしたり、
目の見えないかたが歌う「やまとのささげうた」は、美しさと信仰に満ちていました。
(聖堂には小さなリードオルガンがありました!)
一緒にミサをささげられたことは宝物のような思い出です。
動けないかたにご聖体を持っていく神父様について、病棟に行くこともありました。
今では考えられないけど、学生手作りのお弁当を持って行ったことも。
学生たちにとって愛生園訪問は、大切な活動でした。

学生会行事とは別に、月2回のミサや、お葬儀のオルガンを弾きに行くこともありました。
夏には草刈りにも。。。
それは、国が隔離政策を謝罪する前のことで、
島と、目と鼻の先にある本土との間に橋はなくて、フェリーで行き来しておりました。
今は「人間回復の橋」がかかっているはずです。
ロザリオ教会の信者数もおそらく激減して、聖堂からご聖ひつも引き上げたと、何年か前に聞いたような気がします。
いつかまた、あの美しい島に渡ってみたいです。

             


ライヤーでセラピー

2022-01-17 | 思い出+
断捨離中の写真より

じゃんが小学部低学年のころかな?
シュタイナー教育で用いられていたライヤーで、セラピー受けてるところ。
このライヤー(竪琴)は「千と千尋の神隠し」で有名になりました。

カムカムOKAYAMA

2021-11-13 | 思い出+
新しい朝ドラが始まりました。
時間帯の関係で、NHK+で見ることがほとんどですが、
ふるさとのことばが懐かしいです。
少し前にBSで放送されていた「あぐり」より、もっと庶民的な岡山弁で、
場所の設定は、お城の近くのあのあたりかなぁとか、ひとりでいろいろ想像するのも楽しくて。
戦前父や祖母たちが住んでいたのもお城の下の地域で、小さな豆腐屋をしていました。
空襲で焼けて駅の西側に引っ越しましたが、本籍地はそのままで、
だから余計に懐かしく思うのかもしれません。
父や祖母と一緒に暮らしていた子どものころを思い出しながら、
自分でも声に出したり、「そうそう、こんなふうに言ってたよね」って笑ったり、
どっぷり浸っています(๑>◡<๑)

新しい朝ドラが始まったんじゃ。
時間がねえけえ、NHK+で見ることがほとんどじゃけど、
ふるさとのことばが懐かしいんよぉ。
ちょっと前にBSで放送されとった「あぐり」より、もっと庶民的な岡山弁じゃし、
場所の設定が、お城の近くのあのへんかなぁとか、ひとりでいろいろ想像するのも楽しゅうて。
戦前おとうさんやおばあちゃんらが住んどったのもお城の下のへんで、小さな豆腐屋をしょうたんじゃあ。
空襲で焼けたけえ駅の西側に引っ越したんじゃけど、本籍地はそのままでなぁ、
じゃけぇ余計に懐かしゅう思うんかもしれんわ。
おとうさんやおばあちゃんと一緒に暮らしょうた子どものころを思い出しちゃあ、
自分でも声に出してゆうてみたり、「そうじゃそうじゃ、こんなふうにゆうとったわ」って可笑しゅうなったり、
どっぷり浸かっとんよ(๑>◡<๑)





別れがたいもの

2021-06-13 | 思い出+
引越しを控えて絶賛断捨離中。
家じゅうのモノと向き合う日々が続いています。



わら草履。亡き母の手によるもの。

教員1年目、学習発表会で「鶴の恩返し」の劇をすることになり
つるの娘だけ、本物のわら草履を履かせたいなということになって、
家に帰って、母ならなんとかしてくれるかもしれないと頼んでみたら、
農家出身だった母、昔を思い出しながら作ってくれました。
いつかまた劇とかで使うかもしれないと思い、こちらに持ってきて、
退職した後も、捨てがたくて、ずっと持っていました。
でも思い切ってこの度、さようならすることに。

こちらはもっと古いもの。



七五三の飾り帯。
3歳のときだから…かるく半世紀過ぎてます。
娘たちは貸衣装つきのスタジオで写真撮影だけだったので、
使わないまましまい込んでいました。
七五三の黒地の着物は、何年か前になごや帯に仕立て替えてもらったので、
この帯は処分することにしました。
母と祖母が反物をあてて「これがいい、黒が似合う」と選んでくれた場面が、
遠い記憶の中にあります。

母の愛、祖母の愛、幸せな記憶。
娘たちにわたしは何を残してあげられるかな。





ひやしあめ

2018-08-03 | 思い出+
って、知らない人も少なくないみたい。
故郷の街、運動公園のところに、
夏になるとひやしあめの屋台が立っていたんだけど。

コープのチラシに載ってて、懐かしくて買ってしまいました、

列福式から1年

2018-02-07 | 思い出+
ここ数日の身にしみるような寒さに、あの日の寒さを重ねています。
もう1年経つのですね。
夫が平日に3日間年休を取ってくれて、
長男の体調がなんとか持ちこたえて、
次女が急きょ参加できることになって、
家族5人で列福式に参加できたこと、
遺影の父を連れてこれたことも、
長女といっしょに聖歌奉仕できたことや、
30年ぶりの友人たち、う~こんどのに会えたことも、
感謝いっぱい、夢のような3日間でした。

