大友家子孫

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大分合同新聞(R4  / )「戦国大名大友氏の館と権力」第2部 戦国大名権力論

2023-03-21 20:49:19 | 歴史・家のルーツを知る

補論「大友由緒姓名記から見る吉統除国後の豊後国と大友氏」 随時掲載

家臣 縦の関係性維持

県立先哲資料館所蔵の「高野山本覚院文書」に、「大友由緒姓名記」(以下「姓名記」)と題する資料があります。1789(寛政元)年、豊後国鶴崎の吉岡鼎寿(ていじゅ)が旧大友家臣の子孫約1,700人の居所と氏名を記した記録です。                              1593(文禄2)年5月に大友吉統が改易され、大友氏の豊後支配は幕を閉じました。「姓名記」はそれから200年近くたった江戸時代後期に至っても大友氏との関係性を受け継いできた旧家臣が、豊後国内に広範に存在していたことを具体的に示す資料です。                   元々、吉岡氏は鶴崎を拠点とする大友氏の重臣でしたが、吉統改易後は浪人となり、後に細川家に仕えました。吉岡家には「姓名記」以外にも、旧大友家臣の由緒に関する数多くの資料が残されています。鼎寿はこの時期、積極的に旧大友家臣の情報収集をしていたようです。            では、なぜ鼎寿はこのような役割を担ったのでしょうか。その鍵を握るのが、吉統の子・正照を祖とする松野氏です。松野氏は吉岡氏と同様の経緯を経て細川家に仕え、後に豊後国内の熊本藩領を統括する鶴崎番代を務めました。また旧大友家臣に宛てた書状も数多く現存しており、松野氏が豊後国との根強い関係を保持し続けたことがうかがえます。旧大友宗家の系譜を引く松野氏と吉岡氏との間には、共に細川家家臣となった以降も、以前のような主従関係が継続していたようです。そして1876(明治9)年に松野氏が吉岡氏に宛てた書状には、以前から吉岡氏が「由緒触頭(ふれがしら)」という役割を担っていたことが記されています。松野氏は豊後国内の旧大友家臣との関係構築を目指し、その取りまとめを吉岡氏に期待していたのでした。これを踏まえれば「姓名記」とは、松野氏と旧大友家臣をつなぐ立場にあった鼎寿が、松野氏の指示を受けて実施した旧大友家臣の実態調査だと理解できそうです。                           江戸時代の豊後国では、松野氏を頂点とする旧大友家臣の緩やかな縦の関係性が、藩領を越えて存在していました。大友氏の「影」ともいうべき中世的世界の残存は、諸藩の支配にどのような影響を与えたのか。そして特に松野・吉岡両氏が従属する細川氏は、この状況にどう対応したのか。「姓名記」は、中世大友氏研究と近世豊後藩政史研究の両面に、従来とは違った角度から迫ることができる、極めて興味深い資料だといえるでしょう。(松原勝也・県先哲史料館史料専門員)

 

 

 


大分合同新聞( 2022 / )” 遺心伝心” の300年

2023-03-20 20:05:28 | 歴史・家のルーツを知る

 豊後の戦国大名大友氏は、英雄宗麟の息子吉(義)統(よしむね)が豊臣秀吉によって改易され、領国を失った。一時は九州の広範囲を支配した名家だけに、その家臣団も多士済々だったはずだが、主家没落後の彼らはどうなったのだろう。                                 大分県立先哲資料館に「大友由緒姓名記」という古文書がある。同館史料専門員で「吉(義)統除国後豊後国と大友氏」などの論文がある松原勝也さんに教えを請うた。「姓名記」は、豊後に居住する大友遺臣の末裔たちの名簿である。江戸時代後期の寛政元(1789)年に、熊本藩領鶴崎(大分市)の藩士吉岡鼎寿がまとめた。吉岡家も元大友重臣の家柄だ。名簿には実に1700人近くが載っているという。分布は熊本藩領の512人を筆頭に府内、臼杵、延岡、幕府、岡などの各領に及ぶ。                     多くの遺臣が“再就職”したわけだが、他国者の新領主にとって現地事情に明るい彼らは重宝だっただろう。遺臣たちの中には帰農した者もいた。姓名記に出てくる戸次(へつぎ・大分市)の帆足家は、臼杵藩の大庄屋を務め、農業の他、酒造を生業(なりわい)とした。19世紀中ごろに建てられた屋敷の母屋は式台付きの玄関があり、武家の格式を備える。明治9(1876)年に熊本の松野直友という人物が吉岡家へ出した手紙が残っている。文面には「由緒触頭(ふれがしら)の役目については先代と同様に諸事よろしく頼みます」(意訳)とある。由緒触頭とは遺臣末裔の取りまとめ役だ。松野家も文禄2(1598)年の吉(義)統改易後に細川家に仕えた熊本藩士だが、吉(義)統直系の血筋だ。つまり、大友主従の関係性は、改易から明治まで300年近くも続いていた。大分市千歳の高台に明治10(1877)年建立の石碑がある。正面に大友の家紋と「遙拝所」の文字。他の面に大友氏の由緒が刻まれ「大友氏旧士臣苗裔(びょうえい)謹建」とある。小藩分立の影響でまとまりを欠くと言われながちな大分県だが分立の時代にも「大友」を軸にした連帯が脈々とあった。「社員は悪くありませんから!」。バブル崩壊後の金融危機の渦中、1997年に破綻した山一証券の社長は記者会見で声を絞り出した。このせりふは時代の象徴として記憶される。元社員たちは証券業界に残る人もいれば、新たな道に踏み出した人もいた。鎌倉時代の以来の名家大友氏をのみ込んだのも、中世から近世に向かう大きな歴史のうねりだった。時代の端境期(はざかいき)に遭遇し翻弄(ほんろう)された人々。姓名記から立ち上がってくるのは、そんな秘史のドラマだ。(大分総局長)


