玖波 大歳神社

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現代(従来環境の崩壊)  一 クニの変化 一 日本国憲法

2012-01-27 12:21:19 | 日記・エッセイ・コラム

 一 日本国憲法
 戦後の日本は何事に付けてもごまかし的な行動をとり続けている。と言うよりもそうなる状況が存在している。その大きな理由の一つは、日本国憲法にある。日本は昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。宣言は、軍国主義勢力の排除、民主主義の確立、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重などを指示していた。それに沿って、治安維持法の廃止、労働組合結成奨励、農地解放などの政策を行っていった。日本国憲法もそれに沿って作成されていった。十月四日のGHQ司令官と近衛文麿の会談の時点から始まっていくが、米国務省からA級戦犯容疑者を作成の中心に据えることへの批判が出て近衛文麿は解任され、幣原喜重郎に作成が委託された。同じような敗戦国である独逸では独立後に憲法を作成しているが、日本では連合国の占領下(幣原内閣の時)に作成されたのである。この時GHQは、間接統治を目指し、日本の自主性になるべく任せる態度をとっていたが、その「憲法改正要綱」の草案では、天皇の不可侵、天皇による軍の統帥、議会の協賛を持って天皇が戦を宣言したり和を講すると言った明治憲法とほとんど変わらない内容(共産党などを除いて他の民間研究団体や政党から出された案もほとんど差異がなかった。)で、GHQ内部で草案作成の決意をした。GHQは司令官の「天皇は社交的君主としての国家元首」・「国権の発動による戦争の廃止」「封建制度の廃止」を三原則とし、一週間で草案を作成し、吉田茂外相・松本憲法担当相らに「憲法改正要綱」を拒否し、自分たちの草案を突き付けた。政府は抵抗するもののほとんど変更することなく「憲法改正草案要綱」として、吉田内閣の時、明治憲法改正の手続きに従って(明治憲法七十三条「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」)帝国議会によって(一部訂正は有ったものの)改正された。問題の第一は、時期が占領下であること、更に一度でき上がったとき占領軍にお窺いを立て、訂正をされ、占領軍の了承を得ていることで、とても日本国の意思が反映されているとは言えない。また、明治憲法の改正手続きによっているのに、「名称」を換え、「改正手続き」を民主的なものにはしたが、非常に困難なものにしてしまったことである。このことは、連合国の意思のまま改正できず従い続けなければならないことを意味する屈辱の憲法である。改正が難しい為に多くの政治家・学者が解釈という方法で現状にあった服を着せようと努力をしている。素直に読んだ場合とは正反対な意味を示す場合すらある。これがごまかし的行動の原点である。
 この憲法の中でも「戦争放棄」・「信教の自由・政教分離」は特に多くの問題を含んでいる。「戦争放棄」については憲法第九条に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とあり戦力を持てないことになっているが、昭和二十五年六月二十五日に朝鮮動乱が始まり、司令官は、国内治安維持の名目で警察予備隊・海上保安庁の増員を指示してきた。GHQは「戦争放棄」をさせておきながら僅か三年で態度を一変させてしまったのである。そして、昭和二十六年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印されると、警察予備隊は、保安隊と改組され、昭和二十九年には、防衛庁設置法・自衛隊法を公布し、防衛庁、陸・海・空自衛隊を発足させている。その後も「集団的自衛権」を認める云々など様々な解釈論で着替えをしている。これこそ、解釈によるごまかしの最たるものである。また、国内的には「自衛」目的であるが、軍事技術・予算から世界有数の軍事力保持国になり、外国語では「ARMY(軍隊)」である。
 「信教の自由・政教分離」について憲法二十条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権利を行使してはならない。何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」とある。しかし、そもそも日本国憲法を作成した米国では、合衆国憲法修正一条に「連邦議会は国教の樹立を規定したり、宗教の自由な礼拝を禁止する法律を制定することは出来ない。」と規定しているが、「国が宗教に敬意をもち、宗教上の影響を拡げようとすることに反対するどのような憲法上の制約もない。」という判決を主としている。大統領の就任式の時「天の祝福あれ」と聖書に誓う行為を見れば、米国が(他国に政教分離をさせていながら)政教一致の国であることが解る。別の例として、英国では、国教会を置きつつ、他の宗教・宗派に対して信教の自由を保障している。これは明治憲法の信教の自由と同じである。独逸に至っては、公立小学校で正規の科目として「宗教」を設置し、すべての宗教・宗派を国家によって保護・優遇する方針をとっている。逆に仏蘭西では公機関から一切の宗教性を排除している。米国から押し付けられた形が日本に合致していないことは、様々な訴訟を生んでいる点・無秩序な新興宗教の多発を見ても明らかである。しかし、憲法は簡単には改正できないのである。世界中のほとんどの文化や伝統は宗教の影響を受けており、受けていない文化や伝統は薄っぺらな印象を受ける。日本国民として日本の伝統文化を守り、発展させていくことは、宗教を守ることと一致する部分が大きく、宗教を守らないことは、伝統文化を衰退させることに他ならない。