大分に「大友氏顕彰会」が出来ています。熊本でも何かできませんか。大分にある、大友氏の墓が気になります。あっちこっちに散らばっています。大友本家は、どう考えておられるのだろう。本家だけではどうしようもないでしょう。よほど、大金持ちがでないことには。大友関係者で、大金持ちはいませんか。大分と熊本に関係者が気軽に寄れるようなサロンが欲しいですな。大友関係者で、有名になった人は沢山いますね。一万田、重光、田北、その他、いらっしゃいますね。熊本版「大友顕彰会」、「清田・吉弘会」など、出来ませんかね。皆で、会員制にして、会費を集めれば、少しは何かできませんかね。このままだと、風化しますね。大分の顕彰会は「大河ドラマ化」を目標にしています。大友の墓などは、あるいは、その血脈はほとんど考えていないのでは。私は、東京に行ったら、必ず、高家の菩提寺の玉林寺に必ず参ることにしています。何か、呼んでいるような気がします。
清田氏・吉弘氏とは、熊本市内で時折会っています。10月から、清田家屋敷(市文化財指定)の再建がはじまります。ここまで、実に1年以上かかりました。来年7月ごろ完成だそうです。今まで応援頂いた方、御礼申し上げます。私は、清田家住宅保存会事務局長です。実質は、会長は有名無実で、清田氏と私二人で動いてきました。やっとここまで来たかという感じです。皆様のおかげで10月からやっと地震からの復興工事が始まりました。現在、櫓門をと米蔵を工事しています。今年6月ぐらいまでかかる予定です。
先日、10月27日に清田氏と私(今村)で、人吉の岐部明宏氏に会いました。とても気さくな方で、先方も知らないことが分かって良かったと言っておられました。ペトロ・カスイ岐部の子孫だそうです。彼は日本人で初めてエルサレムを訪問したそうです。彼の軌跡を岐部氏はたどっているそうです。中々の文筆家で戦国の女の外にも「○○観音」という本も出しておられます。現在、外山胃腸病院会長、人吉医師会会長をしておられます。大友氏の大河ドラマ化は宗麟の全盛時代までしか描けないでしょう、と言っておられました。多忙で、土日は山登りだそうです。岐部氏に会ったことで、一つ大きな課題をクリアしました。
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ご報告が大変遅れました。熊本市南区富合町清田邸は、お蔭をもちまして、2018年(平成30年)10月17日、清田一族及び熊本歴史会関係者約40名を集めて、清田家住宅震災復興記念式典を、当家富合の清田邸で、盛大に行われました。また、翌2019年(令和元年)10月頃には、「武士道について」歴史関係者を約20名集めて講座を開きました。
2020年(令和2年)12月初めには、熊本歴史会のメンバー10数名が訪問しました。猪飼元大阪大教授や郷土歴史家青木氏などが参加しました。このことは、熊日日新聞に載りました。私も名前が出ました。
2021年(令和3年)、今年は、約300坪の農地を、今借りている人が今年でやめるので、次の人を探していましたが、清田氏の友人(同級生)が障害者施設の農地として借りることになり、ほっとしています。市民農園として貸すにも、草取りや管理が必要なので困っていました。
清田氏や私の周りには、多士済済たる人たちがいます。歴史学者、郷土歴史家、電気技術者(町の発明家)2名、法律に詳しい元県職員、学校関係者(元高校教師)、町の政治家等々がいます。
細川氏に仕えた、次男松野正照、、松野親家、松野親盛らの子孫松野枝四郎が、明治に入って、熊本県球磨郡(人吉市の奥)旧免田町の上渕家へ養子に行ったので、現在、その上渕家が、「松野家文書」を約10点ばかり、保存している。約10年前に、筆者は、写真に撮り、保存している。現在、上渕氏は、熊本駅に割と近いところに居られます。(註、人吉市、球磨郡あたりは、相良氏が、大友氏や島津氏とほぼ同じ時代に、鎌倉幕府から、派遣され、地頭を務めていた。この相良氏には、大友義鑑氏の弟で、菊池氏に養子に入り、後に大友氏に反旗を翻し、宗麟の滅ぼされた菊池義武氏の子孫が、相良氏に仕え、相良家で家老を務めていた。)上渕氏は、春日寺の、松野家墓地を管理しているようで、、近年、その墓地の一角に、初代、大友家、上渕家の文字を彫り込んだ、割と大きな墓石を立てている。表記が、理解できない。松野家直系が、居られないのか、上渕氏が、管理している。墓地のことで、寺ともめたとも聞いている。正したいこともあるのだが、「コロナ禍」で、今、訪ねるのを遠慮している。
ログインの仕方がわからず、今まで、大変お待たせしました。清田氏宅で、囲碁と将棋を,お縁や床の間を使い、友人数名と打ちました。庭からの眺めがすばらしく、よいので、みんな楽しんでいました。清田氏は、明日(7月17日)から、横浜へ帰られ、9月か10月に、熊本に、おいでになります。清田氏は、将棋の相手を探して、居られたので、私が将棋の熊本支部へ電話したら、富合付近(清田氏宅)で、地域の世話役を紹介され、金、土、日に近くで、将棋ができそうで、喜んで居られました。吉弘、清田、今村で食事会をしていましたが、コロナ等の関係で、しなかったことが、気になります。
大分の、鶴崎市の吉岡氏(大友一族、重臣)や今村氏宅(私の親戚)を訪問予定でしたが、コロナで、また行きぬくくなりました。
私の父は阿蘇郡高森町出身で、私の旧姓は今村です。
私の父は40年前に、交通事故に遭い36歳で亡くなりました。
生前、父は子供達の前では寡黙であり、私達娘が幼かった事もあってか、自分の出自について殆ど語る事がありませんでした。
父の口からは、先祖は武士であるが、分家だった、とだけ聞いた事がありました。
母は再婚、離婚、再婚と慌ただしく、父の生きていた時から阿蘇の親戚とは疎遠だったため、父の出自を知る由もなく数十年が過ぎました。
数年前、歴史好きの次男が、今村の家について何でもいいから知りたい、と切望したのを機に、思い切って母に聞いてみました。母はよく記憶しており、
父のご先祖様は、元々は伊勢にいたが、主君に従って熊本に移っていった。その途中で岡山県に立ち寄った際、土地を賜った、との事でした。
親戚には医者が何人もいて、先祖には町長?をするような名士もいた、との事でした。家紋は左三つ巴です。
父が亡くなったのは、当時住んでいた三重県で、父亡き後、私達家族は岡山県に移り住み、現在に至っています。縁もゆかりもないと思っていた土地に、ご先祖様がおられたと聞かされ、何とも不思議な気分になったものです。
失礼ですが、大友家子孫様と私のご先祖様は何か関わりがありますでしょうか。
父が亡くなってから、母が業者に作成してもらった家系図があったのですが、離婚する際に捨てられしまったようで、今村家、と言いましても、どちらの今村家につながるのか分かりません。
長々と私事を書き連ね申し訳ありません。
ここまでお読みいただいて、私のご先祖様について何かご存知の事はおありではないでしょうか。もしご存知でしたら、よろしければ、のお話ですが、ご教示いただければ幸いです。
大変厚かましいお願いで申し訳ありません。ご無理でなければ、のお話ですので、放置していただいても全然構いません。
ここまでお時間いただきまして、ありがとうございました。お身体御自愛ください。