すはまだんご

2017-01-14 | 思い出+
たまたま生協のお店で見つけた「きなこねじり」という素朴なお菓子を口に入れて、
この懐かしい、優しい味はどこで食べたんだろうと記憶をたどっていくと…
幼いころ、近所にあった和菓子屋さん・・・お餅、赤飯、和菓子を売ってるお店で、
一番好きだったお菓子「すはまだんご」の味にそっくりだと気が付きました。
もう何十年も食べていなかった「すはまだんご」を、ネットで検索すると
「きなこを水あめで練り上げ、赤、黄、緑の三色の団子にして串に刺したもの」と出てきました。
砂糖がまぶしてあって、まるで砂浜みたいなので「すはまだんご」なのでしょう。
子どものころ食べてたのは、まさしくこれです~~~~確か、和菓子の中でもいちばん価格が安かったのです。

そして「きなこねじり」の原材料を見たら、きなこ、水あめ、砂糖…「すはまだんご」と同じ材料でした!
見かけは全然ちがうんですが、味の記憶というか舌の記憶というか、
幼いころの味覚、記憶は案外捨てたもんじゃないんだなと、改めて。

今のようにあれこれ美味しいものがあふれている時代ではなく、買ってもらえる時代でもなく、
家庭訪問とかお客さんが家に来られたとき、運よく残りものの「すはまだんご」にありつけたときの幸福感までよみがえってきて、
偶然手にした「きなこねじり」ひとつで、ずいぶん楽しませてもらいました。
ちなみに、夫に「すはまだんご」のことを聞いても「見たことも食べたこともない」という返事でした。
でも「きなこねじり」は、「素朴で優しい甘さだね」と気に入った様子です。



召命オリンピック

2016-08-27 | 思い出+
「召命オリンピック」って、いったい何のこと?
考え始めると私自身も思わず笑ってしまいそうになるのです・・・
オリンピック期間中に書いておきたいと思いながら、間に合いませんでした。
今年書かないとまた4年後まで持ち越しそうなので、語り部気分で書いておきます。

おそらく、小学生高学年のころだったと思います。
ある日突然、教会でスタンプカードのようなものが配布されました。
「召命(神様に呼ばれて、神父、修道者になること)がもっと増えるように、
 私たちも応援しましょう」というような趣旨だったと思います。
正確には覚えていませんが、その種目というのが
「ロザリオ」「聖体」「訪問」「告解」とかいうのが6つくらい並んでいて、
いわば、秘跡や信心業の「がんばりカード」のようなもの。
もちろん「召命がふえますように」との意向を持って祈るのでしょうが、
それを「召命オリンピック」と銘打って、推奨していたのですね(微笑)

「召命オリンピック」が行われたは、おそらく1970年代の半ばごろだったと思います。
同じ広島教区でも、イエズス会(が司牧する教会)育ちの夫ぱうろ君には通じなかったので、
教区を挙げての活動ではなかったのかしら?
所属する教会だけで行われたことなのか、
あるいは、当時の神父様のお一人に、
長崎で小神学校校長をされていた神父様がいらっしゃったので、
たとえば長崎周辺で行われていたのを「これはいい!」と導入したのか、
今となってはわかりません。
だれか覚えている人いないかなぁと思いつつ、
そういうかたに出会ったためしがないのですが、
ほんとにあった話なんですよ~(^^;




たからもの

2016-08-26 | 思い出+
竹かごは、嫁ぐときにもらってきました。
このかごは、母方の祖父が作ったものです。
母の実家は、郊外の山をいくつも超えた小さな集落にあって、
米や菊を作る農家で、温室園芸もしていました。
祖父は、お正月のお餅も、注連飾りも、なんでも手製のものを
届けてくれたものでした。
祖母はよく、おはぎを作りなさいと、
一升瓶に入った小豆を持ってきてくれました。
ふたりは月に1度、通院のために山を下りて、
そして夕方のバスの時間まで、我が家で過ごしていました。

祖父母の生まれた年は正確にはわからないけど、
明治半ばごろの生まれじゃないかなと思います。
あのころのお百姓さんは、めったなことではお金を使わない、
必要なものはなんでも自分で作るのが当たり前だったので、
竹かごもそのひとつだったのでしょう。
(母でさえ、わら草履を編むことができたくらいなので!)
いまだに、びくともしません。
壊れる気配まったくなし。