増補訂正編年大友資料29巻    田北学(大友一族)編

2023-02-23 20:36:13 | 歴史・家のルーツを知る

(令和5年2月23日、夜)

《能一文書》 竹内理三博士寄稿

(35)為音信五對到来、當時之仕合不如意令推量候處、奇特之志、令祝著候猶重而可申候        恐々謹言                                  〈年未詳〉卯月十四日          (大友)能乗(花押)                        能一小七殿                「義統の子宗五郎」

《読み》音信として 五対到来、当時の仕合せ、不如意推量せしめ候処、奇特の志、執着せしめ候。猶重ねて、申すべき候。  恐々謹言           ※ 不如意:心のままにならぬこと、暮らし向きがよくないこと。         ※ 恐々謹言:大変ありがとう。謹んで御礼申し上げます。

(令和5年2月24日、夜)

《大友家文書》(慶長二年頃)                    (36)頃年(こうねん)中庵屡(しばしば)献書及微物於神       君、々々(神君)乃賜御書、   十一月献沈香時有御書

《読み》頃年(こうねん)中庵(義統)屡(しばしば)献書及微物を神君(家康)へ献じた。神君はより御書を賜った。十一月、沈香を献じ、時に御書が届いた。※頃年:今、現在           ※ 微物:美物(ごちそう:果物、野菜等)沈香:香木

(37)遠路使札(しさつ)并(ならびに)沈香、送給候、祝著(しゅうちゃく)之至候。委細は阿部伊豫守可申候間、令(せしめ)省略候。                  恐々謹言                         十一月十五日            (徳川)家康 御判

《読み》遠路からの手紙並びに沈香を送り給い候。大変喜ばしく思います。委細は阿部伊豫守が申すので、省略します。大変感謝します。家康(判)

《大友家文書》                        慶長二年丁酉十一月秀吉、以穀千石為中庵配所給有書     

《読み》慶長二年丁酉十一月、秀吉は、穀物千石を以って、中庵配所へ給わる。書もあり。

(38)八木(?)千石、さたけにて、御くら米の内を以って、大ともかたへたしかにはかり渡すべき候也                            慶長二年十一月二十七日 ましだもんのせう(増田右衛門尉長盛)

            いしだ治部少ゆう(石田三成)

(令和5年2月25日 夜)

《大友家文書録(もんじょ)》

(58)慶長四年(1599)己亥(きがい)閏三月中庵献書、併雁三隻於江城奉賀神君移干伏見城臺徳公乃賜御内書

《読み》中庵書、併せて雁三隻(3羽)を献じ、江戸城に神君を奉賀す。伏見城へ送られて、臺徳公(秀忠)乃御内書を賜る。

(59)御使札(おんしさつ)本望至候。如承意伏見御城へ、内府被相移之由、申し越し候。然者(しからば)為祝儀雁一折(ひとおり、三隻:さんそう?)三(?)、贈給候。祝著(しゅうちゃく)至候。尚期後音時候 恐々謹言   後三月二十四日    江戸中納言 秀忠(花押)   中庵老(大友吉統)御返事

《読み》御使札(おんしさつ)(お手紙)本望の至りに候。承意の如く、内府は伏見御城へ、相移つらるる之由、申し越し候。然者(しからば)祝儀として(の為に)、雁一折(三隻:さんそう)三(?)、贈り給い候。祝著(しゅうちゃく)の至りに候。尚後音(こうおん)の時を期し候 恐々謹言

※ 御使札:お手紙  ※ 本望の至り:大変うれしい      ※ 承意の如く:おっしゃる通り  ※ 祝著:うれしい    ※ 後音を期し:後の(次の)手紙を待つ

(令和5年2月26日 夜)

《吉弘鎮整(しずまさ)氏文書》

(60)猶々左近殿内々娘へ別而御懇切之由承候。誠ニ(に)過分之儀候。早々以使可申候へ共、手前取紛打過申候。必爰元透次第一人指下候而一禮可申候。此由能々(よくよく)心得可給候。何(いずれ)も従元達所(?)可申候。以上。将又(はたまた)先度六角釜給候。慥届申候。一段祝著之至候。茶碗の儀ハ(は)先々可被相嗜候。為存知候。敷戸民部入道罷下候由候條、仍(よって冬以来度々預書状候。自是(これより)茂雖(いえども)可申遣候、