このジレンマを解消しない限り、日本は自国に対して、自国の伝統文化に対して誇りを持つことは出来ないであろう。また、自国に対する自信の無さと米国の占領政策(紳士的な部隊を駐屯させ、豊作による余剰の小麦・脱脂粉乳等与え戦時中よりも敗戦後の方が素晴らしいものとの印象を植え付けた)は、自国の文化を否定し白人文化こそが上等でありそれを取り入れることが豊かな生活をもたらすと信じ込むことになっていった。その結果として、国のため、家のため、親のためなどの観念が消失し、自分さえよければということになってしまった。このことは、本来日本人が道徳規範としていた「祖先に顔向けできないようなことはするな。」とか「神様だけはお見通しだぞ。」というものを「ご近所に知られたら。」という過程を経て「誰がどう思おうと知ったことか。」という所まで落としてしまっているのである。そして、無気力・無関心・無感動・無責任等々に陥り、ついには面倒には係わりたくない大衆を生み、強い主張に対しては流されるだけの存在になってしまっている。
 次に神社の立場から戦後の状況を考えてみたい。当時は神社について、公的(皇室の御安泰と、国家・国民の繁栄を祈る国家性)・私的(民衆・大衆の信仰に基づく宗教性)の両面を有し、この両面の均衡がとれてこそ、神社の繁栄が期せられるものと考えていたが、昭和二十年十二月十五日にGHQは「神道指令」(〔条文の抜粋〕○神道及神社ニ対スル公ノ財政ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○従来部分的ニ、或ハ全面的ニ公ノ財源ニヨツテ維持セラレテイタアラユル神道ノ神社ヲ、個人トシテ財政的ニ援助スルコトハ許サレル。○神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ礼式ニ於テ、軍国主義的乃至国家主義的「イデオロギー」ノ如何ナル宣伝、弘布モ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令、並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト。○内務省ノ神祇院ハ之ヲ廃止スルコト。而テ政府ノ他ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ツテ維持セラレル如何ナル機関モ、神祇院ノ現在ノ機能、任務、行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ。○日本政府、都道府県庁、市町村ノ官公吏ハ、ソノ公ノ資格ニ於テ新任ノ奉告ヲナス為ニ、或ハ政府乃至役所ノ代表トシテ、神道ノ如何ナル儀式或ハ礼式タルヲ問ハズ之ニ参列スル為ニ、如何ナル神社ニモ参拝セザルコト。)を発し、日本政府に対して、神社と国家の分離並びに、国家が定めた祭祀制度の廃止を命じ、神社を一つの宗教とし、これを信奉する人々によって運営することは認める旨を指令した。これにより神社の公的面は悉く除去され、神社の本質、祭祀の在り方を、著しく歪曲されてしまったように思える。翌年二月二日官制廃止となり、神社は国家の管理を離れ、宗教法人として宗教法人令、更には宗教法人法に依つて運営されることとなっている。この状況をどう認識し、どうすることが将来の神社のあるべき姿かをこの章の四で考えていきたい。
 また、最近靖国神社に変わる施設の設置が問題になっている。靖国神社は明治二年に維新の戦没者慰霊のために東京招魂社として創建され、明治十二年に靖国神社と改称され、他の神社と異なり陸海軍省に所管されていた。つまり、戦没者や遺族の気持ちに対して国が創設した存在である。それが戦後の「政教分離」の立場で靖国神社参拝が難しくなったために戦没者や遺族の気持ちの間での苦肉の策としてごまかしのために打ち出したものと言える。そもそも、靖国神社はナショナリズムと戦意の昂揚のために国に利用されていたと見るべきで、そうすると政教分離とは国に対して特定・非特定の宗教の違いに関係なく霊の存在を認め、霊を祀り、霊を礼拝することを禁止する法と解釈すべきである。故に、礼拝施設を設けて、祝詞の代わりに弔意・不戦を表した文章を読み上げ、玉串の代わりに花や花輪を捧げることは神道形式で無いからと言って行ってはならない。この事は、八月十五日に戦没者の霊の木塚を設けて行っている儀式に政府関係者が参列することと全く同義であり、特定・非特定の宗教であることの違いを除けば靖国神社に参列することとも政教分離からは同義と言える。寧ろ靖国神社参列を毅然と戦前からの慣習という立場で行うことこそ政教分離の中で行いうる行為と言える。
 キリスト教徒などの「靖国神社に祀って欲しくない。信教の自由が侵されている。」との言い分に対して、「祀りたい者の信教の自由はどう保護されるのか。」と反論することもあるが、神社神道にとって、伊勢神宮の分霊を祀りたいからといって、何処にでも認めることが出来るのか、またそれを掘り下げていくと、大麻を天照大神の分霊と解釈しても良いのではないかという意見も出てくることになるだろう。国がごまかし的行動をとっている限り神社界も矛盾から開放されないだろう。
 A級戦犯についても、日本国のことを思い様々な経緯の結果戦争に突入し、敗戦したからといって、戦争の責任が一方的に敗戦国にあるはずが無く、日本国のために苦労された方々を日本人が祀って悪い理由は何処にも存在しない。逆に、極東国際軍事裁判のように、戦勝国側の主張のみを押し付けられた結果を国民の多くが納得している事実こそが日本のアイデンティティーを歪め、外国からの圧力に弱い国と言うレッテルを貼られる原因になっているのではないだろうか。

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