この石臼は、実家で餅つきをするときに実際に使っていたもの。
祖母や両親、きょうだいそろって年末に餅をついた、
幸せな家族の記憶が詰まった石臼です。
これも嫁ぐときに「家を建てたらちょうだい~」と約束して、もらいました。

考えてみたら、結婚するとき親にねだったのはこの2つくらい、
あと、鉢植えの枇杷の木(実家の枇杷のタネから生えた実生の苗)。
ほかのきょうだいは、あまり興味がなかったみたい。
私一人がふるさとを離れてしまったので、
こういうものがありがたく、いとおしく思えるのかもしれません。

それにしても、
なんでも(へたでも)自分でやってみる未開人気質のルーツは、
骨の髄から専業農家だった母方の実家にあったのね・・・。



花火大会

2016-07-24 | 思い出+
昨日は、地元の花火大会でした。
娘たちもいないし、長男じゃんはあまり疲れさせてはいけないので出かけることはせず、
今年は家の2階…ひっそりとした娘たちの部屋から、3人で少し眺めました。

子どもたちが幼かったころは、甚平さんや浴衣を着せて、私も浴衣着て出かけたものです。
花火が怖い次女ろざは耳をふさいで嫌がってるのであまり近くには寄れなくて。
(ろざ、今でも花火怖いそうです~微笑)

ふるさとでは、父がとても厳しくて、
花火大会とか祭りの類に出かけるのは、
「不良になる」と言って、許してくれませんでした(苦笑)
なので、結婚してこちらに来た年の夏は、
「不良になる」と咎める人から解放されて、ウキウキと出かけました。
夏祭りとか、花火大会とか、私がやたらと行きたがるので
夫から「きみは祭りが好きなの?」と聞かれたことも(爆)
好きってわけじゃないんですが、だってもう「不良にはならない」と思って。

実際は、夫が生徒指導上のあれこれ(例えば、露店での無断バイトを見つけたとか)があって、
まるで補導員と一緒に歩いてるようで、あまり楽しくなかったのですが。
それも昔のお話。

亡き父には、花火大会を嫌がるもうひとつの理由がありました。
花火の音も閃光も、戦時中の空襲…焼夷弾そのものだと、
だから花火は嫌いだと言っておりました。

ちなみに娘たちは、前期試験で花火どころじゃないそうです。

母の誕生日

2015-08-01 | 思い出+
そろそろ時効かなと思い、書きますが…
3年前、母は私たちが帰省していたときに、
買い物に行くため原付バイクに乗っていて、交通事故に遭いました。
母の事故と前後して、父の肺がんが見つかり、
一時は別々の病院に入院していました。

私も出来る限り通いましたが、ひとりだけ遠く離れている上に、
じゃんがいるのでなかなか動きがとれなくて…
なんとかなったのは、きょうだいが4人いたから。
姉、妹、弟、そして私、それぞれができることを持ち寄りながらの日々、
日常生活に追われて滞りがちだった連絡を密に取り合うようになり、
きょうだいの絆を再確認する機会ともなりました。
4人きょうだいに生んでくれた、両親に感謝です。

交通事故から、もう3年たちました。
その後、父は1年余りで病気が再発し、誤嚥性肺炎のため帰天しました。
母は、足の不調があり、認知症も少し出ていますが、
通院や健康管理など、きょうだい(私以外)の支えもあり、
デイサービスやヘルパーの助けも借りて、なんとか元気に過ごしています。

今日は母の82歳の誕生日、
お盆は過ぎてしまうけど、オルガンが完成したら帰省しなきゃと思っています。

みこころのジャン

2015-06-12 | 思い出+
Petit Jean du Sacré-Cœur (←綴りは自信ない)
長男の洗礼名は使徒ヨハネですが、
シスター叔母は、フランス風にいつもそう呼びます。
「プチジャンは元気?」って。
じゃんが生まれた当時は、叔母はコンゴの修道院にいたのでフランス語が日常語、
聖堂にじゃんの写真を飾り、共同体のシスターみんなで、
じゃんが助かりますようにと、朝に夕に、祈り続けてくれたそうです。

みこころ(傷ついた心臓)の小さなジャン、
彼なりに健やかに、彼のミッションを日々生きてます。
今日は、みこころの祭日。

お友だちブログ

2015-02-16 | 思い出+
先日、旧友べるなでったさんのブログに出会い、
教会やステージで一緒に歌ってたころを思い出しました。
今も、非常勤講師や音楽仕事、教会のオルガン奉仕…共通点が多いけど、
たぶん彼女のほうが、私よりもっと時間に追われてると思います~。
そして、私は教会音楽やオルガンに足場を置いていますが、
彼女はピアノレスナーとして、また合唱や声楽の演奏活動を中心に、
力を入れてる分野はお隣さんという感じでしょうか。
でも、同じくミサを弾くオルガン奉仕者、また主婦として母として、
がんばってる友に元気をいただいています(^^♪