《読み》

猶々(なおなお)左近殿内々娘へ別して御懇切之由、承り候。誠に過分之儀に候。早々使いを以って申すべく候へ共、手前取紛れ打過申候。必らず、爰元(ここもと)透次第(すきしだい)一人指し下し候而(そうろうて)、一禮申すべく候。此由(こよし)能々(よくよく)心得給うべく候。何(いずれ)も元達所(?)従(より)申すべく候。以上。将又(はたまた)先度六角釜給わり候。慥かに届け申し候。一段祝著之至りに候。茶碗の儀ハ(は)先々相嗜しなまるべく候。存知(ぞんち)のために候。敷戸民部入道罷下り候由候條、仍(よって)去冬以来度々書状を預かり候。自是(これより)茂と雖(いえども)申遣わすべく候、

(令和5年2月27日 夜)

便宜無之候間不能其儀候、年内上野弥平迄被申越旨、同元達之所之折々細君之趣慥聞居候。銘々得心申候。可心安候。殊左近殿上洛候。不相替預馳走候。互ニ(に)入魂(じっこん)無別儀候之條、是又気遣有間敷候。此方事茂、従増田殿天満ニ(に)給候條、家作相調四五日前罷移候。先以外聞實儀珍重之至候。彼是岐部左近入道(入道一達)可申候之間、不及口能候。恐々謹言         慶長四年卯月十二日        中庵(大友義統)(花押)  吉弘加兵衛(統幸)家作相調四五日前罷移候。先以外聞實儀珍重之至候。彼是岐部左近入道(入道一達)可申候之間、不及口能候。恐々謹言  殿

《読み》便宜之なき候間、その儀能わず候。年内に上野弥兵衛迄申し越さるる旨、同元達の所の、折々細君の趣、慥(たし)かに聞き居り候。銘々得心申し候。心安かるべく候。殊に、左近殿上洛候。相替わらず馳走に預かり候。互いに入魂別儀なく候之條、是又気遣い有る間敷く候。此の方事茂、増田殿より(従り)天満に給わり候條、家作相調え、四五日前罷り移り候。先(まず)以って外聞實儀珍重之至に候。彼是岐部左近入道(入道一達)申すべく候之間、口能に及ばず候。恐々謹言    

(令和5年2月28日 夜)

《大友家文書録

(65)今度、依公儀御赦免令上洛候。此中折々如申候。不慮之進退付而多年牢籠(ろうろう)候之處、従(より)最前以無二之覚悟、于今見届之段、感悦無極候。此節別而辛勞御心懸之次第、永代、不可有忘却候。必々宗巖身上可然成立候者、追而、一稜可賀之候。殊出京供之儀申付之間彌(いよいよ)可励馳走事肝要候。猶駿河守岐部左近入道可申候。                   恐々謹言

       六月五日          中庵(在判)    天徳寺治右衛門尉 殿 (舊〈旧〉姓柴田統生殿) 

《読み》

今度(このたび)公儀御赦免により、上洛せしめ(令)候。此の中(うち)折々申候如く、不慮之進退に付い而(て)多年牢籠(ろうろう)候之處、最前従(より)無二之覚悟を以って、今に(于)見届け之段、感悦極り無(な)く候。此節別而(べっして)辛勞御心懸之次第、永代忘却有るべからず候。必々(必ず必ず)宗巖(義統、中庵)の身上然る可(しかるべ)く、成立候わば(者)、追而(おって)、一稜(ひとかど)之を賀すべく(可)候。殊(こと)に京へ出る時のお供之儀、申付くる之間、彌(いよいよ)馳走に励む(可)べき事、肝要に候。猶(なお)駿河守岐部左近入道が申すべく(可)候。                   恐々謹言      ※ 無二之覚悟:特別な覚悟  一稜:特に  出供之儀:しゅっきょう、出て仕える   馳走に励む:忠義を尽くす

 ( 令和5年3月1日 夜 )

《田北隆信氏文書》

(66)其方事、順儀之覺悟、淵底聞届候。奇特之心懸感入候。併當時之事候間、何方(いずかた)へも罷出、身上相続候様ニ、才覚肝要候。又、作左衛門事、此節能砌罷下、中庵(義統)御上洛供仕候。仕合可然候。重而可申候         恐々謹言

慶長四年六月十七日    能乗(大友義延又名義述)(花押)

      田北六郎(統辰)殿

読み》

其方事、順儀之覺悟、淵底聞届候。奇特之心懸(こころがけ)感じ入り候。併しながら當時之事候間、何方(いずかた)へも罷出(まかりいで)、身上相続候様ニ、才覚肝要候。又、作左衛門事、此の節、能き(よき)砌(みぎり)罷下(まかり下り)、中庵(義統)御上洛の供仕り(つかまつり)候。仕合(しあわせ)然可(しかるべく)候。重而(かさねて)申す可く(べく)候。恐々謹言

( 令和5年3月2日 朝 )

《田北隆信氏文書》

(67)為見舞罷下候。遠路奇特之心懸感入候。然處中庵(義統)御上洛供仕、一段仕合ニ候。随分路次中用(?)身肝要候。仍息六郎(統辰)事、當時之儀候間、何方へ(いずかた)も罷出、一身相續候。才覺可然候。尚重而可申候。恐々謹言

《読み》

見舞いとして罷り下り候。遠路の奇特之心懸(こころがけ)感じ入り候。然處(しかるところ)、中庵(義統)の御上洛の供を仕まつり、一段、仕合(しあわせ)ニ(に)候。随分、路次中、身を用い、肝要候。仍(すなわち)息(子息の)六郎(統辰)事、當時之儀候間、何方へ(いずかた)も罷り出で、一身相續候。才覺然かるべく候。尚、

重ね而(て)申す可く(べ)候。恐々謹言

(  令和5年3月3日 朝 )

《 大友家文書録 》 

(68)(慶長四年六月)十八日發牛込、向洛、原尻作十郎統忠(小田原願秀子)等従之、◎十九日、使清田統貞還、干水戸居授書、駿河守、小田原願秀(俗名統直干時薙髪)等、命其留守事、此行辱 臺徳公命賜及吉原之駅馬

  猶々駿河へ申候、源七無事候之條、不可有氣遣候、願秀事郷々調、油断有馬敷候、以上

味左衛門(清田統貞)罷歸候間、染筆候

読み》

(慶長四年六月)十八日牛込を發ち、洛へ向かう。原尻作十郎統忠(小田原願秀の子息)等は之に従う。◎十九日、使者の清田統貞は還(かえ)り、書を授かり、水戸干(に)居る。駿河守、小田原願秀(俗名統直干時薙髪)等、其留守の事を命じ、此行いを辱(は)じ、臺徳公は吉原之駅馬及(まで)命じ賜う。

  猶々駿河へ申候、源七無事候之條、氣遣有る不可(べからず)候、願秀は郷々(?)調え(ととのえ)、油断有馬敷(あるまじく)候、以上

味左衛門(清田統貞)罷歸(まかりかえり)候間、染筆(せんぴつ)候

( 令和5年3月4日 朝 )

《田北隆信氏文書》

(74)昨日は娘上洛して、路次如何候哉と存斗候。然者奴留湯長門へ幕書所持候者可然之由可被申候、〇〇日記をば能乗被(?)遣無之候間申事候。将又枩満源太夫へ太鼓貸遣候。是又其方歸津候刻(とき)可有随身候。殊娘機嫌如何候や、随分可堪忍の由、可被申候、女房衆へも申し聞候間、能々可被相達候。又新兵衛夫婦へも、此中辛身候之由、能々可被相心得候、為存知候                        恐々謹言

《読み》                          昨日は娘上洛して、路次如何候哉と存じ斗(はか)り候。然者(しからば)奴留湯(ぬるゆ)長門へ幕書所持候者(そうらわば)、然可之由(しかるべきのよし)申さるべき候、〇〇日記をば能乗、(?)遣わされ、之なき候間、申事候。将又(はたまた)枩(松)満源太夫へ太鼓貸遣(かしつかわし)候。是又其方歸津(きしん)候刻(とき)随身(連れてきなさい)はあるべき候。殊に娘機嫌如何候や、随分可堪忍の由、申さるべき候、女房衆へも申し聞かせ候間、能々相達っせらるべき候。又新兵衛夫婦へも、此中(うち)辛身(しんしん)候之由、能々相心得らるべき候、為存知候恐々謹言

( 令和5年3月5日 夜 )                             

《大友家文書録》

(76)任所望の旨、主膳正可有存知候、恐々謹言             慶長四年十月十四日

原尻作十郎(統忠)殿              中庵(在判)

(読み)所望の任(?)かせる旨、主膳正、存知あるべき候、恐々謹言

( 令和5年3月6日 朝 )

(68)一 昨日、牛込を罷立、かのかわ(神奈川)迄著申候。従中納言様、吉原迄傅馬被仰付候。先日其方〇〇〇(?)以来も色々忝儀共候。外聞実儀無此上〇〇〇〇〇〇(?)お賢(佐五の局)ハ(は)不及申、何も別而〇〇〇〇〇〇耳に候。昨も、始中終(しちゅうしゅう)被留候へ共色々(?)〇〇く申はらい罷立候。随分路をも可急覚悟候。                    一 留守之事萬仕置之所無相違守其旨各堅固可申談候          一 長熊(正照)過等無之様覚悟肝要候萬々味左衛門可 申候。  恐々謹言 六月十五日                     中庵(在判)  駿河守(鷲尾)殿                          小田原又左衛門(続直入道願秀)殿                  齊藤右京入道 殿  岐部掃部助 殿                 木付図書助 殿                           古庄神左衛門入道 殿

外聞:評判  実儀:実状  始中終:始めから終わりまで          傅馬:馬を用意する

 

《読み》一(ひとつ) 昨日、牛込を罷り立ち、かのかわ(神奈川)迄著き申し候。中納言様従(より)、吉原迄傅馬仰付られ(被)候。先日其方〇〇〇(?)以来も色々忝儀(かたずけなき)共候。外聞実儀此上なく〇〇〇〇〇〇(?)お賢(佐五の局)ハ(は)申すに及ばず、何も(いずれも)別而(べっして)〇〇〇〇〇〇耳に候。昨も(?)、始めから終りまで留められ候へ共、色々(?)〇〇く申しはらい罷り立ち候。随分路をも急ぐべく覚悟に候。                               一 留守之事、萬(よろず)仕置之所相違なく、其旨を守り、各(おのおの)堅固に申し談んずべく候                     一 長熊(正照)過(あやまち)等之なき様、覚悟肝要に候。萬々味左衛門(使者)が申すべく候。(手紙を以って)    恐々謹言                   六月十五日                     中庵(在判)  駿河守(鷲尾)殿                          小田原又左衛門(続直入道願秀)殿                  齊藤右京入道 殿  岐部掃部助 殿                 木付図書助 殿                           古庄神左衛門入道 殿

( 令和5年3月7日 朝 )

《大友家文書録》

(526(明治2年)十二月二日 太夫士卒被廢、萬石未満之輩ハ惣而士族と被仰出

《読み》(明治2年)十二月二日 太夫士卒は廢止され、萬石未満之輩ハ(は)惣而(すべて)士族と仰せ出された

(309)寛政九年(1797)丁巳年三月 立花 隠居願ヲ幕府ニ提出ス (大友)義方之ガ進達ヲ代理ス、文ニ曰ク

    隠居奉願候覺                                                             

                 居城筑後国柳河 

高拾萬九千六百四拾七石壱斗九升七合

                    立花左近将監

                      当巳六十九歳

( 令和5年3月8日 夜 ) 

《大友家文書録》 [註]立花家は大友氏の分家也。大友氏は高家時代、立花家の名代として、同家より幕府への名代として、願書類の進達をなしたり。             

( 令和5年3月18日 夜 ) 

《大友家文書録》

(326)文政七年(1824)十二月朔日 梁川矢嶋隼人、立花但馬両人出府、寒中見舞到来、一筆致啓達候、甚寒之節御座候得共、左京様、丹次郎(大友義路)様、益御安泰被成御座、目出度御儀奉存候。猶以寒中御様躰相伺之度 如此御座候。此旨宜頼存候。恐惶謹言

     十二月朔日        立花但馬

                     親博(花押)                           

                  矢嶋隼人

                     行昌(花押)       

    加藤馨輔様

《読み》

文政七年(1824)十二月朔日(さくじつ)(1日) 梁川(はりかわ)矢嶋隼人、立花但馬両人出府(上京・江戸へ)してきた。寒中見舞いに到来した。一筆手紙を差し上げます。甚だ寒之節、御座候得共、左京様、丹次郎様、益々御安泰御座なられ、目出度御儀と存じ奉り候。猶、以って、寒中御様躰、之を相伺い度(たく) 此の如く御座候。此の旨、宜しく存じ頼(より)候。恐惶謹言(恐れ謹んで申し上げます。)

       十二月朔日                    

                    立花但馬                                       

                        親博(花押)        

                    矢嶋隼人

                        行昌(花押) 

        加藤馨輔様

( 令和5年3月19日 朝 ) 

《大友家文書録》

(332) 猶以若病気候者、名代可被差出候、以上。

御用之儀候間、明日四時(よっつどき)可有登 城候、以上。

(年不詳)十一月十八日                 牧野備前守

        大友豊後守(義路)殿 

《読み》

猶、以って若し(もし)病気候者(そうらわば)、名代を差出さるべく候、以上。

御用之儀候間(そうろうあいだ)、明日四時(よっつどき)登 城あるべく(有可)候、以上。

( 令和5年3月20日 朝 )

《田北憲明氏文書》

(335)永永打續疎遠之處、此度同氏彌八郎方ニ(に)相越初而得面語、令太慶候、猶追々可申承候、巳以、

一筆令申候。彌御無事珍重之事候。於當方茂無異罷在候。可被安心候。随而今般被申合金子被相贈候御厚情之程過分之至候。多謝同尋問旁申入候。恐惶謹言                                   (年不詳)三月九日         松匡(松野) 直(直政)(花押)         彌五左衛門殿 参

(註)松野 匡(ただし)は天明四年(1784)より嘉永二年までの人也

《読み》一筆申しせしめ候。彌(いよいよ)御無事珍重之事候。當方において茂無異(むい)罷在候。心安かるべく候。随而(したがって)今般、申し合わされた金子を相贈られ候、御厚情之程過分之至りに候。多謝同尋問旁(かたわら)申入候。恐惶謹言         

 

 

 

 

 

 

 

 


大友宗麟三男  親盛(大友松野家) 永青文庫(細川家)

2023-01-29 21:33:57 | 歴史・家のルーツを知る

《令和5年1月28日(土)午後9時40分より、ようやく書き始める。去る1月16日より、突然、突発性斜視となり、物が二重に見え始めた。目が不自由のため、少しづつ始める。》

先祖付けより                      

                      千七百石 松野八郎

一 先祖大友左衛門督(かみ)義鎮(よししげ)従四位下左少将入道休庵宗麟と申し候。 豊後の国に居城仕り候。

初代 松野半斉儀大友宗麟三男にて御座候。豊前の国妙見岳に 居城仕り?

豊前の国において

三斉様御代召し寄せられ慶長二十年(1615)御知行二千石拝領成され候。

以後千石は差し上げ申し候。如何様の儀にて差し上げ申し候か。(何故か一千石返している。何故か。)其の訳召し寄せられ候説の儀委細承り申さず候。座席

御左着座仰せつけられ候。

真源院(光尚公)様 御代寛永二十年(1644)半斉の儀病死仕り候。

二代目

一 高祖父松野八郎左衛門儀

妙解院(忠利公)様御代豊前の国において御児小姓に召し出され、御知行三百石拝領為され候。

有馬御陣(島原の乱)に付き、御中小姓頭に仰せつけられ、彼の地へ罷かり越し、二月二十七日城攻めの節、石手負い(石で負傷)申し候。半斉儀、寛永二十年(1644)病死仕り、家督相違なく八郎左衛門へ拝領為され候に付き、下し置かれ候。御知行三百石は上がり申し候。

右八郎左衛門儀

妙応院様(綱利公)御代承応三年(1654)御子小姓頭仰せつけられ寛文三年(1663)御番頭御奉行役御直に仰せつけられ、相務め居り申し候間、御加増五百石宛両度に拝領為され、都合二千石仰せつけられ候。延宝四年(1676)御番頭さしのけられ、座配御番頭の上に仰せつけられ、御奉行役迄相勤め居り候所同6年(1678)佐敷御城番御直に仰せつけられ、座配御城代有吉一郎兵衛次に仰せつけられ候。この外相務め候御奉公数多の儀に御座候処、夫々(それぞれ)書き記し申さず候。右八郎左衛門相勤め居り候内、

妙応院様(綱利公)御代家助(?)御小脇差一つ、御指料(殿様がさしていた)御脇差一つ、両度共に御直に拝領為され候。

一つ 右八郎左衛門佐敷詰め仰せつけられ候節、曾祖父松野源左衛門義五十人扶持拝領為され御着座有吉康次次に仰せつけられ熊本へ召し置かれ御在国のみぎりは御備え頭衆の嫡子同然御花畑御番仰せつけられ相勤め申し候。右八郎左衛門儀天和二年(1682)隠居仰せつけられ休庵と改め貞享四年(1687)病死仕り候。  

( 以下 令和5年2月3日夜 )

三代目

右源左衛門の儀、天和二年(1682)家督相違なく拝領為され、座配御左着座沼田長之助の上に仰せつけられ候。五十人扶持下し置かれ候内、延宝七年(1679)英彦山(ひこさん)へ御使者仰せつけられ、三月十六日罷り越し相勤め、同二十七日罷り帰えり申し候。家督拝領為され、以後、天和三年(1683)正月御番頭三宅新兵衛元組八番組仰せつけられ候。同年

妙応院様(綱利公)御下国の節御帰国の御使者仰せつけられ、閏五月七日罷り立ち、同二十五日江戸へ着仕り相勤め申し候。

この節、公儀より、御帷子(かたびら)、御反物、御羽織拝領為され、天和三年(1683)四月二十ニ日罷り下り申し候。貞享二年(1685)江戸御留守詰め仰せつけられ、三月十五日罷り立ち、四月十八日江戸に着仕り相勤め、翌三年(1686)四月二十二日江戸罷り立ち、五月十八日罷り下り申し候。

元禄元年(1688)松平主殿(とのも?)の頭(かみ)様、島原へ御下り候について、御馳走の御用、仰せつけられ五月二十五日長須へ罷り超し相勤め同二十八日、罷り帰り申し候。

( 以下 令和5年2月4日 )

同二年(1689)十二月寺本八左衛門跡の御番頭谷権衛門(?)仰せつけられ候。組み替えは八番組は谷権衛門仰せつけられ、八左衛門後の三番組源左衛門に仰せつけられ候。(?)同十一年(1698)長崎火事の節、彼の地へ御使者仰せつけられ、四月二十七日罷りこし、相勤め、五月四日罷り帰り申し候。同十ニ年(1699)江戸留守詰め仰せ付けられ、三月七日罷り立ち、四月十日江戸に着き、仕り相勤め、翌年(1700)四月二十二日江戸罷り立ち、五月二十七日下着仕り候。病気にて御役儀お断り申し上げ候処同十五年(1702)二月三日お役儀御免なされ、数年懈怠なく相勤め、 年罷り居り申し候に付き、直に隠居仰せつけられ玄也と改め申し候。宝永四年(1707)病死仕り候。

( 以下 令和5年 2月5日 )

四代目

一つ 祖父松野八郎左衛門儀

妙応院様(綱利公)元禄十年(1697)十二月十三歳にて御小姓に召し出され、家来七人付けと申し(?)仰せつけられ候。その節の八郎左衛門申し候を斎と改め申すべき旨仰せいだされ候。御膳番に召しなおされ、翌十一年(1698)江戸御参勤お供仰せ付けられ格別の御付け人にて同二月罷り上り相勤め翌十二年(1699)九月罷り下り申し候。同十三年江戸御参勤のお供仰せ付けられ、格別の御付け人にて同二月罷り上り相勤め、翌十四年(1701)六月罷り下り申し候。元禄十五年(1702)源左衛門隠居仰せつけられ候に付き、斎儀前髪取り候様仰せ付けられ御懇ろに御意を以って同年(1702)二月三日家督相違なく拝領為され候様におい出になられ候由仰せ渡され御左着座有吉八之助次に仰せつけられ、有吉清助組に召し加えられ候。

( 以下 令和5年2月6正午午 )

御そばのご奉公相勤め申し候。その節名を改め申したき段、願い奉り八郎左衛門と改め申し候。同年(1702)十月彼の地へ(?)引っ越し申し候に付き、同十五日御前において御判の御書付けなど御渡し遊ばされ候。この節御紋つき、御羽織、御小袖、御裃御拝領為され候。同十八日彼の地へ罷り越し加判津田平助に代わり合い、相勤め申し候内、病所御座候に付き同十年(1697)佐敷(熊本県最南端・鹿児島県との県境・日本海に面した番所)詰め御断り申し上げ候処、直に相勤め候様に付き、御紋付、御小袖、御裃御拝領為され候。その後、痛みどころ、しかと御座なく候に付き段々御断り申し上げ候処、同十九年(1707)正月熊本へ召し寄せらるべく候。代わりとして続弾衛門(?)仰せつけられ候。弾衛門用意仕廻り次第罷り越し候得ば代わり申すべき旨仰せ出だされ候。同ニ十年十二月十一日弾衛門罷り越し候に付き、彼の地へ引き渡し、同十三日出府仕り候。座配佐敷詰めにて居り申し候節の通りにて氏家甚左衛門に召し加えられ候。佐敷江十九ケ年相勤め申し候。右八郎左衛門儀元文元年(1736)正月御家老脇付き仰せ付けられ候。同六月御下国遊ばされ、御在国中御花畑詰め(細川屋敷)、所々へ江お出(いで)遊ばされ候の節御先番相勤め申し候。同十月三日京都への御使者仰せつけられ候。同十月二十一日(1736)御前へ召しだされ、御用筋、仰せ渡され、御紋付、御小袖、?斗、同長裃、御半裃拝領為され、同二十三日熊本罷り立ち十一月十日京都へ着き仕り御入内のご祝儀に付き、禁裏女御(にょうご?)このほか御格式の御使者それぞれ相勤め十二月六日京都罷り立ち同晦日下着仕り候。

( 以下 令和5年2月7日 )

折々御料理の御相伴仰せ付けられ御猟の物ども度々拝領為され候。同三年(1738)六月御下国遊ばされ候。以後同十五日御料理の御相伴仰せ付けられ候。同二十日御前へ召しだされ、御帷子御団扇御手つき拝領為され候。相勤め居り申し候処、痛みどころ、指し出で難儀仕り候に付き、同二十二日より引き込み養生仕り候えども確か(?)御座なく候に付け、御役儀相勤め難く御断り申し上げ候処同七月二十四日御役儀御免なされ御懇ろの御意を以って御帷子御羽織拝領為され、直隠居仰せつけられ御役儀相勤め候内、同役中当所の御用番など相務め申し候。御奉公四十二年相勤め候。

( 以下 令和5年2月8日 )

五代目

一 親松野斎儀同年同日家督相違なく拝領為され外様(?)へお出で為され座配片山多門次に仰せつけられ坂崎兵庫組へ召し加えられ候。元文四年(1739)正月阿蘇において公儀定例祈祷の節御名代相勤め申し候。同五年(1740)閏七月二十一日松平讃岐の守様より御使者御花畑(細川屋敷)へ召し出され候節、鷹の御間詰め仰せ付けられ相勤め申し候。延享四年(1747)六月阿蘇御田祭礼の節御名代相勤め申し候。その外御法事の節御寺詰め度々仕り候。病気に付き御奉公相勤め難く御知行を差し上げ申したき段願奉り候処宝暦五年(1755)八月二十二日隠居仰せつけられ候。

( 以下 令和5年2月9日 )

六代目 松野左膳 

一 私儀 同年(1755)同日親家督拝領為され着座仰せつられ坂崎兵庫組に召し加えられ候。安永五年(1776)三月西山大衛跡御番頭仰せつけらえ候。同八月病気にて願いどおりお役儀ご免遊ばされ、この着座仰せつけられ座席元の通りに着けなおされ、御留守居詰め大頭組召し加えられ候。病気いよいよ相優れ申さず候に付き、安永六年(1777)二月隠居仰せつけられ候。

一 七代目松野伝十郎義左膳嫡子にて候。安永四年(1775)正月お目見え仕り安永六年(1777)二月十七歳にて父へ下し置かれ大組付き仰せ付けられ長岡助右衛門召し加えられ同七年(1778)正月藤崎において御祈祷の節御名代相勤め申し候。六月当春歌舞伎役者を屋敷へ呼び寄せ御様子相聞き候(?)。御倹約仰せ付けおかれ候内、不都合の儀且つは様子宜しからざることに付き、以来右体(みぎてい)の儀これ無(な)きようにと組頭より申し聞かせ候様(よう)御用番より頭へ申し聞かせ候。天明四年(1784)正月藤崎に於いて御祈祷の節御名代相勤め申し候。

天明六年(1786)正月御城御礼御用相勤め申し候。御紋付、御裃、一具(ひとそろい)、同御帷子一つ下し置かれ、同七年(1787)正月、斎と名を改め天明八年(1788)十一月牧佐学組御鉄砲五十挺の副頭仰せつけられ寛政八年(1797)八月加賀美為之允(じょう)組御側(おそば)御鉄砲十五挺頭仰せつけられ、同年(1797)十二月当夏洪水の節、家来差出し、筏を以って瀬戸坂筋の者を助け上げ、又は、食物等相送り候段   承(き)き届け候旨、達しに及び、同十二年(1800)六月御備え組着座の御人夫不足に付き、この着座仰せつけられ。帯刀組召し加えられ享和元年(1801)正月公儀定例の御祈祷の節阿蘇下宮御名代仰せ付けられ享和二年(1802)十一月志水新之允(じょう)跡御留守居御番頭仰せ付けられ文化三年(1806)十月朔日四十六歳にて病死。

(  以下 令和5年2月10日 )

一 八代目松野常次郎義斎嫡子にて候。寛政九年(1797)二月御目見え仕り候。文化四年(1807)二月二十四歳にて父へ下し置かれし候御知行の内千八百石並びに家屋敷共下し置かれ大組付け仰せ付けられ澤村右衛門組に召し加えられ同年(1807)八郎左衛門と名を改め同五年(1808)五月公儀定例御祈祷の節藤崎宮御名代仰せ付けられ同八年(1813)九月同断(右に同じ・御祈祷節)阿蘇上宮御名代仰せ付けられ同十二年(1817)正月同断(御祈祷)文政二年(1819)正月同断(御祈祷)同年九月御備え組着座の御人配り不足に付きこの着座仰せつけられ直に平野九郎右衛門組に召し加えられ同四年(1821)五月公儀定例御祈祷の節阿蘇下宮御名代仰せ付けられ同七年(1824)六月阿蘇御田御祭禮の節御名代仰せ付けられ同十一年(1828)六月御帰国御礼の御使者として出府同十二年(1829)五月公儀定例御祈祷の節阿蘇下宮御名代仰せ付けられ同十三年(1830)七月山本文右衛門跡御留守居御番頭仰せ付けられ天保二年(1831)三月岩越椿十郎跡御番頭仰せ付けられ同四年(1833)十月病気に付き願の通り御役儀御免遊ばされこの着座仰せ付けられ御留守居大頭組に召し加えられ同十一年(1840)十月五十七歳にて病死。

( 以下 令和5年2月11日 )

一 九代目松野富直儀八郎左衛門嫡子にて候。文政四年(1821)四月御目見得仕り天保十一年(1840)十二月三十四歳にて、父松野八郎左衛門へ下し置かれ候御知行の内千七百石下し置かれ大組付き仰せ付けられ三淵永次郎組に召し加えられ同十二年(1841)閏正月斎と名を改め同十四年(1843)正月公儀定例御祈祷の節阿蘇上宮御名代仰せ付けられ、嘉永五年(1852)五月右同断御名代仰せ付けられ、同年(1852)十二月御備え組着座の御人配り不足に付きこの着座仰せつけられ柏原要人(ようじん?)元組召し加えられ座席志水平十郎次座にお付け置かれ、安政二年(1855)九月公儀定例御祈祷の節阿蘇下宮御名代仰せ付けられ同四年(1857)十二月五十二歳にて隠居

( 以下令和5年2月12日 )

一 十代目松野久之助儀右斎嫡子にて候。安政四年(1857)十二月二十七歳にて父松野斎へ下し置かれ候御知行御加増分は新知行(地)たりといえども芸術(武芸)心がけよき候に付き相違なく下し置かれ大組付き仰せ付けられ頼母組に召し加えられ                      一 射術 村山甚助門弟目録相伝(免許皆伝)             一 馬術 住谷十郎左衛門門弟目録相伝(免許皆伝)          一 剣術 和田伝兵衛門弟目録相伝(免許皆伝)            一 居合 入江新次郎門弟目録相伝(免許皆伝)                   一 泳ぎ 小堀清左衛門門弟目録相伝(免許皆伝)           同年二月八郎左衛門と名を改め、同年(安政四年・1857)五月公儀定例御祈祷の節藤崎宮御名代仰せ付けられ、同六年(1859)七月御備え組着座の御人配り不足に付きこの着座仰せつけられ、直に将監組召し加えられ座席出田作左衛門次座に付け置かれ、元治元年(1864)八月宮村平馬跡御番頭仰せ付けられ同年十一月小倉へ差し越され(遣わされ)同二年正月帰着同年九月組並みにて出京。慶応二年(1866)六月罷り下り七月鶴崎御番代として差し越され、同年十月御手当指し受けに付き交代相済み帰着。同年十二月病気に付き願いの通り御役儀御免遊ばされこの着座仰せつけられ御留守居大頭組に召し加えられ、慶応四年(1868)正月御備え組に相替わり、明治二年(1869)十二月大木総馬隊に差加えられ、同三年五月定例御祈祷の節阿蘇下宮御名代仰せ付けられ、同年七月免席廃れ(すたれ)候処禄高のことに付きこの節までは別段を以って大組に仰せつけられ、同月八郎と改める。 終わり

( 1月28日書き始め、2月12日終わる。16日間かかった。目の調子は、一昨日、朝から、二重に見えることは,ないが、メガネが合わない感じ。者が見にくい。矯正したレンズを外したためか。不要のはずだが。不可解。不快この上ない。囲碁の対戦はできるので、助かる。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現代版 「大友由緒姓名記」はいかが?

2022-09-09 22:50:32 | 歴史・家のルーツを知る

現代版、「大友由緒姓名記」を作りませんか。

① 目的 其の後の、大友旧臣たちの先祖の苦労話を語っていただく。   ② 健全な、新しい夢を見る、楽しく、愉快な、そして、互いの役立つような交友を図る。

③ 人生経験を語り、若者を有能な日本人へ導く。健全な日本人を作る。

④ 空想の、豊後国を作る。善政をしく。

⑤ 互いに、励ましあって、健全で、有能な会員(人間)を育てる。

⑥ 80歳代は、どう、生きていけばよいか。体験談を聞く。